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平和を探し求めるものみの塔 1960 | 2月15日
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平和を探し求める
「平和を求めて,これを追え。ヱホバの目は義人たちに注がれ,彼の耳は彼らの祈にかたむく。」― ペテロ前 2:11,12 新世。
1 生命がどんなものであつて欲しと人は願いますか。ソロモン王のシンゲンは,この願望をどのように示していますか。
平和のない生命は何ですか。誰が平和のない生命,平和のない永遠の生命を欲しますか。ふつうの人はそれを欲しません。平和をみだす言葉が語られて,静けさのない生活をすると,人はそのような生活から遠ざかりたいと思います。このことは,結婚の経験を多く持つソロモン王のシンゲンの中に良く表わし示されました,「妻の争うのは,雨漏りの絶えないのとひとしい」。「争いを好む女といつしよに家におるよりは,屋根のすみにおるほうがよい」。(シンゲン 19:13; 21:9,新口)部屋のたくさんある大きな家に住んでいても,人は自分の気持をいらだたせて平和をみだす者を避けるために,家の一番すみにのがれたいと思います。
2 生命を欲する人についてどんな質問が起されていますか。私たちは,その緊急な質問に対する霊感を受けた確実な答をどのように持つていますか。
2 今日では,困難,危険,そして核爆弾,宇宙時代の悪い影響からのがれて行けるところは,この広い地球上のどこにもありません。今日,平和の生活をして良い日を見ないことを欲しない人がいるでしようか。その質問は古い昔からの質問です。困難と不正が,この地上に存在してきた期間と同じぐらいに古いものです。絶望とあきらめの中にその質問を起さず,その緊急な質問に対して確実に答を得る能力をもつて,その質問を起した人は幸福です。その人の答は,楽器の伴奏をつけて歌われ,そして霊感を受けて書かれた詩篇の書の中に記されました。世界の困難,悲哀,そして将来に来る恐ろしい事柄についての恐怖にみちる今日の私たちのために,それは3千年以上のあいだ保存されてきました。エルサレムの王であり,そしてソロモン王の父になつた詩篇記者ダビデは,生徒たちを教える経験者として,次のように語りました。
3 ダビデは,自分の書いた詩篇の中でどのように質問を起していますか。また,どのようにその質問に答えましたか。
3 「子よ,来りて我に聞け。われヱホバをおそるべきことを汝らに教えん。幸いを見んがために,生命を慕いながらえんことを好む者はたれぞや。なんじの舌をおさえて悪につかしめず,なんじの唇をおさえて偽りをいわざらしめよ。悪を離れて善を行い,和らぎをもとめて切にこのことをつとめよ。ヱホバの目は正しきものをかえりみ,その耳は彼らの叫びにかたぶく。ヱホバの御顔は悪をなす者にむかいてその跡を地より断ちほろぼしたまう」。―詩 34:11-16。
4,5 (イ)ダビデの言葉は,クリスチャンに対する助言でもあると,使徒ペテロはどのように示しましたか。(ロ)ペテロはどんなすすめの言葉を支持するためにダビデの言葉を引用しますか。
4 これはユダヤ人だけに与えられた助言である,などと今日考えてはなりません。ダビデ王の時から1000年以上たつて後,クリスチャンの一使徒はダビデのその言葉を引用して,それをアジア各地にいたクリスチャンたちに告げました。彼は使徒シモン・ペテロでした。ペテロは,腐敗していたユダヤ教すなわち当時のユダヤ人の宗教を捨て,て今から1900年前にイエス・キリストが始めて設立された清いキリスト教に改宗しました。使徒ペテロは,霊感の下に書かれたダビデの言葉を,クリスチャン聖書の一部にして,クリスチャンに対する助言でもある,と示しました。ペテロは,ダビデの詩篇を数多く引用して,それをキリスト教に適用したイエス・キリストにならつたのです。ペテロは,クリスチャンたちに送つた最初の手紙の中で,今日のキリスト教国とことなる者になれ,と彼らに告げています。キリスト教国の行いは,平和と良い日を持つ永遠の生命という祝福にみちびかないからです。それでペテロはダビデの言葉を引用して,次のように語つています。
5 「最後に言う。あなた方はみな,心をひとつにし,同情し合い,兄弟愛を持ち,あわれみ深くあり,謙虚でありなさい。悪をもつて悪に報いず,悪口をもつて悪口に報いず,かえつて祝福をもつて報いなさい。あなた方が召されたのは,祝福を受けつぐためなのである。(ダビデの言葉を引用しつつ),『いのちを愛し,さいわいな日々を過ごそうと願う人は,舌を制して悪を言わず,くちびるを閉じて偽りを語らず悪を避けて善を行い,平和を求めて,これを追え。ヱホバaの目は義人たちに注がれ,ヱホバの耳は彼らの祈にかたむく。しかし,ヱホバの御顔は,悪を行う者に対して向かう』」。―ペテロ前 3:8-12,新世,脚註。
6 生命を愛することについての質問は,今はどうして答え難いように見えますか。しかし,西暦1914年以来の出来事や状態に対して,クリスチャンはどのように反応すべきである,とイエスは告げましたか。
6 私たちは生命をよろこびますか。私たちは生命を愛しますか。いまその質問に答えるのはむずかしく見えます。なぜなら将来に生き残るということは,最悪の艱難にぶつかる,すなわち人類の創造以来いまだかつて経験したことのない最悪の時代にぶつかつて,生き残る希望はほとんどない,という危険を冒すことになるからです。たしかに,「全能の神の大いなる日の戦争」ハルマゲドンの戦いは,急速に近づいています。(黙示 16:14,16)しかし,その宇宙的な戦争と,西暦1914年以後に生ずるハルマゲドン前の恐ろしい出来事全部を予告した神の大預言者は,これらの出来事や状態に面しても,楽観的な見方を取るようにと,忠実な弟子たちに告げました,「これらの事が起りはじめたら,身を起し,頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから。……いちじくの木を,またすべての木を見なさい。はや芽を出せば,あなた方はそれを見て,夏がすでに近いと,自分で気づくのである。このようにあなた方も,これらの事が起るのを見たなら,神の国が近いのだとさとりなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が,ことごとく起るまでは,この時代は滅びることがない」。―ルカ 21:26,28-32,新口。
7 それでは,なぜ私たちが「幸いを見んがために,生命を慕いながらえる」のは当然ですか。
7 良い時代,そうです,最善の時代は,私たちの将来にあり,私たちの生活目標とするものものはたしかにあるのです。私たちは生命によろこびを見出し,生命を愛すべきです。なぜなら,生命がないなら,設立された神の御国の下にあつて,これらの良い日を楽しむことは決してできないからです。それで,詩篇記者ダビデの語つたごとく,私たちは当然「幸いを見んがために,生命を慕いながらえる」べきです。
誰との平和?
