反抗的な性癖を避けなさい
『われ呼びたれども汝らこたえず……かえつてわがすべての勧告をすて,わがいましめを受けざりき。』― シンゲン 1:24,52。
1,2 最初の罪の型は何でしたか。それは何のせいで,どのように最高点に達しましたか。
天と地における最初の罪悪行為は反逆でした。その結果,不幸な審判が反逆の道をたどつた人々の上にくだされました。現在,最初の反逆者が種々の狡猾な手段を用いて,ヱホバと彼の忠実な僕たちに対し,最後の抵抗を行つていますから,彼を警戒するために,すべての人々は,思い,動機,行動,あらゆるふるまいを注意深く吟味する必要があります。
2 私たちは,自分の考え方を警戒するに際して,次のことを認識しなければなりません。すなわち,人間の判断や結論は,御言葉を通して啓示されているヱホバの御心と一致する時にのみ正しいということです。考えが少しでも一致していないということは,人間の考えに導かれている傾向を表わすものであつて,これは一種の反逆です。最初それはごくわずかかも知れませんが,人間の片意地な考えや決断力によつて絶えず汚されると,ヤコブが言つたような状態をもたらします,『人が誘惑に陥るのは,それぞれ,欲に引かれ,さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み,罪が熟して死を生み出す。』― ヤコブ 1:14,15,新口。
3 何が人々の行動を決定しますか。それをどのように変化させることができますか。
3 古い世の人々の行動を観察すると,彼らの考えや行為は,サタンとなつた最初の反逆者,『この世の神』に模倣していることが分ります。ちようど両親が子供の特徴や性格に影響を与えるように,すべての人類は最初の反逆的な両親と,彼らがエデンの園でとつた罪深い道に影響されています。そして反逆の罪は今日の人間に強く表われています。ですから,すべての者はヱホバ神が親として人類のために設けられた御準備,すなわち御子イエス・キリストに,来なければなりません。(ヨハネ 3:16)しかし,それは各自が肉体的に新しく生れるというのではなくて,各自が思いをすつかり変え,『正確な知識により造り主の像に従つて新しい人格を着る』ことにより御子を受けいれるのです。―コロサイ 3:10,新世。
4,5 (イ)イエスの完全な模範は何にもとづいていますか。(ロ)御父の御旨に完全に服従することはなぜそんなにも重要ですか。
4 キリスト・イエスは,反逆的な傾向を少しも持たれず,完全な道を歩まれましたから,完全な模範です。彼は独断では,どのような決定も行われませんでした。『わたしは,自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして,わたしのさばきは正しい。それは,わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである。』『わたしが天から下つてきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたの,みこころを行うためである。』『わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしている。』この中には,反逆的な性癖を全く持たない,御父に対する完全な専心の献身の美しい手本が示されています。これは本当に比類のない完全な服従を証明するものです。キリストは,ご自分が明白に御父に従われたように,他の者も彼に従うようすすめられました,『もしわたしのいましめを守るならば,あなたがたは私の愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守つたので,その愛のうちにおるのと同じである。』言うまでもなくこの言葉は,この世から出て来てキリストと一致した人々に向つて言われたものです。キリストご自身が,『わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません』と証明されています。―ヨハネ 5:30; 6:38; 8:29; 15:10; 17:16,新口。
5 子として認められるためには,キリストとキリストの御父に完全に一致しなければならないことが,キリストご自身の言葉によつて明らかです。ですからこの道からはずれることは,悪いことであり,正義に逆らうことになります。故に,行動や態度,動機を支配する決定は,反逆を避けるためによく警戒されなければなりません。
6 ヱホバの御言葉をある者が勝手に変えると,どのような結果になりますか。
