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  • 神の目的とエホバの証者(その8)
    ものみの塔 1960 | 12月15日
    • パストー・ラッセルは,いつもの通り,予定されていた講演の時より1時間早く会場に到着しました。おどろいたことに,大ぜいの人々は教会の外に立つていたのです。ラッセルは,いつたいどうしたわけかとたずねました。責任を取つていた兄弟たちは,門番がいないので教会に入れないと告げました。「契約をしてあるのでしよう。そして,いくらかの前払いもしてあるのでしよう?」とラッセルは聞きました。兄弟たちが,「そうです」と答えるのを聞いたラッセルは,「それでは,この場所は法律的に言つて次の数時間は我々のものである。もし正面から入れないなら,兄弟のひとりを地下室へもぐりこませ,人々のために戸を開けなさい」と彼は告げました。兄弟たちはその通り行なつて,その大きな集会はオークランド・メソジスト教会で成功裡に行なわれました。

      反対は進歩を止めることに失敗

      トム: すると,ラッセルは勇敢な人であつただけでなく,機略に富んだ人だつたようですな。

      ジョン: ラッセルは,神から与えられた任務から,すぐに転向させられるような人ではありませんでした。彼は,自分が行なつていたわざは,正直な心を持つすべてのクリスチャンにとつて,神の御こころに従うことであり,最善をつくしてその責任を果たそうと決意しました。ラッセルとその制度に対して加えられた一切の反対は,その前進の活動をとめませんでした。これら初期の証者たちの熱心さと活動は,科学の面で進歩発達した現代では,十分に認識しがたいものです。忠実な証者たちのこの群れは,その数が小さいものですが,反対をうけても恐れず,目前にある大きな仕事を見てもひるみませんでした。

      わざは,どんどんひろまつて,制度は拡大しました。1903年,イートン ― ラッセルの討論が行なわれるすこし前に,ラッセルは第2回目の欧州旅行をしました。そのとき,彼はドイツに協会の支部事務所を設立しました。k 翌年,オーストラリアに支部がつくられました。l この頃には,真理の種子は遠い地の南アフリカ,a日本bそして英領西インド諸島の良い地に落ち始めました。ジャマイカのキングストンで大会が開かれ,400人が出席し,公開集会には600人が出席しました。c アメリカ合衆国内でも拡大はつづき,1908年までには,オハイオ州プットーイン・ベイで8月29日から9月7日まで大会を開き,4800人という推定最高数の人々が出席しました。d

      幾百万冊という数の文書は配布され,この時までには3万人がものみの塔の予約者でした。そして,そのうちの幾千人という人々は,神の御言葉を知りたいと切実に願つていた他の人々に,聖書の真理を伝えることに参加しました。さらに,聖書の真理にたいするこの大きな要求にこたえるため,またキリスト教国の牧師の反対にうちかつため,そしてこれら誠実な聖書研究生たちに順次啓示される真理の洪水に歩調をそろえるため,新しい文書がたえず出版されました。そして,最初は一部分しか理解できなかつた真理は,はつきりと分かるようになり,洗練されました。

      トム: ラッセルが行なつた討論は,イートンが相手の時の1回だけでしたか。

      ジョン: そうではありません。1908年,新教徒たちは,キリストの弟子派に属する長老エル・エス・ホワイトを挑戦者にしました。この派は,アメリカ南部でいちばん大きな新教徒の群れの一つです。この群れは,ラッセルの大きな人気と,大聴衆を講演に呼び集め得るラッセルの能力を巧く利用して,この公開討論会をキリストの弟子派の宗教復興会に変えようと希望しました。しかし,パストー・ラッセルは,彼らの動機をあやしみ,討論の行なわれるオハイオ州シンシナテイ市で,この期間中に8日間の大会をひそかに取りきめました。もしこのことがなされなかつたなら,シンシナテイ市の小さな会衆は,そこに出席を予定されていたキリストの弟子派の者たちの数で圧倒されてしまつたでしよう。1908年,2月23-28日までに予定されていた6つの討論は予定通りに行なわれて,幾千人という人はラッセルの楽勝を目撃しました。ラッセルは,この時までには討論がたいへん上手になつていました。e 討論の全文とラッセルおよびエルダー・ホワイト両人の写真は,シンシナテイの「エンクァイアラー」(英文)に掲載されました。f たぶんこの一連の討論で得られた成功は,エルダー・ホワイトの提唱した討論会後の宗教復興運動の結果から判断することができます。3月1日,日曜日午後の聖書研究生の大会最後の集会には,2100人が出席しました。しかし,同じ日にエルダー・ホワイトが始めた宗教復興運動に出席した人の数は,彼を含めてわずか31人だけでした。他の人々も挑戦を申し込み,それらの挑戦はうけ入れられました。が,最後の瞬間になると,挑戦者たちが申込みを取り消すのが常でした。g

      敵は内部から攻撃を加えた

      ロイス: パストー・ラッセルと制度内の者とのあいだに問題がありましたか。

      ジョン: ありました。いつでも,利己主義,ほこり,あるいは野心のために,物事がはつきり見えない人がいました。しかし,これらの反対者たちは,神が用いている径路の質,力そして忠実をためすのに役立ちました。はじめのころ,バーバーとのあいだに生じたあがないの教理についての問題をおぼえておられるでしよう。それから,このことからすこし経つてのち,その試験を通つた者のひとりは,高等批評のわなに陥り,自分に従う弟子たちをひこうと努めました。h

      次のふるい分けは,それからすぐ後に起こりました。そして,たとえ意図が良いものであつても,主の径路と競争し合うことは,必ず失敗することを表わしました。その件について,ラッセルは次のように報じています。すなわち,仲間のひとりは,