8 生命に対する私たちのよろこびと愛がみたされるためには,私たちは何を求めねばならぬ,とダビデおよびペテロは言つていますか。そして誰とですか。
8 しかし,生命にたいする私たちのよろこび,生命にたいする私たちの愛がみたされるためには,私たちは先ず平和を求めてそれを見出さねばならぬ,とダビデとペテロの両人は語つています。すると,誰との平和か? という質問が当然に起きます。私たちの仲間の人間と平和を持つことですか。そうです。しかし,最初に人間以外の者と平和を持たないなら,このことは不可能です。キリスト教国は,この最も必要な御方と平和な関係に入つていないため,キリスト教国の諸国民,種族,そして家族のあいだにさえ平和はないのです。それでは,最も重要なこの方とは誰ですか。その方が誰であるかは,18世紀の有名な英国の為政家,キャサムの伯爵ウイリアム・ピットにより正確に指摘されました。彼は自分の甥に向かい次のように語りました,「神に対して正しくないなら,人間に対して正しくなることは,決してない。賢人や道楽者が認めても認めなくても,このことは永久に真実である」。
9 (イ)人間と真実に平和になるため,何が必要ですか。このことにつき,ダビデとペテロは,為政家ウイリアム・ピットが語つた以上にどのように語りましたか。(ロ)そのために私たちは何を受けいれますか。なぜ私たちは彼の御顔が私たちにそむくことを欲しませんか。
9 たしかに,もし神と平和でないなら,神によつてつくられた者である人間と平和になることは決してないでしよう。詩篇記者ダビデと使徒ペテロの両人は,1000年以上もの年月をへだてていますが,このことを語りました。実際のところ,両人はウイリアム・ピットが語つたこと以上のことを語りました。なぜなら,私たちが先ず平和にならねばならぬ神の御名を述べ,その神が誰であるかを示したからです。先ず神との平和を見出すことは絶対に必要であるとダビデは示しています。そして,そのことを証明するため,彼は平和を求めてそれを追えという助言のすぐ後に次の言葉を述べています。「ヱホバの目は正しき者をかえりみ,その耳は彼らの叫びにかたぶく。ヱホバの御顔は悪をなす者にむかいて,その跡を地より断ちほろぼしたまう」。使徒ペテロは,ダビデの詩篇の節を同じ順序に引用しています。さらに,良い日を楽しむことについてのダビデの助言は,生命を愛する者たちに対する次のさとしの言葉につづいています,「子よ,きたりて我に聞け。われヱホバをおそるべきことを汝らに教えん」。私たちは,その御名がヱホバと言われる神にたいして理知的な恐れを持つなら,先ず最初に神と平和を求めたいと欲し,そして私たちが必要とする教えを受けいれます。私たちは,ヱホバの御顔が私たちにそむくことを願いません。なぜなら,それは生命の損失を意味し,地から私たちの名前が全く断たれ,消しさられることを意味するからです。
10 全人類は神と平和の関係であり,彼の善意を持つているとルカ伝 2章14節は意味しますか。それが正しいかどうか,私たちはどうして知りますか。
10 それでは,なぜ私たちはヱホバ神と平和を求めるのですか。天の御子イエスがベツレヘムで生まれたとき,御使の大軍はキリスト教国がクリスマスの時に歌う言葉を語りました,「いと高きところには栄光,地には平和,人々には善意あれ」。たしかにその通りです。しかし,御使たちが語つた言葉は,すべての人類が神と平和であり,神の善意を持つている,という意味ではありません。(ルカ 2:14,欽定訳)1881年の英文改訂訳と1901年のアメリカ標準訳の両方は,御使の言葉を次のように訳出しています,「いと高き所にいます,神に栄光,地上では神のよろこばれる人々のあいだに平和あれ」。アメリカ訳は,次のように訳出しています,「神のめぐむ人々に平和あれ!」アール・エイ・ノックス卿のローマ・カトリック訳は,次のように訳出しています,「地上では,神の友である人々に平和あれ」。新世訳の欄外には,次のように記されています,「地上では神の是認する人々に平和があるように」。ヱホバ神がめぐんで是認し,ヱホバ神の友になつている人々とのみ,彼は平和を与えます。ヱホバ神の目は,彼らの上だけに恵みをもつて注がれます。ヱホバ神の耳は,援助を求める彼らの叫びに開かれています。
11 最初の人間は,神により直接創造された者であるのに,なぜそうでなければなりませんか。
11 なぜそうでなければなりませんか。人間は神によつて直接に創造されたものではありませんか。そうです,完全な人間アダムは,神により直接に創造されました。それで,イエス・キリストの家系を昔にさかのぼつて地上の最初の人間にまで達しているルカ伝 3章23-38節(新口)は,「アダムそして神にいたる」という言葉で終つています。しかし,私たちはみな,創造主に罪を犯して,人間としての完全さを失なつた後のアダムの子孫です。古代の最も賢明な王ソロモンは,「人は罪を犯さない者はないのです」と語りました。(列王紀上 8:46,新口)またダビデ王は,次のように語りました,「彼らはみな迷い,みなひとしく腐れた。善を行う者はない,ひとりもない」。(詩 14:3,新口)それから1000年の後のクリスチャン使徒パウロは,次のように語りました,「なんらの差別もない。すなわち,すべての人は罪を犯したため,神の栄光を受けられなくなつており……ひとりの人(アダム)によつて,罪がこの世にはいり,また罪によつて死がはいつてきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである」。(ロマ 3:22,23; 5:12,新口)生来のユダヤ人であろうと,ユダヤ人でなかろうと,私たちはみな罪人アダムの子孫です。それで,私たちはみな罪の支配を受けるようになり,罪がその奴隷に支払う価,すなわち死に面しています。「ひとりの罪過によつて,そのひとりを通して死が支配するに至つた……罪の支払う報酬は死である」。(ロマ 5:17; 6:23,新口)すべての人間が死ぬという事実そのものは,人間がみなヱホバ神に対して罪を犯した者であることを証明しています。ヱホバ神は,死の処罰を宣告したのです。
12 人間と神との関係において,罪が滅ぼしたものは何でしたか。どんな聖句は人類が誰に従つているかを示していますか
12 神と結ばれていた人間の平和,神にたいする人間の正しい立場を滅ぼしたのは,罪でした。人類は罪に従う者,そして悪い霊者に従う者になりました。この悪い霊者は,宇宙内に罪を始めたサタン悪魔で,ヱホバ神の大敵対者です。自分は義しい者と考えている人々は,罪の創始者に従つているなどということを聞きたくないでしよう。しかし,彼らは誰に仕えているかを表わします。彼らはその者に従つているのです。神の御言葉は,次のように述べています,「あなた方は知らないのか。あなた方自身が,だれかの僕になつて服従するなら,あなたがたは自分の服従するその者の僕であつて,死に至る罪の僕ともなり,あるいは義にいたる(神への)従順の僕ともなるのである」。(ロマ 6:16,新口)いちばん最後に書かれた聖書中の1冊の本は,断定的にこう述べています,「全世界は悪しき者の配下にある」。(ヨハネ第一書 5:19,新口)クリスチャンたちに対しては,次のように書かれていました,「さてあなた方は,先には自分の罪過と罪とによつて死んでいた者であつて,かつてはそれらの中で,この世のならわしに従い,空中の権をもつ君,すなわち,不従順の子らの中に今も働いている霊(サタン)に従つて,歩いていたのである。また,私たちもみな,かつては彼らの中にいて,肉の欲に従つて日を過ごし,肉とその思いとの欲するままを行い,ほかの人々と同じく,生まれながらの怒りの子であつた」。(エペソ 2:1-3,新口)「あなたがたも,かつては悪い行いをして神から離れ,心の中で神に敵対していた」。―コロサイ 1:21,新口。
