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    ものみの塔 1965 | 5月1日
    • 死と陰府は死人を出す

      「また死人の復活については,神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか」― マタイ 22:31。

      1 宗教上の古典のうち,復活のことを教えているのはどの本だけですか。

      神の国の治めるとき,死人の復活がある ― どんな古い宗教の聖典をさぐっても,この事を教えている本は聖書以外にはありません。聖書はその第一の部分がほとんどヘブライ語で書かれ,第二の部分が1900年前の通俗ギリシャ語で書かれました。しかし聖書の第二の部分が通俗ギリシャ語で書かれる前に,第一の部分はヘブライ語からギリシャ語にほん訳されました。ヘブライ語聖書のギリシャ語訳はギリシャ語七十人訳と呼ばれ,70を意味するLXXの記号で表わされます。19世紀前の国際語はギリシャ語で,当時ギリシャ語を知る人ならば,聖書全体を読むことができました。今日聖書は部分訳をも含めて1202の言語に訳されており,おそらくあなたの国のことばにも訳されていることでしょう。聖書は最も多くの言語で最も広く流布されている本です。全能の神の国の治めるとき,死人がよみがえって正義の秩序の下に生命を得るという聖書の教えは,他に類を見ない教えです。

      2 なぜある人々は復活のことを聞くと笑いますか。

      2 読者の皆さんは,「魂の不滅」を教える宗教のゆえに,死人の復活の必要をあるいは認めないかも知れません。人が死ぬとき,死んだのは人間のからだだけであり,魂はどこか見えない世界で生きているか,あるいは地上の他の生命に生まれ変わっていると考えるならば,復活の必要がなくなります。そこである人は,死人の復活という考えを笑うでしょう。それは理解できることです。しかし死人の復活という聖書の教えは確実な根拠に基づいており,従って嘲笑するよりも,率直に検討するほうが賢明です。イエス・キリストが死から復活した事を,クリスチャン使徒パウロから聞かされたギリシャの哲学者は,人間の魂の不滅を信じていました。私たちはこのような哲学者にならいたくありません。―使行 2:31,32。マタイ 26:38。イザヤ 53:12。エゼキエル 18:4,20。

      3 私たちはこれらギリシャの哲人にならうことを,なぜ望みませんか。

      3 これらのギリシャ人について,歴史的な記録は次のように伝えています。「その中のある者たちが言った,『このおしゃべりは,いったい,何を言おうとしているのか』。また,ほかの者たちは,『あれは,異国の神々を伝えようとしているらしい』と言った。パウロが,イエスと復活とを,宣べ伝えていたからであった」。また使徒パウロはギリシャ,アテネの最高法廷に立ち,世界をさばく者としてみ子イエス・キリストを,神が死からよみがえしたと述べました。しかし「死人のよみがえりのことを聞くと,ある者たちはあざ笑(った)」と記録されています。(使行 17:28,31,32)これらのギリシャ人は魂の不滅を信じ,従って死人というものはないと信じていました。それで魂が死ぬこと,人間が再び生きるためには復活を必要とするという教えを受け入れなかったのです。

      4 古代ギリシャ人の,死者に関する考え方は,バビロニア人とどのように似ていますか。

      4 昔のギリシャ人は,人間が死ぬと,ヘーデースと名づけられた神の支配する,見えない地下の世界に死人の霊となって生きると考えていました。死人の魂が住むこの地下の世界は,そこを支配する神の名をとって,後にヘーデースと呼ばれるようになりました。またこの名は墓a を指しても用いられました。古代ギリシャの考えは,アジアのバビロニア人の考えと似ています。バビロニア人は,死人の魂が住む地下の世界を治める神をナーガルと呼び,死者の見えない世界を「帰らざる国」と呼びました。ゆえに古代バビロニア人は,死人の復活を信じていません。b

      5 人間不滅の信条と復活の教えが相容れないことは,改革派のユダヤ人のどんな行いからも明らかですか。

      5 人間の魂の不滅を信ずるバビロニア人の宗教観念は,死人の復活を教える聖書と矛盾します。20世紀の改革派ユダヤ教徒のした事もそれを物語っています。ユダヤ大百科の「復活」の項に次の記述が見えます。「近年において復活の信仰は物理学のために大きくゆらいでしまった。復活の信仰を表明した旧来の儀式文を変えて,魂の不滅の希望を明白に表明すべきかどうかは,改革派のラビたちの間や,ラビの会議において議論されてきた。アメリカにおける改革派の祈とう書は,すべてそのように変えられた。フィラデルフィアで開かれたラビの会議において,からだの復活を信ずることはユダヤ教の信仰と無縁であり,儀式〔公の崇拝に用いられる儀式文集〕は,復活のかわりに魂の不滅を述べるべきことが表明された」― 第10巻385頁,2節(1905年)。

      6 改革派のユダヤ人は,聖書のどんな明白な言葉を信じませんか。

      6 それで改革派のユダヤ人は,聖書のエゼキエル書 18章4,20節の明白な言葉を信じていません。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」。

      7 かつてのパリサイ人パウロは,復活についてペリクスに何と述べましたか。

      7 イエス・キリストの時代の人であったクリスチャン使徒パウロは,死から復活した後のイエス・キリストを奇跡的に見ました。パウロはユダヤ人に生まれた人です。そして死人の復活を信じたユダヤ教のパリサイ人の一人でした。ローマの裁判官ペリクスの前に立ったとき,パウロはユダヤ教のパリサイ人に関して次のように語りました。「わたしは〔モーセの〕律法の教えるところ,また預言者の書に書いてあることを,ことごとく信じ,また,正しい者も正しくない者も,やがてよみがえるとの希望を,神を仰いでいだいているものです。この希望は,彼ら自身も持っているのです……ただ,わたしは,彼らの中に立って,『わたしは,死人のよみがえりのことで,きょう,あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。ペリクスは,死人の魂の下る下界の神をプルトーと呼んだローマ人の考えを,おそらく持っていたことでしょう。―使行 24:14-21。

      8 (イ)キリストの復活には何人の証人がいますか。(ロ)キリストの復活には,死んだ人々にとってどんな意義がありますか。

      8 復活に関する記述の中で使徒パウロは,自分をも含めて500人以上の証人が復活したイエス・キリストを見たことを述べています。イエス・キリストは公衆の前で苦しみの杭につけられて殺され,墓に葬られてのち,復活したのです。死体を盗み出す者がないようにその墓は封印され,番兵さえ置かれていました。(コリント前 15:3-9。マタイ 27:57–28:4)自分や仲間の信者がイエス・キリストの復活の偽りの証人ではないことを論じて,パウロはキリストの復活が死に定められた人類にとって何を意味するかを次のように指摘しています。「しかし事実,キリストは眠っている者の初穂として,死人の中からよみがえったのである。それは,死がひとりの人〔最初の人アダム〕によってきたのだから,死人の復活もまた,ひとりの人によってこなければならない」。(コリント前 15:20,21)イエス・キリストの復活は,他の人々すなわち死んだ人間が復活するための道を開きました。