6 御父は正しい教えを設立されました。そしてこれらの教えは完全で厳格なものですから,天使も人間も,勝手に変えることはできません。ある著名な天の被造物は,エデンの園で,反抗的な謀反の道に従い,他の者も自分に従うよう誘惑しました。反抗的な性質をもつ者たちは,殆どいつも他人を自分と同じような心にさせて,自分自身の反逆的な道に従わせようとします。この場合その反逆者はその行いによつて追放されました。自分自身のさとりによりたのんで,『もとの地位を保たず,住むべきところを捨てた御使たち』は,後に排斥され放逐されました。最初の人間夫婦は,蛇の言うことを聞くことによつて神の真の御言葉を捨て,利己的で貪欲な欲望を示したため,ヱホバが与えられた住居,パラダイスの家から追放されました。ヱホバは「変らざる者」ですから,アダムやエバが,後にシンゲン 3章の5節と6節に記録された次のような戒めをよく知つていたことは間違いありません,『汝こころをつくしてヱホバによりたのめ,おのれの聰明によることなかれ。汝すべての途にてヱホバをみとめよ,さらばなんじの道を直くしたまうべし。』― ユダ 6,新世。
7 両者とも罪を犯しましたが,エバの罪とアダムの違反の違いは何でしたか。
7 創世記の記録を読む時気づくように,エバはあざむかれて反逆の道に従いました。『婦樹を見れば食うに善く目に麗わしくかつかしこからんがために慕わしき樹なるによりて,ついにその実を取りて食いまたこれを己と偕なる夫に与えければ彼くらえり。』アダムの反逆は自責の念をともなわない故意になされた反逆でした。そしてその反逆はアダム自身と彼の妻の上にヱホバの不利な審判をもたらしました。―創世 3:6,17-19。
ヱホバを捨てる
8,9 イスラエルはどのような反逆的な誤りを犯しましたか。
8 圧迫的なエジプト人の手から救い出された時にイスラエル民族のために示されたヱホバの御力や最初エデンの園で起つた事柄,その後の大洪水の時にあつた事件に関する歴史的記録を持つていたにも拘らず,イスラエル民族は,ヱホバの与えられた,他の諸国民よりすぐれた地位を捨てて独自の道に歩みました。イスラエル人は彼らを導くところの書かれた神の御言葉をもつていたうえに,彼らの先祖たちのために示されたヱホバのすばらしい愛と力について,直接先祖から聞かされていました。ヱホバはご自身の民を保護するためそれ以上のことをされました。つまり彼はモーセを通じて彼らに律法を与えられたのです。ヱホバは御自分の指で直接にしるした十戒を与えられたのみでなく,イスラエル民族の行動やあらゆる活動を保護するために,細かい事柄に関する津法も与えられました。
9 イスラエル民族が,ヱホバの与えられた土地にはいつた時,彼らはその土地に居住していた異邦人の行う偶像崇拝に対して注意するようヱホバから特に警告されました。そして彼らがそのわなにかからないために,バアル崇拝の場所を全部破壊するよう命令が出されました。イスラエル民族が,この命令を実行しなかつたことは明白な反逆でした。ヱホバの御言葉に厳重に従うことがおろそかにされた場所では多くの人々が,破壊せよと命令されていた偽りの崇拝に心をよせました。そしてその反逆の結果,彼らは偽りの崇拝のとりこにされてしまいました。ある時ヨアシは,イスラエル民族に次のように言つて,偽りの神バアルの力に挑戦しなければなりませんでした,『汝らはバアルの為に争論うや汝らはこれを救わんとするや。これがために争論う者は朝の中に死ぬべし。』(シシ記 6:31)ヨアシがこのように挑戦したことは,偶像をあとかたなく破壊せよと言われたヱホバの命令にさからつて,ある者が偶像崇拝的な行いをし,またこの異邦の宗教を擁護し支持しようと努力していたことを示しています。
10 イスラエル人が従順であつた時と反逆的であつた時のヱホバの彼らに対する対照的な見解は何ですか。
10 さらにイスラエル民族は,自分たちのために,石や木を刻んだ偶像を国内に設立し,それに頭を下げてはならないと忠告されていました。そうすることは,彼らの周囲の異邦の国民と同じような崇拝を行うことになるからです。レビ記 26章に与えられている戒めの適切さに注目して下さい,『汝らもしわが法令にあゆみわが誡命を守りてこれを行わば,我その時候に雨を汝らに与うべし地はその産物を出し田畑の樹木はその実を結ばん。ここをもて汝らの麦打は葡萄をあつむる時にまで及ばん。』(レビ 26:3-5)この同じ章の中で神は更にどのように彼らの必要なものを備え,また彼らが異邦人を国内から追い出す時に彼らを助け彼らと共にいるかをさえ示されています。しかし,不服従に対して発動されるところの刑罰に関する警告は,14節から16節に示されています,『されど汝らもし我に聞きしたがうことをなさずこの諸の誡命を守らず,わが法度をないがしろにし……かえつてわが契約を破ることをなさば,我もかく汝らになさんすなわち我なんぢらに恐れをこうむらしむべし。』この御言葉は非常に明瞭でしたが,それでもイスラエル民族はこれらの命令を無視したのを私たちは知つています。これは反逆的な行為でした。最初の中は小さなことだつたかも知れません。しかし改めなかつたために遂に完全な反逆へと発展し,ヱホバの不興を買いました。このことから私たちは,反逆することではなく,服従を学ばなければなりません。
