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  • 神の目的とエホバの証者(その4)
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
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  • 第4章 刈り入れの準備は始まる
  • 会衆は生ずる
  • 冊子の配布により真理は幾千もの人々に伝えられた
  • ものみの塔協会の組織化
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
塔60 10/15 397–399ページ

神の目的とエホバの証者(その4)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

第4章 刈り入れの準備は始まる

ロイス: ジョンさん,今晩のお話しを進める前にひとつの点をはつきりしておきたいと思います。いつたいパストー・ラッセルの目的は何でしたか。あなたがお読みになつた伝記によると,ラッセルは新しい宗教を始めようとしなかつたということですね。また,エホバの証者の名前について話しをされたときも,あなたはそう申されていました。実際にそのような結果になつたかどうかは,いま問題にしません。ラッセルの音信の最も意義深い点は,キリストの臨在がごく間近いということだと思うのです。しかし,ラッセルは,人々が何をするように欲しましたか。そして,イエスが戻られたときには何が生ずると,彼は期待しましたか。

ジョン: まず最初に,パストー・ラッセルと彼と交わつていた人々は,キリストが霊者として目に見えない様子で臨在したことは,すでに1874年に始まつたと信じていました。彼らは次のことを認識していました。すなわちその時におけるキリストの主要なわざは,キリストに属する者たちを集めて,彼らに対する神の御心が何であるかについての多くの矛盾した教えから彼らを自由に解放することである,と認識したのです。キリストが戻つてこられる目的は,彼らを互に集めて,真の崇拝を復興し,そして「異邦人の時」の終りである1914年に,ちようど花婿が自分の花嫁を求めるように,彼らを神の御国に入れられる,と信じていました。すると,次のような意味になりました,すなわち人々がしなければならぬ第1の事柄はキリスト教国の背教の宗教を捨てて,真理を学び,それから真理を他の人々に活発にひろめるということです。

会衆は生ずる

トム: わざをするために,彼らはどのように組織しましたか。

ジョン: たしかに,それは小さい事柄の日であつて,彼らは小規模な仕方で始めました。しかし,音信に対する興味が示されるところなら,どこであつても彼らは直に会衆を組織しようと努力しました。このことをするため,ラッセルと彼に交わる他の幾人かの人々は,「シオンのものみの塔」(英文)の予約者たちのところを訪問して,彼らを研究の群れに集め始めました。初期の1879年と1880年には,彼らはペンシルバニア州,ニュージャーシイ州,ニューヨーク州,マサチューセッツ州,デラウェア州,オハイオ州,そしてミシガン州に約30の会衆を設立しました。それから,1880年パストー・ラッセルはこれら30の会衆全部を訪問する取り極めをつくりました。そして,すくなくとも1日を各会衆と共に過ごしたのです。彼の訪問のプログラムは,充実したもので,各群れと毎日すくなくとも6時間は研究しました。a

ロイス: それはたいへんな研究の計画でしたね。どんな種類の集会をしたのですか。

ジョン: もちろん,パストー・ラッセルの初期の訪問中は,彼が聖書の話をして質問に答えました。しかし,後になると,彼らの定期的な計画の代表のものとして,ピッツバーグ,アレゲニイの会衆は,日曜日午後の2時半から4時まで,特別の公開集会を開いていました。なぜなら,聖書の講演がそのときになされたからです。水曜日の夜7時半から9時までは,「村の集会〈コテジミーティング〉」と呼ばれるものを開きました。この集会は,「祈り,賛美,そして証言の集会」と呼ばれるようになりました。なぜなら,各人は祈りを捧げたり,クリスチャン伝道の努力と経験について個人的な証言をしたり,そして賛美の歌を歌つたからです。この水曜日の集会は,後日ヱホバの証者が持つようになつた奉仕会の先がけてした。金曜日の夜には,彼らの聖書研究は,その時までに出版されていた書籍内の諸点にもとづいていました。これらの研究は,「黎明サークル」と呼ばれました。なぜなら,協会の初期の書籍は「千年統治黎明」連続本bとして知られていたからです。彼らはまた「花嫁の歌」cと呼ばれた小さな歌の本を持つていました。

