-
だれが復活するか ― なぜ?ものみの塔 1965 | 7月1日
-
-
だれが復活するか ― なぜ?
「さて,キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに,あなたがたの中のあるものが,死人の復活などはないと言っているのは,どうしたことか」― コリント前 15:12
1 (イ)イエスは友ラザロの死の状態をどのように述べましたか。(ロ)コリント前書 15章20節によれば,死から目ざめることは何に依存していますか。
西暦32年ベタニヤの人ラザロが死んで墓に葬られ,人々が大きな石をころがしてきて墓の入口をふさいだとき,ラザロの友イエス・キリストは旅路にして四日ほど離れたところにいました。悲しい知らせを聞いたイエスは,弟子たちにむかって「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」と言われました。イエスはどのようにこの事をされましたか。ラザロの死後四日目にイエスは墓に着き,ラザロをよみがえらせました。(ヨハネ 11:1-44)単にイエスのこの言葉をとりあげて,イエスを「眠る魂」と呼ぶことはできません。たしかに聖書は復活の見込みのある死者を形容するのに,眠っていると述べています。コリント前書 15章20節に「しかし事実,キリストは眠っている者の初穂として,死人の中からよみがえったのである」と書かれているのは,そのためです。それで多くの者が復活を受けるでしょう。しかしそれはどの人々ですか。
2,3 (イ)ハルマゲドンの戦いで滅ぼされた者の将来について,神のことばは何を明らかにしていますか。(ロ)刑罰を執行する戦いに臨むことに関して,イエスはマタイ伝 24章36節から39節において何と言われましたか。
2 からだと魂の両方を全能の神に滅ぼされた者の場合,黄泉(ヘーデース)で死の眠りについているとは言えません。その破滅から起き出ることはないからです。(マタイ 10:28)従って文字に書かれた神のことばは,神に敵対して戦い,ハルマゲドンにおける「全能の神の大なる日の戦闘」で滅ぼされる者に対して,復活の希望をさしのべていません。(黙示 16:14,16,文語。19:11-21)刑罰の執行されるハルマゲドンの戦いに神のみ子イエス・キリストが臨むことに関して,イエスは悪の事物の制度の終結を告げる預言の中で次のように言われました。
3 「その日,その時は,だれも知らない。天の御使たちも,また子も知らない,ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも,ちょうどノアの時のようであろう。すなわち,洪水の出る前,ノアが箱舟にはいる日まで,人々は食い,飲み,めとり,とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて,いっさいのものをさらって行くまで,彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも,そのようであろう」― マタイ 24:3,36-39。
4 洪水のとき,ノアの箱舟の外にいた人々はどうなりましたか。
4 洪水のとき,ノアの箱舟の外にいた者は,男も女も子供も幼児も,ネピリムすなわち不従順な天使と人間の娘の結婚から生まれた雑種の子孫も,当時生きていた者はことごとく,神の手による刑罰を突然に執行されて永遠に滅びました。それで急速に近づいてるハルマゲドンの戦いのとき,神の御国と一致していないすべての者は地から永遠に滅ぼされます。
5 (イ)ペテロ後書 3章6,7節から見て,洪水のとき死んだ人々には将来の希望がありますか。(ロ)黙示録 20章11節から13節の成就するとき,死はこのような人々を出しますか。
5 ノアの日に関してペテロ後書 3章6,7節は次のように述べています。「その時の世界は,〔神の〕御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし,今の天と地とは,同じ御言によって保存され,不信仰な人々がさばかれ,滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで,そのまま保たれているのである」。この滅びの洪水で死んだ人々に復活の希望がないことは明らかです。従って黙示録 20章11節から13節の成就するとき,すなわちキリストが地を治める千年のあいだ,海と「死と黄泉」の出した死人が,「大きな白い御座」の前でさばかれるときにも,洪水で滅びた人々はよみがえってきません。
6 メトセラはどの点で他の人々と異なっていますか。また復活のどんな希望がありますか。
6 ノアの祖父にメトセラという人がいました。このメトセラはエホバの預言者エノクの息子です。(創世 5:21-24)聖書の記録からみる限り,メトセラは地上のだれよりも長生きした人です。メトセラの息子ラメクは大洪水の5年前に死にました。969歳のよわいを重ねたメトセラは子のラメクにも先立たれ,大洪水の始まった紀元前2370年に死んでいます。大洪水は11月に始まりました。しかし聖書はメトセラの「死んだ」ことを述べていても,彼が洪水でおぼれ,この「神の行なわれたこと」によって滅ぼされたとは述べていません。(創世 5:25-32)ゆえにメトセラには復活の希望があり,セツをはじめ,洪水前に死んだ他の人々にまでさかのぼるメトセラの先祖にも,黄泉(ヘーデース)また陰府(シェオール)からよみがえる希望があります。しかしアダム,エバ,カインも復活しますか。
7 カインの弟アベルの復活はなぜ確実ですか。
7 アダムの最初の子カインは,洪水が「不信仰な人々」を滅ぼす何百年も前に死にました。神がアベルのささげものを顧みたことから,敬虔な弟アベルを殺したカインは,「のろわれてこの土地を離れなければなりません」でした。(創世 4:1-24。ペテロ後 2:5)アベルは,メシヤによる神の国の下で地上の生命によみがえることを保証されています。アベルは,「更にまさったいのちによみがえる」にふさわしいことを証明した信仰の人エノク,ノア,アブラハム,イサク,ヤコブ,モーセ,サムソン,ダビデなど「多くの証人」の一人だからです。(ヘブル 11:4から12:2)しかしカインについては,次のように書かれています。
8,9 (イ)ヨハネ第一書 3章10節から12節において,カインはどんな者とされていますか。(ロ)マタイ伝 23章33節から36節において,イエスはカインをどのように見ましたか。
8 「神の子と悪魔の子との区別は,これによって明らかである。すなわち,すべて義を行わない者は,神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も,同様である。わたしたちは互に愛し合うべきである。これが,あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て,その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く,その兄弟のわざは正しかったからである」― ヨハネ第一 3:10-12。
9 このように「悪しき者から出」たカインは「悪魔の子」の一人に数えられています。彼は大いなる蛇サタン悪魔のすえの一人でした。(創世 3:15)ゆえにカインはその霊的な父悪魔と同じ報いを当然に受けます。悪魔は象徴的な「火と硫黄の池」に投げ込まれ,永遠に「第二の死」に留まります。(ヨハネ 8:44。黙示 20:10)カインが死んで何千年ものちのこと,偽善的なユダヤ人の学者,パリサイ人は「へびよ,まむしの子らよ」と言われました。このようにイエス・キリストは,彼らが「ゲヘナの刑罰」にあうことを警告し,また彼らの行なおうとしていた殺害行為を述べました。イエスはまた彼らが義人の血を流すことを「義人アベルの血」と関連させています。(マタイ 23:33-36)このようにイエスは,「ゲヘナの刑罰」を受ける学者,パリサイ人とカインを同列に置きました。「義人アベルの血」を流した殺人者はカインだからです。
