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わたしたちは愛ある創造者の目的に包含されている人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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1章
わたしたちは愛ある創造者の目的に包含されている
1,2 地上の生活は増し加わる大勢の人々にとってどうして興味深い新たな様相を呈していますか。
二十世紀のこの時代が終わりに近づくにつれ,増し加わる大勢の人々にとって地上の生活は,興味深い新たな様相を呈してきました。
2 生活がますます困難になってゆくのがわかる今日の事物の体制が,わたしたちの経験する最後のものなのではありません。わたしたちにとってはそれがすべてではありません。地は,人間が絶えず苦しむ所ではなくなるのです。いま全地を死のとばりで覆っている夜のやみは,まさに一掃されようとしています。今や夜が明けて,全地が全人類家族の楽しい生活の場となる新たな日が確かに始まろうとしています。このすべては偶然でも,偶発的な事でもなく,一部の科学者が障害を克服することでさえありません。人間以上のある高位者がそれを意図しておられるのです。
3 地上の生活に関する新たな見通しは,仏教徒,ヒンズー教徒,および運命の働きを信ずる人たちにどのような影響を及ぼしていますか。
3 そうです,増し加わる,あらゆる種類の大勢の人々は,この同じ地上で,しかも生気を与える事物の体制のもとで生活する時を待ち望みつつ,高まる喜ばしい興奮のため胸をときめかせています。その中には,かつては両手を組み合わせて,金ぱくをきせた瞑相する仏像の前でひざまずいて祈っていましたが,地上での人間としての生活を今また永久に享受する新たな理由を見いだした,以前仏教徒だった人がいます。また,かつて三者一体の神トリムールティの前で礼拝をしていた以前のヒンズー教徒は,もはや死後の人間の魂の想像上の輪廻を恐れて自分のために功徳を積もうなどとはしません。今や人類の他の人々すべてに対して愛ある関心を抱くゆえに,人類家族がこの地上でより良い生活を営むようになるとの良いたよりを他の人々と分かち合おうと努めています。また,人間の事柄はすべてカダル(「運命」)によって支配されていると以前信じていた崇拝者は,昔のダマスカスよりもずっと美しい,この地上のパラダイスを受け継ぐに値する者であることを今や実証したいと願っています。
4 キリスト教世界の信心家は自分たちの期待の対象をどのように変えていますか。
4 火と硫黄の燃える地獄で永久に燃やされるよりはむしろ天国で天使になりたいと考えていた以前のローマ・カトリック信者,あるいはギリシャ正教会の信徒,もしくは新教徒は今や,平和で安全な地上で完全な人間として限りない命を享受する用意をしています。
5 宗教を奉じていない人も同様にどのように影響を受けていますか。
5 そのすべてはまさに驚くべき宗教上の変化です。しかし,そうした変化は,信心深い誠実な人たちに限られてはいません。宗教を奉じていない人々でさえ,地上の生活に関する見方のこうした変化を経験しています。かつて,人間は原始の海に住む,短命の微小な単細胞から偶然に発生し,現代の人間にまで向上する野心的進化を遂げたという途方もない信仰を働かせていた,以前進化論者だった人は,将来自分がどうなるかについては,もはや突然変異や現代科学を頼りにしてはいません。純粋の唯物論をよしとし,世界の共産化を図り,全世界を反宗教的政府の支配下に置こうとして働いていた,以前“神を認めない”共産主義者だった人は今では,血肉を持つ,利己的で不完全な,死んでゆく被造物の支配権よりも高次の宇宙的な支配権が行使される時を待ち望んでいます。
6 それらの人たちはすべて,今や何に即した生活をしていますか。
6 宗教心の有無にかかわらず,こうした変化を遂げた人々は皆,自分たちの世代のうちに地上の生活がより良いものになる時を確信を抱いて待ち望み,今や地上の住民にとってこの上ない事柄が到来する,そうした確実な期待に即した生活をしています。それゆえに彼らの現在の生活は,より幸福で,より有用で,自分自身と他の人々にとっていっそう有益なものとなっています。彼らは皆,一致団結して,きたるべき年々に対するこうした共通の見通しを持っています。その思いや心や生活に何がこうした驚くべき変化をもたらしたのでしょうか。
7 何がそのような人たちのこうした変化をもたらしたのでしょうか。
7 それは彼らが皆,神の「とこしえの目的」に関する正確な知識を得,今やその目的が全人類の永続する益のために勝ち誇っているゆえに心から歓喜しつつ,その神聖な目的に調和するよう自分たちの生活を適応させているためです。そして,自分たちもまた,創造者なる神の愛ある目的に包含されていることを謙虚な態度で感謝しています。神の目的の範囲内で生活しているので,生きがいのある生活を営んでいるのです。彼らの前途には永遠の幸福が待ち受けています。
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「とこしえの目的」の不滅の保持者人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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2章
「とこしえの目的」の不滅の保持者
1,2 「とこしえの目的」を持ち得るのは,だれだけでしょうか。その方について,モーセは何と言いましたか。
「とこしえの目的」! 常に生きておられる神以外,だれがこうした目的を持ち得るでしょう。現代の多数の科学者の説く進化論は,そのような目的を持てるものではありません。未証明の進化論の発端である偶然の出来事もしくは偶然には,意図や目的がないからです。西暦前十五世紀のこと,世界的に名高い律法制定者で,詩人だった人,すなわちアムラムの子モーセは,そのような無窮の神に注意を引いて,次のように言いました。
2 「山々が生まれる前から,あるいはあなたが,産みの苦しみをもってするように,地と産出力豊かな土地を生み出す前から,定めのない時から定めのない時までもあなたは神です。……千年もあなたの目には,過ぎ去れば,つい昨日のようで,夜の間の[4時間の長さの]一区切りのようです」― 聖書の詩篇 90篇2-4節,新。
3 「とこしえの王」は,どうしてそのような目的を十分に達成できるのでしょうか。
3 西暦一世紀のこと,律法制定者モーセの言葉を堅く信じていたある人は,過去および未来の時間的制約を受けない,その同じ神に注意を引いて,こう書き記しました。「では,朽ちることなく,人が見ることのできないとこしえの王,唯一の神に,誉れと栄光がかぎりなく永久にあらんことを。アーメン」。(テモテ第一 1:17)このような永遠の神は,ご自分の目的が首尾よく達成されるまで,たとえそれがどんなに永い時代を要するとしても,その目的をあくまで貫くことができます。
4 神の「とこしえの目的」について書いた人は,その目的を待望のどんな人物と結びつけましたか。
4 西暦一世紀のこの同じ筆者は霊感を受けて,神の「とこしえの目的」について書き,その目的と預言者モーセ自身の予告した待望のメシア,つまり「油そそがれた者」または「聖別された者」とを結びつけました。当時,中東にいたシリア語を話す人たちはメシアのことを「ムシハー」と呼びました。が,エジプト,アレクサンドリアのギリシャ語を話すユダヤ人は,霊感を受けたヘブライ語聖書を翻訳する際,基本的には「油そそがれた者」を意味するギリシャ語クリストスを用いました。その翻訳はギリシャ語セプトゥアギンタと呼ばれるようになりました。―七十人訳のダニエル 9:25参照。
5,6 神がメシアに関連して何をお立てになったかに関して,現代の翻訳者はどのように,ある問題を引き起こしましたか。
5 しかし,第一世紀のその筆者の著作を訳した現代の翻訳者は,ある問題を引き起こしました。十六世紀以降,英語の聖書翻訳は問題の箇所を神の「永遠の目的」として述べています。a ところが,もっと最近の幾つかの聖書翻訳は,そのギリシャ語の句を「代々にわたる計画」と解釈しています。このようにして,神はメシアに関してある「計画」を持っておられると言われています。
6 たとえば,J・B・ロザハムによる(西暦)1897年の翻訳の,エフェソス人への手紙 3章9-11節は次のとおりです。「また,まさしく万物を創造された神のうちに代々隠されていた神聖な奥義の管理とは何かを明らかにするためである。これは,今,天にある権天使と権威に対して,会衆を通して,神の多種多様な知恵が知らされるためであって ― 油そそがれた者について神が立てられた,代々にわたる計画に沿ったことである」。さらにさかのぼって西暦1865年,新聞編集者ベンジャミン・ウィルソンが刊行した「エンファティック・ダイアグロット」は問題の箇所を,「神が立てられた,代々にわたる計画に沿ったことである」としています。そのギリシャ語本文をこのように訳出することにした最近の聖書翻訳はほかにも幾つか引き合いに出せます。b
7,8 C・T・ラッセルはどんな図解を公にしましたか。彼の著わした最初の本は,その表題について何と述べていますか。
7 編集兼発行者チャールズ・テイズ・ラッセルがアメリカ,ペンシルバニア州ピッツバーグで刊行していた「シオンのものみの塔」誌1881年9月号には,エフェソス 3章11節のギリシャ語本文のこうした別の翻訳に基づく,「代々にわたる計画」と題する記事が掲載されました。その記事は,「代々の図表」と呼ばれる,1ページ全紙面に載せられた図表を説明するものでした。関心のある人々すべてが調べることができるよう,その表の写しをここに掲げます。1886年にC・T・ラッセルの出版した「世々にわたる神の計画」と題する本にも,「神の計画を説明する,代々の図表」と呼ばれる同様の図表が収められています。
8 この「代々の図表」は,今になって考えてみれば,不正確な点が認められるとはいえ,全知全能の神は「計画」を持っておられるという考え方に基づく,誠実な一連の推論を明示するのに役だちました。その本の一章の冒頭にはこう記されています。
当書の一連の研究題目の主題,つまり「代々にわたる神の計画」という表題は,わたしたちの神に予知されている,秩序立った神聖な取決めが進展するものであることを示唆している。他の見地からではなく,この見地からすれば,神聖な啓示に関する教えは麗しくもあり,また調和の取れたものでもあることが理解できるであろう。
9 (イ)広く発行されたこの本は,少なくともどんな点を強調しましたか。(ロ)それにしても,計画および神について,この本はどんな問題を引き起こしましたか。
9 この本は多数の言語に翻訳され,その発行部数は600万部余に達しましたが,西暦1929年に同書の発行は終わりました。一つのこととして,同書は読者の注意を聖書に向けさせ,生ける神は漸進的な方であることを示しました。苦悩する人類のために神が考えておられる事柄は何とかなるというのです。周知のとおり,人間はしばしば行動計画を立てますが,その背後には達成すべき目的があります。しかし問題の論点はこうです。すなわち,全知全能の神はある事柄を成し遂げることに決定した場合,行動計画の構想を立て,つまりあらかじめ進路を決め,こうして不変の神として,計画した進路からそれないよう,その進路を固守する義務をご自分に課さねばならなかったのでしょうか。それとも,神は,被造物の自由意志や自由選択のために生ずる緊急事態や偶発事すべてに,事前に考慮することなく,即座に対処し,しかもなおご自分の目標を達成することができたのでしょうか。神は計画を必要とされましたか。もち論,神が目標を達成した後,わたしたちは神の活動に関する記録を調べて,神が追求された進路を記入,つまり精密に記すことができます。しかし,それはまさにそのとおりに計画されていたのでしょうか。c
目的を立てる神
10 字義どおりには,プロセシスというギリシャ語は何を意味しますか。ギリシャ語セプトゥアギンタの中で,ユダヤ人はその語をどのように用いましたか。
10 エフェソス 3章11節の言葉をギリシャ語で書いた最初の筆者は,創造者なる神がそのメシアに関して,ある計画を持っておられるということを,明らかに示したかったのでしょうか。一世紀当時のギリシャ語で記したその手紙の中で,プロセシスという言葉を用いた著者は,何を言おうとしていたのでしょうか。それは字義どおりには「配列する,もしくは前に置く」という意味であり,したがってある事柄をもくろむことを意味します。アレクサンドリアのユダヤ人が,霊感のもとに記されたヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳するに際して,預言者モーセの建てた神聖な天幕の聖なる仕切り室の中の金の食卓の上に置かれた聖なるパンに関連して,このギリシャ語を用いたのはそのためでした。このパンは普通,供えのパンと呼ばれていますが,ギリシャ語セプトゥアギンタ聖書はそのことを「提示(プロセシス)用のパン,あるいは焼きパン」と言っています。ですから,それらのパンは金の食卓の上に配列されて陳列され,毎週安息日ごとに新たに供えられました。―歴代下 4:19。
11 では,神の「プロセシス」とは何ですか。
11 このプロセシスという言葉はまた,「陳述」あるいは「前払い」という意味でも用いられており,文法では「前置詞」をも意味しました。さらに,「前につける」あるいは「初めに置く」という意味でも用いられました。この言葉はまた,ねらい,あるいは提出された目標,もしくは成し遂げたり,達成したりすべき事柄を自分自身の前に置くという意味でも用いられたので,「目的」を意味する語として用いられました。(この点については,リデルおよびスコット共編,希英辞典,1948年再版,第二巻,1,480-1,481ページのプロセシスの項を見てください。)この後者の意味は,現代語の聖書翻訳者の大多数によって認められています。それで,神の「プロセシス」とは,その決意,その主要な決定,その目的のことです。d
12 トーン アイオノーン(「代々にわたる」の意)の前にプロセシスという語を置いたギリシャ語の表現を,現代の翻訳者はどのように訳していますか。
12 エフェソス 3章11節のギリシャ語本文では,この言葉の次に字義どおりには「代々にわたる」という意味のトーン アイオノーンという表現が続いています。それで,これらの言葉の組み合わせが,ある翻訳では「代々にわたる目的」e あるいは「代々にわたる一つの目的」f または「永年にわたる目的」g もしくは「昔からの目的」h と訳され,また他の翻訳では「永遠の目的」i もしくは「とこしえの目的」j と訳されています。
13,14 神の「代々にわたる目的」とは,その「とこしえの目的」のことですが,どうしてそう言えますか。
13 神の「代々にわたる目的」とは,神の「とこしえの目的」のことです。どうしてですか。ここに出てくる代つまり時代は,不定の,それも人間の事柄の点では比較的長期間を意味し,ある時代の現象あるいは特徴よりも時間の長さのほうを強調しているからです。
14 それで,神の「代々にわたる目的」とは,「族長時代」「ユダヤ教時代」「福音時代」「千年至福時代」のような特定の名称を持つ時代と関係のある「目的」を意味してはいません。むしろ,時間,つまり長時間にわたる期間が強調されています。時代が次々に続くには,個々の時代には始めと終わりがなければなりません。それでも,一連の時代は長時間にまたがるものとなります。それに,「代々にわたる目的」という表現の場合,時代の数は明示されてはいないので,時代の数は限りないものとなり得ます。ですから,「代々にわたる目的」という表現では関係する時間の総和は定められてはおらず,それは実際に限界がしるされていない不定の時にまでわたる「目的」なのです。このような訳で,その「目的」は永遠の事柄,つまり「とこしえの目的」となります。神のメシア,あるいは油そそがれた者にかかわる神の目的には始めがありましたが,その目的が成就されるまでには長期間にわたる時間の経過が許されています。k「とこしえの王」にとって,時間という事柄は,ここでは問題ではありません。
無名の存在ではない
15 神はシナイ山麓で,み名について尋ねられたとき,モーセに何と言われましたか。
15 このとこしえの王は,無名の存在ではありません。その方はご自分に名を与え,また自らその名称を定めたことをわたしたちに知らせておられます。ご自身をさして用いておられる呼称は,目的,つまりある目標を持っておられることを示しています。西暦前十六世紀にアラビアのシナイ山麓の燃える,とげのあるかん木の傍らで,エジプトからの亡命者モーセに神がみ使いを通して相会したとき,いみじくもその事が示されました。モーセはエジプトに戻って,奴隷状態のその民を導き出して解放するよう命ぜられました。しかし,もしモーセの民が,その指導者としてモーセを遣わした神のみ名を示すよう求めるとすればどうですか。モーセは彼らに何と告げるべきでしょうか。彼はその点を知りたかったのです。その自叙伝はこう述べています。「そこで神はモーセに言われた,『わたしは,自分が成るところのものと成る』。また,付け加えられた,『これはあなたがイスラエルの子たちに言うべき事柄である。「わたしは成ると言う方が,わたしをあなたがたのところに遣わされた」』」― 出エジプト 3:14,新。
16 モーセに向かって述べた答えにより,神は単にご自分の存在に言及しておられましたか。それとも,何に言及しておられたのでしょうか。
16 神はここでご自分の存在について話しておられるのではありません。ある人は,一部の翻訳者がヘブライ語のエヒエ アシェル エヒエおよびエヒエという表現を英語に訳した仕方からして,そう考えるかもしれません。例えば,1966年版エルサレム聖書(英訳)はこう訳しています。「すると,神はモーセに言われた。『わたしは,わたしはあるという者である』。また,こう付け加えられた。『これはあなたがイスラエルの子らに言わねばならない事柄である。「わたしはあるという方が,わたしをあなたがたのところに遣わされました」』」。しかしここで,神は実際には,ご自分がある重要な存在であることについて話しておられるのです。この点をさらに確証するものとして,ラビ,アイザック・リーサーの訳した「聖書の二十四書」はこう訳出しています。「神モーセに言ひ給ひけるは,我は我がなるものにならんと言ふ者なり。また言ひけるは,汝かくイスラエルの子らに言ふべし。『我ならんと言ふ者,われを汝らに遣はし給へり』と」。l
17 ロザハムは出エジプト記 3章14節をどう訳出し,それについてどのように注解していますか。
17 さらにこの点を強調して,ジョセフ・B・ロザハムの訳した「エンファサイズド・バイブル」は,出エジプト記 3章14節を次のように訳出しています。「神モーセに言ひ給ひけるは,我は我が喜ぶものと成なん。また言ひけるは,汝かくイスラエルの子らに言ふべし,我ならんと言ふ者,われを汝らに遣はし給へりと」。この節の脚注は一部こう述べています。「『ハーヤー』[前述の節の中で『なる』と訳されている言葉]は現象的意味は別として,本質的あるいは存在論的に言って『ある』という意味ではない。……神が何になるかは表現されぬままにされている。つまり,神は彼らと共にいて助け手,力づける者,救出者となるのである」。このようなわけで,ここで言及されているのは,神の独立的存在ではなく,むしろ他の人々に対して神が何になろうと考えておられるかということなのです。
18 神が最初,何であるべきか,あるいは何になるべきかを決めねばならなかったのはいつでしたか。
18 これに類する事として,成長して大人になろうとしている若者は,物事を考え,『わたしは自分の命を用いて何をするつもりなのだろう。何になるつもりなのだろう』と自問します。同様に,生ける唯一真の神はただ独りでおられたとき,ご自分の自存の立場にあって何を行なうか,ご自分を何にするか,つまり何になるかを決めねばなりませんでした。創造を行なう以前,ただ独りで永遠に存在してきた後,神は創造者になることを意図されました。ご自身に関して,ある目的を立てられたのです。
19 神は十戒の中で,ご自分の名をどのように書きつづられましたか。
19 とは言え,生ける唯一真の神は霊感を受けた聖書の至る所でエヒエ,つまり「わたしは明らかになる」という名で知られている訳ではありません。西暦前1513年,神はシナイ山で奇跡的に石の刻板に十戒を刻み,その刻板をモーセに与えたさい,神は自ら,ご自分の選ばれた名を一字一字書きつづられました。つまり,右から左に向かって,ヘブライ語の文字ヨード,それからヘー,次いでワーウ,そして最後にもう一度ヘーと書き記されました。神は,ヘブライ語の現代の字体であるיהוהではなく,[アートワーク ― 古代ヘブライ文字]のような古代ヘブライ語の字体で書かれたに違いありません。右から左に読むこれらの文字に対する英語の文字はHWHYで,古代ラテン語ではHVHJです。これら四つの文字はすべて子音で,その間に母音は挿入されていません。
20 神のみ名は,ヘブライ語四文字に基づいて,どのように発音されていますか。
20 ゆえに,エホバがモーセに向かって,この神聖な名をどのように発音されたかは,今日正確にはわかりません。ラテン系の著述家は何世紀もの間この名をJehovaと書きつづりました。現代の多くのヘブライ語学者はこの名をヤハウェ,あるいはイェーワーとさえ発音するのを好んでいます。このようなわけで,子供が父親に名をつけないのと全く同様,被造物が創造者に名をつけたのではありません。創造者がご自分に名をつけたのです。
21 (イ)エホバという名は事実,動詞であるゆえに,どんな意味を持っていますか。(ロ)今日,その名を用いるのは,どうして正当なことですか。
21 この聖なる名は事実,動詞つまりヘブライ語動詞ハーワーの使役・不定形と解されています。従ってその名は,「彼は成らせる」ということを意味します。ところで,すべて結果の背後には原因があり,すべて原因となる理知ある存在,つまり原因者の背後には目的があります。従って当然,「彼は成らせる」という意味の神聖な名は,本来目的を包含しています。それは,この特異な名の持ち主を目的を立てる方として特徴づけています。確かに,その方はそうした者としてシナイ山麓の燃えるかん木の傍らでモーセに現われ,なすべきこととしてご自分の前に置いた事柄を,モーセに明らかにされました。神はその神聖な名の永存性つまり持続性を強調して,さらにこうモーセに言われました。「これはあなたがイスラエルの子らに言うべき事柄である,『あなたがたの父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神,エホバがわたしをあなたがたのところに遣わされた』。これは定めのない時までわたしの名であり,これは代々にわたってわたしの記念となるものである」。(出エジプト 3:15,新)今日,その記念の名は,神の名でなくなったわけではありません。それは今日,用いて然るべき正当な名です。
人間の益のため歴史的に重大な事を行なう方
22 (イ)古代エジプトの場合,エホバはどのように名をあげましたか。(ロ)それは今日のわたしたちを慰める,どんな教訓となりますか。
22 預言者モーセの時代に,生ける唯一真の神エホバは,アブラハム,イサクおよびヤコブの子孫を虐げた,古代エジプトを取り扱う仕方によって,歴史に残る重大な事を行なわれました。重装備を整えたその世界強国から,隷属させられていたご自分の民を救い出して,輝かしいまでに名をあげました。(エレミヤ 32:20。サムエル後 7:23。イザヤ 63:14)このことは,人類を解放しようとするエホバにとって,強大な軍備を擁する二十世紀の現代の世界といえども,敵対者として相手にするには何ら手ごわいものではないことを保証しています。かつて古代エジプトのファラオに政権を握らせ,モーセの民に対する恐るべき圧制を行なうままにさせたように,エホバは,邪悪な圧制者が全地を支配する権力を握り,あらゆる人を大いに虐げる事態が生ずるのを許してこられました。それにはそれなりの理由がありました。それは圧制者を滅ぼす,ご予定の日のために,それら圧制者を生かしておく,つまり監禁しておくことなのです。それで,非常な重荷を負う民を慰めるため,エホバはエルサレムの賢い王ソロモンに霊感を与えて,次のように述べさせました。
「あなたのわざをエホバにゆだねなさい。そうすれば,あなたの計画はしっかりと確立されるでしょう。エホバはあらゆるものをご自分の目的[ヘブライ語: マアネー]のために,そうです,邪悪な者をさえ悪い日のために造られた」― 箴 16:3,4,新。
23 現代の政治上の諸勢力に関して期待できる事柄を保証するものとなる,古代の世界強国に対する神の処置についてはどうですか。
23 西暦1914年以後の時代は,二度の世界大戦およびそれに伴って生じた国際的難問題を切り抜けてきた政治諸体制にとって,「悪い日」となりました。政治上の超大国は,世界制覇を目ざす抗争において互いに疑いの目を向け合いながら,今や多年地を支配してきました。すべてのものをご自分の目的のために創造した,主権者なる主エホバは当然,世界支配の野望を抱くそれら諸勢力に関して,ある目的を持っておられるはずです。エホバは昔の聖書時代の「邪悪な」世界諸強国に関して,ある目的を立てられたことが,記録に載せられています。現代に関してわたしたちが期待できる事柄を保証するものとして,エホバはそれら以前の世界諸強国に関して意図した事柄すべてを成し遂げました。
24 (イ)エホバはアッシリアに世界を支配させはしましたが,同強国に関して何を行なっておられましたか。(ロ)イザヤ 14章24-27節のエホバの預言は成就しなかったとして,不利な事例を挙げることはできません。なぜですか。
24 例えば,アッシリア帝国は政治および軍事上の重要性の点で,古代エジプトに代わって聖書歴史上の第二世界強国となりました。しかし,人類を支配した同強国は,その全盛期においてさえ,ユダ王国の首都エルサレムを攻略した,あるいは滅ぼしたとして,誇ることはできませんでした。それどころか,エルサレムはアッシリアの首都ニネベの滅びを目撃したのです。それはどうしてですか。なぜなら,世界強国アッシリアは邪悪な国だったからです。全能の神エホバは,同強国が世界を支配し,特にご自分の選民に対して奸悪な行動を取ることを許しました。しかしエホバは,その邪悪な世界強国をご自分の好む時に訪れる「悪い日」のために存続させておられたのです。それで,西暦前632年ごろ,アッシリアの首都ニネベは,メディアとカルデアの連合国の前に倒れて,滅ぼされました。(ナホム 1–3章)このような訳で,エホバの預言者イザヤが1世紀以上も前に次のような言葉で事前に明らかにしたエホバの目的は達成されなかったとして,不利な事例を挙げることはできません。
「万軍のエホバは誓って言われた,『確かにわたしが思ったとおりに,必ず事は起こり,わたしが計ったとおりに成就する。アッシリア人をわたしの国で打ち破り,わたしの山々で踏みつけるため,またそのくびきが実際に彼らの上から去り,その重荷が彼らの肩から去るためである』。これが,全地に対して計られた計り事,これが,万国に対して伸ばされたみ手である。万軍のエホバ自らが計られた以上,だれがそれを破り得よう。み手が伸ばされた。だれがそれを引き戻し得よう」― イザヤ 14:24-27,新。
25 その預言の中で,「計り事」という言葉は何を意味していますか。それはどうしてですか。
25 全知全能の神は,物事の仕方の点でご自分を導くために,天でだれかと計ったりはなさいませんでした。イザヤ書 40章13節(新)の預言の中ではいみじくも,「だれがその顧問として彼に何事かを知らせ得ようか」という質問が提起されています。(また,ヨブ 21:22; 36:22およびローマ 11:34参照)その「計り事」は神独自のものであって,正しい判断や決定を下すのに助けとなる顧問団などに依存してはいません。それで,ここに出てくるその「計り事」は,助言以上のことを意味しています。それは神の明確な決定,つまり神の定めを表わしています。「計り事」という言葉の聖書上の用法に関して,マクリントクおよびストロング共編「百科事典」第二巻,539ページはこう述べています。「この言葉は人間の行なう相談という一般的な意味以外に,聖書では神の定め,つまり神慮に基づく命令という意味でも用いられている」。
26 アッシリアに次いで起こったバビロンに,世界を支配させたエホバは,何を意図しておられましたか。
26 全知全能の神が自ら計る「計り事」は,人間も悪霊も粉砕できるものではありません。このことは,世界強国アッシリアに対する神の計り事に関しても真実でした。それはまた,次に起こった世界強国である新バビロニア世界強国,つまり聖書歴史上の第三世界強国についても真実となりました。それは西暦前607年に初めてエルサレムを滅ぼした世界強国ですが,そうすることにより,同強国は自ら「邪悪な」国であることを示しました。それでエホバは同強国をも,ご自分の定めた時に訪れる「悪い日」のために存続させました。エホバはバビロンがエルサレムを滅ぼし,そのようにしてエホバの前で並はずれた邪悪な姿を現わすのを許す前に,ご自分の預言者エレミヤに霊感を与えて,こう言わせました。「それゆえ,バビロンに対して巡らされたエホバの計り事と,カルデア人の国に対して考え抜かれたお考えを聞け」― エレミヤ 50:1,45,新。
27 聖書を研究したエレミヤとダニエルは,イザヤの預言の中で,バビロンの没落について記されているどんな言葉を見つけましたか。
27 西暦前607年にバビロンの軍勢がエルサレムとその神殿を滅ぼしたとき,この預言者エレミヤは神の保護を受けて生き残りました。しかし,「邪悪な」バビロンに対するその預言の正確さが立証されるのを見るほど長生きしたわけではありません。とはいえ,聖書歴史はもとより,一般の歴史にも,バビロニア世界強国は西暦前539年に,つまり預言者ダニエルの時代に倒壊したことが記されています。(ダニエル 5章)それは,さらにずっと以前の預言者イザヤの預言の正しさをも立証しました。イザヤはバビロニア世界強国の後代における没落を示しただけでなく,バビロンを没落させるために神が用いることになっていたペルシャ人征服者の名前をも予告しました。聖書を個人的に研究し,西暦前八世紀のイザヤの書き記した預言を取り上げて調べた,預言者エレミヤおよびダニエルは,次のように記された彼らの神エホバの言葉を見つけました。
「『クロスについては,「彼はわたしの牧者,わたしの喜ぶことをみな完全に遂行する」と言う。エルサレムについては,「再建される」,また神殿については,「その基は据えられる」と言う』。エホバはその油そそがれた者,つまりクロスに,こう仰せられた。その右の手をわたしは握った。彼の前に諸国民を従わせ,王たちの腰の帯をさえ解くため,また彼の前に二枚戸を開いて,門をさえ閉じさせないようにするためである。『わたしは自らあなたの前を行(く)……それは,わたしがエホバであり,あなたをあなたの名で呼ぶ者,イスラエルの神であることをあなたが知るためである。わたしのしもべヤコブ,わたしの選んだイスラエルのために,わたしはあなたをあなたの名で呼びさえした。あなたはわたしを知らなかったが,わたしはあなたに誉れある名を与えた。わたしがエホバであって,ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知ってはいないが,わたしはあなたに帯をしっかり締めさせる。それは,太陽の上るほうからも,その沈むほうからも,わたしのほかにはだれもいないことを,人々が知るためである。わたしがエホバであり,ほかにはいない』」。
28 イザヤ書のその次の章の中で,ペルシャ人クロスに関して,エホバは何と言っておられますか。
28 この驚くべき言葉は今日,1947年に発見されて,西暦前二世紀にさかのぼるとされている,イザヤ書の死海文書の中にも見られます。これらの言葉は普通,イザヤ書 44章28節から45章6節までの箇所に見いだされます。その後,次の章の,ここに引用されている節のなかで,神はクロスのことを「わたしの計り事を実行する者」と呼んでいます。
「このことを思い出し,勇気を奮い起こせ。背く者たちよ,それを心に留めよ。遠い昔の初めの事を思い出せ。わたしが神聖な者であり,ほかには神も,わたしのような者もいないことを。わたしは終わりの事を初めから告げ,なされていない事柄を昔から告げ,『わたしの計り事は立ち,わたしの喜ぶ事すべてを,わたしは行なう』と言う。わたしは,太陽の上るほうから猛禽を,遠い土地から,わたしの計り事を実行する者を呼ぶ。わたしはそれをまさしく語った。同様にわたしはそれをもたらす。わたしはそれをまとめた。同様にわたしはそれを行なう」― イザヤ 46:8-11,新。
29,30 その預言の中で明らかにされているご自分の目的を,エホバはどのように固守されましたか。このことはどのようにわたしたちを強めますか。
29 確かにペルシャのクロス大王は,太陽の上るほうから猛禽のように,つまりバビロン東方のペルシャから,イザヤの国つまりイスラエルの地から遠く隔たった土地からやって来ました。
30 いみじくも,クロス大王の標章は金の鷲,つまり「猛禽」だったので,エホバはそれをクロスの象徴として用いておられます。およそ2世紀も前に,これらの言葉の中で事前に明らかにされたとはいえ,この神聖な方の目的は潰えませんでした。エホバは邪悪なバビロンに対するご自分の計り事を実行するクロスを起用したので,その計り事は立ちました。エホバはそれを語り,あまつさえ後代の参考のためにそれを書き記させ,そしてご自分が言った事を,ご予定の時に行なわれました。クロスに関して目的を立て,ご自分の預言者を通してそれを明らかにし,ご自身の意図した事を,驚くべき現実として,時をたがえずにもたらされました。預言の神のこうした歴史上の実績は,エホバがご自分の「計り事」に従って行なうことに決めた事柄を明らかにしておられる,他の数々の預言に対する,わたしたちの確信を強めるものとなります。
31 まだ成就してはいませんが,エゼキエルのどんな預言が,ある攻撃について述べていますか。それはだれによって,まただれに対してなされますか。
31 このことはまた,歴史が示すように,まだ成就していないとはいえ,明らかにその成就の時がさらに近づき,わたしたちの世代のうちに成就しようとしている,ある預言についても当てはまります。それは預言者エレミヤと同時代の人であったエゼキエルを通して与えられた預言で,エゼキエル書 38および39章に記されています。それは神秘的な「マゴグの地のゴグ」によってなされる攻撃に関する預言ですが,そのゴグは,この世の諸国民すべてをその攻撃に引き入れます。その世界的な規模の攻撃は,生ける唯一真の神の崇拝者たちの残りの者に向かってなされます。現代の大いなるバビロンから解放され,神の恵みを受ける立場に戻ったその忠実な残りの者は,世の汚れた,腐敗した状態のただ中にあって,霊的パラダイスの中で生活しています。では,全能の神はご自分の崇拝者たちに対してそうした攻撃がなされるのを,どうして許されるのでしょうか。神はその理由を告げておられます。
32,33 どんな目的があって,神は,現代の霊的パラダイスにいるご自分の崇拝者たちがゴグの攻撃を受けるのを許しますか。
32 そのことを告げた言葉の中で,神はイスラエルの昔の地とその地の,バビロンから救助された住民を象徴的な仕方で用いて,ご自分の崇拝者たちの今日の回復した,残りの者の霊的なパラダイスを描いておられます。次いで,全能の神は,霊的なパラダイスの中にいる忠実な残りの者に対してなされる,その国際的攻撃を指揮する邪悪な指導者に語りかけて,そのような激しい攻撃を許すご自分の目的を明らかにして,こう言われました。
33 「あなたは必ず,地を覆う雲のように,わたしの民イスラエルを攻め上る。それは末の日に起こる。ゴグよ,わたしは確かに,あなたにわたしの地を攻めさせる。それは,わたしがあなたを用いて諸国の民の目の前でわたしの聖なることを示すとき,彼らがわたしを知る[字義訳; ようになるという目的(ヘブライ語: マーアン)の]ためである」― エゼキエル 38:15,16,新。
34,35 ゴグに関連してご自分の聖なることを示す点で,神はどんな目的を明らかにされましたか。
34 これよりはっきりした話はありません。エホバの目的は,諸国の民すべての目の前で,ご自分の聖なることを示すことです。過去におけるその目ざましい行動と一致して,エホバはこの変わらぬ目的を近い将来,わたしたちの世代のうちに果たします。絶対確実な目的を立てる神は,意のままに用い得る驚くべき方法をどのように講じて,ゴグとその地上の国際的な軍隊に対する勝ち戦を行なうかを述べたのち,こう言われました。
35 「わたしは確かに,わたしの大いなることを示し,わたしの聖なることを示し,多くの国々の民の目の前でわたしを知らせる。彼らは,わたしがエホバであることを知らなければならなくなる」― エゼキエル 38:23,新。
それに関して,わたしたちは何をしようとしているか
36 わたしたちは,エホバとはだれかを思い知らされようとしている諸国民とともに巻き込まれるのを欲しているだろうかと自問してみるべきです。それはなぜですか。
36 世の諸国民にエホバとはだれかを知らせるということは,彼らを,永久の命をもって報われるその崇拝者にすることを意味してはいません。それとは逆に,それは,神を侮るそれら諸国民の永遠の滅びを意味します! 真の神がだれかを経験によって知るということは,悲惨な結果を招く学び方です。神はご自分がいったいだれであるかを,諸国民に示されます。そうすることが必要になりました。それで,重大な問題は,わたしたち個人個人は,神の大敵対者すなわち「マゴグの地のゴグ」が間もなく行なおうとしている攻撃に巻き込まれる,それら諸国民の一員でありたいと思っているだろうかということです。
37 自己救済を目ざす人間の計画を信じ込まされるよりもむしろ,どんな道を取ることを,箴言 19章20,21節は勧めていますか。
37 諸国民は世界の事態を収拾するための諸計画すべてにおいて,書き記された神のみ言葉,聖書の中で明らかにされている神の目的に従って,生ける唯一真の神を考慮に入れている訳ではありません。彼らの計画は良さそうに見えますか。わたしたちは人々の計画を信じ込まされ,彼らと一緒になってそれを支持して,人間による自己救済を信ずることにしますか。どうすべきかを自分で決定するさい,霊感を受けた昔の賢人が箴言 19章20,21節(新)で次のように述べた事柄を考慮し,心に留めるのは賢明なことです。「助言を聞き,懲戒を受け入れよ。あなたが将来賢くなるためである。人の心には多くの計画[ヘブライ語: マハーシャーボース]がある。しかし,堅く立つのは,エホバの計り事である」。わたしたちは心の中で,人間や諸国民の計画とエホバの計り事とを競わせようなどとは毛頭考えるべきではありません。
38 エホバを信頼するなら,人間また諸国民とともに失望に陥ることはありません。なぜですか。
38 どうして諸国民と一緒になって失望に陥り,果てしない苦痛を身に招くようなことをすべきでしょうか。心からエホバに信頼しましょう。こう記されています。「彼が自ら仰せられると,そのようになり,彼が自ら命じられると,そのとおりに堅く立ったからである。エホバは自ら諸国民の計り事を砕いた。彼は国々の民の考えをくじかれた。エホバの計り事は定めのない時まで立ち,その心の考えは代々に至る。エホバを自分たちの神とする国民,彼がご自身の相続財産としてお選びになった,その民は,幸いである」。(詩 33:9-12,新)「エホバに逆らっては,知恵も,どんな洞察力も,どんな計り事も,役にたたない。馬は戦いの日のために備えられるものである。しかし救いはエホバによる」という言葉が真実であることは,これまで再三再四証明されてきましたが,また近い将来必ず証明されます。―箴 21:30,31,新。
39 神はご自分の義を求める人たちに対して,どのような目的を持っておられますか。それはなぜですか。
39 人類の世の状態を正直な態度で考察すれば,わたしたちはすべて救いを必要としていることがわかります。まともな考えを持つわたしたちが望んでいるのは,救いです! その救いは,決して人間からもたらされるものではありません。「救いはエホバによる」ものであることを認めねばなりません。「主はあらゆるものをご自身の目的のために,邪悪な者をさえ悪い日のために造られた」以上,邪悪でない人たち,つまり神の義を求める人たちに対する,主なる神の目的は疑いもなく,愛ある目的であるに違いありません!(箴 16:4,新アメリカ聖書)確かに人類は,愛ある創造者の良い目的の中に包含されています。
40 永久の命を何とか享受できるようになりたいなら,何を目標とすべきですか。
40 創造者は,目標のない神ではありません。その被造物であるわたしたちも,目標のない存在であってはなりません! では,何を目ざすべきですか。それは,生活をエホバ神の良い目的と調和させることです。それ以上に高遠な目標はあり得ません。そうすることによって,わたしたちはほんとうに,永久の命を何とか享受できるようになります。そうすれば,現在のわたしたちの生活が,失敗に終わることはありません。神の目的は,決して潰えないからです。このことを考えて,わたしたちは喜びを抱きつつ,神がご自分の,油そそがれた者つまりメシアに関連してお立てになった「とこしえの目的」を,これから調べてみましょう。
[脚注]
a ウィリアム・ティンダル訳(西暦1525および1535年),ゼネバ聖書(西暦1560および1562年),監督聖書(1568および1602年)参照。
b 「代々にわたる計画」という表現を用いている,ヒュー・J・ショーンフィールド訳の真正新約聖書(西暦1955年)を見てください。エルサレム聖書(西暦1966年)は,「神が永遠の昔から持っておられた計画」と訳しています。ジョージ・N・ルフェブル訳(西暦1928年)は,「油そそがれた者を通して神が意図された,代々にわたる計画」と訳しています。欽定訳聖書およびアメリカ標準訳聖書には「計画」という言葉は出ていません。ローマ・カトリックのドウェー訳には,「計画」という言葉はエゼキエル書 4章1節と43章11節およびマカベ後書 2章29節にしか出ていません。
c この問題に関して後に取られた今日の立場については,1930年4月1日号の「ものみの塔」誌(英文)(101,102ページ)に掲載された,「人の子」(詩篇 8:4)と題する主要な記事の14-19節をご覧ください。特に16節に注目してください。
d ゲルハルト・フリードリヒ編,「新約聖書神学辞典」(英訳)第八巻,165,166ページ,「新約聖書」の項参照。
e ルッテルワース社発行,「聖書」(1938年)。
f 「聖書のヤング逐語訳」。
g 「新英語聖書」(1970年)。
h 「新アメリカ聖書」(1970年)。
i ジェームズ・モファットの訳した「アメリカ訳」「聖書の新訳」(1922年);「ウェストミンスター訳聖書」(1948年);「現代英語聖書」(1972年);「エルベルフェルダー聖書」(ドイツ語訳); R・F・ウェイマウスの「現代語による新訳聖書」(第十一刷); ロナルド・ノックスによる「新約聖書 ― 新訳」(1945年);「改訂標準訳聖書」(1952年);「アメリカ標準訳聖書」(1901年);「英語改訂訳聖書」(1881年);「欽定訳聖書」(1611年)。
j 「新世界訳聖書」(1971年)。
k エフェソス 3章11節の「カタ プロセシン トーン アイオノーン」については,こう記されています。「世のもろもろの時代にわたる目的に従って,すなわち,世のもろもろの時代にわたって(つまり代々の始めから目的遂行の時まで)神が持っておられた目的と合致して。というのは,その目的は既に,[世の基を据える前に]立てられていたが,1章3節; それは世のもろもろの時代の始めから神のうちに隠されていたからである。……9節; …他の人々はそれを,世のもろもろの異なった時代に関する目的と訳し,すなわち神はその目的に従って,最初はどの民族かを選ぶことはしなかったが,やがてユダヤ人を選び,最後にユダヤ人および異邦諸民族をメシアの王国に招かれたとしているが,これは正確な見方ではない。というのは,ここで話されているのは,[メシア]の内に成し遂げられる,ただ一つの目的だけだからである」― H・A・W・メイヤー神博著,「ガラテア人またエフェソス人への使徒書簡の批判および解釈便覧」(英訳)1884年版,416ページ,1節。
l 「現代のたいていの翻訳者は,『わたしは,わたしがなるものになる』と訳す点でラシに従っている。すなわち,神がご自分の民にとってどんな方になるかをことごとく言葉で要約できるものではないが,神の永続する忠実さや変わることのない憐みは,イスラエルに対する指導のうちにおのずから,いよいよ明らかに示されてゆくのである。従って,こうした言葉でモーセが受けた答えは,『わたしは,わたしが救う仕方で救う』という意味の相当語句なのである。それは,イスラエル民族が救い出されることを彼らに保証するものではあるが,その方法は明らかにされてはいない」― 名誉勲位受勲者J・H・ヘルツ博士著,「モーセ五書および預言書」ロンドン,ソンチノ出版社発行,西暦1950年版,出エジプト記 3章14節の脚注。
[10ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
代々の図表
多くの子らに栄光を得させる神の計画とその目的を例示したもの
『時満ちて経綸にしたがひ,天にあるもの,地にあるものをことごとくキリストにありて一つに帰せしめ給ふ。これ自ら定め給ひし所なり』― エペソ 1:10。
『この黙示を書きしるして これを板の上に明白にえりつけ はしりながらもこれを読むべからしめよ』― ハバクク 2章2節。
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人間がパラダイスで神とともにいたとき人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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3章
人間がパラダイスで神とともにいたとき
1 どれほどの期間,神はただ独りで存在しておられましたか。なぜですか。
「天の創造者」または「すべてのものを創造された神」という表現は何を意味するかについて,考えたことがありますか。これらの表現は,神がただ独りで存在した時代があったことを示しています。(イザヤ 42:5,新。エフェソス 3:9)創造物は存在しませんでした。ゆえに,この神は,永遠の過去の期間中,ただ独りで存在し,依然創造者とはなっておられませんでした。ですから,預言者モーセは,神への祈りの中で次のように述べました。「山々が生まれる前から,あるいは地と宇宙とが産みの苦しみに遭う前から,永遠から永遠まで,あなたは神です」。(詩 90:2,バイイングトン訳)創造を行なう以前,その永遠の全期間中,神は喜びを抱いて過ごすことができました。
2 やがて,神は何になることを意図し,そうすることによって,どんな責任を負われましたか。
2 時が来て,神は父になることを意図されました。しかしそれは,無生物つまり知性のないものの創造者になるという意味ではありません。それは,生きた知的存在,つまりその父なる神にある程度似た子たちを存在させるという意味でした。こうして,神は,子供たちで成る一つの家族の責任を負うことを意図されました。まず最初,神はどんな子たちを生み出すことを意図されましたか。人の子たちではありませんでした。もしそうだとすれば,人間が生活できる地球を,まず最初に造り出さねばならなかったでしょう。神が霊であるのと同様霊であって,神に似て天的な存在である子たちを,神が生み出そうとされたのは,もっともなことです。こうして彼らは,神を見,神のみ前に直接近づくことができ,また神も直接意思の疎通を図り得る,霊の子たちとなったのです。
3 地球が創造される以前でさえ,天の神の子たちは存在していましたが,このことに注目するよう,どのように促されていますか。
3 神のこうした霊の子たちの存在は,単なる宗教的想像の産物ではありません。聖書のヨブ記の筆者と考えられる,預言者モーセは同書の最初の章の中で,それらの子たちのことを次のように述べています。「さて,真の神の子たちが入ってエホバの前で持ち場につく日となった」。(ヨブ 1:6,新)ヨブ記 2章1節では,それら真の神の天の子たちの二度目の会合に注目するよう促されます。それら神の霊の子たちは,地球が創造される以前から存在していたので,目に見えない世界から神が人間ヨブに話しかけて,次のように尋ねたとき,そのことが強調されました。「わたしが地の基をすえたとき,あなたはどこにいたか。……そのとき,明けの星々がともに喜びの声を上げ,神の子たちはみな,称賛の叫びをあげ始めた」。天で明けの星々のようにきらきら輝いていた,それら神の子たちは,明らかに,わたしたちの地を創造するさいの神の目的に関心を抱き,神が地を創造して,「北を空虚な所に張り,地を何もない上に掛けられる」仕方に感服しました。―ヨブ 38:4-7; 26:7,新。
4 (イ)最初に創造された,神の子は,創造および神の家族に関連して,何と呼ばれるのはもっともなことでしょうか。(ロ)箴言 8章22-31節で,「知恵」は自らのことをどのように女性として話していますか。
4 神が創造した,神の最初の霊の子とはだれでしたか。その霊の子が,優先権を持つゆえに,神による創造の始めと呼ばれたのは,もっともなことです。また,神の天の家族の最初の成員でもあったため,全創造物の初子と呼ぶこともできました。このことを考えると,箴言の8章で述べられている事柄が思い出されます。その章のなかでは,神の知恵が,自分自身のことを語る人として描かれています。もち論,箴言の原語のヘブライ語本文では,「知恵」(ハークマー)という言葉は女性形であって,自分のことを女性として語っています。(箴 8:1-4)もとより,神の知恵は決して,神から離れて別個に存在している訳ではありません。知恵は常に神のうちに存在していたので,創造された訳ではありません。そのようなわけで,知恵が,とりわけ次のように語り続けている箇所で,自らのことを女性として話しているのは興味深い事柄です。
「主[ヘブライ語: JHVH,יהוה]は,始まりから,その道の始め,そのわざの初めとして,わたしを創造された。永遠から,始めから,地の太古の昔から,わたしは長として任じられた。深淵もまだなく,水のみなぎる源もまだなかったとき,わたしは生み出された。山々がまだ低くされる前に,丘々より先に,わたしは生み出された。彼がまだ地も野原も,世の塵の主要な部分をも造られなかったときに。彼が天を準備されたとき,わたしはそこにいた。彼が深淵の面に円を描き,上のほうに大空を固められたとき,深淵の源が強固になったとき,彼が海に定めを与えて,水がその命令に背かないようにしたとき,地の基を堅く定められたとき,わたしは秘蔵子として,彼のそばにいた。そして,わたしは日々,彼の喜びであり,いつもみ前で遊び,彼の地,この世界で遊び[女性形分詞],人の子らを喜んだ」― 箴 8:22-31,ラビ,アイザック・リーサー訳,1853年。
5 ユダヤ教の指導者は,箴言のこれらの言葉が西暦紀元以降どのように適用されてきたかを気にしています。なぜですか。
5 ユダヤ教の指導者は,上記の聖句がどう適用されるかを気にしています。ソンチノ出版社の1945年版の,箴言のこの箇所に関する脚注には,こう記されています。「初期の教父たちがキリストを論ずるのにこの箇所を用いたことから考えて,この解釈はユダヤ人の読者にとってたいへん重要なことである」。a いずれにしても,箴言 8章22節は,エホバ神の道の始めとして,つまり「始まりから……そのわざの初めとして」創造されたものについて述べています。それは,「創造された」知恵なのです!
