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  • ロラード,勇気ある説教師たち
    ものみの塔 1980 | 11月1日
    • ごとくに広まりました。読み書きを教える学校が数多く開かれ,許可されていないあちこちの集会所には人々が群れ集いました。

      迫害の焦点となったのは聖書の使用でした。1229年のトゥールーズ会議で制定されたある法令で,平信徒が日常語の聖書を所有することは一切禁じられていましたが,イングランドではあまり実施されていませんでした。しかし,聖書の翻訳は司教の許可を得なければできないことになっていました。1408年にカンタベリー聖職会議は,聖書のどの部分も翻訳してはならない,また何人も「ジョン・ウィクリフ以後の時代に書かれた本,パンフレット,もしくは説明書を公にも,個人的にも読んではならない。これに違背する者は正式破門に処す」という法令を出しました。この法令は1414年につくられた,英語聖書を読む者を有罪とする法律によってさらに強化されました。それを読む人々は,土地,家畜,家財を没収され,生命を奪われることになっていました。

      地方に行くと他の法令を出す司教たちもいました。その点で目立ったのはサマーセットとリンカンシャーでした。リンカンシャーでは,「ジェームス・ブリュースターが,小さな英語聖書を持っていたために罪に問われ」ています。アグネス・アシュフォードは「山上の垂訓の一部」をある人に教えました。6人の司教の前に連れ出されたときアグネスは,そういう事柄は自分の子供にさえ教えないようにということを特に警告されました。

      大陸におけるウィクリフの教え

      一般民衆は聖書を公然と読むことはできませんでしたが,高い権力の座にある者にはそれができました。リチャード二世の妻であったイングランドのアン王妃は,ラテン語の聖書と,彼女の母国語であるボヘミア語の聖書を持っていました。その結婚は1382年に彼女の兄弟ウェンツェスラウス王が,教皇の勧めに従って承諾したものでした。教皇は自分の目的を達成することを望んでいたのですが,その結果は予期しなかったものでした。アン王妃は間もなくウィクリフの文書のことを耳にするようになってその一部を入手し,同時に英語の四福音書も手に入れました。そしてそれらに好感を抱きウィクリフの支持者になりました。王妃を訪問するプラハの宮廷の人々は,ウィクリフの著書の一部をボヘミアへ持ち帰りました。プラハ大学も,依然ウィクリフにかなり好意的であったオックスフォード大学と手を握りました。

      そういう接触があった結果,ジョン・フスがジョン・ウィクリフの著書を読むようになりました。プラハ大学に学んだフスはやがて同大学の総長になりました。1403年には,ウィクリフの教説に関する一連の講義が行なわれました。ウィクリフの教えは当局の非難を浴びていましたが,フスは講義を続けました。1409年,ついに教皇アレクサンデル五世は調査を命ずる教皇大勅書を発布しました。フスとその追随者たちは破門され,200巻にのぼるウィクリフの文書が焼却されました。しかしボヘミアは全土にわたり,フスとウィクリフの教えで燃えており,王は教皇を支持しようとはしませんでした。1410年に教皇が死亡し,次いで翌年プラハの大司教が死んだので,フスは息を抜けるその機会をさえ利用して伝道を続けました。

      1414年,皇帝ジギスムントは,破壊的な教皇大分裂を解決する目的で,コンスタンツ宗教会議を召集しました。ウィクリフの文書の警戒すべき影響力が再び議題にのぼりました。教皇庁は今や,遠く離れた二つの国,イングランドとボヘミアにおける結果を見ることになったのです。フスは皇帝から通行権を与えられていたにもかかわらず,1415年,有罪を宣告され火刑に処せられました。ウィクリフはその時代の異端の指導者と宣言されました。彼の著書は焼き捨てられ,彼の遺体は墓から取り出されて“神聖な基地”の外に捨てられることになっていました。しかし,リンカン州の続く二代の司教はそれをあまりにもはしたない行為と考えたので,それが実行に移されたのは1428年のことでした。その年にウィクリフの遺体は発掘されて焼かれ,灰は近くのスウィフト川の水の上にまき散らされました。一部の人がこのいやしむべき行為に象徴的な意味を付して見たのは当然でした。川の水がウィクリフの灰を大海に運んだように,彼の教理は世界中に広がって行きました。

      1572年に出されたある推薦状の中では,ウィクリフは火花を起こし,フスは石炭に火をつけ,ルターは燃えるたいまつを高々と掲げたというふうに表現されています。16世紀は,中世の暗黒時代に発達した口伝や偽教理の一部が宗教改革によって除去された時代でしたが,この時代に表面に浮かび上がった思想や理念の多くは,もとはと言えばウィクリフから出たものでした。ロラードたちは暗黒時代を生き残りました。ルターの文書がイングランドに入って来たとき,ロラードの諸会衆は新しい運動に没入しました。教理が非常によく似ていたのです。

      徐々にですが聖書は束縛を解かれていきました。その束縛のために,少数の恵まれた富裕な人々を除けば,聖書はすべての人にとって閉ざされた本だったのです。わたしたちは今日,先人が示したであろう勇気に感謝しているでしょうか。彼らは聖書を,読みかつ研究する価値のある本 ― 本当に自分たちの国,自由,命に値するものとして大切にしました。苦闘の末獲得された聖書を研究する自由はわたしたちにとって重要なものになっているでしょうか。聖書の勉強を始め,その真理を他の人に伝え,活動的な信仰を表明して初めてわたしたちは,その自由は自分にとって重要なものだと言うことができます。

  • あなたは神が憎まれるものを楽しいと感じますか
    ものみの塔 1980 | 11月1日
    • あなたは神が憎まれるものを楽しいと感じますか

      クリスチャンとして奉仕しているある夫妻は,シェークスピアの劇を上演しているはずの劇場の入場券を持っていました。しかし,その劇場へ行ってみると,シェークスピアの劇は,あまり受けが良くなかったので現代の劇に切り替えられていました。観客は年配の人々が圧倒的に多く,中流階級以上の人々で占められていました。その劇場はニューヨーク市でも有数のりっぱな劇場でした。

      劇が始まって三,四分すると,その奉仕者は妻の方を向き,「いいかい」と聞きました。夫が何を考えているかよくわかっていたので,妻は「ええ」と答えました。二人は立ち上がって劇場を出て行きました。どうしてそのようなことをしたのでしょうか。その劇は最初から,下品な言葉やしぐさの出て来る考えられないほど卑猥な内容のものだったので,その場にいたたまれなくなったからです。実際の内容が広告と違っていたため,エホバ

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