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死者は再び生きるかものみの塔 1962 | 7月15日
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である』」。―黙示 21:2-5,新口。
天と地において
どの国にも,政府すなわち少数者が地位を占めている支配組織があります。支配者の地位についている人々の決定と行為は,その政府の支配下に住む大多数の人の生活に影響を及ぼします。地を支配する神の御国についても同じことが言えます。キリストは神の油そそいだ王であり,イエスが「小さい群れ」と呼んだ小数の人々は,復活によって天にある首都の組織にとりあげられます。そこにおいて「彼らは神とキリストの祭司となり,キリストと共に千年の間,「支配する」のです。(ルカ 12:32。黙示 20:6,新口)使徒ヨハネに与えられた幻の中で主イエスが,明らかにした如く,天にあるシオンの山,御国の組織において神の小羊であるイエスと交わるのは,地からあがなわれた14万4000人の人々だけです。(黙示 14:1-3)天の「小さな群れ」にまず召されたのは,忠実な使徒たちでした。この人々について,天の報いを共に得る人となったヨハネはこう書いています,「この第一の復活にあずかる者は,さいわいな者であり,また聖なる者である」。(黙示 20:6,新口。ペテロ前 1:4)イエスと復活の希望に信仰を持ったのは,この少人数の人々だけではありません。そのことは明らかです。これら信じた人々の大部分はどうなりますか。
復活を受ける人類の大多数は支配者となるのではなく,天の御国の民となります。この人々は祝福され,苦しみと悲しみのなくなった地上の楽園で生命を受けます。地に住む,これらの御国の民のことを,イエスは次のように言われました,「わたしにはまた,この〔天の〕囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとつの羊飼となるであろう」。―ヨハネ 10:16,新口。
イエスの言われた如く,復活を受ける人々の中には「善をおこなった人々」と「悪をおこなった人々」があります。(ヨハネ 5:29,新口)「善をおこなった人々」とは,神の御旨にかなう生活をした,神の忠実な僕です。その人々は「生命の復活」を受け,すでに述べたようにその大多数は,地上の生命によみがえらされます。洗礼者ヨハネもその一人です。イエスの犠牲によって天の生命に至る道が開かれる前に死んだ洗礼者ヨハネは,天の復活を受けません。そのわけでイエスは言われました,「女の産んだ者の中で,バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし,天国で最も小さい者も,彼よりは大きい」。(マタイ 11:11,新口)アベルからヨハネに至るまで,大勢の男女は神に対する忠実を守りました。それは「更にまさったいのちによみがえるため」です。(ヘブル 11:35,新口)この人々についてパウロは次のように書いています,「これらの人々はみな,信仰によってあかしされたが,約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために,さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので,わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」。(ヘブル 11:39,40,新口)従って天的な支配制度が設立されてから,御国の地的な民は報いを得ます。
クリスチャン時代以前のこれらの僕は,エホバ神におぼえられています。イエスはそのことを保証しました,「死人がよみがえることは,モーセも柴の篇で,主を『アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神』と呼んで,これを示した。神は死んだ者の神ではなく,生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。―ルカ 20:37,38,新口。
「悪を行なった者」でさえも,あわれみを受けて死からよみがえらされ,復活後の行いに従って裁かれます。イエスのかたわらで死んだ罪人も,その一人です。(ルカ 23:43)悔改めることをしない悪人ではなく,無知のままに悪を行ない,従って正義を学ぶ心を持つ人々が復活を受け,神の御心を学んで行なう機会を与えられるでしょう。
