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  • 反抗的な性癖を避けなさい
    ものみの塔 1958 | 7月15日
    • しました。姦淫や他の罪を犯す者を排斥するのを拒絶することによつてキリスト教国はそのことを是認しています。(ヨハネ 14:28。黙示 3:14)魂は死滅するという聖書の真理を拒絶し,魂の先天的不滅性という異教の偽教理を受け入れている点でも,彼らの反逆が示されています。(エゼキエル 18:4。伝道 9:5; 10:1。コリント前 15:53)ちようどバアルを崇拝したイスラエル人のように,彼らはこの世の一部であり,イエスの時代の学者や,パリサイ人に匹敵します。―マタイ 23:9,13,15。

      19 クリスチヤンはどのような認識を持たなければなりませんか。

      19 そうとすれば,真のクリスチャンが,この組織制度の政治的,宗教的,商業的,物質的影響から完全に分離した状態を保持しなければならないことは明らかです。この世が今歩んでいるような道に逆戻りすることは,確かに自分自身の知恵による結論にたよることになり,健全な戒めである神の御言葉から離れることになります。人のあゆみを正しく教える誰一つの確かな導きがあります。それはヱホバの御言葉,聖書です。

      物質的な傾向を避けなさい

      20 正しいクリスチヤンの動機を示しているどのような手本がありますか。

      20 クリスチャンの動機は純粋で,行いはひとすじみちでなければなりません。彼は右にも左にも目を向けてはなりません。これは,「わが神よ,わたくしはあなたのみ心を行うことを喜ぶ」といわれたキリスト・イエスによつて示された手本です。イエスの前に他の道はありませんでした。この世のすべての国を与えるという大反逆者サタンの誘惑も,彼には何の影響も与えませんでした。ヱホバに対する全き服従の一筋道から,何ものも自分を引き離すことはできないと言つたパウロの心境もこれと同じく堅いものでした。(ピリピ 3:7-14)生活を楽にする物質や私事をも含めて,いかなる他の関心事にも使徒パウロは心を奪われませんでした。

      21 山上の垂訓は,クリスチヤンが,生活の重要な事柄に関して評価をあやまらないようにどのように警告していますか。

      21 物質主義に対する戒めは,『何を食べ,何を飲み,何を着ようかと自分の魂(または生命)のことで思いわずらうのを止めよ。魂は食物にまさり体は衣服にまさるではないか』と忠告されたイエスの山上の垂訓の中によく示されています。(マタイ 6:25,新世)イエスは,ある人々が今の生活に関する事柄を非常に心配すること,そして事実それらの物質や物質への愛着によつて御国奉仕に従事するのを妨げられるぐらい心配することを先見されました。私たちの思いが常にそのような肉の欲に向い,その上に固定する時は,自己と自己判断にたよつていることになります。ヱホバ神は,御自分の民が物質を必要とすることをよく知つておられ,その必要を満たして下さいます。このことを実際に信じているかどうかは私たちの行動過程に表われてきます。私たちは必要とする物より遙か多くの物を欲しているかも知れません。そのため多数の人々は,自分たちの必要物を心配しすぎたり,無理をするかも知れません。これに対する注意は,イエスの次の言葉に示されています,『だから,何を食べようか,何を飲もうか,あるいは何を着ようかと言つて思いわずらうな。』(マタイ 6:31,新口)これらの心配は,この古い世の人々が経験しているものです。彼らは,住みごこちのよい家や,ぜいたくな自動車や,美しい環境や,生活を楽にする多くのものを求めて決して満足しないからです。『これらのものはみな,異邦人が切に求めているものである。』これらは奉仕を成功裡に続行するために必要なものではありません。神の御言葉の中に示されている,信頼すべき助言はこれです,『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。だから,あすのことを思いわずらうな。あすのことは,あす自身が思いわずらうであろう。』― マタイ 6:32-34。

