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神の目的とエホバの証者(その33)ものみの塔 1962 | 3月1日
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英国の中立主義者は発言
英国でも兄弟たちは第二次世界大戦の嵐を乗切る準備をし,中立の道をかたく守りました。戦争の始まったときエホバの証者は英国中でニュースの種になっていました。なぜなら,1939年10月30日に発行された白書(ドイツ第2番)の記事「ドイツ内でうけるドイツ国民の待遇」がひろく配布されて論議されたからです。この白書は,1939年9月3日に宣戦が布告された時までベルリンに駐在していた英国大使ネビル・ヘンダーソンの集めた報告を基礎につくられたものです。その中には,ドイツにおけるエホバの証者の経験も含まれていました。次にあげるのは,この白書からの引用文です。
1500名のユダヤ人と800名のエルンステ・ビベルフォシェル〔万国聖書研究生〕がいた。……各人はバッジをつけていた。ユダヤ人はダビデの星のついた黄色いバッジ,聖書研究生は紫色のバッジ,その他である……ユダヤ人の捕虜は月に2回手紙を書き,手紙を受けることができた。聖書研究生には「外部との通信がすこしも許されていなかったが,彼らに対する食物の配給は切りつめられなかった。X氏は彼らに対して最大の尊敬を払うと語っていた。彼らの勇気と宗教上の信仰はすばらしいものであった。そして,神により命ぜられたことなら,最後の死にいたるまでよろこんで苦しむと語った。
……「ビベルフォシェル」は,聖書の教理にもとづく宗派で,国内のいたるところに数多くの成員がいる。しかし,軍役を拒絶するため,ゲシュタポに逮捕されている。これらの不幸な人々は,ユダヤ人と同じ虐待を受けた。f
1939年11月15日協会のロンドン事務所は,次の声明文を国会議員,宗教指導者,地方の役人および新聞社に宛てて出しました。
エホバの証者はどこに住んでいても,国家の法律と習慣に従い,神とすべての善意者に仕えようとします。もし人間が聖書に反することを命ずるなら,あるいは全能の神だけに属する崇拝を人間にささげよと命ずるなら,彼らはそのような命令に従いません。現在の出来事に対するエホバの証者の立場を明白に示すため「ものみの塔」から再出版されたパンフレットを同封します。同時に,このパンフレットは,あらゆるときに彼らが中立を保つ理由,および彼らが軍務に参加するのを拒絶する理由を明白に示します。
英国にいる幾千人というエホバの証者のために,私たちはこの立場を明白にしたいと思います。最高の神のしもべである私たちの立場は,ドイツの兄弟たちの立場と同じです。すなわちかたい中立という立場です。私たちの献身,奉仕,および忠節は,エホバの神権政府にささげられています。そして,ヨハネ伝 17章16節は,「我の世のものならぬ如く,彼らも世のものならず」と述べています。ここに,「政府と平和」という出版物をも同封します。お読み下さるようお願いします。
この声明文は,ドイツのエホバの証者が軍役につかないために迫害を受けていると述べた英国政府の白書にも言及しました。英国内で公けに表わされたこの大胆な立場の結果,干渉を受けぬ神権的な奉仕の基礎が置かれました。当局と一般国民は,エホバの証者が平和主義者でないと知りました。また,エホバの証者が英国内に問題をひきおこしている多数の平和主義運動とすこしの関係もないことを知りました。カトリック系の新聞だけがエホバの証者に反対して,英国内のエホバの証者は暴動をたくらむ者と言いふらしました。
ナチスが空襲をくり返し行なったため,英国の兄弟たちはつらい経験をたくさんしました。支部のしもべは,次のような報告をしています。
敵の火の下で伝道する
1発の焼夷弾は,クレーベン・テラス,中央ロンドン御国会館の屋根をつき抜いて,内部で燃え出した。火災警備にあたっていたベテルの兄弟たちは,その火をすぐに消し止めた。同じ夜,火災爆弾7発がベテルの家と事務所のある協会の敷地内に落ちた。悪鬼共はロンドンのベテルを目標にしたらしい。3ヵ月間に29発の高性能の爆弾が協会事務所から数百米の範囲内に落ちた。至近弾は,道ひとつへだてた30ヤードはなれたところに落ちたのである。ロンドン市の被害記録に記載された最大の爆弾のひとつは,ベテルのうしろ70ヤードはなれたところに落ちた。事務所は2度も猛火に包まれそうになった。ベテルのうしろ15フィートまでの建物は全焼してしまったのである。ベテルの家は,地震のときのように何度も何度も揺れた。恐怖と死につつまれた夜は幾晩もつづいた。家族の成負はそのことを決して忘れないであろう。しかし,こうしたことにもかかわらず,ロンドンと英国内における「不思議なわざ」は,かつてないほどに進歩し,真実の避難所を求めた幾千人という人々に希望,慰め,および慰安をもたらした。g
この恐ろしい空襲をもふくむ「英国の戦争」において,英国にいた1万2000名以上の証者のうち12名の証者が生命を失いました。多数の証者たちはけがをしました。また,ナチスの空襲のため家や御国会館は焼失しました。しかし,エホバの真の崇拝はつづけて行なわれ,家から家の伝道はつづけられました。会衆の集会は,夜の空襲による危険を避けるため,日曜日の午後に行なわれました。しかし,集会は定期的に司会されました。この戦争の年月中,エホバの証者は大規模な伝道の運動をしたので,幾千人という正直な心を持つ英国人に多くの希望と慰めをもたらすことができました。
