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    ものみの塔 1975 | 3月15日
    • 無数の人々が犠牲になっても,そこなわれることなく立つ

      「千人はあなたのすぐ傍らに,万人はあなたの右に倒れる。あなたにはそれは近づかない」― 詩 91:7,新。

      1 エホバを強大な鳥に例えるに際し,詩篇作者は,モーセを通して言い表わされたような神の見地を有していたと言えるのはなぜですか。

      霊感を受けて詩篇 91篇を書いた人は,エホバ神を,強大な翼の鳥になぞらえたとき,神ご自身の見地を有していました。神は,イスラエルの民をシナイ山に連れて来られたあと,彼らに次のように語るようモーセに言われました。『なんじらはエジプト人に我がなしたるところの事を見 我がわしの翼をのべてなんじらを負いて我にいたらしめしを見たり』。(出エジプト 19:4)それから40年後に,神はモーセに霊感を与えて,イスラエルの前で歌わせました。「わしがその巣をかきたて,その巣立ちびなの上を舞いかけり,その翼を広げて彼らを乗せ,その翼端に負ってそれを運ぶように,エホバはただひとりで彼を導き続けられ,異国の神は彼と共にはいなかった」― 申命 32:11,12,新。

      2,3 (イ)啓示 12章の中の天の「女」に関連して,神と強大な鳥とがどのように比較されていますか。(ロ)それで,これから詩篇 91篇4節を読む際に,どんな鳥を念頭において読むことができますか。

      2 啓示 12章6,14節の預言的描写によると,神の天の「女」がメシアの王国を産んだあと,離れた所にいるために「荒野」に逃げなければならなかったとき,神は速く飛ぶための手段を彼女に与えられました。「大きな鷲の二つの翼が女に与えられた。荒野の中の自分の場所に飛んでゆくためであった。そこは,一時と二時と半時のあいだ彼女がへびの顔から離れて養われるところである」。エホバ神と,鳥類の王,天の君主,空の王者なる「大きな鷲」との,なんと見事な比較でしょう。

      3 それでわたしたちは,次に詩篇 91篇4節(新)に記されている霊感によることばを読む際に,この王者のような鳥を念頭に置いて読むことができます。「彼はその翼端であなたに近づくものを阻み,あなたは彼の翼の下に避難する。彼の真実は大盾,また堡塁である」。

      4 (イ)鳥の翼端とは何ですか。親鳥はそれで何をすることができますか。(ロ)だれがわたしたちに近づくのを,わたしたちの上に広げられた神の「翼端」は阻みますか。

      4 「翼端」とは,鳥の翼の末端の部分のことで,鳥はこの下にひなを覆い,自分のからだに近づけて彼らを保護します。このようにして鳥は,すべての猛禽をひなに近づかせないようにすることができます。わたしたちもまた,無力な巣立ちびなのように,保護を与える象徴的な鳥エホバ神の,広げられた翼端の下に隠れ,そこで霊的安全を享受することができます。詩篇作者ダビデがエホバに向かって述べたとおりです。「あなたのもとに避難する者はみな喜びを得ます。定めのない時まで彼らは喜びの叫びを上げます。そしてあなたは彼らに近づくものを阻み,あなたのみ名を愛する者はあなたにあって歓喜します」。(詩 5篇:表題,1,11,新)わたしたちに霊的な害を加えようとする者たちは,わたしたちに近づくのを阻まれるので,それができません。彼らはわたしたちを神の組織から奪い去ることはできません。大いなる「鳥を捕える者」悪魔サタンは近寄ることができません。

      5 サタンの組織から安全な唯一の避難所はどこですか。このことは,ルツの場合にどのように美しく述べられていますか。

      5 危険にさらされているひなのように,わたしたちには全能の神のところ以外に,安全を求めて逃れる場所はありません。「あなたは彼の翼の下に避難する」。(詩 91:4,新)神の組織とサタンの組織の二つの組織しかない以上,サタンの組織から安全なこの避難所を見つけるには,霊的に安全な神の組織に連れて来られることが必要です。このことは,モアブ人の女ルツの場合に,なんと美しく示されているのでしょう。ルツは,モアブの偽りの神々を捨て,やもめとなっていたしゅうとめナオミと共にイスラエルに行きました。後日ルツの夫になったボアズはそのことをほめて彼女に言いました。『ねがわくはエホバなんじの行為に報いたまえねがわくはイスラエルの神エホバすなわちなんじがその翼の下に身を寄せんとてきたれる者なんじに十分の報施をたまわんことを』。(ルツ 2:12)エホバは,彼女への報いとしてルツをボアズの妻に選ばれ,イエス・キリストの先祖のひとりとならせました。―マタイ 1:5-25。

      6 エホバの崇拝者たちは,エホバの「翼」の下に霊的安全を見いだすと同時に,だれの「翼」の下にもそれを見いだしますか。

      6 イエス・キリストご自身も,鳥とそのひなを引き合いに出して,メシアとしてのイエスを退けたエルサレムに対し,次のように言われました。「わたしは幾たびあなたの子どもたちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるがごとくに。しかし,あなたがたはそれを望みませんでした」。(マタイ 23:37)エレミヤ哀歌(4:20)は,エホバの油そそがれた者,すなわちメシアのことを,『我らが鼻の気息たる者エホバにあぶらそそがれたるもの……われらが異邦にありてもこの蔭に住まんとおもいたりし者なり』と語っています。ですから今日,霊的イスラエル人とその地上の仲間たちは,エホバの「翼」の下に避難すると同時に,めんどりの翼の下にいるひよこのように,エホバのメシア,主イエス・キリストのもとに隠れているのです。霊的安全を求めてそこに逃れる彼らの期待が裏切られることはありません。

      霊的害に対する恐れからの自由がある理由

      7,8 エホバのどんな特質は,わたしたちにとって大盾のようですか。それはエホバをどのように特徴づけますか。

      7 詩篇作者は,霊的安全を守るための保護についてさらに説明するため,今度は鳥の世界から戦争の世界に目を向けます。至高の神にさらに言及して,詩篇作者はことばを加えます。「彼の真実は大盾,また堡塁である」― 詩 91:4,新。

      8 神の真実は神の愛のこもった親切と結びついています。(詩 40:10,11; 57:3; 61:7; 86:15)神を崇拝し,神に信頼する者たちに対して誠実でなければならない責任がご自分にあることを,神は認められます。これこそ神の位を特徴づけるものです。(箴 20:28)神は常にわたしたちに対する約束を守られます。エホバというその名にたがわず,わたしたちのためにご自分がなる必要のあるものになられます。神のこの特質が,わたしたちの霊的保護となるのです。わたしたちにとってそれは大盾のようであり,神はわたしたちにとって盾を持つ者のようになられます。神の真実は,わたしたちのために行なわれる忠実で,忠節な行動により実証されます。このようにしてそれはわたしたちを保護します。

      9 エホバの真実はどのように「大盾」の働きをしますか。わたしたちの側について言えば,それに何が伴わねばなりませんか。

      9 神の真実というこの盾は,大敵対者の射る燃える矢,つまり火矢を防ぎ,敵の剣の襲撃をかわし,突き出される剣の勢いを弱めます。わたしたちは保護となる神の真実に頼ることができます。わたしたちはそれに頼り,それに信仰を持たねばなりません。それはわたしたちの信仰に伴うものです。信仰も,神がわたしたちに与えてくださる『完全にそろったよろい』のなかの「大盾」のようであるべきです。(エフェソス 6:11-16)盾のような「彼の」(神の)真実に対するわたしたちの信仰は,恐れからわたしたちを自由にします。―創世 15:1。詩 84:11。