10 カインのようになるクリスチャンに復活の希望がありますか。
10 ゆえに千年のさばきの日に,死と黄泉の出す死人の中にカインはいません。(黙示 20:11-13)カインにならうクリスチャンは,死から復活して天の生命によみがえることを期待できません。―ユダ 11。
アダムとエバに希望があるか
11 アダムとエバおよび復活に関して,どんな疑問が生じますか。
11 聖書は,殺人者カインに復活の希望があることを述べていません。しかしカインの父母であり,人類の親となったアダムとエバには復活の希望がありますか。これは今日いろいろ論議されている問題です。アダムとエバは復活に値しますか。死者のよみがえりを可能にした神の愛あるご準備に与ることができますか。アダムとエバが神の国の下に復活するのをはばむ,動かすことのできない障害がありますか。イエス・キリストが「すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」以上,人間の最初の両親も,「すべての人のあがない」の恩恵にいくらかでも与るのではありませんか。―テモテ前 2:5,6。
12 ロマ書 5章14節によれば,アダムはだれに似る者でしたか。
12 クリスチャン使徒パウロはロマ書 5章14節に次のことを書いています。「しかし,アダムからモーセまでの間においても,アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も,死の支配を免れなかった。このアダムは,きたるべき者の型である」。すなわち地上の最初の人アダムは,イエス・キリストの型でした。イエスの来ることは,エデンにおいて約束されました。それはアダムとエバが二人共に罪を犯し,さばき主エホバ神から罰を宣告されようとしていたときです。
13,14 コリント前書 15章45,21,22節において,パウロはアダムとイエスとの類似を更にどのように示していますか。従って私たちはだれを通して永遠の生命を得なければなりませんか。
13 使徒パウロは復活を論じた比類のない章の中で,アダムとイエス・キリストとの類似を更に指摘しています。「聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。それは,死がひとりの人によってきたのだから,死人の復活もまた,ひとりの人によってこなければならない」― コリント前 15:45,21,22。
14 そこで私たちをはじめ,すべての人間が最初の人アダムのおかげで今日,地上の生命を享受しているのと同様,すべての人は最後のアダム,イエス・キリストにより頼まなければなりません。私たちはみな死に定められているからです。イエスをほかにして,アダムに等しい人間はいません。ゆえに地上で永遠に生きることを望むならば,私たちは「最後のアダム」イエス・キリストを通して永遠の生命を得なければなりません。
15 子という点で,アダムとイエスはどのように似ていますか。
15 地上にいた時のイエス・キリストは,以前天にいた時と同様に神の子でした。イエス・キリストに似た者であったアダムも,やはり初めは「神の子」でした。ただアダムは地の上の子だったのです。ルカ伝 3章24節から38節にあるイエス・キリストの先祖の系図は,ダビデ王を経て族長アブラハム,預言者ノアに至り,更に次のように終わっています。「エノス,セツ,アダムに至る。アダムは神の子なり」。(文語)イエス・キリストと同じく,アダムは完全な神の子に創造されました。それはほとんど6000年前のことです。
16,17 アダムはどのように妻を与えられましたか。神は二人に対してどんなみ心を告げましたか。
16 地上のアダムに適当な伴侶を与えるため,エホバ神はアダムの脇腹から1本の肋骨をとり,それを基にして妻を創造しました。こうして造られた女エバは,アダムの骨の骨,アダムの肉の肉でした。人間一般の結婚について言われたイエスの言葉通り,アダムとエバはふたりではなく「一体」でした。(創世 2:7-23。マタイ 19:4-6)それから創造主であり父である神は,二人に対するみ心を述べられました。創世記 1章28節はそれを明らかにしています。
17 「神は彼らを祝福して言われた,『生めよ,ふえよ,地に満ちよ,地を従わせよ。また海の魚と,空の鳥と,地に動くすべての生き物とを治めよ』」。
18 アダムとエバから人類の世に何が伝えられることは,神のみ心ではありませんでしたか。
18 こうして人類の世が生み出されることになりました。最初の二人から全人類に及ぶのは義と完全さであって,罪と不完全さではありません。罪を犯さなければ,罪の罰である死が世にはいってすべての人に及ぶことはありません。エデンの園に一人いたときのアダムに,神は警告を与えました。「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると,きっと死ぬであろう」― 創世 2:17。
19 不従順の罪はアダムにどんな罰をもたらしますか。アダムが罪を犯す場合,それは無知のためですか。
19 見落とすことのできない一つの事実が,ここで明らかです。神の戒めにそむいて死んでも,天の父なる神はアダムのためにあがないを設けて死からよみがえらせ,地上のエデンの園で永遠の生命を得る機会を再び与えて下さるから心配しなくても良いというのではありません。神はそのような事をアダムに告げませんでした。神がこの事をアダムに期待させたとすれば,誘惑にあった時のアダムはそれに力を得て罪を犯すようになります。神にそむいた罪の罰は死であることを告げた神の警告は,力のないものとなります。この事と一致して聖書は,罪を犯した場合,アダムの受けるものが救いの希望のない死であることを示しています。アダムの罪は言いわけのできないものです。それは無知のゆえの罪ではありません。
20 アダムの場合,なぜ罪は罪として認められますか。その当然の罰は何ですか。
20 「律法がなければ,罪は罪として認められないのである」と,使徒パウロはロマ書 5章13節に書いています。しかし当時エデンの園において,至上の立法者の明白な律法が与えられました。ゆえにその律法を破るならば,アダムは罪人となります。罪は罪として認められ,アダムは当然の罰として永遠の死を受け,元の塵に戻って消滅します。
21 (イ)アダムの前にはどんな二つの可能性がありましたか。(ロ)罪を犯すならば,アダムとエバの死はどんな死であり得ますか。
21 従ってアダムの前には二つの可能性がありました。一つは地上における永遠の生命,他は土の塵に戻る永遠の死です。(創世 3:19; 2:7)そのうえアダムとエバが子供を持たないうちに罪を犯した場合,子供をもうけて人類を生み出すまで死が延期されるという保証はありません。ゆえに罪を犯して死ぬならば,アダムとエバは子供を残さずに死ぬことになったとしても不思議ではないのです。死に定められてのち,子供が生まれるまで九カ月余りのあいだ生きながらえる保証はありませんでした。
22 アダムは罪を計画しましたか。アダムはどのように罪を犯し,また意識的に罪を犯しましたか。
22 アダムの罪は自分で考え出したものではありません。それは聖書から見て明らかです。大誘惑者すなわち見えない天にいて堕落した天使がアダムを圧倒して遂に罪を犯させたのです。この誘惑者は欺きによってまずアダムの妻を惑わし,罪を犯させました。そして今度は罪を犯したエバを用い,エバの罪に同調して罪に加わるようにアダムをいざないました。自分の罪に対して言い開きをするため,至上のさばき主の前に出たアダムは,「わたしと一緒にしてくださったあの女が,木から取ってくれたので,わたしは食べたのです」と答えています。(創世 3:12)神のかたちとさまに造られたアダムは十分な理知を持ち,神の明白な律法に対して罪を犯していることを承知していました。アダムは知らなかったのではありません。