ロイス: 聖餐式についてはどうですか。彼らも聖餐式をしていましたか。

ジョン: キリスト教国の教会のするような仕方では行いませんでした。「聖餐式」あるいはカトリック信徒の呼ぶ「ミサ」は,1年中何回でもすることができます。しかし,それは全く非聖書的です。イエスの設けられた取り極めは,彼の死を記念するためのものです。それでそれは彼の死んだ年の日と同じ日に正しく祝われるべきです。すなわち,ユダヤ人の真実の過越の日でなければなりません。これはアビブあるいはニサンの14日でしよう。彼らのニサンは,パレスチナで定められるもので,春分にいちばん近い新月から始まります。d その性質から判断して,これら初期の聖書研究生は,この時を「年一度の夕食」と呼びました。なぜなら,それは年に1度つまり1年に1度だけ祝われねばならぬ,と意味していたからです。今日,ヱホバの証者はこれを記念式と呼びますが,それは同じことを示します。それはキリストの死を記念するものです。「クリスチャン・ギリシャ語聖書」の新世訳にあるように,私たちは,またそれを主の「夕食」とも言います。e

当時の初期の時代では,ピッツバーグは会衆内でもいちばん大きく,いちばん古いものでした。たいてい記念式はピッツバーグで祝われました。アメリカ合衆国内の他の場所に住んでいる人々も,このときになるとできるなら年に1度は,ピッツバーグに行きました。ちようどむかしのユダヤ人たちがエルサレムに行つて過越を祝うのと同じようでした。いちばん小さい会衆だけが独立の記念式をしたのです。ピッツバーグでこのように集まることは,良い目的を果たしました。というわけは,彼らが霊的な一致のうちに記念式を祝うことができただけでなく,また二日間の大会を開く時にもなつたからです。このようにして,これらの初期の兄弟たちは霊的に結合し,たがいに集まることにより一致した状態のうちに成長して行きました。彼らは互いに顔見知りになつたのです。これは全部の人を援助しました。なぜなら,さもなければ,彼らは結合しなかつたからです。彼らがこのように,友の交わりをなし,霊的な食事をすることによつて,この初期のわざはいつそう急速に進歩して行きました。f

トム: さもなければ,結合しなかつたとはどういう意味ですか。

ジョン: どの会衆も,ピッツバーグにあつた最初の会衆の型にならいましたが,多かれ少かれ,独立的に奉仕をしました。他の諸会衆はピッツバーグの会衆と制度的に結合していなかつたのです。たしかに,彼らは「シオンのものみの塔」の頁から同じ霊的な食物を消化していました。成員たちは,カトリック,長老派,会衆派,ルーテル派,その他のいろいろの宗派から来ていたので,それは重要な結びつきであつたのです。それで,「ものみの塔」の研究は,彼らを援助して大きな一致を得させました。彼らはいろいろの宗派の宗教的な考えや運営の仕方をたくさん身につけていました。しかし,結果として,エホバの証者の初期の会衆は,長老派教会と会衆派の教会の運営形式の結合によつて支配されました。これらの会衆は,「会衆」というギリシヤ語に語源を持つ「エクレシアス」と呼ばれました。それぞれは,長老派教会の型にならい,長老の委員会を持つていました。長老は,会衆派教会のように民主的に選挙されて,多くて1年の任期を奉仕しました。彼らは委員会としていろいろな講演者を指名したり,何を研究すべきかを決定したり,その他のことを行ないました。これは,現在のエホバの証者のしている取極めとはだいぶちがう取極めでした。

冊子の配布により真理は幾千もの人々に伝えられた

ロイス: それで,パストー・ラッセルは,人々に聖書を研究して収穫のわざに参加するよう教えていたんですね。みなさんは,どのようにそのことを行なつたのですか。長老ではなくて一般の聖書研究生たちのことなんですが。

ジョン: 最初は,主として冊子配布が行なわれました。この時までにはパストー・ラッセルは自分の商売を整理し終えていて,多くの時間を著作や伝道についやしていたのです。それから,1880年からはピッツバーグにある小さな本部の群れは,冊子を出版し始めました。1891年以来,番号のついていたこれらの冊子は,はじめ「聖書研究生の冊子」と定期的に記されていましたが,また「古神学季刊誌」とも呼ばれました。それらの冊子は,一般公共の配布用に「シオンのものみの塔」の読者に無料で供給され,教会の教理の間ちがいを暴露しました。g 「シオンのものみの塔」の増刊号として大きなパンフレットも出版されました。このうち,「天幕の教え」と「考えるクリスチャンのための食物」両方は1881年までに出されました。今日では,これらの出版物を小さな本と呼びます。「考えるクリスチャンのための食物」は,1881年9月号の「シオンのものみの塔」の特別版として出版されました。1884年版のその冊子162頁には,次の記事が掲載されて,協会および協会のわざに対する注意が喚起されていました。