      22 象徴的岩の上に建築する人はどのような利益を得ますか。

      22 ヱホバの御言葉に全く従つた生活をするクリスチャンは,岩の上に自分の家を建てた思慮深い人にたとえられるでしよう。嵐や洪水や大風がおそつても,土台が強固なのでその家を動かすことはできないでしよう。しかし,自分のさとりにたより,ヱホバの賢明な助言を離れて,諸国民共通の行い,すなわち多くの富をたくわえることに考えと注意をむけるならば,その時こそ人は,故意に,強固な土台の上に建てられた家を出て,物質主義という砂の土台の上に建てられた家に心をよせはじめる時です。そのような道を歩むことは愚かであることを十分に戒められてきたのですから,その人の行いは,よりすぐれた認識に対する一種の反抗です。弱い土台というのは,御国の関心事を第二にして,諸国民が富とするものを,第一に追求するという彼自身の個人的な分別です。―マタイ 7:24-27。

      23 どの目標が多くの人のわなになりますか。

      23 クリスチャンである人々も,時には余りに自分自身の計画に夢中になり,物質的価値をもつ物にたよりすぎて,神に対する献身の誓いを果すという最も重要な事柄を忘れ,富を蓄えることに精力をついやすことがあります。ソロモンはこの愚かな道について預言しました,『我また身をめぐらし日の下の空なる事のあるを見たり。ここに人ありただひとりにして伴侶もなく子もなく兄弟もなし然るにその労苦はすべてきわまりなく,その目は富に飽くことなし。彼また言わずああ我誰がために労するや何とて我は心を楽しませざるやと是もまた空にしてほねおりの苦しきものなり。』そのような人は,この世の富と楽しみを追い求めて,ほどなく,神に奉仕することに反抗し,またその喜びから離れてしまいます。使徒パウロは次のように戒めました,『現在の組織制度で富んでいる者達に,傲慢にならないよう命じなさい。それら富んでいる者たちは希望を確かではない富に置かず,神に置くよう命じなさい。』人が物質の富にたよる時は,救いを富にたよつていることになります。金銭は一つの力であり,一つの防禦物ですが,しかしそれを追い求める者を永遠の生命には導きません。大きな利益となるものは,むしろ満ち足りた信仰です。信仰のあつかつたモーセは忠告しました,『汝の金銀殖増し汝の所有みなふえますにいたらん時に,恐くは汝心に驕りて汝の神ヱホバを忘れんヱホバは……マナを……汝に食せたまへり。』ですから,富のもろい力や,もろもろの君の力にたよるよりも,ヱホバの強い御手にすがる方がよいのです。―伝道 4:7,8。テモテ前 6:17。申命 8:13,14,16。詩 118:9; 146:3。