23 テモテ前書 2章13,14節によれば,アダムはなぜ永遠の死に値しますか。
23 使徒パウロの言葉は,アダムがあえて罪を犯したことを明白にしています。「アダムがさきに造られ,それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが,女は惑わされて,あやまちを犯した」。(テモテ前 2:13,14)ゆえにアダムは死に値するのが当然であり,それは復活の希望のない永遠の死です。
24 創世記 3章17節から19節によれば,アダムは何を宣告されましたか。それは復活の希望を与えていますか。
24 至上のさばき主である神は,アダムに対する宣告を手加減して復活の希望を与えるようなことをせず,次のように言われました。「あなたが妻の言葉を聞いて,食べるなと,わたしが命じた木から取って食べたので,地はあなたのためにのろわれ,あなたは一生,苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために,いばらとあざみとを生じ,あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る,あなたは土から取られたのだから。あなたは,ちりだから,ちりに帰る」― 創世 3:17-19。
25 神がへびに告げた創世記 3章15節の言葉は,アダムに希望を与えますか。
25 神がへびに言われた言葉の意味を,アダムは理解せず,まだ後になって理解することもありませんでした。神の次の言葉は,明らかにへびだけにむかって言われたのです。「わたしは恨みをおく,おまえと女とのあいだに,おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」。(創世 3:15)それで理解することのなかったアダムの前途にあったのは永遠の死だけでした。
26 (イ)神は,罪を犯したアダムとエバにどんな衣を与えましたか。その事には象徴的な意味がありますか。(ロ)神はなぜアダムをエデンの園から追放しましたか。
26 罪を犯したアダムとエバは神の前で,また互に裸を恥じるようになりました。そこで創世記 3章21節に「エホバ神アダムとその妻のために皮衣を作りて彼等に衣せたまへり」とあるのは,神のあわれみの行いです。この皮衣は,いちじくの葉をつづり合わせたおおいに代わるものでした。神が何かの動物(鹿,熊,山羊,羊あるいは他の大きな動物)の皮の衣を二人に着せたことは,たとえば犠性の血を流すことによって,彼らの意識的な罪がおおわれることを預言的に示したという意味ではありません。そのことに象徴的な意味を持たせる必要はありません。神はアダムとエバをエデンの楽園から追い,「生命の木」から二人を遠ざける前に,きちんとした衣を与えたに過ぎません。アダムが「手を伸べ,命の木からも取って食べ,永久に生きる」ことのないように,神はアダムを追放しました。(創世 3:22,23)神がアダムとエバを追放したのは,明らかに二人ともに「永久に」死ぬためです。
27 (イ)アダムが罪を許されて死んだかどうかは,どのようにわかりますか。(ロ)アダムの死の時に,ヘーデースすなわちシェオールが存在するようになりましたか。
27 アダムはエデンの園において悔い改め,自分と妻の許しを神に求めましたか。許しを求めなかった以上,神がアダムに皮の衣を着せたのは,罪のおおわれることの象徴ではありません。ヘびのかしらを砕く女のすえに対して,アダムがいくらかでも信仰を持ち,悔い改めて自分と妻の許しを神に求めたことは,聖書に全くしるされていません。「その妻の名をエバと名づけた」ことを述べた創世記 3章20節ののち,息子の一人をセツと名づけたこと以外,アダムが何を言い,どのように感じたかは全くしるされていません。アダムの歴史は単に次のように述べています。「アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ」。(創世 5:1-5)アダムは意識的な罪人として死にました。その事を否定する聖書の記録はありません。アダムが死んだとき,死んで塵に戻る人間一般の墓シェオールすなわちヘーデースはすでに存在していました。しかしそれはアダムを迎え入れましたか。
28 (イ)シェオールすなわちヘーデースは何時から存在していますか。(ロ)そのときアダムは,後にヤコブが創世記 37章35節に述べたような言葉を語りましたか。
28 シェオールすなわちヘーデースは,おそくともアダムの死の801年前に存在するようになりました。兄カインに殺されたアベルの死後間もなくエバの胎に宿ったセツは,アダムが130歳の時に生まれたからです。(創世 4:1,11,25,26; 5:4)アベルの殉教以前に,何かの原因による死がなかったとすれば,シェオールすなわちヘーデースはアベルの死によって生じました。エホバの忠実な証人また崇拝者として死んだアベルは,死からの復活を約束されています。(ヘブル 11:4から12:3,24)しかし死んだアベルを埋葬した時,父アダムが,族長ヤコブの言葉を述べたことは記録されていません。ヤコブは愛した息子ヨセフがいなくなったのを悲しんで,「わたしは嘆きながら陰府〔シェオール(ヘーデース,七十人訳)〕に下って,わが子のもとへ行こう」と言いました。正しい人アベルは殉教したとき,シェオール(ヘーデース)に下りましたが,800年後に死んだ父アダムはそこに行きませんでした。アダムは妻エバと共に,ゲヘナの象徴する全き滅びを受けたからです。―創世 37:35。
29 創世記 4章11節のエバの言葉を基に,ある人は何を論じますか。しかしエバの言葉はなぜ当然ですか。
29 エバが滅びたということに同意しない人は,神の恵みを述べたエバの言葉を持ち出します。たとえばエバは最初の男の子を生んだとき,神の名を口にし,神の助けを得たことを述べました。創世記 4章1節にそのことがしるされています。「アダムその妻エバを知る彼はらみてカインを生みて言けるは我エホバによりてひとりの人を得たりと」。(文語)しかしエバの罪のために神が下した次の宣告を思えば,エバの言葉はきわめて当然です。「わたし〔エホバ〕はあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお,あなたは夫を慕い,彼はあなたを治めるであろう」。(創世 3:16)エホバのこの言葉はエバに対する祝福ではありません。またエバが最初の息子や,後に他の子供たちを生んだのはエバ自身の力によるのではなく,進化の働きでもありません。
30 エホバ神が何を許したために,エバはこのような言葉を言えましたか。神はエバの上に何を成就させましたか。
30 アダムとエバは長い年月のあいだに次第におとろえて最後に死にました。しかし神の刑罰が直ちに臨んだとすれば,エバは身ごもることなく,長男カインを生むことさえなかったでしょう。そしてカイン誕生の際,彼を名づけて言ったエバの言葉から見て,かりにもエバが,へびに告げられた神のことばにある女は自分だと思っていたとすれば,エバは間違っていたことになります。(創世 3:15)神は,エバの産みの苦しみを増すという宣告の言葉を成就したに過ぎません。
31 創世記 4章25節にあるエバの言葉から見て,神は最初の女預言者としてエバを用いたと言えますか。テモテ前書 2章12節から14節は,何を示していますか。