      9,10 (イ)イエスが殉教者の死に敢然と直面できたのはなぜですか。(ロ)イエスの言葉は復活のあることをどのように保証していますか。

      9 西暦33年,イエス・キリストは殉教者の死に直面しても勇気がありました。イエスは,ご自分の天の父である全能の神が,三日目に死からよみがえらせて下さることを確信していたからです。それによって神は,イエスが天に戻り,犠牲として与えた人間の生命の価値を自ら神にささげることを可能にします。地上にあった時,イエス・キリストは復活について多くの事を言われました。あるとき,イエスは死人が最後のさばきを受けるためによみがえることを,次のように述べました。「それは,父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから,子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き,善をおこなった人々は,さばきを受けるためによみがえり,悪をおこなった人々は,さばきを受けるためによみがえって,それぞれ出てくる時が来るであろう。わたしは,自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして,わたしのこのさばきは正しい。それは,わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである」― ヨハネ 5:26-30。c

      10 そこで私たちは復活のあることを確信できます。

      各人の問い

      11 従って各人の心にどんな疑問が生じますか。

      11 ゆえにきわめて個人的な質問が心に浮かびます。すなわち私またあなたが何時か死んで墓に葬られたなら,私たちは復活つまり死の眠りから生命に戻ることを神から許されますか。もしそうであれば,その事はどうしてわかりますか。だれが私たちと共によみがえりますか。死からよみがえらない人がありますか。この問題は,聖書の最初の部分すなわちヘブライ語聖書しか受け入れないユダヤ人の多くにとっても関心の的となってきました。

      12 聖書は復活の日の模様をどのように描いていますか。

      12 キリスト教国において一部の宗教家は,復活の日の情景が,そのとき生きている人々にとってどんなものかを描写しようと試みています。そして人間のからだのいろいろな部分が風を切って飛んでくると,死んだ時に同じからだのものであった別の部分とくっつくというような,きわめて奇怪な情景を想像してきました。聖書はエゼキエルの幻の中においてさえ,このように奇怪な復活の光景を述べていません。預言者エゼキエルは,かれた骨の谷の幻の中で,全能の神の力により骨がつらなって再び肉をつけるのを見ました。(エゼキエル 37:1-10)聖書の巻末の本は,天と地の悪の勢力が逃げ去ってのち,地上におこる復活の模様を象徴的に述べています。その描写に奇怪なところは少しもありません。希望を与えるこの幻は,地上におこる復活にだれが与るかを知る手がかりとなっています。

      13 黙示録 20章11節から15節において,どんな幻がヨハネに与えられましたか。

      13 クリスチャン使徒ヨハネの見たこの幻は,黙示録 20章11節から15節に描かれています。「また見ていると,大きな白い御座があり,そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って,あとかたもなくなった。また,死んでいた者が,大いなる者も小さな者も共に,御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが,もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ,この書物に書かれていることにしたがって,さばかれた。海はその中にいる死人を出し,死も黄泉もその中にいる死人を出し,そして,おのおのそのしわざに応じて,さばきを受けた。それから,死も黄泉も火の海に投げ込まれた。この火の海が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな,火の池に投げ込まれた」― 黙示録 21章8節もごらん下さい。

      14 復活に関して,黙示録 20章13節は,ヨハネ伝 5章28,29節にあるイエスの言葉よりもなぜ包括的ですか。

      14 すべての人が陸で死ぬわけではなく,地のふところにある墓に葬られるわけではありません。(創世 1:9,10)難船,あらし,海戦のために死んで海のもくずとなった無数の人々は,陸にひき上げられず,墓に葬られていません。(列王上 22:48,49。歴代下 20:36,37。詩 48:7。ダニエル 11:40)それで人類の復活の日を描いた黙示録 20章13節は,「死も黄泉もその中にいる死人を出す」と同時に,「海はその中にいる死人を出し」たと述べているのです。黙示録 20章13節のこの言葉は,「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き……よみがえって……来るであろう」と述べたイエスの言葉よりも広い範囲の復活を指していることがわかります。―ヨハネ 5:28,29。

      15 なぜ「海」は「火の池」に投げ入れられませんか。

      15 もうひとつ次の点に注目しなければなりません。すなわちここで言う黄泉をどう理解するにしても,黄泉に死んでいる者と海に死んでいる者とは別の人であり,黄泉と海とは別のものです。海の死人は水の中にいます。地球上に存在する文字通りの海が消滅することはありません。黙示録 20章14節に「死も黄泉も火の地に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」と書かれているのは,そのためです。文字通りの海が「火の池」に投げ込まれるならば,それは火を消してしまうでしょう。そして海のかわりに火の池がなくなってしまうに違いありません。しかし聖書から見て,「火の池」の象徴する「第二の死」がなくなる事はありません。象徴的に言って,この「火の池」は永遠に燃えつづけます。

      16 聖書の黄泉はギリシャ人の考えた黄泉とどのように違いますか。なぜそうですか。

      16 では象徴的な「火の池」に投げ込まれる黄泉とは何ですか。黄泉にいる者はどんな状態におかれていますか。ひとつの事は確かです。聖書にいう黄泉は,非クリスチャンの古代ギリシャ人が,その神話に描いている黄泉ではありません。

      17 古代ギリシャ人はどんな二つの意味に復活を解しましたか。

      17 「新約聖書神学辞典」第1巻369頁,「ギリシャ人の世界における復活」の項に次のことが出ています。「魂の輪廻を別にして……ギリシャ人は二つの意味において復活のことを語っている。イ,復活は不可能である……ロ,復活はまれに起こるかも知れない奇跡である……ダイアナのアポロニウスがローマにおいて死んだ少女を復活させたことが物語られている……15万デナリの寄付があった……世の終わりに大ぜいの人が復活するという考えは,ギリシャ人の間になかった。フィルギアの碑文の中でそれは非難されているように思える〔復活に希望を持つ者はみじめである〕。使徒行伝 17章18節にあるアナスタシス〔復活〕の語を聞いた人々は,それが固有名詞であると間違って考えたらしい」。(17章31節および以下を参照)d アポロニウスがよみがえらせた少女は言うまでもなく再び死にました。