ケルブ,み使い,セラフたち
6 ケルブたちについて,創世記や詩篇のなかでは何と述べられていますか。
6 聖書はこれら天の「神の子たち」を,少なくとも三つの級に分けています。それら三つの級の最初のものとして指摘されるのは,「ケルブたち」の級です。創世記 3章24節は,「命の木への道を守るために」地上のパラダイスの東に神が配置した,ケルブたちのことを述べています。ケルブたちが,神の占めておられる権威の座の近くにいて,その座を忠実に支持していることについて,詩篇作者アサフはこう語っています。「ケルブたちの上に座しておられる方よ,光を放ってください」。(詩 80:1および表題,新)詩篇 99篇1節(新)も同じことに注意を引いて,次のように述べています。「エホバは自ら王となられた。国々の民は動揺せよ。彼はケルブたちの上に座しておられる。地は震えよ」。
7 ヒゼキヤ王はいつ,またどのようにケルブたちと神とを結びつけましたか。
7 また,エルサレムの目に見える王座に着いて,いと高き神を代表していたヒゼキヤ王は,次のように祈って,ケルブたちと宇宙の主権者の天の王座とを結びつけました。「ケルブたちの上に座しておられるイスラエルの神,万軍のエホバよ,ただあなただけが,地のすべての王国の真の神です。あなたご自身が天と地を造られました」。(イザヤ 37:16,新)このようなわけで,宇宙の主権者,偉大な創造者は,ケルブとして知られる天の「神の子たち」の上の王座に着いておられる方として,何度も示されています。
8 アブラハム,ロトそしてヤコブの生活上のどんな事柄が,み使いたちの存在を確証していますか。
8 「神の子たち」である,それらケルブたちのほかに,み使いという一般的な級があります。それら目に見えない霊の被造物の存在を疑うべき歴史上の理由はありません。というのは,み使いたちが何度も人間に現われたことが,確証されているからです。西暦前1919年ごろ,エホバ神を代表した三人の,み使いが,肉体を備えた姿を取って,族長アブラハムに現われました。ときに,アブラハムは,カナン,つまりパレスチナの地のマムレの巨木の下に座していました。その後まもなく,肉体を備えた姿を取った,それらみ使いたちの二人は,死海のそばのソドムの町にいる,アブラハムのおいであるロトを訪ねました。それは,上空から飛来した火や硫黄で,その邪悪な町が焼き滅ぼされる前日のことでした。(創世 18:1から19:29)それから1世紀余の後,アブラハムの孫ヤコブは,その祖父がかつて天幕を張っていた南の地に帰る途中,創世記 32章1,2節(新)で述べられている次のような経験をしました。「それからヤコブが道を進んでゆくと,今度は神の使いたちが彼に出会った。彼らを見たとき,直ちにヤコブは言った,『これは神の陣営だ!』 そこで,彼はそこの所の名をマハナイム[『二つの陣営』の意]と呼んだ」。
9 (イ)「み使い」という言葉はまた,何を意味していますか。(ロ)み使いの働きは人間の力では阻止できるものではありませんが,それらみ使いたちはどのように用いられていますか。
9 み使いという意味の聖書の言葉はまた,マラキ書 3章1節(新)に次のように記されているとおり,「使者」をも意味しています。「見よ。わたしは,わたしの使者[あるいは,使い]を遣わす。彼はわたしの前に道を整えねばならない」。み使いたちは,ある知らせを伝えたり,あるいは特別の仕事を行なったりする任務を受けて,何度も遣わされました。み使いたちが神から受けた任務を遂行するのを,人間は阻止できません。み使いたちの持っている力や能力は,人間のそれよりも勝っているからです。詩篇作者はそのことを認めて,こう言いました。「エホバは自ら天にその王座を確立された。その王国はあらゆるものを統治する。エホバをほめたたえよ。み言葉を実行する,力の強力な,その使いたちよ,そのみ言葉の声に聞き従うことによって。エホバをほめたたえよ。そのすべての軍勢よ。その意志を行なう,その奉仕者たちよ」― 詩 103:19-21,新。
10 (イ)セラフたちは神の位に対してどんな態度を取っていますか。(ロ)イザヤはセラフたちに関してどんな経験をしましたか。それは何を明らかにしていますか。
10 天の「神の子たち」のもう一つの部類は,セラフのそれです。これらの霊の被造物は,神の位に対して非常な畏敬の念をいだいています。このことは,預言者イザヤに与えられた奇跡的な幻によって裏書きされています。イザヤの説明に注目してみましょう。「しかしながら,ウジヤ王が死んだ年[西暦前778あるいは777年]に,わたしは,そびえ立つ,高く上げられた王座に座しておられるエホバを見ることを許されたが,そのすそは神殿に満ちていた。セラフたちは彼の上のほうに立っていた。おのおの六つの翼を持っていた。その二つで顔を覆い,二つで両足を覆い,二つで飛び回るのであった。そして,互いに呼びかわして言った,『聖なる,聖なる,聖なる,万軍のエホバ。その栄光は,全地に満つ』」。預言者イザヤは自分の汚れた状態のゆえに死を恐れるあまり,叫び声を上げざるを得ないように感じました。イザヤはこう語っています。「すると,セラフのひとりがわたしのもとに飛んで来たが,その手には,祭壇から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。そして彼はわたしの口に触れて言った,『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので,あなたの過ちは消え去り,あなたの罪も贖われた』」。(イザヤ 6:1-7,新)ここで,セラフたちは,わたしたちが神のように聖なる者となるのを助けることに関心を持っていることが,はっきりとわかります。
11 天の「子たち」で成る,神の家族はどれほど大きなものですか。彼らは性質の点で,なぜわたしたち人間と異なっていますか。
11 それら天の「神の子たち」つまりケルブやセラフそしてみ使いたちの総数は,何百万にも達します。バビロンにいた預言者ダニエルは霊感を受けて,天の法廷の光景にかかわる幻を見,それについてこう書きました。「わたしが見ていると,幾つかの王座が置かれ,日の老いた方が着席された。……この方に仕えている者は幾百万,この方のみ前に立っている者は一万の一万倍[=1億]もいた。裁く方が座に着かれ,幾つかの書が開かれた。(ダニエル 7:9,10,新)こうした天界の「神の子たち」の膨大な数は,天の父である全能のエホバ神の,創造の産出力の強大さを示すものです。神は天で,従順な子たちで成る驚くべき家族を持っておられます。それらの子たちは,血肉を持つ被造物ではありません。彼らは,血肉を持つ被造物であるわたしたちが今住んでいる,この地球が創造される以前に創造されたからです。ですから,それら天の「神の子たち」は,神ご自身と同様に霊であって,地上の被造物であるわたしたち人間とは,性質上全く異なっています。
12 今日,天の「神の子たち」のなかには,目に見えない霊界に移された人間の魂などは含まれていません。なぜですか。
12 神と(古代エジプト人のような)人間との,つまり霊と肉との著しい相違を示した,イザヤ書 31章3節(新)の預言は,軍備を整えたエジプト人に助けを求めることをイスラエル人に思いとどまらせて,こう述べています。「しかし,エジプト人は地に住む人間であって,神ではない。彼らの馬は肉であって,霊ではない」。また,天の「神の子たち」は性質の点で人間のそれとは異なっていることを率直に述べた詩篇 104篇1-4節(新)には,こう記されています。「わが魂よ,エホバをほめたたえよ。わが神,エホバよ,あなたはまことに偉大であることを明らかにされました。あなたは,尊厳と光輝を身にまとっておられます。衣をもってするように,光をもって身を包み,天を天幕の布のように張っておられます。あなたは……霊をご自分の使いとし,焼きつくす火をご自分の奉仕者とされます」。確かに聖書は,地から目に見えない霊の天に移された人間の魂が天のみ使いたちのなかに含まれているという宗教的な考えを排除しています。霊の「神の子たち」はみな,同じ天の父の子たちですから,すべて兄弟です。
人間の創造
13 本当の父親は,自分のもうける家族に対してどんな態度を取りますか。
13 本当の父親は,子供を愛するがゆえに,家族をもうけます。子供を悪鬼や悪霊にしたり,子供に拷問や責め苦を加えて満足を味わったりしてみたいなどと考える父親はいません。父親は子供の最善の益を心にかけます。子供は父親の像を反映し,父親にとって誉れとなり,父親に対して然るべき敬意と従順を示すので,父親は子供を持つ喜びを味わいたいと思うのです。昔,自らも多くの子供の父であった,ある王は,神からの霊感を受けてこう述べました。「賢い子は父を喜ばせ(る)」。「義人の父は必ず喜びで満ちあふれ,賢い者の父となる者もまた,その子を喜ぶ」。―箴 10:1; 23:24,新。
14 エホバは,子らを扱う点で人間の父親にどのように比べられていますか。
14 理知のある被造物に対する天の父の態度に関して,詩篇作者ダビデはこう言いました。「父がその子らにあわれみを示すように,エホバは,ご自分を恐れる人たちにあわれみを示しておられる。彼ご自身,わたしたちの成り立ちをよく知っており,わたしたちが塵であることを覚えておられるからである」。(詩 103:13,14,新)エホバはご自分の子たちに何を期待しているかを示して,こう言っておられます。「子は父を敬い,しもべはその偉い主人を敬う。それで,もしわたしが父であるなら,どこに,わたしへの敬意があるのか。また,もしわたしが偉い主人であるなら,どこに,わたしへの恐れがあるのか」。(マラキ 1:6,新)天の父なるエホバは,ご自分の被造物に対して正しい特質を示す点で,地上の父親に劣ってはいません。というのは,こう言っておられるからです。「人が自分に仕える子に同情を示すように,わたしは彼らに同情を示す」― マラキ 3:17,新。
15 神はどんな動機から,天の子たちの性質より程度の低い性質を持つ子どもたちを創造しましたか。そうすることによって,何が示されることになりましたか。
15 エホバ神はほかならぬ愛の動機から,新たな性質を持った子どもたちの父となることを意図されました。これはそれら子どもたちが霊の性質,つまり天的な性質を持つものではないことを示しています。その性質は,霊の性質ほど純化されたものではないので,それら子どもたちは,天の「神の子たち」の持っていない限界や制約に服させられることになりました。とはいえ,このことは彼らにとって苦しみの種ではなく,申し分のない喜びをもたらすものなのです。その性質は,血肉のそれ,つまり人間の性質となるものでした。このような,より程度の低い性質を持つ子どもたちを創造したのは,天の父が,霊の子たちで成るぼう大な家族に満足できなくなった,あるいはご自分にとって新たな楽しみとなる,新しいものを追加する必要があったためではありませんでした。むしろ,創造者としての神の,きわめて多種多様な知恵を,なお一層示しまたさらに他の被造物にもご自分の愛を広げるためでした。
16 (イ)人間の性質をもつ家族を創造するため,神はまず最初に,何を生み出さねばなりませんでしたか。(ロ)この地球の創造に関する神の目的は,どのようにはっきり述べられていますか。
16 しかし,まず最初に神は,人間の性質をもつそのような家族を創造するのに用いる素材と,その人間の家族が居住し,生活するのに適した場所を備えなければなりません。このことを考えて,神は地球を,つまり今日,銀河として知られる大星雲の一部である太陽系に属する,一惑星を創造されました。聖書は次のように述べて,その驚くべき物語を,この時点から書き起こしています。「初めに,神は天と地を創造された」。(創世 1:1,新)神は愛の気づかいをこめて,冷却して堅くなった地球の表面に,そこに住む人間に適した状態や環境を準備しました。神は次のように述べて,この地球に対するご自分の目的に言及しておられます。
『天の創造者,真の神なる方,地を形造った方で,その造り主,それを堅く立て,それを単にむだに創造せず,まさに住まわせるためにそれを形造られた方,エホバが,こう仰せられる』― イザヤ 45:18,新。
17 創造者は,人間の家族が必要とするものをどのように予知しておられましたか。また,それら必要なものをどのように備えましたか。
17 その人間の家族は,命を維持するために呼吸を必要とする体をもつ者なので,神は地球の周りに大気を備えました。人間には飲む水が必要でした。それで,神は十分の水を備えました。また,人間には植物や,食物となる草本が必要だったので,神はそれを人間のために備えました。人間は健康を保ち,視力を働かせるのに日光を必要としましたから,神は,太陽光線が地球に達するのを妨げていた宇宙塵の雲をことごとく除去し,後日,大気を透明にさせて太陽や月や星の光を地表に透過させました。人間の家族は休息と睡眠を周期的に取る必要があったので,偉大な設計者は地球を自転させて,昼と夜を交互に起こさせるようにしました。神は魚その他の海生生物を海にいっぱい生じさせ,翼のある飛ぶ生物を空中に飛ばさせ,また実に多種多様な陸生動物を生じさせ,地上の生物の有機的営みのなかで,それらの生物すべてにそれぞれ役割を演じさせるようにしました。愛ある賢明な創造者は,自ら日と呼んだ,六つに区分される創造の期間中に,このすべてを行なわれたのです。―創世 1:1-25。
18 いつ,またどんな創造の「日」に,神はご自分の地上の創造のわざの最高潮をもたらす目的を発表されましたか。
18 六番目の創造の期間の終わりにかけて,天の父が人間の家族の営みを開始させることに取りかかれるよう,地球の周りや地球上の事物が整えられていました。次いで,創世記 1章26節(新)が次のように述べるとおり,神は地上におけるご自分の創造のわざの最高潮を成すものが何であるかを発表されたのです。「次いで神は言われた,『われわれの像に似せて,われわれのさまにしたがって人を造ろう。そして彼らに,海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上で動いているあらゆる動く動物を従わせよう』」。
19 創世記 1章26節で,神がご自分に語りかけておられたかどうかについては,どうすればその真偽を証明できますか。
19 この創造の記述のヘブライ語本文の「神」という言葉は,エロヒムで,これはエロアの複数形です。創世記のこの箇所でこの複数形が用いられているのは,二つ,あるいは三つ,もしくはそれ以上の幾つかの神々を示すためではなく,尊厳や偉大さを示すためです。この箇所のエロヒムに続く動詞が単数形のそれであるのは,そのためです。ですから,「次いで神[エロヒム]は言われた,『われわれの…』」とあるからといって,神がご自身に話しかけていたという意味ではありません。この神は三位一体,つまり三者一体の神,すなわち神の一つの位格が他の二つの位格に向かって,「われわれ…」と語りかけた,三つの位格をもつ神ではありません。創世記 2章4節で,この創造者はエホバ神と呼ばれており,後に筆者である預言者モーセは,こう言いました。「イスラエルよ,聞きなさい。わたしたちの神,エホバは,ただひとりのエホバです」。エホバは二人,あるいは三人ではなく,ただひとりです! いわゆる三者一体の神あるいは三位一体は異教徒が考案したもので,冒涜的な間違った考えです。―申命 6:4,新。
20 「人を造ろう」という言葉はだれに対して話されたと見るのが最も妥当でしょうか。それはどうしてですか。
20 したがって,「われわれ…」と言われた神(エロヒム)は,少なくとも,目に見えない霊の天のご自分とは別個の,だれかほかの者に話しかけておられたのです。エホバ神はここで,ご自分に仕える1億か,あるいはそれ以上の数の使いたちに話しかけて,人間の創造に関して彼らの協力を要請しておられたとは,まず考えられません。全創造物のなかの初子,神による創造の初めである,神の初子なる,天のみ子に話しかけておられたと見るのが,最も妥当でしょう。神の天の家族の初子である,このみ子こそ,地上の人間の創造に際して天の父とともに働くよう招かれる,秀でた立場や誉れを与えられて然るべき方です。こうなれば,問題は簡単になります。初子である,この天のみ子は,その天の父の「像」をもち,父の「さま」に似ていたので,神が彼に向かって,「われわれの像に似せて,われわれのさまにしたがって人を造ろう」と言えたのは,もっともなことです。神の像とさまに似ているということは,決してエホバ神と同等であるという意味ではありません。「像」は,実体ではありません!
パラダイスに住んだ最初の人間
21 新しく創造された人はパラダイスに置かれましたが,そのことはどこに記されていますか。
21 創世記 2章は,人間の創造についての詳細を論じており,その2章7,8節(新)は叙述的な文体でこう述べています。「ついでエホバ神は土地の塵で人を形造り,その鼻に命の息を吹き入れられた。すると,人は生きた魂となった。さらに,エホバ神は東の方,エデンに園を設け,そこに彼が形造った人を置かれた」。古代シリア語訳聖書では,「園」の代わりにパラダイスという言葉が用いられています。また,ドウェー訳聖書もパラダイスという言葉を用いて,こう訳出しています。「そして,主なる神は始めから,楽しみのパラダイスを設けておられ,そこに,彼が形造った人を置かれた」― 創世 2:8,ド。
22 創世記 2章7節は実際には何と述べているのに,ある人々は宗教上のどんな一般的な考えを読み取ろうとしていますか。
22 創世記 2章7節が人間の創造について述べる事柄に,もう一度注目してみましょう。その句は,エホバ神が人体と異なった別個の魂を人のなかに入れたと述べていますか。これこそ多くの信心家がこの聖句から読み取りたいと考えている事柄です。事実,西暦1942年に出された,F・トルレス・アマト-S・L・コペリョ共訳,「スペイン語訳聖書」はこう訳出しています。「それから,主なる神は地のねば土で人を形造り,その顔に息,あるいは命の霊を吹き込んだ。すると,人は理性のある魂をもって生かされた状態にとどまった」。b これは,「すると,人は生きた魂になった」と訳出している,ローマ・カトリック・ドウェー訳とは非常に異なっています。また,アメリカ・ユダヤ人出版協会の発行した聖書も,「すると,人は生きた魂になった」と訳出しています。ヘブライ語本文の逐語的な読み方(右から左へ読む)を読者に知っていただくため,G・R・ベリー編,「ヘブライ語旧約聖書 行間逐語訳」(1896-1897年版権取得)の創世記 2章7節のその箇所の複写写真による写しを下に掲げます。
the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul. 8 ¶ And the LORD God planted a garden
יְהוָֹה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם עָפָר מִן־הָאֲדָמָה
,ground the from dust [of out] man (the) God Jehovah
וַיִּפַּח בְּאַפָּיו נִשְׁמַת חַיִּים וַיְהִי הָאָדָם
1man (the) 2became and ; life of breath nostrils his in breathed and
8 לְנֶפֶשׁ חַיָּה ׃ וַיִּטַּע יְהוָֹה אֱלֹהִים גַּן בְּעֵדֶן
Eden in garden a God Jehovah planted And 1living 2soul a (for)
23 人間の体が死ぬとき,魂はどうなりますか。
23 霊感を受けて記された神のみ言葉,聖書が,「人は生きた魂になった」と,はっきり述べているのですから,人は魂なのです。聖書は真理を語っています! 聖書は,人間の魂とは何かを知る上で信頼できる典拠となります。死後,人体を離れて霊界に入る,目に見えない霊的な魂を,人間は内部に持っていると言ったのは,書き記された神のみ言葉を持っていなかった,古代の異教の哲学者でした。ヘブライ語本文では,「魂」という言葉はネフェシュで,ヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳ではプシュケーです。したがって,人体に起きる事は,人の魂にも起きるのです。単に人体だけが死ぬのではありません。エゼキエル書 18章4節(新)でエホバ神が言われるとおり,「見よ! すべての魂 ― それはわたしのもの。……罪を犯している魂 ― そのものが死ぬ」のです。(20節も見よ。)
24 「物質の体」は,どうして「霊の体」とは異なっていますか。
24 人は霊のものでも,霊のようなものでもありません。人は地のもの,土のようなものです。「エホバ神は土地の塵で人を形造り」ました。(創世 2:7,新)神が人間のために創造した体は,地と大気から取った元素で構成されました。それは霊の体ではありませんでしたから,人体を霊化して,目に見えないものにし,霊界に住めるようにすることはできません。それは物質の体で,天の「神の子たち」の有するような,霊の体とは異なった別のものでした。西暦一世紀の聖書注釈者が,「物質の体があるなら,霊の体もあります」と述べたとおりです。この二種類の体は,混同してはなりませんし,聖書はそれを混同してはいません。―コリント第一 15:44。
25 ギリシャの啓学とは対照的に,神は人の鼻に何を吹き入れて,人を「生きた魂」にしましたか。
25 神がその楽しみのパラダイスの土地の塵で形造った,裸の人間の体は,必要な部分あるいは器官が一つも欠けていない完全なものでした。「彼のみわざは完全。その道はすべて公正」なのです。(申命 32:4,新)賢い王ソロモンは言いました。「見よ! このことだけをわたしは見いだした。真の神は人を廉潔な者に造られた」。(伝道 7:29,新)その最初の人体を生かし,機能を完全に果たさせるため,神は,異教のギリシャ人の考えによれば,チョウのように飛び回っていた,体を持たない「魂」(プシュケー)c を天から取って,命のない体に吹き込んだり,あるいは挿入したりした訳ではありません。人体の両肺をふくらませるために,単に空気を吹き込んで流入させたのではありません。溺死者の場合の口移しによる人工呼吸とは全く異なるものでした。神が人の鼻に吹き入れたものは,「命の息」と呼ばれていますが,それは単に両肺を空気で満たしただけでなく,呼吸によって維持される生命力を人体に付与しました。こうして,「人は生きた魂となった」のです。
26 最初の人間はなぜアダムと名づけられましたか。神はアダムの生活にどのように真の目的を付与しましたか。
26 エホバ神は,この最初の,魂である人間の父,つまり命の授与者になりました。その人体を構成した素材は,ヘブライ語でアダーマーと呼ばれる,土地から取られました。ですから,この生きた魂が,アダムと名づけられたのは適切なことです。(創世 5:1,2)天の父はご自分の地的な子をエデンのパラダイスに置くさい,目的を持っておられました。それで,アダムの生活に目的を付与しました。そのような意味で,創世記 2章15節(新)にはこう書かれています。「ついでエホバ神は人を取って,エデンの園に定住させ,それを耕させ,それを世話させた」。神はアダムに,パラダイスの管理者つまり園芸家のするような仕事を割当てました。その地上のパラダイスに何が成育したかを多少でも示すものとして,こう記されています。「エホバ神は東の方,エデンに園を設け……こうしてエホバ神は,その土地[アダーマー]から,見るからに好ましく食べるのに良いあらゆる木を,また園の真ん中には命の木,それから善悪の知識の木をも生え出させた」。(創世 2:8,9,新)『見るからに好ましいあらゆる木』があったのですから,エデンの園は美しい場所だったに違いありません。その「食べるのに良い」木のなかには,いちじくの木がありました。
27 神はアダムがただ独りだけでパラダイスにいるのではないよう,また彼が物事を知るよう,どのように取り計らわれましたか。
27 地が供した最善のものである,楽しみのパラダイスを住みかとして,地的な子に与え得たのは,愛の神だけでした。アダムは完全な人間でしたから,その園とその美を正しく評価する完ぺきな力を備えていました。彼はただ独りでそこにいた訳ではありません。その園に源を発し,園の境界のかなたの地域に分岐して流れていた川には,種々様々の魚がいました。(創世 2:10-14)また,様々の鳥類,それに家畜や野獣などの陸生動物もいました。神はアダムがそれら地上の下等な生き物をよく知るように取り計らわれました。
「さて,エホバは,土地から,野のあらゆる野獣と,天のあらゆる飛ぶ生き物を形造っておられた。そして彼は,そのおのおのを人が何と呼ぶかを見るために,人のところに連れて来はじめた。人がおのおの生きた魂[ネフェシュ]につける名は,みな,それがその名となった。それで人はすべての家畜と,天の飛ぶ生き物と,野のあらゆる野獣の名を呼んでいたが,人には,彼の補助としての助け手が見あたらなかった」― 創世 2:19,20,新。
28 さるに出会ったとき,アダムは自分がさると同族関係にあるなどとは少しも感じませんでした。なぜですか。
28 野生動物がアダムに引き合わされたとき,長い腕を持つ,毛深い,ある生き物が現われました。アダムはそれを,今日の「さる」を意味するコプと名づけました。(列王上 10:22。歴代下 9:21)アダムはそのさるを見たとき,自分がさると同族関係にあるなどとは少しも感じませんでした。また,自分は血縁上さるの子孫だなどとは信じていませんでしたし,「これこそ,ついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉」などと,喜んで叫んだりはしませんでした。コプ(さる)は創造の六「日」目のより早い時期に創造されており,彼,アダムは,さるその他の地上の下等な生き物などとは少しも肉的なつながりなしに,神により別個に創造されたという情報を,アダムは神から受けていました。アダムは,四種類の肉があることを知っていました。最近の科学上の発見と一致して,19世紀前に述べられたとおり,「すべての肉が同じ肉ではなく,人間の肉があり,また家畜の肉があり,また鳥の肉があり,また魚の肉があ(る)」のです。(コリント第一 15:39)いえ,たとえ神のみ言葉がコプ(さる)のことを「生きた魂」と述べてはいても,さるはアダムの「補助」,その伴侶としてふさわしい存在ではなかったのです。―創世 2:20,新。
29 アダムはへびと話をしませんでしたし,どんな動物をも崇拝しませんでした。なぜですか。
29 アダムが野のすべての野獣を観察したところ,土あるいは木の上には,うろこで覆われた,手足のない,長い動物が,するすると動いていました。アダムはそれを,「へび」という意味のナーハーシュと呼びました。それはアダムに話をしかけませんでしたし,一方アダムも話をしたりはしませんでした。それはシューという音しか出せない,口のきけない生き物でした。アダムはへびや他の野生動物を少しも恐れませんでした。また,そのどれをも,牛をさえ神聖視して崇拝したりはしませんでした。アダムの神はそれら動物を彼に服させておられました。彼は神の像に似せて,神の様にしたがって造られた,神の地的な子だったからです。それで,天の父である「真の神」エホバだけを崇拝しました。
地上における永遠の命の可能性
30,31 (イ)アダムはいつまで,またどこで生きることになっていましたか。(ロ)正当なこととして,神は従順に関するどんな試験をアダムに課しましたか。
30 アダムはいつまで,またどこで生きることになっていましたか。神は,アダムが死んで,エデンのパラダイスを放置してもよいなどとは考えませんでした。地球は人類の住まない所として放置されることになってはいませんでした。神はアダムの前に,地上のエデンのパラダイスで永遠の命を享受する機会を置かれたのです。しかしそれは,アダムがその創造者なる神に永遠に従順であるかどうかにかかっていました。神は不従順の性向,つまり罪を犯す傾向をアダムの内に宿らせたりはしませんでした。神は,完全な道徳観念とともに,公正・知恵・力・愛などの神聖な特質をご自分の地的な子に付与されました。神は全宇宙に対するご自身の主権の正しさを認めておられるのですから,アダムに対して何ら疑惑の念を抱かずに,ご自分のその地的な子を試みるのは,正当なことでした。神がアダムに課した試験は,アダムの自由をほんの少し制限するものでした。こう記されています。
31 「そしてエホバ神はまた,この命令を人に与えられた。『園のあらゆる木から,あなたは満足のゆくまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木からは,取って食べてはならない。それから取って食べる日には,あなたは確かに死ぬからである』」― 創世 2:16,17,新。
32 善悪の知識の木から取って食べることは,アダムが永遠の命を享受するのに不可欠な事柄でしたか。
32 ここで,偉大な命の授与者は,その子アダムの前に,永遠の命か永遠の死かのどちらでも選べる前途があることを示されました。天の聖なる父に対して不従順になれば,アダムは永遠にわたる確実な死を招くことになります。息子が父に示すような誠実な従順を示すなら,永遠の命がもたらされます。しかし,従順を示し続けるなら,その報いとしてアダムは天に移されるという訳ではありません。アダムが造られたのは,み使いたちとともに天で命にあずかるためではなく,地上の楽しみのパラダイスで永遠の命を享受するためだったからです。「天は,エホバの天である。しかし,地は,人の子らにお与えになった」とあるとおりです。(詩 115:16,新)アダムが永遠に生きるのに不可欠だったのは,『園の真ん中の命の木』であって,善悪の知識の木から取って食べることではありませんでした。―創世 3:22,新。
33 「食べるその日には」という表現を,神は明らかにどのような意味で用いましたか。なぜですか。
33 では,「それから取って食べる日には」という表現をアダムはどう解していたのでしょうか。ずっと後の預言者モーセがエホバ神に向かって,「千年もあなたの目には……つい昨日のようで(す)」と述べた言葉にあるような,千年の長さの一日という見地に立って考えるべき理由あるいは根拠は,アダムにはありませんでした。(詩 90:4および表題,新)確かにこうは考えませんでした。『もしわたしが背いて,死なねばならないとしても,おおかた,あるいはほとんど千年間生きられるのなら,結構なことじゃないか』。このように推論する根拠はありませんでした。神は24時間の一日という意味で「日」という言葉を用いていたと,アダムは解していたに違いありません。明らかに神はご自分の地的な子供の理解力に応じて話されたのですから,一貫性という見地から考えて,神は24時間の一日のことを言っておられたに違いありません。神は,「善悪の知識の木から取って食べる,千年の長さの日には,あなたは死ぬ」という意味で言われたのではありません。そのような意味であれば,神の警告の力強さは失われてしまいます。
34 アダムは,禁じられた木に関する禁止命令をどのように受けましたか。アダムは神との意思の疎通をどれほどの期間享受し得ましたか。
34 神は目に見えない使いを通してアダムに話しかけたのかもしれないとはいえ,彼はその強力な警告を直接神から受けました。それは神の言葉,神の音信でした。神は目に見えない世界からアダムに話しかけられたのです。神は,へびのような,ある下等動物を用いて,ご自身の命令をご自分の地的な子アダムに伝えたりはしませんでした。後者の場合,動物としてのこの創造物はその後,神を象徴する存在として用いられ,神聖な存在として,それ相当の敬意をもって取り扱われ得るものだったのです。しかし,真の神は,創造物である動物を通して崇拝されることを欲してはおられません。楽しみのパラダイスにいたアダムは,神を直接崇拝していました。もしアダムが永遠にそうし続けるとすれば,神とのそうした意思の疎通は永遠に保たれたことでしょう。このようにして,アダムが地上のパラダイスに神とともに永久に留まれるとは,何という特権だったのでしょう。
[脚注]
a テルトゥリアヌス著「プラクセアスを駁す」を見てください。同書の7章で,彼はこう述べています。「同様に,み子は父を認め,知恵という名を用いて,自らこう語っている。『主は,その道の始めとして,わたしを造られた』」。また,殉教者ユスティヌス,イレナエウス,アテナゴラス,アンティオキアのテオフィルス,アレクサンドリアのクレメンス,キプリアヌス(の論文),オリゲネスの「原理論」,ディオニュシオスそしてラクタンティウスの,箴言 8章22節に関する注解をもご覧ください。
b スペイン語: “Formó, pues, el Señor Dios al hombre del lodo de la tierra, e inspiróle en el rostro un soplo o espíritu de vida, y quedó hecho el hombre viviente con alma racional.”