31 創世記 4章25節は,アベルの死後にエバの語った次の言葉をしるしています。「アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み,その名をセツと名づけて言った,『カインがアベルを殺したので,神はアベルの代りに,ひとりの子をわたしに授けられました』」。ここでエバが女預言者としてエホバに用いられていたとは考えられません。エバは死に定められた罪人であり,またテモテ前書 2章12節から14節に使徒パウロも示している通り,欺かれやすい女だからです。「女が教えたり,男の上に立ったりすることを,わたしは許さない。むしろ,静かにしているべきである。なぜなら,アダムがさきに造られ,それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが,女〔エバ〕は惑わされて,あやまちを犯した」。禁断の木の実を食べたエバは,神の最初の預言者アダムをしりぞけました。
32,33 (イ)人類の系図がセツにさかのぼることから,セツに関するエバの言葉を預言と見ることができますか。(ロ)エバがひとりでセツの名をつけましたか。その言葉からみて,エバには将来の救いがありますか。
32 人類の系図がアベルではなくてセツにさかのぼっているのは事実です。しかしそれはセツの誕生と命名の際にエバが神の女預言者として霊感の預言を語ったという証拠にはなりません。長く生きることを許され,また130歳になっても子供を生むことのできたエバは,セツの誕生に際し,とくにエバに対する神の宣告の言葉を思うとき,神に感謝できました。―創世 3:16。
33 アベルの死後間もなく生まれたセツを,エバがアベルの代わりの子と考え,従って「置かれた,任命された」を意味するセツという名をつけたのはごく自然のことです。また創世記 5章3節の述べることにも注目しなければなりません。「アダムは百三十歳になって,自分にかたどり,自分のかたちのような男の子を生み,その名をセツと名づけた」。そこでセツを名づけた時のエバの言葉をとりあげて,エバが女預言者として語っていたことは間違いないと論じ,またエバが滅びではなくて神の設けた救いに将来あずかると論ずることはできません。
34 (イ)テモテ前書 2章14節からみて,「惑わされた」エバは言い訳できますか。(ロ)テモテ前書 2章14,15節にあるパウロの次の言葉から,どんな疑問が起きますか。
34 使徒パウロの言葉から見ても,エデンの園においてエバが「惑わされ」たのは事実です。しかしそれは言いわけにはなりません。パウロは,エバが「あやまちを犯した」とつづいて述べているからです。エバが神の律法を破った者であることは変わりません。ヘびに語ったエバの言葉からもわかるように,エバは神の律法を十分に承知していました。(テモテ前 2:14。創世 3:1-3)しかしパウロの言葉のつづきはどうですか。夫アダムが救われなくても,少なくともエバは救われることを示していませんか。パウロは次のように述べています,「女は惑わされてあやまちを犯した。しかし,女が慎み深く,信仰と愛と清さとを持ち続けるなら,子を産むことによって救われるであろう」。(テモテ前 2:14,15)「女(は)……子を産むことによって救われるであろう」と述べたパウロのこの言葉は,エバのことを語っているのではありません。なぜですか。
35 パウロはそこに「女」という言葉を使っていますが,女はなぜエバのことではありませんか。
35 そのすぐ前のところで,パウロはクリスチャン会衆内における婦人の立場を論じています。ゆえにそれとの関連においてのみ,パウロはエバのことにふれたのであって,それは会衆内で教えることが婦人に許されない理由を示すためです。パウロは次のように述べました。「女は静かにしていて,万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり,男の上に立ったりすることを,わたしは許さない。むしろ,静かにしているべきである」。ゆえに会衆内で教えることを女に許さない理由を説明するためにエバをあげてのち,パウロは,教えることを許されていない「女」すなわち婦人一般に話を戻して,女は子を産むことにより霊的な意味で安全を保てる事を述べているのです。
36,37 テモテ前書 2章15節がエバのことを述べていない事は,どんな現代訳聖書に示されていますか。
36 以下にあげるテモテ前書 2章15節のさまざまな現代訳は,このことを示しています。アメリカ訳は,「しかし信仰と愛と清さを保ち,かつ分別を失わないならば,彼らは母親となることによって救われる」と述べ,ジェイムス・モファット博士の新訳聖書は,「しかし忠実と愛と清さを保ち,慎しみ深いならば,女たちは子を産むことによって安全を得る」と述べています。
37 改訂標準訳によれば,「信仰と愛と清さに留まり,慎しみを忘れなければ,女は子供を産むことによって救われるであろう」とあり,ジョージ・ラムサの東方古代写本に基づく聖書は,「彼女の子孫が信仰と清さと貞節の中に留まるならば,彼女は彼らによって生きるであろう」となっています。またC・E・ウイリアムスの口語新約聖書は,「信仰,愛,清さのうちに分別を以て生活をつづけるならば,女たちは母親となることによって救われる」と述べ,チャールス・キングスレー・ウイリアムス訳,やさしい英語の新約聖書は「慎しみを忘れず,信仰と愛と清さを保つならば,女は子供を産むことによって救われる」と述べています。―テモテ前 2:15。
あがないは適用されるか
38 テモテ前書 2章5,6節から,アダムとエバに関してどんな疑問が起きますか。
38 エバが神の国の下で救われるという説の根拠としてあげられる聖句は,今まで論じたことから明らかなように,永遠の生命の機会がエバにもう一度与えられるという事の証明にはなりません。ゆえにエバが救われるという論議をいくらしても,それはアダムの救いを論証することにはなりません。しかしアダムとエバの両方が,「最後のアダム」主イエス・キリストのあがないの犠牲から益を得るのではありませんか。テモテ前書 2章5,6節に使徒パウロは,「人なるキリスト・イエス……はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた」と述べています。従って13,14節に述べられているアダムとエバは当然「あがない」の益にあずかるべきではありませんか。多くの人はそのように論じます。
39,40 (イ)あがないとは何ですか。マタイ伝 20章28節において,イエスは何を言われましたか。(ロ)モーセを通して与えられた,あがないに関する神のどんな律法を,イエスはご存知でしたか。
39 あがないとは,あるものがとらわれ,支配され,隷属させられた場合,それを解放するため,相手の人あるいは団体に支払うか,あるいはひき渡した,価値あるものです。主イエス・キリストは犠牲の死を遂げることによってご自身を「あがない」として与えました。すなわちイエスの与えた価値あるものは,失われたもの,従って解放し,買い戻すべきものに全く等しいのです。マタイ伝 20章28節においてイエスは言われました。「人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」。イエスは,仲保者モーセを通してイスラエルの国民に与えられた神の律法に十分通じていました。
40 「しかし,ほかの害がある時は,命には命,目には目,歯には歯,手には手,足には足,焼き傷には焼き傷,傷には傷,打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない……〔つながれていなかった〕牛が……男または女を殺したならば,その牛は石で撃ち殺され,〔警告されたにもかかわらず注意を怠った〕その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし,あがないの金を課せられたならば,すべて課せられたほどのものを,命の償いに支払わなければならない」― 出エジプト 21:23-30。
41 「あがない」となるため,神のみ子には何が必要でしたか。
