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    ものみの塔 1964 | 2月1日
    • その時届けられた雑誌の中に再約をすゝめる通知がはいっていました。小さな再約用紙を手にした時彼女は非常にうれしい気持になりました。協会が自分にも関心を示していてくれると思ったからです。その時以来彼女は,以前に増して毎号の「ものみの塔」にのせられる記事の価値を認めるようになりました。そしてとくに「正しい交りは生命に導く」という記事には心を動かされました。でも,孤立した島にいる彼女がどうしたらエホバの証者とまじわれるでしょうか。しかし彼女は問題の答を得ました。主人がギレアデ学校に招かれ,その1年間の留守の間,私のところに来て一緒に住みませんか,という手紙が,沖縄の巡回の僕の妻から届いたからです。彼女は喜んでそれを受け入れました。沖縄の那覇に来て,最初の月には自分の新しい仕事を探しましたが,その間に42時間伝道し,96冊の雑誌を配布し,二つの家庭聖書研究を始めて,自分が司会するようになりました。彼女が見出した仕事では,月に2回の休みしかとれませんでしたが,神権的な活動のために,毎週日曜日に休みたいという事を話したところ,雇い主は快く認めてくれ,そのうえ,予期以上の手当を約束してくれました。彼女は沖縄で開かれた巡回大会で浸礼を受けました。巡回の僕の妻も,主人が不在の間良く働き,はじめの半年のうちに,彼女が聖書研究をした人のうち8人が新たに献身してバプテスマを受けました。

  • 「サタンの座がある」ペルガモ
    ものみの塔 1964 | 2月1日
    • 「サタンの座がある」ペルガモ

      聖書の黙示録の初めには,小アジアの七つの会衆に宛てられた七つの手紙がのせられています。そのうち,使徒ヨハネがペルガモの会衆に宛てて記した言葉に,次の1節があります。「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは。わたしの名を堅く持ちつづけ,わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ,わたしに対する信仰を捨てなかった」― 黙示 2:13,新口。

      では,ペルガモの町はどこにありましたか。どんな歴史を残していますか。この町の特徴はなんでしたか。「サタンの座がある」,「サタンの住んでいる」と言われているのはなぜですか。

      ヨハネが手紙を書いた七つの会衆は,みな,当時ローマ領アジアと呼ばれたところ,今日のトルコの西部にありました。ペルガモは,スミルナの北約80キロ,エーゲ海辺から24キロ以内のところに位置し,七つの都市の中では,最北かつ最西にありました。今日では,回教都市ベルガマが,古代ペルガモの遺跡のすぐ南にあります。

      ペルガモの町の主要部は,カイコス川の二つの支流にはさまれた険しい丘の上にありました。この丘は中腹から急に斜角を強め,頂の最高部は300メートルもあり,南側を除けばいずれの斜面も容易には接近できぬ要害をなしていました。それゆえこの地がペルガモ(ペルガモン,ペルガモス)と名付けられたのももっともです。なぜなら,この名は「塔」あるいは「とりで」の意を持つ語根から来ているからであり,ドイツ語「ブルク」も同じ語根から派生しています。

      丘に立てば周囲を一望のうちに見渡され,とりでとするにも都とするにも理想的な場所でした。それゆえ,かのアレキサンダー大王が東方遠征の途に立つにあたり,女バルシンとその子,すなわち非嫡出子ヘラクレスの身の安全をはかって,二人をペルガモにおくった事にも相当の理由があり,その何年か後,すなわちアレキサンダー亡きあと,その帝国を分けあった将軍の一人リシマコスが,9000タレント,時価になおして,36億円に上る資産の保管地として,ペルガモを選んだのも不思議ではありません。1