      10 堡塁とは,戦時のどんな設備のことですか。神の真実は,わたしたちにとってどのように堡塁に似ていますか。

      10 堡塁は盾よりもずっと大きな防御物です。戦争における堡塁は,固守すべき地点の周囲に築かれる土塁です。それは,地の上を進軍する敵に対して,「そこまでは来てもよい。そこを越えてはならない」と言います。エホバの真実はそのようなものです。エホバの真実は,大いなるへびである悪魔サタンが,神の天の「女」の「裔」の残りの者に対して戦いをしかける時,と啓示の中で説明されている今の時代に極めて必要です。神の真実という堡塁の陰に隠れて,わたしたちはしっかりと立つことができ,わたしたちの霊の敵の突撃や攻撃を撃退することができます。この神の堡塁は攻略することも,乗り越えることもできないものです。ですからわたしたちはその陰に隠れていましょう。神は,その真実と忠節と忠実に従い,この霊的戦いの日に,わたしたちを見捨てるようなことはされません。神の「堡塁」は,わたしたちの勝利を確実なものにします。

      11 どんな命令の精神が,詩篇 91篇5,6節で詩篇作者が論理的に述べていることの動機となっていますか。

      11 詩篇作者は,次のように論理的にことばを続けますから,彼の動機を成すものは,「恐れてはいけない」,という神の命令の精神です。「あなたは,夜のどんな恐ろしいものも恐れることはない。昼に飛び来る矢も,また暗がりを歩く疫病も,真昼に奪い取る破滅も」― 詩 91:5,6,新。

      12 何が夜の暗さを一層恐ろしいものにしますか。エホバが夜,夜の恐ろしいものに対する恐怖を取り除かれることについて述べなさい。

      12 危険地区の中や,危険な時には,夜の暗さは人を一層恐ろしい気持ちにさせます。というのは,暗やみの中では,ひそんでいる敵や有害物を見ることができないからです。しかし,わたしたちは,地上の国家群が,道徳上の暗やみと厚い霊的なやみに包まれている時代にいますが,エホバは,ご自分の民を守る者として,まどろむことも寝入ることもありません。(イザヤ 60:2。詩 121:4)ですからエホバは,ご自分の敵が,暗やみにまぎれて行なうように,ひそかに行なおうとする悪事を見逃されることは決してありません。敵がわたしたちの霊性を損い破壊しようとして用いる,人目につかない恐ろしい事柄や恐怖をいだかせる事柄も恐れるに足りません。わたしたちは強い確信をもって,詩篇 64篇1,2節のダビデのことばを取り上げることができます。『神よわがなげくときわが声をききたまえ わが命をまもりて仇のおそれより脱かれしめたまへ ねがわくは汝われをかくして悪をなすものの陰かなる謀略よりまぬかれしめ 不義をおこなうものの喧嘩よりまぬかれしめたまへ』― 詩 64:1,2。

      13 恐れを感じないとは言え,わたしたちは神に信頼しながら何をしなければなりませんか。

      13 敵がひそかに話し合ってたくらんだ恐ろしい事柄が突如実行に移されても,彼らの目的が達成されないことは確かです。しかしわたしたちは,隠れたところから来るそのような事柄を恐れないとはいえ,神の真実に信頼しつづけながら,警戒を怠らないようにしなければなりません。

      14 わたしたちが,「昼に飛び来る矢」を恐れないのはなぜですか。

      14 しかしながら,脅かすものを見ることができる昼にも危険があります。わたしたちはそうしたものを予期し,そうしたものに気づいても,恐怖に腰を抜かすべきではありません。この霊的戦いの時代に,「あなたは,夜のどんな恐ろしいものも恐れることはない。昼に飛び来る矢も」。(詩 91:5,新)なぜですか。なぜなら,わたしたちは,飛び来る敵の矢を無力にしてしまう,エホバの真実,忠節,忠実という「大盾」の陰にいるからです。昼は,矢のねらいを正確につけることができる時です。

      15 昼に飛び来る「矢」とは何ですか。射手とはどんな人たちのことですか。

      15 わたしたちにしかけられる霊的戦いにおけるこれらの「矢」は,ことばによる不当な攻撃,まちがった非難,偽りの宣伝,悪意のある中傷,はなはだしく偽り伝えること,暴力による威嚇,法廷における法律の悪用,そうです,法律によって危害をたくらむこと,罪のない者を『定めによって苦しめることをたくらむ』ことです。(詩 94:20)油そそがれたダビデは,詩篇 64篇3節から5節〔新〕で,敵の射手を次のように描写しています。『かれらは剣のごとくおのが舌をとぎ その弓をはり矢をつがえるごとく苦言をはなち 隠れたるところにて全き者を射んとす にわかにこれを射ておそるることなし またたがいにあしきくわだてをはげまし共にはかりてひそかにわなをもうく かくていう誰か〔彼ら[わな]〕を見んと』。

      16 敵の射るそのような「矢」にもかかわらず,エホバの証人たちは,エホバの「大盾」の陰でどのように過ごしましたか。

      16 1919年以来,そのようなひゆ的な「矢」がすべて,エホバのクリスチャン証人めがけて昼に飛んで来ているにもかかわらず,彼らは生ける真の神を崇拝することも,神のメシアの王国の良いたよりを世界じゅうに宣べ伝えることも,やめませんでした。それは,エホバが,現在エホバの組織に属する者たちに言われたとおりです。『すべてなんじを攻めんとてつくられしうつわものは利あることなし 興起ちてなんじとあらそい訴うる舌はなんじに罪せらるべし』。(イザヤ 54:17)エホバの証人は,敵の「矢」を恐れることなく,エホバの「大盾」の陰でわざを続行してきました。そして敵の射手は偽り伝える者であることを明らかにされたのに反し,エホバの崇拝者たちは正しさを立証され,霊的に生きつづけています。

      17,18 「暗がりを歩く疫病」の発生源は何ですか。とくにだれのためのものですか。そしてそれはどんな人々の間で,また何によっていやされることを阻まれていますか。

      17 詩篇作者は再び暗やみと光を,そしてそれぞれに伴う危険を対照させ,こう言います。「あなたは……恐れることはない。……暗がりを歩く疫病も,真昼に奪い取る破滅も」― 詩 91:5,6,新。

      18 ここで言われている疫病は,3節の疫病と同じく,エホバがご自分の地上の敵の上に,あるいはエホバに不従順な者たちの上に送られる疫病ではありません。それは,道徳的に,宗教的に病んでいる世界のその暗がりの中で発生する,この世の疫病です。これは,この世的な人々のみならず,とりわけエホバの崇拝者を感染させ,卑しくさせるためのものです。それは,破滅の差し迫った夜の時にあるこの世の道徳,社会,政治,宗教の「暗がり」に出没します。そして世の人々は,「その翼にいやす力」を持つ「義の太陽」が,直す力を持つその光が,疫病のはびこるその暗がりを消散させることを阻むのです。(マラキ 4:2,新)なおまた,コリント第二 4章4節では,「この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」と述べられています。

      19,20 ここで言われている「疫病」は何ですか。何がそのまんえんを助けていますか。

      19 その結果生ずる暗がりは,そのひゆ的な「疫病」のまんえんには好適です。暗がりの恐ろしさに加えて,この疫病はやみの中,すなわち真の神とそのご性質,またその目的と愛のこもった備えについて,人々の思いと心がくらまされるような状況の存在するときに襲います。そのような状況のもとでは,その疫病は,感染した人々の思いと心を,致命的な病気にかかったような状態にします。(テモテ第一 6:4)したがって,そのひゆ的な「疫病」が,人間の代理者を通して,エフェソス 6章12節が「このやみの世の支配者たち……天の場所にある邪悪な霊の勢力」と呼んでいるものから来る,悪霊の息のかかった道徳や宗教の教義であることは明らかです。