      18 異教徒と異なり,神の民はどんな希望を抱きましたか。

      18 マクリントック,ストロング大百科1891年版第4巻9頁の最後の節は,次のことを述べています。「陰府に時を過ごすことが一時的であり,過渡的であると考えたのは,信仰のあるヘブライ人だけであった。異教徒はその世界のむこうに何も認めなかった。彼らはそこに永遠に閉じ込められると考えた。復活という考えは,異教徒の宗教また哲学に全く異質のものであった。しかし神の真の民の心に宿されていたすべての希望は,死からよみがえる見込みと結びついていたのである。罪のもたらした悪を無効にし,滅ぼす者を滅ぼすことを可能にするのは復活であるゆえに,誘惑者の砕かれることを保証した最初の約束において,それは表明されている」。―創世記 3章15節,ロマ書 16章20節を見て下さい。

      19 それで聖書の黄泉は,ギリシャ人の考えた黄泉とどのように違いますか。

      19 それで聖書のいう黄泉という言葉は,異教徒のギリシャ人が考えていた黄泉とは異なります。聖書は黄泉にいる人々が復活することを何度も述べているからです。それは古代バビロニア人が言ったような「帰らざる国」ではありません。では聖書にいう黄泉はどこにあるのですか。黄泉にいる人々はどんな状態におかれていますか。それは死者が「一時的に時を過ごす」場所ですか。正しい答えは聖書からのみ得られます。その真実の答えを基礎にして,私たちは固い信仰を抱くことができるでしょう。聖書は何と述べていますか。

      黄泉

      20 黄泉にいる者は,どんな状態にあるに違いありませんか。

      20 クリスチャン・ギリシャ語聖書の最古の写本の中に,黄泉(ヘーデース)という語は10回出ています。e 聖書の黄泉にいる人は生きていますか。聖書をその書かれている通りに読む人ならば,黙示録 20章13節に「死も黄泉も」「その中にいる死人を出し」たと書かれている事からも,黄泉にいる人には生命がないと言うでしょう。また死の中にいる死人が生きているわけはありません。同じく黄泉にいる死人が,生きているはずはありません。ところが異教のギリシャ神話に影響されているキリスト教国の宗教家に言わせると,そうではありません。「黄泉にいる死人は本当に死んでいるのではない。死んでいるのはからだだけであって,魂は不滅であるから生きている。魂は神から離れているという意味において,死んでいるに過ぎない。その事を別にすれば,黄泉にある不滅の魂は実際には生きているのだ」と,キリスト教国の宗教家は論じます。しかしこれは正しい論議ですか。黄泉に死んでおり,黄泉から復活する人々の状態について,聖書はその事を教えていますか。聖書をしらべてごらんなさい。

      21 (イ)黄泉は天にありますか。(ロ)クリスチャン会衆は黄泉に行きますか。

      21 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,黄泉という語がはじめて出てくるのはマタイ伝 11章23節です。その中で主イエス・キリストは言われました,「ああ,カペナウムよ,おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう」。(またルカ 10:15)それで黄泉が天にあるはずはありません。黄泉の語が次に出てくるのは,マタイ伝 16:18です。イエスは使徒ペテロにむかって「我はまた汝に告ぐ,汝はペテロなり,我この磐の上に我が教会を建てん,黄泉の門はこれに勝たざるべし」(文語)と,言われました。イエスのこの言葉は,イエスの追随者の会衆が死んで黄泉の門を通り,黄泉に死んでいる人々の中に数えられるという意味です。

      22 黄泉の門は,なぜイエスの会衆に勝てませんか。

      22 しかし「黄泉の門」は,なぜイエスの会衆に勝たないのですか。この「門」はイエスの追随者の前に永遠に閉じられているのではありません。それで黄泉は「帰らざる国」とはならないでしょう。それはなぜですか。それはのちにイエスが,聖書の巻末の黙示録 1章17,18節において年老いた使徒ヨハネに言われたことのためです。復活して昇天したのちのイエス・キリストは,ヨハネに次のことを言われました。「恐れるな。わたしは初めであり,終りであり,また,生きている者である。わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉とのかぎを持っている」。天のイエス・キリストは死と黄泉のかぎを持っているゆえに,「黄泉の門」を開いて,その中に死んでいる会衆を外に出し,再び生命を与えることができます。

      23 イエスの約束によれば,イエスは何時,黄泉に勝ちますか。

      23 この事を知っておられたので,イエスは黄泉の門がご自分の会衆に勝つことはないと言われたのです。イエスは黄泉に勝ち,ご自分の会衆を黄泉から解放します。ヨハネ伝 6章39,40節において,イエスはこの事をはっきり約束しました。「わたしをつかわされたかたのみこころは,わたしに与えて下さった者を,わたしがひとりも失わずに,終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは,子を見て信じる者が,ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして,わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

      24 (イ)聖書の中で黄泉と結びつけられているのは,どの言葉ですか。(ロ)詩篇 16篇10,11節によれば,イエスは死んだとき,どこに行きましたか。

      24 クリスチャン・ギリシャ語聖書中に黄泉という語は10回でていますが,興味深いことにそのいずれの場合にも,「死」という言葉が一緒に使われています。(黙示 1:18。6:8。20:13,14)それで黄泉と結びついているのは死であって,生命ではありません。これに関連して次の質問が出ます。イエス・キリストご自身が死なれて,その友アリマタヤのヨセフの墓に葬られたその日に,イエスはどこに行きましたか。(マタイ 27:57-61)この事について真実を語る資格のある人は,イエスと親しく交わった使徒ペテロです。イエスが死んで葬られてから51日後の五旬節の日に,ペテロをはじめ,イエスの他の弟子たちは神のみ霊を注がれました。そこで神のみ霊に感じたペテロは詩篇 16篇10,11節を次のように引用しています。「あなたは,わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず,あなたの聖者が朽ち果てるのを,お許しにならないであろう。あなたは,いのちの道をわたしに示し,み前にあって,わたしを喜びで満たして下さるであろう」。ペテロの引用したこの言葉を書いたのは,やはり霊感された神の預言者ダビデ王でした。

      25,26 五旬節の日,ペテロはダビデとイエスについて何と語りましたか。

      25 神のみ霊にみたされた使徒ペテロは,五旬節の祭りのために集まった何千人のユダヤ人にむかって,次のことばを述べました。

      26 「兄弟たちよ,族長ダビデについては,わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ,現にその墓が今日に至るまで,わたしたちの間に残っている。彼は預言者であって,『その子孫のひとりを王位につかせよう』と,神が堅く彼に誓われたことを認めていたので,キリストの復活をあらかじめ知って,『彼は黄泉に捨ておかれることがなく,またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを,神はよみがえらせた。そして,わたしたちは皆その証人なのである。それで,イエスは神の右に上げられ,父から約束の聖霊を受けて,それをわたしたちに注がれたのである。このことは,あなたがたが現に見聞きしているとおりである。」「事実ダビデは天に上らなかった。しかし彼自身語っている,『エホバはわたしの主に言われた,わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで,わたしの右にすわっていなさい』。」「だから,イスラエルの全家は,この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが〔杭〕につけたこのイエスを,神は,主またキリストとしてお立てになったのである」― 使行 2:27-36,一部は新世。