      「ものみの塔」と同じ形式に従い,別の新聞を開始して,神の計画の簡単な特色のいくらかを再出版しようと図つた。彼はある種の宣教者,第一人者の教師になろうと望んだ。彼はあがないの点で正しい側に立つた,と私は知つていたので,彼の成功を祈り,彼の新聞,「シオンのデイスター」(いまでは長年のあいだ印刷が中断されている)の見本1枚を約1万人の我々の読者に紹介した。……しかし,1年足らずのうちにそれは厚かましくも不誠実の道に走つた。i

      それから,1890年代の初期に,反逆の種子はさらに制度内に播かれました。ある顕著な奉仕者たちは,パストー・ラッセルに反対して,協会を自分たちの思いのままに運営しようと欲しました。1893年,イリノイ州シカゴの大会の後,これらの陰謀家たちは,ラッセルの人気を終らせ,協会の会長を辞任させるためのキメ手とも言うべき悪事をたくらみました。この問題はパストー・ラッセルをひどくなやませ,悲しませました。しかし,すべての事実が明るみに出されたとき,ラッセルの正しいことは証明されラッセルに反対の陰謀を企てたものは間もない中に全く影をひそめ,奉仕のわざは彼らなしでつづけられて行きました。j

      さて,今度は別のことが生じました。ラッセル夫人は,長年のあいだ協会の理事でもあり,役員でもありました。また協会の秘書会計士の仕事もしていました。彼女はまた「ものみの塔」誌の共同編集者で「ものみの塔」に定期的に寄稿していました。ちよつと前にお話した問題が生じたとき,ラッセル夫人はたくさんの会衆を訪問して,自分の夫のために論じました。彼女は,教育を受けた聡明な婦人であつたため,人々は彼女を快く受けいれたのです。しかし,その結果として,彼女は強い立場を求め,「ものみの塔」誌内に出版すべきものの決定権を得ようとしました。このような野心は,持つてはならないもの,悪いものです。ちようどモーセの妹ミリアムの場合と良く似ています。ミリアムは,イスラエルの指導者である自分の兄に反抗して,自分を顕著な者にしようとつとめました。k 「ものみの塔」誌に述べられている聖書的な見解と一致しない限り,ラッセル夫人の記事は出版されないことになりました。彼女がこのことを認識したとき,たいへんな動揺を感じ,その不満な気持はだんだん高まつて,遂に協会と彼女の夫との関係をたち切る段階にまで達しました。このため,ラッセルは彼女のために別の家をつくり,彼女を経済的に支えることが必要になりました。

      それから幾年か後の1906年,正当な裁判の手続きの後に,彼女の別居は合法のものと宣言され,彼女はラッセルに数千ドルの裁定額を要求しました。この裁判中に語られた特定な言葉の故に,パストー・ラッセルの敵対者たちは,ラッセルが不道徳な者であり,宗教界において持つているその地位につく資格はないと示すことに努力を払つてきました。しかし,そのような非難は偽りである,と裁判所の記録は明白に示しています。裁判所の記録は,この点について次のように報告しました。

      ラッセル夫人は,彼女の夫が不道徳の行いに有罪であると信じなかつた。そのように信じたことは一度もなかつた。そのことは,彼女の弁護士が(第10頁で),ラッセル夫人に次の質問をしている法廷の記録からも示される,「あなたの夫は姦淫の罪を持つていないということですね」。答「そうです」。l

      ロイス: それはパストー・ラッセルにとつてずいぶんつらいことだつたでしようね。

      マリア: そうでした。この結果が自分自身にとつてどういう意味を持つものか,また彼の敵が新聞でどのようにこのことを利用するか,ラッセルは良く認識していました。しかし,彼はもし自分が神のしもべであるなら,聖書中に述べられている神の原則または政策を決して捨てない,という立場を彼は取りました。それで,彼はその環境下で為し得るただ一つのことをしたのです。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1960 | 12月15日
    • 読者よりの質問

      ●サムエル前書 31章4節とサムエル後書 1章10節は矛盾しているように見えますが,それはどのように調和しますか。―フランスの一読者より。

      サムエル前書 31章4節(新口)は次のようです,「そこでサウルはその武器を執る者に言つた,『つるぎを抜き,それをもつてわたしを刺せ。さもないと,これらの無割礼の者どもがきて,わたしを刺し,わたしをなぶり殺しにするであろう』。しかしその武器を執る者は,ひじように恐れて,それに応じなかつたので,サウルは,つるぎを執つて,その上に伏した」。サムエル後書 1章10節(新口)には,ダビデに告げているアマレク人の言葉が記されています。彼はサウルの要求に応じて,彼を殺したと言いました,「そこで,わたしはそのそばにいつて彼を殺しました。彼がすでに倒れて,生きることのできないのを知つたからです」。

      すこし考えるなら,事態ははつきりしてくるでしよう。一つは霊感された記録です。おそらく預言者ナタンとガドの記したもので,サウロ王の死を告げています。彼らは事実としてそれを報じています。他の一つは,異教の人,アマレク人の名も知られていない若者の言った言葉です。その言葉は神の記録と矛盾しています。霊感をうけた筆記者たちの記録を疑うことができますか。もちろん,疑う理由はひとつもありません。異教の若者の言葉を疑うことができますか。できます。なぜなら,この若者は,その生存中ダビデの生命を取ろうとした者を殺したと見せかけてダビデの歓心を買おうとしていた,と結論するのは理に合うからです。彼の言葉は,したがつて意識的な嘘です。ところが,その言葉はダビデの歓心を買うどころか,かえつてダビデを怒らせてしまいました。ダビデは,エホバの油注いだ者を殺したというこの若者を殺すように命じたのです。

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