      20 霊的に病気であるそれら悪霊の使いたちが,彼らの不健康な教えを自称クリスチャンたちの間に巧みに浸透させるということは,使徒パウロがテモテに書き送っています。「のちの時代にある者たちが信仰から離れ去り,人を惑わす霊感のことばや悪霊の教えに気を奪われるようにな(る)……それは,偽りを語(る)……者たちの偽善によるもので(す)」― テモテ第一 4:1,2。

      21 暗がりで伝染するこの「疫病」はどれほど広く広がっていますか。

      21 預言にたがわず,聖書に反する人間製の言い伝えを含め,悪霊の息のかかった道徳と宗教の教義のこの疫病は,異教世界の境を越えてキリスト教世界全体に広がりました。ですからキリスト教世界の教会に通う人々はそれに感染し,宗教の面で病気の状態になって,自らの救いを危うくしています。しかし神は,疫病を発生させる「暗がり」に対してわたしたちを啓発してくださいました。

      22 「真昼に奪い取る破滅」については,何のように解釈するのが適当ですか。

      22 しかし,真のクリスチャンが神の「真実」という「大盾」の陰にいて恐れることがない,「真昼に奪い取る破滅」はどうでしょうか。真昼,すなわち晴天の日の最も明るい時は,夜の暗がりの正反対です。(ヨブ 11:17)それでも,この「真昼」の明るさと暖かさに伴う『奪い取ること』,すなわち「破滅」があります。これは,「昼に飛び来る矢」と似ています。ここの「破滅」は,目に見えるもの,あるいは有形のものとして描かれてはいませんが,それにもかかわらず真昼に襲う略奪者たちのように奪い取ります。(エレミヤ 6:4; 15:8; 20:16)それは,多くの犠牲者を打ち倒し,その命を奪う,伝染性の強い疫病のような苦悩の種であると解釈するのが適当でしょう。

      23 ここの「真昼」は何を意味しますか。真昼の間に「奪い取る破滅」とは何ですか。

      23 ここの「真昼」は,この世的な意味で言われています。その明るい光は,この世の頭脳時代,核時代,宇宙時代のいわゆる「啓発された状態」のことです。その教義と宣伝は,人間の知性の行使を誇るものであり,物質主義的です。そのような教義を吹き込まれる人は霊的に破滅します。なぜならそれは,神のことば,神の崇拝,神のメシアの王国に反しているからです。ですからそれは疫病に似た影響を及ぼし,多数の人は,「誤って『知識』ととなえられているものによる反対論」のために混乱してしまい,信仰を失います。(テモテ第一 6:20,21)犠牲者は最後に,にがにがしい気持ちや失望感,ざせつ感を味わいます。今日の世界は,人間の知性を偏重したために,そのにがい実を食べています。明るく輝く科学者や,政治,教育,社会関係の学者たちは,この世的な社会の上に『暑さ』を増し加えてきたに過ぎません。彼らは神を認めないその教義によって,現代社会がその中に住む,知的,道徳的環境を汚染してきました。

      24 「真昼に奪い取る破滅」が特に暴露されたのはいつでしたか。それと対照的にどんな霊的啓発が与えられるようになりましたか。

      24 霊的な意味で致命傷を与える「真昼に奪い取る破滅」は特に,啓示 16章8,9節に述べられている「第四の災厄」によって暴露されました。この「災厄」の鉢は,1925年に,その夏開かれたエホバの証人のインディアナポリス(インディアナ州)大会で,人間の知性偏重という「太陽」の上に注がれ始めました。その同じ年に,啓示 12章1節から13節の預言的な描写に基づき,神の王国の誕生,サタンとその配下の悪霊たちが天から追放されたことなどが説明されました。このようにしてエホバの崇拝者たちは,命を与える霊的啓発を受け始めました。それは,「破滅」によって彼らの真昼に霊的命を奪われた人々の,現代主義的な,この世的に賢く啓発された状態とは対照的でした。

      迫る危険のただなかで霊的に生き残る

      25,26 「あなたのすぐ傍らに例れる」「千人」とはだれですか。彼らはどういう意味で倒れますか。なぜですか。

      25 「至高者のもとなる隠れた所」,「まさに全能者の影のもと」にいる者たちは,前述のような霊的命を脅かすものを恐れません。一つの級としての彼らに語りかけられた次のことばの中で,詩篇作者はいまや信仰を鼓舞する次のような保証を与えます。「千人はあなたのすぐ傍らに,万人はあなたの右に倒れる。あなたにはそれは近づかない」― 詩 91:7,新。

      26 エホバ神の献身した崇拝者たちの「すぐ傍ら」にいると言われている人々は,聖書の神を崇拝すると公言するキリスト教世界の人々とユダヤ民族でしょう。彼らは,エホバのもとにある霊的に安全な所にいないために「倒れ」霊的な意味で死にます。したがって彼らは,詩篇作者が描写している,霊的に致命傷を与えるもの,すなわち地の夜の恐ろしいもの,昼に飛び来る矢,暗がりで伝染する疫病,「真昼に奪い取る破滅」などにさらされています。彼らは神を本当に彼らの強力な「避難所」としてきませんでした。

      27 「あなたの右」に倒れる「万人」はだれですか。

      27 千人に一人という比較では小さすぎるかのように,詩篇作者は,「万人はあなたの右に」倒れると言います。全能の神の場合と同じく,「右」は,強いほうの手と側を表わします。(詩 98:1)ですから,より大きな宗教的力を持つがゆえに,わたしたちがより強い霊的抵抗をしなければならなかった人々も,犠牲になります。なぜなら,彼らは,この世的な考え,現代思想,反宗教宣伝,流行の神学,悪霊の息のかかった宗教教義や儀式に染まるからです。彼らは,神の霊の助けによって免疫性を与えられた状態にありません。

      28 油そそがれた残りの者の右側に万人が倒れたわけですが,それはどのように全く事実となりましたか。そして神は,残りの者の友としてだれを起こされましたか。

      28 今日,報告されている,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者の数は一万人前後ですが,これと,宗教の大いなるバビロンの幾億もの会員とを比較するなら,神の「女」の「裔」のこの残りの者の右に万人が倒れていることは,まったく事実であることがわかります。(啓示 12:17)しかしエホバ神は,この残りの者の右側に倒れて霊的に死んだ幾万もの人々の代わりに,りっぱな羊飼いイエス・キリストを通してエホバ神に自分の命をささげた羊のような信者の「大群衆」を起こされました。(啓示 7:9-17。ヨハネ 10:16。マタイ 25:31-46)エホバが彼らを残りの者の仲間として,1935年以来起こして来られたことは注目に価します。今日では彼らの数は多数に上り,そのために神の王国を宣べ伝えるエホバのクリスチャン証人の数はいまやほとんど200万に達しています。

      29 この世のいろいろなところから来る,破壊的な,信仰を損うものは,だれには近づきませんでしたか。しかしだれには近づきましたか。

      29 霊的に倒れた人々には,この世のいろいろなところから来る破壊的な,信仰を損うものが近づきました。しかし神のもとにある霊的に安全な所に立っている人々には,「あなたにはそれに近づかない」。戦後の年西暦1919年以来,残りの者は,偉大な医師エホバ神が与えてくださる霊的いやしを受け入れてきました。(詩 103:1-3)しかし,キリスト教世界はそうではありません。イザヤ書 6章9節から12節,マタイ 13章14,15節に予告されていたとおりです。その結果,キリスト教世界の10億を越える会員は,この病める世界の,霊的な意味で破壊的な影響と圧力に屈しました。しかし神は,ご自身の残りの者と彼らのクリスチャンの仲間である「大群衆」を,免疫にさせられました。神は,彼らのいる霊的に免疫の所に,この世の病毒が近づくことを許されません。彼らは,神のもとなる「隠れた所」に従順にとどまるので安全に守られ,健康です。