この協会(シオンのものみの塔冊子協会)は,シオンのものみの塔が出版するこの冊子に似ている文書,すなわち月1回発行の8頁の雑誌をひろめるために組織されている。このパンフレットはその雑誌の幾冊かをいつそう便利な体裁に綴じ合わせたものであつて,過去4年のあいだこの協会はその幾百万冊の印刷費を払い,かつ無料で配布した。

トム: この小さな群れは,どのようにして,100万冊の冊子を配布することができたのですか。

ジョン: もちろん,その多くは「ものみの塔」の読者が知合いの人々に無料で与えたのです。しかし,二つの他の変つた方法も用いられました。協会の初期出版物のひとつには二つの例が述べられています。

ニューヨーク市の一流の新聞紙の支配人は,購読者全部に冊子(考えるクリスチャンのための食物)1冊を送ることに同意した。そしてシカゴ,ボストン,フィラデルフィア,そしてニューヨークの新聞も同様にわざを行う私たちを支持した。それに対して,私たちは誠実な感謝を捧げるものである。h

パストー・ラッセルは,それから次のように説明しました,「我々はそれらの新聞の名前を省略する。それは,他の者たちが願い出て新聞社に迷惑をかけないためである。いまだかつて,そのような特典を与えたことはない,とその新聞社は言つている」。さらに,この大規模な仕事については,こう述べられています。

この冊子のわざは,小さな初まりであつたが,120万冊という莫大な数量に達した。………その準備と配布のために幾百人という男や女,および少年たちがやとわれた。〔英国〕ロンドンでの配布のために約500人の少年,ニューヨークで300人 ― 他の都市ではその大きさに準じた数の少年がやとわれた。大都市では,日曜日に教会の戸口のところで配布の仕事が行なわれた。i

冊子配布をいつそう拡大するため,1881年にはラッセルの初期の仲間二人が英国につかわされました。ロンドンでは10万冊,スコットランドのグラスゴー,エジンバラ,ダンデイー,そしてアバーデイーンの都市では6万5000冊が配布された,と彼らは報告してきました。j

ロイス: その冊子は,何を述べていたのですか。

ジョン: もちろん,それは教理を取り扱つたもので,これらの聖書研究生たちがその1881年までに学び知つた真理の理解を要約したものです。それは対話形式で始まり,論議は,ちようどお宅で協会の歴史を論じているのと同じ仕方でなされました。魂の不滅というような,一般教会の基礎教理をいくつか曝露してのちその冊子は時代に関する神の目的の多くの面を説明しています。その冊子は,この地上で生命をいただく大多数の人類について,次のように指摘しています。

いま死に通ずる広い道に集まつている残りの人類は,罪ととががあがなわれて,買い戻されるので,回復される。ひとりの人の不従順により,すべての者は広い道に置かれて死に呑まれた。それで,ひとりの人(キリスト)の従順により,すべての者はゆるされて生命に戻される。しかし,「彼らの以前の状態」― 最初のときの完全さ ― に戻るとき,彼らは神の家族が持つのと同じ意味の生命を持つのではない。彼らの生命は,彼ら自身の中にある生命でなく,供給された生命である。回復された人種は,疑いもなく永遠に生きる。彼らが従順である限り,神は彼らの生命を存続させる手段を供給す。それは,永久のものと我々は告げられている。k

ものみの塔協会の組織化

トム: これらの冊子やものみの塔誌を印刷するために,群れはどんな取り極めを持つていましたか。

ジョン: 最初,印刷は商業的な出版業者によつてほとんど全部なされました。最初の本部は,ペンシルバニア州,アレゲニー,フエデラル通り44番にありました。l ラッセルは次のことを認識しました。すなわち冊子やものみの塔の配布を拡大しつづけるためには,また寄付を受け取るためには,ある種の協会を持つことが必要であるということです。1881年4月号の「ものみの塔」7頁には,次の記事が掲載されていました。その題は,「ものみの塔冊子協会」です。

冊子のわざのはたす大きな部分から判断して,この面に努力を結集するという考えが生じた。その結果,この協会は形成された。冊子に対する需要は大きい。すでに90万頁以上は配布されてしまい,いま我々は数百万ページの契約をつくつている。主はこれらの冊子を用いて,盲の目を開かせているものと我我は信ずる。主はかつてどろとつばをもつて盲の目を開かれたと同じく,いまこの冊子により,人々の目を美しい御言葉に開かせておられる。

翌年,ラッセルは協会についての次の記事を「ものみの塔」の頁内に入れました。

協会は,組織されて1年にもなつていない。それは,その名前の示す目的のためである。………我々は決して寄付を願い乞うことをしない。この世の品物を持ち,全く献身している者たちは,その使用法を知りさえすればよい。この基金のための寄付は,明記されるべきである。a