11 (イ)冒瀆者たちにはどのような刑罰が課せられましたか。(ロ)権限を持つ人々の義務は何でしたか。
11 イスラエル内の男や女が契約による協定に反逆したことに対しては,きつぱりとした懲戒的な行動がとられました。彼らは,神の御言葉を冒瀆した結果,死(排斥)に価する者でしたから,国内の責任ある地位にいる人々は,それら冒瀆者を除き石打ちにせよという命令を受けました。事実,国民の活動を清く保ち反逆しないように注意する責任をまかせられている人々が,もしその責任を遂行しなかつたならば,彼らも同じくヱホバの審判を受けたのです。というのは,このことは彼らが自分の考えに頼つて神の御要求を遂行するのに失敗したことを意味するからです。彼らは非常に大きな責任を与えられていました。これは申命記 17章2-7節によく説明されています。『汝の神ヱホバの汝に賜う邑々の中にて汝らの中間に若し或る男または女汝の神ヱホバの目の前に悪事を行いてその契約にもとり,往て他の神々につかえてこれを拝み我が命ぜざる日や月や天の衆群などを拝むあらんに,そのことを汝に告る者ありて汝これを聞き細にこれを査べ見るにその事まことに,その言たしかにしてイスラエルの中にかかる憎むべき事行われ居たらば,汝その悪しき事を行える男または女を汝の門に曳いだし石をもてその男または女を撃殺すべし。……汝かく悪事を汝らの中より除くべし。』ヱホバを捨てた人々のあらゆる種類の反逆的な行為を除くことは,責任ある人々の義務でした。ヱホバが反逆を嫌悪し,彼の民が常にその不潔な状態から離れているよう要求されていた事は明確です。
12 ある人々は,彼らの悪事が人に知られていないというだけで,悪行をどのように考えますか。
12 ヱホバが,完全に分離せよと命ぜられたそれら異邦の国民と自由に交際することは,ヱホバを捨てはじめたしるしでした。この交わりによつて汚染した結果,間もなく多くのイスラエルの国民は,異邦人と同じような気持を持つようになりました。そして彼らは言いました,『彼は決してわたしたちのすることを見られない。』(エレミヤ 12:4,モハット訳)彼らは,自分たちの邪悪な行いやあからさまな反逆は神に見られないと考えたようです。そしてうまく行つていると感じましたが,神の目は決してくらまされませんでした。神は次の言葉によつてこの事実を明らかにされました,『彼らはその収穫に落胆するであろう。これは永遠者の激しい怒りによるものである。』(エレミヤ 12:13,モハット訳)事実,それは彼らがいばらをかりとつた時明白にされました。意識的な反逆によつて豊作があるはずがなく,彼らはいばらを刈りとりました。いまわしい働きが,豊かに実ることはないのです。今日でもやはりそのような心を持つ人々は,組織を通して神の怒りが彼らに表わされた時落胆します。そして彼らは組織外に追放されます。また,仮にかくれた悪行が,目に見えるヱホバの組織に知られないため,正しいこらしめが与えられなくても,ヱホバはやはりその事を知つておられますから,そのような人々は間もなく霊的にひどい病気になります。彼らはもうヱホバからの恩恵や祝福や霊を持つていないからです。ヱホバは不法な者を黙認されません。不従順な態度に対する処置は,今日でもイスラエル民族の時代と同じであつて,反逆者は,ヱホバの厳格な正しい原則を固守しないため,ヱホバの恩恵の外に出されてしまいます。一方ヱホバの真の僕は,全き忠実をもつて献身しています。
13,14 (イ)個人の判断にたよるとどのような結果になりますか。(ロ)ヱホバはどのような刑罰を実施されますか。
13 ヱホバを捨てる罪は,反逆の罪であつて,自己または他の人間の判断にたよることに原因します。これに関してエレミヤは言いました,『おおよそ人をたのみ肉をそのちからとし,心に永遠者をはなるる人はのろわるべし。』ヱホバを捨てると,神の僕は次の言葉に示されている立場に立ちます,『そはわが民は二つの悪事をなせり,即ち活る水の源なる我をすて自ら水溜を掘れり,すなわち壊たる水溜にして水をたもたざるものなり。』霊的真理を飲まなければ,人は霊的かわきをおぼえ,これが続くと遂には死んでしまいます。神は昔のイスラエル人にさらに次のように尋ねられました,『われ何故に汝をゆるすべきや汝のこどもらわれを捨て神にあらざる神を指して誓う,我すでに彼らを誓わせたれど彼ら姦淫して娼妓の家に群集まる。……わが心は,かくの如き民に仇を復さざらんや。』エレミヤ 17:5; 2:13; 5:5-9。
14 ヱホバが与えられた戒めと異なつた戒めや助言に心を寄せた者たちは,神から直接に非難されています。それは,申命記 28章20節で次のように記されています,『ヱホバは汝をしてその凡て手をもて為すところに於て呪詛と恐れと譴責をこうむらしめたまうべければ,汝は滅びて速かに亡はてんこは汝悪しき事を行いて我を捨つるによりてなり。』反逆的な行いによりヱホバの律法を捨てた人々にとり,何という空しくて悲惨な状態だつたのでしよう!