      27 どのようにしてイエス・キリストは,ご自身の会衆を黄泉から復活させることができるようになりましたか。

      27 霊感によって語ったペテロは,主イエス・キリストに関し,イエスが「黄泉に捨ておかれ」なかったこと,また詩篇 16篇10節の成就するため,その魂が黄泉に捨ておかれなかった事を明白に述べています。それでイエスが死んで記念の墓に葬られたとき,その魂は黄泉にあったのです。三日目に全能の神はイエスを黄泉から復活させ,復活したのちのイエスに「死と黄泉のかぎ」をゆだねました。ゆえにイエスは,黙示録 1章18節において,「わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉とのかぎを持っている」と言うことができたのです。これらのかぎを持っているために,イエスはご自分の会衆をも含めて,黄泉に死んでいるすべての者をよみがえらせることができます。f

      28 (イ)五旬節の日,詩篇 16篇10節を引用したペテロは,どの言語で語りましたか。(ロ)それで聖書の黄泉が何であり,どこにあるかを,どのように見出しますか。

      28 ヘブル人すなわちユダヤ人であった使徒ペテロは,五旬節のその日,ヘブライ語で語ったに違いありません。そこで詩篇16篇を引用したときにペテロが使ったのは,ヘブライ語聖書をギリシャ語に訳した七十人訳ではなくて,ヘブライ語の聖書でした。それでペテロはギリシャ語の黄泉(ヘーデース)を使わず,ヘブライ語聖書の言葉,陰府(シェオール)を使いました。実は黄泉(ヘーデース)は,七十人訳においてヘブライ語陰府(シェオール)をギリシャ語に訳した言葉なのです。g 霊感されたヘブライ語聖書中,陰府(シェオール)という語は,ペテロの引用した詩篇 16篇10節をも含めて63の聖句中に65回出ています。ヘブライ語聖書の詩篇 16篇10節は,「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず,あなたの聖者に墓を見させられないからである」h となっています。従って陰府(シェオール)が何であり,どこにあるか,また陰府(シェオール)にいる人々がどんな状態にあるかを知るならば,聖書にいう黄泉(ヘーデース)が何であり,どこにあるか,また黄泉(ヘーデース)にいる人々がどんな状態にあるかを同時に知ることになります。

  • その2
    ものみの塔 1965 | 5月1日
    • その2

      1 陰府が低いところにあり,墓であることは,ヨブ記 17章13節から16節にどのように示されていますか。

      すでに見たように黄泉(ヘーデース)あるいは陰府(シェオール)は天にあるのではなく,低いところにあります。(マタイ 11:23。ルカ 10:15)昔の忍耐の人ヨブは,それが低い場所であることを示しています。ひどい病気で死にそうになったヨブは,次の言葉を出しました。「わたしがもし陰府をわたしの家として望み,暗やみに寝床をのべ,穴に向かって『あなたはわたしの父である』と言い,うじに向かって『あなたはわたしの母,わたしの姉妹である』と言うならば,わたしの望みはどこにあるか,だれがわたしの望みを見ることができようか。これは下って陰府の関門にいたり,われわれは共にちりに下るであろうか」。(ヨブ 17:13-16)さてヨブはこの言葉の中で何を描いていますか。だれでもわかる通り,それは「墓」です。それは土のちりの中にあります。それは寝床に横たえるように死体のおかれる暗い場所であり,穴であって,そこには朽ちてゆく死体にわくうじがいます。そこに葬られた者は自分を自由にできないという意味において,陰府には関門があります。英国王ジェームスの認可した欽定訳聖書は,ヘブライ語の陰府シェオールのかわりに「墓」および「穴」という言葉を使っています。

      2 詩篇 141篇7節においては,人が死んで残すどんなものが,陰府と結びつけられていますか。

      2 木こりが木のくずや枝を散らかすことを連想しながら,ダビデは次のことを書いています。「人が岩を裂いて地の上に打ち砕くように,彼らの骨は陰府の口にまき散らされるでしょう」。(詩 141:7)英語欽定訳聖書は,陰府のかわりに「墓」という言葉を使っています。その表現通り,埋葬の前に骨は墓の口に散らされます。

      3 イザヤ書 28章15節から18節は,陰府が墓であることをどのように示していますか。

      3 神に敵対する者について述べた言葉の中で,預言者イザヤは(生命ではなく)死を陰府と結びつけて,次のことを述べています。「なんぢらは言へり,われら死と契約をたて陰府とちぎりを結べり漲りあふるる禍害のすぐるときわれらに来らじ……このゆえに神エホバかくいひたまふ……なんぢらが死とたてし契約はきえうせ陰府と結べるちぎりは成ることなし,されば漲りあふるるわざはひのすぐるとき汝等はこれにふみたふさるべし」。(イザヤ 28:15-18,文語)この言葉をみても,陰府は死んだ人間の墓であることがわかります。墓は死の場所だからです。

      4 陰府が低いところである事は,イザヤ書 57章9節においても,どう示されていますか。

      4 イザヤ書 57章9節も,陰府が低いところであり,その低いことにおいて墓と同様であることを示しています。ユダヤ人のユダの国が異邦を誘ってユダと政治的な同盟を結ばせようとしていることを述べてのち,この預言は,「あなたは,におい油を携えてモレクに行き,多くのかおり物をささげた。またあなたの使者を遠くにつかわし,陰府の深い所にまでつかわした」と,述べています。神の目から見るとき,不忠実なユダの国は異邦との政治的な交渉において,恥ずべき深みに陥ったため,王をいただく独立国の地位を失いつつあり,墓における死の宣告を身に招こうとしていました。

      5 (イ)低いことと陰府とは,詩篇 86篇12,13節においてどのように結びつけられていますか。(ロ)詩篇 88篇2節から6節は,埋葬,穴,力の喪失と陰府をどのように結びつけていますか。