c ギリシャ語プシュケーの幾つかの意味の一つは,「チョウ,またはガ」です。―リデルおよびスコット共編「希英辞典」第2巻,2,027ページ,第2欄VI参照。ギリシャ-ローマ神話では,プシュケーは,神エロスに愛された,魂を擬人化した美しい乙女でした。
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神は,男と女に対するご自分の目的を明らかにされる人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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4章
神は,男と女に対するご自分の目的を明らかにされる
1 神はアダムの創造に際し,アダムが人類の父になるべきことを当人に話されましたか。
最初の人,アダムが地上の下等な生き物だけを仲間として,楽しみのパラダイスのなかで独りでいたとき,神はアダムが人類の父となることについては,何も言われませんでした。しかし,神はそのことを考えておられました。それこそ,地に関する神の目的だったのです。やがて,神はご自身のその聖なる目的を人間に明らかにしました。
2,3 (イ)神は人類家族をどのように生み出すことを意図されましたか。(ロ)そのための適当な助け手が,人間以下の生き物のなかに見あたらなかったのはなぜですか。
2 神は結婚という方法を講ぜずに直接創造することによって天に子たちを住まわせたのと同じ仕方で,地に人を住まわせることを意図されたのではありません。神は,人間アダムが適当な配偶者と結婚して父親になることを意図されました。この事に関する神の考えが記されている,創世記 2章18節(新)は,こう述べています。「そして,エホバ神は続けて言われた,『人が自分ひとりでい続けるのは良くない。わたしは彼のために助け手を,彼の補助として造ることにしよう』」。
3 神は人間を創造する前に,また人間の創造とは別個に,地上の下等な生き物すべてを創造されました。したがって,魚や飛ぶ生き物,また陸生動物などの人間以下の生き物は,人間の「類」のものではありませんでした。それらの生き物は,おのおの「その類にしたがって」のみ子孫を生み出すことができたのです。(創世 1:21,22,25,新)しかし,人類を生み出す点で,人間と協力できるものではありませんでした。このことは,神が地上の下等な生き物をアダムに引き合わせた後,はっきりとわかりました。それで,アダムが動物界のことを知らされた後,当然の結論として,「人には,彼の補助としての助け手が見あたらなかった」のです。―創世 2:19,20,新。
4 神はどのようにしてアダムの「助け手」を生み出されましたか。アダムは彼女を何と呼びましたか。
4 それはなお創造の第六「日」目のことでした。それで,神は地上における創造のわざをさらに続行したからといって,何らかの安息の取決めを破っておられた訳ではありません。では,どのようにしてアダムのために助け手を,その補助として創造されたのでしょうか。痛みを感じさせずに外科手術を行なうための麻酔剤や鎮痛剤が現代の医学によって発見されるより何千年も前に,神は最初の人アダムに,痛みを感じさせない手術を行なわれました。「そこでエホバ神は深い眠りをその人に起こさせ,彼が眠っている間に,彼のあばら骨の一つを取り,次いでそのところの肉をふさがれた。そしてエホバ神は,その人から取ったあばら骨を,一人の女に造り上げ,彼女を人のところに連れて来られた。それで人は言った,『これこそついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉。これは女[イッシャー]と呼ばれよう。これは男[イシュ]から取られたのだから』」― 創世 2:21-23,新。
5 それで,人類家族全体はどのようにして,肉身の面での一様性を得ましたか。
5 アダムは自分のあばら骨(その髄には血液を造り出す特性がある)の一つから最初の女が造り上げられたいきさつを聞かされていたので,彼女のことを正しく,自分の骨の骨,自分の肉の肉と呼ぶことができました。神が女を創造したとき,その創造にアダムの体が寄与したのですから,なおさら彼女のことを自分の一部と感じて然るべき理由がありました。それから何千年もの後のこと,ギリシャ,アテネのアレオパゴスの裁判所で次のように言い得たのは,まさにもっともなことです。「[神]はひとりの人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせ(ました)」。(使徒 17:26)それで,人類家族全体にわたって肉身の面での一様性が見られますが,もし神が最初の女を,最初の人アダムとは別個に土の塵から創造したのであれば,事情は異なっていたことでしょう。
6 神のみ言葉によれば,人類家族はどのようにして広がることになっていましたか。
6 パラダイスにおける最初の男女のこうした結婚について語った後,聖なる記録はさらにこう述べています。「そのようなわけで,人は父母を離れて,妻と結びつき,ふたりは一体となるのである」。(創世 2:24,新)女が創造された仕方のゆえに,アダムとその妻は,性的に結合する前から「一体」となっていました。アダムとその妻の子孫の場合,男女は結婚することによって性的に結合し,特にそのようにして初めて「一体」となります。父母を離れて,妻と結びつくということは,新婚の男子は自ら世帯をもうけるということを意味しています。このようにして,人類家族は広がってゆくのです。
7 アダムとその妻は創造されたままの互いの姿を見て恥ずかしく思いませんでした。なぜですか。
7 当時,エデンのパラダイスには完全な潔白さ,誠実さが宿っていました。創世記 2章25節(新)の言葉は,そのことを証明しています。「そして,人とその妻は,ふたりとも引き続き裸であったが,それでもふたりは恥ずかしいと思わなかった」。ふたりは神に対して,また互いに対して明らかな良心を抱いていました。
8,9 (イ)それで,性はだれによって,何のために創造されましたか。(ロ)神がアダムとエバになすべきことを命じた言葉は,そのことをどのように確証していますか。
8 さて,今やパラダイスの情景のもとに男女が登場したのですから,正しい年代順に従えば,ここで創世記 1章27節(新)の記述が関係してきます。その記述はこう述べています。「そして神は人をご自分の像に似せて創造された。神の像に似せて彼を創造し,男と女とに彼らを創造された」。それ以前に,地上の下等な生き物の間には雌雄両性が存在して,同「類」を繁殖できたのと全く同様,女が創造されるに至って,人類の間にも男女両性が存在しました。神は性の創造者ですが,性の目的は生殖にありました。ここで神が最初の人間男女に,なすべきことを次のように命じた言葉は,その重大な事実を確証しています。
9 「さらに,神は彼らを祝福し,神は彼らに言われた,『生めよ。殖えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚,天を飛ぶ生き物,地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ』」― 創世 1:28,新。
10 したがって,神は,地の表が最後にはどんな状態になることを意図しておられましたか。
10 その男女が楽しみのパラダイスで結婚生活を始めたとき,神は両人を祝福されました。神の考えやその表現は,両人にとって最善のものでした。神はそのふたりに述べた言葉によって,人類と地に対するご自分の目的が何であるかを明らかにされました。神はその最初の男女の子孫によってこの地が満たされ,それだけでなく,人類家族の居住する地全体が従わされることを意図しておられました。従わされて,どんな状態になるのですか。人間の男女がそれと気づいたときの,自分たちの置かれていたパラダイスの状態になるのです。これは神の設けられたパラダイスの境界が東西南北の相会するところまで,つまりすべての大陸,また海洋のすべての島々に至るまで広げられて,全地が美化され,住みよい所とされることを意味しました。パラダイスの地は人口過剰になるのではなく,人類の生殖は,従わされた地全体がほど良く満たされるときまで続くことになっていました。そして,人間は地上の下等な生き物を絶滅させるのではなく,愛ある管理のもとで服従させることになっていたのです。
11,12 (イ)わたしたちはなぜ,人間と地に対する神の目的を見失ってはなりませんか。(ロ)わたしたちはどうすれば自分の生活を目的のあるものにし,永続する益に自らあずかれますか。
11 アダムとその妻は両人に対する神の祝福と命令の言葉に接したとき,自分自身と自分たちの住みかである地に対する神の遠大な目的を見通しましたか。今日,わたしたちは見通していますか。人間の男女と,わたしたちの住みかである地とに関する,創造者なる神の最初の目的を理解していますか。神の目的は実に簡潔に述べられていますから,正直な人なら,それを把握するのは容易です。
12 もし神の目的を本当に把握したなら,今度はそれを見失わないようにしましょう。さもないと,宗教的混乱と誤びゅうに陥るからです。人間は偶然に,当てもなく地上に存在したのではありません。熟慮のうえ,ある目的のために男と女を地上に置いた神は,その目的を人類の最初の二親に明らかにされました。そのことを知らされ,命令を与えられた後,アダムと,彼がエバと名づけたその妻が,神の目的を自分たちの生活の目的とするのは,誉れある,祝福された特権でした。それには神に対する両人の従順が必要でした。次いで,従順であれば,従順なアダムとエバ,また従わされた地の至る所に住む,従順な子孫すべては,パラダイスの地上で完全な幸福のうちに永遠の命を享受することになったでしょう。それで,アダムとエバの生活は目的のあるものとなったのですから,潰えることのない神の目的によれば,わたしたちの生活も目的のあるものとなり得るのです。
13 パラダイスの中では,何も殺す必要はありませんでしたし,地が人で満たされても,食糧不足を恐れる必要はありませんでした。どうしてですか。
13 神は,人類家族が「殖え」ても,食糧不足を恐れる必要がないことをアダムとエバに示されました。愛ある父である神は,人間の息子や娘たちで満ちる地のために十分の備えを設けました。また,パラダイスでは何かを殺す必要はありませんでした。神はそうした事柄を指摘されました。こう書かれているからです。「次いで,神は言われた,『さあ,わたしは,全地の表にあって,種のなるすべての草と,種のなる,木の果実のあるあらゆる木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また,地のあらゆる野獣,天のあらゆる飛ぶ生き物,地の上を,動き,そのうちに魂[ネフェシュ]としての命のあるあらゆるものに,食物として,わたしはすべての緑の草を与えた』。すると,そのようになった」― 創世 1:29,30,新。
14 (イ)食物に関して神がなさった一般的な陳述のほかに,食べ物に関するどんな禁止命令が依然適用されていましたか。(ロ)アダムとエバは,物質の食物に加えて,何によって生きる必要がありましたか。
14 ここで述べられているのは,人間が何を食べるべきかに関する単なる一般的な陳述で,それはアダムとエバの両人が神から聞かされた陳述にすぎません。それで,「種のなる,木の果実のあるあらゆる木」について述べられているのです。それは詳細な点に立ち入って説明すべき時ではありませんでした。というのは,それより前にアダムだけに述べられた言葉のなかで,神は善悪の知識の木から取って食べることを禁じた禁止命令を課しておられたからです。(創世 2:16,17)少なくとも当分の間,その禁じられた木の実は,アダムとエバの食物となるものではありませんでした。いずれにせよ,命を支えるための食物は十分あったので,善悪を知る木から食べなくてもよかったのです。パラダイスにはあらゆる食物がそれほど豊富にあったとはいえ,二千年余の後のエホバの選民について次のように言えたことが,同様にアダムとエバにも当てはまりました。「人はパンだけで生きるのではない,人はエホバのみ口からのすべてのことばによって生きる」のです。(申命 8:3,新)アダムとエバは,エホバ神の述べた命令の言葉を守ったなら,全地にわたるパラダイスのなかで家族とともに永久に生きたことでしょう。
創造の第六「日」の終わり
15 創造の第六「日」の終わりに際し,地的創造物は神の目にどう映りましたか。
15 こうして,地上の事物は神の定めた注目すべき時に,神の目的にしたがって前途に驚くべき可能性のある,これまでに述べたとおりの,そうした段階に達しました。今や,人間や動物の住む地球は太陽の周りを巡り,月は地球の周りの軌道に沿って運行しています。その状況は,わたしたちの目にはどう映りますか。わたしたちの受ける印象は,神のそれとは異なってはいないはずです。そのことに関して,こう書かれています。「そののち,神はお造りになったあらゆるものをご覧になった。見よ,それは非常に良かった。こうして夕があり,朝があった。第六日」― 創世 1:31,新。
16 第六「日」の終わりに地球を眺めたとき,「明けの星々」や「神の子たち」はどんな反応を示したに違いありませんか。
16 漸進的な神であるエホバは,秩序だった仕方で,段階を追って前進しておられました。それは何と筋道の立った進み方だったのでしょう。アダムとエバが創造され,両人が神から祝福されるとともに,神の地的な子たちが居住できるよう,地を整える点で,神の創造の第六「日」は終わりを告げました。単に地の基が据えられたときでさえ,「明けの星々がともに喜びの声を上げ,神の子たちはみな,称賛の叫びをあげ始めた」のであれば,創造の第六「日」の終わりに際し,今や地が十分整えられた状態になり,その地上に完全な人間の夫婦が生活しているのを見たとき,それら天の「神の子たち」は,さぞ感嘆と賛美の言葉を発したことでしょう。―ヨブ 38:7,新。創世 1:28。
17 第六「日」の「朝」の終わりまでに成し遂げられた神の業績を考えると,創造の「日」の日数に関するどんな疑問が生じますか。
17 創造のその第六「日」の「朝」は,神の輝かしい業績をもって終わりました。長年月にわたる,幾日かの創造の「日」は,第六日で終わるのですか。第六「日」は,全地に人を住まわせるための基をアダムとエバのうちに据えるだけで終わりました。もう一つの創造の「日」,その日の「朝」の終わりには全地が人類家族の住む世界的なパラダイスとなる,第七「日」があるのでしょうか。
創造の第七「日」は西暦前4026年に始まる
18 どんな究極目的を考えれば,創造の「日」がもう1日見込まれているのは,もっともなことですか。
18 地に関する神の目的は,創造の第六「日」の終わりまでに十分成し遂げられたわけではありません。神はその目的を果たせるでしょうか。それも,特に,個人的な意志の力を持ち,地上で神の目的に一致する,あるいは反する道をどちらでも自由に選択できるようにされた被造物である人間と交渉を持つようになった今,神は目的を成し遂げられるだろうか,という疑問が残されました。ですから,完全な人類を地に住まわせ,人々がすべて愛と平和のうちにともに生活し,全地にわたるパラダイスのなかで同一の言語を話すようになる,創造の「日」がもう一日,つまり第七「日」が見込まれているのは,もっともなことです。そのような創造の「日」の終わりは,神の目的が堂々と成し遂げられ,創造者で,宇宙の主権者であられる神の正しさが立証されるのを目撃するものとなるでしょう。
19 (イ)第七日が「創造の」日と呼ばれるのはなぜですか。(ロ)その「第七日」に関して,神は何をなさいましたか。
19 神は確かに,ご自分の目的を遺憾なく知らされました。その目的はまさしく創造の第七「日」を必要としました。それを「創造の」日と呼ぶのは,創造の第七「日」に神が地上の事物を創造し続けたというのではなく,それが以前の創造の六「日」間と不可分の関係にあり,それら以前の「日」と同じ長さの日であるという意味です。神のみ言葉はこのことについて何と述べていますか。
「こうして,天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は,第七日目までに,なさっていたわざを完了された。ついで,第七日目に,なさっていたすべてのわざをやめて休まれた。また,神はその第七日目を祝福し,それを神聖にされた。それは,その日に,神が造るために創造を行なっていたすべてのわざをやめて休んでおられるからである」― 創世 2:1-3,新。
20 創世記 2章1-3節が24時間の1日,それとも依然続いている,ある創造の期間について述べているかどうかは,どうすれば断定できますか。
20 創造の第七「日」に関するこの記述は,夕と朝のある特定の創造の「日」が終わったことをはっきりと述べる言葉で結ばれてはいないことを,見落とさないようにしましょう。創世記 2章3節には,「こうして夕があり,朝があった。第七日」という言葉は付け加えられていません。こうした結びの言葉が書かれていないということは,創世紀元2553年つまり西暦前1473年に預言者モーセが,モーセ五書つまり聖書の最初の「五書」を書き終えた時代でも,創造の第七「日」は依然終わってはいなかったことを示しています。さらに,その後,詩篇作者ダビデは詩篇 95篇7-11節で,つまり創紀2889年,または西暦前1037年までに神の休みに入ることについて述べています。これは,神の休みの日に言及している創世記 2章1-3節が24時間の1日ではなく,先行する創造の「日」のおのおのと同じ長さの創造の「日」について述べているということを示しています。ですから,その創造の「第七日」は,今もなお終わってはいません。
21 人類は全体としては,神の「第七日」目の安息に入って,それを守っている訳ではありません。地上のどんな事情がそのことを示していますか。
21 したがって,わたしたちは,エデンのパラダイスが地球全域に広がり,死ぬことのない完全な人間の家族があらゆる所に住んでいる様を,まだ見てはいません。それどころか,哺乳動物や鳥類や魚類は絶滅の一途をたどり,核爆弾その他の大量殺人兵器で武装した世界の超大国は全人類を絶滅させて,地球を無人の廃虚と化しはしまいかと恐れられています。確かに人類全体は,いえ,聖書の神を崇拝していると主張する宗教諸団体さえ,神の休みに入って,その創造の「第七日」を祝ってはいません。しかも,今や,人間の創造以来ほとんど六千年を経ようとしているのです!
22 次の節(創世 2:4)は,神が24時間の1日について話しておられるのではないことを,どのように証明していますか。
22 創世記 2章1-3節の記述が,24時間の1日としての「第七日」について述べているのではないことは,その次の節の「日」という言葉の用法からして明らかです。その創世記 2章4節(新)には,「これは,エホバ神が地と天を造られた日,天と地が創造されていた時の来歴である」と書かれています。創世記 1章に述べられているとおり,その「日」は,創造の六「日」間を含んでいます。
23,24 (イ)神の目的が「第七日」の終わりまでに成就されるのは,なお将来のことです。何がそのことを示していますか。(ロ)神の壮大な目的がついには成就されることを信ずるわたしたちは,どうして落胆する必要がありませんか。
23 この西暦二十世紀における人類の状況からすれば,創造の第七「日」の終わりまでに神の目的が達成されるのはなお将来のことですが,これほどはっきりしたことはありません。ほとんど六千年前のこと,この「第七日」の初めに,神は「第七日目を祝福し,それを神聖にされ」ましたが,過去六千年間の人類の歴史によれば,この日は全人類にとって祝福された日とはなっていません。この第七「日」に対する神の祝福は,見たところ,全人類のためにはほとんど無意味だったように思えます。
24 神はその日の聖なることを示されました,つまりそれを聖であるとされましたが,その日を聖なるもの,神聖なものと見なし,霊的な仕方で神の休みに入っているのは,人類のなかのごく少数の人に過ぎません。確かに神は,その日に対して述べた祝福が人類にとって真に価値あるものであることを示さなければなりません。つまり,この「第七日」が真の聖,神聖さ,清浄さをもつものであり,ご自分の目的が確かに成就されるという点で,神の「休み」はかき乱されてはいないことを示さねばなりません。神は創造の第六「日」目の終わりに地的創造のわざをやめられたとはいえ,神の目的は進展してきましたし,その実現を見て勝ち誇る時代に向かって,それはなおも進展してゆきます。ゆえに,エホバ神ご自身と同様,その壮大な目的の最終的成就を信ずる人たちは,少しも落胆する必要がありません。
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油そそがれた者にかかわる,神の「とこしえの目的」が立てられる人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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5章
油そそがれた者にかかわる,神の「とこしえの目的」が立てられる
1 神の目的は,人類が地上でどんな生活をすることですか。
地上の人間の生活は申し分のないものになり得ます。人間の創造者は申し分のない生活を営み,ご自分の創造物である人間にも同様の生活をさせたいと望んでおられます。ところが,人類は自分たちの生存様式を自ら台なしにしてきました。もっとも,人類の成員すべてがそうしてきた訳ではありません。しかし人類が今まで失敗を重ねてきたにもかかわらず,今や創造者の慈悲深い目的によれば,人間男女は地上の生活を申し分のないものにする機会にやがてあずかれるのです。
2 (イ)人類はどんな生活を始めましたか。(ロ)人間が死に至る道を取るよう神が計画したかどうかを,何が示していますか。
2 最初,人類の生活は申し分のないものでした。それは,およそ六千年前,地上のパラダイスで始まりました。そこで生活するのは喜びでした。だからこそ,それはエデンの園,あるいは楽しみのパラダイスと呼ばれました。(創世 2:8,ドウェー訳聖書)わたしたち人間の最初の二親,つまり最初の男と女は完全で,健康そのものであり,決して死なないという見込みがありました。両人は人間なので,不死ではありませんでしたが,ふたりの前には創造者から,いつまでも永遠に楽しみのパラダイスで生活する機会が差し伸べられていました。したがって,両人の天の,命の授与者は,その永遠の父となり得ました。両人が死に至る道を取って,やがて死ぬよう計画したりはなさいませんでした。ご自分の永遠の子供として両人が永遠に生きることを願われました。三千年余の後,神はこの問題に関するご自身の誠実な気持ちを表明して,その選民にこう言われました。
「『わたしは邪悪な者の死を,いったい喜ぶだろうか』― 主権者なる主エホバのみ告げ。―『彼がその道からもとに戻って,実際に生きつづけることを喜ばないだろうか』」― エゼキエル 18:23,新。
3 神の願いは人類がパラダイスで生き続けることでしたから,今日,わたしたちはどんな質問をせざるを得ませんか。
3 それで,創造者は,楽しみのパラダイスにいた潔白な人間の夫婦が,「邪悪な」者となり,死に値するようになることなど,少しも欲してはおられませんでした。両人が生きつづけ,そうです,引き続き生きて,創造者である天の父と平和な,愛ある関係を持つ,彼らと同様の完全で幸福な子孫で全地が適度に満たされるのを,やがて見られるようになることを,神は願っておられました。にもかかわらず,今日,全人類は次々に死んでおり,汚染された地球は,パラダイスとはほど遠い状態にあります。これはなぜですか。人間の創造者は,その説明を聖書中に書き記させました。
4 へびがパラダイスのなかでその姿をはっきりと人間に見せたのは,どうして不思議なことでしたか。
4 聖書の創世記 3章の冒頭にあるとおり,問題の場所は楽しみのパラダイスでした。地上のあらゆる下等な生き物は,人間の最初の二親,アダムとエバに服しており,両人はそれら地上の下等な生き物のどれをも,へびをさえ恐れてはいませんでした。そうです,楽しみのパラダイスにはへびがいましたが,それを観察するのは興味深いことでした。手足のないへびの動き方には,設計の点での神の多種多様な知恵を示す,驚くべきものがありました。しかし,へびはおく病な動物です。創世記 3章1節(新)は,その種の爬虫類についてこう述べています。「さて,エホバ神が造られた,野のすべての野獣のうちで,へび[ナーハーシュ]は最も用心深いものであった」。それで,へびは待ち伏せして人間に危害を加えるよりはむしろ,人間との接触を避けようとする傾向を持っていました。ところが今や,不思議なことに,地面の上か樹上かはわかりませんが,へびがはっきりと姿を見せたのです。どうしてですか。
5 そのへびがエバにある質問をしたのは,どうして不思議なことでしたか。それはどうして,間接的に伝えられた神の声ではありませんでしたか。
5 創世記 3章1節(新)はこう続けています。「そこで,へびは女に言い始めた,『あなたがたは園のどんな木からも食べてはならない,と神が言われたのはほんとうですか』」。ところで,そのへびはどうしてそういうことを聞いていたのでしょうか。あるいは,どうして理解していたのでしょうか。また,その女の夫アダムに一度も話しかけたことがなかったのはどうしてですか。いったいどうして,人間の言語を用いて話せたのでしょうか。それ以前も,またそれ以後も,へびが人間に話しかけたことは一度もありませんでした。エバは,だれかが自分に話しかけているのだと想像していたのではありません。頭の中で,自分に話しかける,つまり単に考えていたのではありません。人間の話し声に似たその声は,へびの口から出ているように思えました。どうしてそのようなことがあり得るのでしょうか。エバが園のなかでかつて聞いた唯一の声は,夫アダムのそれを別にすれば,人間以下のある動物を通してではなく,直接聞いた神の声でした。へびの言った事からすれば,どう見てもその声は神のそれではありませんでした。その声は,神の言われた事柄についてエバに尋ねたのです。
6 へびを用いて質問をしたその質問者は,どのように行動しましたか。どうしてエバは答えましたか。
6 質問に答えたエバは,そのへびにではなく,腹話術者のようにへびを用いていた,目に見えない知的存在に話しかけました。目に見えない知的存在であるその話し手は,神に好意を寄せていましたか。あるいはその逆でしたか。確かに,見えないその話し手がエバに話しかけるのに用いた方法は欺まん的なもので,エバはへびが話をしているのだと思い込まされました。その質問者は目に見えるへびの背後で正体を隠し,欺まん的な仕方で行動していたのです。しかし,へびを用いたその話し手が悪意をいだいてエバを欺こうとしていたことを,彼女は悟ってもいなければ,察知してもいませんでした。エバは怪しむこともなく答えました。
「そこで女はへびに言った,『わたしたちは,園の木の実を食べてよいのです。しかし,園の真ん中にある木の実を食べることについては,神は言われました,「あなたがたは,それから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなたがたが死ぬといけないからだ」』」― 創世 3:2,3,新。
7 エバは園の真ん中にある木に関する情報をどこから得ましたか。
7 その木を「園の真ん中にある木」と呼んだエバは,善悪の知識の木のことを言っていました。しかし,どうしてその木のことを知っていましたか。神の預言者であるアダムがエバに告げたからに違いありません。彼こそ,エバが創造される前に,独りでいたとき,神から次のように言われていたのです。「園のあらゆる木から,あなたは満足のゆくまで食べてよい。しかし,善悪の木からは,食べてはならない。それから食べる日には,あなたは確かに死ぬからである」。(創世 2:16,17,新)エバの言葉によれば,神はまた,禁じられた木には触れてもならないと言われました。それで,エバは神の律法の違反に対する処罰について知らなかったのではありません。それは死でした。
8 その見えない話し手が単に情報を求めていたに過ぎないかどうかは,どうしてわかりますか。
8 へびの背後にいた見えない話し手が,単に情報を求めていたに過ぎないのであれば,その情報を得しだい,会話をやめていたはずです。この時,へびが,禁じられた木のある園の真ん中にいたか,地面の上あるいは樹上にいたかどうかは述べられていません。ただ,少なくとも,その「園の真ん中にある木」のことが話し合われていました。
9,10 へびの背後にいた,その見えない話し手は,どのようにして自ら悪魔,またサタンになりましたか。
9 さて,単なるへびなら,次のようにエバに話された事をどうして知ったり,あるいは口にする権威を得たりすることができたのでしょう。「そこでへびは女に言った,『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれから食べるその日に,あなたがたの目が必ず開かれ,あなたがたが必ず神のようになって,善悪を知ることを,神は知っているのです』」― 創世 3:4,5,新。
10 ここで,目に見えるへびの背後の,見えない話し手は,自らをうそつきにしました。エホバ神の言葉に反ばくしていたからです。その見えない話し手は厚かましくも,神は間違った動機をいだいて,アダムとエバに善悪の知識の木から食べないよう禁じたのだと言明して,自らをエホバ神に対する中傷者,つまり悪魔にしました。彼はエバの永遠の命に愛ある関心をいだくどころか,その死をもたらすことをたくらんでいたのです。事実,彼は死,それも彼の手による死ではなく,神から知らされた命令を破ってエホバ神の手から受ける死の恐れを,エバから除き去ろうとしました。見えないその話し手は,自ら神に反抗し,そうすることによって自ら,反抗者という意味のサタンになりました。彼はだれかほかの者を神に反抗させて自分の側につかせることに関心がありました。わたしたちは,そうしたうそや中傷を述べた現実の話し手がだれかを知っています。それはへびではありませんでした!
