神の目的とエホバの証者(その2)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第2章 宗教的な混乱からの転換は始まる
ロイス: ローマ・カトリック教会が中世時代の千年間,神の御国として支配したと主張したなら,キリストの再臨を待つ必要がなぜあるのでしようか。
ジョン: ローマ・カトリック教会は待たなかつたのです。しかし,ローマ・カトリック教会の力が1800年頃に衰え始めたとき,幾人かの聖書研究者たちが主の再臨に注意を向け始めたのは当然です。
ロイス: しかし,宗教改革についてはどうですか。新教徒がローマ・カトリック教会から離れたとき,彼らはエホバの証者にならなかつた,とあなたは仰言いましたね。なぜそう仰言るのですか。
ジョン: そうですね,宗教改革は実際にはローマ・カトリック教会の権威に対する反逆として始まりました。そして,間もない中に強力な政治論争に発展しました。多数の新教徒の指導者は,カトリック教会の異教徒審問所と同じくらいに,宗教的な反対者たちをひどく迫害しました。たとえば,ジョン・カルビンは,三位一体説に反対したマイケル・サーヴイタスを文字通りに火焙りにしました。それは非常におそろしい栲問で,約5時間の後にサーヴイタスは死にました。その間,カルビンは窓からその光景を見ていたのです。a さらに,新教徒の教会は,法王が支配していた世紀中に信ぜられていた背教の教えを,そのまま引きつぎました。これらの事実だけからも,それは真の宗教改革でなく,またこれらの「宗教改革者」たちは,イエスやイエス以前の人々のごときエホバの証者ではなかつたことが分かります。
しかし,世の終りが来る前に神の御国の良いたよりは,全国民へのあかしとして世界中に伝道される,とイエス御自身は予めに告げられました。暗黒時代中では,このことは不可能でしよう。政治的な支配と宗教的な支配は,きわめてかたいものであつたため,ローマ・カトリック教職者制度の束縛を全く破ることは必要でした。そうしてこそ,ある程度までの運動を行なうことができます。この点のところでは,真の崇拝に戻つたわけではありません。しかし,この再調整の期間中に歴史的な大事件が生じたことは,キリストが再臨して設立される神の御国を国際的に伝道するための状態を準備していたのです。
極端な思想は御国の論争をぼやかす
多くの抑制は取りのぞかれて,思想と行動の自由がいつそう多く与えられました。しかし,この自由思想の多くは極端な左に走りました。急進的な思想と絶えず衝突したために,人々はエホバ神の御国とサタン悪魔の支配との間の真実の大論争よりも,これらの論争に注意を集中するようになりました。
自由主義が左に傾いた例としては,1848年にマルクスとエンゲルスは「共産主義宣言」を発表しました。そして,ダーウインの急進的な「種の起源」は,当時に行なわれていた知的な革命と科学革命のしるしとして1859年に現われました。組織されていた宗教は,それと同じ頃に自分たちの弱い立場を認めました。そして,バチカン会議は,ローマ・カトリック教会の地位を強めるために,1869-70年に召集されました。法王は始めて間ちがいを犯さない者と言明されました。新教徒の制度も後退し,牧師たちは一般信徒の上に大きな権威を取り始めました。これら多数の極端な思想の結果,不敬虔の時代が次第次第に始まりました。聖書の高等批評,進化論,霊媒術,無神論,そして不信仰はキリスト教国内に侵入し始め,多数の福音教会と言われるものは,この科学的,知的な考えの傾向に従つて,その教えを現代化し始めました。その後間もない1891年に,現代的なカトリック社会哲学の基礎的な文書が書かれました。これは,法王レオ13世の出した回章で,「レルム・ノバラム」と呼ばれました。
しかし,宗教指導者たちが人々を犠牲にして自分たちの力を再び得ようと努める一方,政治政府は別の意味で自分たちの力を得ていました。アメリカ合衆国は,南北戦争から立ち直つたばかりで,地上最大の一強国になろうと再建をはかつていました。英国は,聖書預言中の第七番目の世界強国としての黄金時代を迎え,おそらく大英帝国としては当時その絶頂に達していました。この力を持つ英国は,力を増し加えていたドイツに疑惑の目をむけました。ドイツは,1870年の普仏戦争に勝利を収め,欧州内の大きな強国として,立場をかため始めました。
政治的にも宗教的にも覚醒と大動揺がありました。しかしまた,科学的にも大きな業績がなされたのです。蒸気機関の発明,電気の発見,電話の進歩,後には自動車の進歩など,1800年代の後期と1900年代の初期に生じたこれらの全部のことは,西欧の文明に大変化を与え始めました。新しい事業が始まりました。この事業を進歩させるために新しい法人団体が数多く組織されました。そして,以前の世紀では富をわずかしか持つていなかつた人々は,いまや金銭の投資をすすめられ,大きな財産をつくり始めました。物質主義,金づくり,そして快楽を追い求めることはそれぞれ結合していました。それは,着々と興隆して1914年に最高潮に達する筈の可能性に対して,人々を盲目にせしめました。良いことに対するこれらの見込みは,非常に有望に見えたため,一般の人々はそれらの代価についてはほとんど関心を抱かなかつたのです。そしてまた,政治的な面と商業的な面でのこの再興にともなう大きな霊的な覚醒にもほとんど関心を抱かなかつたのです。