13 すべての人は,パウロとテモテが大使として願つたごとく,神との関係において何が必要ですか。
13 名前だけのクリスチャンでなく,その生活においてもクリスチャンである人々が,その心とわざにおいて,かつて神から離れ,神の敵であつたとするなら,真のクリスチャンにならないすべての人はヱホバ神から離れ,ヱホバ神の敵になるにちがいありません。もし彼らが「怒りの子」にならず,来るべき「全能の神の大いなる日の戦争」中に滅ぼされないことを望むなら,神と和解して神の友にならねばなりません。彼らは,使徒パウロと彼の宣教の友テモテがすすめた事柄をしなければならないのです,「すべてこれらの事は,神から出ている。神はキリストによつて,私たちをご自分に和解させ,……私たちに和解の福音をゆだねられたのである。神が私たちをとおしてすすめをなさるのであるから,私たちはキリストの使者なのである。そこで,キリストに代つて願う,神の和解を受けなさい」。―コリント後 5:18-20,新口。
14 むかし大使たちをつかわすことは,何を意味しましたか。パウロとテモテをつかわした方の条件は,なぜ異常のものですか。
14 パウロとテモテの時代に,大使がつかわされた時には,諸国家や政府のあいだに平和の関係があつたのではなく,敵意が存在していました。大使は,敵意を持つている者たちのところにつかわされましたが,それは敵意をいだく者たちの間に平和な関係を設立するためでした。しかし,パウロとテモテの場合では,敵意をいだき合つている両者のうちの弱い方が大使を送り出すのではありません。全能の神ヱホバが大使を送り出しているのです。ヱホバは,このことにおいてあわれみを示します。すなわち,彼と和解する人々をできるだけ多く滅びから救われるのが目的です。ヱホバ神はこの両者のうちで圧倒的にはるかに強い方です。それですから御自分と平和な関係に人々をみちびくことができます。それで,イザヤ書 45章7節のところでヱホバは次のように言われています,「我は平和をつくりまたわざわいを創造す。我はヱホバなり。我すべてこれらのことをなすなり」。それですから,ヱホバは平和の条件を私たちに示しています。私たちが平和の条件を提出するのではありません。しかし,彼の条件は過酷なものでなく,恵みにみちて実際的なものです。その条件を感謝の気持の中に受けいれることは,私たちにとつて最善の利益になることです。
どのように探すか
15,16 (イ)ヱホバ神との平和を求める際に,私たちはどのように信仰と誠実さを示しますか。誰を通して平和に達しますか。(ロ)生来のユダヤ人たちは,神との正しい立場を,どのように探し求めていましたか。しかし,彼らは自分たちの罪のために何を必要としましたか。
15 それでは,彼の条件は何ですか。「怒りの子」である私たちは,どのようにヱホバ神との間の平和を探して見出すことができますか。平和に対するヱホバ神の条件は,その書かれた御言葉である聖書の中に明白に述べられています。私たちは,神との平和を探し求める際に,正しい道を取ります。そして,聖書全部を研究することによつて私たちの信仰と誠実を示します。イエスと彼の使徒たちが持つていた古いヘブル語聖書だけを研究するのでなく,クリスチャン・ギリシャ語聖書をも研究します。神の御言葉は,はつきりとこう述べています,すなわちヱホバ神と和解して,ヱホバ神の友になるには,ただ一つの道しかないということです。その道とは,ヱホバ神の愛された天的な御子イエス・キリストによる道です。ヱホバ神は,天から地上のイスラエルの国民に,この御子をつかわしました。そして,この御子はユダヤ人の処女から奇蹟的に誕生し,ユダヤ人,イスラエル人として生まれました。西暦29-33年までの3年半の年月中,彼は公にまた個人的に,神の御国をイスラエル人だけに伝道しました。罪深いイスラエル人であるユダヤ人は,神がユダヤ国民に与えた律法を守ることにより,死の処罰から自由になろうと努力していました。しかし,律法は完全であつたため,ユダヤ人たちはその律法を守ることができなかつたのです。
16 予言者モーセを通して与えられた神の律法は,彼らの罪深い状態をいつそう明白に示しました。それは,ユダヤ人が罪人であることをはつきり表わしました。このわけで彼らは毎年動物をささげることが必要でした。それは,罪からの予影的な清めを得るためであり,またヱホバ神との契約関係を保ちつづけるためでした。彼らは,動物の犠牲よりもすぐれた犠牲を必要としたのです。彼らは,自分自身および全人類のためにささげられる完全な人間の犠牲を必要としました。
17 必要な犠牲は,どのようにそなえられましたか。イスラエル人はどのように知らされましたか。彼らは,その知らせに対して,どのような態度をとりましたか。
17 イスラエルの国民内の人で,心と体が完全で,神にみとめられる人間の犠牲として自分自身をささげ得る者はひとりもいませんでした。それで,神は天的な御子を地につかわして,天的な御父を持つ完全な人間の子供として生まれさせ,完全な大人に成長させてエデンの園にいたアダムのごとくならせ,是非必要であつた完全な人間の犠牲として,その身をささげさせたのです。イエス・キリストが全人類の罪のための犠牲として死ぬ前に,彼とその12人の使徒および70人の他の福音伝道者は,パレスチナのイスラエル人に伝道しました。それでイスラエル人なるユダヤ人たちは,神との永遠の平和に入る道が何であるかについて知らなかつたわけではありません。次のように書かれています,「神がすべての者の主なるイエス・キリストによつて平和の福音を宣べ伝えて,イスラエルの子にお送り下さつた」。(使行 10:36,新口)モーセを通して結ばれた神の律法下にいた幾百万人というユダヤ人のうち,残れる者だけが良いたよりを受けいれて,イエス・キリストを通し神との平和に入りました。ユダヤ国民の他の者たちは,モーセを通して結ばれた神の律法を成し行うなら神との間の正しい関係をつくれる,という高慢な,しかも無益な努力をしました。その律法には,無益な動物の犠牲,人間の犠牲より低い価値の犠牲がともなつていたのです。
18 神は,御自分との平和に対する条件または手段を設けられる御方であることを,どのように示しましたか。それで,彼は何と呼ばれていますか。
18 神は御自身とむすぶ平和の条件または手段をつくり出した御方です。その事実は,独り子を天からつかわして,完全な人間の犠牲にならせたことからも分ります。「神はそのひとり子を賜わつたほどに,この世を愛して下さつた。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。(ヨハネ 3:16,新口)神は御子を地につかわし,神の敵の手中に渡して,完全で罪のない人間の犠牲として死なせました。しかし,それだけにかぎらずこの犠牲の価値を天にいる御自分にささげさせ,神との平和を欲する人々の福利をも図りました。神は,どのようにこのことをしましたか。全能の神は,イエス・キリストを死人の中からよみがえして,再び天的な子,霊的な子にならせ,そして,天に戻らせました。それで,イエスは,御自分の犠牲の流血の価値をたずさえて神の御前に現われることができました。それは,平和の新しい契約をつくるためです。人類の平和に対するそのような取り極めを設けられたヱホバは,平和の神です。この特別な面で,彼は「永遠の契約」の血による羊の大牧者,私たちの主イエスを死人の中から引き上げられた「平和の神」と呼ばれています。―ヘブル 13:20,新口。
19 平和を求める際,私たちは全きみちびきとして,何を得ることが必要ですか。
