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公開の聖書講演の技術ものみの塔 1961 | 6月1日
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は聖書の話の中に用いられますが,事柄を証明し,論議を打ち立てるためにそれを用いてはなりません。聖書の真実性を証明しようとする時でさえも,そのことが言えます。聖書が霊感によって書かれたことは,考古学上の発見よりも聖書の預言の成就によってたしかに証明されます。考古学は聖書が歴史的に正しいことを証明するに過ぎません。聖書を第一にしなさい。あなたの述べることはいっそう効果的で確信を与えるだけでなく,聞く人々の徳を高め,また強めるものとなります。
もちろん聖書の本の名前,章と節をあげただけでは,何の証明にもなりません。少なくともそこに何と書かれているかを述べることが必要です。同様に聖書から引用しても本の名前と章,節をあげなければ余り効果がありません。しかし本当に力強いものとするには,聖書から読むのがいちばん良いのです。―「ここにあります!」 一つの聖句を読む前,読む間,あるいは読んでから講演者はその意味を説明し,それを読んだ理由と,それが何を証明するかを明らかにしなければなりません。説明がないと聴衆はたとえ信じても理解しないかも知れません。戸口で聖書の話をするとき効果的に教えるために使う方法は,演壇の上でも使うことが必要です。聖句を引用するだけで足りるならば,人々が次のように祈るとき何を求めているのかを説明する必要はありません。「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,他にも行われますように」。雄弁なアポロと同じく,わたしたちは「聖書に基いて」自分の述べることの真実さを示さねばなりません。―マタイ 6:9,10。使行 18:28,新口。
たとえを効果的に使いなさい
第四の点はたとえです。イエスほど効果的にたとえを使った話し手はありません。適切で,想像力にとんだ力強いたとえのおかげで,私たちはイエスの教えを実によく覚えることができます。その二,三をあげただけでも,羊と山羊,富める人とラザロ,ぶどうの幹と枝,隣人の目のちりと自分の目にある梁,放とう息子,迷った羊,親切なサマリヤ人,パリサイ人と収税人などのたとえがあります。イエスの使徒たちや当時の弟子たちはこの点においてもイエスにならいました。彼らの書いたものから,その事がわかります。
この点できわだっているのはヤコブの手紙です。短い手紙でありながら,その中には海の波,野の花,鏡,馬のくつわ,船の舵,いちじくの木,オリーブ,ぶどうの木,甘い水とからい水,農夫など多くのたとえがあります。そのすべてには日常生活のありふれた事が使われています。今日,公開の聖書講演をする人も,簡単で適切なたとえ,全部の人によく分かるたとえを使うべきです。農夫にピンとくるたとえも都会の人には理解し難いかも知れず,その反対のことも言えますから,この事に注意が必要です。
たとえば興味をひき,はっきりさせ,話を簡単にして要点を強調するのに役立ちます。砂の上に家を建てた人に関するイエスのたとえ話は,イエスの教えた事を実行する必要を心に銘記させます。話のはじめに顕著なたとえ話を使って,それを基に話をすすめることは特に効果的です。興味深くて理解しやすい話になるだけでなく,話のまとまりもよくなります。しかしそれにはよく選んだ適切なたとえが必要です。
たとえ話のことになれば,聖書にあるたとえ話よりも適切で力強いものはないという事実を忘れてはなりません。イエスはしばしば聖書にあるたとえを使いました。今日イエスにならう人々も同様にすべきです。弟子ヤコブもその手紙の中でアブラハム,ラハブ,ヨブ,エリヤをあげてその言おうとする事を例によって示しました。たしかに「これらの事が彼らに起ったのは,他に対する警告としてであって,それが書かれたのは,世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」。―コリント前 10:11,新口。
心から ― 雄弁に話しなさい