義と幸福
聖書の述べるこれらの事に基づいて,今日,私たちは「神の約束に従って,義の住む新しい天と新しい地」を喜んで待ち望むことができます。(ペテロ後 3:13,新口)その正義の支配の下で,記憶の墓にいる人々は復活の奇跡によって生命にもどり,いま死者をいたむ人々の心は喜びにかわります。
イエスに娘をよみがえらせてもらった両親の喜びを,覚えていますか。「彼らはたちまち非常な驚きに打たれた」。(マルコ 5:42,新口)個人的に,あるいは聖書を読んで知っている人々の復活を見る人も,驚きに打たれるでしょう。子供から大人に成長しても,また外見は時によって変化しても人は変わりません。同じく,復活を受ける人々は神からどんなからだを与えられても,同じ個性を持っているので,特定の人であることが分かります。
死んだ子供をとり戻した両親は,大きな喜びを得るので,子供が成長し,ひとり立ちしてゆくことを嘆かないでしょう。キリストの「花嫁」として天的な復活を受け,永遠の喜びにあずかるプリスカとアクラのような夫婦は,夫と妻の関係が消滅しても,そのことを悲しみません。(ロマ 16:3)アブラハムとサラ,イサクとレベカ,ヤコブとレア,ラケルの復活の喜びは,その人々が「めとったり,とついだりすることはない」と言っても,少なくなるわけではありません。「復活にあずかるゆえに」,神の家族の中で生きることに,その人々は至上の喜びを味わいます。(ルカ 20:34-36,新口)従って死に別かれた子供,妻,夫,父,母の復活を見る人は,喜びに我を忘れる思いをするでしょう。天の父は,復活した人を元の結婚の絆に結び合わせません。しかしそのために復活の喜びが少なくなることはありません。生命を受け継ぐ者となって互いに交わりを楽しむことで,人々の喜びはあふれます。正義の新しい世で永遠に生きる祝福にあずかるため,愛する者が神の家族の中に戻ったことに対し,感謝の祈りがエホバ神にささげられるでしょう。感謝の心を持つ神の子たちは,それ以上のことを求めません。
この正義の世は間もなく実現して,エホバが愛,知恵,公正と力の神であることを立証します。「死者は再び生きるか」との質問に対しては,権威をもっていま次のように答えることができます,「記憶の墓にいる者がみな彼の声を聞いて出てくる時がくる」。―ヨハネ 5:28,29,新世。
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エホバを待ちのぞんで勇ましく伝道するものみの塔 1962 | 7月15日
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エホバを待ちのぞんで勇ましく伝道する
アゾレス諸島
人口: 348,000人
伝道者新最高数: 62名
比率: 5,613人に1人
一人の伝道者は,ある日円熟した伝道者といっしょに奉仕して,時計,ラジオ,その他を修理する小さなお店を訪問しました。そのお店の人は,ふつうの人よりも物分かりが良く,音信を受入れて,その場で「楽園」の本による研究が始まりました。その研究が行なわれていたとき,お店の人は修理中のテープレコーダーのスイッチを入れてその話を録音しました。後に,お店に来る人々にそのテープを聞かせたいと思ったのです。彼は毎回の研究ごとにそうしました。そして,毎週研究のレコードを聞きに戻る大ぜいの人々は,そのテープを聞いて興味を持つようになりました。この人は,そのような方法で近所の人々にすばらしい証言をしています。
約2年前,ひとりの開拓者は72歳の人に証言しました。その人は読み書きができなかったのですが,「ものみの塔」誌を1部取りました。彼と彼の妻は両方ともカトリック信徒でした。開拓者が再訪問したとき,その人はもっと聞きたいが読み書きができないので理解はおそいと語りました。また,彼の一生の念願は,いつか聖書を読めるようになることだとも語りました。開拓者が,読めるようになるようお手伝いしましょうと申し出たとき,彼はひじょうによろこびました。6ヵ月後,その人は聖書中のいくらかの言葉が読めるようになり,「楽園」の本が発表された小さな大会に出席して大よろこびでした。この人は,「楽園」の本から大きな援助が受けられることを知りました。本当にそうでした。今ではその人は「楽園」の本を正しく読んで,研究の時には自分の言葉で注解をしています。彼は以前のカトリック活動をすぐに中止し,今では神の御心が何であるかを知っています。
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