11 今やエバはどのようにして,神には忠誠を,夫には敬意を示すこともなく,誘惑されるがままになりましたか。
11 残念にもエバは,その中傷的なうその陳述に異議を唱えませんでした。彼女は愛情と忠誠をこめて天の父を弁護しようとはせず,さっそく自分に対する夫アダムの頭の権を認めて,その問題に関する自分のわがままな行為を認めてもらえるかどうかを尋ねるため夫のもとに行こうともしませんでした。アダムならその欺まんをあばくことができたかもしれませんが,エバは完全に欺かれるがままになり,天の父なる神に逆らううそつきで,中傷者である反抗者から示された,間違った考えをもてあそびました。彼女は不従順に対する恐るべき処罰についての恐れを薄れさせ,心の中で利己的な欲望を募らせ始め,そうした欲望に引かれて誘惑されるがままになりました。彼女とアダムが,禁じられた実を食べるのは悪いことであると,神から言われていたのに,彼女は善悪を自分で規定することに決めました。したがって,自分の天の父なる神がうそつきであることを示すことにしたのです。ですから,今やエバがその木のことを思い巡らしたとき,それは魅力的な木となりました。
12 弁解の余地のないことですが,エバは禁じられた実を食べることによって何になりましたか。
12 「そこで女が見ると,その木は食べるのに良く,それは目に慕わしいもので,しかもその木は眺めるのに好ましかった。それで彼女はその実を取って食べ始めた」。(創世 3:6,新)こうして彼女は神に背く者,罪人になりました。完全に欺かれたとはいえ,弁解の余地はありませんでした。彼女は倫理的完全性を失いました。
13 それを食べたアダムは,何をし損いましたか。彼はどんな影響を受けましたか。
13 その夫はそこに居合わせなかったので,彼女の気ままな行動は妨げられませんでした。次に夫と一緒になったとき,彼女は夫を口説いて食べさせなければなりませんでした。彼は少しも欺かれてはいなかったからです。ところが彼は,へびを通して話をした者がうそつきであること,しかしエホバ神はご自分の宇宙主権を正しい仕方,益となる仕方で行使する方であることを立証したいとは考えませんでした。では,アダムがエバに加わって違犯をしたとき,何が起きましたか。創世記 3章6,7節(新)はこう述べています。
「その後,彼女はその幾らかを,一緒にいた夫にも与えたので,夫もそれを食べ始めた。そこで,彼ら両人の目は開かれ,彼らは自分たちが裸であることを自覚し始めた。それで,彼らはいちじくの葉をつづり合わせて,自分たちのために腰の覆いを作った」。
14 神が有罪宣告を下す前に,アダムとエバは何に動かされて,自らを有罪と定めましたか。神が近づいたとき,ふたりはどんな行動を取りましたか。
14 エホバ神の定めた善悪の基準をもはや受け入れず,善悪に関して自ら審判者になったという点で,両人は今や,「神のようになって,善悪を知る」ようになりました。にもかかわらず,ふたりは良心のかしゃくを感じはじめ,また自分たちがむき出しなので身を覆うものの必要を感じました。エホバ神の前に現われるのに,裸であることは,ふたりにとって,もはや清い潔白な状態ではなくなりました。それで,ふたりは身にまとうものを作り,同類を殖やす誉れある目的で神から付与された陰部を覆い始めたのです。こうして,主権者なるエホバから有罪宣告を受ける前でさえ,自分たちの良心の有罪宣告の証を受けて,自らを有罪と定めました。ゆえに,こう記されています。
「後に,日のそよ風の吹くころ,彼らは園の中を歩いておられるエホバ神の声を聞いた。それで人とその妻は,エホバ神のみ顔を避けて園の木々の間に身を隠した。すると,エホバ神はその人を呼びつづけ,彼に仰せられた,『あなたはどこにいるのか』。ついに彼は言った,『わたしは園で,あなたの声を聞きましたが,わたしは裸なので,恐れて,隠れました』。そこで,仰せになった,『あなたが裸であるのを,だれがあなたに告げたのか。あなたは,食べてはならない,とわたしが命じておいた木から食べたのか』」― 創世 3:8-11,新。
15 (イ)アダムとエバは悔い改めていませんでした。何がそのことを示していますか。(ロ)次いで,神はへびに何と言われましたか。
15 ところで,アダムとエバは悔い改めを示す言葉を述べるどころか,言い訳をしようとしていることに注目してください。ほかの者のせいにしたのです。「すると,人はさらに言った,『わたしと一緒になるよう,あなたが与えてくださった女が,木から実を取ってわたしにくれたので,わたしは食べたのです』。そこで,エホバ神は女に仰せられた,『あなたは,いったい何ということをしたのか』。女は答えた,『へびが,わたしを欺いたのです。それでわたしは食べたのです』」。(創世 3:12,13,新)しかし,言い訳をしたからといって,それら故意の違犯者の罪は許されませんでした。とはいえ,へびについてはどうですか。
「次いで,エホバ神はへびに仰せられた,『おまえがこんなことをしたので,おまえはすべての家畜,野のすべての野獣のなかでのろわれたものである。おまえは,命の日のかぎり,腹ばい這いあるき,塵を食べるであろう。わたしは,おまえと女との間に,またおまえの胤と女の胤との間に,敵意をおく。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕く』」― 創世 3:14,15,新; リーサー; ズンツ。
16,17 (イ)へびに話された神の言葉は,実際にはだれに適用されますか。(ロ)そのように卑しめられることを,一世紀のある筆者は何になぞらえましたか。
16 これはへび科全体に対するのろいの言葉だったのではありません。神の言葉はその文字どおりの一匹のへびに対して述べられたように見えますが,そのへびは,それまで神の天の従順な子であった,目に見えない超人的な霊者の手先として仕えるよう欺かれていたに過ぎないことを,神はご存じでした。この霊者もまた,利己的な欲望に引かれ,誘惑されるがままになりました。それは,エホバの宇宙主権から独立し,人類を治める主権を得たいという欲望でした。彼はそうした欲望が自分の心のなかで根を下ろすがままにし,それを培ったので,ついにその欲望ははらんで,主権者なる主エホバに対する違犯つまり反逆を生み出しました。次いで,この霊の違犯者は,まさにその楽しみのパラダイスで自らをうそつき,中傷者つまり悪魔,また反抗者つまりサタンにしたのです。
17 欺かれたそのへびに下された,卑しめられるという宣告が暗示するように,神は,新たに立ち上がったそのうそつき,悪魔,サタンを卑しめました。一世紀のある聖書注釈者は,そのように卑しめられることを,神に非とされ,神からの啓発を受けない霊的暗やみの状態である『タルタロスに投げ込まれる』ことになぞらえています。―ペテロ第二 2:4。
予告された,神の油そそがれた者
18 ここで,どんな新しい事柄が発表されましたか。それには特質すべきどんな事が関係していますか。
18 ここで,エホバ神は新しい目的を立てて,発表されました。うそをつく悪魔サタンが既に表われたので,今や,油そそがれた者,つまりアダムの言語によればマーシアー(メシア)を起こすことが神の目的となりました。(ダニエル 9:25)神はこの油そそがれた者,つまりメシアのことを「女」の「胤」と言われました。神はこの油そそがれた者と,今やへびで象徴される悪魔サタンとの間に敵意をおき,さらにその敵意を油そそがれた者と大いなるへびの「胤」との間にもおくことになりました。
19 (イ)その敵意はどんな闘争をもたらすことになりましたか。(ロ)エホバ神の目的にかかわる油そそがれた者は,なぜ天的な存在でなければなりませんか。
19 予告された敵意は,苦しい影響を及ぼす戦いをもたらしますが,「女」の「胤」の勝利をもって終わりを告げることになります。へびが足のかかとを襲うように(創世 49:17),大いなるへび,悪魔サタンは「女」の「胤」のかかとに傷を負わせます。しかし,そのかかとの傷は致命傷とはならずに癒され,女の「胤」は大いなるへびの頭を砕いて致命傷を負わせることができるようになります。こうして,大いなるへびはその「胤」もろともに滅ぼされるのです。この闘争に関して注目すべき重大な事柄があります。それはすなわち,大いなるへび,悪魔サタンの頭を打ち砕く女の「胤」は,地上の女の単なる人間の子ではなく,天の霊者でなければならないということです。なぜですか。なぜなら,その大いなるへびは,超人的な霊者で,反逆した,神の天の子だからです。地上の女の単なる人間の子は,霊界にいる,目に見えない悪魔サタンを滅ぼすに足る強力な存在ではありません。それで,エホバの目的にかかわる,油そそがれた者は,天的なメシアでなければなりません。
20 では,創世記 3章15節の「女」とはだれのことですか。
20 では,「女」についてはどうですか。その「胤」は,油そそがれた者,つまりメシアとなりますが,その女もやはり天的な存在でなければなりません。頭を砕かれることを宣告されたへびは,エバを欺くのに用いられたあの文字どおりのへびではなかったのと同様,創世記 3章15節(新)のエホバの預言に出てくる「女」は,地上の文字どおりの女ではありません。エバ自身は神の律法の違犯者で,夫アダムを誘惑して違犯を行なわせたのですから,約束された「胤」の直接の母となるにふさわしい女ではありませんでした。神の預言の「女」は,象徴的な女でなければなりません。それはエホバ神がご自分の選民のことをご自身の妻また女と言って,彼らにこう言われたとおりです。「主は仰せられる。背信の子供らよ,帰れ。わたしがあなたがたの夫になるからだ」。(エレミヤ 3:14; 31:31,リーサー[31:32,新])同様に,聖なるみ使いたちで成る神の天の組織は,エホバ神にとって妻のようです。それが問題の「胤」の天的な母であり,「女」です。神はこの「女」とへびの間に敵意をおかれるのです。
潰えることのない最初の目的
21 違犯が生じたため,地に関する神の最初の目的は,今や失敗に帰することになりましたか。
21 とはいえ,創造の第六「日」の終わりにアダムとエバに述べられた,地に関する神の目的についてはどうですか。エバとアダムがその違犯ゆえに死に値する者となったため,神の目的は今や潰えることになりましたか。その最初の目的は,パラダイスとなる地表全面に地上の最初の男女アダムとエバの子孫を住まわせることでした。神の言明された目的に関しては,失敗は起こり得ません。悪魔サタンといえども,神の目的を潰えさせ,神を辱めることはできません。ここで,最高の審判者エホバ神が,女エバに言われた事は,神の最初の目的がなおも進展し,やがてその成就を見て勝ち誇るものであることを示しています。
22 (イ)地にだれを住ませることは,はかどりましたか。(ロ)へびの頭を砕けば,人類に益がもたらされると考えるのは,理にかなったことでしたか。
22 「女にはこう仰せられた。『わたしは,あなたの妊娠の苦しみを大いに増す。あなたは,産みの苦しみを経て子を生むであろう。また,あなたは夫を慕い求めるが,彼はあなたを支配することになる』」。(創世 3:16,新)これは,その最初の人間の夫婦が地の住民をさらに生み出すことが許されたことを示しています。その目的は今に至るまで持続しており,今日では「人口爆発」が憂慮されています。大いなるへび,悪魔サタンは,最初の人間の夫婦の子孫すべてに死をもたらす事態を引き起こしたのですから,その大いなるへびの「頭」を砕けば,アダムの違犯ゆえに損われたそれら子孫に益がもたらされるのは明らかです。厳密に言って,それはどのようにしてなされますか。それはエホバ神がやがて明らかにされる事柄でした。それは神の最初の目的を首尾よく果たすのに資するものとなります。
23-25 (イ)アダムがその違犯ゆえに死の宣告を受けたのはいつでしたか。(ロ)では,アダムはどのようにして,禁じられた実を食べたその日に死にましたか。その子孫についてはどうですか。
23 さて,違犯を行なった順序としては三番目である男の番がついに来ました。神はアダムに,禁じられた実を食べるなら,その日に確実に死ぬと告げておられました。(創世 2:17)その妻が産みの苦しみを経て子供を産むためには,アダムは彼女の夫として生き続け,その子供たちの父となる必要がありました。では,神が彼に警告なさった事は,どのようにして履行されましたか。
24 創世記 3章17-19節(新)はそのことを明らかにしています。「また,アダムに仰せられた,『あなたが,妻の声に聞き従い,「それから食べてはならない」とわたしが命じておいた木から取って食べたので,土地は,あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは,命の日のかぎり,苦しんでその産物を食べるであろう。土地は,あなたのために,いばらとあざみを生えさせ,あなたは野の草を食べなければならない。あなたは,顔に汗してパンを食べ,ついにあなたは土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから,塵に帰らなければならない』」。エホバ神はこの判決の言葉を述べて,その違犯者に死刑を宣告されました。しかも,アダムが違犯をしたその同じ日のうちに,そうなさったのです。
25 神の見地からすれば,司法上,アダムはまさにその日に死にましたし,違犯をした妻エバもそうでした。楽しみのパラダイスで永久に生きる機会や見込みは両人から断たれ,彼は今や自らの違犯ゆえに,死んだも同然となりました。その後,彼がエバによって子孫に伝え得たのは,受け継がれた人間の不完全さゆえに死を免れられない生存と有罪宣告を受けた状態だけでした。その子孫はすべて,何千年も後に詩篇作者ダビデが述べたように,「見よ,わたしは,生みの苦しみとともに,過ちをもって産み出され,わたしの母は,罪のうちにわたしを宿しました」と言わねばならなくなりました。(詩 51:5,新)神は罪深い全人類に向かって,かつてご自分の選民に言われたように,『あなたの父,最初の者は罪を犯した』と言うことができます。(イザヤ 43:27,新)最高の審判者がアダムにその罪のゆえに宣告を下したその日,全人類はアダムのうちにあって死にました。宣告を下された後,アダムにとって物理的死は不可避となりました。
26 一「日」を千年と見る場合でさえ,アダムはどのように,違犯をしたその日に死にましたか。また,どんなものではなくなりましたか。
26 いみじくも,「アダムの歴史の書」はこう述べています。「彼は息子や娘たちの父となった。それで,アダムが生きた日は全部で九百三十年となった。そして彼は死んだ」。(創世 5:1-5,新)彼は千年より70年少ない期間生きました。その子孫で,丸千年生きた人はいません。最長寿者メトセラでも九百六十九年生きたに過ぎません。(創世 5:27)千年を一日のようにみなす神の見地からしても,アダムは人類生存の最初の千年の「日」のうちに死にました。その肉体の死にさいして彼はどこへ行きましたか。その「魂」(ネフェシュ)は天から取られたのではありませんでしたから,彼は天にではなく,確かに土の塵に帰りました。神が言われたように,アダムは土から取られたからです。それで,「生きた魂」ではなくなりました。(創世 2:7,新)存在しなくなったのです。その妻エバが肉体的に死んだとき,彼女もやはり「生きた魂」ではなくなりました。バビロニア神話にいう,限りなく永久に生き続ける魂なるものはありませんでした。
パラダイスの喪失
27 土地に対するのろいは,地上のどんな部分に適用されましたか。のろわれた土地を耕して働くことは,アダムとエバにとって何を意味しましたか。
27 アダムに対する神の宣告の言葉,とりわけ『土地が……のろわれた』ことに関する言葉は,アダムがパラダイスを失うことを意味しました。彼はまさしく失いました。エバとアダムの違犯のゆえにパラダイスがのろわれたのではありません。それは引き続き,命を享受する場所であり,そのなかには依然「命の木」がありました。創世記 3章20-24節(新)はこう告げています。
「その後,アダムはその妻の名をエバと呼んだ。それは,彼女がすべて生きている者の母とならなければならなかったからである。次いでエホバ神は,アダムとその妻のために,長い皮の衣を作り,彼らに着せてくださった。そしてエホバ神はさらに仰せられた,『さあ,人は,善悪を知る点で,われわれのひとりのようになった。今,彼が,手を伸ばし,実際に命の木からも実を取って食べ,定めのない時まで生きることがないように,―』。そこでエホバ神は,彼をエデンの園から追い出し,彼が取り出されたその土を耕させた。そこで,人を追放し,命の木への道を守るために,エデンの園の東に,ケルブたちと,絶えず回りつづける,燃える剣の刃とを置かれた」。
28 定めのない時まで続く命を享受することは,アダムにとってはなぜもはや不可能でしたか。
28 死の力を持つエホバ神は,アダムに対する死の処罰を執行するため,命の木に届くところから人を追い出されました。その妻は,アダムの子供たちの母となるため,夫とともに去りました。エバを誘惑するのに用いられたへびを神が追い出したかどうかについては,記録は何も示していません。アダムとエバにとって,定めのない時まで続く命を享受することは,もはや不可能でした。
29 (イ)神は今やどのように「女」と「へび」の間に「敵意」をおきましたか。(ロ)発表された神の目的は,地に対する最初の目的にどんな影響を及ぼしましたか。わたしたちはなぜ今喜べますか。
29 エデンの園の外で,エバは息子を育て,へびを憎ませたという記録はありません。しかし,創世記 3章15節(新)の神の預言の意味する真の「女」である,聖なるみ使いたちで成る,神の天の組織は直ちに,大いなるへび,悪魔サタンを憎み始めました。女のようなその組織は,その天の夫エホバ神に対する愛に動かされて,そうしたのです。確かに神は,ご自分の「女」と大いなるへびの間に敵意をおかれました。その女が,大いなるへびの頭を砕く「胤」をいつ生み出すかは,エホバ神の目的のなかに秘められていました。神は今や,ご自分の油そそがれた者,つまりメシアにかかわる目的を立て,今からほとんど六千年前の昔の当時,そのことを天と地に知らされたのです。それは遠い昔のことでした。この付加された目的は,パラダイスの地に関する神の最初の目的を強化し,その成就を確かなものにしました。不変の神は,ご自分の油そそがれた者,つまりメシアにかかわる,その発表された目的を依然として堅持しておられます。わたしたちは,その目的が今や人間の益のために勝ち誇っていることを大いに喜べます。
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大洪水に至るまでの,パラダイスの外における人間の生活人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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6章
大洪水に至るまでの,パラダイスの外における人間の生活
1 神はご自分の目的にかかわる「胤」に関するどんな特筆すべき事柄を知らされましたか。そのことから,どんな疑問が起きますか。
時たつうちに,人間の天の恵与者は,わたしたちの心に共感を呼ぶ,その「とこしえの目的」の特筆すべき事柄を知らされました。それは,ご自分の天の「女」の,目ざす「胤」が一時的に地上の人類のなかで生存するということです。このことから,わたしたちの頭の中には次のような疑問が直ちに起きてきます。その「胤」は人類の間で生まれる以上,アダムとエバの子孫のどの家系から出るのだろうか。
2 神は聖書の内容をおもにどんな事柄に限定されましたか。わたしたちはどうして聖書を研究する必要がありますか。
2 その「胤」をもたらす人間の家系の歴史を知るのは重要な事です。その「胤」の生涯とは無関係の民族や国民の歴史は,必要不可欠なほどに重大な,あるいは貴重なものではありません。エホバ神が聖書の内容をおもに,この「胤」をもたらす家系を明らかにする事柄に限定されたのはそのためです。こうした聖書の歴史の知識を得れば,わたしたちはへびを砕くその「胤」がだれかを見分けられますし,また詐称者つまり偽の胤によって欺かれたり,惑わされたりする危険に陥らずに済みます。もし欺かれるなら,永遠の滅びを招く恐れがあります。エデンの園でうそをついて上手に人を欺いた者で,真の「胤」に敵意をいだいている,その大いなる詐欺師は,依然として例の手口を使っています。彼は神の「とこしえの目的」にかかわる「胤」からわたしたちすべてを欺いて引き離そうとしています。ゆえに,わたしたちは聖書を研究する必要があります。
3 アダムの初子はだれでしたか。それで,アダムの息子セツに関してどんな疑問が生じますか。
3 ヘブライ語の聖書の巻末には,マラキの預言の書ではなく,歴代志略上下の二つの書が収められています。さて,その歴代志略上を開くと,その冒頭にはアダムに続く十世代の系図が掲げられていることに気づきます。次のとおりです。「アダム,[1]セツ,[2]エノシュ,[3]ケナン,[4]マハラレル,[5]ヤレド,[6]エノク,[7]メトセラ,[8]レメク,[9]ノア,[10]セム,ハム,それにヤペテ」。(歴代上 1:1-4,新)セツは楽しみのパラダイスの外で生まれた,アダムの初子ではありません。それはカインでした。二番目に名づけられた,アダムとエバの息子はアベルです。(創世 4:1-5)では,どうしてノアに至る家系にセツが列挙されているのでしょうか。
4 アダムの家系の最初の人としてセツを列挙させるよう神が計画されたのではないことを何が示していますか。
4 エホバ神がそのように計画されましたか。そうではありません。さもないと,カインが弟アベルを殺害して,今日人類がたどれる家系の祖となる資格を失わせるよう,神が計画したことになります。また,アベルが無残にも殺害され,必要な子孫をもうける前に年若くして死に,そのためセツがアベルに取って替わるよう,神が計画された訳でもありません。(創世 4:25)神はセツに場所をあけるためアベルの殺害を計画されたのでないことは,弟アベルの犠牲が受け入れられたのに,神へのカインの供え物が退けられたことを恨んで,ゆゆしい罪の犠牲にならないよう,神がカインに警告したことからもわかります。―創世 4:6,7。
5,6 セツがアダムのさまと像に似る者として生まれたことは,セツにとって何を意味していますか。息子エノシュの名は,セツがその事実を自覚していたことをどのように示していますか。
5 いいえ,エホバ神はそのような事を計画されはしませんでした。しかし,約束の「胤」であるメシアが肉身を備えて生まれる時まで連綿と続く家系を継承するアダムの息子が生まれるまでには,長い時間がかかりました。次のように記されている創世記 5章3節(新)は,アダムから続く,その恵まれた家系が,遅くなって継承され始めたことを示しています。「アダムは百三十年間生きつづけた。次いで,彼は,自分のさまに,自分の像に似た息子の父となり,その名をセツと呼んだ」。アダムのさまと像に似ていた,つまりアダムと同類なので,セツは不完全で,罪を受け継いでおり,したがって死の宣告下にありました。セツがその息子につけた名は,彼がこの事実を自覚していたことを裏づけているようです。その息子についてはこう記されています。「セツにもまた息子が生まれた。ついで,彼はその名をエノシュと呼んだ」。(創世 4:26,新)その名には,「病弱な,病的な,不治の」という意味があります。
6 これと調和して,ヘブライ語のエノシュは,固有名詞として用いられるのでない場合,「死すべき人」と訳されています。例えば,はなはだしく苦しめられたヨブはこう言いました。「死すべき人[ヘブライ語: エノシュ]とは何者なのでしょう。あなたがこれを育て,これにみ心を留められるとは」― ヨブ 7:17(新); 15:14,また詩 8:4; 55:13; 144:3; イザヤ 8:1をご覧ください。
7-9 (イ)エノシュの時代には,宗教上のどんな慣行が始まりましたか。(ロ)その慣行が人間にとって有益なものだったかどうかを,何が示していますか。
7 アダムの孫エノシュの生涯には,ある注目すべき事柄がありました。創世記 4章26節(新)は,セツの子エノシュの誕生に関連して次のように述べて,その件に注意を向けさせています。「その時,エホバの名を呼ぶことが始められた」。エノシュが生まれたのは,セツが百五歳の時でしたから,アダムの創造以来,二百三十五年後ということになります。(創世 5:6,7)当時までに,アダムの数多くの息子や娘たちが互いに結婚し,また彼らの子孫が結婚することによって,地上の人口は増えていました。その増大する住民の間で始められた,「エホバを呼ぶ」ということは,人類にとって喜ばしい事,また神に誉れをもたらす事柄でしたか。それは恐らく現代の福音主義者が「信仰復興」と呼ぶような事柄でしたか。エジプト,アレクサンドリアのユダヤ人が作った,昔のギリシャ語セプトゥアギンタ訳は,このヘブライ語の一節をこう訳しています。「セツは息子をもうけた。彼はその名をエノスと呼んだ。彼は,主なる神の名を呼ぶことを望んだ」― 創世 4:26,七十人訳,S・バグスター・アンド・サンズ社版。
8 エルサレム聖書は同様の考えを表現して,こう訳しています。「この人は,ヤハウェの名を呼んで祈った最初の人であった」。しかし,こうした翻訳は,忠実なアベルがしっと深いカインに殺害される以前にエホバにささげて受け入れられていた崇拝を度外視しています。新英語聖書はこう訳しています。「その時,人々は主の名を呼んで祈り始めた」。(また,新アメリカ聖書も同様。)とはいえ,古代のパレスチナ・タルグムは,この事で逆の見方を取っています。かの有名なラシ(ラビ,シェロモー・イーチャキ,西暦1040-1105年)は,創世記 4章26節をこう訳出しています。「それから,俗衆が主のみ名によって呼ばれた」。すなわち,人々や無生物がエホバの特質を有するとみなされ,したがってそのように呼ばれたのです。それはエホバの名による偶像崇拝が当時始まったことを意味していたと言えるでしょう。
9 エホバの名を呼ぶことが,神に向かってなされたという意味でないことは,エノシュの誕生後,三百八十七年たって初めて,神に認められる男子が生まれたことからもわかります。その人はエノクでした。
パラダイスの外で神とともに歩む
10 エノクは真の神とともに歩んだと言われていますが,これは彼よりも長生きした父ヤレドのことをどのように好ましくないものとして印象づけていますか。
10 西暦前3404年(もしくは創紀622年)に生まれた,エノシュのこのひい曾孫についてはこう記されています。「エノクは六十五年間生きつづけた。次いで,彼はメトセラの父となった。メトセラの父となった後,三百年,エノクは真の神とともに歩みつづけた。その間に彼は息子や娘たちの父となった。それで,エノクの日は全部で三百六十五年となった」。(創世 5:21-23,新)これはエノクにとって比較的短い一生でした。その父ヤレドは九百六十二年生きましたし,エノクの息子メトセラは九百六十九年生きて,最長寿者の記録を作りました。ところが,エノクは「真の神とともに歩」んでいたのです。エノクの誕生後,八百年生き長らえたその父ヤレドについては,そうは言われていません。(創世 5:18,19)それでヤレドの信仰は,神に対するエノクの信仰とは比べものにならず,またヤレドが神の意志,もしくは発表された目的にしたがって歩まなかったということは明らかなようです。
11 エノクはどんな預言を述べましたか。それは人々のどんな状態を反映していたに違いありませんか。
11 確かな筋の伝えるところによれば,エノクは真の神の預言者でした。西暦一世紀に記されたある手紙にはこう書かれています。「そうです,アダムから七代めの人エノクも彼らについて預言して言いました。『見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔なしかたで行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人がご自分に逆らって語ったすべての忌むべきことに関して有罪を証明するためである』」。(ユダ 14,15)確かにこの預言は,昔のエノクの時代の宗教事情を反映しています。さもなければ,不敬虔な者すべてに対する,きたるべきエホバの裁きを警告した,あたかも既に起きたかのように確かな,霊感によるこうした預言を述べるべきどんな根拠があったでしょうか。エノクは当時の不敬虔な人々のひとりではなかったので,神は彼を預言者としてお用いになれました。エノクは当時なお存在した,ケルブの見守るパラダイスの外で生活しましたが,「真の神とともに歩みつづけ」ました。
12,13 ユダヤ人やキリスト教世界の考えによれば,エノクはどこへ連れて行かれましたか。
12 では,エノクはどうして当時としては比較的に短いそれほどの期間しか生きなかったのでしょうか。創世記 5章24節(新)はこう告げています。「エノクは真の神とともに歩みつづけた。それから,彼はいなくなった。神が彼を取られたからである」。
13 神がエノクを取られたとき,恐らくエノクは非常な窮境にあったのでしょう。エノクは敵の手で殺される恐れがあったので,非業の死を免れさせるために神は彼を活動舞台から連れ去られたのでしょうか。それはわかりません。ここで疑問が生じます。神は彼をどこに連れて行かれたのでしょうか。一部のユダヤ人は,神が彼を天に連れて行かれたと考えていますが,今日のキリスト教世界でさえ,そう考えられています。例えば,西暦一世紀にヘブライ人に書き送られた手紙の中でエノクについて注解が述べられていますが,ジェームズ・モファット博士の訳した今世紀の「新訳聖書」は,そのヘブライ 11章5節をこう訳しています。「信仰によって,エノクは天に連れて行かれた。ゆえに,彼は決して死にはしなかった。(彼は死に遭わなかった。神が彼を連れ去られたからである)」。新英語聖書はそこをこう訳しています。「信仰によって,エノクは連れ去られ,死を経ないで別の命にはいった。彼は見いだされなくなった。それは神が彼を取られたからである。聖書の証言によれば,彼は取られる前に神を喜ばせていたのである」。―エルサレム聖書をもご覧ください。
14 『真の神とともに歩む』ことによって,エノクが天に連れて行かれる資格を得たかどうかは,どうしてわかりますか。
14 しかし,詩篇 89篇48節(新)はこう問います。「生きていて死を見ない,どんな強健な人がいるでしょうか。その人は,自分の魂のために,シェオールの手からの逃げ道を設けることができるでしょうか」。それで,エノクは真の神とともに歩みましたが,罪人アダムから死を受け継いでいたので死は免れられませんでした。エノクの曾孫もやはり,「真の神とともに歩」んだと書かれていますが,その寿命は短くされませんでした。彼はアダムよりも長生きし,千年に五十年足りない九百五十年間生きました。(創世 6:9,新; 9:28,29)したがって,エノクはその曾孫の場合よりも神とともに歩んだ期間が短かったからといって,天に行ったり,あるいは別の命を受けたりする資格を得た訳ではありません。それはノアがそれほど長い期間神とともに歩んだのに,そうした経験をする資格を得なかったのと同じです。
15 では,エノクはどのようにして,死を見ないように移されたのでしょうか。
15 預言者モーセは百二十歳で死に,神によって葬られたので,今日に至るまで,モーセの葬られた場所はだれにもわかりません。(申命 34:5-7)同様に,神は突然エノクを同時代の人々の活動舞台から除かれたので,エノクの死んだ場所あるいは墓などはわかりません。彼は敵の手にかかって非業の死を遂げたのではありません。彼は預言者だったので,預言者に生ずる恍惚状態に陥って,神が「実際,永久に死を飲み干される」ことになる神の新しい事物の秩序に関する幻を見ていたのかもしれません。(イザヤ 25:8,新)エノクはその新秩序のパラダイスの地上で生き続けることを期待していたのです。神のあわれみ深い備えによって人類から死が除去される時代の幻を見ていたエノクを,神は活動舞台から除き去り,この世での彼の生活を終わらせ,その死を自覚させないようにすることもできたでしょう。ヘブライ 11章5節に次のように記されている事柄は,こうした驚くべき仕方で成し遂げられたものと思われます。
「信仰によって,エノクは死を見ないように移され,神が彼を移されたので,彼はどこにも見いだされなくなりました。彼は,移される前に,神をじゅうぶんに喜ばせたと証しされたのです」― 新世界訳聖書。
大洪水前の時代
16 アダムとメトセラは互いに知り合っていたと,どうして考えられますか。
16 エノクの息子メトセラは世界的な大洪水の969年前に生まれたので,彼は大洪水の起きた年に死にました。アダムから数えて八代目の人だったメトセラは,人間の最初の親を知っていましたか。知っていました。アダムは大洪水より1,656年前に創造され,930年生きました。彼の年をメトセラの年に加えると,1,899年となります。この合計から1,656年を引くと,243年となります。ですから,アダムとメトセラの生涯は相互に243年間重なり合っています。―創世 5:5,21,25-27。
17 ノアの誕生に際し,メトセラの息子レメクはどんな預言を語りましたか。ノアという名はどうして適切でしたか。
17 メトセラは迫り来る世界的大洪水について警告がふれ告げられるのを聞けるほど長生きし,人類のなかの幾人かがその世界的な規模の大変災を生き残れるようにするための準備が完了するのを大方目撃しました。彼はその孫ノアが義を宣べ伝え,人類生存のための手だてを整えるのを目撃できました。メトセラの数ある息子のなかで,ノアの父となったのはレメクでした。ノアの誕生に際し,霊感を受けたレメクはノアに関する預言を語りましたが,それは神がレメクの息子ノアの起用を意図されたことを明らかにしました。それについては,こう書かれています。「レメクは百八十二年間生きつづけた。次いで,彼はひとりの息子の父となった。それから,彼はその名をノアと呼んで言った,『この子は,わたしたちの働きから,またエホバがのろわれた土地に起因する,わたしたちの手の痛みから,わたしたちに慰めをもたらすであろう』」。レメクは大洪水の5年前まで生き長らえました。(創世 5:27-31,新)ノアという名はレメクの預言とも調和するものでした。それは「休息」を意味しており,休息による慰安を暗示しているからです。アダムの違犯ゆえに神がのろった土地から,神ののろいが解かれることになったのです。―創世 3:17。
18 大洪水はノアの生涯のいつ始まり,その後いつ終わりましたか。
18 大洪水はノアの生涯の第六百年に到来し,その六百一歳の年まで続きました。(創世 7:11; 8:13; 7:6)ノアの日に起きた世界的な規模の大変災は,わたしたちの世代のうちに間もなく起こる,より大規模な世界的大変災を予表するものでした。このような訳で,それは考慮に値する事柄です。―箴 22:3。
19 ノアは生涯の歩みの点で,どのようにエノクに似ていましたか。
19 西暦前2970年(創紀1056年)に生まれたノアには何世紀もの間子供がいませんでした。「ノアは五百歳になった。その後,ノアはセム,ハムそしてヤペテの父となった」のです。(創世 5:32,新)ノアは父親になる前でさえ,自分のためにどんな記録を作りましたか。「これはノアの歴史である。ノアは義人であった。彼は同時代の人びとのなかで非の打ち所のない者であることを証明した。ノアは真の神とともに歩んだ」。(創世 6:9,10,新)ゆえに,ノアはエノクに似ていました。
20 ノアの日に地上にいたと伝えられている「真の神の子たち」に関して,なぜ疑問が生じますか。
20 ノアはセツとエノクの子孫で,また『真の神とともに歩み』ましたが,それでも「真の神の子」とは呼ばれませんでした。ノアがそう呼ばれなかったのであれば,罪人アダムの子孫の時代だった当時,ほかに地上のだれをそう呼び得たでしょうか。では,ノアの日に地上に現われたと伝えられている者たちとはだれのことでしたか。彼らについてはこう記されています。「さて,人が地の表で殖え始め,彼らに娘たちが生まれたとき,真の神の子たちは,人の娘たちが,器量の良いのに目を留め始めるようになった。彼らは自分たちのために妻を,すなわちすべて自分たちの選ぶところの者をめとりに行った。その後,エホバは仰せられた。『わたしの霊は人に対して無期限には働かないであろう。人はやはり肉だからである。したがって人の日は百二十年となろう』」― 創世 6:1-3,新。
21 それら「真の神の子たち」とはだれでしたか。彼らは行って何をしたいと考えましたか。
21 それら「真の神の子たち」は,天から来たみ使いたちだったに違いありません。彼らはその時まで,約束の「胤」の母となるべきエホバの象徴的な「女」である,聖なる「真の神の子たち」で成るエホバの天の組織の成員でした。人間の住みかとしての地球の基が据えられたとき,彼らはエホバの創造のわざを見守り,喜びの叫びを上げました。(ヨブ 38:7。創世 3:15,新)ところが,人類のなかで行なわれていた結婚を観察し,殊に器量の良い女たちが関係しているのを見た彼らは,自分たちも行って,地上で女と一緒になって性生活をしたいと考えました。
22 それら「真の神の子たち」はどのようにして自らの欲望を充足させて罪を犯しましたか。
22 霊の被造物である彼らは,どうして地上の肉身の女との性関係を享受できたのでしょうか。肉体を備えた好ましい男子の姿で現われ,人間の妻をめとって性関係を持ったのです。創造者である天の父は,霊の被造物と肉身の被造物である人間との間ではなく,肉身を持つ,同性質の地上の被造物の間での結婚を認められたのですから,それら「真の神の子たち」は,エホバ神から使命を受けて派遣され,その使者として仕えるためにやって来て,肉体を備えた姿で現われたのではありません。彼らは異なった性質の混成,つまり霊者と人間,天的なものと地的なものとの混成を引き起こしはじめたのです。(レビ 18:22,23)明らかにそれら「真の神の子たち」は罪を犯していました。
23 神は罪深い人類に対し,どんな霊をいだいて長い間行動されましたか。しかし今や,何を宣言されましたか。
23 アダムがエデンの園でエホバ神の宇宙主権に反逆して以来,この時までに千年余経過していました。エホバは罪深い人類に対して,辛抱強さや堪忍の霊をもって行動されました。ノアの曾祖父エノクの時代でさえ,人類は大方「不敬虔な」者として知られるようになったからです。人々は今や,肉体を備えた姿で現われたみ使いたちと女との結婚のもたらした,新たな形態の道徳的腐敗や性の倒錯に陥っていました。辛抱強い創造者が自らを卑しめる人類に対して,寛容と自制の霊をもって行動するのをやめる時が訪れたのは当然なことでした。神はご自分の正当さが十分証されたので,ついにこう宣言されました。「わたしの霊は人に対して無期限には働かないであろう。人もまた肉だからである。したがって人の日は百二十年となろう」― 創世 6:3,新。
24 (イ)神はそこで,モーセの場合のように人の年齢の限界を定めておられたのでしょうか。(ロ)では,何が始まりましたか。十分の時間的猶予が与えられたのはなぜですか。
24 これは百二十歳まで生きた預言者モーセの場合のように,人の年齢の限界を定めた言葉ではありません。それは不敬虔な人類の世が世界的大洪水まであと百二十年間存続できるに過ぎないとの神の定めを示すものでした。それで,神のこの定めは創紀1536年,もしくは西暦前2490年に発表されました。つまり,その時,ノアの日のあの不敬虔な世の「終わりの時」が始まったのです。目的を立てる神は,物事に対して時を定めておられました。「真の神の子たち」の起こした,そうしたひどい事をもくろんだりはしませんでしたが,それでもなお物事を十分制御しておられましたし,そうした偶発事を処理し得ました。神は全知全能の方です。その不敬虔な世が終わる前に,それほど長期にわたる期間を許されたのは,非常に思いやりのあることでした。なぜですか。なぜなら,神の定めはノアが父親になる20年前に発表されたので,ノアはなお三人の息子をもうけることができ,またそれら息子たちは成長して結婚し,迫り来る大洪水を生き残るための十分の準備をする仕事を父親と一緒に行なうことができたからです。―創世 5:32; 7:11。
ネフィリム
25,26 み使いたちと女が結婚して生まれた子孫は何と呼ばれましたか。なぜですか。
25 情欲に動かされた,「真の神の子たち」と,女たちとの通婚の行なわれた時代の日数は数えられました。ところで,肉体の姿で現われた霊者たちと,生殖力のある肉身の被造物である女性との間でなされた,異なった性質のそうした混成から,果たして子孫が生まれ得たでしょうか。創世記 6章4節(新)は次のような事実を述べて答えています。
「真の神の子たちが人の娘たちと関係を持ち続け,彼女たちが彼らに息子たちを産んだその当時,またその後も,ネフィリムが地上にいたが,彼らは昔の強力な者たちで,名のある者たちであった」。
26 こうした雑婚から生じた子らは混血種で,ネフィリムと呼ばれました。この名は「打ち倒す者」という意味で,強力な混血種だったそれらの子らは,凶暴にも他の人々を打ち倒す,つまり自分たちよりも弱い人間を倒したということを暗示しています。それらネフィリムを宿して生み,次いで彼らが成長して凶暴な生活を始めるまでには,相当の時間がかかりました。混血種だった彼らは,普通自分たちと同類の子孫は産めませんでした。
27 神は何を地の表からぬぐい去ることを意図されましたか。それはなぜですか。
27 肉体を備えた姿で現われた不従順な,「真の神の子たち」が人間と親密に混じり合ったものの,そのことから人類家族は益を受けませんでした。「したがってエホバは,人の悪が地にあふれ,人の心の考えの傾向がみな,いつもただ悪いだけなのをご覧になった。それでエホバは,地上に人を造ったことを悔やみ,心の痛みを感ぜられた。そこでエホバは仰せられた,『わたしが創造した人を地の表からぬぐい去ろう。人から,家畜,動く動物,天の飛ぶ生き物に至るまで。わたしはまさしく,これらを造ったことを悔やんでいるからだ』。しかし,ノアはエホバの目に恵みを得ていた」。(創世 6:5-8,新)エホバは,ご自分の創造した人間が道徳的また霊的に堕落の淵に身を沈めたことを悔やまれました。品性のそれほど下劣な人間を地上に置くのは遺憾なことでした。が,エホバが地からぬぐい去ることを意図されたのは,そうした者たちであって,義人ノアが一成員として属していた人類ではありません。
28 神は地に暴虐のはびこった大洪水前のその状態を終わらせることを意図されましたが,今日,わたしたちはなぜそのことを感謝できますか。
28 ノアとその家族とは著しく対照的に,「地は,真の神の前に,そこなわれていた。地は暴虐で満たされるようになった。そこで,神が地をご覧になると,見よ,それはそこなわれていた。すべての肉なるものが,地上でその道をだいなしにしたからである」と記されています。(創世 6:11,12,新)大洪水前のその当時,人類の世は暴力の時代にはいっていました。第一次世界大戦が勃発し,人々が暴虐をほしいままにした西暦1914年以来,現代の世は,評者の言う「暴力の時代」にはいりました。それで,もし全能の神が大洪水前のその「暴力の時代」を中断させずに続くままにしておかれたなら,今日の世界の状態はどうなっていたことだろう,と問えるでしょう。その場合起こり得る事柄を考えると,ぞっとします。とうの昔に,地球は危険で,人が住めなくなっていたことでしょう。神が大洪水前のその「暴力の時代」を終わらせるよう意図されたことを,わたしたちは感謝できます。
一つの世は終わるが,ある人種は生き残る
29 エホバがノアに与えた指図は,地に対する神のどんな目的と調和していましたか。
29 エホバ神は,パラダイスの状態のただ中にいた最初の人間男女の子孫で地を満たすという最初の目的を固守されました。また,メシアを産み出すに至るまでの家系を存続させる必要もありました。このことと一致して,エホバは,ノアとその家族,および陸生動物と,鳩や烏のような空を飛ぶ生き物の基本的な代表例を入れられるほどの収容力を持つ箱船(つまり,浮かぶ大箱)の建造を従順なノアに命じました。箱船には,蒸気あるいはディーゼル・エンジンを据えたり,箱船をどうかして推進させるための燃料を貯蔵したりする場所などはありませんでした。それはただ,収容された生けるものと,1年かそれ以上用いるに足る十分の食糧を乗せて浮かんだに過ぎませんでした。―創世 6:13–7:18。
30 そのような全地球的な洪水を可能にするものとして,創造の第二「日」以来,地球周辺の自然の状態はどうなっていましたか。
30 そのような全地球的な洪水の起こる可能性を理解するには,地球の事物の状態を全体的に思い浮かべなければなりません。さて,地球の表面には,大小さまざまの陸地が海面より高く突き出ていました。地球の表面全体の上方には,人類や他の生ける被造物の呼吸する大気を含む天空つまり空間がありました。しかし,そのかなたには,創造の第二「日」目に創造者が科学的に見ても正確な高度の空間に引き上げさせた,むつきひものように地球を取り巻く,水蒸気の厚い天蓋がありました。その天蓋は覆いのように高空に留まって地球を囲んでいましたが,創造者の目的にしたがい,その指図を受けて初めて崩壊し,地上に戻りました。(創世 1:6-8)霊感を受けた西暦一世紀のある聖書注釈者は,そのことを見事にこう述べています。「神のことばにより,昔から天があり,地は水の中から,そして水の中に引き締まったかたちで立っていました」― ペテロ第二 3:5,新世界訳; エルサレム聖書。
31,32 ノアの残した統計は,大洪水に関して何を示していますか。
31 その世界的な規模の大洪水は,バビロニアに由来する神話ではありません。それは今日までその影響を地上に残してきた歴史的事実であって,その日付や時が記されているのです。ノアの船舶日誌,もしくは箱船日誌によれば,洪水は彼の生涯の第六百年の陰暦第二の月の十七日に始まりました。
32 次いでノアは,天からの降水が四十日間続いたことを航海日誌に記入しています。洪水の水は当時の山々の頂をさえ覆い,その上さらに十五キュビトも高くなりました。陰暦第七の月の十七日に箱船の船底がアララテの山地に触れました。創造者の力によって地球の地殻の外側には新たなくぼちが形成され,洪水の水が排出され,陰暦の新年第一の月の一日に排水過程は完了しました。陰暦の新年第二の月の二十七日,つまり大洪水が始まった後,陰暦で一年と十日を経て,神は箱船を出るようノアに命じ,なかにいた動物をもすべて出てゆかせました。―創世 7:11から同 8:19。
33 大洪水で何が滅び,何が生き残りましたか。
33 このようにして,アダムから生じた人類は神の保護を受けて,世界的な規模の大洪水を生き残りましたが,不敬虔な世,つまり不敬虔な人々の世は終わりを告げました。これはまた,悪名高い混血種ネフィリムも,人類の残りの者すべてと同様肉なる者だったので滅ぼされたことを意味しています。霊感を受けた一世紀の聖書注釈者は,簡潔なわかりやすい言葉づかいで,そのことを次のように述べています。
「[神は]古代の世を罰することを差し控えず,不敬虔な人びとの世に大洪水をもたらした時に義の宣明者ノアをほかの七人とともに安全に守られた……それによってその時の世は,大洪水に覆われた時に滅びをこうむったのです」― ペテロ第二 2:5; 3:6。
34 モーセの言葉によれば,地上の生きた被造物と箱船のなかにいたものとはどうなりましたか。
34 これは預言者モーセの記した次のような言葉と合致します。「命の力の息が鼻の中で働いていたものはみな,すなわち乾いた土地の上にいたものはすべて,死んだ。こうして,[神]は地の表に存在していたあらゆるものを,人から獣,動く動物,天の飛ぶ生き物に至るまでぬぐい去られた。それらは,地からぬぐい去られた。ただノアと,彼とともに箱船のなかにいた者たちだけが引き続き生き残った。水は,百五十日間,地をおおった」― 創世 7:22-24,新。
35 神の裁きの執行される「悪い日」のために留め置かれることを望まないなら,わたしたちは今,ノアのように何をすべきですか。
35 世界的な規模のその大洪水は,確かに「神の仕業」でした。それは今日のわたしたちが心に留めるべき重要な事柄を劇的な仕方で例証しています。それは何ですか。「エホバは,敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか,一方,不義の人びと(を)……切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられる」ということです。(ペテロ第二 2:9,10)「エホバは,あらゆるものをご自分の目的のために,そうです,邪悪な者をさえ悪い日のために造られた」のです。(箴 16:4,新)ゆえに,もし,足早やに近づいている「悪い日」,つまり地上の不義の者すべてに対してエホバが義の裁きを執行する,ご予定の「日」のために留め置かれることを望まないなら,わたしたちはノアのように,『神とともに歩み』,神の目的に従わねばなりません。
36 (イ)大洪水の際,ネフィリムはどうなりましたか。(ロ)また,不従順な,「真の神の子たち」は,どんな結果を招きましたか。
36 大洪水の際には,単に不義の人間やネフィリムだけが神の裁きを受けたのではなく,不従順な,「神の子たち」も当然の裁きに遭いました。大洪水が地球全体をおおったとき,確かにそれら「真の神の子たち」は妻や家族を残して自らを非物質化し,溺死を免れました。しかし,本来の正規の住みかであった,霊者の境遇に戻った彼らは,どうなりましたか。神との以前の親交を取り戻しましたか。彼らと神との関係は,以前と同じでしたか。依然「真の神の子たち」として,神の聖なる天の組織内に留まりましたか。いいえ,それどころかこれら不従順な霊の被造物のうちに,預言者モーセの言及している(悪魔サタン以外の)「悪霊たち」の起源が見られるのです。(申命 32:17,新。また,詩 106:37)しかし,一世紀の聖書注釈者たちは,エホバ神がそれら不従順な霊者たちをどう扱ったかに関して,もっとはっきりとこう述べています。
「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居どころを捨てた使いたちを,大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておられます」。(ユダ 6)「獄にある霊……それは,かつてノアの日に神がしんぼうして待っておられた時に不従順であった者たちであり,その間に箱船が造られ,その中にあって少数の人びと,つまり八つの魂が無事に水を切り抜けました」。(ペテロ第一 3:19,20)「神(は),罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡された」― ペテロ第二 2:4。
37 霊界に戻った,それら不従順な,「真の神の子たち」の身分はどうなりましたか。
37 それで,不従順な,「真の神の子たち」は自らを非物質化して,霊界に戻りましたが,もう一度聖なるみ使いに化した訳ではありません。彼らは,エホバに逆らった最初の反逆者,悪魔サタンの側についていることを知りました。聖なる従順な「真の神の子たち」の,エホバの妻のような天の組織には,もはや彼らのためのふさわしい場所はありませんでした。このような訳で,彼らは「悪霊」の身分に低められました。この不名誉な低い地位が,ギリシャ語から借用した名詞タルタロスと呼ばれているのは適切なことです。シリア語訳聖書はそれを「最も低い所」と言っています。(また,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳のヨブ 40:15; 41:23をも参照のこと。)それら不従順な霊者たちは,神が忠実なみ使いであるご自分の子たちに授けるのをよしとされた霊的啓発には,もはや恵まれなくなりました。こうして,彼らは濃いやみの中に投げ込まれ,あたかも「とこしえのなわめ」のもとにあるかのようにそこに留め置かれ,「大いなる裁き」のために留め置かれることになったのです。ゆえに,彼らは真の啓発を人類に与えることはできません。
38 それら不従順な霊者はだれの「胤」となりましたか。人間を欺いたり,とりこにしたりするため,彼らはどのように働いていますか。
38 そうした不従順な霊者たちは,大いなるへびである悪魔サタンの「胤」となりましたが,彼らが悪魔サタンもろともタルタロスの「濃密なやみの穴」に入れられたからといって,神の天的な「女」の約束の「胤」によってへびの頭が砕かれた訳ではありません。聖なる「胤」はまだ産み出されていなかったので,それら拘束された邪悪な霊者たちは,それがいったいだれかをしきりに知りたがりました。それは,ぐるになって,その「胤」の「かかと」を砕くためでした。(創世 3:15,新)そのような訳で,首領であるサタンの配下のそれら邪悪な霊者たちは人類につきまとい,人々を欺いて,到来する「胤」にはむかわせようとしたのです。それら悪霊は以来肉体を備えた姿で現われることを禁じられたため,霊媒を通して人間と交信することに努め,死んだ人の「肉体から離脱した魂」を装ったり,気の弱い人に取りついたり,あるいはそのような人を悩ましたり攻撃したりしています。言いなりになる人をとりこにすることさえあります。預言者モーセは霊感を受けて,神の敵であるそれら悪霊と一切関係しないよう神の民を戒めました。(申命 18:9-13)ゆえに,心霊術に用心してください!
