-
天国をかいま見る?目ざめよ! 1985 | 1月8日
-
-
天国をかいま見る?
「私があの体から出た時,それはこの世のものとは思えないすばらしい瞬間でした!……見るものすべてがすごく楽しいものでした! それに幾らかでも匹敵するものなど,この世の中にも,この世の外にも思い浮かびませんでした。人生の最もすばらしい瞬間でさえ,私の経験していた事柄とは比べものにはならないでしょう」― 心臓手術を受けた54歳の患者。
「手術室の中にいたときのことで思い出すのは,私が天井の近くにただ浮いていたように思えたことです。……幾らか妙な気がしました。私は上にいて,この体は下にあったからです。……先生方が私の背中に手術を施しているのが見えました。……それからD博士が,『そこに椎間板がある。そこだ』と言われたのを覚えています。その時点で,私はもっと近づき,どんな事が起きるのか見ようとしました」― 米国ミズーリ州の42歳になる婦人が“見た”自分自身に施された手術の様子。
「私の見たこの幻の中で,自分の姿は見ることができませんでしたが,私は高い所に立っていました。眼下には最も美しく,この上なく青々とした牧場があったからです。……それは陽光のさんさんと降り注ぐ日のようでした。……その全体の輪郭は,よく整備されたゴルフ場のグリーンのようでした」― 心臓が停止した間,55歳の織物工場の労働者の“見た”情景。
これら三つの経験にはどんな共通点があるでしょうか。これらは,ひん死の状態に陥った人々の臨死体験(NDE)と今では呼ばれているものです。医師や科学者たちは,こうした事例を幾百も証拠を挙げて実証しています。これら臨死患者の多くは,体外遊離体験と呼ばれるものを味わいました。そのような人たちは輝かしい光を見たり,非常に景色の美しい所に置かれたり,場合によってはイエスや神を見たりしたと語っています。
マイケル・セーボム博士は自著,「死についての思い出」の中で次のように述べています。「心臓の停止など,生命を脅かすような危機を味わったこれらの人々の多くは,自分が意識を失って,臨死状態にあった間に“生じた”一連の並外れた出来事を思い起こした。中にはこの経験を,存在の別の領域をかいま見る特権とみなす人もいる」。
これらの患者の中には死後の命があると思い込んだ人もいますが,読者もこうした経験が死後の命のあることを示す証拠ではないだろうかといぶかしく思っておられるかもしれません。確かに,これら臨死体験は,答えを要する幾つかの質問を提起しています。例えば次のような質問があります。これらの人たちは本当に,死後の「存在の別の領域をかいま見」たのでしょうか。それらの人たちが自分の手術の様子について語れたのは,目に見えない魂あるいは霊として存在していたからなのでしょうか。あなたは,自分の死後も生き続ける,滅びることのない魂を持っていますか。死後に意識を持つ別の存在があるでしょうか。続く一連の記事は,これらの質問に関係した証拠を考慮しています。
-
-
臨死体験 ― 不滅性の証拠か目ざめよ! 1985 | 1月8日
-
-
臨死体験 ― 不滅性の証拠か
「人間の魂は不滅であり,滅びることがない」― ギリシャの哲学者プラトン,西暦前428年ごろ-348年ごろ。
「不滅の魂には実にすばらしい調和がある」― 英国の劇作家,ウィリアム・シェークスピア,1564年-1616年。
「魂は破壊されることがない……その活動はとこしえに続く」― ドイツの詩人また戯曲作家,ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ,1749年-1832年。
「我々の人格は……来世においてもそのまま存続する」― 米国の発明家,トーマス・エジソン,1847年-1931年。
人は幾千年もの間,人間には生来不滅性が備わっていると信じてきました。古代エジプトの支配者たちは,体がカーつまり魂と再び結び合わされるときにその体が不自由をしないようにと,自分たちの墓に,生活を楽にする品々やぜいたく品を満たしました。
こうして人は,死の必然性が不滅の魂あるいは霊の生き続けることにより無効にされると自分に言い聞かせようとしてきました。英国の詩人キーツのように,信じたいとは思いながらも,疑う人々もいます。キーツは,「私は不滅性を信じることを切望している……私は不滅性を信じたいと願っている」と書きました。人間の不滅性とされるものについて読者はどんなことを信じていますか。