41 人類の「あがない」となるため,神のみ子は天から下り,エデンの園にいた完全なアダムに相当する,つまり等しく完全な人間になることが必要でした。このためみ子はユダヤ人の処女マリヤから人として生まれました。しかしその父はなおエホバ神です。このような奇跡によって生まれたみ子は完全で罪のない人であり,アダムからの罪を受け継いでいませんでした。神のみ心を行なうために献身し,その象徴として,バプテスマのヨハネにより水のバプテスマを受けた30歳のイエスは,エデンの園にいた罪のない,完全なアダムと全く等しい人間でした。それゆえにイエスは,罪とその罰である死から人類を解放するために,ご自分の人間の生命すなわち魂をささげることができたのです。
42 アダムとエバの子孫の多くは,イエスの「あがない」から益を得ますか。このあがないはまずアダムに,ついでエバに適用されるのではありませんか。
42 アダムとエバの子孫の多くがイエス・キリストの「あがない」から益を受けてシェオール(陰府)すなわちヘーデース(黄泉)から復活し,楽園の地で完全な人間となることは,聖書に明白に教えられています。しかしアダムとエバについてはどうですか。人間イエスのからだまた魂が,エデンの園にいたアダムのそれに全く等しかったことを考えれば,イエスのささげた「あがない」はまずアダムに,次にエバに適用されるのではありませんか。必ずしもそうではありません。
43,44 (イ)イスラエルののがれの町はだれのためのものでしたか。それはどんな定めになっていましたか。(ロ)民数紀略 35章18節から21節,30節から32節において,この律法は故殺人について何を定めていましたか。
43 ひとつの例をあげると,預言者モーセを通してイスラエル民族に与えられたエホバの律法は,イスラエルの全地に便利な場所を選んでのがれの町六つを設けることを定めていました。それは全くのあやまちで人を殺した者のためです。あやまって人を殺した者が血の報復を求める者の手を逃れていちばん近いのがれの町に逃げ込み,エホバの大祭司をつとめるレビ人の死ぬまで町に留まるならば,死の刑罰を避けることができました。(民数 35:9-29)しかし故意に人を殺した者,故殺人,暗殺者はどうなりましたか。のがれの町に関する神の律法は次のように定めています。
44 「故殺人は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は,自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき,彼を殺すことができる。またもし恨みのために人を突き,あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ,あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば,その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は,その故殺人に出会うとき殺すことができる」。「人を殺した者,すなわち故殺人はすべて証人の証言にしたがって殺されなければならない。あなたがたは死に当る罪を犯した故殺人の命のあがないしろを取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。また,のがれの町にのがれた者〔あやまって人を殺した者〕のために,あがないしろを取って大祭司の死ぬ前に彼を自分の地に帰り住まわせてはならない」― 民数 35:18-21,30-32。
45 故殺人のためのあがないがエホバに受け入れられない事を,私たちはどのように見るべきですか。
45 故意に人を殺した者はあがなわれず,ユダヤ人の大祭司の保護の下に生き延びることもできませんでした。あらゆる生命の与え主であるエホバ神は,その当然の権利として,また公正なはからいとしてこの事を定めました。
46,47 (イ)責任を持つ者アダムに関して,ロマ書 5章12節から14節およびテモテ前書 2章14節は何を述べていますか。(ロ)死の宣告を受ける以外に,アダムの罪は何の喪失を招いたかも知れませんか。
46 神はアダムとエバに対しても同様にされます。おもに責任のあるアダムに関してロマ書 5章12節から14節はこう述べています「このようなわけで,ひとりの人によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである……しかし,アダムからモーセまでの間においてもアダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も,死の支配を免れなかった」。
47 アダムによって,罪と罪の罰である死が人類の世にはいりました。このようにアダムはすべての子孫に罪と死を伝え,またその造り主エホバ神の聖なるみ名を汚しました。それは知らずに犯したあやまちではありません。「アダムは惑わされなかった」。(テモテ前 2:14)アダムは,善悪を知る木の実を禁じた神の律法を故意に破ったのです。アダムは,神のみ手によって死がもたらされる道をあえてとりました。アダムは,父親となる機会さえなく,24時間のその日に命をとられることを期待したかも知れません。こうしてアダムから子孫が生まれ出る機会さえ,失われたかも知れないのです。神の過分の恵みによってアダムが人類家族の親となったとき,人類は罪と死の定めの中に生まれ,生命の権利を持ちませんでした。
48 (イ)アダムのためのあがないを神が受け入れないことに関して,何が言えますか。(ロ)アダムとエバの子孫の場合には,何が言えますか。
48 神の明白な警告にもかかわらず,すべての子孫の上にあえて死をもたらしたアダムは故意の殺人者であり,エバもアダムの意識的な罪にあずかっています。ゆえに後代のイスラエルの「のがれの町」に関する律法と一致して,エホバはアダムとエバのためのあがないを受け入れず,大祭司イエス・キリストのつとめの益を二人に得させないでしょう。しかしアダムとエバから生まれ出た人類の家族について言えば,神は大祭司イエス・キリストが彼らのためにささげたあがないの犠牲を嘉納されます。死に値した彼らの罪は,彼らの意志とは無関係にアダムから受け継いだものであり,あやまちに過ぎないからです。
49 アダムの息子カインとあがないの益については何が言えますか。
49 アダムの長男カインの場合,神はキリストのあがないの犠牲の益をカインには与えません。エホバ神から直接に警告されたにもかかわらず,悪意を抱いたカインは敬虔な弟アベルを殺したからです。両親のアダム,エバと同様,カインは死人の中からよみがえらないものと当然に考えられます。
-
-
20世紀に住む私たちの世代と復活ものみの塔 1965 | 7月1日
-
-
20世紀に住む私たちの世代と復活
1,2 (イ)この20世紀の世代の人すべてが,復活という神のご準備に与りますか。(ロ)イエスのたとえ話は,やぎ」にたとえられた人々に関して何を明らかにしていますか。
この20世紀に住む世代の多くは,死んでのちもエホバ神の恵みを受け,み子の国の下で復活します。
2 しかし私たちの世代の人々の中には,サタン悪魔および悪鬼と同じ最後を遂げる人々も大ぜいあります。イエス・キリストはこのような人々を山羊にたとえました。現存する悪の事物の制度の終結のさまを述べたイエスの預言は,羊とやぎのたとえ話で終わっています。このたとえ話はマタイ伝 25章31節から46節にあります。私たちの世代の中で「やぎ」によって象徴されるのは,今の諸国民の人々であり,イエスが羊にたとえた正しい人々と分けられます。ここでいう「羊」も「やぎ」も,地に住むグループに属する人々です。この人々はみ子イエス・キリストと共に天国を相続するためにエホバ神に召されていません。この人々は地上の事柄に心を向けています。―マタイ 25:31-33。
3 イエスは「羊」と「やぎ」の両方をだれから区別していますか。どのように?