19 そのわけで,次のことを十分に認識することができます,すなわち平和を見出そうと求める際に,私たちは知識を得ねばならぬ,つまりヱホバ神についての正確な知識だけでなく,愛の心から自分自身を犠牲にささげた御子イエス・キリストについての正確な知識を得ねばなりません。ヘブル語聖書39冊だけにたよるユダヤ人は,せいぜいのところ部分的な知識を得るだけです。それは十分ではありません。イエス・キリストに従つたユダヤ人たちが,霊感の下に書いた27冊のクリスチャン・ギリシャ語聖書の付加的な知識も,私たちの知識を正確なものにするために必要です。神についての正確な知識だけでなく,イエスについての正確な知識をも持たないなら,私たちは望むところの平和を得ることができません。そのわけで霊感を受けて聖書を書いたペテロは,平和を求める人々のために祈りを書きしるしました。ペテロは,以前それらの人々に最初の手紙を書き送つていました。彼は次のように語つています,「過分の御親切と平和があなた方に増し加わるように。(どのように?) 正確な知識により(何の知識?),すなわち神と私たちの主イエスの正確な知識による。生命と敬虔な献身にかかわるすべてのことは,彼の神性な力により私たちに自由に与えられている。それは栄光と徳によつて私たちを召した方の正確な知識によるのである」。―ペテロ後 1:2,3,新世。
20 それで,神との平和を楽しむため,私たちは信仰の中に何を受け入れねばなりませんか。
20 もし私たちがイエス・キリストについての正確な知識を得ず,また神が御子を通して設けられた罪のための犠牲を受けいれないならば,私たちがどのように求めようとも,神との平和を見出すことは決してできないでしよう。ユダヤ人たちは,部分的な知識しか持つていなかつたため,自分自身と神との間の正義の立場を設立しようと努めます。そして,私たちの罪をきよめるイエスの犠牲を度外視するのです。私たちは,モーセを通してユダヤ人に与えられた律法による義のわざに依存してはなりません。むしろ,罪を取りのぞくイエス・キリストの犠牲に全き信仰を置かねばなりません。もしそうしないなら,私たちは神との平和を楽しむことができないのです。
21 (イ)クリスチャンたちは,義なるものと言明されることにより,何を楽しみますか。(ロ)イザヤはイエスの犠牲の必要を,どのように予告しましたか。私たちがイエスに希望を置くことは,どんな結果になりますか。
21 それで神の御子に信仰を働かすことによつて正義と見なされるクリスチャンたちにむかい,使徒パウロは次のように書きました,「このように,私たちは,信仰によつて義とされたのだから,私たちの主イエス・キリストにより,神に対して平和を得ている。私たちは,キリストの血によつて今は義とされているのだから,なおさら,彼によつて神の怒りから救われるであろう」。(ロマ 5:1,9,新口)私たちが神に対して平和を得て,神の怒りを避けるために,イエス・キリストの犠牲は絶対に必要なものです。それよりもずつと以前に,予言者イザヤはイエスの犠牲について次のごとく預言しました,「彼はわれわれのとがのために傷つけられ,われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずからこらしめをうけて,われわれに平安を与え,その打たれた傷によつて,われわれはいやされたのだ」。(イザヤ 53:5,新口)神と平和の間柄になることは,よろこびをもたらします。しかし,私たちの平和のためにこらしめを受けた御子を信じないなら,神はそのような平和を私たちにみたすことをなさらないでしよう。聖書には次のように書かれています,「『異邦人は彼に望みをおくであろう』どうか,望みの神が,信仰から来るあらゆる喜びと平安とを,あなた方にみたし,聖霊の力によつて,あなた方を望みにあふれさせて下さるように。どうか,平和の神があなたがた一同と共にいますように」。(ロマ 15:12,13,33,新口)もし神が私たちといつしよにおられるなら,私たちは本当に全き平和を知ります。
22 今日にいたるまで生来のユダヤ人が肉の割礼に頼ることは,なぜ無益ですか。
22 生来のユダヤ人は,義を示すために陽皮に割礼を施すことを,今でも信頼しつづけています。そのような行いをする彼らは,かつては生来のイスラエルの神であつたヱホバとの平和を決して楽しまないでしよう。かつてはユダヤ人の神であつたヱホバの恵みを得るために,肉の割礼をしても,それは今では何の役にも立ちません。いま必要なのは,新しいクリスチャン個性,すなわちイエス・キリストがかしらである新しい霊的な創造の原則または規則にしたがつて歩み,行動するということです。それこそ霊的イスラエルの神と平和な関係にみちびくものです。私たちの心は,割礼をうけねばならぬ,つまり義のために清められねばなりません。キリスト教に改宗したユダヤ人のパウロは,かつては生来のユダヤ人としての肉の割礼を誇り高ぶつていましたが,クリスチャンになつてからは,そのような気持を捨て,イエス・キリストの信者に宛てて次のように書きました,「割礼のあるなしは問題ではなく,ただ新しくつくられることこそ,重要なのである。この法則に従つて進む人々の上に,平和とあわれみとがあるように。また神のイスラエルの上にあるように」。―ガラテヤ 6:15,16,新口。ピリピ 4:9。ガラテヤ 5:25。コリント後 5:17。
平和を探し求める者の「大いなる群衆」
23 今日の霊的イスラエル人は,イザヤ書 27章1-5節に一致して,神とどのように平和な関係に入りましたか。しかし,特に1935年以来,誰が彼らの道に従いましたか。
23 現代のうちにヱホバ神は,象徴的な大レビヤタン(悪魔の見える制度)を殺します。しかしまた,ヱホバ神は御自分の霊的なぶどう畠(地上にあるヱホバ神の見える制度)をいつでも守ります。この時代にあつて,保護と保存を楽しみたいと欲するすべての者に対する親しみにあふれたヱホバの助言は,次のとおりです,「私の保護にたよつて,私と和らぎをなせ,私と和らぎをなせ」。(イザヤ 27:1-5,新口)ヱホバの霊的なぶどう畠,すなわち神の霊的なイスラエルをつくりあげる信者たちは,悪魔のレビヤタン制度から出てくることにより彼と平和をむすびました。しかし特に1935年以来の最近になつて,神の霊的イスラエルの者でない幾十万という人々がいます。彼らはヱホバ神の助言を聞いて,それに従う行いをしました。彼らは神の霊的イスラエルの残れる者に従つて,悪いレビヤタンが影響を及ぼしている人類の海から出てきました。そして,神の小羊なるイエス・キリストの血によつてヱホバ神と平和をむすびました。黙示録 7章9節と10節では,彼らはあらゆる国民,種族,人種,言語から出てきた大いなる群集と示されています。彼らはその救われた状態を神と御子イエス・キリストに帰し,「救は,御座にいますわれらの神と小羊からきたる」と言います。
24 黙示録 7章14-17節は,彼らがその平和な状態に入つた道を,どのように述べていますか。
24 数えることのできないこの大いなる群集の者は,神との平和を求め,そしてイエス・キリストの清い血に信仰を働かすことにより神との清い正しい立場を得ようと努めます。それで,黙示録 7章14-17節(新口)は,彼らがその平和な状態に入つた次第を,次のように述べています,「(彼らは)その衣を小羊の血で洗い,それを白くしたのである。それだから彼らは,神の御座の前におり,昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかた(神)は,彼らの上に幕屋を張つて共に住まわれるであろう。彼らは,もはや飢えることがなく,かわくこともない。太陽も炎暑も,彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊(イエス・キリスト)は彼らの牧者となつて,いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は,彼らの目から涙をことごとくぬぐいとつて下さるであろう」。
25 むかしのエリコの町にいた誰によつて,この「大なる群衆」は予影されましたか。どんな面で?