      24 (イ)富を有すること自体が罪ですか。(ロ)金銭に対する愛がどのように罪をつくるか示しなさい。

      24 財産を持つている人々は,次のことを知つています。つまり,財産を所有しているのが悪いのではなくて,財産に愛着し,自己の救いをそれによりたのことが悪い結果をまねくということです。財産がなくても,それを切望する人々に関しては次のことが言えます。すなわち,彼らが富を絶えず熱望し,追求することが悪い結果をもたらすということです。なぜかと言うと,これは,富を得るためにヱホバへの奉仕にささげた時間と精力を使うことであり,しかもこの道はそれを歩む人に失望をもたらすのみだからです。富は最大のものであつても,その持久力は短いからです。そうとすれば,このはかない,つかのまの安定を求めて,ヱホバに奉仕するという富を捨てるのは全く愚かではありませんか。『人の世にあるは影にことならず,その思いなやむことはむなしからざるなし,その積み蓄うるものはたが手におさまるをしらず。』(詩 39:6)物欲が人の心に侵入して,悪性の腫物のようになるさまは不気味なものです。それは容易に,神に対する愛にとつて代り,飽くなき欲望となります。しかし富は,伝道之書 5章10節から12節に示されているように,それを得る人にさえどのような永続的喜びももたらしません,『銀を好む者は銀に飽くことなし豊富ならんことを好む者は得るところあらずこれまた空なり。貨財増せばこれを食む者も増すなりそのもち主はただ目にこれを看るのみ……富者はその貨財の多がために睡ることを得ず。』物質の虚偽は,シンゲン 11章4節(モハット訳)にも示されています,『宝は神の震怒の日に益なし,されど正義は救うて死をまぬかれしむ。』往々にして,人は,事業方面や物質的に成功しはじめると,「この方面にもう少しの間,時間をついやそう,そうすると,全時間奉仕にはいるに十分なものが得られるだろう」と言うかも知れません。それからもう少し成功すると,同じ考えをくりかえします。各自はそのような考えに圧倒されないよう厳重に注意すべきであつて,イエスのたとえ話に出てくる成功した金持ちのようであつてはなりません。しばらくして彼は言いました,「どうしようか,わたしの作物をしまつておく所がないのだが。」彼は得た物に満足するかわりにこのように言いました,『こうしよう。わたしの倉を取りこわし,もつと大きいのを建てて,そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ,おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ,食え,飲め,楽しめ。』人が自分の考えにたよつている時は,こういうふうに考えるのが普通です。しかしこのような理窟をつける人に対して与えられた答えから彼らにのぞむかも知れない悲惨な結果に注目しなさい,『すると神が彼に言われた,「愚かな者よ,あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。……」自分のために宝を積んで神に対して富まない者は,これと同じである。』使徒パウロもまた,自分の考えにたより,この世の道に従うことの誤りを証明しています,『あなたがたは今後,異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ』。この世の人々は,生来から知的にくらやみの中にいますから,神より離れています。それで,この世が定めた標準に従うことは,『不利な道』であり,またヱホバの賢明な訓戒に反抗する道でしよう。クリスチャンはそのような道を避けるべきであつて,他人の例や考えによつてまどわされてはなりません。―ルカ 12:16-21。エペソ 4:17,18,新口。

      つぶやき

      25,26 (イ)イスラエル人はどのように反逆的な精神を示しましたか。(ロ)つぶやきに対してパウロはどのように警告しましたか。今日どのようなつぶやきをさけるべきですか。なぜですか。

      25 エジプトから約束の地に旅行した間,イスラエル人は,彼らのためになされた多くの奇跡と共に多くの祝福を受けましたが,それでも彼らはヱホバにむかつてつぶやきました。彼らの心はこのような状態でしたから,ヱホバの愛の御手より享受した恩恵をすぐに忘れてしまつたのです。彼らはヱホバに対する信頼を失つて,彼ら自身のさとりにたよりはじめた結果,この世の持ち物が十分ではないという理由で,ヱホバに不平を言いました。彼らは十分な食物が与えられていたにも拘らず,それ以上をまたそれより良い物を要求しました。彼らは肉を欲して,エジプトの束縛にとどまつていた方がましだつたであろうとつぶやきました。これはヱホバに対する彼らの純然たる反抗的態度でした。このことは,今日のクリスチャンが,ヱホバに対して,あるいは現在のヱホバの組織に対してさえ不平を言つて,反逆者とならないための,よいみせしめです。つぶやく者に何が起るかを戒めて,クリスチャンはこれを避けよとパウロは次のごとくきつぱりと忠告しました,『ある者たちがつぶやいたように,つぶやいてはならない。つぶやいた者は,「死の使」に滅ぼされた。』(コリント前 10:10,新口)これは,今日のクリスチャンがそのような悲劇的な道をさけるように見せしめとして与えられました。もし私たちが,こういう心の状態にならないようよく注意し警戒しないならば,まもなく,ヱホバが御自身の組織を運営される方法や,またいろいろの僕たちを御自分の希望される場所すなわち責任ある地位に任命される方法を面白くないものに思うようになるでしよう。

      26 忠実な献身した僕であると主張する人がつぶやくのは,反抗的態度を示しはじめたことを意味するでしよう。そしてこの種の反抗をほしいままにする人がそのようなふるまいをあらためないならば,ついには,こらしめを受けるでしよう。ヱホバは,過去における御自身の民の反抗的な精神に憤りを持たれました。そしてそのようなふるまいに固執するなら,現代人もヱホバの怒りをこうむるということをはつきりと知るように,この事柄に関する御自身の気持を表わされました。ヱホバに対して,またヱホバの組織のどの部分に対しても,つぶやくことは黙認されません。反抗的ふるまいやつぶやきによつて不一致の種をまく人々に対して諸会衆内の監督たちは,然るべき処置をとる責任を与えられるでしよう。