      その歴史

      ペルガモの歴史はそれほど古くありません。小アジアの諸都市の中ではむしろ新参の一つに数えられます。考古学者がこの地で発掘した古器物はせいぜい紀元前8世紀のものです。2 ペルガモが初めて記録にあらわれるのは紀元前399年の事ですが,それは,クセノフォンと共に退却したかの「1万人」の傭兵の残り6000人がこの町を占領した事件を伝えるものです。その後50年間,この地はペルシャの一太守が支配するところとなり,その後太守が独立を宣し,その独立はアレキサンダーの時まで続きました。アレキサンダーの死後,紀元前301年以来ここは将軍リシマコスの配下にはいりました。3

      リシマコスは,ペルガモに残した財宝を,信頼する副官の一人,宦官フィレタエロスの管理に委ねました。このフィレタエロスがいかにしてペルガモとその周辺地域を支配するに至ったかについては諸説がありますが,ここでは次の諸点にとどめておきましょう。彼は波乱の時代に乗ずると共に,手元に委ねられた資金を利用し,内事外事を巧みに切りぬけて敏腕の支配者なる事を示しました。彼はアタリッズ王朝の創始となり,後に続く支配形態の範を残しました。彼の支配はペルガモ興隆の始まりです。

      フィレタエロスの支配が20年間続いたのち,そのおいが後を継いで同じく20年支配し,さらにその後,紀元前241年,アタルス1世があとを継ぎました。彼はその莫大な富のゆえに世に知られましたが,とくに,侵入して来たゴール人を撃退し,ペルガモをゴール人に対する貢納から解放して勇名をはせました。彼が自らを王と称したのはこの後の事です。紀元前197年,彼の死と共に,その子ユメネス2世が王位につき,その支配下にあってペルガモは東方世界有数の強国となり,権勢,領土,繁栄,学芸などいずれの分野においても絶頂をきわめました。それとともに,諸宗教のメッカとなった事も上げて良いでしょう。紀元前159年,自分の子供がまだ幼かったユメネス2世は,王国を弟アタルス2世にのこして死にました。アタルス2世は,「兄弟の愛する者」という意味の「フィラデルファス」という名をとりました。4

      紀元前138年,フィラデルファス,すなはちアタルス2世が死に,ユメネス2世の子が王位につきました。これがアタルス3世ですが,彼は133年(紀元前)自国ペルガモをローマに寄進するとの遺言を残して死にました。なぜ彼がそのような遺志を持ったのか,また,なぜわずか5年の彼の支配時代にいくたの流血があったのかについては,史家の意見にも相違があります。自ら「フィロメーター」(母の愛する者)と称したほど大切にしていた自分の母親の急死とそれに重なった妻の急死に対する疑念が,彼を駆って,手当り次第の殺人の饗宴に酔わせたという者もありますし,あるいは,母の殺害を彼の罪悪の一つに数える者もあります。また,ペルガモをローマに寄進した事については,これこそもっとも妥当な措置であり,ローマはその種の政策を推進していたと述べる史家もあり,また,狂人の行為とする以外に解釈のすべはないとする史家もあります。彼の私生児の一人が後にローマに抵抗を試み,しばし成功を見ましたが,数年ならずして失敗に帰し,紀元前130年ペルガモはローマの属領となりました。4

      ペルガモとその支配者の性格

      こうしてペルガモの独立は150年続きましたが,その王朝内の支配者交代の仕方は周辺諸国の場合と著しい対照をなしています。当時一般に見られたような,互の死を図るといった事はなく,むしろ互に対する家族愛が特徴となっています。このような逸話もあります。ユメネス2世は旅の途中で刺客に襲われ,一時意識を失いました。ユメネス2世が殺されたとの知らせは各地に及び,ローマにも伝わりました。これを聞いた彼の弟は,国事をうけつぎ,ユメネス2世の妻を自分の妻に迎えました。ところがユメネス2世は意識を取り戻し,ペルガモへの帰路につきました。これを聞いた弟は,ただちに王衣をぬぎ,兄を迎えに出ました。弟と自分の妻を見たユメネス2世は,二人を抱きかかえ,

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