39 もし悪霊に求めるべきでないとすれば,だれに霊的啓発を求めるべきでしょうか。
39 わたしたちはエホバ神の「とこしえの目的」に関する啓発を得たいと願っているのですから,神の真理に対して人類の大多数の目をくらましている,暗黒の領域のそれら心霊的な勢力を避ける必要があります。エホバ神に次のように語った詩篇作者の,霊感を受けたことばによれば,記された神のみことば,聖書こそ霊的啓蒙をもたらす経路です。「あなたのみことばはわたしの足のともしび,わたしの道の光です」― 詩 119:105,新。
40 人間やみ使いが反逆したにもかかわらず,神の天の組織は忠節を保ち,協力していることを何が示していますか。
40 神のみことばの光に照らして,わたしたちはアダムの創造からノアの日の大洪水までの,地上における人類生存の最初の1,656年間を回顧してみました。み使いと人間の両方が反逆したにもかかわらず,不変の神は,地上の人類に関して最初に立てた目的を固守されました。自分の利己的な欲望に屈して罪を犯し,神の妻のような天の組織から追放されねばならなかった,み使いの数は述べられてはいませんが,それは愛する夫に対する忠実な妻のような神の聖なる組織内で,神に対する忠実を保った者の数とは比較になりません。何千年も後の預言者ダニエルは幻のなかで,一億もの忠節なみ使いたちが,いと高き神である「日の老いた方」に依然として仕えているさまを見ました。(ダニエル 7:9,10,新)予告された「胤」の母となる,この天的な「女」は,大いなるへびである悪魔サタンとその「胤」に対する「恨み」を抱き,神の選定された時に「胤」を産み出すという,新たに発表された神の目的を追求する面で,エホバ神と協力する決意を固めました。
41 サタンは全創造物の前で,悪意をもってどんな点を証明しようとしましたか。大洪水前でさえ,そうすることに成功しましたか。
41 完全な人間として創造されたアダムとエバは,地上に,しかも楽しみのパラダイスにいたとき,エホバの宇宙的な組織の目に見える部分とされていました。誘惑に遭ったふたりは,創造者である天の父に対する忠誠を保たず,死の宣告を受けてエホバの宇宙的な組織から放逐され,神の子供とはみなされなくなりました。しかし,その子孫についてはどうですか。忠誠を破ったアダムとエバから判断すれば,生まれつき不完全で,罪を受け継いだその子孫は,大いなるへびである悪魔サタンからの誘惑や圧力を受けたなら,創造者に対する忠誠は保てないと考えられたでしょう。明らかに悪魔サタンは,それら子孫がそうし得ないことを天と地の全被造物の前で証明しようと努めました。彼はその点を大洪水の前でも証明しましたか。この問題に関する神の見解を明らかにしている聖書の記録は,少なくとも三人の男子,すなわちアベル,エノクそしてノアが忠誠を保ったことを示しています。
42,43 (イ)アベル,エノクそしてノアの事例は,どんな証拠を打ち立てるものとなりましたか。(ロ)さらに多くの証拠を提供するという点で,エホバの先見はいかに正確でしたか。
42 神を恐れる,それら三人の忠実な人たちは,創造者エホバの宇宙主権を擁護しました。全能の神は,悪魔サタンからの誘惑や圧力を受けてもエホバに対する忠誠を守る人間を地上に,それもパラダイスの環境のなかにさえ置くことはできない,と悪魔サタンは主張しましたが,その点で悪魔サタンが厚かましいうそつきであることを,彼らは証明しました。アベル,エノクそしてノアの事例は,罪深いアダムとエバの子孫である人類を創造者なる神が引き続き地上に存続させたのは正しかったことを証明しています。地上の人間がパラダイスの外で生き続けてゆくにつれ,アベル,エノクそしてノアに加えて,人類の種々の階層から,女子のほかに他の男子が確かに現われて,神に対する悪魔のうそや中傷の偽りを示す,さらに多くの証拠を積み上げることになったのです。
43 エホバの先見は正確ですから,その目的は必ず遂げられます。エデンの園で,大いなるへびの面前で発表された,メシアにかかわるエホバの目的は,神の最初の目的を補強し,その成就を確かなものにしました。世界的な規模の大洪水で非常なまでに強力に証明された,地に対する神の宇宙主権は,人類に対するその効力を決して喪失するものではありません。
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「胤」を生み出す人間の家系をたどる人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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7章
「胤」を生み出す人間の家系をたどる
1 アベル,エノクそしてノアの事例はどうして悪魔サタンに,「胤」を滅ぼそうとするその企てをいっそう必死に追求させるものとなりましたか。
神の「とこしえの目的」の核心をなすのは,神の「女」の生み出す「胤」です。エデンの園でサタンと神との間で始まった抗争は,この神秘的な「胤」をめぐるものでした。それもそのはずで,その「胤」はやがて産み出されて,大いなるへびの頭を砕くことになっていましたし,悪魔サタンは,その「頭」が自分のそれを意味することを知っていたのです。(創世 3:15,新)サタンは,きたるべき「胤」に忠誠を破らせ,神の目的にそぐわない者にしてしまおうと決心しました。大洪水の際,サタンと神との間の抗争の第一回目は終わりましたが,サタンの形勢は不利になりました。彼は最初の男と女に忠誠をそこなわせるようたくらみましたが,その子孫である少なくとも三人の男子には忠誠をくじかせることに失敗しました。アベル,エノクそしてノアは,自信に満ちたサタンの立場を弱めさせ,「胤」を滅ぼそうとするその企てをいっそう必死に追求させることになりました。
2 大洪水後,ノアが人類の生活をどのようにスタートさせたことを今日の人類は感謝すべきですか。どうしてですか。
2 大洪水が終わった後の,次の六百五十八年間は,神の「女」の「胤」に関する詳細が大いに明らかにされる時期となりました。大洪水後,今日に至るまで全人類は,大洪水を切り抜けた箱船の建造者ノアに始まるその家系をたどれるようになりました。それで人類の世は今や,正しくスタートしました。それはノアが「真の神とともに歩んだ」からです。(創世 6:9,新)彼は遺伝的には不完全でしたが,倫理的には,神の前に非の打ち所も,とがめられる所もありませんでした。その子孫であるわたしたちは,このことをなんと感謝すべきでしょう。箱船を出てアララテ山上に降り立ったノアは直ちに人々の先頭に立って,人類の守護者であるエホバ神の崇拝を行ないました。
「ノアはエホバのために祭壇を築き,すべての清い獣と,すべての清い飛ぶ生き物のうちから幾つかを取って,祭壇の上で全焼のささげ物をささげ始めた。そして,エホバは安らぎを与える香りをかぎ始められた。そこでエホバは心の中で仰せられた,『わたしは,決して再び人のゆえに地をのろうことはすまい。人の心の傾向は若い時から悪いからである。わたしは,決して再び,わたしがしたとおりに,あらゆる生きものを打ち滅ぼすことはすまい。地が存続する限り,種まきと収穫,寒さと暑さ,夏と冬,昼と夜は,決してやむことはない』」― 創世 8:20-22,新。イザヤ 54:9と比べてください。
3 ノアの誕生に際して話されたレメクの預言が真実であることは,どのように明らかになりましたか。その虹は何の象徴でしたか。
3 ノアの誕生に際してその父レメクがノアに言い渡した預言は,正当なものであることが明らかになりました。(創世 5:29)アダムが違犯をおかした後にエデンの園の外の土地が受けた神からののろいは解かれましたし,ノア(その名は「休息」を意味する)は神への全焼の供え物をささげて,安らぎを与える香りを立ち上らせ,のろわれた地を耕す労苦から人間を解放して休息を与えてくださるよう神を促しました。神はまた,水の天蓋が除去されたために今や直接地球に照らされた陽光のなかに,これまでに報じられた最初の虹を現われさせました。エホバは保証のしるしとしてのその虹に言及し,「もはや大水は,すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とはならない」と約束されました。そのような大洪水はもはや生じません。―創世 9:8-15,新。
4 ノアの三人の息子とその妻たちがノアとともに大洪水を生き残ったので,約束された「胤」に関して今度はどんな疑問が生じましたか。
4 ノアの三人の息子,セム,ハムそしてヤペテとそのおのおのの妻たちは,ノアとその妻とともに生き残りました。さて,神の「女」の「胤」が地上に現われるまで続く家系は,それら三人の息子のうちのだれから出るのでしょうか。この点でなされねばならない選択は,三人の族長,セム,ハムそしてヤペテの子孫となる三つの人種にそれぞれ異なった影響を及ぼすことになりました。ある重大な出来事に際して,神から霊感を受けたノアが自分の三人の息子に言い渡した預言は,神の恩恵と祝福がどの息子を通して伝えられるかを明らかにしました。それは何に基づいていましたか。
5 ノアはハムの息子カナンにのろいの言葉を言い渡しましたが,その原因は何でしたか。
5 ノアの息子たちに対する,地に殖えよとの神の命令に従って,セムは大洪水が始まってから二年後にアルパクシャドの父となりました。(創世 11:10,新)やがて,ハムはカナンの父となりました。(創世 9:18; 10:6)カナンの誕生後しばらくたったある時,どうしてかは記されていませんが,ノアは自分のぶどう園で作ったぶどう酒を飲んで酔ってしまいました。ノアの天幕に入ったハムは,何もまとわずに裸で横たわっているノアを見ましたが,父の裸を覆おうとはせず,かえってそのことをセムとヤペテに言い触らしました。セムとヤペテは父親に当然の敬意を払い,父の裸を見ようとはせず,後ろ向きになってそのもとに進み,父親の体を布で覆いました。ふたりは父親が裸なのをいいことにしてつけ込んだりはせず,自分たちの父で,エホバの預言者であるノアに対する深い敬意を表わし,またそれを保持しました。
「ついにノアは酔いからさめ,その一番若い息子が自分にしたことを知った。そこで,彼は言った,『のろわれよ,カナン。兄弟たちのための最も卑しい奴隷となれ』。また,こう付け加えた。『ほめたたえよ,セムの神エホバを。カナンは彼のための奴隷となれ。神がヤペテに十分の空所を与え,彼をセムの天幕に住まわせるように。カナンはまた,彼のための奴隷となれ』」― 創世 9:20-27,新。
6 ノアの預言によれば,メシアに達する家系はどの息子から始まりますか。
6 これらのことを言い渡したとき,ノアはしらふでした。ハムが,それも特に神の預言者に対する尊敬の念に欠けていたとはいえ,ノアはハムの子孫の人種全体をのろいはしませんでした。それで神はノアに霊感を与え,ハムの一人の息子,すなわちカナンだけをのろわせました。彼の子孫はパレスチナのカナンの地に住みました。神がヘブライ人アブラハムに対するご自分の約束に従って,イスラエル民族をカナンの地に導き入れられたとき,確かにカナン人はセムの子孫の奴隷になりました。セムは大洪水が始まった後五百二年生き長らえましたから,彼の生涯はアブラハムのそれと百五十年間重なり合いました。(創世 11:10,11)ノアは,エホバのことをセムの神であると言明しました。エホバはほめたたえられることになりました。セムを動かして,神の預言者ノアに対する当然の敬意を示させたのはエホバに対する恐れの念だったからです。ヤペテは,カナンのように奴隷としてではなく,セムの天幕で客として扱われることになりました。こうして,弟ヤペテをもてなす主人役をつとめるので,この預言の言葉づかいのなかでセムはヤペテに勝る立場におかれました。このことと調和して,セムの家系がメシアに達することになりました。
バビロンの基を据える
7 ハムのどの孫が,どのようにして最初のバビロニア帝国を打ち立てましたか。
7 悪い結果に終わった,ハムのもう一人の子孫は,彼の孫ニムロデでした。ノアは大洪水が始まった後,三百五十年生き長らえたので,彼のこの曾孫の台頭を目撃し,またその没落をも目撃したに違いありません。(創世 9:28,29)ニムロデは,大いなるへび,悪魔サタンの目に見える「胤」の一部のような働きをした一つの組織の基を据えました。創世記 10章8-12節(新)はこう述べます。「クシはニムロデの父となった。彼は地上で初めて強力な者となった。彼はエホバに逆らう強力な狩人であることをあらわにした。そのようなわけで,『エホバに逆らう強力な狩人ニムロデのようだ』ということわざがある。彼の王国の始まりはシナルの地のバベル,エレク,アッカド,カルネであった。その地から,彼はアッシリアに進出し,ニネベ,レホボテイリ,カラおよびニネベとカラの間のレセンを建てることにした。これは大きな都市である」。この言葉によれば,ニムロデは最初のバビロニア帝国を打ち立てました。
8,9 (イ)エホバはなぜバベルをご自分の名をおく都市として選ばれませんでしたか。(ロ)バベルのそばで,だれの言語は変えられませんでしたか。
8 人類の言語の混乱が生じたのはバベル(ギリシャ語を話すユダヤ人はバビロンと呼んだ)でのことでした。その時,エホバ神はその都市とその中の偽りの宗教のための塔の建設に対する不興を示されました。なぜなら,それら建設者たちは名をあげて,「地の全面に散らされ」ないようにすることを意図したからです。彼らは,今日起きているそれら諸都市の崩壊を先見してはいませんでした。(創世 11:1-9,新)このニムロデのバビロニア帝国は地上の最初の帝国でしたが,聖書の記録に残る最初の世界強国とはならず,古代エジプトがそうなりました。バベルの政治権力は弱められました。今や種々の異なった言語のために分裂した,その建設者たちは,こうしてエホバにより全地に散らされたからです。
9 エホバ神はバビロンをご自分のみ名をおく都市としてお選びにはなりませんでした。ノアとその祝福された息子セムは,バベルとその偽りの宗教のための塔の建設には全然関係しなかったので,このふたりの言語は混乱を免れました。
10,11 (イ)セムの時代に,約束の「胤」の家系の範囲は,セムのどの子孫にまで狭められましたか。(ロ)だれに対する,どんな発表がそのことを示しましたか。
10 西暦前2020年にノアが亡くなってから二年後,なお生き長らえていたセムの家系にアブラハムが生まれました。この子孫は,セムの神エホバの崇拝者になりました。エホバがアブラハムに対してなされた驚くべき発表を知ったとき,セムは深い満足を味わえたことでしょう。それは,エバとアダムが違犯をおかした後にエデンの園で立てられた「とこしえの目的」をエホバがあくまでも堅持しておられたことを証明しました。それによって範囲は狭められ,神の「女」の「胤」は,セムのすべての子孫のなかでもアブラハムの家系から来ることになりました。それにしても,当時アブラムと呼ばれていたアブラハムに対して神からどんな発表が行なわれたのでしょうか。
11 その発表を受けたとき,アブラム(アブラハム)はメソポタミアのバビロン(バベル)からあまり遠くない,カルデア人の都市ウルにいました。創世記 12章1-3節(新)はこう述べています。「それから,エホバはアブラムに仰せられた,『あなたは,あなたの国を出,あなたの親族,またあなたの父の家を離れて,わたしがあなたに示す国へ行きなさい。そうすれば,わたしはあなたから大いなる国民を作り出し,あなたを祝福し,あなたの名を大いなるものにしよう。あなたは祝福となるのにふさわしいことを証明しなさい。わたしはあなたを祝福する者たちを祝福し,あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべての族はあなたによって確かに自らを祝福する』」。
12 その発表はだれにとって「良いたより」でしたか。その発表に際して,どんな時代が始まったと言えますか。
12 「地のすべての族」― このなかには確かに,二十世紀の現代の諸民族すべてが包含されています! 今日の諸民族は,この昔のアブラム(アブラハム)によって祝福を得ることができるのです! 本当にこれは良いたよりです! しかもそれは,西暦前二十世紀の遠い昔の,大洪水後の人類の世に突然現われたのです。これが何を意味するかについては後日,霊感を受けた次のような言葉のなかで説明されています。「あなたがたは,信仰を堅く守る者がアブラハムの子であることがわかるはずです。さて,聖書は,神が諸国の人びとを信仰によって義と宣することを予見し,前もってアブラハムに良いたよりを宣明しました。すなわち,『あなたによってあらゆる国民が祝福されるであろう』と」。(ガラテア 3:7,8)このことを考えれば,アブラハムが神からの命令に従った時より少し前の当時に良いたよりの時代(ある人々の好む名称では福音時代)が始まったと言うのはもっともな話です。
13 (イ)神の命令を受けたとき,アブラハムはどんな肉体的状態にありましたか。ゆえに,神にとって重要だったのは何ですか。(ロ)アブラハムはいつユーフラテス川を渡りましたか。
13 また,ここで注目されるのは,神がアブラハムをすべての族,またすべての国の民を祝福する経路としてお選びになったとき,彼はその肉に割礼を受けてはいなかったことです。アブラハムとその家の男子が割礼を受けるようにとの,アブラハムに対する神の命令は,少なくともそれから二十四年後,つまり息子イサクが誕生する年(西暦前1918年)の前年に至るまでは出されませんでした。もしアブラハムの肉体的状態が重要でなかったとすれば,神にとって重要だったのは何でしたか。それはアブラハムの信仰でした。エホバ神はご自分に対してアブラハムが信仰を持っていたことをご存じでした。ですから,故国を去るようアブラハムにお命じになったのは,無駄ではありませんでした。アブラハムは早速家の者を連れて出,北西を指してハランに移動し,その父テラがハランで死んだ後,そこを出てユーフラテス川を渡り,神から引き続き示された土地へと移動しました。彼がユーフラテス川を渡ったのは,西暦前1943年の春,あるいはアブラハムの子孫がエジプトで最初の過ぎ越しを祝った時より430年前の春,ニサン14日のことでした。―出エジプト 12:40-42。ガラテア 3:17。
14 エホバはカナンの地でアブラハムに何と言われましたか。その後,アブラハムは何を行ないましたか。
14 預言者モーセはこのことを記録して,こう記しています。「そこでアブラムはエホバが話されたとおりに出かけた。ロトも彼とともに行った。アブラムはハランを出たとき,七十五歳であった。それで,アブラムは妻サライと,彼の兄弟の息子ロトと,彼らの蓄えたすべての財産と,ハランで取得した魂を伴い,彼らはカナンの地に行こうとして出発した。ついに彼らはカナンの地に来た。アブラムはその地を通って,シケムの場,モレの大木の近くにまで行った。当時,その地にはカナン人がいた。さて,エホバはアブラムに現われ,『あなたの胤に,わたしはこの地を与える』と仰せられた。その後,彼は,自分に現われてくださったエホバのために,そこに祭壇を築いた」― 創世 12:4-7,新。使徒 7:4,5。
15 アブラハムに対する「胤」に関する神の約束は,どうして奇跡を要求するものとなりましたか。それには,さらに大きなどんな奇跡が関係しますか。
15 したがって,当時,七十五歳だったアブラムには子供,つまり六十五歳の妻サライによる子供はひとりもいませんでしたが,それでもエホバは,アブラムに胤つまりすえができ,そのすえにカナンの地を与えることを約束されました。アブラハムは神からのその約束を信仰を抱いて受け入れました。当時の女性の生殖能力からすれば,それは神が奇跡を約束するに等しいことだったからです。それから二十四年の後,妻サラによってひとりの息子をもうけることになると聞かされたとき,アブラハムは笑って,心の中でこう言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。いや,サラにしても,九十歳の女が子を産むだろうか」。(創世 17:17; 18:12-14,新)もしそれが『法外な』ことだったのであれば,創世記 3章15節(新)の神の預言を成就する奇跡はなお一層驚嘆すべきものだったでしょう。というのは,神の「女」も,その約束の「胤」もともに天的なものですが,それでもその「胤」はアブラハムの地的な家系と結びつくことになっていたからです。こうして,神の「女」のこの「胤」は,「アブラハムの胤」,そうです「アブラハムの子」と呼ぶことができたのです。
16 アブラハムとサラから国々の民と王たちをもたらすとの神の約束は,「胤」に関してどんな疑問を引き起こしましたか。
16 アブラハムにその妻サラによって一人の息子ができることを保証し,その子をイサクと名づけるよう,み使いを通してお告げになった神は,アブラハムにこう仰せになりました。「わたしはあなたの子を大いに殖やし,あなたを幾つかの国民とする。王たちがあなたから出て来よう。……わたしは彼女[サラ]を祝福し,また彼女によって,あなたにひとりの息子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は幾つかの国民となり,国々の民の王たちが彼女から出て来る」。(創世 17:6,16)さて,それでは,それら「幾つかの国民」のうちのどれがエホバの恵みを受ける国民となりますか。その国民は王を戴くでしょうか。神の「女」の「胤」がその王となるのですか。このように問うのは,少なくとも当然なことです。
メルキゼデク
17 アブラハムはその生涯中カナンの地で王たちと接触しましたが,なかでも最も際だった接触となったのは,どんな出会いでしたか。アブラハムはどうして彼に十分の一を払いましたか。
17 それ以前に,アブラハムは地上の王たちと接触していましたが,なかでも最も重要な接触となったのは,カナンの地の傑出した王との出会いでした。それは,カナンの地を侵略して,その地の五人の王を打ち破り,ロトを含めて捕虜を連れ去って行った四人の王たちの手から,アブラハムがおいのロトを救い出さざるを得なかった直後のことでした。略奪者であるそれら四人の王たちを打ち破って帰る途中,アブラハムは死海西方の山地の都市サレムに近づきました。「また,サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。次いで,彼はアブラムを祝福して言った,『天と地を作り出した方なる,いと高き神のアブラムが,祝福されますように。圧迫者たちをあなたの手に渡されたいと高き神が,ほめたたえられますように!』。そこで,アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えた」。(創世 14:18-20,新)メルキゼデクがアブラハムに告げたように,いと高き神がアブラハムの圧迫者たちを彼の手に渡されたのですから,アブラハムが分取り品の十分の一を,いと高き神の祭司メルキゼデクに与えたのは,まさしく適切なことでした。
18 アブラハムに対するメルキゼデクの祝福の言葉は,どうしてむなしい言辞ではありませんでしたか。ダビデは,神の目的におけるその人物の重要性をどのように示しましたか。
18 アブラハムに対するメルキゼデクの祝福の言葉は,むなしい言辞ではありませんでした。それはかなり重大な言葉であって,アブラハムが地のすべての族にとって祝福となる,つまりすべての民族は彼によって祝福を得るというエホバの約束と調和するものでした。(創世 12:3)この神秘的な王なる祭司メルキゼデクは,歴史上ほとんど触れられていないとはいえ,忘れられた訳ではありませんでした。九百年後のこと,いと高き神はサレムのもう一人の王,つまりエルサレムのダビデ王に霊感を与えて預言を行なわせ,いと高き神の目的のなかでメルキゼデクがいかに重要な人物であったかを示させました。それによれば,メルキゼデクは,さらに偉大な王,つまりダビデよりもなお一層偉大な王,ダビデさえ「わたしの主」と呼ばざるを得ない方を予示する人物でした。こうして予示されたこの王こそ,ほかならぬメシア,つまり神の「女」の「胤」でした。ゆえに,神の聖霊の力を受けたダビデは,詩篇 110篇1-4節(新)にこう書き記しました。
「これはエホバがわたしの主に語られたことばである。『わたしがあなたの敵をあなたの両足の台として置くまでは,わたしの右に座していなさい』。エホバは,あなたの力の杖をシオンから出して,こう言われるであろう。『あなたの敵のただ中に行って従えなさい』。あなたの民は,あなたの軍勢の日に,喜んで自らをささげる。あなたは,暁の胎内からの聖なる輝きを持つ,露の玉のような若者たちの仲間を持っておられる。エホバはこう誓われた(ので,遺憾に思われることはない)。『あなたはメルキゼデクのさまにしたがって定めのない時まで祭司である!』」
19 シオンの山で力の杖を採る者として預言された支配者は,だれの子孫でなければなりませんでしたか。ダビデはソロモンからゼデキヤまでの歴代の王について預言していたのではありません。それはどうしてですか。
19 霊感を受けて記されたこれらの言葉の意味する事柄に注目してください。ダビデ王は,エホバが王の力の杖をシオンから出されると言いましたが,このことはその王がダビデの肉身の子孫であることを示しています。ダビデと結ばれた,永続する王国のためのエホバの契約によれば,ダビデの肉身の子孫以外にはだれもシオンの山に座して,力の杖のような笏を採ることはありません。(サムエル後 7:8-16)したがって,力の杖をシオンから出すその王は,「ダビデの子」と呼ばれます。しかし,この場合,ダビデはその息子,ソロモン王に預言的な意味で言及していたのではありません。ソロモンは,シオンの山で王位につき,その民族の全十二部族を統治した,ダビデの家系の最も輝かしい王でした。ダビデは息子ソロモンをも,あるいはソロモン以後ゼデキア王に至るまでシオンで治めた他の歴代の王のだれをも,決して「わたしの主」とは呼びませんでした。そのうえ,ソロモンも,またその後継者としてシオンの山で統治したどの歴代の王も,メルキゼデクのように王兼祭司ではありませんでした。―歴代下 26:16-23。
20 預言されたこの支配者は,ダビデの子であるにもかかわらず,どうしてダビの「主」となるのでしょうか。
20 とはいえ,その約束の支配者がダビデ王の「子」となるのに,どうしてダビデはその人のことを「わたしの主」と言ったのでしょうか。それは,「ダビデの子」と呼ばれる,この傑出した支配者は,ダビデよりもはるかに位の高い王になるからです。ダビデは地上のシオンの山の「エホバの王座」に座したとは言え,決して,それも亡くなった時でさえ,天に昇ってエホバの「右」に座したりはしませんでした。しかし,ダビデの「主」となる方は,そうするのです。天のエホバの右で占める,王としてのその位置は,天のシオンの山と言えるでしょう。なぜなら,それは,今日はそうではありませんが,かつてはエルサレムの城壁内に囲まれていた,地上のシオンの山で表わされていたからです。詩篇 89篇27節(新)で,メシアについてエホバが自ら言われたとおりです。「わたしもまた,彼を初子として,地の王たちのうちのいと高き者として置こう」。彼はダビデより位の高い立派な王になるだけでなく,昔のサレムの王メルキゼデクのように,永久に,いと高き神の「祭司」となるのです。―詩 76:2; 110:4。
21 では,どうしてアブラハムの名は大いなるものとなるのでしょうか。
21 西暦前二十世紀の昔,族長アブラハムは,自分と妻サラがその先祖となる「王たち」の中に,彼が戦利品すべての十分の一を払ったメルキゼデクによって予表される,メシアなる王が含まれていようとは知るよしもありませんでした。それで,アブラハムの名が,そのような王なる祭司との関連ゆえに大いなるものとされるのも何ら不思議ではありません! メルキゼデクのような,この祭司なる王を通して,地のすべての族がアブラハムによって自らを祝福する,つまり祝福を得るのも,少しも不思議ではありません!―創世 12:3。
神の「友」
22 神はご自分の選民がアブラハムの正当な息子である相続人から生ずることを,どのように例証されましたか。
22 侵略した四人の王と交戦してアブラハムが勝利を得た後,神はアブラハムに,必要な保護と,またその正当な息子が彼の「相続人」になることを約束なさいました。神はこの相続人となる息子からご自分の選民が生ずることを,ある実例を用いてアブラハムに保証なさいました。「さて,彼を外に連れ出して,こう仰せられた。『どうか,天を見上げて,数えられようものなら,星を数えてみなさい』。そして,さらにこう彼に仰せられた。『あなたの胤はこのようになる』。彼はエホバに信仰を置いた。ついで,[エホバは]それを彼に対する義とみなされた」― 創世 15:1-6,新。
23 アブラハムは何に基づいて義とみなされましたか。彼は何を持つことを認められましたか。
23 この時点でアブラハムは依然無割礼のヘブライ人だったことを忘れてはなりません。したがって,アブラハムは肉身に割礼を受けたために義とみなされたのではありません。アブラハムは,彼に目的の一端を啓示しておられたエホバに対する信仰ゆえに義とみなされたのです。ゆえに,アブラハムは神の前に義とみなされ『こうして彼はエホバ神と交友関係を持つことを認められました。何世紀か後に,エルサレムのヨシャパテ王はアブラハムのことをエホバの友,あるいはエホバを「愛する者」と呼びました。さらに後代のこと,エホバは預言者イザヤを通して彼のことを「わたしの友アブラハム」と言われました。(歴代下 20:7; イザヤ 41:8,新)これはアブラハムの「胤」に関連してエホバに対する信仰が実際いかに貴重で,いかに肝要かを示しています。
24 アブラハムはどのようにしてイシマエルの父となり,次いでイサクの父となりましたか。
24 西暦前1932年,アブラハムは,子供のできない年老いた妻サラの勧めで,彼女のエジプト人の女奴隷ハガルによって一人の息子をもうけ,その名をイシマエルと呼びました。(創世 16:1-16,新)それから十三年後の西暦前1919年に,イシマエルが真の「胤」として仕えるのではなく,本妻サラによる息子が選ばれた「胤」となることをエホバはアブラハムにお告げになりました。それは自由の女による息子なのです。そこで,その翌年,サラが九十歳のとき,イサクが生まれました。「アブラハムは,その子イサクが生まれたときは百歳で」した。生まれて八日目,イサクは,その父アブラハムがちょうどその前の年に施されたように割礼を施されました。―創世 21:1-5,新。
25 エホバがアブラハムの生来の子らすべてを含む一国民を作られたかどうかを記述はどう示していますか。
25 ここで神が,その二人の息子,つまり長子イシマエルとイサクから二部族で成る一国民を作り出されたのでないことは興味深い事柄です。それどころか,五年後,妻サラのたっての願いで,アブラハムはハガルとその子イシマエルを家から去らせて自活させ,ふたりをその好む所へ行かせました。(創世 21:8-21)その後,西暦前1881年にサラが死んだ後でも,神はイサクと,アブラハムがそばめケトラによって得た息子たちから,七部族で成る国民を作り出されたりはしませんでした。「後にアブラハムは自分の持っているものすべてをイサクに与えたが,しかしアブラハムの持っていたそばめたちの子らには,アブラハムは贈物を与えた。次いで,彼はなお生きている間,彼らを自分の息子イサクから遠ざけて東のほう,東方の土地にやった」― 創世 25:1-6,新。
26 信仰を如実に示す,賞賛に値するどんな事柄のゆえに,アブラハムはモリヤの地で特別の祝福を受けましたか。その言葉は何と述べていますか。
26 アブラハムの行なった,信仰を如実に示す,非常な賞賛に値する事柄は,このエホバの「友」に大いなる祝福をもたらしました。その祝福は,いと高き神に対するアブラハムの信仰と従順を徹底的に試みる試験がなされた後に到来しました。神からの是認を示す祝福の言葉が,モリヤの地の山頂で言い渡されたのです。そこは何世紀も後にソロモン王が壮麗なエホバの神殿を建立した場所である,と多くの人々は考えています。(歴代下 3:1)エホバの指定されたその場所には,新たな石の祭壇が作られ,その上に敷き並べられた薪の上には,成育たけなわの若者が横たえられていました。それはイサクでした。祭壇の傍らには,その父アブラハムが屠殺用の小刀を手にして立っています。彼は,イサクを犠牲として殺して,その子を奇跡的にお与えになった神への全焼の供え物としてささげるようにとの神の命令を,今やまさに実行しようとしていたのです。その時のことです。
「エホバの使いが天から彼を呼び,『アブラハム,アブラハム!』と言い始めた。……『あなたの手をその子に下してはいけない。彼には何もしてはいけない。今,わたしは,あなたが自分の息子,あなたのただ独りの子をわたしから差し控えなかったので,あなたが神を恐れることがよくわかった』。……ついで,エホバの使いは二度目に天からアブラハムを呼んで,こう言った。『これはエホバが語られたことである。「わたしは自分にかけて,まさしく誓う。あなたがこのことを行ない,あなたの息子,あなたのただ独りの子を差し控えなかったがゆえに,わたしは確かにあなたを祝福し,わたしは確かにあなたの胤を,天の星のように,海辺にある砂粒のように増やそう。そしてあなたの胤は,その敵の門を手に入れるであろう。あなたの胤によって,地の国々の民はみな,自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」』」― 創世 22:1-18,新。
27 神からのこの声明は,「胤」を選ぶことに関し,またそれを通して祝福を得ることに関して何を示しましたか。
27 これは,国々の民すべてが祝福を得る手だてとなる約束の「胤」がイサクの家系から出ることを意味しました。こうしてエホバ神は,家系の選択を行なっておられたこと,またイサクの異母兄弟はだれもその「胤」を供することにはあずからないことを示されました。それでも,イサクの異母兄弟の子孫となった国々の民は,その「胤」によって自ら祝福を得ようと思えばそうすることもできました。今日の国々の民のすべて,すなわち今日のあらゆる国籍の人々も同様に,アブラハムの「胤」を通して祝福を得ることができます。
28 セムは自分の家系に関連したどんな出来事について知るほど長生きしましたか。
28 世界的な大洪水の一生存者,族長セムは生き長らえて,アブラハムに言い渡された神からのその祝福の言葉について聞きました。事実,セムは生き長らえて,メソポタミアのハラン出身の美しいリベカとイサクが結婚したことをも知りました。セムはイサクが結婚してから十年後の西暦前1868年まで生き長らえましたが,その結婚によって生まれた子孫は見ませんでした。しかし,アブラハムは見ました。―創世 11:11; 25:7。
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「とこしえの目的」に従ってなされる神による選択人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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8章
「とこしえの目的」に従ってなされる神による選択
1 神は契約に基づく約束をイサクのために更新されましたが,彼の子孫についてはどんな疑問が生じましたか。
エホバ神はイサクの父アブラハムと結んだ契約に基づく約束を,イサクのために更新することを望まれました。(創世 26:1-5,23,24)イサクは四十歳で結婚しましたが,六十歳でようやく子供を,それもふたごをもうけました。子供を願い求めたイサクの祈りを聞き届けたエホバは,そのふたごの男の子に関して選択をなさいましたか。
2 エホバはそのふたごのどちらを選ぶかをどのように明らかにされましたか。
2 リベカが祈りの中で自分の状態について尋ねた後,エホバはリベカの妊娠中に選択を行なっていたことを示されました。「するとエホバは彼女にこう仰せられた。『二つの国民があなたの腹にあり,二つの民族集団があなたの内部から分かれ出る。一つの民族集団は他の民族集団より強く,年上のほうが年下のほうに仕えるであろう』」。エサウは初子で,ヤコブはふたごの弟のほうでした。(創世 25:20-23,新)こうしてエホバは,イサクのふたごの息子から一つの国民,つまり二部族で成る一国民を作る意図のないことを示されました。むしろ,二つの民族集団が生じ,ふたごの年上のほうからの民族集団は,その年下のほうからのそれよりも弱く,また後者に仕えるのです。これはその長子が優位に立つ生得権を取り消すものとなりました。こうしてエホバは,だれを選ぶかを明らかにされたのです。
3 その選択は,人間のわざ,それとも召してくださる方に依存していましたか。
3 全知全能の神は,全人類を祝福するご自分の目的に従ってそうした選択を行なう権利を持っておられました。このことに関して一世紀の聖書注釈者は書きました。「リベカがただひとりの人,わたしたちの父祖イサクによってふたごを宿した時もそうでした。彼らがまだ生まれておらず,良いこともいとうべきことも行なっていなかった時に,選びに関する神の志が,業にではなく,召されるかたに引き続き依存するため,彼女に,『年上のほうが年下のほうの奴隷になる』と言われたのです。『わたしはヤコブを愛し,エサウを憎んだ』と書かれているとおりです』」― ローマ 9:10-13,新。引用はマラキ 1:2,3から。
4 そのふたごが生まれる前でさえ,エホバはどうしてエサウよりもヤコブを愛されたのでしょうか。
4 確かに全知全能の神は,選択を誤りませんでした。神はリベカの胎内のそのふたごの遺伝的形質を読み取ることができたのですから,ふたりの男の子がそれぞれどのような生き方をするかを先見されたに違いありません。ゆえに,それがたまたまふたごの年下のほうだったとはいえ,神は適切な者を選ばれました。エホバはご自分の目的にしたがって選択したにもかかわらず,そのことを強制なさいませんでした。神は年上のエサウが決断を下すある重大な日に,ただ一杯のひら豆のシチューと引き替えに長子相続権を年下のヤコブに売り渡すことを計画された訳ではありません。とはいえ,エホバは明らかに,やがて生まれるエサウがヤコブとは違って霊的な事柄に対する認識や愛を抱かないことを先見されました。このような訳で,そのふたごがまだ生まれず,母親の胎内にいたときでさえ,神はエサウよりもヤコブを愛されたのです。―創世 25:24-34。
5 エホバは,ヤコブがどうすればイサクの述べる口頭の祝福を得られるかを計画なさいましたか。エホバはその祝福を取り消しましたか。
5 エホバはヤコブとその母リベカがイサクの述べた祝福を得ようとして最後に講じた方策を計画したのではありませんが,しかしエホバは,視力を失った老齢のイサクが長子相続権に関する祝福をヤコブに言い渡すのを許されました。ヤコブはそれを得るに値したからです。(創世 27:1-30)エホバはその祝福をイサクに取り消させるどころか,ヤコブがふたごの兄エサウの殺意のこもった憤りを避けて逃れていた時,ヤコブに対するイサクの祝福の言葉を確証されました。これは出生前にヤコブが神によって選ばれていたことを裏付けるものとなりました。どのようにですか。
6 ヤコブが神によって選ばれたことは,み使いたちの用いたはしごに関してヤコブが見た夢の中で,どのように裏付けられましたか。
6 約束の地のベテルと呼ばれる場所でのこと,逃亡中のヤコブは次のような夢を見ました。「見よ,一つのはしごが地の上に立てられていて,その頂きは天にまで届いていた。そして,見よ,神の使いたちがそのうえを上ったり下ったりしていた。そして,見よ,エホバがその上方に立っておられた。そしてこう仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神,イサクの神,エホバである。あなたが横たわっているこの地を,わたしはあなたと,あなたの胤とに与える。あなたの胤は確かに地の塵の粒のように多くなり,あなたは確かに,西,東,北,南へと方々に広がり,地上のすべての族は,あなたとあなたの胤とによって確かに自らを祝福するであろう。さあ,わたしはあなたとともにおり,あなたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り,あなたをこの土地に連れ戻そう。わたしは,あなたに話したことを実際に行なうまでは,あなたを離れることはしないからである」― 創世 28:12-15,新。
7,8 (イ)神からのこの声明は,メシアの家系に関して何を意味していましたか。(ロ)エサウとは違って,ヤコブはだれの崇拝の点で際立っていましたか。
7 うそをつくことのない神の,取り消せないこの声明によれば,創世記 12章1-7節に明示されているアブラハムに対する約束は,ヤコブの子孫つまり胤を通して神によって遂行されることになりました。
8 これはメシア,つまり神の天的な「女」の「胤」がヤコブの家系から来ることを意味しました。このゆえにこそ,わたしたちは,メシアなる「胤」によってこれから祝福されようとしている地上の諸国民や種々の族の歴史よりもむしろ,ヤコブの子孫の歴史を取り上げて詳述しているのです。また,アブラハムとイサクの神は,「ヤコブの神」とも呼ばれるようになりました。しかし,エサウ(あるいは,エドム)についてはそう言うことはできません。彼はエホバの崇拝の点で際立ってはいませんし,しかもその子孫はエホバの崇拝者たちの敵になったのです。偶像神コスは,『エドムの神』でした。(歴代下 25:14。エゼキエル 35章)後にエルサレムに建立された神殿は,「ヤコブの神の家」と呼ばれるようになりました。(イザヤ 2:3,新)動乱の時代である今日のわたしたちのための戒めとして,霊感を受けた詩篇作者はこう述べています。「万軍のエホバはわたしたちとともにおられる。ヤコブの神はわたしたちのための安全な高き所である」― 詩 46:11,新。
王統をもたらす部族の選択