15 イエスの追随者たちの中で示された反逆的性質を述べなさい。
15 ヱホバとの契約関係にはいつた後に,ヱホバの御言葉を無視するというわなに関して,多くの証拠が明白に示されたのにも拘らず,当時ヱホバを捨てることは中止されませんでした。イエスの時代でさえ,ちようどイエスがとり去られる前,弟子たちの中のある者がつぶやいているのを認めてイエスは言われました,『あなたがたの中には信じない者がいる。』人がヱホバの御言葉を信じなくなる時は,自己の知恵や他の不完全な人間の意見により頼んで,知恵の道から注意をそらしていることを意味します。これは反抗を示すものです。そのような状態の下でイエスは弟子たちに「あなたがたも去ろうとするのか」と尋ねられました。ペテロはこれに対して正しく答えました,『主よ,わたしたちは,だれのところに行きましよう。永遠の命の言をもつているのはあなたです。わたしたちは,あなたが神の聖者であることを信じ,また知つています。』つぶやき続けた人々は,その時主を捨てました。今日でもつぶやき続けるなら,ヱホバは,そのつぶやく人を捨てられるでしよう。―ヨハネ 6:64,67-69,新口。
16 しばらく後に教会内で更にどのような反逆が起るでしようか。
16 それから使徒パウロは,後に神の道を捨てるさらにひどい状態が起ることを忠告して次のように述べました,『わたしが去つた後,狂暴なおおかみが,あなたがたの中にはいり込んできて,容赦なく群れを荒すようになることを,わたしは知つている。また,あなたがた自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方に,ひつぱり込もうとする者らが起るであろう。』これは,多くの者が彼ら自身のさとりによりたのんで反逆し,さらに多くの数の者が同じことをするように誤導することを示しています。それに加えてイエスは,「終りの日」,特にイエスが目に見えないで再臨されている時,同じような背教が行われるであろうと警告されました。私たちは今その時にいます。来るべき暗黒時代を照らすためのランプの油を十分に準備しなかつた「思慮の浅いおとめ」の級にたとえてイエスはそのことを話されました。彼らは,ヱホバの御言葉によりたのみ,それを生活の導きとするよう教えられましたが,しかし,彼らはランプを十分に補充しなかつたため,自分たちを導く霊的光をもつていませんでした。これは,霊的事柄に関して彼らが自己の判断にたよつた結果でした。そして多くの者が横道にそれて行きました。―使行 20:29,30。マタイ 25:1-13,新口。
17 今日のクリスチヤンはどのような形の誤りを警戒しなければなりませんか。
17 ですから,私たちも,自分自身の結論を下したり,反逆の道に進むというわなにおちいらないように,注意し,警戒しましよう。そのような不法行為を避けるため,聖書は多くの頁をさいて,正義を望み忠実の道に従うことを望む者の導きのために多くの教えを記しています。ヱホバは,地上にあるご自分の組織を人間の判断で支配することを許されず,ご自身の決定に人間が完全に黙従することを要求されます。彼に対する専心の献身は,自発的に生命と服従を神に捧げた者の義務です。―ヨシユア 24:19,20。
キリスト教国における反逆
18 (イ)名ばかりのキリスト教国は,どのような方法でヱホバの支配と原則に反抗しましたか。(ロ)彼らは,ヱホバのほまれを汚すどのような反対の教理を擁護してきましたか。
18 キリスト教国の宗教的分派は,行政官キリスト・イエスを通して示されるヱホバの統治者としての権威を受けいれることに反抗しました。彼らは,御子を通してなされる神の支配を擁護する人々が提出した証拠を拒否したばかりでなく,神の真の僕を迫害しました。クリスチャンはこの世から分離せよと神の御言葉が告げているにもかかわらず,彼らは,この世と交わり,またこの世の政治的,経済的主要な部分を構成する要素です。(ヤコブ 4:4。コリント後 6:17)神はクリスチャンに流血の罪を犯さないよう要求されています。しかしキリスト教国は,相争う国家と提携して自由にこの罪に与かつています。キリスト教国は,その領域内で行われている姦淫を黙認するほどヱホバの正しい原則に反逆しました。姦淫や他の罪を犯す者を排斥するのを拒絶することによつてキリスト教国はそのことを是認しています。(ヨハネ 14:28。黙示 3:14)魂は死滅するという聖書の真理を拒絶し,魂の先天的不滅性という異教の偽教理を受け入れている点でも,彼らの反逆が示されています。(エゼキエル 18:4。伝道 9:5; 10:1。コリント前 15:53)ちようどバアルを崇拝したイスラエル人のように,彼らはこの世の一部であり,イエスの時代の学者や,パリサイ人に匹敵します。―マタイ 23:9,13,15。
19 クリスチヤンはどのような認識を持たなければなりませんか。
19 そうとすれば,真のクリスチャンが,この組織制度の政治的,宗教的,商業的,物質的影響から完全に分離した状態を保持しなければならないことは明らかです。この世が今歩んでいるような道に逆戻りすることは,確かに自分自身の知恵による結論にたよることになり,健全な戒めである神の御言葉から離れることになります。人のあゆみを正しく教える誰一つの確かな導きがあります。それはヱホバの御言葉,聖書です。
