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神の目的とエホバの証者(その25)ものみの塔 1961 | 9月1日
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したことを感じていました。証言は良いものでした。友たちはみな愛を伝えています。またエホバが神であるという真実のあかしを地上で与えたいという望みを言い表わしました。キリストにあって,あなたの兄弟,エヌ・エッチ・ノア。e
この手紙を書いた人は,1942年に協会の3番目の会長になりました。この日曜日の伝道ということについて,良いたよりに反対する者たちは猛烈な反対をはじめました。
1928年,ニュージャージー州サウス・アムボイで,日曜日に良いたよりを伝道した幾人かのエホバの証者は逮捕されました。エホバの証者に対して反対の銃砲が発射されてから,10年間にわたってその戦いはつづけられました。証者たちはこの戦いを「ニュージャージー州の戦い」としばしば言いました。しかし程なくして反対の前線はあちこちに拡大し,ついにはほとんど地上の全地にまでひろまりました。
ロイス: いちばん反対したのは以前と同じく新教徒の群れでしたか。
ジョン: 新教徒の群れも反対しました。しかし,いちばん強い反対は,あるカトリック行動の群れから来ました。これらの群れの大部分は1920年の初期に始まり,半宗教的な組織運動であって,ローマ・カトリック教職制度の社会的理想,政治的理想を各地でひろめるために推進しました。1921年までにはそのいくつかがアメリカ合衆国で活動し治めました。これらの逮捕が1928年に始まり,1929年にまで続いたとき,エホバの証者たちは,神のいましめに反対する人間政府への従順ということについて強い立場を取りました。
トム: 実はその点をおたずねしたいとかねがね思っていました。サタンの世に属する政府に関して,エホバの証者の取る強い立場について,いまお話しになりましたね。あなた方は,政府に対する関係をどのように説明しましたか。先日ひとりの人と話をしたのですが,その人はエホバの証者を批判していました。エホバの証者は投票しないのに,裁判沙汰になると法廷を利用するということですね。それはどういうわけですか。
ジョン: 法廷の裁判をしてもらうのに投票しなければならない,ということはありません。市民でなくても法廷で裁判してもらうことができます。法廷は主として税金で支えられており,エホバの証者は税金を払います。エホバの証者は政府の備える合法の保護の益をみな受ける資格を持ちます。税金で維持される火災や警察の保護をうける資格もあるのです。
昔の使徒たちは,個人の権利を守るためにローマ政府の設けたすべての保護手段を利用しました。パウロにはローマは最高法廷であるカイザル自身に訴え出ました。パウロは,自分は天の国籍を持つ者と認めていましたが,ローマ市民としての権利をも利用しました。それは個人的な利益をはかるためでなく,神のわざを拡大するためでした。それでエホバの証者は同じ立場を取りました。パウロはローマで刑務所の縄目をうけていたこと,および彼と共に苦しみにあずかった兄弟たちについて語りました。それは,「良いたよりを擁護し,合法的に確立すること」でありました。f
ロイス: この期間中,エホバの証者はどんな教理的な立場を取りましたか。
ジョン: それはロマ書 13章1節にもとづいていました。神のいましめに反対の行動をして人間政府の権威に人々を従わせようとした者たちは,しばしばこの聖句を悪用し,悪い意味に解釈しました。
ロイス: その聖句をおぼえています。それは上なる権威に従うことですね。読んで見ましょう,「すべての人は,上に立つ権威に従うべきである。なぜなら,神によらない権威はなく,おおよそ存在している権威は,すべて神によって立てられたものだからである」。
トム: それを聞くと人はこの世の政府に従わなければならないようですね。
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読者よりの質問ものみの塔 1961 | 9月1日
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読者よりの質問
● 結婚記念日を祝うことはさしつかえありませんか。―アメリカの一読者より
古代において誕生日を祝うことは,占星術と関係がありました。疑いなくその理由で,聖書には異教徒だけが誕生日を祝ったとしるされています。しかし結婚記念日を祝うことをすすめる言葉は聖書になく,従って祝わねばならぬということはありません。結婚した二人はその義務を毎日思い起こすべきです。もちろん結婚の日は喜びの時です。イエスもカナにおける結婚式に出席して,この事実を認められました。幸福な結婚をしている夫婦が,この喜びの日を毎年思い出すのは当然のことです。事実それは結婚関係を強めるのに役立つでしょう。―ヨハネ 2:1-11。
結婚の日を記念するために,何をするか,またどの程度の規模のものにするかは当事者の決めるべきことです。しかしここでも次の規則が適用されることを心に留めておくのは良いことです。「飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである。」― コリント前 10:31,新口。
● 生きた人に移植するために眼球を与える(死んだ後に)ことを聖書は反対しますか。―アメリカの一読者より
死体を,またその一部を,科学的実験とか,他の人に移植するために,科学者たちに自由にさせることをきらう宗教団体もあります。しかし,これは聖書のどの原則も律法も関係していないように思われます。ですからこれは個人で決定しなければならない事がらです。自分の心と良心が,そうすることに満足をおぼえるならば,そうすることができます。だれもそのことを批判すべきではありません。反対に,そういうことをするのを拒絶したからといって,だれもその人を批判すべきではありません。
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