初期の声は道を示す
しかし,一般の人々のこの態度にもかかわらず,前進の一歩が進められていたことは真実です。思想と行動の自由は可能でした。そして欧州での政治支配がゆるみ始めたのと同時に,多ぜいの人人がいつせいに聖書を真剣な態度で分析的に研究し始めました。最も広範囲に及んだ影響のひとつは,1816年にウイリアム・ミラーが始めたものです。彼は1843年か1844年にキリスト・イエスが目に見える肉体をもつて来ると預言しました。しかし,彼の見解は,聖書中に啓示されている神の目的とは全く反するものでした。b
トム: 当時キリストの再臨を待つていたのは,ミラーひとりだけでしたか。
ジョン: いいえ,ドイツ・ルーテル派の神学者ベンゲルは,1836年という年代を発表しました。一方,英国のアービング派の者たちは,最初1835年,次に1838年,1864年,そして最後に1866年を待ち望んで,ついに断念しました。この時までには,いくつかの異なつた再臨論者の群れが,ミラノの運動の結果つくられました。しかし,エリオットとカミングの群れは,1866年を待ちのぞんでいました。ブリユウワーとデッカーは,1867年を預言し,セイスは1870年を支持しました。ロシヤのメノン派の群れは,1889年という年代を示しました。c
ロイス: しかし,キリストの再臨の時と仕方について,なぜちがつた考えがそんなにたくさんあつたのですか。
ジョン: そのわけは,人々はエホバに待ちのぞむことをせず,伝統的な宗教の教えに従おうと熱心に努力したからです。忘れてはなりません,聖書の真の教理は背教の期間中に大きく歪曲されたため,まずこれらの教理が明白に理解されるまではキリストの再臨に関する明白なまぼろしは可能ではありません。いわゆる宗教革命と呼ばれているものは,このことを達成しませんでした。それで,19世紀の初期には,キリストがいつ戻るかを決定する際に多くの間ちがいがなされました。なぜなら,年代表だけが用いられたからです。それはまだ真の崇拝を再興する神の予定の時ではありませんでした。
マリヤ: キリストの再臨を待ち望んでいた多くの人は,キリストが肉体をもつて戻ることを期待していましたが,ある人々はキリストの再臨は目に見えるものでないと信じていませんでしたか。
ジョン: そうです。例えばブルックリンのジョージ・ストーズがいます。彼は「聖書検査者」(英文)という雑誌を出版し,1870年を持ちのぞみました。「最後のラッパ」(英文)を出版したエッチ・ビー・ライスも1870年を期待していました。そして,失望していた再臨論者で構成された第3の群れは,1873年1874年を待つていました。この群れの指導者は「朝の先ぶれ」(英文)を出版していたニューヨーク・ロッチエスターのエヌ・エッチ・バーバーでした。
日は明け始める
そして最後には1870年頃に別の群れが現われ始めました。この群れの指導者は,ペンシルヴァニア州,アレゲニー・ピッツバーグのチャールス・テイズ・ラッセルでした。それについてラッセル自身の言葉を読んでみましよう,この物語りは1868年から始まる。(シオンのものみの塔の)編集者は,幾年のあいだ神にささげられた子で,会衆教会およびY・M・C・Aの会員であつた。彼の信仰は,長い間うけいれられてきた多くの教理について動揺しはじめた。
私は長老派の者として育てられ,教義問答で教えこまれ,そして物事を探究したい気持を抱いていたので自分ひとりで考え始めるとすぐに不信心の論理にひきずりこまれた。しかし,最初は神と聖書に対する信仰を全く打ちこわすと恐れたが,神の恩寵により良い結果が生じたのである。それはむしろ人間の信条と聖書の間違つた解釈についての私の確信を失なわせた。
次の数ヵ月のあいだ,ラッセルは宗教の問題について考えをめぐらして,それを受けいれることができず,しかも,断念しなかつたのです。彼は次のように述べています。
偶然のように思えるのであるが,ある晩私はペンシルバアニア州アレゲニーのうすよごれた汚い会堂に入つてみた。そこで宗教礼拝があると聞いたので,その場所の人々は大教会の信条以外の気の利いたものを持つているかもしれないと思つたからだ。そこで,私はジョナス・ウェンデルの話す再臨論者の見解らしきものを始めて聞いた……
彼の聖書解明は十分明白なものではなく,また我々がいまよろこんでいるものとは大分かけ離れていたが,それでも聖書が神の霊感によつて書かれたことに対する私の弱まつた信仰を再びつよめるのに十分であつた。そして使徒たちと預言者たちの記録が切り離し得ないほどに結びついていることが示された。