      5 深いところ,また死を陰府と結びつけて,詩篇 86篇12,13節は次のように述べています。「主〔エホバ〕わが神よわれ心をつくして汝をほめたたへ,とこしへに聖名をあがめまつらん そはなんぢのあはれみはわれに大なり,わがたましひを陰府のふかき処よりたすけいだし給へり」。(文語)詩篇 88篇2節から6節において,埋葬の場所,穴,力の喪失が陰府と結びつけられています。「わたしの祈るみ前にいたらせ,わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしの魂は悩みに満ち,わたしのいのちは陰府に近づきます。わたしは穴に下る者のうちに数えられ,力のない人のようになりました。すなわち死人のうちに捨てられた者のように,墓に横たわる殺された者のように,あなたが再び心にとめられない者のようになりました。彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。あなたはわたしを深い穴,暗い所,深い淵に置かれました」。

      6 詩篇 116篇3節および7節から10節は,陰府が墓であることを示すどんな証拠を加えていますか。

      6 陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)は,死んだ人間一般の墓です。この事を示す聖書中の多くの証拠のひとつとして,詩篇 116篇3節および7節から10節をあげることができます。「死の縄われをまとひ陰府のくるしみ我にのぞめり,われは患難とうれへとにあへり わが霊魂よなんぢの平安にかへれ,エホバは豊になんぢをあしらひたまへばなり 汝はわがたましひを死より,わが目をなみだより,わが足をつまづきよりたすけいだしたまひき われは活けるものの国にてエホバの前にあゆまん われ大になやめりといひつつもなほ信じたり」。(文語)この句の中で,何時も陰府と結びつけられているのは不滅の生命ではなくて死です。その事に注目して下さい。クリスチャンとしての苦しみにあっていた時の使徒パウロは,コリント後書 4章13,14節において詩篇 116篇10節のこの言葉を引用し,イエスの死からの復活にそれを結びつけています。

      7 サムエル後書 22章6節および詩篇 18篇4,5節によれば,ダビデはどのように墓にひき込まれそうになりましたか。

      7 詩篇を書いたダビデは,死の墓に引き込まれそうになったことがありました。それで前節に引用したのと同様な言葉を用いて,「陰府の綱はわたしをとりかこみ,死のわなはわたしに,たち向かった」と述べています。(サムエル後 22:6)この同じ経験について,ダビデは詩篇 18篇4,5節に,「死の綱は,わたしを取り巻き,滅びの大水は,わたしを襲いました。陰府の綱は,わたしを囲み,死のわなは,わたしに立ちむかいました」と書いています。ダビデは殺されそうになり,死んだ人間一般の墓である陰府にはいるばかりになりました。しかしダビデは全能の神を呼び求め,死と陰府あるいは黄泉から救われました。それはエホバ神の力によって,死から復活したかの如くでした。―詩 18:8-19。

      8 三日間魚に呑まれていた預言者ヨナは,その経験を何にたとえていますか。

      8 預言者ヨナはあらしの海で巨大な魚に呑まれ,三日目にようやく陸に吐き出されました。この巨大な海の怪物の腹は,ヨナにとって墓のようなところでした。そこでヨナの経験は次のようにしるされています。「ヨナ魚の腹の中よりその神エホバにいのりて 曰けるはわれ患難の中よりエホバを呼びしに彼われにこたへたまへりわれ陰府の腹の中より呼はりしに汝わが声を聴たまへり われ山の根もとまで〔魚の中に〕下れり 地の関木〔墓のかんぬきのように〕いつも我うしろにありき 然るに我神エホバよ汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり」。(ヨナ 2:1,2,6,文語)三日の間ヨナは墓すなわち陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)に死んでいたも同然でした。自身の死と埋葬について述べた主イエス・キリストの言葉は,その事を示しています。「すなわち,ヨナが三日三晩,大魚の腹の中にいたように,人の子も三日三晩,地の中にいるであろう」― マタイ 12:40。

      9 ヨナが魚の腹から救われたことは,何を預言的に示していましたか。陰府からの救いは,だれによって可能ですか。

      9 三日目に預言者ヨナを大魚の腹の中から奇跡的に救い出したのは,エホバという名をお持ちになる全能の神でした。この同じ神エホバは,忠実な預言者イエス・キリストを,三日目に「地の中」からひき上げました。ゆえにヨナの救いは,神のみ子が死から復活することを預言的に表わしていたのです。イエス・キリストは復活してのち,「死と黄泉のかぎ」を与えられました。それは黄泉(ヘーデース)あるいは陰府(シェオール)に死んでいる他のすべての人をよみがえらせるためです。イエス・キリストは神に用いられてその事をします。だれにしても,自分自身の手段や方法によって陰府あるいは黄泉すなわち死んで土の塵になる人間の墓から出ることはできません。

      10 (イ)陰府において人間が無力なことは,詩編 89篇47,48節,ヨブ記 7章8,9節にどう示されていますか。(ロ)それでハルマゲドンを生き残る人々は,陰府に下る事をどのように免れますか。

      10 エズラ人エタンの詩篇は,この事実を痛感した言葉をエホバ神にむかって次のように述べています。「人のいのちの,いかに短く,すべての人の子を,いかにはかなく造られたかを,みこころにとめてください。だれか生きて死を見ず,その魂の陰府の力から救いうるものがあるでしょうか」。(詩 89:47,48)ゆえに今日,献身したりクリスチャンが,きたるべきハルマゲドンの戦いを通過して正義の新しい秩序に生き残り,地上に永遠に生きる機会を得ることは,彼らを守って生きながらえさせる神の奇跡的な力に全く依存しているのです。同じく,死んで陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)に葬られた人が,死と腐朽のその場所から自分の力で出ることはできません。預言者ヨブは命とりになると思われた病いに苦しんだとき,人間のこの無力を悲しんで次のように述べました。「わたしを見る者の目は,かさねてわたしを見ることがなく,あなたがわたしに目を向けられても,わたしはいない。雲が消えて,なくなるように,陰府に下る者は上がって来ることがない」― ヨブ 7:8,9。

      11 (イ)詩篇 49篇7節から10節は,富んだ人にもどんな力がないことを示していますか。(ロ)15節は,神のみがどんな奇跡を行ない得ることを示していますか。

      11 今日地上でいちばん富んだ人がその全財産を投げ出しても,死と墓を免れることはできません。また自分はおろか,兄弟のために,陰府(シェオール)または黄泉(ヘーデース)からの復活を,金銭の力によって可能にすることはできません。詩篇 49篇7節から10節は,この事実を告げています。「まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。とこしえに生きながらえて,墓を見ないためにそのいのちをあがなう……ことができないからである。まことに賢い人も死に,愚かな者も,獣のような者も,ひとしく滅んで,その富を他人に残すことは人の見るところである」。霊感を受けて詩篇を書いた人は,富をたのみにせず,全能の神エホバにより頼みました。「しかし神はわたしを受けられるゆえ,わたしの魂を陰府の力からあがなわれる」― 詩 49:15。