3 イエスは「羊」と「やぎ」の両方を,ご自分の霊的な「兄弟」すなわちイエスと共に天国を相続する14万4000人の共同相続者と区別しています。イエスの言葉にあるように,「羊」はイエスの天の父の祝福を得る人々です。その理由は彼らがイエスの霊的な兄弟,「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとり」に善をしたからです。(マタイ 25:34-40)イエスが,「やぎ」をのろわれた者としたのは,イエスの霊的な兄弟,「これらの最も小さい者のひとり」に善をしなかったからです。それで「やぎ」は,これらの兄弟たちによって代表される主イエス・キリストに対して何の善をも行ないませんでした。
4 象徴的な「やぎ」をしりぞけた時,イエスはだれの事を述べましたか。その者に関して何を述べましたか。
4 イエスはこのたとえ話の中で,サタン悪魔と悪鬼が,「第二の死」を象徴する「火と硫黄の池」に投げ込まれることを明白にしています。「やぎ」のグループに対するイエスの言葉がそれです。「のろわれた者どもよ,わたしを離れて,悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」― マタイ 25:41-45。黙示 20:10,14。
5 王イエス・キリストは象徴的な「やぎ」にむかって,何時その事を告げますか。
5 王イエス・キリストは,「異邦人の時」の終わった西暦1914年以来,天から支配しています。(ルカ 21:24)「やぎ」と認められた人々に対し,イエスは何時この言葉を告げますか。それは大いなるバビロンの滅びの時そして大いなるバビロンの滅びにつづくハルマゲドンの戦い,すなわち「全能の神の大いなる日の戦闘」のあいだです。(黙示 17:1,2,15,16; 16:14,16; 17:14)そのとき滅ぼされる「やぎ」は,祝福された「羊」のグループにはいらないすべての人を含みます。
6 象徴的な「羊」はどのように羊であることを示しますか。
6 「羊」はイエスの霊的兄弟また共同相続者に対して積極的に善を行ない,王イエス・キリストを支持する人々です。「羊」は大いなるバビロン(バビロン的な偽りの宗教の世界帝国)から離れ去りました。彼らはキリストを通し神に献身してバプテスマを受け,その後キリストの霊的な兄弟たちと共に神の国に関する最後のあかしを全世界に宣べ伝えます。イエスは預言の前半にあたるマタイ伝 24章14節において,このあかわしのわざを預言しました。これらの羊は,神と戦うためハルマゲドンにむかう「全地の王たち」およびその軍隊の行進に加わりません。
7,8 「のろわれた者」として滅ぼされる「やぎ」の中には,だれが含まれていますか。
7 それとは反対に,「のろわれた」者として滅ぼされる「やぎ」は,大いなるバビロンが永遠に滅びるまでその中に留まっている宗教的な人,また現代の「不法の人」,「滅びの子」となっている宗教家また象徴的な「毒麦」「悪しき者の子」(マタイ 13:25-30,38:42),政治支配者である「王たち」,その将軍,馬に乗る者,奴隷,自由人など,大なる者と小なる者を含みます。それはハルマゲドンの戦いに臨む者たちです。しかし彼らは王の王,主の主の側にはいません。―黙示 19:18-21。
8 信者の配偶者を持ち,その良い手本にもかかわらず,神のさばきがこの敵の世に執行されるその日その時になお不信者に留まっていた者および信者の片親や両親(父母)を持ち,従って責任能力のない未成年の時には「きよい」とされたにしても,成年に達してのち,そして「やぎ」の滅ぼされる時が来ても,なお献身してバプテスマを受けた信者となっていなかった者は,「やぎ」の部類にはいります。―コリント前 7:12-16。
9 従ってこれらの「やぎ」とはだれですか。それはだれと区別しての話ですか。
9 つまり神のさばきの執行される時までに「羊」とならず,「ひとりの羊飼」の一つの群れに集められて羊飼の霊的な兄弟の残れる者と共にならなかったすべての人は「やぎ」に数えられるでしょう。―ヨハネ 10:16。黙示 7:9-17。
10 やぎのような人々の子供はどうなりますか。この事はどのように預言的に示されましたか。
10 やぎにたとえられた人々の献身していない子供は,責任能力のない未成年であっても滅びを免れず,ゲヘナに陥るのを避けられません。この事実は,背教のエルサレムが滅びに直面したとき,滅ぼす者に告げられたエホバ神の命令を見てもわかります。エホバ神は次のように命じました。「彼〔救われる人々にしるしをつけた者〕のあとに従い町をめぐって,撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ」。紀元前607年,エルサレムの滅ぼされた時にこの通りの事が起きました。―エゼキエル 9:5-7。
11 これらの「やぎ」と共に,どんな霊的なグループが滅びますか。
11 かつてキリストの霊的な兄弟でありながら不忠実となり,裏切り者となった「悪い僕」と「悪い怠惰な僕」のグループの残った者も,ハルマゲドンの時「やぎ」と共に滅ぼされます。彼らは天に復活しません。―マタイ 24:48-51; 25:24-30。
12,13 (イ)滅ぼされた「やぎ」はどこに行きますか。(ロ)永遠という言葉によって形容されていることから見て,彼らの刑罰は何を意味しますか。イエスの言葉はその事をどのように示していますか。
12 刑罰を受けた「やぎ」は王の前を離れてどこに行きますか。アブラハム,イサク,ヤコブその他,エホバ神の忠実な証者の行ったヘーデース(黄泉)すなわちシェオール(陰府)ではありません。「やぎ」は「悪魔とその使たちとのために用意されている」象徴的な「永遠の火」にはいります。(マタイ 25:41)この「永遠の火」はヘーデースやシェオールにはありません。金持ちと乞食ラザロのことを述べたイエスのたとえ話も,ゲヘナの火つまり「硫黄の燃える火の池」がヘーデースまたシェオールにあることの証明とはなりません。(ルカ 16:19-31)a。では永遠のものと言われたこの刑罰は何を意味していますか。それは永遠の生命の正反対です。すなわち永遠の滅びという永遠の刑罰を意味します。これが永遠の滅びを意味することは,不義の者となった「やぎ」のグループに告げられたイエスの結びの言葉からもわかります。