      27 ヤコブ書 3:14-17にはどのような反抗的態度があらわされていますか。

      27 反抗的ふるまいには,普通,競争心と嫉妬心がともないます。この競争心やねたみは,ヱホバの組織に満ちている愛の精神とは正反対であつて,人はそのような態度を持続することにより兄弟を敵とするでしよう。ヤコブ書 3章14節から17節には,これについて戒めが与えられています,『しかし,もしあなたがたの心の中に,苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら,誇り高ぶつてはならない。そのような知恵は,上から下つてきたものではなくて,地につくもの,肉に属するもの,悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには,混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。』そして次の著しい相違に注目して下さい,『上からの知恵は,第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない。』嫉妬と競争は,霊的病気にかかつているしるしであつて,他の形式の反抗と同じく,人を死に導きます。

      わがままと頑固

      28 わがままと強情は何の証拠ですか。

      28 わがままと頑固はクリスチャンの特質ではありませんから,ヱホバの組織内では行われません。ヱホバの僕たちは,ヱホバの聖い御言葉に完全に一致して行動します。そしてこのように行動しつづけ,またクリスチャンにふさわしい円熟した行動に進歩するよう絶えず努力することをはげまされています。ある人が強情さやわがままを示すならば,それはその人の心に神の御言葉が十分はいつていない証拠です。そこでヱホバは,列王紀略下の17章14,15節において,厳しい戒めを与えられました,『然るに彼ら聞くことをせずしてその項を強くせり彼らの先祖らがその神ヱホバを信ぜずしてその項を強くしたるが如し。彼らはヱホバの法度を捨て……契約を捨て……その周囲なる異邦人の跡をふめり。』エレミヤ記 7章24節において,ヱホバはさらに次のように述べられました,『されど彼らはきかずその耳を傾けず己の悪しき心の謀と剛愎なることにしたがいて行みまた後を我にむけてその面を向けざりき。』

      29 神の助言を拒否する時その人は実際に何をしていますか。

      29 人が神の助言を拒否したり,ヱホバの御言葉にせよ,彼の組織からのものにせよ,その叱責に顔をそむける時は,全能の神の勧告をしりぞけているのです。『わがいましめにしたがいて心を改めよ,……われ呼びたれども汝らこたえず……かえつて我がすべての勧告をすて,我がいましめを受けざりし』― シンゲン 1:23-25。

      30 ヱホバは,強情な子供にどんな刑罰を課せられますか。

      30 子供というものは,よく強情をはるものです。この性癖が,子供の生長と共にその性質の一部となるのを防ぐため,この点に関して正しく子供を導く責任を持つのは両親です。この傾向が最初にはつきりと現われたときに,正しいこらしめと導きが与えられなければ,後になつてヱホバの不興をこうむる原因になります。両親が事態を処理することができないならば,円熟した兄弟とか,会衆の委員などの助けを求めることができます。この問題に関して,申命記 21章18-21節には,ヱホバの御言葉が次のように記されています,『人にもしわがままにして,そむきもとる子ありその父の言葉にも母の言葉にも従わず父母これを責るも聞くことをせざる時は,その父母これをとらえてその処の門にいたり邑の長老たちに就き,邑の長老たちに言うべし,我らのこの子は,わがままにしてそむきもとる者,我らの言葉にしたがわざる者,放蕩にして酒に耽る者なりと。然る時は邑の人みな石をもてこれを撃殺すべし汝かく汝らの中より悪事を除き去るべししかせばイスラエルみな聞ておそれん。』強情やわがままは,神の怒りをかうということを,今日の年若い神の僕たちは確かに知るでしよう。これらの性質は,サタンに属する古い世にのみあるのであつて,若い人にせよ,大人にせよ,あるヱホバの子がこれらの性質を表わしそれに固執する時には,ヱホバの清潔な清い組織から非斥されるという結果を招きます。