      12 (イ)詩篇 30篇2,3節において,ダビデは何のゆえに神を賛美していますか。(ロ)ハンナはサムエル前書 2章6節において,エホバ神のどんな力を述べていますか。

      12 死んで葬られることは確実と思われた病気から回復したとき,ダビデは感謝の賛美を神にささげて次の詩篇を書きました。「わが神エホバよ,われ汝によばはれば汝われをいやしたまへり エホバよ汝わがたましひを陰府よりあげ,我をながらへしめて墓にくだらせ給はざりき」。(詩 30:2,3,文語)ダビデのこの神は,時のこないうちに人が死んで墓に下るのをとどめるだけでなく,陰府(シェオール)または黄泉(ヘーデース)に死んでいる人をよみがえらせることもできます。神はみ子イエス・キリストの場合に,その事をされました。預言者サムエルの母はこの事実を述べています。「エホバは殺し又生し給ひ 陰府に下しまた上らしめ給ふ」。(サムエル前 2:6,文語)イエスの母マリヤも,このような思いを抱いてエホバを賛めました。―ルカ 1:46-55。

      死,それとも意識のある生命,いずれが真実か

      13 聖書ほん訳者の多くは,シェオールとヘーデースをどんな英語の言葉に訳しており,その真実の意味を明らかにしていますか。

      13 このように聖書の提出する証拠は,きわめて豊富かつ簡明であって,疑問の余地を残しません。聖書にいう陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)は,死んだ人間一般の墓です。この理由で多くの聖書ほん訳者は,これら二つの言葉を英語の「墓」という言葉,それも(ひとつひとつの墓ではなく)集合的な意味での墓という言葉に訳しています。欽定訳すなわちジェイムス王訳の中で,ヘブライ語シェオールを「墓」と訳した箇所は31回,「穴」と訳した箇所は3回あります。またギリシャ語ヘーデースは(コリント前書 15章55節において)1回だけ「墓」と訳されています。それにもかかわらず,キリスト教国の宗教家は何世紀ものあいだ,ヘーデースが火の苦しみの場所であると教えてきました。そこでシェオール(陰府)あるいはヘーデース(黄泉)に死んでいる人々はどんな状態にあるか,という質問をしなければなりません。人間は不滅であり,従って陰府あるいは黄泉においても生きていて,意識がありますか。それとも死んだ人は死んでいるのであって,どこにも存在していませんか。キリスト教国の牧師の言葉ではなく,神のことば聖書はこの質問に何と答えていますか。

      14,15 伝道の書 9章4節から6節,10節によれば,陰府にいる人々はどんな状態におかれていますか。

      14 エホバ神からとくに知恵をさずけられたソロモン王は,伝道の書 9章4節から6節また10節において次のように答えています。「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は,死せるししにまさるからである。〔たとえ犬のようであっても〕生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし,〔たとえししのようであっても〕死者は何事をも知らない,また,もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも,ついに忘れられる。その愛も,憎しみも,ねたみも,すでに消えうせて,彼らはもはや日の下に行われるすべての事に,永久にかかわることがない。すべてあなたの手のなしうる事は,力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には,わざも,計略も,知識も,知恵もないからである」。

      15 これによれば陰府に死んでいる人はたしかに死んでいるのであって,「中間的な存在」におかれているという事もありません。「何事をも知ら」ず,愛,憎しみ,ねたみなどの強い感情も「消えうせ」,知識も知恵もなく,わざも計略もないとすれば,たしかに死んでいるのであって,どこかに存在しているのではありません。陰府にいる人が「死者」と呼ばれ,生命ではなくて死が陰府と結びつけられているのも当然です。

      16 (イ)詩篇 6篇4,5節によると,陰府においてはだれのことを語り,また思うことがありませんか。(ロ)イザヤ書 38章17節から19節によれば,39歳のヒゼキヤ王はなぜ死ぬことを望みませんでしたか。

      16 陰府に死んでいる人は,神のことを考えたり,神について語ることもありません。それで敬虔なダビデは,次の祈りを詩篇に書きました。「エホバよ帰りたまへ,わがたましひを救ひたまへ,なんぢの仁悲の故をもて我をたすけたまへ そは死にありては汝をおもひいづることなし,陰府にありては誰かなんぢに感謝せん」。(詩 6:4,5,文語)39歳のヒゼキヤ王は,死を免れたとき,同じような感慨を抱きました。ヒゼキヤ王は救い主である神に次のことを述べています。「あなたはわが命を引きとめて,滅びの穴をまぬかれさせられた。これは,あなたがわが罪をことごとく,あなたの後に捨てられたからである。陰府は,あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は,あなたのまことを望むことはできない。ただ生ける者,生ける者のみ,きょう,わたしがするように,あなに感謝する」。(イザヤ 38:17-19)15年後にヒゼキヤは死んで陰府に行きました。そのときエホバを賛美することはできず,また意識もなくて神に望みをおくことはできませんでした。しかしヒゼキヤは陰府から復活する希望を抱いて死にました。

      17 死者は生きており,神から離れているに過ぎないという牧師の教えの間違いは,詩篇 139篇7,8節および箴言 15章11節からどのように証明されますか。

      17 これを考えれば,陰府あるいは黄泉にいる人々が不滅の生命を持ち,神から離れているという意味で死んでいるに過ぎないと論ずるキリスト教国の牧師の論はばかげています。その論は,ダビデがエホバ神に述べた詩篇の次の言葉と一致しません。「わたしはどこへ行って,あなたのみ前をのがれましょうか。わたしはどこへ行って,あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても,あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても,あなたはそこにおられます」。(詩 139:7,8)ダビデ王の子ソロモンの箴言 15章11節も,この事実を裏づけています。「陰府とほろびとはエホバの目の前にありまして人の心をや」。(文語)人の心にあるものを知るエホバは,陰府にいる者を知っています。

      18 アモス書 9章1,2節は,神のみ霊がどこに及んでいることを示していますか。

      18 エホバ神のみ霊すなわち活動力は,あらゆるところに及び,陰府もその例外ではありません。アモス書 9章1,2節の預言は,エホバ神の次のことばをしるしています。「そのひとりも逃げおおす者はなく,のがれうる者はない。たとい彼らは陰府に掘り下っても,わたしの手はこれをそこから引き出す。たとい彼らは天によじのぼっても,わたしはそこからこれを引きおろす」。ここで天と陰府はそれぞれの高さと低さとのゆえに対照されています。人が陰府に掘り下ると言えるのはなぜですか。それは陰府が,人々の住み,墓の掘られるこの地にあるからです。