13 「そして彼らは永遠の刑罰〔永遠の切断〕を受け,正しい者は永遠の生命に入るであろう」― マタイ 25:46,〔新世〕。
14 これらの「やぎ」はどこに行きませんか。彼らは何を受けませんか。
14 大いなるバビロンの滅びのとき,あるいはハルマゲドンの戦いで滅ぼされるこのような「やぎ」は,どんな形のものであれ「永遠の生命」を受けることがありません。また永却の苦しみを受けることもないのです。あたかも火によって滅びるこれらの者は復活しません。
15 「永遠の生命」に至る道にはいる人々のうち,復活を必要としないのはだれですか。なぜそうですか。
15 正しい者となった「羊」のグループは,キリストの下に建てられる神の新しい秩序に永遠の生命を得る道にすすみます。彼らの「大ぜいの群衆」は,きたるべきハルマゲドンの戦いを生き残ることでしょう。こうしてイエス・キリストが千年のあいだ治める地に住むこれらの人々に,復活の必要はありません。(黙示 7:9-17)メシヤの治めるみ国の下で忠実を追い求めるこれらの人々は,「火の池」すなわち「第二の死」によって滅ぼされるのを避け,死ぬことがないでしょう。ヘーデースすなわちシェオールに行くことのないこれらの人々に復活の必要はありません。
16 ゆえにキリストの千年統治の始まる時,地上にだれがいませんか。なぜですか。
16 しかし20世紀に住む私たちの世代のうち,「やぎ」のグループについて言えば,そのような事はありません。大いなるバビロンの滅びるとき,そしてハルマゲドンの戦いにおいて,彼らは永遠の刑罰を受けて滅び,復活しません。彼らは「第二の死」を受けるからです。従ってキリストの千年統治の始まるとき,その正義の支配を妨げる「やぎ」のグループはいません。
17 (イ)見えない領域にいるどんな者の妨げが,その時なくなりますか。なぜですか。(ロ)地上の「羊」は何の準備をしますか。
17 またキリストのみ国の支配を妨げる,見えない悪魔と悪鬼もいなくなります。なぜならばハルマゲドンの戦いの直後,悪魔も悪鬼も束縛されて無力となり,底のないところに入れられて,生けるすべてのものから遮断されてしまうからです。(黙示 20:1-3)それでハルマゲドンを生き残る「羊」は悪しき者の妨害を受けることなく,海とヘーデースすなわちシェオールから上によみがえってくる人々を迎える準備をします。
[脚注]
a イエスのたとえ話に出てくる「金持」は,ゲヘナに行ったのでありません。ゲヘナは完全な滅びを表わすからです。完全に滅びたならば,たとえ話にある「金持」のように話をすることはできません。そのうえ「金持」のグループに属していた宗教家の中にはそのグループから離れてクリスチャンとなり,霊的に死んだ「金持」の受ける苦しみを免れた人々もありました。パリサイ人であったタルソのサウロは西暦33年五旬節ののち,暫らくは大きな苦しみを感じ,それゆえにクリスチャンを迫害しました。しかし彼にサウロは「金持」のグループから離れ,象徴的な意味でアブラハムのふところにあるラザロのグループに加わりました。―使行 7:58-60。
1951年2月15日号「ものみの塔」113-126頁および1951年3月1日号141-156頁をごらん下さい。(いずれも英文)
ゆえに「金持」が「火炎の中で苦しみもだえて」いるのはヘーデース(黄泉)すなわちシェオールにおける出来事です。淵をへだててアブラハムと話をしているのは,彼が死んだアブラハムのいる場所に置かれていることを表わしています。
-
-
復活によって地上の人々に開かれる機会ものみの塔 1965 | 7月1日
-
-
復活によって地上の人々に開かれる機会
1 地上によみがえる人々の復活は何時ありますか。なぜそのために準備が必要ですか。
海およびヘーデース(黄泉)またシェオール(陰府)から死人が地上によみがえるのは,「全能の神の大なる日の戦闘」の後です。そしてサタン悪魔と悪鬼が千年のあいだ束縛されるため,底のないところに閉じ込められてから,このような復活が始まります。そのとき「先の天と地」は逃げ去り,「新しい天と新しい地」がそれに代わっていることでしょう。(黙示 20:1-3,11-15; 21:1)死者のよみがえりによって地上の人口は次第に増加するゆえに,よみがえってくる人々を迎える準備が必要なことは言うまでもありません。よみがえったヤイロの娘にまず食物が与えられたことは,それを示しています。―ルカ 8:55。
2 (イ)準備がととのってから,海と黄泉また陰府はだれを出しますか。(ロ)「義者」の中にはだれが含まれますか。
2 準備がととえられたとき,王イエス・キリストは海と黄泉(ヘーデース)また陰府(シェオール)にその中の死人を出すことを始めさせるでしょう。使徒パウロが法廷においてローマの総督ペリクスに述べたように,その中には正しい者も正しくない者もいます。(使行 24:15)「義者の復活」があり,このような義者とくにバプテスマのヨハネから正義の人アベルにまでさかのぼる,キリスト以前の「多くの証人」は早く顧みられるに違いありません。また早くよみがえる人の中には,ハルマゲドンの戦い前に死んだ現代の忠実な「他の羊」も含まれています。(ルカ 14:14。ヘブル 11:4-40; 12:1。ヨハネ 10:16)この復活は一部の正統派ユダヤ教徒が考えるように聖地パレスチナに限定されません。パレスチナだけが「生ける者の地」になるのではなく,メシヤの治める神の国の下にあって全地は生ける者の地となります。やがて不義者もよみがえる時が来て,ヘーデース(黄泉)と海はこれらの人々を出すでしょう。この人々のうち,聖書中に明らかにされている人も少なくありません。
3 不義者のみならず義者も,地上によみがえることによって益を受けるのはなぜですか。
3 不義者のみならず義者もまたよみがえってのち,神の愛するみ子,あがない主イエス・キリストの天の国が全能また完全な支配を行なう地で生命を得る機会を得ます。イザヤ書 26章9,19節はそのことを保証しています。「そは汝のさばき地におこなはるるとき世に住めるもの正義をまなぶべし なんぢの死者はいき,わが民の屍はおきん,塵にふすものよ醒めて歌うたふべし,なんぢの露は草木をうるほす露のごとく地はなきたまをいださん」。(文語)「義者」でさえも,復活してたちまち完全になるのではありません。ヘブル書 11章39,40節をそのように解釈するのは正しくありません。