25 この「大いなる群衆」は,モーセの後継者ヨシュアの時代にいた,むかしのラハブという名前のカナン人の女により予影されていました。ラハブは,カナンの町エリコに住んでいて,その町は住民もろともに滅びに定められていたのです。ヱホバ神はエリコの城壁をゆりくずしました。そして7日間エリコの町のまわりを行進していたイスラエルの人々が城壁のくずれた町に入り,その悪い住民を殺したとき,ラハブと彼女の家族は滅びをまぬかれました。どうしてですか。なぜなら,彼女はイスラエルの神と平和の関係に入つたからです。彼女は,ヨシュアが町の中につかわした2人の間蝶について密告しなかつたからです。この2人の間蝶は,ラハブの宿屋に宿泊しました。(ヨシュア 2:1-21; 6:1-25)このことについてクリスチャン,ギリシャ語聖書は次のように述べています,「信仰によつて,エリコの城壁は,7日にわたつてまわつたために,くずれおちた。信仰によつて,遊女ラハブは探りにきた者たちをおだやかに迎えたので,不従順な者どもと一緒に滅びることはなかつた」。―ヘブル 11:30,31,新口。
26 カナンのどんな町の人々により,生存者の「大いなる群衆」は予影されましたか。どんな行いの面で?
26 来るべき全能の神の「大いなる日の戦争」に生き残るこの「大いなる群衆」は,またギベオンの町の人々によつても予影されました。カナンの中にあつたこの町も,ヨシュアのひきいるヱホバのイスラエル人軍隊により滅亡に定められていました。ヨシュアという名前は,ギリシャ人によつてイエスとも発音されました。全くのところ,ヨシュアはイエス・キリストの預言的な人物です。イエス・キリストは,神のさばきを執行する神の代理者になりました。(使行 7:45。ヘブル 4:8)ふしぎなことに,ギベオンの町とそのまわりの三つの町は,滅びをまぬかれました。ヨシュアはカナンの他の町を滅ぼしたのです。どうしてそうですか。ヱホバ神の刑執行者が来る前に,ヱホバ神と平和をむすんだからです。ヨシュアとその軍勢が近づいたときより幾日か前に,ギベオン人たちは使者を変装させてつかわし,ヱホバ神およびその民との平和を請い求めました。彼らはヨシュアを通してヱホバ神に全く従うと申し出たのです。
27 それらの昔の人々に生じた結果と同じく,平和を求める者たちの「大いなる群衆」におよぶ結果は何ですか。
27 その結果は何でしたか。記録は次のように答えています,「そしてヨシュアは彼らと和を講じ,契約を結んで,彼らを生かしておいた。(イスラエルの)会衆の長たちは彼らに誓いを立てた」。(ヨシュア 9:15,新口)イスラエル人ではなかつた昔のギベオン人のように,今日の平和を求める「大いなる群衆」は,ハルマゲドンの始まる前のいま,イエス・キリストを通してヱホバ神に全く献身しています。それですから,大いなるヨシュアであるイエス・キリストは,その宇宙的な戦争のときに彼らを滅ぼしません。霊的なイスラエル人の残れる者と同じように,その大いなる群衆は生命を愛します。彼らは神の御国の下にあつて,永遠にわたる良い日を見たいとのぞみます。それで,今日平和についてのダビデとペテロの助言に従つています。
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平和の追求ものみの塔 1960 | 2月15日
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平和の追求
1 生命を愛する者は,平和を見出してから,何をしなければなりませんか。どんな責務がいま彼の上に課せられていますか。
生命を愛する者が,御子イエス・キリストを通して神との平和を探し求めた後,彼は何をしなければなりませんか。その者は,今後も平和を追い求めねばなりません。クリスチャン使徒ペテロは,「平和を求めて追え」と助言しています。(ペテロ前 3:11,新口)その者は,残りの生涯中,平和を追い求めねばなりません。平和を保ちつづけねばならない,という意味です。彼ひとりだけがキリストを通して神との平和を楽しんでいるのではありません。彼は神との平和に入ることにより,キリストを通して神に全く献身している者たち,そして神に和解している者たち,によつて構成されている会衆と平和な関係に入ります。(コリント後 5:18-21)彼はクリスチャン会衆の平和をかきみだす者であつてはなりません。この制度と静かな,平穏で波風を立てぬ一致調和した関係を保つことは彼の責任です。彼はクリスチャン統治体の使徒が述べた行為の規則にふさわしい生活をしなければなりません,「互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにおすすめする。怠惰な者を戒め,小心な者を励まし,弱い者を助け,すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもつて悪に報いないように心がけ,お互に,またみんなに対して,いつも善を追い求めなさい」。―テサロニケ前 5:13-15,新口。
2 どんな状態の中にあつて,クリスチャンはこの道を追い求めねばなりませんか。彼らは攻撃を受ける主要な対象である故に彼らについてはどんな企てがなされていますか。
2 どこもかしこも,いまだかつてない混乱の満ちているいまの世界の只中にあつて,クリスチャンはこの道を追い求めねばなりません。1914年に神の御国が天で生まれてすぐ後に,サタン悪魔とその悪鬼共は,この地に追い落されました。それ以来,彼らは人々のあいだにあらゆる災,混乱,そして不安動揺を引きおこそうと,悪意をこめて躍起につとめているのです。(黙示 12:12)いま彼が攻撃している主要な対象物は,霊的なイスラエルの残れる者クリスチャンと,それにともなつている羊のような「大いなる群衆」です。(黙示 12:17)サタンは彼らの間に不安,動揺,そして分裂を生ぜしめようとあらんかぎりのことを行なつています。それは制度を打ちくだくのが狙いです。
3 サタンはどんな差別を設けることによつて,世界を混乱させましたか。しかし,古いむかし神は御自分の会衆内でこのことをどのように除去しましたか。
3 それで,生命を愛する人が探し求めてきた平和を神の見える制度内に見出したならば,その平和をしつかり追い求めて行かねばなりません。この世では,サタン悪魔は人種差別,種族の差別,そして皮膚の色による差別によつて平和を撹乱し,大変な混乱をひきおこしています。しかし,神はキリストによつて,御自身の真のクリスチャン会衆内では,このことを除去しました。クリスチャン会衆は,昔のエルサレムでほとんどユダヤ人だけのクリスチャン制度として出発しました。しかし,その中には,割礼を受けてユダヤ教に改宗していた他の国民の者も入つていました。(使行 2:10; 6:5)それから割礼を受けていたサマリヤ人は,信者に加えられました。(使行 8:4-25)イエス・キリストがエルサレム外の苦しみの杭上で死んでから3年半たつて始めて,割礼を受けていない異邦人,つまり非ユダヤ人がクリスチャン会衆に入れられました。コルネリオという名前のイタリヤ人で,多数の親族や親しい友人たちもいつしよに入つたのです。―使行 10:1から11:2まで。
4 割礼を受けたユダヤ人のクリスチャンは,異邦人に対するこの恵みの取り極めに順応しましたが,神はどのようにそのことを可能にせしめられましたか。
4 最初,このことがらは割礼を受けていたユダヤ人クリスチャンたちの間に大きな動揺を生ぜしめました。しかし,時たつ中に彼らは恵みにみちる神のこの取り極めについて,平和な態度の中に順応しました。割礼を受けなかつた非ユダヤ人たちが,ついにクリスチャン会衆内に入れられることは,神により可能とされたのです。どのように? 神は,へがきの壁,分けへだての壁を取りのぞきました。すなわち,モーセを通して与えられた律法を取りのぞいたのです。この律法は,ユダヤ人を異邦人の世界から分けへだてていました。神は,御自身と人間とのあいだの仲立ちであるイエス・キリストにより,クリスチャンと新しい契約を設立しました。