物質的な傾向を避けなさい
20 正しいクリスチヤンの動機を示しているどのような手本がありますか。
20 クリスチャンの動機は純粋で,行いはひとすじみちでなければなりません。彼は右にも左にも目を向けてはなりません。これは,「わが神よ,わたくしはあなたのみ心を行うことを喜ぶ」といわれたキリスト・イエスによつて示された手本です。イエスの前に他の道はありませんでした。この世のすべての国を与えるという大反逆者サタンの誘惑も,彼には何の影響も与えませんでした。ヱホバに対する全き服従の一筋道から,何ものも自分を引き離すことはできないと言つたパウロの心境もこれと同じく堅いものでした。(ピリピ 3:7-14)生活を楽にする物質や私事をも含めて,いかなる他の関心事にも使徒パウロは心を奪われませんでした。
21 山上の垂訓は,クリスチヤンが,生活の重要な事柄に関して評価をあやまらないようにどのように警告していますか。
21 物質主義に対する戒めは,『何を食べ,何を飲み,何を着ようかと自分の魂(または生命)のことで思いわずらうのを止めよ。魂は食物にまさり体は衣服にまさるではないか』と忠告されたイエスの山上の垂訓の中によく示されています。(マタイ 6:25,新世)イエスは,ある人々が今の生活に関する事柄を非常に心配すること,そして事実それらの物質や物質への愛着によつて御国奉仕に従事するのを妨げられるぐらい心配することを先見されました。私たちの思いが常にそのような肉の欲に向い,その上に固定する時は,自己と自己判断にたよつていることになります。ヱホバ神は,御自分の民が物質を必要とすることをよく知つておられ,その必要を満たして下さいます。このことを実際に信じているかどうかは私たちの行動過程に表われてきます。私たちは必要とする物より遙か多くの物を欲しているかも知れません。そのため多数の人々は,自分たちの必要物を心配しすぎたり,無理をするかも知れません。これに対する注意は,イエスの次の言葉に示されています,『だから,何を食べようか,何を飲もうか,あるいは何を着ようかと言つて思いわずらうな。』(マタイ 6:31,新口)これらの心配は,この古い世の人々が経験しているものです。彼らは,住みごこちのよい家や,ぜいたくな自動車や,美しい環境や,生活を楽にする多くのものを求めて決して満足しないからです。『これらのものはみな,異邦人が切に求めているものである。』これらは奉仕を成功裡に続行するために必要なものではありません。神の御言葉の中に示されている,信頼すべき助言はこれです,『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。だから,あすのことを思いわずらうな。あすのことは,あす自身が思いわずらうであろう。』― マタイ 6:32-34。
22 象徴的岩の上に建築する人はどのような利益を得ますか。
22 ヱホバの御言葉に全く従つた生活をするクリスチャンは,岩の上に自分の家を建てた思慮深い人にたとえられるでしよう。嵐や洪水や大風がおそつても,土台が強固なのでその家を動かすことはできないでしよう。しかし,自分のさとりにたより,ヱホバの賢明な助言を離れて,諸国民共通の行い,すなわち多くの富をたくわえることに考えと注意をむけるならば,その時こそ人は,故意に,強固な土台の上に建てられた家を出て,物質主義という砂の土台の上に建てられた家に心をよせはじめる時です。そのような道を歩むことは愚かであることを十分に戒められてきたのですから,その人の行いは,よりすぐれた認識に対する一種の反抗です。弱い土台というのは,御国の関心事を第二にして,諸国民が富とするものを,第一に追求するという彼自身の個人的な分別です。―マタイ 7:24-27。
23 どの目標が多くの人のわなになりますか。
23 クリスチャンである人々も,時には余りに自分自身の計画に夢中になり,物質的価値をもつ物にたよりすぎて,神に対する献身の誓いを果すという最も重要な事柄を忘れ,富を蓄えることに精力をついやすことがあります。ソロモンはこの愚かな道について預言しました,『我また身をめぐらし日の下の空なる事のあるを見たり。ここに人ありただひとりにして伴侶もなく子もなく兄弟もなし然るにその労苦はすべてきわまりなく,その目は富に飽くことなし。彼また言わずああ我誰がために労するや何とて我は心を楽しませざるやと是もまた空にしてほねおりの苦しきものなり。』そのような人は,この世の富と楽しみを追い求めて,ほどなく,神に奉仕することに反抗し,またその喜びから離れてしまいます。使徒パウロは次のように戒めました,『現在の組織制度で富んでいる者達に,傲慢にならないよう命じなさい。それら富んでいる者たちは希望を確かではない富に置かず,神に置くよう命じなさい。』人が物質の富にたよる時は,救いを富にたよつていることになります。金銭は一つの力であり,一つの防禦物ですが,しかしそれを追い求める者を永遠の生命には導きません。大きな利益となるものは,むしろ満ち足りた信仰です。信仰のあつかつたモーセは忠告しました,『汝の金銀殖増し汝の所有みなふえますにいたらん時に,恐くは汝心に驕りて汝の神ヱホバを忘れんヱホバは……マナを……汝に食せたまへり。』ですから,富のもろい力や,もろもろの君の力にたよるよりも,ヱホバの強い御手にすがる方がよいのです。―伝道 4:7,8。テモテ前 6:17。申命 8:13,14,16。詩 118:9; 146:3。
