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偽りの神々は古代のイスラエルをどのように魅惑したかものみの塔 1974 | 11月1日
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シャムラ・テキストの一つは,アナテが,父親に頼みを聞いてもらえなかったとき,次のように答えたと述べています。『わたしは必ずお前さんの脳天を砕き,お前さんの白髪を血まみれにし,お前さんのその白いあごひげを血糊で固めてやる』。彼女が流血行為を好んだことについてはこう書かれています。『彼女は多くの戦いをなしまた戦いを見守る。アナテは戦いのことを思いめぐらす。彼女の肝臓は笑いでふくれ,彼女の心臓は喜びで満ち,アナテの肝臓は狂喜する。それは彼女が騎士の血にひざまでつかり,英雄の血糊に腰まで浸るからである』。なんともむかむかするような光景ではありませんか。
エホバ神が,愛のある父親として,ご自分の民イスラエルを忌むべきバアル崇拝から守ることを望まれたのはよく理解できます。モーセを通して与えられたエホバの律法は,偶像崇拝を死に価する罪としていました。(申命 13:6-10)エホバ神はイスラエル人に,偽りの崇拝と関係のある物をことごとく破壊すること,また偶像崇拝者と姻せき関係を結ばないことをお命じになりました。(申命 7:2-5)またエホバは,『ほかの神々の名をとなえる』ことさえ,つまり崇拝的な考えをもって,あるいはそれらの神々が実在するものであるかのような印象を少しでも与える仕方で,その名を口にしてはならない,とイスラエル人に命令されました。―出エジプト 23:13。
しかしイスラエル人はそれに従わず,バアル,アシタロテ,そしてアシラの崇拝に魅惑されてしまいました。なぜでしょうか。
人を魅惑する理由
他のすべての偶像崇拝の形式がそうであったように,バアル崇拝も「肉の」業でした。(ガラテア 5:19-21)したがって,不完全な人間の罪深い性向に訴えるものがありました。イスラエル人も,偶像崇拝とそれに付随する肉の業の誘惑を免れはしませんでした。
約束の地に落ち着くとイスラエル人は,近辺のカナン人が,よい収穫を得るなどして,土地の耕作に全般的に成功しているのを見たことでしょう。イスラエル人は土を耕した経験があまりなかったので,あるイスラエル人が農耕のことについてカナン人に尋ねたとしてもさして不思議ではありません。カナン人にかんするかぎり,豊年を楽しむためには,バアルをなだめなければなりませんでした。もしそのイスラエル人が,あなたも地神のバアルをなだめるべきだという提案に難色を示したなら,カナン人は,そうしながら引き続きエホバを崇拝しても少しも差し支えありません,ただ,地神のバアルの存在も認めてバアルを喜ばせるというだけの問題です,といって隣人の恐れを静めたことでしょう。
カナン人がどんな点で成功していたにせよ,その真の原因が,経験と土地にかんする知識であったことに気づかないで,あるイスラエル人は自らそのわなとなるまでに物質欲をつのらせ,自分の耕作地から多くの収穫を得ることを望んで,畑にバアルの祭壇を築いたり,そのそばに聖なる石柱や聖なる柱を立てることを正当化しながらなお,『わたしはやはりエホバを崇拝している』と考えたかもしれません。
偽りの神々と関係を持つようになった別の原因は,エホバの崇拝者でない者との結婚でした。賢い王であったソロモンでさえ,偽りの神々や女神に仕えていた女たちと結婚したために真の崇拝からそれました。(列王上 11:1-8)ソロモンが,エホバの崇拝およびモリア山上の神殿での犠牲を完全にやめていたことを示すものはなにもありません。彼は妻たちを喜ばせるために一種の信仰合同を行なったようでした。しかしそれはエホバの不興を買いました。
偽りの崇拝と結びついていた性的放らつのわなにかかった人たちもいました。モアブの平野のシッテムで,何千というイスラエル人がこの誘惑に負けて偽りの崇拝に参加しました。聖書は次のように述べています。『その民モアブの婦女等と淫をおこなうことを始めたり その婦女等その神々に犠牲をささぐる時に民を招けば民は往て食うことをなしかつその神々を拝めり』― 民数 25:1,2。