      自称の自由

      31 多くの人はなぜヱホバの正しい規則に反抗しますか。

      31 ヱホバの組織外にいる多数の人々は今日,彼らが思想と行動の『完全な自由』と称するところに従つています。彼らは,自分たちのあらゆる気まぐれを満足させてくれる哲学をとりいれ,どのような意味においても,拘束されるのを欲しないため,神の清い御言葉を導きとするのを拒絶して,自分で自由と称する道を歩みつづけます。これは,反逆の道であつて,この道は歩む人をしてハルマゲドンの戦いで滅びるにふさわしい者にするだけです。彼らの多くは,名だけの宗教の誤りと,宗教指導者たちの哲学の不一致を見て,自分たちも自分自身の倫理的規則を選択し,また確立する能力があると感じますから,このような態度をとります。

      32 なぜ『自由に考える者』たちの哲学は人気がありますか。そしてそれはなぜ人を誘惑しますか。この哲学にだまされた人々には何が起りますか。

      32 この種の哲学は,人の欲望に何の拘束も与えず人がしたい時にしたい事を行わせます。彼の標準と道徳は,彼専用のものとなります。この世でもてはやされているそのようなあて推量に従い,神の高潔な称讃に価する道徳の標準に律せられていない人々は,時をへずして,低い,気まぐれな道に誘惑されたりだまされて,同じ考えを持つ他の人々とさえ交わるようになり,官能の満足にふける俗悪な肉欲主義に与るようになります。ヱホバの清い御言葉と組織の導きがなければ,クリスチャンもまたこの偽りの理論の犠牲になつて,この世の『自由に考える者』たちをおとしいれたわなにおちこむことはあり得ることです。

      33 反対に,クリスチヤンは何に注意しますか。どのように用心しますか。

      33 ヱホバは御自分の民がそのような犠牲になつたり誤導されるままに捨てておかれません。自由に考える者の世界は,この種の考え方にともなう不道徳な道に彼らをおちいるのをゆるします。しかし,ヱホバの僕たちは,姦淫や淫行を行う者は御国に入ることができないことをよく知つており,この助言を常に認識しています。そしてそれは,彼らの生活における指導力であり,ヱホバに奉仕するために彼らを全く純潔に清く保ちます。人間の肉体の中には,正しく制御されないならば,人を堕落の道におとしいれる強い力があることを彼らはよく知つています。ですから,ヱホバの組織内の若い男女は,自分自身の利己的な欲望によつて,堕落しないように自己を常に清く保ち,不道徳な行いに対してゆだんなく警戒しなければなりません。感情を制御しないことは,ヱホバの御心を行うよりもむしろ自己の意志もしくは肉の望みを働かせているのであつて,それはヱホバの賢明な助言に対する明らさまな反抗だと言えます。ヱホバは,ただ周囲のキリスト教国が大目に見ているからといつて,御自身の組織内でそのような行いをゆるされません。

      34 (イ)不道徳な行いにおちいつた子供たちの両親はどのような態度をとるべきですか。(ロ)両親はどのように悪事を行うものにくみするかも知れませんか。

      34 この点に関し,両親が自分の子供たちの不行届きを知り,彼らがある異性と不道徳な関係におちいつているのを知つても,会衆をそのような行いから清く保つ責任ある人々に話すのを嫌うことが時々あります。そうすれば両親は不法に加わわることになります。この問題に巻きこまれているのは彼らの肉親であるからです。この親密な間柄によつて正義が右左されるべきではなく,そのようなことは,自分の子供のような近親者であろうと,またはクリスチャン会衆内の誰か他の者であろうと,会衆内の責任ある人々に告げなければなりません。組織内のある人が,もしそのような事情を知つていても報告しなかつたならば,その人もそれに故意にかたんする者となり,反逆にくみしているのです。悪行はヱホバの清い組織とは何の関係もありません。そして忠実な僕たちは,沈黙を守つたり事態を処理する権限を持つ人々に告げなかつたりして,それを大目に見るようなことをしないでしよう。誰かがこのクリスチャンの義務を果さないならば,彼は自分自身の考えとわがままにたよつて,ヱホバの清い組織に反抗する行いをしているのです。