9 (イ)ヤコブの子孫はなぜイスラエル人と呼ばれていますか。(ロ)ヤコブはどこでその十二番目の息子の父になりましたか。
9 ヤコブはメソポタミア渓谷のパダン-アラムに行って二十年間留まっている間に,その父イサクの認めた一族と姻せきになり,十一人の息子の父親となりました。次いで,神は約束の地から逃れていたヤコブに,その地に帰るよう命じました。(創世 31:3)ヤコブがイスラエルという異名を与えられたのは,その帰途の旅行中のことでした。神の使いは彼にこう言いました。「あなたの名はもはやヤコブではなく,イスラエルと呼ばれます。あなたは神と,また人と争って,ついに圧倒したからです」。(創世 32:28,新)この後,ヤコブの子孫はイスラエル人と呼ばれました。(出エジプト 17:11,新)その後,ヤコブつまりイスラエルは,かつてはしごの夢を見た所であるベテルを再び訪れて帰る途中,十二番目の息子ベニヤミンの父となりました。しかし,ヤコブの最愛の妻ラケルは,彼女の二番目のこの息子の出産の際に亡くなりました。創世記 35章19節(新)に,「こうしてラケルは死んで,エフラタすなわちベツレヘムへの道に葬られた」と書かれています。
10 ヤコブが約束の地にさらに留まっていた時,ルベンはどんな資格を失いましたか。
10 西暦前1761年に約束の地に戻った後,ヤコブは外人居留者として三十三年間生き長らえました。その間に幾つかの重大な事柄が起こりましたが,それは決して神の計画によるものではありませんでした。ヤコブの父イサクは百八十歳で亡くなりました。(創世 35:27-29)ヤコブの長子ルベンは,父のそばめで,ラケルの侍女だったビルハを犯しました。(創世 35:22)そのために,ルベンは父ヤコブの初子としての権利を享受する資格と,その家系から王なるメシアをもたらす資格を失いました。確かにこれはエホバ神の計画したことではありません。神はそのような近親相姦には無関係だからです。―創世 49:1-4。
11,12 (イ)シメオンとレビはメシアの家系に関する何らかの機会にあずかる資格をどのように失いましたか。(ロ)今や選択に関して神は何を行なわねばなりませんか。
11 ラケルが亡くなる前,そしてルベンがひどい不倫な行為をする前のこと,ヤコブの娘ディナが,約束の地のある住人,すなわちシェケムの町に住んでいた,ヒビ人ハモルの息子シェケムによって犯されました。この「イスラエルに対する恥ずべき愚行」のゆえに,ヤコブの息子たちは大いなる憤りを抱きました。それで,シェケムの住民の男子が割礼に関する要求に応じたために行為能力を失っていたとき,ヤコブの二番目の息子シメオンと三番目の息子レビが剣を取って襲い,疑念を抱かなかったそれらシェケム人の男子すべてを虐殺した後,その町を略奪しました。
12 神の預言者ヤコブはこのような暴力行為を非難しました。ヤコブはシメオンとレビに向かって,彼らがそのようなことをしたために,彼はその『地の住民にとって悪臭を放つ者』とされ,また彼とその家の者は人数のずっと多いその地の種々の民族によって絶滅させられる危険にさらされることになったと語りました。(創世 34:1-30,新)激怒のあまりそのような残忍な殺りくを行なったため,シメオンとレビはどちらも,メシアなる「胤」をもたらすに至る家系の祖となる資格を失いました。それで,この誉れある特権は今や,シメオン,レビそして生来の初子であるルベン以外のだれか他の息子に差し伸べられなければならなくなりました。(創世 49:5-7)確かにエホバ神が物事をそのように計画なさったのではありません。今や神は新たな事態に対処しなければなりませんでした。神はなお残っているヤコブの息子たちのうちのだれを選ぶかを,後日,ご自分の預言者ヤコブつまりイスラエルを用いて示すことになりました。
13,14 ヤコブとその家の者はどのようにしてエジプトに下り,そこでヨセフとともになりましたか。
13 ヤコブが最も愛した二番目の妻ラケルの初子は,彼の家族の十一番目の息子,すなわちヨセフでした。ヤコブは老齢になってもうけたその息子に対して特別の愛情を示しました。そのためにヨセフは異母兄弟たちからねたまれるようになりました。そこで彼らは父親の知らないうちに,ヨセフをエジプトに下る途中の商人にうまく売り渡し,父親ヤコブには,ヨセフは野獣に殺されたと思い込ませました。
14 ヨセフはエジプトで奴隷として売られましたが,彼が忠実に崇拝し,従った神の恵みにより,やがてファラオのもとでエジプトの食糧の管理者および総理大臣として起用されました。西暦前1728年,ヨセフは,世界的な飢饉に際して食糧を求めてエジプトにやってきた,悔い改めた異母兄弟たちと和解しました。その後,ヨセフの取り計らいで,その父ヤコブつまりイスラエルは家の者すべてを伴ってエジプトに下り,ゴシェンの地と呼ばれた所に定住し,そこでさらに十七年間生き長らえました。―創世記 37–47章。
15,16 その時,ヤコブは依然何の相続者としてエジプトに入国しましたか。詩篇 105篇7-15節はどのようにそのことに注意を向けさせていますか。
15 ヤコブは神の指図に従い,約束の地を去って,ヨセフの招きでエジプトに下りました。(創世 46:1-4)ヤコブはなおもアブラハムに対する約束の相続者またそれを伝える者としてエジプトに下ったのです。詩篇 105篇7-15節(新)はこのことを指摘して,こう述べています。
16 「この方はわたしたちの神エホバ。その司法上の決定は全地にある。主はご自分の契約を定めのない時に至るまでも,またお命じになったことばは千代までも覚えておられる。その契約は,アブラハムと結ばれたもの,またイサクに誓われた声明。その声明を,主はヤコブに対する規定として,イスラエルに対する,定めなく続く契約として保たせて仰せられた。『わたしは,あなたがたの相続の分としてあなたに,カナンの地を与える』。それは彼らが数の点で少ない時のことで,まことにわずかで,しかもそこでは外人居留者であった』。彼らは,国から国へ,一つの王国から他の民族へと渡り歩いた。主はどんな人間にも彼らを詐取させず,かえって,彼らのために王たちを戒めて,仰せられた。『あなたがたは,わたしの油そそがれた者たち[ヘブライ語では,マーシアーの複数形,つまりメシアたちの意]に触れてはならない。わたしの預言者たちに何も悪いことをしてはならない』」。―欄外の異文参照(英文)。
17 エホバはどうしてアブラハム,イサクそしてヤコブを「預言者たち」またご自分の「油そそがれた者たち」と呼ばれましたか。
17 このようにエホバはアブラハム,イサクそしてヤコブをご自分の預言者と呼ばれましたが,彼らは確かにそうでした。(創世 20:7)預言者は,たとえ正式に油を注がれなくとも,指名され,任命されているゆえに,油そそがれた者と呼ぶことができました。(列王上 19:16,19。列王下 2:14)同様に,アブラハム,イサクそしてヤコブは,ベテルと呼ばれる場所に立てた柱にヤコブが油そそいだような仕方で油そそがれた訳ではありませんが,彼らに対するエホバの行動ゆえに,「油そそがれた者たち」と呼ばれたのはもっともなことでした。(創世 28:18,19; 31:13,新)エホバが彼らを「わたしの油そそがれた者たち」と呼ばれたことは,エホバが彼らを任命し,選ばれたことを示しています。モファット訳聖書は詩篇 105篇15節を,「わたしの選んだ者たちに決して触れてはならず,わたしの預言者たちを決して害してはならない」と訳しています。(また,歴代上 16:22)エホバはご自分の好む者を選ばれますし,その選択の背後には目的があります。
18 したがって,アブラハム,イサクそしてヤコブから生ずることになっていた国民は何と呼ばれましたか。それはどうして適切でしたか。
18 アブラハム,イサクそしてヤコブはエホバの「メシアたち」でしたから,このことと調和して,メシアの治める国民は彼らから生じました。聖書はその選民のことをエホバの「メシア」つまり「油そそがれた者」と語っています。詩篇 28篇8,9節(新)で詩篇作者ダビデはこう述べています。「エホバはその民の力。その油そそがれた者[ヘブライ語,マーシアー]の大いなる救いのとりで。どうか,あなたの民を救い,あなたの相続財産を祝福してください。彼らを牧し,定めのない時まで彼らを携えて行ってください」。後日,預言者ハバククは祈りの中でエホバにこう言いました。「あなたは,ご自分の民の救いのため,あなたの油そそがれた者[マーシアー]を救うために出て行かれました」。(ハバクク 3:13,新)このことと一致して,この「油そそがれた」民もしくは国民を通して,神の定めた時に,神の天的な「女」の「胤」である真のメシアが来ることになっていたのです。―創世 3:15,新。
19 ヤコブの息子たちは十二部族の頭たちだったので何と呼ばれましたか。
19 ヤコブの子孫が大勢の民族となり,独立国家を成す用意ができたのはエジプトでのことでした。ヤコブが臨終の床で息子たちに別れの言葉を述べた時(西暦前1711年)のことに関して,こう言われています。「これらすべてはイスラエルの十二部族であり,これは彼らの父が彼らを祝福した時に彼らに話したことである。彼は自分自身の祝福にしたがって彼らおのおのを祝福した」。(創世 49:28,新)ヤコブのそれら十二人の息子はおのおのの部族の頭となったので,「族長」つまり「家父長」と呼ばれました。ある話し手がエルサレムのサンヘドリンでかつて述べたとおりです。「次いで神は彼に割礼の契約をお与えになりました。ゆえに,イサクが生まれた後,八日目に彼はイサクに割礼を施しました。それから,イサクにヤコブが生まれ,ヤコブに十二人の族長が生まれました。族長たちはねたみの気持ちからヨセフを奴隷としてエジプトに売り渡しました。しかし神は彼とともにおられました」。(使徒 7:8,9,新英語聖書)ギリシャ語を話すユダヤ人が「族長アブラハム」また「族長ダビデ」と言ったのももっともなことでした。―ヘブライ 7:4; 使徒 2:29,新英。
20 このようにして宗教的な家父長制がイスラエルに立てられたのですか。
20 しかし,これはエジプトにいたヤコブの子孫のなかに宗教的家父長制が立てられたという意味ではありません。ゴシェンの地でヤコブが亡くなった後でも,父ヤコブから受けた最後の祝福の言葉は,初子の権利がヨセフに移ったことを示していたとはいえ,エジプトの総理大臣としてファラオに仕えていたヨセフは「イスラエルの十二部族」の族長の頭として自ら立ったりはしませんでした。―創世 49:22-26; 50:15-26,新。
21 (イ)ヤコブは,初子の権利が今やだれに移ったことを示しましたか。(ロ)メシアなる王をもたらすに至る家系の頭となる者の選択は,だれに依存していましたか。
21 族長ヤコブは十二人の息子に預言的な祝福を与えることによって,長子相続権つまり初子の権利が,最初の妻レアによるヤコブの長子ルベンから,第二の妻ラケルの長子ヨセフに移った以上のことを明らかにしました。(創世 29:21-32)ヨセフを奴隷としてエジプトに売り飛ばす前のこと,その異母兄弟たちは,彼が自分たちを治める王になりはしまいかと考えで憤りました。(創世 37:8)しかし,それよりもずっと前,神は族長アブラハムに割礼の契約を与えた時,王たちがアブラハムから,それもその妻サラによって出ることを予告されました。その時,彼女の名を神はサライから,「王女」という意味のサラに変えました。(創世 17:16)また,神はヤコブの名をイスラエルと改めた時,王たちがヤコブから出ることを約束なさいました。(創世 35:10,11)とはいえ,その家族の長子の権利は,メシアなる王,つまり神の天的な「女」の「胤」をもたらすに至る王統の祖になる権利と栄誉を自動的に伴うものではありませんでした。この重大な事柄は神の選択に依存していたのです。神はどの息子がそのような王の先祖になるかをヤコブに指摘させました。
22 ヤコブはどの息子に対する祝福の言葉のなかで,「笏」や「命令者の杖」に言及しましたか。
22 ルベン,シメオンそしてレビに対する非難の気持ちを表わした後,臨終のヤコブは,最初の妻レアの生んだ四番目の息子に関連してこう言いました。「ユダよ,あなたの兄弟たちはあなたをたたえる。あなたの手はあなたの敵のうなじの上にある。あなたの父の子らはあなたに平伏する。ユダはししの子。わが子よ,確かにあなたは獲物から上って行く。ししのように,彼は身をかがめ,また身をいっぱいに伸ばした。ししのように,だれが彼をあえて起こすだろうか。笏はユダを離れず,命令者の杖もその足の間を離れることがなく,ついにはシロが来て,もろもろの民の従順は彼のものとなる」― 創世 49:8-10,新。
23 笏,命令者の杖,もろもろの民の従順,獅子になぞらえられたことなどの著しい事柄はすべて,ユダにかかわるどんな事を予示しましたか。
23 ヤコブがユダを獅子になぞらえていることに注目してください。ミカ書 5章8節は獅子を森の動物の王者にたとえています。エゼキエル書 19章1-9節ではユダ王国の歴代の王が獅子にたとえられています。それで,ヤコブがユダを獅子になぞらえたことは,笏が「ユダを離れ」ないということとよく合致しています。これはユダが既に笏を持っており,それを失ったり,あるいは奪われたりはしないことを暗示しています。それが王権の笏であることは,その笏がシロの来る時までユダを離れることのない「命令者の杖」と結びつけられていることによって動かぬものとされています。そのうえ,「もろもろの民の従順」はこのシロで表わされているユダの「ものとなる」のです。(創世 49:10,新)ユダに関するこれら著しい事柄すべては,まさしく王位について予示しています!
24,25 (イ)シロという名称は何を意味していますか。それはだれに適用されますか。(ロ)王笏はどうしてユダから決して離れませんか。
24 シロという名称は,「それを持つ者」という意味に解されています。往時の原語ヘブライ語本文から翻訳された古ラテン語ウルガタ訳は,「遣わされることになっている者が来るまでは」と訳しています。
25 このシロ(「それを持つ者」の意)の到来は,エルサレムの最後のユダの王に対する主権者なる主エホバの次のような言葉の中で予告されているのと同一人物のことを指しています。「破滅,破滅,破滅,わたしはこれをもたらす。それはまた,正当な権利を持つ者が来るまでは確かにだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える」。(エゼキエル 21:27,新)これは疑いもなく,メシアなる王,神の比喩的な「女」の「胤」の到来を指しています。その王が到来すれば,その王位をさらに歴代の王が継承する必要はないからです。その時,ユダの部族による王国は頂点に達し,シロの掌中にいつまでも留まります。その方こそ,天のエホバの右に座し,また族長アブラハムが戦利品の十分の一を支払ったメルキゼデクのような王になる,メシアなる王です。(詩 110:1-4)ですから,王笏はユダを離れません。
26 (イ)初子の権利と,王統との結びつきとは別問題であることを,歴代志略上 5章1,2節はどのように示していますか。(ロ)種々の事態が計画されずに生じたにもかかわらず,エホバは何を意のままに行なえましたか。
26 家族の長子の権利と,王としての主導権の譲渡とは別問題で,神は臨終の族長ヤコブを通して王としての主導権をユダに譲渡しましたが,このことは聖書の中にはっきりと述べられています。ヤコブの息子たちに関し,歴代志略上 5章1,2節(新)にはこう書かれています。「イスラエルの初子ルベンの子ら ― 彼は初子であったが,その父の寝いすを汚したことにより,初子としての彼の権利はイスラエルの息子ヨセフの子らに与えられたので,彼[ルベン]は初子の権利に関しては系図上記載されなかったのである。ユダは彼の兄弟たちに勝る者となり,指導者たる者が彼から出た[彼の子孫から君が出る(リーサー); 君である者が彼から来る(ユダヤ人出版協会)]が,初子としての権利はヨセフのものだったからである」。ここでも,全知全能の神がそれをこのように計画なさったとは言えません。神はルベン,シメオンそしてレビに非行を行なわせ,それぞれの結果を生じさせたりはなさらなかったからです。むしろ,計画されずに進展した事態に応じて,意のままにユダを選ぶことができたのです。起きた事柄とは関係なく,神はご自分の最初の目的を堅持し,変えることなく,その達成を図ることができました。
27,28 (イ)では,わたしたちはどの国民に,それも特にその国民のどの部分に引き続き焦点を合わせてゆきますか。(ロ)神が供してくださる証拠に基づいて行動すれば,どんな益を享受できますか。
27 神による選択とその行動は,油そそがれた者つまりメシアに関連して神が立てられた「とこしえの目的」を考慮するさいの確かな指針となります。神が臨終の族長ヤコブに霊感を与えて,ユダに関して言い渡させた預言的な言葉から見て,わたしたちはたどるべき道を知っています。わたしたちは単にイスラエルの十二部族全般だけでなく,特にユダの部族に引き続き焦点を合わせてゆかねばなりません。なぜなら,ユダ族はエホバのメシア,つまりその天的な「女」の「胤」と直接関係を持っているからです。神の「とこしえの目的」と切っても切れない関係にある,このメシアなる王を見分けるのに助けとなる証拠は,いよいよ増大してゆきます。
28 主権者なる主エホバがわたしたちのために供してくださる証拠に基づいて行動すれば,失望を招く偽メシアの追随者にならないですみます。それどころか,神からの真のメシアを認め,また地の諸国民すべてが永遠の祝福を得る手だてであるそのメシアに従う喜びを味わえるでしょう。
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神と契約を結んだ国民人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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9章
神と契約を結んだ国民
1 今日の諸国民はあまりにも唯物主義に傾きすぎているため,だれとの間で条約機構を組織することはできませんか。
国際問題の場合,相互防衛,平和的関係,文化交流その他の考慮すべき問題のために,ある国家が別の国家と条約を結ぶのは慣例となっています。政治上の幾つかの国家が,今日の北大西洋条約機構(NATO),ワルシャワ条約機構(あるいはワルシャワ協定),または東南アジア条約機構(SEATO)のような条約機構に加入する場合もあります。しかし今日,どんな政治上の国家あるいは国民が神との契約に入っていますか。現代の諸国民はあまりにも唯物主義に傾きすぎて,目に見えない天の実在者を一方の条約当事者とする条約機構を組織できるものではありません。
2 わたしたちは,神と契約を結んだある国民に関するどんな疑問に対する答えを得たいと考えていますか。
2 しかし昔は,天のいと高き神と契約を結んだ現実の生きた国民が地上にいました。その契約は地上の当事者と天の当事者,つまり見える当事者と見えない当事者との間で結ばれたのです。契約にはすべて明確な目的があります。地上の一国民と天の生ける唯一真の神との間で結ばれたその歴史的な契約の目的は何でしたか。一見不釣り合いに見えるその契約は,どのようにして結ばれたのでしょうか。ここではこうした疑問に対する答えを得たいと考えています。
3 そのような契約の条項,仲介者,必要条件および成立の時を定めるべき正当な方はだれでしたか。
3 いと高き神は全知全能の方ですから,その方こそ,不完全で罪深い人々で成る一国民と結ばれたそのような契約を提案もしくは提出する正当な方でした。そのような事情のもとでは,神が契約の目的を述べ,契約の条項を指示し,ご自分と人間との間に立つ仲介者を任命するのは適切なことでした。また,神が契約を継続させる必要条件を述べ,そうした契約もしくは協定を成立させる時を選定することになりました。神がずっと前に事前に定められたその時は,西暦前十六世紀でした。
4 犠牲を介してアブラハムと正式の契約を結んだ時,神はアブラハムの胤のためにどんな期間を予告されましたか。
4 神は,やがて国家的な契約に加わることになっていたその国民全体の父祖と,犠牲を介して正式の契約を結んでおられました。神が犠牲を介してご自身とのその正式の契約にアブラハムを入れられたのは,サレムの王で,いと高き神の祭司だったメルキゼデクが,戦いで勝利を得たアブラハムに祝福の言葉を言い渡した後のことでした。神の約束がアブラハムの子孫の上に成就するとの強力な保証をアブラハムに与えた後,神は彼にこう仰せになりました。「あなたはこの事をしかと知りなさい。あなたの胤は,自分たちのものでない土地で外人居留者となり,彼らはその人々に仕えねばならず,その人々は彼らを四百年の間苦しめるであろう。しかし,彼らの仕えるその国民を,わたしは裁き,その後,彼らは多くの所有物を携えて出て行くであろう。あなた自身は,平安のうちにあなたの父祖たちのもとに行き,あなたは十分高齢になって葬られるであろう。しかし,彼らは四代目にここに戻って来る。それはアモリ人の咎がまだ満ちてはいないからである」― 創世 15:13-16,新。
5 アブラハムの胤が約束の地に住む前に経過することになっていた長い時期は,何が起きることを考慮に入れたものでしたか。
5 こうして,アブラハムの生来の胤がその地を引き継ぐことは,四百年以上延期されました。その長い期間は,アブラハムの選ばれた生来の胤が,大勢の成員でなる一民族となり,異教の「咎」の点で悪化の一途をたどったカナンの地の住民アモリ人に取って代わるに足るほど殖えることを考慮に入れたものでした。アブラハムの生来の胤は,カナンの地とは全く異なる土地で非常に大きな民族になったのですが,それでも神はカナンの地を彼らのために別にしておかれました。そして,ついには約束の地の住民の「咎」ははなはだしくなり,それら住民はその地から一掃されるに値するほどになったのです。さて,エホバは正式の契約を結んで,機が熟ししだいその地域をアブラハムの生来の胤に与えるということを保証されました。
「その日,エホバはアブラムと契約を結んでこう仰せられた。『わたしはあなたの胤に,この地を与える。エジプトの川から,大きな川,ユーフラテス川まで。ケニ人,ケナズ人,カデモニ人,ヒッタイト人,ペリジ人,レファイム人,アモリ人,カナン人,ギルガシ人,エブス人を』」― 創世 15:18-21,新。
6 国家的な契約は,アブラハムに対する約束を無効にするものとなりましたか。アブラハムの子孫に関してそれはどんな目的に資するものでしたか。
6 アブラハムただ独りと結ばれた神聖な契約とは対照的に,神が考えておられた契約は,選ばれた家系から出て,アブラハムの子孫で成る一つの大きな国民と結ばれることになりました。その国家的な契約は,アブラハムに対する約束に付け加えられることになっていました。その約束は,アブラハムがユーフラテス川の北方を渡り,犠牲を介してアブラハムと結ばれた神の正式の契約に述べられている境界内に含められた地域に入った時,拘束力を持つようになりました。(創世 12:1-7)アブラハムの子孫で成る国民と結ばれた契約は,アブラハムに対する約束を無効にするどころか,その約束に付け加えられたに過ぎませんでした。それは賢明なことでした。というのは,アブラハムの肉身の子孫すべてが,地のもろもろの国民や族すべてを祝福する,アブラハムに対する約束の成就にあずかるにふさわしい者となる訳ではないからです。したがって。付け加えられたその国家的な契約は,神がご自分の天的な「女」の約束の「胤」である真のメシアを遣わして油そそいだ時,そのメシアを受け入れて忠節をつくして従えるよう,ふさわしい人々を備えさせる助け,あるいは手だてとして役だつことになりました。
7 どんな理由のゆえに,神はその四百年が終わる前にアブラハムの子孫と契約を結ぼうとはなさいませんでしたか。
7 神が犠牲を介してこの契約をアブラハムと結ばれて以来,四百年余経過するまでは,その付加的な国家的契約は成立しませんでした。なぜなら,アブラハムは当時,うまずめだった妻サラによる子孫を一人ももうけてはいなかったからです。そのうえ,神は,奴隷状態に陥って他国の国民によって苦しめられていたアブラハムの子孫と契約を結びたいとは思われませんでした。それも契約を結ぶには,彼らを苦しめて隷従させていた国民にとって憎むべき忌まわしいものとされる種類の犠牲を必要としたのですから,特にそうでした。(出エジプト 8:25-27)まず最初に神は圧制的なその国民に不利な裁きを下し,ご自分の民を解放して,ご自分との契約を自由に引き受けられるようにした上で,彼らとの契約を設けることを望まれたのです。それは予告された「四百年」の終わりに行なわれることになりました。そういうわけで,エホバ神は油そそがれた者つまりメシアにかかわるご自分の「とこしえの目的」を達成すべく,期間をいろいろ区切っておられることがわかります。
8,9 (イ)イサクが乳離れしたとき,どんな期間が,どのようにして始まりましたか。(ロ)その期間の終わりは,アブラハムの生来の胤に関して何が行なわれる時となりましたか。
8 アブラハムは約束の地に入ってから二十五年後,つまり百歳で,その正妻サラにより,もち論それは神の奇跡によることでしたが,ただ一人の息子の父になりました。それは,まだアブラハムにも,その子イサクにも属していない土地でのことでした。メシアをもたらすことになったその生来の「胤」が苦しみを受け始めたのは,イサクが乳離れした時のことで,それはイサクの異母兄弟である十九歳のイシマエルが,乳離れしたばかりのイサクを無礼にも愚ろうした時のことです。ねたみを示すそのような行為は,神から与えられたアブラハムの相続者イサクの命を脅かすものとなる恐れがありました。―創世 16:11,12。
9 時の計算によれば,アブラハムの「胤」が自分たちのものでない土地でこのようにして苦しみ始めたのは,アブラハムが百五歳,イサクが五歳の時で,それは西暦前1913年のことでした。(創世 21:1-9。ガラテア 4:29)したがって,アブラハムの生来の「胤」が苦しんだ「四百年」の期間は西暦前1513年に終わることになりました。それはアブラハムの胤が圧制的な国民の住む土地を去り,自分たちの父祖の土地つまり約束の地に戻り始める年となりました。それは神がアブラハムの「胤」を,拘束力のあるご自分との契約を結んだ国民として約束の地に導き入れるため,彼らと国家的な契約を設ける予定の時でした。四百年の終わりに当たるその時はまた,アブラハムがユーフラテス川を渡って,アブラハムに対する約束が効力を有するようになって以来の四百三十年の終わりに当たりました。―出エジプト 12:40-42。ガラテア 3:17-19。
国家的な契約の成立
10 アブラハムの生来の胤はエジプトでどの程度増大しましたか。しかし,ついにはどんな状態に陥りましたか。
10 アブラハムの孫ヤコブがその家の者とともにカナンの地を去って以来,四百年の終わりに至るまで,ヤコブの子孫つまりイスラエルの十二部族は,(今日のようなアラビア人のエジプトではなく)ハム族のエジプトにいました。エホバ神の予告どおり,アブラハムの生来の「胤」は苦しみに遭い,今やその苦しみは増大し,非常に厳しいものとなりました。そのねらいは,神の友アブラハムの民を絶滅させることにあったのです。にもかかわらず,神の約束どおり,彼らは天の星また海辺の砂粒のように,数え切れないほどに増え,ついには兵役に適した『徒歩の強壮な男子六十万人』を召集できました。(出エジプト 12:37,新)いえ,神はご自分の友アブラハムとの契約を忘れてはおられませんでした。また,発表された時間表を固守されました。それで,神は予定の時に予定の行動に移る用意ができていました。
11 神はだれをイスラエルの指導者として起用されましたか。その人は自分が指導者であることをどのように示そうとしましたか。
11 さて,だれが彼らの見える指導者になりましたか。神は,ヤコブがユダに言い渡した王国の祝福ゆえに,あたかもそうせざるを得ないかのようにユダの部族の頭を選んだりはなさいませんでした。(創世 49:10。歴代上 5:1,2)それどころか,本来選択権を持っておられる,いと高き神は,レビの部族のふさわしい男子,レビの曾孫モーセをお選びになりました。(出エジプト 6:20。民数 26:58,59)四百年が終わる四十年前のこと,モーセはエジプトのファラオの宮廷での生活をやめ,自分のイスラエル人の兄弟たちと運命を共にし,イスラエル人を奴隷状態から導き出す指導者として彼らの前に現われました。「彼は,自分の手によって神が兄弟たちに救いを施そうとしておられることをみなが悟るものと思っていたのですが,彼らはそれを悟りませんでした」。その時は神はまだ,奴隷状態にあった民を解放するためにモーセを遣わしてはおられませんでした。ファラオはモーセを殺そうとしたので,逃亡を余儀なくされたモーセはミデアンの地に逃れ,そこで結婚して,しゅうとのために羊飼いになりました。―出エジプト 2:11から3:1。使徒 7:23-29。
12 モーセはいつ,またどこでエホバの「油そそがれた者」となりましたか。どんな使命を与えられましたか。
12 四十年が過ぎて,モーセは八十歳になりました。次いで,モーセがシナイ半島で羊を飼っていたときのこと,現今のスエズ運河の南東320㌔ほどの所にあるホレブ山のふもとで,神の使いが奇跡的にモーセに現われました。そのホレブで,エホバ神はモーセに向かって,いわばご自分の名をはっきり説明して,こう仰せられました。「『わたしは自分が成るところのものと成る』。……これはあなたがイスラエルの子らに言うべき事柄である,『わたしは成るという方が,わたしをあなたがたのところに遣わされました』」。(出エジプト 3:2-14,新)こうして,神はモーセをご自分の預言者また代表者として任命されたので,今やモーセはその父祖アブラハム,イサクそしてヤコブのように,「油そそがれた者」つまり「メシア」と正しく呼ぶことができました。(詩 105:15,新。使徒 7:30-35。ヘブライ 11:23-26)エホバは,ホレブ山でモーセの民をご自身の契約に加わらせることを暗示されました。というのは,彼らをエジプトから連れ出して,その山に導き,そこで神に仕えるよう,エホバはモーセに仰せになったからです。―出エジプト 3:12。
13 どのようにしてファラオは,エジプトを去るようイスラエル人に命ずる重大な局面に追いつめられましたか。
13 ファラオはイスラエル人を自由の身にして行かせることを繰り返し拒んだため,エホバは一連の災いをファラオとその民に下しました。十番目の最後の災いは,ファラオのがん強な心とその抵抗を打ち砕くものとなりました。その災いはエジプト人の家族や家畜の初子をことごとく打ち殺しました。イスラエル人の初子は死を免れました。それは,彼らがエホバ神に従って,自分たちの家で初めての過ぎ越しの食事の祝いを行なったからです。裁きを執行するエホバのみ使いは,彼らの家の戸口の両方の柱と上方の横木にはねかけられた血を見て,その家を通り越したので,死は彼らの家族の者には忍び寄りませんでした。ユダの部族のサルモンの父ナハションも,モーセの兄アロンの長子ナダブも生き残りました。しかし,ファラオの長子は死にました。悲嘆に暮れたファラオは,近親を失ったエジプト人にせき立てられ,無傷のイスラエル人に国外へ去るよう命じました。―出エジプト 5:1から12:51。
14 その最初の過ぎ越しの日に,幾つかのどんな期間が終わりましたか。その夜に関して神は何をお命じになりましたか。
14 西暦前1513年の波乱に富んだその過ぎ越しの夜,幾つかの際立った期間がいっせいに終わりを告げました。アブラハムの生来の胤が自分たちのものでない土地で苦しみに遭う四百年間が終わりました。族長ヤコブがエジプトに入って以来その国に居住した二百十五年間も終わりました。アブラハムがユーフラテス川を渡って約束の地に住み始めてから数える四百三十年間も終わりました。次のように書かれているのも不思議ではありません。「エジプトに住んでいた,イスラエルの子らの居住期間は,四百三十年であった。そして,四百三十年の終わりにさいし,ちょうどその日に,エホバの全軍はエジプトの地を出ることになった。それは,彼らをエジプトの地から連れ出されたゆえに,エホバに関して守るべき夜である。エホバに関してはこの夜は,イスラエルの子らがみな,代々にわたって守るべき夜である」― 出エジプト 12:40-42,新。
15 神は追跡するエジプト人からどのようにしてイスラエル人を救い出されましたか。次いで,彼らは何を歌いましたか。
15 エホバは策略の一つとして,解放されたご自分の民を,モーセを用いて紅海の奥の西側の入江の岸に導かれました。イスラエル人はわなにかかったのだと考えたファラオとその戦車隊や騎兵は追跡を開始し,彼らの手から逃れた奴隷たちに迫りました。しかし,全能の神は一つの通路を開かせ,夜のうちにイスラエル人を乾いた海底を通らせてシナイ半島の岸に渡らせました。神はエジプト人がその脱出路に突進するままにしたうえで,紅海の水を彼らの上に戻らせ,軍馬もろとも敵を溺死させました。アブラハムの生来の「胤」を虐げたその国民を裁くと言われた神の言葉は,果たされました。(創世 15:13,14)エホバの裁きを目撃した証人たちは,シナイの岸に無事に立って歌いました。「エホバは定めのない時まで,とこしえまでも王として支配される。……エホバに向かって歌え。主はこの上なく高められた。馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」― 出エジプト 15:1-21,新。
16 神はホレブで,宿営したイスラエルに何を提出されましたか。その目的は何でしたか。
16 イスラエル人はエジプトを去った後,陰暦の第三の月(シワン)にシナイの荒野に入って,「真の神の山」であるホレブのふもとに宿営しましたが,それは特別の日となりました。それこそ,エホバがかつてモーセに,彼らはそこで神に仕えねばならないと仰せになった場所なのです。(出エジプト 3:1,12; 19:1)預言者モーセは今や,神と宿営した民との間の仲介者を務めるよう求められました。今やエホバはご自分と民との間に結ぶ契約を提出し,その契約の目的を示されました。ホレブ山に登ったモーセに向かって神は仰せられました。「これは,あなたがヤコブの家に言い,イスラエルの子らに告げるべきことである。『わたしがあなたがたをわしの翼に載せ,わたしのもとに連れて来るために,わたしがエジプト人に行なったことを,あなたがたは自ら見て来た。今,もしあなたがたがわたしの声に厳密に従い,わたしの契約をほんとうに守るなら,あなたがたは確かにほかのすべての民の中から取られた,わたしの特別の所有物となる。全地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしにとって祭司の王国,聖なる国民となる』」― 出エジプト 19:3-6,新。
17 救われたイスラエル人にエホバが契約を強制なさったかどうかは,どんな手順からわかりますか。
17 いと高き神はこの契約をイスラエル人に強制なさいませんでした。神は彼らをエジプトから,また紅海から救いましたが,神と契約を結ぶかどうかは彼らに自由に選択させました。エホバの「特別の所有物」,つまりエホバにとって「祭司の王国,聖なる国民」となるのですか。そうです,イスラエル人は当時,そうなることを望んだのです。それで,モーセが神の提出なさった契約について民の代表者たちに話したときのことがこう記されています。「そののち,民はみな,全員一致して答えて言った。『わたしたちは,エホバが話されたことをみな,喜んで行ないます』」。今やモーセはその民の下した決定をエホバに伝えました。次いでエホバは,同意を得た契約を成立させるよう事を運ばれました。―出エジプト 19:7-9,新。
18 その後,三日目に,神はイスラエルに向かって何を宣言されましたか。
18 その後,三日目にエホバは,そのホレブのシナイ山上でみ使いを通して,十の言葉つまり十戒を,集合したイスラエル人に宣言されました。わたしたちは,出エジプト記 20章2-17節に記されているそれらのおきてを自分で読むことができます。
予告された,より大いなる仲介者
19 (イ)その壮観な光景のゆえに,イスラエル人はモーセに何を要請しましたか。(ロ)それに答えてモーセは何を言いましたか。
19 その出来事は壮観そのものでした!「さて,民はみな,雷やいなずまや角笛の音や,煙る山を見た。民はそれを見ると,震え,遠くに立った。そして彼らはモーセに言い始めた。『あなたがわたしたちに話して,わたしたちに聴かせてください。しかし,神がわたしたちに話して,わたしたちが死ぬことのないようにしてください』」。(出エジプト 20:18,19,新)恐れたイスラエル人のこうした求めに対する神の答えが,申命記 18章14-19節(新)にずっと詳しく述べられています。その箇所でモーセは,神がご自分と民との仲立ちとして彼らに魔術師や占い師をお与えにはならなかったことをイスラエル人に告げた後,次のように続けています。
「しかし,あなたについては,あなたの神エホバはそのようなものを決してあなたにお与えにはならなかった。あなたの神エホバは,あなた自身のうちから,あなたの兄弟たちのなかから,わたしのようなひとりの預言者を,あなたのために起こされる。あなたがたは,彼に聞き従うべきである。これはあなたが,ホレブでその集まりの日に,あなたの神エホバに願った事柄すべてによるものであって,あなたは,『わたしの神エホバの声を二度とわたしに聞かせないでください。また,この大きな火をもはやわたしに見させないでください。わたしが死なないためです』と言った。そこでエホバはわたしに言われた,『彼らがそう言ったのはよいことだ。わたしは,彼らの兄弟たちのうちから,彼らのために,あなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしはほんとうに彼の口にわたしのことばを置こう。彼は確かに,わたしが命じることをみな,彼らに語る。わたしの名によって彼が話すわたしのことばに聞き従わない人がいれば,必ずわたしは自らその者に釈明を求めることになる』」。
20,21 (イ)イスラエルにとって,モーセのような別の預言者が出ることを信ずるのは容易でしたか。(ロ)この将来の預言者はどんな点で,またどの程度モーセに似ることになっていましたか。
20 神があたかも「面と向かって」話し合われたモーセのような預言者ですか。神の仰せられたことをモーセが自らイスラエル人に語ったとき,彼らにとってそのような考えは受け入れ難いことだったかもしれません。しかし,それこそ全能の神がご自分の民のために起こすと言われた預言者なのです。『モーセのような』というのは,単にモーセと同等のという意味ではありません。約束の預言者はモーセのようであって,なおかつモーセよりももっと大いなる人物であり得るのです。
21 モーセの後のイスラエル人の預言者からマラキに至るまでは,モーセのような預言者も,またモーセよりも大いなる預言者もいませんでした。(申命 34:1-12)しかし,約束の油そそがれた者,つまり神の天的な「女」の「胤」となるメシアについてはどうですか。(創世 3:15,新)神がシナイ山でモーセのような将来の預言者についてモーセに話したとき,明らかに神はこの方について話しておられたのです。メシアなるこの「胤」は,モーセのように神と人間との仲介者となりますが,モーセよりももっと大いなる方となるのです。確かに,生ける唯一真の神の崇拝者たちは今や,昔のイスラエルのためにモーセによってなされた以上のことをしてもらう必要があります。それで,モーセは,到来することになっていた,エホバのより大いなる預言者を予示したのです。
22 到来する,モーセのような預言者は,神を崇拝するさいの像の使用を非とするものと考えられます。どうしてですか。
22 その時,エホバ神はまた,モーセにこう仰せられました。「これはあなたがイスラエルの子らに言うべき事柄である。『わたしが天からあなたがたと話したのを,あなたがた自身が見た。あなたがたはわたしと並べて,銀の神々を作ってはならない。また,あなたがた自身のために金の神々も作ってはならない』」。(出エジプト 20:22,23,新)これがほかならぬ天から話された神を崇拝するのに,人間の作った,命のない,口のきけない像を用いることを戒めた命令であることは否定すべくもありません。それは,出エジプト記 20章4-6節に述べられている十戒の第二条で神が仰せられたことを大いに強調しています。モーセのようなメシアなる預言者は,宗教上の像のそうした使用を非とするものと考えられます。
23 イスラエルとのその契約は一般にはなぜ律法契約と呼ばれていますか。
23 ご自分の仲介者モーセを通して契約を成立させる前に,神は十戒に加えて他の律法をもモーセにお与えになりました。それは出エジプト記 21章から23章に列挙されました。それは巻き物もしくは「書」に記載されたので,契約が正式に成立する運びになったとき,その書は手許にありました。神の選民の守るべき神聖な律法が与えられたという点でこの契約は特に際立っていたので,それは律法の契約でしたから,一般には律法契約と呼ばれています。その法典,つまり集大成されたその法律は,聖書では「律法」と呼ばれています。
24 アブラハムに対する契約が結ばれた後どれほど経ってから律法契約が作られましたか。アブラハムに対する約束は依然有効ですか。
24 イスラエルと結ばれたこの契約の律法は,彼らがエジプトで過ぎ越しの夜を過ごした後,わずか五十あるいは五十一日ほど経って,十戒の形で紹介されたので,律法は「[西暦前1943年にアブラハムに対する契約が結ばれてから]四百三十年後に存在するようになった」と正しく言うことができました。そのような長い時間的隔りがあったからといって,イスラエルに与えられた律法は,アブラハムに対する契約を無効にして,「約束を廃棄する」ものとはなりませんでした。(ガラテア 3:17)地の国々の民やもろもろの族すべてをアブラハムの「胤」によって祝福するとの神の約束は依然有効であり,潰えることはありません!