      30,31 (イ)「至高者のもとなる隠れた所」にいる人々は,だれが時を得た報いを受けるのをながめ,また見ていますか。(ロ)そのような人々にはどのように,またなぜ報いが臨みますか。

      30 「至高者のもとなる隠れた所」に多年実際に住まって来た,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者は,そして最近では彼らの仲間の証人である「大群衆」は,霊感を受けた詩篇作者が次に述べることの真実さを見てきました。「あなたはただ自分の目でながめ,邪悪な者たちの報いを見るだけである」― 詩 91:8,新。

      31 ここで,至高の神が,ご自身の「隠れた所」にいる者たちと,「邪悪な」者,すなわち外にいる者,この邪悪な世の一部となっている者とを同じに見ておられないのは明らかです。滅びに定められているこの事物の体制が終わりに向かっている現在特に,この邪悪な世のならわしを楽しんできた人々は,その報いとして自分の行ないの実を食べています。政治,経済,道徳,社会,宗教などに関する問題が増加するにつれ,当然の報いがこの世的な人々の上に臨みつつあります。彼らは自分がまいたように,また刈り取っています。いわゆる「新しい道徳」,つまり「性の革命」に対して非常に寛大になった現代社会は,性欲倒錯者たちを,「彼らの誤りに対して当然なもの」である「十分な返報を身に受け」ることに免疫性を与えることはできません。―ローマ 1:27。ルカ 21:25,26。

      32 「大患難」の前にすでに,「隠れた所」にいる人々は,だれの間の結果的なちがいを見ていますか。

      32 この世的に賢い人々は,自分自身の企ての犠牲になりつつあります。神のことばの知恵を退けてサタンの悪だくみに身をさらした人々は,「滅びゆく者たちに対するあらゆる不義」のかもになりました。「真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです」。(テサロニケ第二 2:9,10)エホバの保護を受けている者たちは,「大患難」の近づく前にすでに,その目でながめ,「正しい者と邪悪な者,神に仕える者と仕えなかった者との」結果的な違いを見ています。―マラキ 3:18,新。

  • 霊的に安全であることから得られる益と報い
    ものみの塔 1975 | 3月15日
    • 霊的に安全であることから得られる益と報い

      1 漂流する世界のさまざまな危険に対して安全な人々はだれですか。

      人類の物質的,身体的安全は崩壊しつつありますが,霊的安全は,漂流するこの世界の道徳的,社会的,政治的,宗教的危険に対する守りとなっています。霊的に安全な人々とは,神の聖言の中に述べられている霊的な事柄を自分の生活の中で第一にする人々です。彼らは,他の必要物はすべて神が世話をしてくださることを知っています。

      2,3 残りの者と「大群衆」は実際にどのようにエホバを彼らの「避難所」としましたか。

      2 生活の中で神を支配的な地位に置くことにつき,霊感を受けた詩篇 91篇の作者は,次のように述べてわたしたちに安心感を与えてくれます。「『エホバはわたしの避難所です』と言ったので,あなたはまさに至高者を自分の住みかとしたのである。災いはあなたに臨まず,災厄さえあなたの天幕に近づくことはない」― 詩 91:9,10,新。

      3 この至高の神を「自分の住みか」とするとは,なんとすばらしい考えでしょう。それは,エホバに対して,「あなたはわたしの避難所です」と言うだけでなく,至高の神を実際に,わたしたちが安全を求めるすばらしい所とすることの結果です。神の霊的イスラエルの油そそがれた残りの者は,特に1925年以来,エホバが自分たちの避難所であることを恐れることなく公に言い表わしてきました。エホバを神として崇拝することに加わった,最近登場した「大群衆」は,残りの者に倣ってエホバを自分たちの避難所,したがって自分たちの「住みか」とし,そのことを言い表わしてきました。

      4 この二つのグループは,どんな顕著な問題のために一致して行動してきましたか。

      4 この二つのグループは一致して,至高者エホバが宇宙主権者であることを宣べ伝えてきました。いま激しい論争の的となっている,全地に対する神の支配権と人間の支配権との間の問題においては,彼らはエホバの主権を支持してきました。神のみ子イエス・キリストの手中にある神のメシアの王国こそ,苦悩する人類に対する唯一の希望であることを,彼らは全世界に知らせつづけています。彼らは,すべての安全の唯一の源としてエホバのうちに住まっています。現在および将来に対する彼らの不変の関心事は,エホバにあって安全であることです。

      5 神を命の避難所とする者には臨まない災いとはどんなものですか。

      5 この邪悪な世にとって,災いは,政治や経済の問題において大きくなっているのみならず,道徳や社会や宗教の問題においてははるかに大きく有害なものとなりつつあります。しかし,唯一の生ける真の神エホバを自分の命の避難所としている人々には,『災いは臨みません』。つまり,詩篇 91篇の前のいくつかの節に述べられている災いは一つも臨まないということです。もとより,洪水,ハリケーン,地震,流行病,食糧不足などの大規模な天災,国際間また部族間の戦争や政治革命などによる荒廃は一般の人々と共に経験します。しかしそうしたものは,彼らの霊性を破壊したり,彼らの信仰や全能の神に対する信頼を弱めることはありません。地上で生ずるそのような災いからは,物質的にも身体的にも立ち直ることができます。

      6 霊的災いのほうがより深刻なのはなぜですか。それに悩まされるのはどんな人々ですか。

      6 しかし,霊的災いは別です。キリスト教世界とユダヤ民族の場合のように,それからの回復はありません。これらの宗教グループは,異教世界と同じように,霊的に繁栄していません。宗教面では病気にかかった不健全な状態を続けており,彼らの前途には,きたるべき「大患難」における破滅的災いがひかえています。(マタイ 24:21,22。啓示 7:14)エホバのもとに避難せず,エホバを住みかとしていない人々すべての前途には,災いがあります。

      7 (イ)都市のような世界を病菌で汚すひゆ的な「災厄」は何ですか。(ロ)天幕に住む外国人寄留者のようなわたしたちにとっては,どうすることが安全を得る道ですか。

      7 至高なる神に信頼してそのうちに住まう人々は,現在の事物の体制においては,都市の境の外の天幕の中に住む外国人寄留者として描かれています。(ペテロ第一 2:11。ヘブライ 11:8-10)一つの級としての彼らに対する神の約束は,「災厄さえ彼らに近づくことはない」というものです。(詩 91:10,新)都市に似た世界を今悩ましている霊的に有害な「災厄」のなかには,国家主義,熱狂的な愛国主義,進化論を事実として教えること,利己的な物質主義,麻薬の乱用,輸血熱,心霊術的行ない,現代的な「新しい性道徳」,神よりも快楽を愛すること,宗派主義,聖書の「高等批評」,科学という「聖牛」の崇拝,また政治的「野獣」の崇拝,戦後現われた野獣の「像」すなわち国際連盟の後継者である国際連合の崇拝などの伝染性の強いものがあります。(啓示 9:20,21; 13:1-18)エホバを自分の避難所とする人々は,天幕をこの世という「都市」から遠く離れた所に張っておくときにのみ,その多くの「災厄」に影響されないでいることができます。わたしたちはこの世のものではないのですから,近寄らないようにしましょう。―ヨハネ 17:14-16。ヘブライ 11:9,10とくらべてください。