24 (イ)富を有すること自体が罪ですか。(ロ)金銭に対する愛がどのように罪をつくるか示しなさい。
24 財産を持つている人々は,次のことを知つています。つまり,財産を所有しているのが悪いのではなくて,財産に愛着し,自己の救いをそれによりたのことが悪い結果をまねくということです。財産がなくても,それを切望する人々に関しては次のことが言えます。すなわち,彼らが富を絶えず熱望し,追求することが悪い結果をもたらすということです。なぜかと言うと,これは,富を得るためにヱホバへの奉仕にささげた時間と精力を使うことであり,しかもこの道はそれを歩む人に失望をもたらすのみだからです。富は最大のものであつても,その持久力は短いからです。そうとすれば,このはかない,つかのまの安定を求めて,ヱホバに奉仕するという富を捨てるのは全く愚かではありませんか。『人の世にあるは影にことならず,その思いなやむことはむなしからざるなし,その積み蓄うるものはたが手におさまるをしらず。』(詩 39:6)物欲が人の心に侵入して,悪性の腫物のようになるさまは不気味なものです。それは容易に,神に対する愛にとつて代り,飽くなき欲望となります。しかし富は,伝道之書 5章10節から12節に示されているように,それを得る人にさえどのような永続的喜びももたらしません,『銀を好む者は銀に飽くことなし豊富ならんことを好む者は得るところあらずこれまた空なり。貨財増せばこれを食む者も増すなりそのもち主はただ目にこれを看るのみ……富者はその貨財の多がために睡ることを得ず。』物質の虚偽は,シンゲン 11章4節(モハット訳)にも示されています,『宝は神の震怒の日に益なし,されど正義は救うて死をまぬかれしむ。』往々にして,人は,事業方面や物質的に成功しはじめると,「この方面にもう少しの間,時間をついやそう,そうすると,全時間奉仕にはいるに十分なものが得られるだろう」と言うかも知れません。それからもう少し成功すると,同じ考えをくりかえします。各自はそのような考えに圧倒されないよう厳重に注意すべきであつて,イエスのたとえ話に出てくる成功した金持ちのようであつてはなりません。しばらくして彼は言いました,「どうしようか,わたしの作物をしまつておく所がないのだが。」彼は得た物に満足するかわりにこのように言いました,『こうしよう。わたしの倉を取りこわし,もつと大きいのを建てて,そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ,おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ,食え,飲め,楽しめ。』人が自分の考えにたよつている時は,こういうふうに考えるのが普通です。しかしこのような理窟をつける人に対して与えられた答えから彼らにのぞむかも知れない悲惨な結果に注目しなさい,『すると神が彼に言われた,「愚かな者よ,あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。……」自分のために宝を積んで神に対して富まない者は,これと同じである。』使徒パウロもまた,自分の考えにたより,この世の道に従うことの誤りを証明しています,『あなたがたは今後,異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ』。この世の人々は,生来から知的にくらやみの中にいますから,神より離れています。それで,この世が定めた標準に従うことは,『不利な道』であり,またヱホバの賢明な訓戒に反抗する道でしよう。クリスチャンはそのような道を避けるべきであつて,他人の例や考えによつてまどわされてはなりません。―ルカ 12:16-21。エペソ 4:17,18,新口。
つぶやき
25,26 (イ)イスラエル人はどのように反逆的な精神を示しましたか。(ロ)つぶやきに対してパウロはどのように警告しましたか。今日どのようなつぶやきをさけるべきですか。なぜですか。
25 エジプトから約束の地に旅行した間,イスラエル人は,彼らのためになされた多くの奇跡と共に多くの祝福を受けましたが,それでも彼らはヱホバにむかつてつぶやきました。彼らの心はこのような状態でしたから,ヱホバの愛の御手より享受した恩恵をすぐに忘れてしまつたのです。彼らはヱホバに対する信頼を失つて,彼ら自身のさとりにたよりはじめた結果,この世の持ち物が十分ではないという理由で,ヱホバに不平を言いました。彼らは十分な食物が与えられていたにも拘らず,それ以上をまたそれより良い物を要求しました。彼らは肉を欲して,エジプトの束縛にとどまつていた方がましだつたであろうとつぶやきました。これはヱホバに対する彼らの純然たる反抗的態度でした。このことは,今日のクリスチャンが,ヱホバに対して,あるいは現在のヱホバの組織に対してさえ不平を言つて,反逆者とならないための,よいみせしめです。つぶやく者に何が起るかを戒めて,クリスチャンはこれを避けよとパウロは次のごとくきつぱりと忠告しました,『ある者たちがつぶやいたように,つぶやいてはならない。つぶやいた者は,「死の使」に滅ぼされた。』(コリント前 10:10,新口)これは,今日のクリスチャンがそのような悲劇的な道をさけるように見せしめとして与えられました。もし私たちが,こういう心の状態にならないようよく注意し警戒しないならば,まもなく,ヱホバが御自身の組織を運営される方法や,またいろいろの僕たちを御自分の希望される場所すなわち責任ある地位に任命される方法を面白くないものに思うようになるでしよう。