25 律法契約はだれを拘束するものとなりましたか。何がそれに注ぎかけられることによってそうなりましたか。
25 イスラエルと結ばれた律法契約は,犠牲に供された動物の血を注ぎかけることによって有効にされ,契約当事者双方を正式に拘束するものとなったことをぜひ銘記してください。出エジプト記 24章6-8節(新)の記録はこう述べています。「次いで,[仲介者である]モーセはその血の半分を取って,それを鉢に入れ,またその血の半分を祭壇にふりかけた。最後に彼は契約の書を取り,それを民に読んで聞かせた。すると,彼らは言った。『わたしたちは,エホバが話されたことをみな,喜んで行ない,従順に従います』。そこで,モーセはその血を取って,それを民にふりかけて言った。『さあ,これらすべてのことばに関して,エホバがあなたがたと結ばれた契約の血です』」。―また,出エジプト 24:3に注目してください。
26 神の祭壇に血が注ぎかけられたことによって何が表わされましたか。また,民に血がふりかけられたことによって何が表わされましたか。
26 モーセがシナイ山麓に建てた祭壇は,エホバ神を代表するものであって,その祭壇の上でエホバに対して犠牲がささげられました。したがって,犠牲の動物の血の半分が祭壇に注ぎかけられることによって,エホバ神は代表的な仕方で契約に入れられ,契約の一方の当事者としてその契約により拘束されることになりました。他方,犠牲の動物の血のあとの半分が民にふりかけられることによって,彼らもまた,もう一方の当事者として契約に入れられ,自分たちに適用される条件を守るよう,その契約によって正式に拘束されることになったのです。こうして,その血によって当事者双方,つまり神とイスラエル国民は一つの契約で結ばれました。
27 イスラエル人は何も知らずに,あるいは強制されて契約に加入したのではありません。律法契約の成立に関するどんな事柄がこのことを証明していますか。
27 イスラエル国民は何も知らずに,あるいは圧力を受けたり強制されたりして,この契約に加入したのではありません。血を用いて正式に契約を結ぶ前日,彼らは神の言葉およびそれに関連した決定を知らされ,それらを受け入れました。出エジプト記 24章3節(新)が述べるとおりです。「そこでモーセは来て,エホバのことばと司法上の決定をことごとく民に述べた。すると,民はみな声を一つにして答えて言った。『わたしたちは,エホバが話されたことをみな,喜んで行ないます』」。翌日,民全員の聞いているところでモーセが「契約の書」を読んだ後,彼らは神の律法を受け入れたことを重ねて表明し,その後,犠牲の血が彼らにふりかけられました。神が契約を提出したとき,「今,もしあなたがたがわたしの声に厳密に従い,わたしの契約をほんとうに守るなら……」と語って言明なさった事柄を行なうことは,今やイスラエル国民全員の義務となりました。―出エジプト 19:5,6,新。
28 律法契約の条項を忠実に守るかどうかに関しては,その契約のどちらの当事者が問題でしたか。聖なる者であるためには何が要求されましたか。
28 全能の神はこの双務契約のご自分の義務に忠実であられるものと期待できました。神は変わらない方だからです。(マラキ 3:6)問題はイスラエル人でした。彼らは,自分たちが喜んで行なう旨表明した事柄を忠実に行なうでしょうか。彼らは詩篇 50篇4,5節(新)の次のような言葉の成就としてエホバのもとに集められる忠節な者たちのなかに含まれるでしょうか。「神は,ご自分の民に裁きを執行するため,上なる天と,地とに呼びかけられる。『わたしの忠節な者たちを,犠牲を介してわたしの契約を結んだ者たちを,わたしのもとに集めよ』」。(新; 新英)彼らは個人としてではなく,民族全体として,一国民として,民全員のための一連の犠牲を介して,その律法契約を結んだのです。彼らは「聖なる国民」であることを実証するでしょうか。そうするには,この世から離れていなければなりません。
29,30 (イ)イスラエルは律法契約にはいっただけで「祭司の王国」となりましたか。それとも,祭司のためのどんな取決めがありましたか。(ロ)レビの部族の他の家族の適任の男子は何になりましたか。
29 いと高き神とのこの契約に単に入ったからといって,彼らが直ちに「祭司の王国」になった訳ではありません。彼らは当時,男子成員がみな地上の国々の民すべてのための神の祭司として仕える王国を決して構成してはいませんでした。イザヤ書 61章6節(新)の次のような預言は,まだ彼らに対して成就してはいませんでした。「あなたがたは,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と言われる。あなたがたは,諸国民の資産を食らい,彼らの栄光をもって自らのことを意気揚々と話す」。むしろ,律法契約の条項にしたがって,イスラエルのただ一つの家族の資格ある男子成員だけが,同国民の残りの人々すべてのために仕える祭司となりました。それはレビの部族のモーセの兄アロンの家族で,彼は神の大祭司となり,その息子たちは従属の祭司となりました。それで,彼らはアロンの祭司職の成員となりました。
30 レビの部族の残りの家族の成員すべての中の適任の男子成員は,アロンの祭司職のための奉仕者となり,律法契約のなかで規定された神の家,つまり会見の天幕での宗教上の奉仕を続けるよう祭司たちを助けました。―出エジプト 27:20から28:4。民数 3:1-13。
31 アロンの家系の祭司はなぜイスラエルの王を兼任しませんでしたか。
31 このようなわけで,ユダの部族は昔のイスラエルの祭司職とは関係がありませんでした。その部族からは,メシアなる「指導者」,つまり「もろもろの民の従順が(その)ものとなる」「シロ」と呼ばれる者が来ることになっていたからです。(創世 49:10,新。歴代上 5:2)それで,昔のイスラエルでは,王権と祭司職とは分離されていました。アロンとその息子たちは王兼祭司とはならなかったので,メルキゼデクのようではありませんでした。
32 イスラエルは毎年どんな祭りを祝うことになりましたか。
32 律法契約によれば,民はすべて,崇拝用の天幕つまり幕屋で毎年三つの国家的な祭りを祝うことになりました。「あなたのうちの男子はみな,年に三度,無酵母パンの祭り,七週の祭り,仮庵の祭りにさいして,神の選ぶ場所で,あなたの神エホバのみ前に現われるべきである。だれも,むなし手でエホバのみ前に現われるべきではない。各人の手の贈り物は,あなたの神エホバがあなたに与えてくださった祝福に応じたものであるべきである」。(申命 16:16,17,新。出エジプト 34:1,22-24)種を入れないパンの祭りは,イスラエルがエジプトから救い出されたことを記念する例年の過ぎ越しの夕食に関連して行なわれました。七週の祭りは五十日目に,すなわちニサン16日に始まる七週間が終わった後に行なわれ,その五十日目(ペンテコステ)には,収穫された小麦の初穂がエホバにささげられました。仮庵(もしくは幕屋)の祭りはまた,年の変わり目の「取り入れの祭り」とも呼ばれました。これらの例年の祭りには,エホバにささげる犠牲がそれぞれ規定されていました。―レビ 23:4-21,33-43。
33 贖罪の日の行事はいつ行なわれましたか。その日の犠牲はなぜ年毎に繰り返しささげられねばなりませんでしたか。
33 仮庵の祭りの祝いが始まる五日前,春の月ニサンあるいはアビブから数えた陰暦第七の月の十日には,例年の「贖罪の日」(ヨム キプル)の行事が行なわれることになりました。それはチスリ10日で,その日には,エホバとの契約関係にあった国民全体の罪のために贖罪が行なわれました。その日はアロンの家系の大祭司が一年にただ一度会見の天幕の至聖所にはいって,書き記されたエホバの律法を収めた聖なる箱の前で,贖罪用の犠牲(雄牛と雄やぎ各一頭)の血をふりかける日でした。(レビ 23:26-32; 16:2-34)もち論,それら人間以下の動物の犠牲の死や,ふりかけられたその血は,そのような動物が従わさせられた人間の罪を実際に取り去り得るものではありませんでした。実際,それら犠牲にされた動物の死や血は人類の罪を取り去るものとはならなかったからこそ,贖罪の日の犠牲は年毎に繰り返しささげられねばならなかったのです。
34 律法契約は,人間の罪を取り去るのに神が何を要求しておられることを示していましたか。イスラエル人はひとりも,要求されているものをささげることはできませんでした。なぜですか。
34 わたしたちはその理由を理解できます。神は律法契約のなかではっきりとこう命ぜられました。「もしも致命的な事故が起きたなら,そのときあなたは魂には魂を与えなければならない。目には目,歯には歯,手には手,足には足,焼金には焼金,傷には傷,殴打には殴打を」。(出エジプト 21:23-25,新。申命 19:21)言いかえれば,同様のもの,つまり価値の等しいもので償うということです。それで,有罪宣告を受けた人の命は,有罪宣告を受けていない人の命で償わねばならなかったのです。詩篇 49篇6-10節(新)に次のように記されているのはそのためです。「自分たちの資力に信頼し,自分たちの富の豊かさを自慢しつづける者たちは,そのひとりとして,決して兄弟をさえ請け出すことができない。彼のための贖いを神に支払うこともできない。人がとこしえに生き長らえて,穴を見ないためには,(彼らの魂を請け出す価はあまりにも高いので,それは定めのない時まで絶えてしまった。)彼は,賢い者たちさえ死(ぬ)のを見(るからである)」。対応する贖いがなければなりませんでしたが,罪に苦しむイスラエル人はひとりも,アダムが喪失した完全な命を償うために,その贖いを供することはできませんでした。
35 アロンの家系の祭司職はどうなりましたか。それで,罪を償う贖いをどこに求めるべきでしょうか。
35 神聖な神の家で単なる動物の犠牲をささげたアロンの家系の祭司職は,19世紀前の西暦70年,エルサレムとその神殿がローマ軍により滅ぼされた時に過ぎ去りました。エホバ神が,「メルキゼデクのさまにしたがって,定めのない時まで祭司」にすると誓われた,メシアなる王を期待する以外どうすることもできません。(詩 110:1-4,新)この方こそ,神の天的な「女」の「胤」,つまり神により任命され,エデンのあの「へび」によって象徴された邪悪な者の頭を砕く力を授けられる胤に違いありません。もしも,この方が全人類のために罪を償う贖いを供えないとすれば,わたしたち人間には何の助けもありませんし,エホバ神の治める義の新秩序で永遠の命をうける見込みもありません。ですから,西暦一世紀に至るまでイスラエルの「贖罪の日」にささげられていた動物の犠牲は,何かを描画的に表わす,つまりメルキゼデクのような祭司で,へびの頭を砕く者となるメシアがささげることになっていた必要な贖いの犠牲を預言的に表わしていたに違いありません。
36 同様に,律法契約のもとで守られていた種々の祭りをどう見なければなりませんか。
36 神の契約によって古代イスラエルに課せられた年毎の祭りも同様でした。それらの祭りは国家的な娯楽や休息のための単なる無意味な行事ではなく,預言的な意義のある祝祭でした。それは喜ばしい行事でしたから,神が人類のために設けておられる将来の喜ばしい備えを表わすものでした。神はご自分の「とこしえの目的」に従ってご予定の時に,それら祭りの喜ばしい意味を明らかにされます。
驚くべき機会に恵まれた国民
37 律法契約はイスラエル人にどんな機会を供するものとなりましたか。
37 とはいえ,イスラエル人は神との契約の律法のごくささいな点をさえ破らずに完全に律法を守ったなら,永遠の命を自ら取得できたでしょうか。律法契約はイスラエル人各人に,そうし得るかどうかを実証する機会を供するものとなりました。レビ記 18章5節(新)で,そのような機会について次のように言及されています。「あなたがたはわたしの規定と司法上の決定を守らねばならない。それを行なうなら,その人はまた,それによって必ず生きる。わたしはエホバである」。それで,もしイスラエル人のだれかが律法を完全に守り,自分自身のわざによって永遠の命を得たとすれば,その人は律法契約の犠牲の益も,またアブラハムに対する約束の祝福をも必要とはしなかったでしょう。(創世 12:3; 22:18)律法をそのように完全に守れたとすれば,その人は自分自身の義と,命を受けるに値する功績を立証できたでしょう。
38,39 (イ)イスラエル人のだれかが律法を完全に守ることによって命を得たかどうかを何が示していますか。(ロ)したがって,神のみ前で祭司としてなされるだれの奉仕が必要ですか。
38 ところが,預言者モーセでさえ死にました。大祭司アロンも死にました。また,律法契約の成立以来,西暦70年にアロンの家系の祭司職がなくなるまで,いえ今日に至るまで,他のイスラエル人もすべて死の道をたどってきました。ローマ人によってエルサレムの神殿が破壊されて以来19世紀たった今日でさえ,正統派のイスラエル人は贖罪の日つまりヨム キプルを祝う儀式を全部行なっています。このこと自体,彼らが罪から清められる必要のあること,つまり律法を完全に守って自分自身の義にかなったわざによって永遠の命を取得できるものではないことを認めていることの表われです。彼らが律法契約のもとでそうし得なかったのであれば,わたしたち不完全な人間の他のだれがそうし得るでしょうか。
39 律法契約によりありのままに明らかにされた事柄からすれば,わたしたちはすべて,完全な働きを営まれる神のみ前に,有罪宣告を受けた者として立っています。(申命 32:4)それは律法契約がイスラエルと結ばれた後,七百年余たってから,預言者イザヤが,「わたしたちの義はみな,汚された衣服のようです」と述べたとおりです。(イザヤ 64:5,ユダヤ人出版協会)わたしたちはすべて,永久に続く祭司となる,メルキゼデクに似た約束の祭司の奉仕を必要としています。
40 神を崇拝することに関して,西暦前1512年ニサン1日にモーセは何を行ないましたか。その時,何が起きましたか。
40 さて,仲介者モーセによってエホバ神とイスラエルの間であの契約が成立した年にさかのぼってみましょう。その陰暦の年が終わり,西暦前1512年の暦年のニサン1日が到来しました。その日,モーセは神の命令に従い,神の崇拝を始める場所として「会見の天幕の幕屋」を立てさせました。次いで,モーセは兄アロンとアロンの息子たちに正式の装束を着けさせ,聖なる油をもって彼らに油をそそぎ,大祭司および従属の祭司として奉仕させました。「こうしてモーセはその仕事を成し終えた。すると,雲が会見の天幕を覆い始め,エホバの栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり,エホバの栄光が幕屋に満ちていたからである」― 出エジプト 40:1-35,新。
41 その顕示は,何の証拠でしたか。祭司職の創設はいつ完了しましたか。
41 エホバが崇拝用のその建造物を受け入れ,ご自分の目的のためにそれを聖別されたことを示す見える証拠がありました。そのニサン(あるいはアビブ)の第一の月の第七日に,アロンの祭司職の創設および権能の授与が完了し,祭司たちは聖なる幕屋で神聖な崇拝の特色をなす事柄すべてを監督することができました。―レビ 8:1から9:24まで。
42 当時,エホバはイスラエルにとって,崇拝されるべきその神であったほかに,目に見える代表者などを必要としないどんな存在でもあられましたか。
42 エホバは,そのイスラエル国民にご自分を崇拝するようお命じになり,またそうする義務を課した神でした。が,単に彼らの神だっただけでなく,彼らが服従し,忠節をつくさねばならない忠節な支配者,彼らの王でもあられました。したがって,エホバの律法とおきてに対する不従順は,不服従と不忠節を意味するものでした。このことを確証するものとして,申命記 33章5節(新)で預言者モーセは,イスラエル国民が律法契約にはいっているゆえに同国民のことをエシュルンつまり「廉潔な者」と言って,こう述べています。「民の頭たちが,イスラエルのすべての部族とともに集まったとき,エシュルンにひとりの王がおられた」。(アメリカ・ユダヤ人出版協会による翻訳)また,名誉勲位受勲者,故J・H・ヘルツ博士訳の同節に関する編者の脚注は,こう述べています。「こうして,神の王国がイスラエルを治め始めたのである」。(「モーセ五書および預言書」,ソンチノ社版,910ページ)エホバは彼らの見えない天的な王であり,イスラエルの中でご自分を代表する,見える地的な人間の王を必要とはなさいませんでした。―創世 36:31。
43,44 昔のイスラエルは地上の他のすべての国々の民と比べて,どのように特異なまでに恵まれていましたか。したがって,彼らはエホバをどのように賛美し得ましたか。
43 アブラハム,イサクそしてヤコブ(つまりイスラエル)の子孫で構成され,生ける唯一真の神との契約に入れられたこの国民は,何と恵まれていたのでしょう。彼らはその神を崇拝し,またその神の「祭司の王国,聖なる国民」となる見込みを享受しました。
44 預言者アモスは言いました。「イスラエルの子らよ,あなたがた,つまりわたしがエジプトの地から連れ上った族全体に関してエホバの話した,このことばを聞け。『わたしは,地上のすべての族の中からただあなたがただけを知った』」。(アモス 3:1,2,新)これは詩篇作者がハレルヤ詩篇の一つのなかで次のように言い表わした事柄と実によく類似しています。「主はヤコブにはみことばを,イスラエルには規則と司法上の決定を告げられる。主は,他のどんな国民にもそのようにはなさらなかった。主の司法上の決定について彼らは知ってはいない。あなたがたはヤハを賛美せよ!」(詩 147:19,20,新)恵まれたその国民には確かに,契約を守ってエホバを賛美すべき十分の理由がありました。彼らがそうしたかどうかは,今や始まった律法契約時代とも言うべき期間中に示されることになりました。
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ダビデと結ばれた王国のための契約人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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10章
ダビデと結ばれた王国のための契約
1 列王紀略上 6章1節ではどんな時代区分が行なわれていますか。時のこの算定の仕方はどうして適切ですか。
神はご自分の「とこしえの目的」に従って独自の仕方で時代区分を行なっておられます。そのようにして区分された時代の一例として,列王紀略上 6章1節(新)にはこう記されています。「イスラエルの子らがエジプトの地を出てから四百八十年目,ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジフの月,すなわち第二の月に,彼はエホバのために家を建てはじめることになった」。時のこの算定の仕方は適切なものでした。というのは,それはイスラエル人がエジプトから救い出された後まもなくシナイの荒野で崇拝用の家を建て始めた時から,ダビデの息子ソロモンがエルサレムに神殿を建立し始めた時までの期間だったからです。これは西暦前1513年ニサン15日から同1034年ジフ(もしくはイッヤル)1日まででした。―民数 33:1-4。列王上 6:37。
2,3 (イ)イスラエル人はなぜシナイの荒野をそんなに長い期間放浪しましたか。(ロ)彼らは約束の地を征服し始めてからどれほどの期間を経ていましたか。その後幾世紀もの間,彼らはどのように支配されましたか。
2 もち論,このおよそ5世紀の間に多くの事柄が起きました。イスラエル人は,当時約束の地に住んでいた諸国民を征服する神の力量に対する信仰に欠けていたため,およそ四十年間シナイの荒野を放浪せざるを得ませんでした。その間に,エジプト出国後二年目に神の指導のもとで約束の地に侵入することをひどく嫌った年配のイスラエル人は死に絶えました。(民数 13:1から14:38)四十年の終わりに,神は奇跡的な仕方で彼らを導き,増水したヨルダン川を渡らせて,約束の地,つまりカナンの地に入らせました。
3 次いで,モーセの後継者ヨシュアの指導のもとで約束の地を征服する何年かの交戦状態が始まりました。ユダの部族のエフンネの子である忠実なカレブの言葉によれば,占領した土地がイスラエルのそれぞれの家族に割り当てられた当時,イスラエル人は,その地を征服して住民を立ちのかせ始めてから6年目に入っていました。(ヨシュア 14:1-10)その後,神は今や定住したイスラエル人に何世紀もの間一連の裁き人をお与えになり,やがて預言者サムエルの時代になって初めて,この国民の政治形態に変更が加えられることになりました。1,900年前のユダヤ人のある年代学者はわたしたちのためにこの期間を簡単に算定しました。小アジア,ピシデアのアンティオキアのとある会堂で,ある安息日に話をしたその年代学者は次のように言いました。
4,5 (イ)聖書のその年代学者は,裁き人が与えられる以前のイスラエルの歴史上のどんな時代区分を行ないましたか。(ロ)その期間はどんな出来事をもって始まり,また終わりましたか。
4 「イスラエルの人々,および神を恐るる者よ,聴け。この民イスラエルの神は,我らの父祖を選び,そのエジプトの地に寄留せし時,この民を高め,高き御腕をもてこれをその地より導きいだし,およそ四十年の期間,荒野にて彼らの態度を忍び,カナンの地にて七つの民族を滅ぼせし時,その地を相続財産として彼らに賜ひ,およそ四百五十年を経たり[このすべてはおよそ四百五十年間のことです,新]。こののち,預言者サムエルの時代まで裁き人を彼らに与え給ひしが,後に彼ら王を求めたれば,神はこれにキスの子サウロというベニヤミンの部族の人を四十年のあひだ賜(へり)」― 使徒 13:14-21,西暦1884年の英国版,英国改正訳聖書。また,西暦1610年版,ドウェー訳聖書およびJ・B・ロザハム訳の西暦1897年版,エンファサイズド・バイブルをも参照のこと。
5 カレブおよび他のイスラエル人に相続財産として土地を割当てることが行なわれたのは,西暦前1467年のことでしたから,「およそ四百五十年」逆算すれば,西暦前1918年に達します。これはサラによるアブラハムの息子イサクの生まれた年で,その時神はサラのエジプト人の女中ハガルによるアブラハムの長子イシマエルの代わりにイサクをお選びになりました。神はかつて誓いの言葉を加えてイサクに対し,カナンの地の所有に関してアブラハムと結んだ契約を確認なさいましたが,今やこの四百五十年の期間の終わりに際し,神はその約束の地を相続財産としてイサクの子孫に割当てることになったのです。エホバ神は全人類を祝福するその「とこしえの目的」を忠実に堅持しておられました。
6 (イ)裁き人ギデオンは神の主権に対する忠節をどのように示しましたか。(ロ)ギデオンの息子で,王となったアビメレクはどうなりましたか。
6 ヨシュアからサムエルに至る十五人の裁き人が仕えた時代中に,イスラエルの人々は六番目の裁き人,マナセの部族のヨアシの息子ギデオンを説得して,エホバ神を王として戴く代わりに,ギデオンの家系から歴代の支配者の王朝を立てさせようとしました。しかし,ギデオンはイスラエルの最高の支配者に忠節を示し,提供された支配者の位を退けて,こう言いました。「わたしはあなたがたを治めませんし,またわたしの息子もあなたがたを治めません。エホバこそ,あなたがたを治める方です」。(士師 8:22,23,新)ギデオンの数多くの息子の一人,アビメレク(「わたしの父は王です」の意)はシケムの土地所有者たちを動かして,自ら王位につきましたが,彼は神の不利な裁きを受け,3年間統治した後,戦いの最中,ある女によって殺されました。―士師 9:1-57。
全イスラエルを治める王
7 イスラエルはいつ,またどのようにして,神の選ばれた人間の王を持つようになりましたか。彼はどれほどの期間統治しましたか。
7 十五番目の裁き人,預言者サムエルの晩年のこと,イスラエルの長老たちが彼のもとにやって来てこう頼みました。「どうか今,わたしたちのために,すべての国々の民のように,わたしたちを裁く王を任命してください」。サムエルはこれを,神の任命された裁き人である自分を退けたことの表われと取りましたが,エホバはサムエルにこう仰せられました。「民があなたに言うことすべてについては,民の声を聞き入れよ。それは彼らが退けたのはあなたではなく,彼らの王であるこのわたしを退けたのである」。神は,見える人間の王を持つことによってもたらされるあらゆる苦しみについてイスラエル人に警告するよう,サムエルに命じましたが,それでも人々はそのような王を好んでいることを明らかにしました。イスラエルの主権者であられる主なる神は,イスラエルの最初の人間の王となるべき人を選んでおられました。神はサムエルを遣わし,ベニヤミンの部族のキシュの息子サウルに油をそそいで王とされました。西暦前1117年,サウルはミヅパの町で王として就任しました。「民はみな,大声で叫んで言った。『王さま,万歳!』」サウルは四十年間統治しました。―サムエル前 8:1から10:25,新。使徒 13:21。a
8 (イ)サウルの治世の十一年目に,ベツレヘムでだれが誕生しましたか。(ロ)ミカはベツレヘムについて何を預言しましたか。
8 サウルの治世の十一年目のこと,ユダの部族の領地の都市ベツレヘムで,一見ささいな事と思える出来事が起こりました。ベツレヘムの人エッサイが八番目の息子の父となり,その子をダビデと名づけました。サウル王はもとより,イスラエルの人はだれ一人として,新たに生まれたその赤子がいつの日か非常に傑出した人物となり,そのために彼の出生地ベツレヘムが後日「ダビデの都市」と呼ばれるようになろうとは夢にも思いませんでした。およそ三百年後にダビデのその都市について次のように預言されることになろうとは,当時知るよしもありませんでした。「然れど,ベテレヘム,エフラタ,汝はユダの幾千のもののうちにていと小さきものなり。然れども,汝のうちよりイスラエルの支配者たる者,わがために出づべし。その起こりはいにしへより,はるかに昔の日よりなり」。(ミカ 5:1,リーサー; ユダヤ出版; 5:2,新英; 新)西暦一世紀当時のユダヤ教の宗教指導者は,この預言がメシアに適用されることを理解していました。それで,神の「女」の「胤」はベツレヘムで生まれることになっていました。
9 サウルが無分別なことをしたため,神はサウルに対し,その王国についてサムエルに何を告げさせましたか。神はだれをその王座につかせるべくお選びになりますか。
9 ところが,それより前,サウル王は二年間統治した後,信仰の欠如のために自制を失い,在職中,せん越で無分別な行動を取りました。「そこでサムエルはサウルに言った。『あなたは愚かに振舞った。あなたは,あなたの神エホバがあなたに命じたおきてを守らなかった。もし守っていたなら,エホバは,イスラエルにあなたの王国を定めのない時まで確立されたであろう。今や,あなたの王国は長続きしない。エホバはご自分のためにみ心にかなう人を必ず見いだし,エホバはその人をご自分の民の指導者に任じられる。それはあなたが,エホバから命じられたことを守らなかったからだ』」。(サムエル前 13:1-14,新)「[神の]心にかなう人」はまだ生まれてはいませんでした。この言葉はダビデがベツレヘムで生まれる何年も前に話されたものだからです。これは,いと高き神がご自分の力と権限を行使し,サウル王の跡を継ぐべきイスラエル人を自ら選択しておられたことを明らかに示すものでした。そのようにして,メシアにかかわるご自分の「とこしえの目的」を固守されました。
10,11 (イ)ダビデはどのようにしてイスラエルの未来の王として指名されましたか。(ロ)ダビデはどうしてサウルの殺意のこもった嫉妬を受けるようになりましたか。ダビデは最初どこで王になりましたか。
10 ダビデが十代の一介の羊飼いの少年としてベツレヘムにいたころ,神は彼をみ心にかなう人として指名されました。ダビデはエッサイの初子ではなく,八番目の息子に過ぎませんでしたが,神はサムエルをベツレヘムに遣わし,ダビデに油をそそいで,イスラエルの未来の王にさせました。
11 ダビデは全イスラエル人のなかでただ一人,ペリシテ人の挑戦者である巨人ゴリアテと戦場で相対し,石投げ器で挑戦者の額に石を打ち当ててゴリアテを殺すに及んで,脚光を浴びるようになりました。(サムエル前 16:1から17:58)ダビデはサウル王の軍隊に入れられ,人々の間での彼の人気は,王のそれをしのぐほどになりました。そのために非常な嫉妬をいだいたサウルは,イスラエルの王座につくわが子の一人が取って代わられることのないよう,ダビデを殺そうとしました。結局,戦場で致命傷を負ったサウルは自らの死を早めるため自刃して果て,その王政は終わりを告げました。生き残ったサウルの息子イシボセテは,サウルの家系を守ろうとする人々によって王とされましたが,イスラエルの十一部族を治めたに過ぎませんでした。ユダの部族民はユダの領地のヘブロンでダビデに油をそそいで自分たちの王としました。それは西暦前1077年のことでした。―サムエル後 2:1-11,新。使徒 13:21,22。
12 いつ,またどのようにしてダビデは全イスラエルの王にされましたか。今や,「笏」と「命令者の杖」に関してどんな疑問が生じますか。
12 サウルの息子イシボセテは,イスラエルの王座で七年六か月王位を保ったようですが,その後臣下の手で暗殺されました。(サムエル後 2:11から4:8)今や全部族はダビデをエホバの選ばれた者と認め,ヘブロンでダビデに油をそそぎ,彼を全イスラエルの王にしました。それは西暦前1070年のことでした。(サムエル後 4:9から5:5)こうして,創世記 49章10節(新)に記されているヤコブの臨終の預言と調和して,「笏」と「命令者の杖」はユダの部族に帰すことになりました。さて,どんな根拠があって,それら王位の象徴物は『ユダを離れず……ついにはシロが来る』のでしょうか。
13 ダビデはどうして確かに「油そそがれた者」と言えましたか。彼はだれを預言的に表わすひな型となりましたか。
13 王位につくよう三回も油をそそがれたのですから,確かにダビデ王は,サムエル後書 19章21,22節; 22章51節; 23章1節(新)にあるように,「油そそがれた者」つまり「メシア」(ヘブライ語: マーシアー)と呼ぶことができました。いみじくもダビデは傑出したメシア,つまり神の天的な「女」の「胤」の預言的ひな型として用いられました。(エゼキエル 34:23を見なさい。)事実,神は,ついにはご自分の「とこしえの目的」にかかわるメシアをもたらすものとなった家系に属する人物としてダビデを選ぶことをよしとされました。このことはどのように起こりましたか。
14 ダビデはどんな町を全イスラエルの首都にしましたか。次いで彼は,どんな聖なる物件をそこに安置しましたか。
14 西暦前1070年,再合同したイスラエルの油そそがれた王となって間もなく,ダビデはエブス人の町を攻略し,それをエルサレムと呼び,そこに行政機関を移し,その高地の町を首都にしました。それはヘブロンよりももっと中心部に位置していました。ユダとベニヤミンの領地の境界線にあったからです。(士師 1:21。サムエル後 5:6-10。歴代上 11:4-9)その後ほどなくしてダビデ王は,エホバの聖なる契約の箱のことを考慮しました。それは何十年もの間,エフライムの領地のシロにあった会見の天幕の至聖所から別の所に移されたままになっていたのです。(サムエル前 1:24; 4:3-18; 6:1から7:2)契約の箱は首都にあって然るべきだと考えたダビデは,それを運んでこさせ,自分の王宮の近くの天幕の中に安置させました。―サムエル後 6:1-19。
15 今やエホバはダビデとどんな契約を結ばれましたか。それはダビデの側の何を多とした上でのことでしたか。
15 しかし,ダビデはきまり悪く感ずるようになりました。単なる人間の王に過ぎない彼が王宮に住んでいるのに,真の神で,イスラエルの真の王であられるエホバの契約の箱は,質素な天幕の中に留まっていたからです。物事の正しい釣り合いを図るため,ダビデは,宇宙の主権者であられる,いと高き神のために,ふさわしい家つまり神殿を建立することを思いつきました。しかし,そのような神殿をダビデが建てることを非としたエホバは,預言者ナタンを通して,ダビデの温和な息子がエルサレムに神殿を建立する特権にあずかることになろうとダビデにお告げになりました。次いで,神の清い崇拝に対するダビデの心からの尽力を多としたエホバは,「み心にかなう」者であったダビデに関して驚くべきことをなさいました。エホバは自発的にダビデに対して,永久に続く王国のための契約を設け,こう仰せられました。
「エホバはあなたに告げる。エホバはあなたのために一つの家を造る。あなたの日数が満ち,あなたがあなたの父祖たちとともに横たわるとき,わたしは必ず,あなたの体内から出る,あなたの胤を,あなたのあとに起こし,わたしは確かに彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建てる者であり,わたしは確かに彼の王国の王座を,定めのない時まで確立させる。わたしは彼の父となり,彼はわたしの子となる。彼が不正をするときは,わたしはまた,人の杖をもって,アダムの子らのむち打ちをもって彼を叱責する。わたしの愛ある親切は,わたしがあなたのゆえに除いたサウルから,わたしがそれを除いたように,彼から離れることはない。あなたの家とあなたの王国は確かに,定めのない時まであなたの前にしっかりと立ち,あなたの王座はまさしく,定めのない時まで確立されたものとなる」― サムエル後 7:1-16,新。歴代上 17:1-15。
16 このことでダビデはどんな感謝の祈りをエホバにささげましたか。
16 ダビデは感謝の祈りをささげ,次のように述べてその祈りを結びました。
「今,主権者なる主エホバよ,あなたこそ真の神であられます。あなたのみことばは,真実であることが明らかになりますように。あなたは,あなたのしもべに,この良いことを約束しておられるからです。今,どうかあなたのしもべの家を祝福して,定めのない時までみ前に続くようにしてください。主権者なる主エホバよ,あなたご自身が,約束されたのです。あなたの祝福ゆえに,あなたのしもべの家が,定めのない時まで祝福されますように」― サムエル後 7:18-29,新。歴代上 17:16-27。
17 この契約はまた,神の側のどんな事柄によって支持されましたか。
17 ダビデに対するその契約の約束は,神の誓いによって支持されました。
「エホバはダビデに誓われた。まことに主はそれから退かれることはない。『あなたの腹の実を,わたしはあなたの上座につかせよう。もし,あなたの子らがわたしの契約と,わたしが彼らに教えるさとしを守るなら,彼らの子らもまた,いつまでもあなたの王座に座すであろう」― 詩 132:11,12,新。
「定めのない時まで,わたしは彼に対するわたしの愛ある親切を保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。わたしは必ず彼の胤をいつまでも,彼の王座を天の日数のように,据えよう。……わたしはわたしの契約を辱めない。わたしのくちびるから出たことを,わたしは変えない。わたしは,かつて,わが神聖さにかけて誓った。わたしは,ダビデに決してうそを言わない。彼の胤は定めのない時までもとどまり,彼の王座は太陽のようにわたしの前にあろう」― 詩 89:28-36,新。エレミヤ 33:20,21をも見てください。
18 イザヤの預言は,ダビデの王国がどんなより大いなる王国の基盤を供することを表わしていますか。
18 ダビデ王に対するその契約によれば,彼の王国は,より大いなるメシアの治める,きたるべき王国の基盤を供さねばなりませんでした。だからこそ,何世紀も後に預言者イザヤは霊感を受けて次のように預言したのです。「ひとりの子供がわたしたちのために生まれる。ひとりの子がわたしたちに与えられる。支配権はその肩にあり,その名は,不思議,助言者,力ある神,永久の父,平和の君と呼ばれる。その支配権が増し加わり,ダビデの王座に,またその王国には平和が限りなく続き,ふさわしい事と正しい事によって,今よりとこしえにそれを立て,それを支えるためである。万軍の永遠者の熱心がそのようなことを行なう」― イザヤ 9:5,6,ヘブライ語学者,ラビ,レオポルト・アインカルト・ズンツによるドイツ語訳,西暦1913年第十六版。イザヤ 9:6,7,欽定; 改標; 新英; エルサレム聖書を見てください。
19 ミカの預言によれば,この「子供」はどんな町で生まれることになっていましたか。それはだれを見分けるしるしとなりますか。
19 ミカ書 5章1節(ズンツ; 5:2,欽定; 新)の預言によれば,メシアとなるこの子供は,ユダの領地のエフラタのベツレヘムで生まれ,この王族の子はそこで与えられることになっていました。人間としての誕生の起こるその場所は,神の比喩的な「女」の「胤」である真のメシアを見分けるしるしの一つとなりました。王都エルサレムではなく,ベツレヘムはそのメシアの先祖ダビデ王の出生地だったので,ダビデの町と呼ばれるようになりました。
ダビデの歴代の王朝
20 ダビデの王朝はどれほどの期間王座を存続させましたか。イスラエル人はどれほどの期間歴代の王を戴きましたか。
20 ダビデに対するこの王国契約の成就として,その後エルサレムの歴代の王はすべてダビデ王の家系から出ました。西暦前1070年ダビデがエルサレムで王位についた時から計算すると,エルサレムにダビデの歴代の王朝を持ったこの王国は463年間,つまり西暦前607年まで存続しました。ゆえに,預言者サムエルがサウルを全イスラエルの王として油をそそいだ西暦前1117年から数えると,イスラエル国民は,目に見える歴代の王を510年間戴いたということになります。とはいえ,エホバは目に見えない王であられたのです。
21 ダビデはその死に際して天に昇りましたか。ダビデは,神の右に座するようだれが招かれることを預言しましたか。
21 神によって選ばれ,イスラエルの王として油そそがれたダビデ王は,その神を代表する王としてエルサレムの「エホバの王座」に座しました。(歴代上 29:23,新)しかし,エホバの右に座した訳ではありません。エホバの王座は天にあるからです。(イザヤ 66:1)ダビデは西暦前1037年に死にましたが,その時霊の天に昇り,天でエホバの右に座した訳でもありません。彼はそうするよう招かれてはいなかったので,西暦一世紀に至るまでイスラエル人はダビデの埋葬された場所をさがして確認しようと思えばそうすることもできました。むしろ,ダビデは神の霊感を受けて,詩篇 110篇1-4節のなかで,王なる祭司メルキゼデクのようになる,彼のメシアなる子孫こそ,エホバに招かれて天でその右に座す者となることを預言しました。
22 ソロモンおよび王座についたその後継者の大多数は結局どうなりましたか。ダビデの家系の王はいつからエルサレムの王座につかなくなりましたか。
22 ダビデの若い息子ソロモンは父の跡を継いでエルサレムの王座,「エホバの王座」に着きました。神の約束によれば,ソロモンはモリア山上に神殿を建立する特権に恵まれた者で,その建築は西暦前1027年に竣工しました。(列王上 6:1-38)ソロモンは神のために神殿を建てましたが,晩年になってその神に対して不忠実になりました。エルサレムの王座についた,彼の後継者の大多数もまた,結局は悪くなりました。エルサレムの王座に座した,ダビデの子孫のそれら歴代の王の最後の人はゼデキヤでした。バビロンの王はゼデキヤを貢納者にしましたが,ゼデキヤは反逆したため,エルサレムの都とその壮麗な神殿を廃墟として後にしたまま,捕虜としてバビロンに連れ去られました。(列王下 24:17から25:21)西暦前607年のその悲劇的な年以来,ダビデの子孫の王は決してエルサレムの王座に着きませんでした。
23 王国契約は失敗しましたか,あるいは,無効になりましたか。神はエゼキエルを用いて,このことに関するどんな保証をお与えになりましたか。
23 これはダビデに対する王国契約が失敗した,もしくは無効になったという意味ですか。決してそうではありません! 神はその保証をお与えになりました。ゼデキヤが退位させられ,バビロンへ流刑に処される四年ほど前,神は預言者エゼキエルに霊感を与え,エルサレムの王座に座したこの最後の王に対して次のように述べさせました。
「致命傷を負った,イスラエルの邪悪な長よ,あなたの日は終わりの過ちの時に来た。主権者なる主エホバはこう仰せられる。『かぶりものを取り除き,王冠を取り去れ。これは同じではなくなる。低いものを高く上げ,高いものを低くせよ。破滅,破滅,破滅,わたしはこれをもたらす。それはまた,正当な権利を持つ者が来るまでは確かにだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える』」― エゼキエル 21:25-27,新。
24 何が低くされることになりましたか。いつ,またどのようにその逆の事柄が起きることになりましたか。
24 この趣旨がおわかりでしょうか。エホバはエルサレムのダビデ王家の治める王国を荒廃させるので,物事は以前とは同じではなくなるのです。神の目に低いものとされていた異邦人の支配勢力が最上位に上げられ,エホバの選民の地上の王国は低くされ,異邦世界強国に服させられます。エルサレムを首都とする神の模型的な王国からの干渉を受けずに異邦世界が支配権を行使する期間は,「正当な権利を持つ」者すなわち約束の真のメシアが来る時まで続き,それから主権者なる主エホバは王国をそのメシアにお与えになります。その後,異邦世界強国はもはや最上位に立って地を支配したりすることはなくなり,メシアの王国が世界を制することになります。こうして,ダビデと結ばれた契約により,その王国は永久に続く政府となります。その王座は必ずとこしえに存続するのです!