ある医師や精神科医,および臨死体験をした人々が引き出している結論に対する簡単な手がかりがキーツの言葉に見いだせるかもしれません。例えば,内科医であり医学部の教授であるマイケル・セーボム博士が臨死体験をした人々を対象にして行なった検査では,「死に対する恐れが明らかに減少し,死後の命に対する信仰が明らかに深まったことが,臨死体験をした大多数の人々により報告されている」のです。―下線は本誌。
1,000件を上回る臨死体験を調べた後に,精神科医のエリザベス・クブラー-ロスはどんな結論に達したでしょうか。同女史は自著,「子供と死について」の中で,「死についても同じことが言える……別のものが始まる前に終わりがあるのである。死は大いなる変わり目である」と述べています。同女史はさらにこう述べています。「さらに研究が進み,出版がさらに行なわれると,我々の肉体は実のところ繭にすぎず,人間の存在の外側の殻であるということを,信じるというより,知るようになる人はいよいよ多くなろう。我々の内にある真の自己,“チョウ”は,不滅で,殺されることがなく,我々の死と同時に解き放たれる」。
心理学の教授で,「死の際の生命」の著者であるケネス・リング博士は次のような結論を出しています。「我々は肉体の死後も意識のある存在を続ける……と私は確かに信じている」。次いで博士はこう言葉を続けています。「これらの臨死体験についての私なりの理解からすれば,それらの体験を“教え”とみなさざるを得ない。それらの体験はその本質からして,天啓的な体験であるように思える。……この点では,[臨死]体験は神秘的なあるいは宗教的な体験に近い[下線は本誌。]……この観点からすれば,この本[「死の際の生命」]の中で我々の聞いた声は,普遍的な兄弟関係の宗教を説く預言者たちの声である」。
対照的な見解
しかし,この点を調査したほかの人たちはどう言っているのでしょうか。その人たちはこれら臨死体験や体外遊離体験をどのように説明しているのでしょうか。心理学者のロナルド・シーゲルは,異なった観点からこれらの体験を見ています。「こうした体験は,LSDや感覚の喪失や極度のストレスなどを含む,人間の脳の受ける多岐にわたる刺激に共通して見られる。ストレスが脳へのイメージの投写を生じさせる。それが大抵の人の場合に同じであるのは,我々の脳が情報を蓄えるためにみな同様に配線されており,これらの体験は基本的にはその配線から電気的に解読された情報だからである」。
米国ボストン市にあるタフト大学医学部のリチャード・ブラッハー博士は次のように書いています。「私が思うに,これら“死の体験”をした人々は低酸素症[酸素の欠乏]の状態に陥っており,その間,医学的な処置や話により引き起こされた不安に心理的に対処しようとする。……ここで我々が扱っているのは,死そのものではなく,死についての空想である。この空想[患者のプシケ,つまり思考の中にある]は極めて魅力的である。人間の持つ幾つかの心配事を同時に解決してしまうからである。……医師は宗教的な信条を科学的なデータとして受け入れることがないよう特に注意していなければならない」。
シーゲルは臨死体験をした人の“幻”について別の興味深い点を示唆しています。「瀕死の患者自身の話によると,幻覚の場合と同様,死後の命の幻は疑いを抱かせるほどこの世に似ている」。例えば,生涯の大半を米国テキサス州で送った63歳の男性は,自分の“幻”について次のように語っています。「わたしはさくの上で宙に浮いていました。……さくの一方の側はひどくごつごつした所で,メスキート(米国南西部原産のマメ科の低木)のやぶで覆われた地域でした……さくのもう一方の側はこれまでにわたしが見た中で最も美しい牧場の光景が広がっていました……[それは]3本か4本の針金をより合わせて作った鉄条網のさくでした」。この患者は,“天国”あるいは死後の領域で実際に鉄条網を見たのでしょうか。これらのイメージがテキサス州でのこの人の生活に基づいており,本人の脳のデータ・バンクから呼び出したものであることは明白です。さもなければ,わたしたちは“死後の世界”に鉄条網があるということを信じるよう求められていることになってしまいます!