      19 ヨブ記 26章5節から7節は,陰府に関する神の知識をどのように示していますか

      19 陰府また黄泉にいる者にもエホバの目は届き,その力は及んでいます。死病と思われた病気にとりつかれたヨブが,地球の創造主に関して述べた言葉は,その事を強調しています。「亡霊は水およびその中に住むものの下に震う。神の前では陰府も裸である。滅びの穴も〔神から〕おおい隠すものはない。彼は北の天を空間に張り,地を何もない所に掛けられる」。(ヨブ 26:5-7)ゆえに陰府は,その死人を神の目からおおい隠すことができず,神の前では裸なのです。神は陰府にいる者をご存知です。

      20,21 陰府にいる人々に関するどんな事実のゆえに,ヨブはヨブ記 14章12節から15節において,自分を陰府にかくして下さいと,神に祈りましたか。

      20 忍耐の人ヨブは紀元前16世紀の人ですが,陰府にいる者は本当に死んでいるのであり,楽しみを味わうこともないかわりに苦しみも感ぜず,無意識である事を知っていました。それで恥さらしの,苦しい病気が死によって終わり,人々の視線を逃れて陰府に横たえられることを願ったのは,ヨブにとって自然のことでした。それでヨブはエホバ神に次の祈りをしています。

      21 「人は伏して寝,〔自分の力では〕また起きず,天のつきるまで,目ざめず,その眠りからさまされない。どうぞ,わたしを陰府にかくし,あなたの怒りのやむまで,潜ませ,わたしのために時を定めて,わたしを覚えてください。人がもし死ねば,また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間,わが解放の来るまで待つでしょう。あなたがお呼びになるとき,わたしは答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう」― ヨブ 14:12-15。

      22 ヨブは,陰府が「帰らざる国」であるとは信じていませんでした。その事はヨブ記 14章12節から15節のヨブの言葉から,どのように明らかですか。

      22 この言葉に照らしてみるとき,陰府(シェオール)〔黄泉(ヘーデース)七十人訳〕はヨブにとって「帰らざる国」ではありません。神は陰府にいる死者を忘れず,見捨てることをしません。ヨブの神は陰府にいる者をおぼえ,その定めの時に,この人類共通の墓から死者をよみがえらせ,眠りからおこすように死から呼びおこします。それで病苦の中にあったヨブは,肉体の苦しみを終わらせるため,死んで陰府に横たえられる事を望み,神のみ手によって生命を取られるならば本望であると考えたのです。ヨブは神の怒りを受けていると感じました。それで陰府に葬られることを許されるならば,ヨブは神の怒りのやむまで,そして神が陰府にいる者を顧み,死から復活させてまさった生命を与える時のくるまで,陰府にかくされることになるでしょう。

      23 復活のとき,ヨブはだれの声を聞きますか。エゼキエルとヤコブは,ヨブのことをどのように述べていますか。

      23 ヨハネ伝 5章28,29節にあるイエスの言葉通り,ヨブは神の子の声を聞き,イエスの声に従って記念の墓から復活することでしょう。ヨブが陰府に下っておよそ900年後,エホバ神はエゼキエル書 14章14,20節の預言においてヨブを正しい者の一人にあげています。またキリストの弟子ヤコブも,クリスチャンのならうべき忍耐の手本としてヨブをあげています ― ヤコブ 5:11。

      24 今までにしらべた事から,陰府および黄泉とその中にいる人々の状態について何が明らかですか。

      24 今まで「ものみの塔」を読んだところでは,陰府あるいは黄泉に関して問題の全容をしらべたわけではありません。しかし陰府にいる人々に関して聖書が希望を与えているという事実は印象づけられました。陰府に死んでいるすべての人は実際に死んでいるのであり,全く無意識であって,存在を絶たれています。聖書的に言えば,陰府あるいは黄泉は死んだ人間一般の墓だからです。それは一つの墓,一つの記念碑ではなく,死んで土の塵の中に横たわった無数の人の共通の墓です。それは人が死んで葬られるたびに大きくなって行きます。それは無数の死人を呑み込んで,なおあきることがありません。

      陰府あるいは黄泉はたゞ一つ

      25 箴言 30章15,16節および雅歌 8章6節は,飽くことを知らない陰府あるいは黄泉について,何を述べていますか。

      25 昔の賢い王はこの事実を見て,次のように書きました。「飽くことを知らないものが三つある。いや,四つあって,皆『もう,たくさんです』と言わない。すなわち陰府,不妊の胎,水にかわく地,『もう,たくさんだ』といわない火がそれである」。(箴言 30:15,16)罪と死に定められた人間を陰府に迎えることを求めてやまない陰府の強さは,専心の献身を求めてやまない愛にくらべられています。この同じ賢人は次のように書きました。「そは愛は強くして死のごとく,ねたみは堅くして陰府にひとし,その焔は火のほのほのごとし,いともはげしき焔なり」。(雅歌 8:6,文語)死は,罪に定められた人間の生命を求め,陰府は人間のからだを求めます。

      26 (イ)古代バビロンの王の野心は,ハバクク書 2章5節において何とくらべられていますか。(ロ)イザヤ書 5章14,15節は,陰府をどのように描いていますか。なぜですか。

      26 国々と人々を征服することを求めてやまなかった古代バビロンの王の野心は,死の犠牲者を求めてあくことのない陰府にたとえられています。バビロンが世界強国となる途上にあって隆盛にむかい,エルサレムをおびやかす存在となったとき,エホバの預言者ハバククは,バビロンの王朝について次のことを書きました。「また,酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって,飽くことなく,万国をおのれに集め,万民をおのれのものとしてつどわせる」。(ハバクク 2:5)象徴的に言って,陰府には,多くの人を一時に呑み込む大きな口があります。預言者イザヤの次の言葉には,この考えが盛られています。「〔多くの人がエホバ神を知る知識のないために滅びるゆえ〕陰府はその欲望を大きくし,その口を限りなく開き,エルサレムの貴族,そのもろもろの民,その群衆およびそのうちの喜びたのしめる者はみなその中〔陰府〕に落ちこむ」― イザヤ 5:14,15。