大会は,あたかも戦争がなかったかのように予定どおり行なわれました。ある大会は空襲中でも行なわれました。マンチェスター市の大きなフリートレード・ホールは,夜の空襲で破壊されました。エホバの証者がそのホールを借りて1940年の国際大会を行なった直後でした。しかし,最も驚くべきことは,1941年9月3日から7日までライセスターで行なわれた大会でした。この5日間の神権的な大会に約1万2000名の証者たちが集まりましたが,戦時中のむずかしい時にその大会が開かれたことは,実になみなみならぬ努力が必要でした。いろいろの勢力はエホバの証者に好意を示さなかったため,食事,宿舎および交通の面で,そのような大群衆の集会に大へんむずかしく,大きな妨害を克服することが必要でした。1941年8月6日-10日,アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス大会でなされたジャッジ・ルサフォードの主要な講演は,レコードに録音されてロンドンに飛行便で送られました。検閲者たちはその入国を許可し,この英国の大会にちょうど間に合いました。この大会によって,英国の兄弟たちは霊的にぐんと強められました。そして,戦争中のむずかしい状態下にあってもエホバの証者が一致と愛の協力を持つことを示しました。h
ブルックリンからの文書の輸入は禁止されたので,英国の兄弟たちは出版物を野外に補給しつづけるため,国内で大規模な印刷の仕事をしました。大ぜいの活発な開拓者たちは,幾千人という人々に奉仕していたのです。後日,英国の講読者のための「ものみの塔」誌の輸入も禁ぜられました。しかし研究用の記事は禁ぜられなかったので地方的に印刷されました。それで毎週1度の「ものみの塔」研究集会は,妨害なしに行なわれました。
英国では男性も女性もみな徴兵制度に編入されました。多数の判事は兄弟たちに軍役免除を拒絶しました。それで1593の判決があり,刑期の合計は6世紀を越えるものでした。刑の宣告を受けた者の中334名は婦人でした。彼らは戦争の義務を命ずる国家の指示に従わなかったため兄弟たちと共々に刑務所に入れられたのです。英国で開拓者奉仕をした証者たちは,ポーランド,ドイツ,オーストリア,ベルギーおよびフランスから避難してきた人々でした。彼らは戦争の始まる前に英国に来ました。しかし,戦争が激烈になるにつれて政府は戦争のつづく期間中,彼らをマン島の収容所に収容しました。エホバの証者であったアメリカ人とスイスに国籍をもつ者は,国外に追放されました。
それで,英国のエホバの証者はむずかしい制限を受け,戦争のために活動が限定されましたが,中立の立場をしっかり保ち,神への忠実を守りました。エホバを自由に崇拝するための戦いは,英国で弱まりませんでした。むしろ,世界の他の場所と同じように,その戦いをつづけて行きました。
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「彼らは一致の中に伝道する」ものみの塔 1962 | 3月1日
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「彼らは一致の中に伝道する」
― 1962年のエホバの証者の年鑑より ―
フィリピン
人口: 27,473,000人
伝道者最高数: 35,713人
比率: 769人に1人
拡張された事務所と宿舎の新築,印刷を始めたこと,御国宣教学校の設置はフィリピンの神権的な歴史の中でも画期的な出来事でした。主の豊かな恵みに対する感謝は深まっています。この気持ちを表わした典型的なものとして次のような手紙が兄弟たちから送られてきました。「私たち一人一人は貧しく新しい建物の建築資金を用立てることはできませんが,会衆として何かしたいと思います。それで融資のかわりに私たちの寄付を受け取って下さい」。
次の経験は忍耐の価値をよく示しています。「私が真理を学んでからというもの,夫は大そう怒り,エホバの証者にだけはならないでほしいと告げました。ある晩,私と子供たちを殺そうと夫はピストルを手にして部屋にはいってきたのです。私はエホバに祈り,祈りは答えられました。夫は何もしなかったのです。それから私は朝も昼も晩も祈るようになりました。できるとき,そして夫を怒らせずにすむとき,私は何時も平和な新しい世と約束されている祝福のことを語りました。私の祈りながらの行いは少しずつ夫の心をやわらげ,激しい迫害のあとで夫の憎しみは消え去ったのです。夫は理解を示し,勉強するようになって遂には水の浸礼により献身を表わしました。今日,私の家庭は喜びにあふれており,エホバによって今までになく密接に結び合わされていることを二人で共に喜んでいます」。
別の忍耐は異なった祝福をもたらしました。北部出身のある姉妹は必要の大きな所で奉仕するため,遠いボホールに行きました。この姉妹は間もなくホームシックになったので,それを聞いた両親は家に帰るように熱心にすすめましたが,姉妹は祈りつつ,任命地にとどまることを決心しました。6ヵ月たたないうちに,エホバはその忍耐を祝福して17人の伝道者を加えて下さいました。その中には警察署の署長,その妻と娘もいます。
ラジオ放送もよい成果をおさめ,兄弟たちの提供する番組「人々が考えていること」は良い評判を得ています。ある都市では毎週のこの番組に人気があるため,D級からA級の時間に移され,ある炭酸飲料の大会社がスポンサーの特権を買って出ました。
全島で行なわれている大きな証言のわざに,パンフレットも役割をはたしています。一人の特別開拓者から次の手紙を受け取りました。「学校の教師をしている夫婦の家で一銭も持たない女中さんにパンフレットを渡し,そのとき不在だった主人にも後で見せるようにと言っておきました。翌日,その家の前を偶然に通ったところ,女中さんから声をかけられ,主人が会いたいとのことでした。驚いたことにその夫婦は待ちかねていたように私たちを迎え入れ,『これらのパンフレットを読むやいなや真理を発見しました』と語りました。その言葉を聞いた時の喜びはとうてい言い表わすことができません。この手紙を書いているいま,二人は定期的に勉強し,よく進歩しています。」
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