事実,患者の経験や人生の背景と密接に結びついた臨死体験が余りにも多いため,彼らが死後の領域をかいま見ていたと信じるのが道理にかなっているとはとても言えません。例えば,“光の存在者”を見る臨死体験をしたそれらの患者たちは,その人たちがクリスチャンであろうと,ユダヤ教徒であろうと,ヒンズー教徒であろうと,イスラム教徒であろうと同じ存在者を見ているのでしょうか。レイモンド・ムーディ博士は自著,「来世の命」の中で次のように説明しています。「この存在者の姿は,見る人によって異なっており,大半は当事者の宗教的背景,訓練,あるいは信念の働きであると思われる。ゆえに,クリスチャンの大半は……その光をキリストとみなす……ユダヤ人の男女はその光を“天使”とみなした」。
厳密に科学的なレベルで,リング博士は次の点を認めています。「聴衆の皆さまに,私が研究してきたのは臨死体験であって,死後体験ではないことを念のため断わっておきます。……こうした体験が当初と同じ仕方で広がり続けてゆくのか,それともそれっきりになってしまうのか,何の保証もないことは明らかです。私の考えでは,こうした体験の意義について取るべき正しい科学的な立場は,そのようなものだと思います」。
常識と聖書
死について,心理学者のシーゲルは次のように自分の意見を述べています。「死後,肉体がどうなるかについて言えば,死についてなぞはない。死後,体は崩壊し,周囲の無生の成分に再吸収される。死者は自分の命とその意識とを失う。……最も論理的な推測は,意識も死体と同じ運命をたどるという考えである。驚くべきこととして,この常識的な見方は支配的なものではなく,人類の大多数は……生き続けたいという自分たちの根本にある動機を働かせ続け,人間が死後も生き続けることに関する無数の信条を編み出している」。
3,000年ほど昔に,一人の王はこの同じ「常識的な見方」を次のような言葉で書き表わしました。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである。また,その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ,彼らは日の下で行なわれるどんなことにも,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない。あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル[人類の共通の墓],すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである」― 伝道の書 9:5,6,10。
確かに聖書は,臨死体験を死後の命への序幕とみなす余地を少しも残していません。死とその結果に関するソロモン王の描写には,不滅の魂が生き延びて何らかの別の形の意識的存在になることを,ほのめかすところさえ全くありません。死んだ者には,『何の意識もない』のです。
言うまでもなく,心霊術を行なう人や“死者”と交信する人は,一見すると自分たちの説を支持しているように見える幾百もの臨死体験を得て大いに喜んでいます。心理学者のシーゲルは,超常現象,つまり超自然現象を教える一講師が語った,「死後の命に関する証拠を正直にまた冷静に検討するなら,我々は常識の圧制から自らを解放しなければならない」という言葉を引用しています。(「今日の心理学」,1981年1月号)興味深いことに,この同じ講師は,「幽霊や亡霊は確かに幻覚であるが,死者の心から生きている者の心にテレパシーで投写されているのである,と論じている」のです。これは,死んだ者は死んでおり,何も知らないというソロモンの結論とは全く相いれません。
臨死体験 ― どのように説明されるか
では,臨死体験や体外遊離体験などのすべてはどのように説明されるのでしょうか。基本的に言って,少なくとも二つの可能性があります。一つは,ある心理学者たちの唱えている考えで,臨死状態に陥った人のまだ活動している脳が臨死体験のストレスのもとでさまざまなイメージを思い起こし,また形造るという趣旨のものです。次いでそうしたイメージが,ある患者や研究者により,死後の命をかいま見た事例として解釈されるのです。事実,聖書から分かるように,そのようなことはあり得ません。人間は不滅の魂を持っておらず,これらの事例で感知されたような死後の命などというものは存在しないからです。