26 忠実な献身した僕であると主張する人がつぶやくのは,反抗的態度を示しはじめたことを意味するでしよう。そしてこの種の反抗をほしいままにする人がそのようなふるまいをあらためないならば,ついには,こらしめを受けるでしよう。ヱホバは,過去における御自身の民の反抗的な精神に憤りを持たれました。そしてそのようなふるまいに固執するなら,現代人もヱホバの怒りをこうむるということをはつきりと知るように,この事柄に関する御自身の気持を表わされました。ヱホバに対して,またヱホバの組織のどの部分に対しても,つぶやくことは黙認されません。反抗的ふるまいやつぶやきによつて不一致の種をまく人々に対して諸会衆内の監督たちは,然るべき処置をとる責任を与えられるでしよう。
27 ヤコブ書 3:14-17にはどのような反抗的態度があらわされていますか。
27 反抗的ふるまいには,普通,競争心と嫉妬心がともないます。この競争心やねたみは,ヱホバの組織に満ちている愛の精神とは正反対であつて,人はそのような態度を持続することにより兄弟を敵とするでしよう。ヤコブ書 3章14節から17節には,これについて戒めが与えられています,『しかし,もしあなたがたの心の中に,苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら,誇り高ぶつてはならない。そのような知恵は,上から下つてきたものではなくて,地につくもの,肉に属するもの,悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには,混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。』そして次の著しい相違に注目して下さい,『上からの知恵は,第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない。』嫉妬と競争は,霊的病気にかかつているしるしであつて,他の形式の反抗と同じく,人を死に導きます。
わがままと頑固
28 わがままと強情は何の証拠ですか。
28 わがままと頑固はクリスチャンの特質ではありませんから,ヱホバの組織内では行われません。ヱホバの僕たちは,ヱホバの聖い御言葉に完全に一致して行動します。そしてこのように行動しつづけ,またクリスチャンにふさわしい円熟した行動に進歩するよう絶えず努力することをはげまされています。ある人が強情さやわがままを示すならば,それはその人の心に神の御言葉が十分はいつていない証拠です。そこでヱホバは,列王紀略下の17章14,15節において,厳しい戒めを与えられました,『然るに彼ら聞くことをせずしてその項を強くせり彼らの先祖らがその神ヱホバを信ぜずしてその項を強くしたるが如し。彼らはヱホバの法度を捨て……契約を捨て……その周囲なる異邦人の跡をふめり。』エレミヤ記 7章24節において,ヱホバはさらに次のように述べられました,『されど彼らはきかずその耳を傾けず己の悪しき心の謀と剛愎なることにしたがいて行みまた後を我にむけてその面を向けざりき。』
29 神の助言を拒否する時その人は実際に何をしていますか。
29 人が神の助言を拒否したり,ヱホバの御言葉にせよ,彼の組織からのものにせよ,その叱責に顔をそむける時は,全能の神の勧告をしりぞけているのです。『わがいましめにしたがいて心を改めよ,……われ呼びたれども汝らこたえず……かえつて我がすべての勧告をすて,我がいましめを受けざりし』― シンゲン 1:23-25。
30 ヱホバは,強情な子供にどんな刑罰を課せられますか。
30 子供というものは,よく強情をはるものです。この性癖が,子供の生長と共にその性質の一部となるのを防ぐため,この点に関して正しく子供を導く責任を持つのは両親です。この傾向が最初にはつきりと現われたときに,正しいこらしめと導きが与えられなければ,後になつてヱホバの不興をこうむる原因になります。両親が事態を処理することができないならば,円熟した兄弟とか,会衆の委員などの助けを求めることができます。この問題に関して,申命記 21章18-21節には,ヱホバの御言葉が次のように記されています,『人にもしわがままにして,そむきもとる子ありその父の言葉にも母の言葉にも従わず父母これを責るも聞くことをせざる時は,その父母これをとらえてその処の門にいたり邑の長老たちに就き,邑の長老たちに言うべし,我らのこの子は,わがままにしてそむきもとる者,我らの言葉にしたがわざる者,放蕩にして酒に耽る者なりと。然る時は邑の人みな石をもてこれを撃殺すべし汝かく汝らの中より悪事を除き去るべししかせばイスラエルみな聞ておそれん。』強情やわがままは,神の怒りをかうということを,今日の年若い神の僕たちは確かに知るでしよう。これらの性質は,サタンに属する古い世にのみあるのであつて,若い人にせよ,大人にせよ,あるヱホバの子がこれらの性質を表わしそれに固執する時には,ヱホバの清潔な清い組織から非斥されるという結果を招きます。