その結果,聖書に対するラッセルの興味は再燃し,彼は「いままで以上の熱心と注意を払つて」聖書の研究に戻りました。ラッセルは次のように続けています,
私は間もなくして,我々が福音時代の終りに住んでいること,および主の子供たちの中の賢明にして目ざとい者たちが神の計画を明白に知ると主の述べ給うた時に近いところに住んでいるということを悟りはじめた。この時において,私とピッツバーグとアレゲニーにいた他の数名の真理探究者たちは,聖書研究の級を設立した。d そして,1870年から1875年までの期間は,神の恵みにおいて,神とその御言葉の知識と愛において,増加の一途をたどるのみであつた。我々は神の愛を認識するにいたつた。すなわち神の愛は全人類にどのような御準備を設け給うたか,神の愛に満ちた計画が証しされるために,すべての者は墓からどのようによび起されるか,またキリストのあがないのわざに信仰を働かして,神の御心に関するその知識に一致して従順を示す者は,キリストの価値を通して,神との全き一致にもどり,永遠の生命が与えられる,ということを知つた。これは使徒行伝 3章21節に預言されていた恢復のわざである,と我々は悟つた。
しかし,その当時は神の計画の概略を学び,長い間大切にしてきた間ちがいを取りのぞいていただけであつた。詳細についての明白な識別をする時は,まだ来なかつた。……
そのようにして,1868-1872年は過ぎた。それから1876年までの年月中,私がアレゲニーで会つた小数の聖書研究家にとつて,神の恵みと知識は増しつづけた。恢復についての我々の最初の幼稚で漠然とした考えから進歩して,詳細を明白に理解できるようになつた。しかし,明白な光をもたらす神の予定の時はまだ来なかつた。
記録の示すところによると,この期間中にこれらの聖書研究生たちは「御自身を捨てた人間」なる主と,霊者として再び来られる主のちがいを認識するようになりました。霊者の臨在は人間の目に見えない,と彼らは学びました。進歩したこの理解の果は ―
我々は再臨論者のまちがいをたいへん残念に思つた。彼らはキリストが肉体をもつて来ると期待し,そして再臨論者をのぞいて,全世界とその中のものは1873年か1874年に燃え上がつてしまうと期待していた。我らの主の再臨の目的および仕方について,彼らの定めた時とその失望,かつ幼稚な考えは,主の来るべき御国を待ちのぞんで宣明したすべての者に,多少なりとも非難をもたらすことになつた。
キリストの再臨の目的と仕方について,間ちがいの見解が広くとられているので,私は「主の再臨の目的と仕方」と題する冊子を書くにいたつた。その冊子は5万部が出版された。e
それで,幾世紀にもわたる暗やみと泣きかなしんだ期間の後に,神の御言葉の真の光は再び照り輝き始め,そして熱心に宣べ伝え始められたキリスト再臨の音信は,新しい日の明け方に叫ばれるよろこびの叫び声のようでした。この意味深い出版物「主の再臨の目的と仕方」と共に始まつたよろこびの叫びは,だんだん大きくなり,遂には大水の轟きのようになりました。
トム: それがエホバの証者の国際的な伝道の始まり,というわけですな。すると,現在までのあなた方の活動は,80年以上にもなるというわけですな。それは今日の大多数の人々よりも古い。
ジョン: そうです。しかし神の御心にずつと従いつづけることは,正しい方向に出発したことよりもはるかに多くを意味します。ラッセルは将来のわざに対する熱心にみち,全速力で出発しました。ところが,ほとんどすぐに何の標識もない分かれ道のところに来ました。彼は,両方の道を歩くことはできない,またどちらかの道は災を意味する,と明日に知りました。彼は決定を下さねばならないと知りましたが,その決定がどんな影響を及ぼすものか,またそれから後のどんな模範を残すべきかは,知ることができませんでした。しかし,その部分をお話しするなら,私共は一晩中ここに居なければならないでしよう。おのぞみなら,来週参りましよう。
トム: ぜひ来てください。まだまだお聞きしたいことが沢山あります。
ロイス: どうぞいらして下さい。ラッセルさんの下した決定に,私は興味を感じます。
[脚注]
a (イ)奉仕者になる資格(英文)(1955年)295頁
b (ロ)ウイリアム・ミラーの生涯(1875年: 第七日再臨論者出版協会)362-374頁
c (ハ)E・T・クラーク著「アメリカの小さな派」(英文)33,34頁。(1949年改訂版)カトリック百科辞典(1910年ニューヨーク),『アービング派』: 百科辞典(マックリントクとストロング。1882年,ニューヨーク),「千年統治」: 「ジョン・アルバート・ベンゲル」
d (ニ)若いチャールスの父親J・L・ラッセルは,この最初の研究の群れの一員でした。(ものみの塔〔英文〕1894年,175頁)。
e (ホ)ものみの塔(英文)1916年,170,171頁。