5,6 会衆内では,いろいろの理由にもとづく差別があつてはならないと,パウロはエペソの会衆に宛ててどのように説明しましたか。
5 使徒パウロは,人種,種族,国家または皮膚の色というような理由でもつて,クリスチャン会衆内に分けへだてがあつてはならないわけを説明しました。彼はエペソの会衆に宛てて手紙を書き送りましたが,その会衆のなかにはかつてはヱホバから離れていた異邦人すなわちユダヤ人でない者も入つていたのです。
6 「前には遠く離れていたあなた方も,いまはキリスト・イエスと一致してキリストの血により近いものとなつた。実に彼は私たちの平和である。彼は二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし,隔ててしきる中垣を滅ぼされた。イエスは(苦しみの杭にかけられた)その肉により,憎しみ,すなわちかずかずの規定で成り立ついましめの律法を廃止された。それは御自身にあつて,二つの民(ユダヤ人と異邦人)をひとりの新しい人につくりあげて平和をつくり,その苦しみの杭を通して一つの体なる両方の民を神に十分和解させるためである。イエスは,御自身によつて憎しみを滅ぼされたからであつた。また,彼は来られて,遠く離れていたあなた方(異邦人)に,平和の良いたよりを伝え,近い者にも(ユダヤ人)平和を伝えられた。キリストによつて,私たち二つの民(ユダヤ人と異邦人)が一つの霊によつて父(ヱホバ神)に近づくからである」。―エペソ 2:11-18,新世。
7 ずつと以前の霊的イスラエルになされた調整から判断して,今日なぜ他の羊の大いなる群衆と霊的なイスラエルを分けへだてる基礎はないのですか。ハガイ書 2章6-9節は,このことをどのように示していますか。
7 苦しみの杭上におけるイエスの犠牲は,信者であるユダヤ人と,あらゆる国民から来た信者の異邦人たちを一致せしめる基礎です。「世の罪」のためにささげられた同じイエスの犠牲は,今日の霊的イスラエルの小さな残れる者と,あらゆる国民,種族,民族そして言語から来た地的な羊級で構成される「大いなる群衆」を一つにして一致させる基礎であることはたしかです。今日,ヱホバの正しい羊飼は他の羊を御自分の右に集めています。それで,他の羊の大いなる群衆と霊的なイスラエルのあいだに分けへだてはありません。「ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう」と正しい羊飼イエス・キリストは言われました。(ヨハネ 10:16。マタイ 25:31-40)正しい羊飼イエス・キリストのみちびく一つの群れの内にいるすべての者には,クリスチャン調和,一致,そして平和がなければなりません。「なぜなら彼は私たちの平和である」。ヱホバは次のように言われています,「この処においてわれ平康を与えん,と万軍のヱホバ言い給う」。(ハガイ 2:6-9)これは,全国民をふるつて,全国民の貴重なもの望ましいものを,御自分の崇拝の家に来らせる,というヱホバの御約束に関連して語られたのです。今日にいたるまでサタンとその悪鬼共は,この預言の成就をさまたげるのに失敗しました。
それを祈る
8 詩篇 122編6-8節に一致して,私たちは日々何を祈りますか。なぜイエスは,そのような状態でない会衆のかしらに,なり得ませんか。
8 制度の良さを真実に心から認識して神に栄光を帰するなら,私たちは神の民を一致,調和,そして静粛さの中に保つよう,平和の神に祈ります。私たちが毎日ささげる祈りの中に,詩篇記者ダビデの言葉を心にとめます,「エルサレムのために平安を祈れ,『エルサレムを愛する者は栄え,その城壁のうちに平安があり,もろもろの殿のうちに安全があるように』と。わが兄弟および友のために,私は『エルサレムのうちに安平があるように』と言う」。(詩 122:6-8,新口)その祈りにふさわしく,エルサレムという名前は「平和の保持」または「平和に設立される」という意味です。祭司メルキゼデクは,そのエルサレムの王でした。その称号は「平和の王」という意味です。御子イエス・キリストは永久にメルキゼデクの状に似た祭司 ― 王になるであろう,とヱホバ神は誓われました。栄光を受けた神の御子の名前の一つは,平和の君です。(創世 14:18-20。詩 110:1-4。ヘブル 6:20から7:21まで。イザヤ 9:6,7)そのような称号を持つ平和の君なる王イエス・キリストが,分裂と混乱になやまされ,党派に分れ,敵対とか派別にみちている会衆の霊的なかしらになど,どうして成り得るでしようか。キリスト教国は,今日そのような状態であり,今までもそうでした。イエス・キリストは,その霊的なかしらになりません。しかし,王であるイエス・キリストは,「自分のからだである会衆」内に平和を施行し,維持することができます。(エペソ 1:22,23,新世)イエスは,平和をみだす者たちを御使を用いて集めます。―マタイ 13:41。
9 (イ)パウロは,ピリピ書 4章6,7節で祈りが平和をもたらす力をどのように強調しましたか。(ロ)神の従順な僕たちは,テモテ前書 2章1-4節と一致する祈りを捧げ,いかなる政府の下にいようとも,何に参加しませんか。
9 真心をこめてささげる祈りには,平和をもたらす力があります。使徒パウロは,その力を明白に示すため,ピリピにいる愛するクリスチャン兄弟たちに次の言葉を書きおくりました,「何ごとも思いわずらつてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあつて守るであろう」。(ピリピ 4:6,7,新口)使徒はまた次のことをも心にとめていました,すなわち地上にいる真のクリスチャンたちは,ヱホバ神との平和を求めないこの世の政治支配者たちの下に生活せねばならぬ,ということです。この世の政治支配者たちの政府は,平和の君に正しく従う者たちの生活に影響します。それで,パウロはクリスチャン監督テモテにあてて,次のようなさとしの言葉を書きました,「そこで,まず第一にすすめる。すべての人のために,王たちと上に立つているすべての人々のために,願いと,祈と,とりなしと,感謝とをささげなさい。それは私たちが,安らかで静かな一生を,真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは,私たちの救主である神のみまえに良いことであり,また,みこころにかなうことである。神は,すべての人が救われて,真理を悟るにいたることを望んでおられる」。(テモテ前 2:1-4,新口)私たちの救い主であるヱホバ神に従順にしたがう僕たちは,そのように祈ります。そして,政治の要職や政府の要職についている人々に対する,反乱,革命,反抗,反逆,脱退,陰謀,またあらゆる種類の人気取りの行動や,平和撹乱,暴力行為に参加しません。どんな種類の政府の下にいようとも,たとえ禁止令の下にいようとも,ヱホバの忠実な証者たちは安らかで静かな一生をすごします。
10 「すべての人」と相和するようにつとめることは,会衆内の者たちに何を意味しますか。これは,何の実,何の知恵を証明しますか。
10 「すべての人と相和し,また自らきよくなるようにつとめなさい。きよくならなければ,だれも主を見ることはできない」とヘブル書 12章14節はすすめています。クリスチャンが会衆外の者と相和するようにつとめるというのであるなら,献身した兄弟たちである会衆内の者と相和するようつとめねばならないことは当然です。平和は神の御霊のむすぶ実の一部であることを忘れてはなりません。私たちは,十分の手入れを行なつて,その実を豊かにみのらせねばならないのです。(ガラテヤ 5:22)それは天的な知恵を持つていて行使することを証明するものです。なぜなら,「上からの知恵は,第一に清く,次に平和」だからです。(ヤコブ 3:17,新口)霊感を受けて書かれたシンゲンの言葉は,「悟りを得る人はさいわいである」と述べて,ヤコブの言葉と一致しています。なぜ? なぜなら,「その道は楽しい道であり,その道筋はみな平安である」。シンゲン 3:13-17,新口。