自称の自由
31 多くの人はなぜヱホバの正しい規則に反抗しますか。
31 ヱホバの組織外にいる多数の人々は今日,彼らが思想と行動の『完全な自由』と称するところに従つています。彼らは,自分たちのあらゆる気まぐれを満足させてくれる哲学をとりいれ,どのような意味においても,拘束されるのを欲しないため,神の清い御言葉を導きとするのを拒絶して,自分で自由と称する道を歩みつづけます。これは,反逆の道であつて,この道は歩む人をしてハルマゲドンの戦いで滅びるにふさわしい者にするだけです。彼らの多くは,名だけの宗教の誤りと,宗教指導者たちの哲学の不一致を見て,自分たちも自分自身の倫理的規則を選択し,また確立する能力があると感じますから,このような態度をとります。
32 なぜ『自由に考える者』たちの哲学は人気がありますか。そしてそれはなぜ人を誘惑しますか。この哲学にだまされた人々には何が起りますか。
32 この種の哲学は,人の欲望に何の拘束も与えず人がしたい時にしたい事を行わせます。彼の標準と道徳は,彼専用のものとなります。この世でもてはやされているそのようなあて推量に従い,神の高潔な称讃に価する道徳の標準に律せられていない人々は,時をへずして,低い,気まぐれな道に誘惑されたりだまされて,同じ考えを持つ他の人々とさえ交わるようになり,官能の満足にふける俗悪な肉欲主義に与るようになります。ヱホバの清い御言葉と組織の導きがなければ,クリスチャンもまたこの偽りの理論の犠牲になつて,この世の『自由に考える者』たちをおとしいれたわなにおちこむことはあり得ることです。
33 反対に,クリスチヤンは何に注意しますか。どのように用心しますか。
33 ヱホバは御自分の民がそのような犠牲になつたり誤導されるままに捨てておかれません。自由に考える者の世界は,この種の考え方にともなう不道徳な道に彼らをおちいるのをゆるします。しかし,ヱホバの僕たちは,姦淫や淫行を行う者は御国に入ることができないことをよく知つており,この助言を常に認識しています。そしてそれは,彼らの生活における指導力であり,ヱホバに奉仕するために彼らを全く純潔に清く保ちます。人間の肉体の中には,正しく制御されないならば,人を堕落の道におとしいれる強い力があることを彼らはよく知つています。ですから,ヱホバの組織内の若い男女は,自分自身の利己的な欲望によつて,堕落しないように自己を常に清く保ち,不道徳な行いに対してゆだんなく警戒しなければなりません。感情を制御しないことは,ヱホバの御心を行うよりもむしろ自己の意志もしくは肉の望みを働かせているのであつて,それはヱホバの賢明な助言に対する明らさまな反抗だと言えます。ヱホバは,ただ周囲のキリスト教国が大目に見ているからといつて,御自身の組織内でそのような行いをゆるされません。
34 (イ)不道徳な行いにおちいつた子供たちの両親はどのような態度をとるべきですか。(ロ)両親はどのように悪事を行うものにくみするかも知れませんか。
34 この点に関し,両親が自分の子供たちの不行届きを知り,彼らがある異性と不道徳な関係におちいつているのを知つても,会衆をそのような行いから清く保つ責任ある人々に話すのを嫌うことが時々あります。そうすれば両親は不法に加わわることになります。この問題に巻きこまれているのは彼らの肉親であるからです。この親密な間柄によつて正義が右左されるべきではなく,そのようなことは,自分の子供のような近親者であろうと,またはクリスチャン会衆内の誰か他の者であろうと,会衆内の責任ある人々に告げなければなりません。組織内のある人が,もしそのような事情を知つていても報告しなかつたならば,その人もそれに故意にかたんする者となり,反逆にくみしているのです。悪行はヱホバの清い組織とは何の関係もありません。そして忠実な僕たちは,沈黙を守つたり事態を処理する権限を持つ人々に告げなかつたりして,それを大目に見るようなことをしないでしよう。誰かがこのクリスチャンの義務を果さないならば,彼は自分自身の考えとわがままにたよつて,ヱホバの清い組織に反抗する行いをしているのです。
35 献身したクリスチヤンが,献身していない人と結婚することによつて示す甚しい末熟さについて述べなさい。
35 献身したクリスチャンは,この世から完全に分離していなければならないことを認識しています。これには,配偶者を選ぶことにおいてさえ,この世と分離していることが含まれています。昔イスラエル民族が異邦の女と婚姻関係にはいるのをヱホバがゆるされなかつたと同じく,今日のクリスチャンにとつても,ヱホバへの奉仕に献身していない配偶者を選ぶことは,ヱホバの助言に直接反対することになります。そのような約束のきづなは,ヱホバの祝福を受けないため,重くなり耐えられないものとなるでしよう。もし誰かがこの問題でヱホバの命令の真反対に行くとすれば,それは,自分自身のわがままと分別にたよつていることと,反抗的な傾向を示してはいませんか。そうする人は,自分の甚しい未熟さを示しており,またそのような道を歩む人は,会衆内の監督として,ヱホバの清い組織を代表する資格はありません。