1884年,この協会は一法人団体に組織され,ラッセル自身がその憲章を書きました。その最初の名前は「シオンのものみの塔冊子協会」でした。しかし,いまでは「ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会」bです。その目的は,憲章の第2条項に述べられています。

この法人の形成されている目的は,冊子,パンフレット,新聞,そして他の宗教的な書類を出版することにより,また正しく任命されている理事委員会がこの法人の目的拡大に適宜と見なす他の合法的な手段全部を用いることにより,聖書の真理を流布することである。

7人の理事で構成される委員会は憲章により規定され,そのうちの3人は会長,副会長,および会計秘書という役員として奉仕しました。c

数年たたぬ中に最初の本部は小さ過ぎるものになつたため,自分たちの建物を建てることに決定しました。それは1889年に完成しました。d その建物の中には,約200人を収容する集会所がありました。それは現代のヱホバの証者の御国会館に相当します。その建物には印刷をする小さな部屋,地下には荷物の発送部があり,また本部役員として奉仕した家族の為の部屋も設けられました。編集部の場所もつくられ,大通りに面したところは倉庫のある店があつて,印刷した出版物を一般の人々に頒布しました。この建物は「聖書の家」と呼ばれ,20年間協会の本部でした。

それでパストー・ラッセルは,寄付を受け取つて文書を印刷する目的のためだけにものみの塔協会を組織しませんでした。憲章内に述べられているごとく,それは「聖書真理を流布」するためでした。その目的を達成するためには,付随的に冊子を配布して研究をするための会衆の設立以上の事が必要でした。そして,さらに制度化することこそ,パストー・ラッセルの胸中にあつた考えです。それについては来週お話ししましよう。

[脚注]

a (イ)「ものみの塔」(英文)1880年6月号8頁。1880年9月号8頁。1880年11月号8頁。

b (ロ)「ものみの塔」(英文)1881年1月号,7頁。1881年4月号8頁。1897年158頁。

c (ハ)1879年9月号の「ものみの塔」(英文)4頁。

d (ニ)1897年の「ものみの塔」(英文)86頁。

e (ホ)コリント前 11:25。

f (ヘ)1892年の「ものみの塔」114頁。「信者の大会」出席数400人を見なさい。

g (ト)「ものみの塔」(英文)1880年12月号,8頁。1880年1月号,3頁。1889年3月,7頁。

h (チ)1881年の「ものみの塔」10月11月号

i (リ)1881年10月,11月号の「ものみの塔」(英文)

j (ヌ)1881年10月,11月号の「ものみの塔」(英文)6頁。

k (ル)1881年の「もみの塔」(英文)9月号144頁。

l (ヲ)この本部は後にフエデラル通り40番,それからロビンソン通り151番に所在すると示した。

a (ワ)1882年1月,2月号の「ものみの塔」(英文)2頁。

b (カ)1884年,12月13日,ペンシルバニア州のアレゲニー郡の民刑事高等裁判所の判事エフ・エッチ・コリヤーは,協会に合法の憲章を許可し,それは1884年12月15日に記録されました。(1885年1月のものみの塔1頁)最初の名前は1896年に「ものみの塔聖書冊子協会」と合法的に変更されました。(憲章,ものみの塔聖書冊子協会,4,5頁)1955年11月1日,現在の名前を合法化する修正案が記録されました。「聖書研究」(英文)第1巻(1886年)の序言「伝記」19頁(1926年版)をも見なさい。

c (ヨ)最初の役員は,シー・テイ・ラッセルが会長。ウイリアム・アイ・マンが副会長,パストー・ラッセルの妻。マリア・エス・ラッセルが会計秘書でした。(憲章,ものみの塔聖書冊子協会1-3頁)

d (タ)ピッツバーグ,ノースサイド,アレゲニイ,アーチ通り56と60番地に所在しました。通りの番号を再びつけなおしたため,後日それはアーチ通り610-614番地と示されました。(1890年の1月号の「ものみの塔」(英文)1頁。1900年の「ものみの塔」(英文)260,272頁,絵)その資産は最初,シイ・テイー・ラッセルが個人的に経営していた個人企業団体タワー出版会社により合法的に所有されていた。1898年の4月,この工場と不動産は合法の法人団体ものみの塔聖書冊子協会に移され協会の理事委員会はこの工場の所有権の寄付をうけ取つた。(1898年のものみの塔(英文)114頁,369頁)

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