しかし,これらの体験のうちの幾つかを説明するものとなるかもしれない2番目の可能性があり,それも考慮に入れなければなりません。この要素は大抵の研究者たちが認めないものです。例えば,ムーディ博士は自著,「来世の命」の中で,「まれではあるが,中には……臨死体験について悪霊説を唱えた者もおり,この体験は敵意を持つ勢力に導かれているに違いないということを提唱している」と説明しました。しかし,同博士はこの考えを退けています。その体験の後に患者がより敬虔な気持ちを抱くよりも,「サタンはきっと自分の僕たちに憎しみと破壊の道に従うよう告げるであろう」と,同博士は考えるからです。博士はさらに,「私に言わせれば,サタンは自分の計画のために説得力のある密使を作る点で確かに惨めなほど失敗してきた」と付け加えています。
この点に関してムーディ博士は,二つの点で重大な誤りをおかしています。第一に,サタンはこうした体験を通して必ずしも憎しみと破壊を広めるとは限りません。なぜでしょうか。なぜなら聖書はこう述べているからです。「サタン自身が自分をいつも光の使いに変様させている(の)です。したがって,彼の奉仕者たちが自分を義の奉仕者に変様させているとしても,別に大したことではありません」。(コリント第二 11:14,15)もしサタンが,「あなた方は決して死ぬようなことはありません」という,これまで常に主張してきた基本的なうそを長続きさせるためであれば,一見するとしごく悪気がなく,啓発的な手段でそれを行なうこともできるのです。―創世記 3:4,5。
第二に,サタンは不滅の魂に関する偽りについての自分の計画のために説得力のある密使を作る点で決して惨めなほど失敗してはいません。それどころかサタンは,自分がこれまでずっと祭司や哲学者たちを通して広めてきた偽りを,今では医師や心理学者や科学者に全面的に支持させているのです。事態を要約してパウロの書いた次の言葉は本当に的を射ています。「そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば,それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり,その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」― コリント第二 4:3,4。
それでも,これまで見てきたように,心理学者たちの中には人間は死後も意識ある存在を持つと信じている人がいます。臨死体験の意味するところについてのこの個人的な解釈があるので,聖書を信じる人々のために次のような関連する質問を提起しなければなりません。人間には,繭からチョウが出て来るように,体を捨てて出て行く不滅の魂があると述べることには,聖書的な根拠が少しでもあるのでしょうか。「魂」や「不滅性」という言葉を使っている聖書の聖句についてはどうでしょうか。
[5ページの拡大文]
クブラー-ロス博士: 『我々の肉体は実のところ繭にすぎず……我々の内にある真の自己……は,不滅である』
[5ページの拡大文]
ブラッハー博士: 「ここで我々が扱っているのは,死そのものではなく,死に関する空想である」
[6ページの図版]
プラトンの哲学は多くの宗教の教えを汚染した
[7ページの図版]
英国の詩人キーツは,『不滅性を信じたいと思った』
-
-
魂 ― あなたのことですか,それともあなたの内に宿っていますか目ざめよ! 1985 | 1月8日
-
-
魂 ― あなたのことですか,それともあなたの内に宿っていますか
読者は,自分が死んだ時にも生き続ける不滅の魂があると思われますか。何らかの宗教的な背景を持っている人であれば,クリスチャン,イスラム教徒,ユダヤ教徒,神道信者,仏教徒あるいはヒンズー教徒などのいずれであっても,大抵,この一つの根本的な概念を共通して持っています。では,人々はなぜそれを信じているのでしょうか。証拠があるからですか。それとも,ほとんどの宗教やよく聞かれる風説によって,これまでずっとそう教えられてきたからですか。実際のところ,不滅の魂という概念はどのようにして“キリスト教の”教えに入り込んできたのでしょうか。
ダグラス・T・ホールデンは自著,「死に所領はない」の中にこう書いています。「キリスト教神学は,ギリシャ哲学とあまりにも混ざり合ったため,9割までギリシャ思想を持ち,ほんの1割だけのクリスチャン思想を持つ人々を育て上げた」。この点をよく物語っているのは,不滅の魂に対して一般に抱かれている信念です。例えば,西暦前4世紀のギリシャの哲学者のプラトンは,「魂は不滅で,滅びることがない。そして,我々の魂は別の世界で真に存在することになる」と書きました。