それからまた,ごちそうをたくさん食べ,酒をたくさん飲むその祭りは,快楽を愛する者たちの興味を引きました。アモス書 2章8節には次のように書かれています。『彼らは質に取れる衣服を一切の壇の傍らに敷きてその上にふし 罰金をもて得たる酒をその神の家に飲む』。シケムで行なわれた祭りについては聖書はこう述べています。『民田野に出てぶどうを収穫れこれを践み絞りて祭礼をなし その神の社に入り食いかつ飲(めり)』― 士師 9:27。
また多くのイスラエル人は,(エホバに対して信仰がないのと罪悪感とで)将来について確信がなかったので,自分のために事がうまくいくというなんらかの保証を得ることを望んで,偽りの宗教に助けを求めました。そのよい例は,アハブとイゼベルの息子であったイスラエルの王アハジヤです。彼は事故に遭ってけがをしたので,回復するかどうかをエクロンの神バアルゼブブに問わせるために使者を遣わしました。―列王下 1:2,3。
留意すべき教訓
キリスト教世界で生じていることを考えるなら,イスラエルが偶像崇拝のわなに落ち入ったことは,それほど驚くべきことには思われないでしょう。今日,キリスト教世界では,教育のある人びとが占い師に尋ねたり,オカルトに手を出してみたり,お守りを身につけたりしています。世界のある場所では,病気を治してもらおうとして祈祷師のところへ行く人さえいます。そのようなことをしながら彼らは,昔の不忠節なイスラエル人と同じように,わたしたちは聖書の神に仕えている,と主張します。そのうえにキリスト教世界では,性の不道徳,食べ過ぎ,飲み過ぎ,不正直その他の肉の業が盛んに行なわれています。
この事態は,キリスト教世界の教会の無法な信者たちが,神の裁きの執行を免れないことを確実にしています。エホバ神は不忠実なイスラエルを容赦されませんでした。エホバは,変わることのない神ですから,再び次のような行動に出られるでしょう。『われ……巫術者にむかい 姦淫を行なう者にむかい 偽りの誓いをなせる者にむかい 雇い人の価金をかすめ やもめと孤子をしえたげ 異邦人を推しまげ 我を畏れざるものどもにむかいて速やかに証しをなさん』― マラキ 3:5,6。
ですから,神の是認を望む人びとはみな,偶像崇拝や他の罪深い肉の業のわなを避けることが急務です。もしそれがあなたの願いであるならば,肉の欲をいつまでも思いめぐらすようなことをしないで,神が罪としておられることに対し強い憎しみを培うようにしてください。そうすることによって,命取りとなるこの世の誘惑を逃れることができます。使徒ヨハネは次のように書いています。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:15-17。
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宗教的な像の有害な影響ものみの塔 1974 | 11月1日
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宗教的な像の有害な影響
● 北アメリカに住む一女性は,自分の母親に関する次の報告を寄せています。「母は夏の間じゅうほとんど病気でした。夫と訪問した時,母は次のように言いました。その前の晩,鈍い光の玉が部屋の中を漂っているのが見え,そうこうしているうちに,今度はベッドの掛け布団がはぎ取られて,子どもがわきにはい込んでくるように感じたとのことです。母は神経がまいっていました」。こうした奇妙なことがどうして起きたのでしょうか。
娘は家の中を調べて二つの宗教画を見つけました。それらの絵が母親の経験した苦しみと何か関係があるのでしょうか。像の崇拝と悪霊崇拝を聖書が関連づけていることを知ったこの家族は,何が起きるかを見定めるため,その絵を焼くことにしました。先の娘はこうことばを続けています。「その翌日に母がベッドから起きて,その夏じゅうで一番気持ち良さそうにしているのを見て,わたしたちはほんとうに喜びました」。同様の経験をした人は少なくありません。
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