11 平和は会衆を一致させるものである,とパウロはどのように語っていますか。それで,誰は会衆内にいる資格の無いものですか。
11 たしかに,内部における争い,悶着,そして不一致というものがないのでヱホバの証者のクリスチャン会衆は一致しているのです。その証言として,パウロは次のように書いています,「これらいつさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全にむすぶ帯である。キリストの平和が,あなたがたの心(動機のあるところ)を支配するようにしなさい。あなた方が召されて一体(二つとかそれ以上の分裂した体ではない)となつたのは,このため(平和のため)である」。(コロサイ 3:14,15,新口)私たちが平和を絶えず追い求めるなら,平和は神の御霊を持つ者たちを一致させるきずなとなります。パウロは次のように語つています,「あなた方が召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもつて互に忍び合い,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守りつづけるようにつとめなさい。(キリストの下にある)からだは一つ,御霊も一つである」。(エペソ 4:1-4,新口)意識的に,また悪意をもつて平和をみだす者は,平和の神のクリスチャン会衆内にいるものとしてのふさわしい歩きをしていません。―ロマ 16:17,18。
神権的な取り極めの影響
12 (イ)神の御国が誕生したからといつて,どんなことに耽けつても良い,というわけではありませんか。(ロ)生命と平和を楽しむために,私たちは何を心がけるべきですか。そしてなぜ?
12 1914年以来,私たちが神の御国の下に生活しているということは明白です。神の御国は,その年に天で誕生しました。神を愛する者,そして生命を愛する者の中にあつて,このことは大きなよろこびをもたらす原因です。しかし,貪欲な気持のうちに無節制にも,物質主義的な気持に駆られて食べたり,飲んだりしても良い,ということではありません。そのようなことをするなら,他の者たちをつまづかせて霊的にだめにしてしまうでしよう。長く待ちのぞんだ神の御国の恩恵を楽しむ,ということは,過度に食べたり飲んだりして感覚をにぶくさせることよりも一段と高いことを意味します。パウロは,次のように語つています,「神の国は飲食ではなく,義と,平和と,聖霊におけるよろこびとである。こういうわけで,平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか。食物のことで,神のみわざを破壊してはならない」。(ロマ 14:17,19,20,新口)利己的な肉について思いめぐらすことは,クリスチャンの求めるべきことではありません。しかし,神の御霊の実をむすぶことこそ,クリスチャンの求めるべきことです。もし私たちが生命を愛し,神の御国の下にある良い日を愛するなら,次のいましめの言葉に注意を払います,「肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである。なぜなら,肉の思いは神に敵する(友好関係のないこと)からである。すなわち,それは神の律法に従わず,否,従い得ないのである。また,肉にある者は,神を喜ばせることができない」。(ロマ 8:6-8,新口)それで,霊のことを思いなさい。神と平和になりなさい。
13 神の御国が1914年に力を取つたことは,その民の会衆にとつて何を意味しましたか。いつこのことは,彼らにとつて真実となり,イザヤ書 60章17節を成就しましたか。
13 1914年に神の御国が天で力を取つたことは,御国の民の地上の会衆内にあつて,今までよりも引きしめられた行動を意味します。むかし,イスラエルに人間の王がいなかつたとき,各イスラエルは人自分たちの目に正しいと思われることをするのがならわしでした。しかし,神が彼らの要求に答えて,人間の王を与えたとき,個人的に自由勝手な行いをすることは許されなくなりました。全くヱホバ神が前もつて警告した通りになつたのです。(シシ 21:25。サムエル前 8:9-18)このように引き締められた行動は,ヱホバの現代の証者たちについても真実のことになりました。すなわち,災をもたらした第一次世界大戦後の1919年に彼らは再組織して,神権的な取り極めや機構を建て始めたのです。それは,1938年の「ものもの塔」誌が,聖書のイザヤ書 60章17節(新口)にもとづく「制度」と題する二部に分れた記事を出版して後,特に真実となりました。その聖句はこうです,「私は青銅の代りに黄金を携え,くろがねの代り,しろがねを携え,木の代りに青銅を,石の代りに鉄を携えてきて,あなた(神の象徴的な首都または制度)のまつりごとを平和にし,あなたのつかさびとを正しくする」。
14 神権的な秩序を設立したことの結果は,どのような改善になりましたか。それで,生命を愛するすべての者は,忠節の気持ちの中に何を支持して維持しなければなりませんか。
14 この預言の中に約束されているごとく,1938年以来この地上にいるヱホバの証者のあいだに神権的な運営が始められたことは改善を意味しました。その結果は,目ざましい改善でした。大きな平和が得られました。それは制度内に平和を保つ助けになりました。それは全地におけるヱホバの証者の運営と行いの仕方を統一せしめました。現在,ヱホバの証者は,神の御国のよろこびのたよりを175の国々で伝道して,マタイ伝 24章14節を成就しています。それは,全地にまたがる制度から,不同,混乱,不平等,そして不秩序を取りさりました。それは神の妻のごとき制度に対する神の愛にみちる約束の成就を援助するものでした。「またなんじの子らはみなヱホバに教えをうけ,なんじの子らの安きは大いならん」。(イザヤ 54:13)それですから,生命を愛するすべての者は,平和を誠実な気持の中に追い求め,そして,制度の神権的な取り極めを忠節に支持して維持するでしよう。
15 この運営は,コリント前書 14章26,29-33節の中でパウロが述べているごとく,会衆の集会にもどのように適用しますか。
15 神権的に神の規則にしたがつて制度を運営することは,クリスチャン会衆の集会を司会すること,およびそのような集会に出席する者たちに対するプログラムについても適用します。神権的な統治体の一員であつたパウロは,無秩序な集会を禁ずる言葉を語りました。すなわち,良いつながりのない集会,プログラムが円滑に運営されない集会,つまり発言や行動が何の統一もなしになされて,説明や理解の与えられないような集会について,パウロはそれを禁じました。彼は次のように語つています,「すべては徳を高めるためにすべきである。預言をする者の場合にも,ふたりか三人かが語り,ほかの者はそれを吟味すべきである。しかし,席にいる他の者が啓示を受けた場合には,初めの者は黙るがよい。あなた方は,みんなが学びみんながすすめを受けるために,ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ,預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく,平和の神である」。―コリント前 14:26,29-33,新口。
16 平和を追い求める際に,私たちは何を守るべきであると,ダビデおよびペテロは強調しましたか。そして,どのように?