      35 献身したクリスチヤンが,献身していない人と結婚することによつて示す甚しい末熟さについて述べなさい。

      35 献身したクリスチャンは,この世から完全に分離していなければならないことを認識しています。これには,配偶者を選ぶことにおいてさえ,この世と分離していることが含まれています。昔イスラエル民族が異邦の女と婚姻関係にはいるのをヱホバがゆるされなかつたと同じく,今日のクリスチャンにとつても,ヱホバへの奉仕に献身していない配偶者を選ぶことは,ヱホバの助言に直接反対することになります。そのような約束のきづなは,ヱホバの祝福を受けないため,重くなり耐えられないものとなるでしよう。もし誰かがこの問題でヱホバの命令の真反対に行くとすれば,それは,自分自身のわがままと分別にたよつていることと,反抗的な傾向を示してはいませんか。そうする人は,自分の甚しい未熟さを示しており,またそのような道を歩む人は,会衆内の監督として,ヱホバの清い組織を代表する資格はありません。

  • 望ましい性質,クリスチャンの服従
    ものみの塔 1958 | 7月15日
    • 望ましい性質,クリスチャンの服従

      『心から神の御旨を行い……従いなさい。』― エペソ6:5,6,新口。

      1 イエスの手本によつて示された完全な服従について述べなさい。

      私たちが,人間の自己決定による悲劇的な結果を見るとき,もう一つの永続的利益をもつ模範を選ぶべきです。自分自身の衝動にまかせて行動するかわりに,二つの偉大な命令に関するイエスの言葉の中に推奨されている無私の提案を考慮しなさい。『心をつくし魂をつくし思いをつくしてあなたの神であるヱホバを愛さねばならない。これは一番大きな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない。』と彼は言いました。これらの言葉は,選択の自由を与えるよりもむしろ,ヱホバに喜ばれることができるように行動を極度に制限しています。この命令は,自己選択を全く除き去つています。事実これらの言葉は,ヱホバに隷属することと服従する以外の欲望を人の生活から押し出しています。―マタイ 22:37,38,新世。

      2,3 (イ)献身は何を意味しますか。(ロ)どの奴隷制度からクリスチャンは釈放されてきましたか。(ハ)どの奴隷の身分が望ましいですか。

      2 これは,イエスと彼の追随者たちの生涯の青写真でした。クリスチャンが自ら選んでヱホバ神に献身する時は,彼はかしらなる僕の残された足跡に従うことを誓います。事実それは各自が主人の奴隷になることを意味します。しかしここで問題を分析して見ると,パウロがロマ書の6章16節で述べているごとく,人はどの主人かの僕であることが分ります,『あなたがたは知らないのか。

  • あなたのために準備がすすめられています
    ものみの塔 1958 | 7月15日
    • あなたのために準備がすすめられています

      ヱホバの証者の『神の御心』国際大会に御出席下さい

      4月26日に9000人の人々がヤンキースタヂアムに集まりましたが,これは3か月と1日後に同じ球場で行われるある出来事のためでした。その出来事を準備するにあたつて,教訓を受けるために彼らは来たのです。その来るべき出来事とは,ヱホバの証者の『神の御心』国際大会です。この9000人はニューヨーク市およびその周辺にある135のヱホバの証者の会衆の人々でした。この集会をかわきりとして,今までにない最大の部屋探し運動が始められたのです。協会の会長は,1958年7月27日の大会初日には少なく見積つても15万人が出席するであろうと述べました。

      同じく,8月28日-31日まで日本で開かれる『神の御心』地域大会に出席する人々のため,神戸においても部屋を探す運動が進められています。この大会会場は神戸市灘区王子町3丁目(王子公園内),神戸市立児童文化会館です。あなたも出席されますか?

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