      犠牲にならないための天使の保護

      8 わたしたちは単なる人間の導きよりもむしろ何が必要ですか。わたしたちはそれを得ることができますか。

      8 霊的な危険の多いこの世の中を歩き回るとき,わたしたちの道が神に喜ばれるものであるためには,人間の導き以上のものが必要です。その超人間的な導きが与えられることは約束されています。詩篇作者はさらにことばをつづけ,「彼は,あなたに関する命令をその使いたちに与え,すべての道であなたを守られるからである」と述べています。―詩 91:11,新。

      9 このことは,肉のイスラエルに対するどんな約束がなされ,イエスに対しどんな奉仕が行なわれ,イエスの子どものような追随者たちに関連してどんな保証が与えられたことを思い起こさせますか。

      9 この約束は,神が預言者モーセを通して肉のイスラエル国民に言われたことを思い起こさせます。『みよ我天の使いをつかわしてなんじに先だたせ途にてなんじを守らせ なんじをわが備えしところに導かしめん わが使いなんじにさきだちゆきてなんじを……導きいたらん』。(出エジプト 23:20,23; 32:34; 33:2)また,神のみ子イエス・キリストが,ユダヤの荒野の中でしかけられた,詩篇 91篇11,12節と関係のある誘惑を含む三つの誘惑を退けられた後にも,「悪魔は彼を離れた,見よ,み使いたちが来て彼に仕えはじめ」ました。(マタイ 4:1-11)イエスはご自分の子どものような追随者たちに関してこう言われました。「天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を見守っているのです」。(マタイ 18:10)これらの天の使いたちは今,霊的イスラエル人の残りの者とその忠節な仲間たちに関する命令を神から受けています。

      10 み使いたちの,『すべての道であなたを守る』任務は,どんな「道」にも当てはまりますか。

      10 この使いたちの,『すべての道であなたを守る』という任務は,エホバの崇拝者たちが歩む,啓示されているエホバのことばに調和した,したがってエホバの是認と導きのもとにある「道」を守ることにも当てはまります。エホバの使いたちは,それとは違う道 ― 利己的で自分勝手な道には,「残りの者」や彼らの仲間である「大群衆」と共に行きません。―マタイ 13:41,42。

      11 「事物の体制の終結」と中天を飛ぶみ使いについてのイエスの預言は,み使いがイエスの地上の追随者たちとかかわりを持つことをどのように示していますか。

      11 「[イエスの]臨在と事物の体制の終結のしるし」に関するイエスご自身の預言は,選ばれた霊的イスラエルの成員を集めるために,イエスがご自身の使いたちを遣わされることをはっきり予告しています。また,イエスが羊とやぎを分けるように諸国民を分けるために来られる時にも,み使いたちはイエスと共にいます。(マタイ 24:3,31; 25:31,32。啓示 7:1-8)聖書の巻末の本,すなわちイエスを通して使徒ヨハネに与えられた啓示は,この「事物の体制の終結」の間に,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者が地上で行なう活動に,天のみ使いたちが関係することをはっきりと示しています。たとえば,ヨハネが見た,地の全住民に宣べ伝える永遠の良いたよりを携えて中天を飛んだみ使いの幻の成就においては,地上でその仕事を行なうエホバの崇拝者たちのために,み使いの導きと保護のあることが示されています。(啓示 14:6,7)しかしそれだけではありません。

      12 啓示によると,当時の残りの者はいつ「最後の七つの災厄」をそそぎ始めましたか。彼らはみ使いの導きと保護を受けたにちがいありません。なぜそう言えますか。

      12 西暦1922年から1928年の間に,「最後の七つの災厄」が当時の油そそがれた「残りの者」を通してそそがれ始めたときにも,み使いの導きと保護があったに違いありません。啓示 15章から17章は,神の怒りの満ちた「鉢」もしくは「びん」を,天のみ使いたちが神の手から受けて携えており,またそれらの器を操作していたことを示していますから,それは必然的な結果でした。このようにして,奉仕という神の道を歩み続けることにより,エホバの崇拝者たちはみ使いの保護を確信します。―詩 34:7。ヘブライ 1:13,14。

      13 エホバの「道」を歩む人々の道筋に,サタンの地上の代理者たちは何を置きますか。このことについて詩篇 91篇12節はどう述べていますか。

      13 エホバ神の崇拝者としてわたしたちが歩む「道」は,悪魔サタンを「神」とし,名利を追うことを事とする,この事物の体制のまん中を通っています。(コリント第二 4:4)したがって,この偽りの神の地上の代理者たちが,エホバの崇拝者たちをつまずき倒れさせて破滅に至らせるように,わたしたちの道にひゆ的な石を置くことは予想されます。しかし,そのようなつまずきの原因と関連して,詩篇作者は,エホバのみ使いにつきさらに語り,こう述べます。「彼らはその手に載せてあなたを運び,あなたがどの石にも足を打ち当てることがないようにする」― 詩 91:12,新。

      14 西暦第1世紀においては,何が肉のイスラエル国民にとり「つまずく石」となりましたか。なぜですか。

      14 これは,わたしたちがそのような「石」の影響を受けないように,それらの天のみ使いたちがわたしたちを支持し,支えてくれることを意味します。西暦1世紀においては,背教したイスラエル人,すなわち『イスラエルの両の家』には,つまずいて霊的破滅に至らぬよう守ってくれる,そのようなみ使いの助けがありませんでした。彼らはエホバの真のメシア,イエス・キリストにつまずきました。彼らにとってイエス・キリストは,イザヤ書 8章14節に予告されていたように,『つまずく石』,「妨ぐる磐」でした。(ペテロ第一 2:7,8)メシアとしてのイエスを彼らが退けたことは,今日に至るまで,割礼あるユダヤ人たちに霊的な害を及ぼしています。しかしながら,これは詩篇 91篇12節で語られている「石」ではありません。

      15 詩篇 91篇12節の「石」はどのように異なっていますか。これはどのように説明できますか。

      15 この「石」は,エホバの大敵対者,悪魔サタンから来るあるものです。ですからもし人が,この「石」に相当するものを受け入れるなら,その人は神の恵みを失います。これは1世紀の,メシアという「石」などとは違います。その石は,もしユダヤ国民が受け入れていたなら,彼らに引き続き神の恵みを受けさせていたでしょう。しかし当時,国家主義的なユダヤ人は,神からのものでない偽のメシアに従いました。イエス・キリストは,わたしたちの時代をも展望して,ご自分の弟子たちに,この「事物の体制の終結」の時における偽のメシアもしくはキリストに注意するよう,警告されました。(マタイ 24:3,5,23-26)予告どおり,それら「偽キリスト」は,とくに個々の人間の形で出現したわけではありませんが,メシア的力を持つもののように考えられ,メシアが与えるような祝福がそれを通して来ると期待された,政治体制や経済体制の形で出現しました。たとえば,ニキタ・フルシチョフが,彼流のソ連共産主義は,人民のために楽園を確立すると約束した時などがそれです。また,1918年の12月に,アメリカのキリスト教会連邦会議が,国際連合を,「神の王国の地上における政治的顕現」としてたたえたことも,忘れることはできません。