4 「不義者」も「義者」と同じく復活するのに,人々を無知に留めておかないのはなぜですか。
4 義者のみならず不義者も復活するならば,神の国を伝道する必要がどこにあるだろうかと問う人もいます。(使行 24:15)復活と救いの機会が与えられるとすれば,御国の音信をわざわざ伝えることをせず,人々を無知の状態に留めておくほうがよいと思われるかも知れません。しかしその答はこうです。御国の伝道は聖書の預言の成就であって,成し遂げられねばなりません。(ヨエル 2:28-32。使行 2:16-21。マタイ 24:14。マルコ 13:10)神の預言は必ず成就します。
5 どんな危険のゆえに神の「見張り」は,警告を与えなければなりませんか。
5 そのうえ大いなるバビロンが滅び,「全能の神の大いなる日の戦闘」がハルマゲドンにおいて戦われる前に,神の刑罰を警告しなければなりません。象徴的な「やぎ」の上に神の刑罰は間もなく臨み,警告に従って行動しなかった者は,「第二の死」を受けて永遠に滅びます。エホバ神は,見張る者としての預言者エゼキエルに次のことを告げました。「主エホバ言たまふ我は活く我悪人の死るを悦ばず悪人のその途を離れて生るを悦ぶなり汝らひるがへりひるがへりてその悪しき道を離れよイスラエルの家よ汝等なんぞ死べけんや」。(エゼキエル 33:11,文語)ゆえにたとえ知らなくても,滅びる危険があります。
6 (イ)無知のゆえの救い,あるいは復活がありますか。(ロ)イエスが地上で宣教を行なって以来,人類のすべてが無知の状態に留まるのは神のみ心ですか。
6 従って無知に留まっているならば救われると思うのは,聖書から見て間違っています。死んだ人々の大部分は無知であり,無知だった多くの人がよみがえることでしょう。しかしその人々は無知だったゆえに復活と永遠の生命にふさわしい者とされたのではありません。西暦29年から33年にわたるイエス・キリストの地上の宣教に先立つ2000年以上のあいだ,大きな無知の状態が世界的に存在していました。そして神はご自身の選民ではない諸国民や人々の無知を見過ごされたのです。その証拠に,使徒パウロは無知の状態にあったアテネ人に次のことを語りました。「神は,このような無知の時代を,これまでは見過ごしにされていたが,今はどこにおる人でも,みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は義をもってこの世界をさばくためその日を定め,お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち,このかたを死人の中からよみがえらせ,その確証をすべての人に示されたのである」。(使行 17:30,31)神に選ばれたのはイエス・キリストであり,神は西暦33年にイエスをよみがえらせました。
7 「義者」にも無知の状態が存在しますか。そうであれば,どの程度までの無知ですか。
7 義者にしても不義者にしても,死人の中からよみがえった人々の無知は相対的なものです。キリストの復活に先だつ4000年間の「大ぜいの証人」さえ,義者ではあっても,神の目的の成就に関して多くの事柄を知らず,神が復活させて生者と死者の審判者に任命したイエス・キリストによる神の救いについて,多くの事柄を知りません。この人々でさえ学ぶべきことは多く,少なくともマタイ伝から黙示録まで27冊のクリスチャン・ギリシャ語聖書の内容を学ぶことが必要です。またこの知識を試みられることも必要でしょう。
8 杭にかけられていて,イエスから楽園の約束を得た悪人は復活してのち,何を学ばなければなりませんか。
8 イエスのかたわらの杭につけられ,はじめイエスを嘲ったのに,後で同情心を示した悪人も多くの事を学ばねばなりません。杭の上の悪人はやがて来るイエスの国について少なくとも知り,御国にはいる時思い出してほしいとイエスに頼みました。しかしこの人は,イエスの国が天のものであることを知りませんでした。「本当にわたしは今日あなたに言う,あなたはわたしと共にパラダイスにいるであろう」と言われたイエスの言葉が成就するとき,この人はキリストの治める,そのとき楽園となった地によみがえるでしょう。(ルカ 23:43,新世)しかしよみがえった時,救いの道に歩むことが必要であり,しかも理知を以てその道を歩まなければなりません。
9 ヨハネ伝 17章3節のイエスの言葉からわかるように,救いは何によって得られますか。
9 ゆえに救いは無知によって得られるのではなく,知識を得てはじめて可能となります。死者の復活があるのも,一つには学ぶためです。真理の知識は救いのために肝要なものの一つです。反対に無知は死を招きます。忠実な使徒を前に天の父に祈った言葉の中で,イエス・キリストは次のことを言われました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」― ヨハネ 17:3。
10 (イ)地上によみがえった人々の復活は最後の救いを意味していますか。(ロ)どの場合にも,救いは何に依存していますか。それに関して何が必要ですか。
10 不義者にしても義者にしても,復活を受けたことは最終的に救われたという意味ではありません。それは永遠の救いの機会が開かれたことを意味するに過ぎないのです。楽園の地における人類の救いは,無知を理由に施されるものでは決してありません。それはどんな場合にもイエス・キリストのあがないの犠牲に全く依存しています。そしてこのあがないの犠牲に関して正確に知ることが必要です。この知識は復活したすべての人に十分に与えられねばなりません。キリストの千年統治のあいだ,メシヤによる神の国すなわちイエス・キリストおよびキリストと共に王となり祭司となる14万4000人の手に委ねられた国によって,そのことが行なわれます。
11 救いを永遠のものにするため,救われた人々は何をすることが必要ですか。
11 ついで救いを永遠のものにするには,このあがないの犠牲を受け入れなければなりません。(テモテ前 2:3-6)また受け入れてからは,神の油そそいだ王イエス・キリストと神の永遠の宇宙主権に全く忠誠であり,絶対に従順でなければなりません。最後の試みの時まで,またそれを越えて永遠にそうでなければなりません。(黙示 20:7-10)この要求にそむく者はことごとく滅びます。
-