      27 (イ)ヘーデースと個々の埋葬の場所は,数においてどのように異なりますか。(ロ)このような墓の多くは消滅したとしても,シェオールについては何が言えますか。

      27 陰府(シェオール)あるいは黄泉(ヘーデース)は,死んで土の塵に戻った人間一般の墓であるゆえに,きわめて当然のことながら聖書はただ一つの陰府あるいは黄泉のことを述べているに過ぎません。しかし墓は沢山あることが聖書に示されています。預言者モーセに不平を言った昔のイスラエル人の言葉は,その例です。「エジプトに墓がないので,荒野で死なせるために,わたしたちを携え出したのですか」。(出エジプト 14:11)およそ9世紀ののち,預言者エゼキエルは,バビロンに捕われて希望を失ったかに見えた神の民に次のことを告げました。「主エホバかく言たまふわが民よ我等の墓をひらき汝らをその墓より出きたらしめてイスラエルの地に至らしむべし わが民よ我汝等の墓を開きて汝らをその墓より出きたらしめる時汝らは我のエホバなるを知ん」。(エゼキエル 37:12,13,文語)今までに数知れず多くの墓が掘られましたが,その多くは形跡さえ残していません。しかし一つの陰府あるいは黄泉は残り,人間が死ぬかぎり死人を呑み込んで大きくなって行きます。

      28 陰府あるいは黄泉の働きについて,どんな疑問が生じますか。確かな答えはどこから得られますか。

      28 しかしあくことを知らない陰府あるいは黄泉は,何時までも人間のからだを呑むことをやめないのですか。その中に陥った人間の犠牲者をとらえて離さないのですか。それはアダムの子孫の上に永久に勝ち誇るのですか。最初の父である罪人アダムから人類が受けついだ死を何時までも証しつづけるのですか。これらの問いに対して確かな答えを与えることができるのは,人間の創造主エホバ神をおいて他にはありません。その答えはホセア書 13章14節の預言の中に示されています。「我かれを陰府の手より贖はん我かれらを死より贖はん死よなんぢの疫は何処にあるか陰府よ汝の災は何処にあるか悔改はかくれて我が目にみえず」。(文語)

      29 (イ)アメリカ訳など,一部の聖書は,ホセア書 13章14節をどんな形に訳していますか。(ロ)しかしこのようなほん訳においても,どんな問いの答えは与えられていませんか。

      29 ホセア書 13章14節を4つの質問の形に訳した聖書のほん訳もあります。たとえば口語訳では,「わたしは彼らを陰府の力から,あがなうことがあろうか。彼らを死から,あがなうことがあろうか。死よ,おまえの災はどこにあるのか。陰府よ,おまえの滅びはどこにあるのか」となっています。(ほかにアメリカ訳)これらの節の前の部分を読むならば,最初の二つの問いに対しては明らかに否定の答えが出ます。神は陰府の手すなわち力から不従順なイスラエル人を救わず,彼らを死からあがなわないでしょう。神はあわれみを示すことなく,ご自身悔い改めることなく,不従順な者が死んで陰府の手にとらえられるに任せます。ゆえに神は死の災がどこにあり,陰府の滅びがどこにあるかをたずねます。陰府と死よ,来て不従順な者を悩まし,滅ぼしなさい。しかしホセア書 13章14節口語訳(またアメリカ訳)の場合にも,次の問いが残されています。死が彼らに災を下し,陰府が彼らを滅ぼしてのち,神は彼らをどうしますか。神は,死と陰府の力の中に彼らを永久にとどめておきますか。それとも神は定めの時に彼らをよみがえらせますか。

      30,31 (イ)コリント前書 15章54節から57節において,パウロはだれにとって有利な答を出していますか。(ロ)勝利はイエス・キリストを通してどのように得られますか。この事から私たちはどんな気持ちを抱いて,この研究を更にすすめることができますか。

      30 クリスチャン使徒パウロは,死者の復活があることを霊感によって示しています。復活に関して驚くべき事柄を論じた章の中で,パウロは次のように書いています。「〔そのとき〕聖書〔イザヤ書 25章8節〕に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ,おまえの勝利は,どこにあるのか。死よ,おまえのとげは,どこにあるのか』。死のとげは〔アダムから受け継がれた〕罪である。罪の力は〔モーセを通して与えられ,すべての人を罪に定めた戒めから成る〕律法である。しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである」。(コリント前 15:54-57)そうです,全能の神は死を永久に呑み,その勝利を空しくすることができます。神は19世紀前,死と陰府からみ子イエス・キリストを復活させ,この力を持つことを示されました。事実イエス・キリストの復活は,約束された神の国において治める王イエス・キリストにより,神が人類一般を復活させることの保証です。

      31 ゆえに私たちは大きな希望を抱いてこのすばらしい事柄の探究をつづけ,だれが死から復活するかという問題を次に考慮できます。

  • 人はなぜ神に祈ることができるか
    ものみの塔 1965 | 5月1日
    • 人はなぜ神に祈ることができるか

      すべての宗教に共通なのは,祈りという行為でしょう。オーストラリアの原住民であろうと,現代の科学者であろうと,宗教心のある人々は祈りをします。ヒンズー教徒,アフリカのブーズー教徒,回教徒,ユダヤ教徒,カトリック教徒,新教徒,またクリスチャンのエホバの証者もみな祈りをします。この問題に人々が関心をもつ証拠に,ニューヨーク市のある著名な神学校には,祈りにかんする書籍が1200冊もあります。

      とくに危急の場合になると,人々はよく祈りを始めます。日曜日の朝のテレビの漫画にでてくる信心深い人物も,「私は非常に恐ろしくなって,おもわず祈りはじめた!」と言います。アメリカの原子力潜水艦スレッシャー号の艦長の妻はその典型的な例です。海軍は,同潜水艦から8時間も連絡を受けていない,という知らせを聞いたとたんに彼女は,「ではお祈りを始めたほうがいいですね」と言いました。アイゼンハワー元帥がかつて,「ざんごうの中に無神論者はひとりもいない」と言ったのも,不思議ではありません。

      たしかに人間は,窮境に陥るととりわけ,自分より力の強い何者かに,つまり神に,本能的に助けを求めます。しかし,無数の天体を含む無限の広がりを創造された宇宙の神の偉大さを考えるとき,神はなぜ,取るに足りない,ちりの上のちりのような小さな人間に関心をもたれるのか,不審に思えるでしょう。事実,理神論者はそう考えます。彼らは,創造主としての神の存在を信じながら,神が人間にご自身を啓示されたこと,人間の運命に深い関心をもたれることを否定します。理神論者によると,神とは,「世界という機械のねじを一度まいただけで,あとは世界が自由勝手にわが道を行き,また自から自己発展の道を切りひらいて行くにまかせた,不在の神」です。

      しかし神は,導きも与えずに人間を放置したのではありません。どうして神が,地球上の最もすぐれた被造物を差別待遇されるでしょうか。神は,すべての下等動物に,彼らを導く正確な本能を与えられたではありませんか。であれば,人間にも,正確な導きを与えるのが当然です。神はその導きを,ご自身のことばである聖書の中に備えました。愛とか知恵,公正という性質が人間にあるという事実は,神にもそういう性質のあることを物語っています。同じものをもたれる以上,神が,人間に探求心や理性を

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