      16 み使いたちに感謝すべきことに,エホバの証人が足を打ち当て倒れることのなかった,『多くの石』のうちの幾つかを挙げなさい。

      16 エホバの使いたちは忠実に『エホバの崇拝者たちを彼らの手に載せて運びました』から,彼らはその種の「どの石」にも足を打ち当てず,エホバの恵みを失うことはありませんでした。1939年の11月,世のすべての紛争に対してクリスチャンの中立を守ることを公にした時,このことは,彼らがすでに選んでいた,平時戦時を問わず徴兵を拒否するという道において,彼らを強化しました。第一次世界大戦後,ドイツ国民の千年にわたる神聖ローマ帝国の再建をめざすアドルフ・ヒトラーのごとき独裁者が政府内に台頭しました。しかしエホバのクリスチャン証人は,そのような独裁者たちを,エホバの真のメシアであるイエス・キリストの立場を占める者としかつそれに従うというようなことは決してしませんでした。至高の神の律法の至上性に関する試練の時には,キリストの使徒たちのことばを取り上げ,政治家,裁判官,警察官などに対し,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と言いました。(使徒 5:29)エホバの使いたちに感謝すべきことに,エホバの証人と,彼らが行なう神の王国の伝道とに対して下された禁令や禁止のような「石」にさえも,エホバの崇拝者たちはつまずいて倒れることはありませんでした。

      公然と行なわれる攻撃と,ひそかに行なわれる攻撃に対して安全

      17 ことばの種類について言えば,詩篇 91篇13節はルカ 10章19節とどのように似ていますか。

      17 西暦32年の終わりごろ,イエス・キリストは70人の弟子を,神のメシアの王国の福音宣明者として送り出されました。イエスは彼らに対して明らかに象徴的なことばで語られ,こう言われました。「ご覧なさい,わたしはあなたがたに,へびやさそりを踏み付け,敵のすべての力を制する権威を与えました。それで,何ものもあなたがたをそこなうことはありません」。(ルカ 10:19)同様に,詩篇作者は,象徴的な意味で,エホバをその住まいとした級に向かって言います。「あなたは若じしとコブラを踏み付け,たて髪のある若じしと大へびとを踏みつぶす」― 詩 91:13,新。

      18 「若じし」は,ひゆ的な意味で,どのように踏みつぶされましたか。

      18 若じしは,自分の姿を現わして,公然と正面から攻撃します。それと同じように,強い権力を持つ政治国家は,犠牲者を告発する立法処置を取りました。彼らは,エホバの証人に適用することを目標にした法律を公に通過させました。あるいは国家主義的な法律を彼らに適用しました。それにはどんな目的がありましたか。それは彼らを飲み込み,同化させ,神により上から下に支配されているエホバの証人の世界的な組織体から引き裂いて国家の宗教団体とし,宗教面で国家に従属させるためでした。忠節なエホバの証人は,そのような全体主義の,国家が管理する制度を拒否し神権支配を受けている者にふさわしく,神の支配にしっかりとつき従いました。

      19 「コブラ」は,ひゆ的な意味で,どのように踏みつぶされましたか。

      19 コブラは若じしとは違い,ひそかに,隠れた所から襲います。それは,ダンの部族が似ているとされた,『路のかたわらの蛇』,『馬のくびすをかむ』へびのように危険です。(創世 49:16,17)国教が権力を握っている国においてさえ,エホバの証人は,神の王国を戸別に宣べ伝える公のわざを行なう時に,計画的に犠牲者にされ,コブラの攻撃のような,有害な,思いもよらぬ攻撃を受けました。キリスト教世界の僧職者たちは,国家を,自分たちに代わって刑を執行してくれる者としてその背後に隠れ,政治家,法律制定者,警察当局者,裁判所の判事などを通して,エホバの証人たちをひそかに攻撃しました。(詩 94:20)しかしエホバの証人について言えば,彼らは不当な攻撃の毒に対する恐怖で腰を抜かすようなことはしませんでした。彼らは依然として法律を守り,穏やかな態度で裁判所に訴え,国家によって認められている権利宣言に訴えて彼らの憲法上の権利を主張しました。彼らは国の最高法廷にまで出て,信教の自由と神の王国を宣べ伝える権利とを法律によって確立しまた守るための,法律上の戦いを行ないました。(フィリピ 1:7,16)彼らの努力はしばしば勝利を収めました。

      20 聖書文書が発行禁止になったにもかかわらず,証人たちはどのようにして弟子を作りましたか。

      20 敵は,おおっぴらに正面攻撃を加えようと,ひそかに陰険な方法で攻撃を加えようと,至高の神の一路前進する証人たちによって踏み付けられてしまいました。文書の発行を禁止された時には,彼らは聖書だけを証言のわざに用いて,キリストの弟子を作る聖書に基づくわざを押し進めました。その結果,多くの弟子が生まれました。―マタイ 28:19,20。

      21 エホバの崇拝者たちはどのように,象徴的な「たて髪のある若じし」を踏み付けますか。

      21 詩篇作者は,「たて髪のある若じしと大へび」を踏みつぶすことを述べ,比較によって,ひゆ的表現の感動を高めます。たて髪のある若じしは,ただの若じしよりも年がたけており,どうもうな顔つきをしているはずです。そして大へびは巨大な爬虫類の動物のことでしょう。ギリシャ語七十人訳の詩篇はこれを「龍」と呼んでいます。しかし,たて髪のある象徴的な若じしが,公然と正面攻撃をするときに,いかに荘重な,いかにどうもうな顔つきをしていようと,エホバの崇拝者たちはこの危険な攻撃者を踏みつぶします。彼らは,ししのような人間や,ししのような人間製の組織よりも,至高の神を最高支配者として従い,歩みつづけます。ししのようなカエサルには,カエサルのものだけを納め,神のものは何ひとつ控えることなくすべて神に納めます。(使徒 5:29。マタイ 22:21)ですから彼らは,「しし」の危険な行動によって霊的に害されることはありません。

      22 エホバの崇拝者たちはどのように象徴的な「大へび」を踏みつぶしますか。

      22 龍のような「大へび」は,へびの「胤」の父,悪魔サタン,「初めからのへび」を思い起こさせます。(創世 3:15,新。啓示 12:9)詩篇作者はここで彼を,「海の怪物」としてではなく,陸の怪物,人間をぐるぐる巻いて締め殺し,それを飲み込むだけの長さのある,並はずれた大きさの爬虫類の動物として描いています。(エレミヤ 51:34)それでエホバの崇拝者たちは,悪魔サタンが,その怪物のような世界組織によって彼らをぐるぐる巻き,この世の圧力で締め殺し,彼の配下の悪霊の支配する組織に飲み込んでしまおうとしているのを認めたなら,彼らはこの「大へび」をふりほどき,踏みつぶしてしまいます。彼らはあらゆる形の心霊術を避け,それらに抵抗します。そのようにして,悪霊に思いや意志を巧みに支配されないようにします。(ルカ 10:17)キリストの共同相続者の油そそがれた残りの者は,まもなくサタンを彼らの足の下に砕いて,ローマ 16章20節の成就にあずかりたいと思うなら,まずこのことを行なわねばなりません。彼らはこの火のように赤い「龍」に対して今断固たる処置を取り,彼を常に足の下に踏み付けておかねばなりません。―ペテロ第一 5:8。

      神を愛し,神の名前を知る

      23 神は詩篇 91篇14節の中で,神性のゆえにエホバを愛する人々についてなんと言われていますか。

      23 人間は,創造者なる神を,ただその神性のゆえにのみ愛することができるのではない,と悪魔サタンは言います。しかし至高の神は,ご自分の地の被造物の真の愛をさえ認識されます。神がこの認識をどのように表わされるかを詩篇作者は示し,一つの級としての,ご自身の忠良なる崇拝者たちに関し,次のように話し語られたと書いています。「彼がわたしに愛情を傾けたがゆえに,わたしもまた彼のために逃れ道を備える。彼がわたしの名を知るようになったゆえに,わたしは彼を保護する」― 詩 91:14,新。