16 会衆の一致,調和,そして静けさを保つために,私たちは特に舌と唇を守らねばなりません。詩篇記者ダビデも,さいわいを見ようとして,いのちを慕い,ながらえることを好む人はだれか,とたずねたすぐ後に「あなたの舌をおさえて悪を言わせず,あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな」と言いませんでしたか。(詩 34:13,新口)そうです。そして,使徒ペテロはクリスチャン兄第たちに助言の言葉を告げた後に,そのダビデの言葉を引用しませんでしたか。彼は次のように語つています,「悪をもつて悪に報いず,悪口をもつて悪口に報いず,かえつて祝福をもつて報いなさい。あなた方が召されたのは,祝福を受けつぐためなのである」。(ペテロ前 3:9,新口)たしかに,舌とくちびるによつて,私たちは悪をもつて悪に報いることができます。舌とくちびるによつて,私たちは悪口を言う者に悪口を言い返すことができます。しかし,舌とくちびるによつて,私たちは,自分に悪をする者や悪口を言う者に祝福を与えることができます。祝福を与えることは,良い結果をもたらします。それは,怒りを取りのぞく温和な答です。(シンゲン 15:1)祝福を与える者は,すくなくとも霊的な益を受けます。害の言葉を語る話し手,または悪口を告げる者にはならないでしよう。それは制度内に平和を生ぜしめます。それですから,平和を追い求めるとき,当然私たちは舌を押えて悪を言わず,くちびるを押えてあざむきを告げてはなりません。私たちは,そしり,陰口,そして悪口を語つてはならないのです。
17 これに対する最善のまもりはなんですか。なぜ,平和の追求の意味は,このことと反対ではありませんか。
17 これに対するいちばん良いまもりは,神の御国についての貴重な真理を教えて,伝道することです。私たちの集会所内だけでするのみでなく,公にもまた家から家にも行うことです。間ちがつてはいけません。敬虔な平和は,無活動,不注意な安易さ,怠惰を意味するものではありません。平和の神は,御自分の組織化した民,すなわち地上の証者たちに,大きな仕事を与えました。それは,ヱホバ神とその統治している御子イエス・キリストについて全地にわたつて,証しを立てるわざです。それは,諸国民がハルマゲドンで全くほろびる前に,全国民に対してなされねばなりません。
18 (イ)このわざを行うに当つて,あらゆるところから来たヱホバの証者は,どんな肝要な事実を認めますか。(ロ)それで,彼らはイエスのどんないましめに従いますか。それは,平和と兄弟愛についてのどんな預言を成就するものですか。
18 この仕事は,あらゆる国籍,種族,人種,皮膚の色,そして言語から来ている献身した証者により成されねばならないのです。自然に生じた外面的な相違のために,互いどうし戦つたり,争論したりしながら,このわざを一致して行うことはできません。彼らは平和のうちに協力しなければならないのです。神の与えた証言のわざを調和のうちに全地にわたつて行うには,彼らのうちに国際的の平和,人種的の平和,会衆内の平和が必要です。ヱホバの証者は,この肝要な事実を認めます。それで,彼らはヱホバの長なる証者イエス・キリストのいましめに従います,「互に和らぎなさい」。(マルコ 9:50,新口)彼らは,その行いと努力を,イザヤ書 2章1-4節に述べられている美しい預言的なまぼろしと一致させます。そのまぼろしは,国際的な平和と兄弟愛のうちに,ヱホバ神に一致した崇拝をささげるまぼろしです。それで,彼らの証言のわざは繁栄します。―ヤコブ 3:18。
19 (イ)彼はどんな戦争に対して武具を身につけていますか。そしてどのように?(ロ)家から家のわざにおいて,彼らは誰を探しますか。しかし,誰のところから去りますか。
19 彼らが御国の音信をたずさえてどこに行こうとも,神の正義の新しい世を飾る永久の平和を促進します。彼らは霊的な戦いをするために武具をつけているのであつて,肉と血を持つ者に対する流血の戦争に対しては武具をつけません。それで,彼らは使徒パウロの述べた通りの武具を身につけます,「平和の福音の備えを足にはけ」(エペソ 6:11-15,新口)彼らは,家から家のわざをする際に,神と平和の友になる人々を探し求めます。イエス・キリストは,このことをせよと彼らに告げて,次のように語りました,「どこかの家にはいつたら,まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば,あなたがたの祈る平和はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかつたら,それはあなた方の上に帰つてくるであろう」。(ルカ 10:5,6。マタイ 10:12,13,新口)もし家の人が平和の敵であるなら,彼らはその家を去ります。彼らはヱホバの敵と宗教的な争論をしません。
20 宗教的な迫害を受けながらも,なぜ彼らはよろこびつづけますか。彼らは平和についてどんなたしかな希望を持ちますか。
20 それにもかかわらず,彼らはたくさんの宗教的な迫害を受けます。しかし,彼らはよろこびつづけます,「和平をはかる者には,よろこびあり」。(シンゲン 12:20)彼らは,自分たちに不当な苦しみをくわえる者たちが,ハルマゲドンで滅ぼされるという神の約束を知つています。(テサロニケ後 1:6-10)彼らは次のようなたしかな希望で力づけられ,慰めをうけています。すなわち彼らが平和をつづけて追い求めて行くことは,ハルマゲドンの後に正しい裁き主,ヱホバ神の約束する新しい世で,十分に報われるということです。「神は,おのおのに,そのわざにしたがつて報いられる。すなわち,一方では,耐え忍んで善を行なつて,光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に,永遠のいのちが与えられ,他方では,党派心をいだき,真理に従わないで不義に従う人に,怒りとはげしい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には……患難と苦悩とが与えられ,善を行うすべての人には……光栄とほまれと平安とが与えられる」。―ロマ 2:6-10,新口。
21 霊感を受けたどんな質問に対する答として,私たち各人は,自分がなんであると示したいと欲しますか。それで,私たちは何を追い求めますか。
21 「さいわいを見ようとして,いのちを慕いながらえることを好む人はだれか」という神からの霊感をうけた質問にたいして,私たち各人はいま「私です」と答えることができますか。もしできるなら,ヱホバ神の道に従い,平和を求めて,それを追い求めましよう。
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