プラトンの説によれば,それらの魂は肉体が死ぬ時どこへ行くのでしょうか。「そして,立派に生きたともよこしまに生きたとも思えない者たちはアケロンの川へ行き,……そこに宿り,自らの邪悪な行為を清められる。そして,自分が他の人に対して行なった不当な行為に対する罰を身に受けてから,許される」。これはキリスト教世界の煉獄の教えによく似た響きがあるのではありませんか。そして,邪悪な者の魂はどこへ行くのでしょうか。「そのような者たちはタルタロス[古代ギリシャ人にとっては,ハデスの一部分で,最悪の違反者たちに対する処罰のために取っておかれた場所を意味していた]に投げ込まれる。それは,その者たちにふさわしい運命であり,彼らは決して出て来ることがない」。確かに,古代ギリシャ人はキリスト教世界の神学者たちが地獄でのとこしえの責め苦の教えを取り入れるよりもはるかに前から,その教えを持っていたのです。
疑う理由があるか
プラトンの「対話編」の著述が本当にプラトン自身の考えを反映しているとすれば,プラトンは自分に不滅の魂があると確信していました。その教えはやがて,哲学者としてプラトンを崇敬する他の人々をも説き伏せるようになりました。その結果,2世紀のキリスト教の著述家たちでさえプラトン哲学を受け入れていました。この点に関して,ブリタニカ百科事典(英文)は次のように述べています。「クリスチャンのプラトン主義者たちは天啓を優先させ,プラトン主義の哲学は聖書の教えと教会の伝統とを理解し擁護するために用いることのできる最善の道具であるとみなした。……西暦2世紀の半ばから,ギリシャ哲学の訓練を幾らか受けていたクリスチャンたちは,自分たちの信仰をギリシャ哲学の用語を使って言い表わす必要性を感じるようになった。それは自分自身の知的な満足感のため,また教育のある異教徒を改宗させるためであった。彼らに最も都合のよい哲学はプラトン主義であった」。
しかし,これまで幾世紀にもわたって,不滅の魂に関するギリシャの概念に反対した著名な人々がいました。聖書翻訳者のウィリアム・ティンダル(1492年ごろ-1536年)はその翻訳の序文の中にこう書いています。「死んだ魂を天や地獄や煉獄に置くことにより,キリストとパウロが復活を証明するのに使っている論議を損なうことになる……魂が天にいるとしたら,復活の行なわれなければならないいわれがどこにあるのか教えていただきたい」。これは道理にかなった質問です。死が『不滅で,滅びることのない』魂によって打ち負かされるとしたら,イエスが教え,古代のヘブライ人の族長たちが信じていた復活はいったい何のためになるのでしょうか。―ヘブライ 11:17-19,35。ヨハネ 5:28,29。
スペインの著述家ミゲル・デ・ウナムーノは,自著,「キリスト教の苦もん」の中で,この同じ矛盾に取り組んでいます。ウナムーノはキリストに関してこう書いています。「彼は……ユダヤ人の考え方に従って,肉体の復活を信じており,プラトン的な考え方に従って不滅の魂を信じたりはしていなかった」。ウナムーノはさらに,「魂の不滅……は異教の哲学的な教義である。……そのことを確信するには,プラトンの『ファイドン』を読むだけで十分である」と述べています。
聖書の中の「魂」
詩人のロングフェローはこう書きました。「汝は塵なれば塵に帰るべきなり,という言葉は魂について語られていたのではない」。(下線は本誌。)ロングフェローの言葉は正しかったでしょうか。神が,「あなたは塵だから塵に帰る」と言われたとき,だれに対して語っておられたのでしょうか。最初の人間アダムに対してです。その死刑の宣告はアダムの体にだけ当てはまりましたか。それとも,息をする魂であるアダムに当てはまりましたか。
創世記 2章7節ははっきりとこう述べています。「それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった」。この聖句は,聖書における「魂」という言葉の用法を理解する基盤になります。聖書ははっきりと,「人は生きた魂[を持っているのではなく]になった」と述べています。ですから神は,生きた魂,つまり息をする被造物であるアダムに,不従順になれば,必ず死んで,その形造られる元になった元素に戻ると,告げておられたのです。―創世記 2:17; 3:19。
人の魂なるものの行く別の所については全く触れられていないことに注目してください。なぜ触れられていないのでしょうか。なぜならすべての能力を備えたアダムこそが魂だったからです。アダムは魂を所有していたわけではないのです。火の燃える地獄や煉獄のような場所が存在していたとしたら,この聖句は聖書の中でそうした場所について触れているはずの箇所の一つです。ところが,そうしたことについてはほのめかすことさえしていないのです。なぜでしょうか。不従順に対する単純で分かりやすい裁きはアダムが楽園で享受していた命とはまさに正反対のもの,すなわち死であり,ほかの場所での命ではなかったからです。ですからパウロはこの問題についてローマ 6章23節で簡潔に,「罪の報いは死です」と述べています。(エゼキエル 18:4,20と比較してください。)ここには地獄の火のことも煉獄のことも挙げられておらず,死のことだけが述べられています。その刑罰だけで十分ではないでしょうか。