      24 それで,ただ霊的安全を得るためというよりもむしろどんなわけで神の崇拝者たちは神のもとに避難しましたか。

      24 生ける真の神の崇拝者たちは,神が愛の最高の典型であられるゆえに神に愛情を傾けてきました。彼らは自発的に心を神に寄せ,愛情を込めて神への忠誠を固守し,神から離れませんでした。彼らは神を愛するよう命令されています。しかし彼らは,神が先に彼らを愛し,ご自分の独り子イエス・キリストを通してその愛を表わされたがゆえに神を愛します。(申命 7:7; 10:15。マルコ 12:29,30。ヨハネ第一 4:19)ですから,彼らが神のもとに避難したのは,霊的安全を得るためばかりではありませんでした。

      25 エホバはご自身の崇拝者たちのために何から逃れる道を備えられましたか。将来はどうでしょうか。

      25 その彼らに対して全能者なる神は愛情をもってこたえ,彼らがこの世の宗教上のとりことならないよう,そうです,撲滅されてしまわないよう,ご自身の崇拝者たちに逃れ道を備えられました。その証拠に,神の真の崇拝者たちは,この極めて危険な時である今日にも存在しており,その数は増加しています。将来に臨む危急の時に逃れ道を備える神の能力は,依然として偉大なものです。

      26 「彼がわたしの名を知るようになったゆえに,わたしは彼を保護する」という神のことばの要点は何ですか。

      26 霊と真理とをもって至高の神を崇拝する人々が地の面から拭い去られることは,決してありません。さもなければ,至高の神のみ名は地から消し去られてしまうでしょう。これが,ご自身の崇拝者一同につき神が言われたことの要点です。「彼がわたしの名を知るようになったゆえに,わたしは彼を保護する」― 詩 91:14,新。

      27 1925年に,何に注意が集中され始めましたか。その結果,「ものみの塔」の1926年1月1日号にはどんな記事が掲載されましたか。

      27 西暦1925年以来,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者は,神が全世界でご自分の名をあげられる時が来たことを聖書が示しているのに注目しました。(エレミヤ 32:20。イザヤ 63:12)このことは,エホバという神の固有の名前に注意を集中させました。したがって翌年の初頭,「ものみの塔」誌の読者たちは,「だれがエホバを敬うか」という挑戦的な問いかけに直面しました。1926年1月1日号に掲載された主要記事の主題はこれだったからです。

      28 1928年,エホバの崇拝者たちは,エホバのみ名を「知るようになった」ことを示すために,デトロイトで開かれた国際聖書研究者協会の大会で何を行ないましたか。

      28 それから3年もたたないうちに,国際聖書研究者協会は,神のみ名を「知るようになった」ことを示して,1928年の夏にミシガン州のデトロイトで開かれた国際大会で,「サタンに反対し,エホバに賛成する宣言」を,大いなる歓呼をもって採択しました。この宣言は印刷されて,全世界に幾千万部も配布されました。その注目すべき年1928年には,野外奉仕を報告する聖書研究者が4万4,000人いて,その配布に携わりました。さらにその後,期待を上回る事柄が生じましたが,それはどんなことでしたか。

      29,30 (イ)神のみ名をさらに広く知らせるために,1939年に,「ものみの塔」誌の表紙の題銘はどうなりましたか。(ロ)エホバはそのみ名を上げられましたか。もしそうであれば,だれによって?

      29 1931年7月26日,日曜日午後,オハイオ州のコロンバスで開かれた国際聖書研究者協会の国際大会で,エホバの証人という新しい名称を用いることに賛成の決議が心をこめて採択されました。以後この決議は世界じゅうの会衆によって採択されたので,そのときから彼らの宗教組織は,エホバの証人であることが分かるようになりました。神のみ名をさらに広く宣伝するために,第二次世界大戦の勃発する幾か月か前の1939年3月1日,証人の機関誌は,「ものみの塔 エホバの王国を告げ知らせる」という新しい題銘を帯びて登場しました。そして1975年という危機の年にある現在,預言をされる至高の神はご自身の名を上げられただろうか,という質問がなされるのはもっともなことです。その答えは自明で,然り,です。ではだれによって? キリスト教世界やユダヤ民族によってではなく,エホバのクリスチャン証人によって神はそのみ名を上げられました。

      30 実際,エホバの崇拝者たちが「わたしの名を知るようになった」がゆえに彼らを保護するということは,ご自分の名前を守り,ご自分の名を「全地」に示すための手段を持つことを意味しました。―ローマ 9:17。出エジプト 9:16。

      31 彼らはだれの名によって歩むことを決意していますか。彼らはだれの名を呼んで助けを求めますか。

      31 これらエホバのクリスチャン証人たちの今の決意は,ミカ 4章5節(新)のそれと同じです。「すべての国々の民はおのおの,その神の名によって歩む。しかし,わたしたちは,定めのない時まで,永遠までも,わたしたちの神エホバのみ名によって歩む」。詩篇 91篇15節(新)の中でエホバが次に言われることばに心から信頼し,引き続きエホバのみ名を呼んで助けを求めます。「彼はわたしを呼び求め,わたしは彼に答える。苦難の時にわたしは彼と共にいる。わたしは彼を救い出し,彼に栄光を与える」。

      救出され,栄光を受ける

      32 エホバは,エホバを呼び求める者たちを,エホバの証人でないとして拒否していないことを,どのように示されますか。また将来そのことをどのように示されますか。

      32 世の敵意が増大するゆえに,また龍であるサタンが絶え間なく戦いをしかけてくるゆえに,エホバの崇拝者たちはすでに多くの苦難を通過してきました。しかしエホバは,そのみことばにたがわず,常に彼らと共におられ,エホバの証人としての彼らを拒否されたことはありませんでした。この邪悪な世界は終わり,完全に滅びるので,彼らの前途にはなお大きな苦難がひかえていますが,その時にもエホバはご自分の崇拝者たちと共におられ,そのことを奇跡的な方法で知らせられるでしょう。彼らが,すべての見える敵,見えない敵によって不名誉な滅びに追いやられるのを許すよりも,むしろエホバは言われます。「わたしは彼を救い出し,彼に栄光を与える」,あるいは,「誉れを与える」― 新英語聖書。

      33,34 救い出されたあと,エホバの崇拝者たちはエホバからどのように栄光を与えられますか。

      33 ここで約束されている栄光は,必ずしも,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者の成員が,統治しておられる王イエス・キリストと共に天で栄光を受けることを意味するものではありません。それはエホバのご予定の時に,約束されている「長き日」の後に生ずるでしょう。

      34 しかしすでにエホバは,ご自分の地上の崇拝者たちをすぐれた方法で幾度も救い出しておられます。それは彼らにとっては霊的栄光となり,エホバのみ名にとっては誉れとなりました。そのように神に救い出されたあと,彼らは,神の敵でもある彼らの敵に対して誇る特権を与えられました。彼らは今日に至るまで,エホバの証人として,また神の無敵のメシアの王国の宣明者としてさらに奉仕する栄誉を与えられています。もとより,きたるべき世の「大患難」と,ハルマゲドンの時の「全能者なる神の大いなる日の戦争」におけるその最高潮の間には,エホバの最も大いなる,最もすばらしい救いが彼らを訪れるでしょう。したがって,彼らはその世界を滅ぼす「大患難」に生き残り,その戦争の中の大戦争の勝利者の側の栄光にあずかります。そして神がこの地のために立てられる新秩序に入る栄誉を得ます。

      35 このようにして彼らは生きつづけて地上でどんな栄光を享受しますか。エホバの側の何が彼らにこのことを可能にしますか。

      35 このようにして彼らは生き続け,至高の神がご自身の宇宙主権の立証のために,またご自身のりっぱなみ名を神聖にするため戦って勝利を得られる時に救い出される者となる栄光を享受するでしょう。(啓示 16:14,16。エゼキエル 38:23。詩 83:18)至高の神が彼らを救われるので,このことは彼らに可能となります。エホバはこの非常に美しい詩を終えるに当たり,詩篇作者を通して言われます。「長き日をもって彼を満ち足らせ,わたしの救いを彼らに見させる」― 詩 91:16,新。