地上の人の中でイエスは疑いなく最も雄弁な話し手でした。イエスを捕えるために遣わされた者がから手で帰ってきたのも不思議ではありません。ここに論ずる公開の聖書の話の最後の面すなわち雄弁に語るには,話し手が真剣そのもので誠実さにあふれていなければなりません。冗談や馬鹿げたおしゃべり,単に笑わせるためだけのユーモアの余地は少しもありません。公開の聖書の話の目的は教えを授け,徳を高めることです。パウロは「まじめに真理を受け入れようとしない人々の心を得るために,こっけいな言葉を使うことをしなかった」と言われています。キリストにならったパウロにならう者も,そのような手段を用いません。―コリント前 11:1,新口。
誠実,説得力,確信,暖かさ,気持のあらわれていること,熱意は,よい聖書の話の中核をなすものです。アポロは「霊に燃え」て熱意にあふれていました。彼は「激しい語調で」語り,従って「雄弁な」人と言われています。事実すべてのクリスチャンそして特に公に聖書の講演をする人は「霊に燃え」ていなければなりません。―使行 18:24,25,28。ロマ 12:11。
最近の地域大会あるいは大きな国際大会で,あなたがどんなに力づけられたかを思い起してごらんなさい。これらの話をテープに録音したものを何回でも聞きたいと望むのはなぜですか。それは話の内容と話し手のためばかりでなく,そこに表われている火のような熱意,雄弁さのためです。話し手は自分の心にはっきりと刻みつけたものを,愛と感謝にあふれたから語りました。エリフのように,彼らは心に深く感じました。私たちも同様でなければなりません。「わたしもまたわたしの分を答え……わたしには言葉が満ち……わたしは語って,気を晴らしくちびるを開いて答えよう」。―ヨブ 32:17-20,新口。
心にあふれて語り,真剣さ,説得力,確信,暖かさ,熱意をもち,心をこめて話さなければならない人があるとすれば,それは公に聖書を語るクリスチャンです。クリスチャンは神と隣人に対する愛の心から語り,今の悪い時代にあって大切また緊急の音信を持っています。「何にもまさって公の聖書の話は,真心をこめて」「エホバに対するように心から」話すべきものです。―コロサイ 3:22,23。
公の聖書の話には多くのことが含まれます。そのすべての面においてイエス・キリストは完全な手本を残しました。講演者は仲間のクリスチャンと共に一般の人の興味をひきつづけなければなりません。また正確を期し,聖書を第一にすることが必要です。余りに多くの資料を話の中につめ込まないように注意する一方,消極的な面を何時でも第二にして積極的な面を強調します。またたとえを豊富に,しかもよい判断の下に用いなければなりません。そして何よりもエホバ,聴衆そして語る事柄を愛する心から話さねばなりません。そうするとき,エホバの御名にほまれをもたらし,聴衆と自分自身を建て起こします。またイエスの残した高い標準を考えて,常にけんそんにふるまうでしょう。
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香港における御国奉仕ものみの塔 1961 | 6月1日
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香港における御国奉仕
香港には,家から家への伝道活動を妨げるものがたくさんあります。ある兄弟の特別開拓者は,最近新しい妨げにぶつかりました,それは,「私たちは仏教徒です。伝道者はお断り!」と書かれた戸口のはり紙です。ベルを押そうか,それともとばして次の家に行こうか。開拓者は,ベルを押して証言することに決めました。若い娘さんが出てきました。そして,うちの家は,特にお父さんは,根っからの仏教徒ですからだめです。1週間まえにもふたりのモルモン教の牧師さんが来ましたが,追いかえして,このはり紙をしたのです,と言いました。証者は,自分は別の者であることを説明し,聖書について話していたところ,両親が怒った顔をして出て来ました。しかし証者が親切な態度でこの仕事のことを説明すると,両親の態度も和らぎ,親しみを増してきました。両親自身は聖書に興味はありませんでしたが,娘さんが聞くことはゆるしました。それで開拓者は,証言をつづけ,「神を真とすべし」をすすめて配布し,定期的に訪問するとりきめをつくりました。つぎに訪問した時には,戸口のはり紙はなくなっていました。いまではその若い娘さんは,伝道に参加し,火曜日の夜の研究に定期的に出席しています。巡回大会に出席したあと彼女は,最高の神エホバに献身することを考えています。
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