念頭に置いておくべき別の要素は,公正という基本的な感覚の求めるところからすれば,人は不従順になる前に,自分が身に受けるかもしれない処罰が実際にどこまで及ぶかを知っておくべきであった,という点です。ところが,創世記の記述の中では不滅の魂についても,地獄の火や煉獄についても全く言及されていないのです。その上,人が本当に不滅の魂を持つ者として創造されていたのであれば,不滅の魂とその運命に関するこの教理の全体系は,ごく初期のころからヘブライ人およびユダヤ人の教えの肝要な部分を成していなければならなかったはずです。ところがそうではなかったのです。
また,別の論理的な質問も提起されます。完全で従順な人類が楽園の地で永遠に生きることが神の最初の目的であったなら,別個の不滅の魂を人間に授けることにはどんな目的があったと言うのでしょうか。それは不滅なものとなっていただけでなく,余分なものになっていたことでしょう!―創世記 1:28。
それに加えて,ヘブライ語聖書は古代の忠実な男女が復活を待ち望んでいたことをはっきり示しています。パウロもその点についてヘブライ 11章35節で次のように注解しています。「女たちは[特定の奇跡的な事例において]その死者を復活によって再び受けました。またほかの人々は,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らは[永遠の命への]さらに勝った復活を得ようとしたのです」。証拠から明らかなように,彼らは人間の哲学の“チョウ”神話を信じてはいませんでした。
しかし,パウロが不滅性について語っている言葉はどうなるのか,とお尋ねになるかもしれません。確かにパウロはこう述べています。「朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久に呑み込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」。(コリント第一 15:53,54)しかし,どんなことをしてもこの言葉に不滅の魂という考えを読み取ることはできません。パウロは,『不滅性を着ける』ことについて語っています。ですからそれは人間に生来備わっているようなものではなく,むしろキリストと共にその天の王国で統治する人々の新しい創造なのです。―コリント第二 5:17。ローマ 6:5-11。啓示 14:1,3。a
現代の神学者たちでさえ,キリスト教世界の霊魂不滅の教えに幾世紀も浸ってきた末,考えを変えてこの点を認識するようになってきています。例えば,カトリックの神学者ハンス・クンクはこう書いています。「パウロが復活について語っているときに,その意味するところは,死を免れることがない肉体の獄から解き放たれる,魂の不滅性というギリシャの概念では決してない。……新約聖書が復活について語っている場合,それは我々の体の機能とは別個にある霊魂が自然に継続することに言及しているのではない」。
ドイツ・ルーテル教会の「成人のための福音伝道教理問答書」は,プラトンの説いた肉体と魂の分離について次のように述べています。「現代の福音主義的な神学者たちは,ギリシャ哲学と聖書の概念のこうした結合に挑戦してきた。……彼らは人間を肉体と魂に分離することを拒む。人間はその存在全体が罪人であるゆえに,人は死に際して,肉体も魂も完全に死ぬ(完全な死)。……死と復活との間には隔たりが存在する。人が死後も存在するとすれば,それはせいぜい神の記憶の中においてである」。
エホバの現代の証人たちはこのことを100年以上にわたって教えてきたのです。証人たちはプラトンの異教の哲学を決してうのみにしようとはしませんでした。イエスが次のように教えておられたことをよく知っていたからです。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」。(ヨハネ 5:28,29)「記念の墓」という表現そのものが,それらの死者が神の「記憶」の中にとどめ置かれていることを示唆しています。神はその人たちを生き返らせます。死者にとっての真の希望はそこにあります。それはキリストによる神の王国政府がこの地に対する全権を握る時に実現されるのです。―マタイ 6:9,10。啓示 21:1-4。
-