      36 残りの者はいつ,ハルマゲドンにおける神の「戦争」に生き残る見込みに目を開かれましたか。彼らは,地上での「長き日」にどの程度まで満足しますか。

      36 ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」に生き残り,この地上でエホバの義の新秩序に入るという見込みを,「神のイスラエル」の油そそがれた残りの者が霊的に理解し始めたのは,1928年の末からにすぎません。(「ものみの塔」誌〔英文〕の1928年12月15日号,376ページ,35,36節をごらんください)そして1975年の現在,依然この地上にいる幾千人かの油そそがれた残りの者は,その喜ばしい見込みが実現することを予期しています。彼らの羊のような仲間の,増加しつつある「大群衆」は,命を中断されることなくその新秩序に入ることを,残りの者と共に待望しています。新秩序においてエホバ神は,地上にいる油そそがれた残りの者の「長き日」を,その成員が十分に満足するまで増やされるでしょう。彼らが,地の死者の復活の開始を見,古代の,つまりキリスト以前の忠実な証人たちに会うまで,なおこの地上にとどまっているかどうかはまだ分かりません。地から取り去られてキリストと共に天の報いを受ける前にそうなれば,彼らは喜ぶでしょう。

      37 「大群衆」の成員は,どんな「長き日」に満足することが可能ですか。

      37 人類に対するキリストの千年統治が終わったあとの決定的な試験の時に,終始,宇宙主権者エホバに忠実を保つ「大群衆」の人々は,エホバの宇宙主権の支配下にある地の「楽しみの楽園」で永久に,終わることなく生きて,「長き日」に満足するでしょう。エホバを崇拝することには,なんと大きな報いがあるのでしょう。

      38 「秘められた所に住まう」人のだれかが,ハルマゲドンの神の戦争が終わりサタンが底知れぬ深みにつながれる前に忠実のうちに死ぬとしても,それはなぜ霊的安全の最重要なことを否定するものとならないでしょうか。

      38 ところでわたしたちは,エホバ神が与えてくださる霊的安全に対して感謝し,心からそれを望むでしょうか。エホバが,ご自身の忠実な崇拝者すべてのために用意しておられる輝かしい報いを得られるよう保護されることを望むなら,この種の安全は最重要なものではないでしょうか。『至高者のもとなる秘められた所に住まって』,エホバの設けられた霊的に安全な所に,信頼しつつとどまる人々はみな,エホバにより『わたしの救いを見させ』られるでしょう。(詩 91:16,新)もしハルマゲドンのエホバの「戦争」後新秩序が実際に始まる前,そしてサタンとその配下の悪霊が底知れぬ深みにつながれる前に,忠実に仕える日々が死によって短くされるとしても,このことは変わりません。(啓示 20:1-6)全能の神は,約束通り死者を復活させることにより,忠実のうちの死からやはり救い出すことができます。神の設けられた霊的に安全な所から離れる人は,神の是認を得てきたるべき「大患難」を通過し,神による救いを見ることは決してありません。

      39 わたしたちひとりびとりは,エホバにどんな喜びを持っていただくことを願うべきですか。どうすればエホバにそれを持っていただくことができますか。

      39 エホバは,ご自分がみ子イエス・キリストを通して救いをわたしたちに見させることに喜びを持たれます。わたしたちはひとりびとり,愛を込めて,エホバにこの喜びを持っていただくようにしたいものです。エホバがご自分の忠実な崇拝者たちのために備えられた,霊的に安全な「秘められた所」に,崇拝者にふさわしい態度でとどまることにより,わたしたちはそれを行なうことができます。―箴 21:31。啓示 7:9-17。

  • 純粋の愛はキリストの弟子を見分けるしるし
    ものみの塔 1975 | 3月15日
    • 純粋の愛はキリストの弟子を見分けるしるし

      イエス・キリストは,その追随者が互いどうし愛をいだくなら,他の人々はイエスの追随者をその弟子として見分けることができると言われました。(ヨハネ 13:35)このことは今日でも当てはまると考えなければなりません。確かにエホバのクリスチャン証人がそのような愛を互いに示し合っていることを自分の目で見て確信している人はどこでも増えています。

      なかには,エホバの証人とともに聖書研究をしているだけで,ある人々が態度や行動を変化させているのを見て驚いている人々もいます。1970年にアメリカのカリフォルニア州で徴役刑に服していたある男の人は次のように語りました。「刑務所での服役期間の始めごろ,わたしはアメリカ・ニグロの一団体に関係しはじめ,反白人また反宗教的な考えを持つようになりました。ところが,その収容所で二人の男の人が神の意志に従って生活しようと努力するのを目撃する機会に恵まれました。

      「一人は白人,もう一人は黒人でしたが,両人は,あるエホバの証人と一緒に聖書研究を行なうことに同意していたのです。わたしたちは一緒に仕事をしたり,食事をとったりしていたうえ,同じ宿舎で起居を共にしていましたから,わたしはその二人の囚人をよく観察しました。反宗教的な考えを持っていたわたしは,よくふたりをからかいました。時おり彼らと神について話し合うと,ふたりはエホバについて話してくれました。その信仰は強固なものでした。事情が事情だけに,そうでなければなりませんでした。というのは,たいていの人がふたりをからかったり,両人のことでうそを言ったりしていたからです。しかし,二人の囚人はいつも互いに,また両人を侮った人々に対しても愛と親切を示しました」。

      この人は自分の見た事から深い感銘を受けたため,釈放された後,ついにエホバの証人と聖書研究を行なうことになり,今では彼もまた,神のご意志に従って生活するよう努力しています。

  • 聖書はあなたを助けるものとなり得ますか
    ものみの塔 1975 | 3月15日
    • 聖書はあなたを助けるものとなり得ますか

      何世紀も前に書かれた本である聖書が今日の生活上の諸問題に対処する助けになり得るという考え方は,多くの人にとって奇妙に思えるかもしれませんが,確かに聖書はそのような助けとなってきました。絶望的な事情のもとにあった人々さえ聖書のおかげで,助けられ,人生の目的を見いだし,またそれゆえに生きる理由を見いだしました。

      オランダでのこと,あるエホバのクリスチャン証人は,自動車事故のために陥った長いこん睡状態から目ざめました。その女性は心身ともにすっかり損われており,生き長らえて正気を取り戻す可能性はほとんど2%しかありませんでしたが,徐々に回復しました。それから後にこの証人は,自分自身も不具になったその同じ自動車事故で,それぞれ同じくエホバの証人であった兄と義姉そして夫が三人とも死んだことを知らされました。彼女にはなおも生きていたいと願う理由がありましたか。

      確かにありました。復活に関する聖書の約束が確かな証拠によって裏付けられていることを認識していたからです。彼女は,亡くなった親族に再び会えるとの十分の確信を抱いていたのです。それにまた,どんな事情にもかかわりなく創造者に仕えるなら,人生は真に有意義なものになることを認識するよう他の人々を助けたいとの願いを失ってはいませんでした。彼女は書いたり話したりすることを再び学びました。右半身は麻痺していますが,聖書の真理を他の人と分かち合うことを含め,彼女は神への奉仕に携わっています。彼女はこう述べています。「わたしは自分にできる限りエホバ神に仕えます。わたしが左手でものを書くことを学んだのはそのためです。なぜなら,エホバに仕えたいからです。エホバに仕え続けないなら,わたしは夫を辱めることになります。ですから,わたしはエホバの誉れのために証言を続けてゆくのです」。

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