25 西暦前607年にエルサレムが荒廃したにもかかわらず,どんな契約およびどんな目的は依然効力を保持しましたか。
25 ですから,たとえ今日に至るまで中東のエルサレムにダビデの王座が再興されていないとはいえ,神の天的な「女」の「胤」である約束のメシアに望みを置く人たちにとって,すべてが徒労に帰した訳ではありません。確かに西暦前607年の秋までには王都エルサレムとその神殿は廃墟と化しました。近くのベツレヘムの町,つまりダビデの町もバビロニア人の征服者たちの手で荒廃に帰せしめられました。それでも,アラビアのシナイ山でイスラエルと結ばれた律法契約は効力を保っていましたし,ダビデと結ばれた永久の王国のための契約も引き続き適用されていました。メシアにかかわる神の「とこしえの目的」は効力を保持していました。神の王国契約は失敗するものではありませんし,神の目的も潰えたりはしません!
[脚注]
a 「ユダヤ古誌」第10巻8章4節のなかで,西暦一世紀のフラビウス・ヨセフスは,サウル王の治世を二十年としていますが,同第6巻14章9節で,「さてサウルはサムエルの存命中十八年間統治し,その没後二年間統治した」と記しており,ヨセフスの著書のある写本は,「そして二十年」と付け加えているので,合計四十年となります。
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神の「とこしえの目的」にかかわるメシア人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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11章
神の「とこしえの目的」にかかわるメシア
1 ある土地およびある国民が再生しました。それはいつでしたか。
西暦前537年のこと,七十年間も全くの廃墟と化していた都がよみがえりました! それは西暦前607年にバビロニア人によって滅ぼされたエルサレムの都です。その聖都が塵のなかから起き上がったとき,ユダの地が,そうです,一国民が,つまり帰還したエホバ神の民が再生したのです。(イザヤ 66:8)それは観察者すべての目にとって驚嘆すべき事柄でした。
2 (イ)来たるべき約束のメシアは,エホバの油そそがれたどんな代理者よりも後代の人となるはずでしたか。(ロ)バビロンは西暦前539年に倒れたのに,どうして七十年にわたる流刑の期間が満たされましたか。
2 一国民がこうして復活するにつれ,約束のメシアの到来に対する希望も回復されました。(エゼキエル 37:1-14)ユダ王国の人々がバビロンの地で流刑の身になっていた七十年の期間中でさえ,メシアの到来する所定の時が彼らに対して指摘されていました。そのメシアは,預言者イザヤが霊感を受けて次のように言及したペルシャ人征服者クロス大王よりも後代の人となるはずでした。「これはエホバがその油そそがれた者[ヘブライ語,マーシアー],クロスに仰せられたことである。その右手をわたしは握った。彼の前に諸国民を服させ,王たちの腰の帯を解くためであって,彼の前に二枚戸を開いて,その門を閉じさせないようにする」。(イザヤ 45:1,新)エホバの油そそがれた代理者としてやって来たクロスは,高い城壁をめぐらしたバビロンの都の門をくぐり,その帝王であった,ナボニドスの子ベルシャザルを打ち破って殺しました。それは西暦前539年のことでした。しかしクロスは,流刑の身のイスラエル人を直ちに解放したわけではありません。彼はバビロンの王権を引き継ぎ,西暦前537年に至るまでさらに約二年間ユダヤ人の捕われ人を抑留しました。こうして,七十年が満了したのです!
3 荒れ果てたユダの地はどれほどの期間安息を守りましたか。
3 これはエレミヤ記 25章11節で予告されていたとおりでした。歴代志略下 36章20,21節(新)にはこのことに関する次のような歴史的記録が載せられています。「そのうえ,彼は,剣をのがれて残った者たちを捕えてバビロンへ連れ去った。そして彼らは,ペルシャの王族が統治するまで,彼とその子たちのしもべとなった。エレミヤの口によるエホバの言葉を成就して,ついにはその[ユダの]地が安息を皆済するためであった。荒れ果てるまま横たわっていたその時代を通じて,それは安息を守って,七十年を満たした」― それは西暦前607年から同537年までのことです。
4 (イ)ダニエルは,ユダヤ人の流刑の期間の終わりが到来する時をいつ計算しましたか。(ロ)ガブリエルは,メシアが到来する時に関するどんな情報をダニエルに与えましたか。
4 バビロンで流刑の身となっていたユダヤ人のなかに預言者ダニエルがいました。霊感を受けて記されたエレミヤの著作からみて,ダニエルは,エルサレムが荒れ果てたまま横たわって安息を守る七十年の期間が終わらないうちにユダヤ人が流刑の身から解放される事態が到来するとは考えていませんでした。(ダニエル 9:1,2)それで,バビロニア帝国に対するメディア-ペルシャ新政権の執政第一年に際し,ダニエルはこの問題について祈りました。エホバのみ使いガブリエルがやって来て,メシアの到来する時に関する次のような情報をダニエルに与えたのはその時のことでした。
「あなたの民とあなたの聖都については,七十週(年)が指定されている。それは,背教を抑制し,罪の終わりをきたらせ,咎をあがない,永久の救いをもたらして,幻と預言が封じられ,至聖所が油そそがれるためである。
「それで,あなたは知って,理解しなさい。エルサレムを再建せよとの布告が出てから,油そそがれた者,君主の来るまでが七週(年)。また,六十二週(年)。ゆえに,市の開かれる広場と堀が,それも苦難の時代に再建される。
「その六十二週(年)の後,油そそがれた者は滅ぼされる。彼は(後継者)を持っていない。また,来たるべき君主の民は都と聖所を破壊する。彼の終わりは引き裂くことによるかのようにやって来る。その終わりまで戦いと荒廃が定められている。
「彼は一週(年)の間,多くの者と強固な契約を結び,その週(年)の半ばに犠牲と捧げ物とを無効にする。また,翼(の場所)のそばに恐ろしい忌むべきものが現われる。それは荒廃,つまり堅く定められたものが荒廃者の上に注がれる時までのことである」― ダニエル 9:24-27,ズンツ。また,モファット訳をも見てください。
創造の第七「日」の「朝」は西暦前526年に始まる
5 七「週年」と六十二「週年」を加えた期間がいつ終わったかを割り出す計算はどのようになされますか。
5 神の創造の第七「日」の前半,つまり「夕」方の期間,すなわちアダムとエバの創造以来の3,500年の期間は今や終わりを迎えていました。その創造の「日」の朝は,西暦前526年に始まろうとしていました。その時以降,神の目的に関し,また神の民にとって物事は当然明るい様相を呈するはずでした。ダニエルの預言によれば,七十「週(年)」(合計490年)は,よみがえったエルサレムの都の再建にかかわるある顕著な事柄を起点として計算されるのです。「七週(年)」と「六十二週(年)」を加えた合計483年の期間は,油そそがれた者(ヘブライ語,マーシアー)が到来する時まで続きます。ユダヤ人の総督ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建した時から計算すると,この六十九「週年」は西暦一世紀の前半以内に終わることになります。ネヘミヤが城壁を再建した年であるアルタクセルクセス王の第二十年(西暦前455年)から数えると,483年は西暦29年に終わることになります。(ネヘミヤ 2:1-18)それはエルサレムが,今度はローマ人の手による,二度目の崩壊をこうむる約四十一年前のことでした。西暦29年には何か歴史的に重大な事が起きましたか。
6 ペルシャ帝国はどのようにして打ち倒されましたか。エジプトのアレクサンドリアはユダヤ人の生活の面でどのように一役買うようになりましたか。
6 パレスチナのイスラエル人にとって,西暦一世紀および西暦前一世紀はともに重大な時期でした。西暦前四世紀には,マケドニア人,アレクサンドロス大王が各地を征服したため,帰還したイスラエル人つまりユダヤ人に対する支配権は,ペルシャ皇帝の手からギリシャ帝国の手に渡っていました。西暦前332年,彼はパレスチナを支配しましたが,エルサレムには手をつけませんでした。次いで,ペルシャ皇帝を打ち破り,聖書の歴史上の第五番目のギリシャ世界強国を樹立しました。その同じ年,アレクサンドロスは征服されたエジプトにアレクサンドリアという都市を建設するよう命令を出しました。その都市は繁栄し,そこにユダヤ人の大集団が形成されました。それらの人たちは,アレクサンドロスが各地を征服した結果として今や国際的に知られ,また用いられるようになった共通ギリシャ語を話すようになりました。彼らはまた,聖書の知識をも欲しました。
7 ギリシャ語セプトゥアギンタ訳はどのようにして作り出されましたか。そのダニエル書 9章25,26節はどのように訳出されていますか。
7 それで,次の世紀中,つまり西暦前280年ごろ,霊感を受けて記された創世記からマラキ書までの聖書を自分たちの共通ギリシャ語に翻訳する仕事を開始しました。その翻訳は西暦前一世紀までには完成し,「ギリシャ語セプトゥアギンタ訳」と呼ばれるようになりました。ローマ帝国の治世の最初の何世紀かの時期でさえ共通ギリシャ語が広く用いられていたので,アレクサンドリアのそれらユダヤ人によるこの翻訳は国際的に広く用いることができました。その翻訳はヘブライ語の聖書本文をかなり忠実に反映させたもので,一例として,メシア(マーシアー)に関するダニエル書 9章25,26節(バグスターの英訳による)にはこう書かれています。
「汝知りて悟るべし。エルサレムを建つべしとの答えの命令の出づるより,キリストたる君の起こるまでに七週と六十二週あり。然して時は戻り,街と城壁とは建てられ,時は用い尽くされん。その六十二週の後,油そそがれし者は滅ぼされん。但し彼のうちには裁かるるところあらざるなり……」。
8 (イ)エルサレムはどのようにしてローマの支配下にはいり,また後日滅ぼされましたか。(ロ)ユダヤ人はどれほどの期間エルサレムに神殿を持たずに過ごしてきましたか。あるいは,神からの預言者を持たなくなったことを認めてきましたか。
8 西暦前一世紀にギリシャ世界強国がローマ世界強国の前に倒れた後でさえ,共通ギリシャ語は古代世界の国際語として存続しました。さて,エルサレムの支配権をめぐって争い合うマカベア家の一派が他の一派に敵してローマの援助を懇願したため,西暦前63年にローマのポンペイウス将軍が進攻してエルサレムを支配するに至り,パレスチナはローマの支配下に入りました。西暦前40年にはユダヤ人は再び王権を獲得しましたが,西暦前37年に,エサウつまりエドムの子孫であるヘロデ大王がエルサレムを攻略し,ローマにより任命された王として支配しました。西暦一世紀,つまり西暦66年,ユダヤ人は再びローマに反逆しましたが,西暦70年にはエルサレムおよびヘロデ大王の再建したその輝かしい神殿が滅ぼされ,彼らの一時的独立は終わりを告げました。それ以来,つまり19世紀余を経た今日まで,さらには西暦1948年にイスラエル共和国が樹立された後でさえ,ユダヤ人はエルサレムに神殿を持ってはいませんでした。そのうえ,現代のイスラエル人は,西暦前五世紀つまり2,400年前のマラキの時以来,神からの預言者を持ってはいないことを認めています。それは奇妙なことではありませんか。何が間違っていたのでしょうか。
聖書預言の成就は物事を説明する
9 西暦前537年にエルサレムが再興されたとき,ほかのどんな重要な町も復興されましたか。
9 西暦前537年に古代のエルサレムが再興された時,ユダの地の別の町つまりベツレヘムも復興されました。ネヘミヤ記 7章5-26節(新)のなかでエルサレムの総督は,西暦前537年に故国に戻ったユダヤ人の残りの者についてこう述べています。
「次いでわたしは最初に上って来た人たちの系図を記載した書を発見し,その中にこう記されているのを見つけた。
「これらは,バビロンの王ネブカデネザルが流刑にし,流刑にされた民の捕われから解かれて上り,後にエルサレムとユダに,おのおの自分の都市に戻った,この管轄地域の子らであり,ゼルバベル,エシュア[ギリシャ語セプトゥアギンタ,イエス],ネヘミヤ……とともにやって来た人たちである。イスラエルの民の人数は次のとおりである。……ベツレヘムとネトパの人たち,百八十八名……」。―また,エズラ 2:21をも見てください。
10 (イ)こうして,ベツレヘムはどんな預言の成就に役立つようになりましたか。(ロ)その町で起きる約束された誕生がみ使いたちによって発表されるのは信じ難い事柄とはいえません。どうしてですか。
10 こうして,ベツレヘムの町,つまり「ダビデの町」は再び存在するようになり,ミカ書 5章1節(リーサー; 5:2,ギリシャ語セプトゥアギンタ)のメシアにかかわる預言がそこで成就できるようになりました。カインとアベルの時以来,独立した人間の生涯はすべて誕生とともに始まるものであってみれば,ミカの預言は,再興されたベツレヘムにおけるある人の誕生を期待させるものとなりました。それは予告された誕生であるはずです。さて,アブラハムとサラの息子イサクが奇跡によって生まれることになったとき,神の三人のみ使いが彼らを訪れて,翌年に起こるその誕生を発表し,主役を勤めたみ使いは,「エホバにとってあまりにも法外なことがあろうか」と言いました。(創世 18:1-14,新)何世紀も後に,これまでの地上の人々のなかで身体上最強の人であったサムソンが,当時までうまず女だったあるイスラエル人の婦人から生まれることになったとき,神のみ使いは最初その未来の母親に,次いで彼女と子供のいないその夫の両方に現われて,イスラエルの傑出した裁き人の来たるべき誕生を発表しました。(士師 13:1-20)数ある人間の誕生のなかでも,メシアの奇跡的な誕生となる事件が天のみ使いたちによって人々に発表されたからといって,だれがそれを奇妙な,信じ難い事柄とみなせるでしょうか。
11 創世記 3章15節によれば,地上でメシアの役割を果たすべく選ばれる者は,どこから取られますか。
11 創世記 3章15節(新)のエホバの預言によれば,へびの頭を砕いて致命傷を負わせる「胤」は,神の天的な「女」,すなわち天の聖なる「真の神の子たち」で成る,神の妻のような組織から出ることになっていました。神は地上でメシアの役割を果たさせるべく,その組織から特定の霊の子を選ぶことができました。
12 今や,メシアの母親となる女性に関してどんな疑問が起きますか。また,その夫についてはどうですか。
12 その恵まれた子の名は何といいましたか。これは興味深い質問です! しかし,ユダの地のベツレヘムで人間の家族のなかに生まれることになっていた,その選ばれた子が誕生するには,人間の母親が必要でした。その女性はユダの部族の出であるとともに,ダビデ王の子孫であって,こうしてダビデの王国を継ぐ生得権を伝えることができなければなりませんでした。ユダのベツレヘムの町を出生地とするどんな女子がこうした要求にかないましたか。これまたダビデの王家の血筋を引く,彼女の夫となる人についてはどうですか。イサクよりもより大いなる人のその誕生はみ使いによって発表されましたか。その女性の個人的な友人が記した歴史的な記録は,こうした重大な疑問に答えています。
13,14 (イ)ユダヤ人のふさわしい処女はどこで見つかりましたか。(ロ)み使いガブリエルは彼女にあいさつを述べた後,何と言いましたか。
13 今や時は西暦前一世紀も終わりごろのこと,アンティパテル二世の子,ヘロデ大王はなおエルサレムの王でした。ダビデの血筋の人であるヘリは,ユダヤ州のベツレヘムから,北方のガリラヤ州のナザレに移っていました。その地で,ミリアム(ヘブライ語)あるいはギリシャ語でマリアム(またマリーア)と呼ばれる,彼の娘が婚期に達していました。彼女はダビデの王統の血筋を引く,ナザレの大工で,またベツレヘム出身のヨセフという人と婚約することになりました。そのために,処女として操を守らねばなりませんでした。ところが,結婚の行なわれる夜の訪れる何か月も前のこと,驚嘆すべき事が起こりました。ガブリエルであることを自ら明らかにしたひとりのみ使いが,マリーアもしくはマリアに現われ,あいさつを述べた後,こう言いました。
14 「マリアよ,恐れてはなりません。あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエス[ヘブライ語,エシュア]と呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:26-33。
15 (イ)ダビデに対して結ばれたどんな契約が,マリアの息子に成就することになっていましたか。(ロ)彼が「至高者の子」であることは何を意味しましたか。
15 み使いの述べた言葉によれば,マリアの息子はまさしく約束のメシアとなるはずでした。彼は,西暦前537年にゼルバベルとともにバビロンから戻った大祭司の名前と同じ名,すなわちエシュア,もしくはギリシャ語でイエスと呼ばれることになりました。また,マリアを通して誕生するゆえに,「その父ダビデ」の子と呼ばれるのです。したがって,エホバ神はダビデ王の座もしくは王座を彼にお与えになります。ダビデの場合のように彼の王としての支配は,「ヤコブの家」すなわち全イスラエルに及びます。その王としての支配はとこしえに続きますし,「彼の王国に終わりは」ないので,これはエホバ神が,永続する王国に関してダビデと結んだ契約をイエスにおいて成就なさることを意味しました。それで,イエスは後継者を必要とはしません。(サムエル後 7:11-16)しかしどうして,またなぜ彼を「至高者の子」と呼び得たのでしょうか。この方は至高の神つまりエホバではありませんが,その最高の方の子となるのです。しかし,どのようにしてですか。
16 そのようなことがどうして起こり得るかについて尋ねたマリアに,ガブリエルは何と答えましたか。
16 マリア自身このことについて尋ねて言いました。「どうしてそのようなことがあるのでしょうか。わたしは男と交わりを持っていませんのに」。ガブリエルは答えました。「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます。そして,見よ,あなたの親族エリサベツでさえ,あの老齢で子を宿し,不妊の女と言われる彼女が,今や六月めを迎えています。神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」― ルカ 1:34-37。
17 マリアの体内における奇跡的な受胎はいつ起こりましたか。
17 そこでマリアに宣言された事柄は,不可能な事であることが明らかになりましたか。このユダヤ人の処女は,それが至高の神にとって不可能な事とはならないということを信ずる点で今日のわたしたちの模範となっています。それで彼女はみ使いガブリエルにこう返答しました。「ご覧ください,エホバの奴隷女でございます! あなたの布告どおりのことがわたしの身になりますように」。(ルカ 1:38)確かに,マリアが彼女に対する神の意志を受け入れたとき,依然処女だった彼女の体内で受胎が起きました。聖霊がマリアに臨み,至高の神の力が彼女を覆ったのです。そのために,どのようにして奇跡的な受胎が起きたのでしょうか。
18,19 (イ)マリアの体内における受胎に際しては,背景を持たない全く新しい被造物が生じ始めたのではありません。なぜですか。(ロ)それは当然だれの子と呼ぶことができましたか。
18 この場合,人間の父によって起こされる普通の人の受胎の場合のように,生前の経験あるいは背景を全然持たない全く新しい生きた被造物が生み出されたのではありません。神の天的な「女」つまり神の女のような天の組織のことを考慮に入れなければなりませんでした。実際,その女から,創世記 3章15節(新)に示されている「胤」が来なければならなかったのです。それで,その女は自分の霊の子たちのひとりを地上でのその割当てのために,つまりその「胤」のかかとをへびによって砕かせるために供さねばなりませんでした。
19 これは,ユダヤ人の処女マリアが身ごもるのに,神の天の霊の子たちのひとりが遣わされて,マリアの体内の微小な卵子つまり卵細胞にもぐり込んで授精させねばならないという意味ではありませんでした。それは不合理な,ばかばかしい事です! むしろ,天の父である全能の神はその聖霊によって,ご自分の選ばれた天的な子の生命力を見えない霊界からマリアの体内の卵細胞に移し,授精を行なわせたのです。こうしてマリアは妊娠したので,その体内に宿した子は「聖なる者」でした。その子は確かに,み使いガブリエルが呼んだとおり,「至高者の子」でした。―ルカ 1:32。
20 (イ)神の天の組織のどの子が選ばれましたか。(ロ)彼はどのようにして,イザヤ書 53章10節を成就する効力を有する方となりましたか。
20 とはいえ,完全な人間の被造物として生まれるよう神により選ばれたその子とはだれのことでしたか。それはみ使いガブリエルではありませんでした。彼は肉体を備えた姿でマリアに現われて,彼女が母親になることを発表したみ使いだったからです。それはあるみ使いが預言者ダニエルに語りかけて,「あなたの民の君」「あなたの民の子らのために立っている大いなる君」と呼んだ者,すなわちミカエルであることを,聖書は確かに示唆しています。(ダニエル 10:21; 12:1,新)彼はイスラエル国民のために,監督を行なう君のようなみ使いとして働いていたので,西暦前十六世紀の昔,ホレブ山麓の燃えるとげのあるかん木のなかでモーセに姿を現わしたみ使いだったに違いありません。彼がみ使いの頭ミカエルと呼ばれているのももっともなことです。a 彼の生命力が,マリアを覆った全能の神の力によって彼女の体内の卵子に移されたことは,彼ミカエルが天から姿を消したことを意味しました。そして,ユダヤ人の処女マリアから人間として誕生することによって,一個の人間としての魂になることになったのです。こうして彼は,エホバの「苦しむしもべ」について次のように述べたイザヤ書 53章10節を成就する効力を有する方となりました。
「しかし,病によって彼を砕くのは,主に喜ばれることであった。彼の魂が自らを代償としてささげるかどうかを見るためであった。それは彼がそのすえを見,自分の日を長くするため,また主の目的が彼の手によって功を奏するためである」― ユダヤ出版。また,ズンツ訳をも見てください。
その奇跡的な誕生の目撃証人
21 マリアが妊娠していることはどのようにヨセフに説明されましたか。それから,どのような処置が取られましたか。
21 やがて,そのユダヤ人の処女の驚くべき妊娠は,ナザレの他の人たちに明らかになり,マリアの婚約者はそれを知って,ひどく動揺しました。彼女の妊娠を婚約者のせいにすることはできませんでした。当時のナザレの普通のユダヤ人の意見では,マリアが奇跡的に妊娠したことは疑問視されたでしょうし,モーセの律法を厳重に守るユダヤ人なら,ヨセフとの婚約を破棄した姦婦として彼女を石打ちによる死刑に定めたことでしょう。だれがマリアを助けに行き,彼女と出生前のその子を石打ちによる死から救うことができたでしょうか。だれが事情をヨセフに明らかにすることができたでしょうか。お聞きください。
「その母マリアがヨセフと婚約中であった時,ふたりが結ばれる前に,彼女が聖霊によって妊娠していることがわかった。しかし,その夫ヨセフは義にかなった人であり,また彼女をさらし者にすることを望まなかったので,ひそかに離婚しようとした。しかし,彼がこれらのことをよく考えたのち,見よ,エホバの使いが夢の中で彼に現われて,こう言った。『ダビデの子ヨセフよ,あなたの妻マリアを家に迎えることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその名をイエス[ヘブライ語,エシュア]としなければならない。彼は自分の民をその罪から救うからである』。
「このすべては,預言者を通じエホバによって語られたことが成就するため実際に起きたのである。こう言われた。『見よ,処女[ギリシャ語セプトゥアギンタによる]が妊娠して男の子を産み,彼らはその名をインマヌエルと呼ぶであろう』。これは,訳せば,『わたしたちとともに神はいます』という意味である。
「そこでヨセフは眠りからさめ,エホバの使いが指示したとおりに行ない,自分の妻を家に迎えた。しかし,彼女が子を産むまでは,彼女と交わりを持たなかった。そして彼は子の名をイエス[エシュア]とした」― マタイ 1:18-25。
22 (イ)ガブリエルはマリアに話したとき,メシアとなるその子に関するどんな特徴を強調しましたか。(ロ)み使いはヨセフに対して,マリアの子に関する他のどんな特徴を強調しましたか。
22 ガブリエルがマリアに告げたことと,夢の中でみ使いがヨセフに告げたこととを比べると,ガブリエルは,永久に続く王国のためにダビデと結ばれた契約を成就する,ダビデの家系の王としてのメシアの果たす役割を強調したのに対し,ヨセフに現われたみ使いは,祭司としての,つまり罪を負い,罪を除き去る者としてのメシアの役割を強調していたことがわかります。このみ使いはメシアにつける名前を強調しましたが,その名はヘブライ語で「エホバの救い」という意味を持っています。メシアは「自分の民をその罪から救う」という点で,ご自身の名にふさわしく行動なさるのです。これはダビデの子孫としてのメシアが「メルキゼデクのさまにしたがって,定めのない時まで(続く)祭司」になるということと合致します。―詩 110:1-4,新。
23 イエスの誕生がナザレで起きなかったのはどうしてですか。
23 その誕生は,ヨセフがマリアを迎えた家のあるナザレで起きましたか。霊感を受けた記録によれば,そうではなくて,ダビデの都市であるユダのベツレヘムで起きました。それはどうしてですか。ローマ皇帝の出した布告が,メシアの出生地に関するミカ書 5章2節の成就をもたらすことになったのです。ここにその記録を載せます。
「さてそのころ,人の住む全地に登録を命ずる布令がカエサル・アウグスツスから出た。(この最初の登録はクレニオがシリアの知事であった時に行なわれたものである。)それで,すべての人が登録をするため,それぞれ自分の都市に旅立った。もとよりヨセフも,ダビデの家また家族の一員であったので,ナザレを出て,ガリラヤからユダヤにはいり,ベツレヘムと呼ばれるダビデの都市に上った。約束どおり彼に嫁ぎ,今は身重になっていたマリアとともに登録をするためであった。彼らがそこにいる間に,彼女の出産の日が来た。そして彼女は自分の子,初子を産み,これを布の帯でくるんで,飼い葉おけの中に横たえた。泊まり部屋に彼らの場所はなかったからである」― ルカ 2:1-7。
24,25 イエスの誕生の大体の日付はどのようにして算定されますか。
24 その誕生の月日は記されてはいません。聖書には神の民の誕生日は一つも記されていません。
25 しかし,マリアの初子イエスが生まれたのは作り話の12月25日ではなく,また陰暦の月キスレウの25日に始まった冬のハヌカー(献納)の祭りの時分でもなかったと言える十分の理由があります。(ヨハネ 10:22)メシアの出現とその生涯の公の仕事およびメシアが断たれることに関するダニエル書 9章24-27節に基づく計算によれば,イエスはチスリの月の14日ごろに生まれました。それは一週間にわたるスッコース(仮庵,幕屋)の祭りの始まる前日でした。その祭りの期間中,ユダヤ人は屋外の仮庵に住み,羊飼いは原野にいて,夜間には羊の見張りをしました。(レビ 23:34-43。民数 29:12-38。申命 16:13-16)イエスは33年半生きて,西暦33年の過ぎ越しの日,つまり同年のニサン14日に亡くなりましたから,その誕生日は西暦前2年の秋の初めごろ,つまり同年のチスリ14日ごろとなります。
26 神のみ使いはイエスの誕生を知らせるため,だれに遣わされましたか。それに伴って,天ではどんな出来事が起こりましたか。
26 それは待望久しいメシアの誕生だっただけに,目撃証人なしに過ぎ去るままにするには,あまりにも重要な出来事でした。神はみ使いを遣わして,処女による奇跡的な誕生を知らせるよう取り計らわれました。しかし,だれに知らせるのですか。ほんの10㌔ほど離れた北方のエルサレムの王宮にいたヘロデ大王にですか。それとも,同大王によって任命された神殿の首長,大祭司ヨアザルに知らせるのですか。決してそうではありません。生まれたばかりの幼子イエスの安全を考えたエホバは,ベツレヘムの近くの原野でダビデの少年時代の仕事と同じ職業に従事していた人たちにみ使いを遣わされました。だれにでも見えるよう,いわゆる「ベツレヘムの星」を現われさせたのではありません。こう書かれています。
「またその同じ地方では,羊飼いたちが戸外に住んで,夜間に自分の群れの番をしていた。すると突然,エホバの使いが彼らのそばに立ち,エホバの栄光が彼らのまわりにきらめいた。そのため彼らは非常な恐れを感じた。しかしみ使いは彼らに言った,『恐れてはなりません。見よ,わたしはあなたがたに,民のすべてに大きな喜びとなる良いたよりを伝えているのです。きょう,ダビデの都市で,あなたがたに救い主,主なるキリストが生まれたからです。そして,これがあなたがたへのしるしです。あなたがたは,幼児が布の帯にくるまり,飼い葉おけの中に横たわっているのを見つけるでしょう』。すると突然,大ぜいの天軍がそのみ使いとともになり,神を賛美してこう言った。『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの間にあるように』」― ルカ 2:8-14。
27 み使いは,生まれたばかりのイエスにどんな表現を適用しましたか。それはどうして適切でしたか。
27 み使いはベツレヘムのとある飼い葉おけのなかに横たわっている,生まれたばかりのその赤子を「救い主」と呼びましたが,これはその子の名が「エホバの救い」という意味のエシュアあるいはイエスと呼ばれた理由の一つでした。この赤子はまた,エホバの油そそがれた者,つまりメシアあるいはキリスト(ギリシャ語),さらには「主」,つまりダビデ王さえ霊感のもとに預言的な意味をこめて「わたしの主」と呼んだ方になることになっていました。―詩 110:1,新。
28 その時,だれに栄光が帰せられるのは当然でしたか。その平和,そしてまた,「大きな喜びとなる良いたより」はだれのためのものでしたか。
28 ただ全能の神だけが,メシアとしてのそのような割当てを持つ子供を奇跡によって供することができました。それで,み使いの「大ぜいの天軍」が現われて共に神の栄光をたたえたのはどんなにか驚嘆すべき事だったでしょう。数ある人間の誕生のなかでもこの奇跡的誕生は,神によしとされる人々に対する神の善意の,愛ある表現でした。神の善意を得るそのような人々は,心と思いの平安にあずかることができました。しかし,この誕生はなお「民のすべて」に「大きな喜び」をもたらす理由となるのです。その誕生に関するみ使いの報告が天のみならず,地上の人々にとっても良いたよりだったのは少しも不思議ではありません!
29 羊飼いたちはどのようにしてメシアの誕生の目撃証人になりましたか。
29 羊飼いたちは見分ける「しるし」をみ使いから知らされたので,今やメシアの誕生の目撃証人になることができました。
「それで,み使いたちが彼らを離れて天に行ってから,羊飼いたちは互いにこう言いはじめた。『ぜひベツレヘムまで行って,エホバがわたしたちに知らせてくださったこのできごとを見てこようではないか』。そこで彼らは急いで行き,マリア,それにヨセフ,そして飼い葉おけの中に横たわっている幼児を見つけた。彼らはそれを見ると,この幼子について自分たちに語られていた事がらを知らせた。すると,聞く者はみな,羊飼いたちの話す事がらに驚嘆した。しかしマリアは,心の中であれこれと結論を下しつつ,こうして語られる事がらすべてを記憶にとどめていった。それから羊飼いたちは,自分たちが聞いたり見たりした事すべてについて神の栄光をたたえ,かつ賛美しながら戻って行った。自分たちに告げられていたとおりであったのである」― ルカ 2:15-20。
30 この信頼のおける「大きな喜びとなる良いたより」を退けるなら,わたしたちはどのように自ら影響をこうむりますか。
30 そのような訳で,処女によるこの奇跡的誕生は神話などではありません。その事は天のみ使いたちによって証言され,人間の目撃証人によって確認されたのです。医師ルカは個人的調査を行ない,この重要な情報をわたしたちのために収集しました。(ルカ 1:1-4。コロサイ 4:14)信頼のおけるこの証言を受け入れないとすれば,自らを損なうことになるだけです。たかぶって,この「大きな喜びとなる良いたより」を退けるなら,自らを不幸に陥れることになるに過ぎません。
31 ヨセフはいつイエスを養子として迎え,次いでその子の母とともに清めを受けましたか。
31 その赤子は,モーセの律法のもとで生まれた他のユダヤ人のすべての子供と同様,誕生後八日目に肉に割礼を施されました。(ルカ 2:21。ガラテア 4:4,5)その時,ヨセフはイエスを養子として迎えることを示しました。不義の子を養子に迎えたのではなく,淫行による子だとする偽りの非難を受けないようイエスを守ったのです。イエスの誕生後四十日目に,ヨセフとマリアはその初子を連れてエルサレムに上り,神殿でその子をエホバに捧げ,またその養父と妻は自分たちのために清めの犠牲をささげてもらいました。(ルカ 2:22-24。レビ 12:1-8)このことについてはヘロデ王は何も知りませんでした。
32 (イ)マリアはほかにも息子や娘たちをもうけましたか。(ロ)養子となったイエスは今や,中断していたダビデの王国に対するどんな権利を持ちましたか。
32 やがてマリアは夫ヨセフと関係を持ち,ヨセフのために子供を生みました。記録によれば,ヨセフはイエスの誕生後少なくとも十二年間マリアと共に暮らし,こうしてマリアによって子供たちをもうけることができました。記録は四人の息子つまりヤコブ,ヨセフ,シモンおよびユダ,それにマリアの何人かの娘のことを述べていますが,それらの人たちはマリアの初子イエスの異父兄弟姉妹となりました。(ルカ 2:41-52。マタイ 13:53-56。マルコ 6:1-3。使徒 1:14)しかし,ヨセフはマリアの初子を自分の養子にしたので,父祖ダビデの王国を継ぐ法的権利をイエスに渡しました。イエスはまた,神の奇跡によってマリアの生来の初子となったので,当時中断していたダビデの王国を継ぐ生得権を継承しました。イエスの養父ヨセフの系図を記した歴史家マタイは,「アブラハムの子,ダビデの子,イエス・キリスト[ヘブライ語,メシア]についての歴史の書」と述べて,イエスをメシアと呼んでいます。―マタイ 1:1。マリアの系図を記したルカ 3:23-38をも見てください。
33,34 王ヘロデはどうしてメシアを殺すことに失敗しましたか。イエスはなぜ「ナザレ人」と呼ばれるようになりましたか。
33 ヘロデ王が死ぬ少し前に起きたイエスの誕生は,エルサレムのそのエドム人の支配者にとっては良いたよりではありませんでした。彼はエホバのみ使いやベツレヘムの羊飼いたちによってではなく,モーセの律法下で非とされていた悪霊の影響を受けた,東方からの占星術者によってイエスの誕生に注目させられました。―申命 18:9-14。イザヤ 47:12-14。ダニエル 2:27; 4:7; 5:7。
34 それらの占星術者は,「星」ではなかろうかと考えた,その光輝くものに導かれてベツレヘムに,そしてイエスが収容されていた所へ行く前に,まず最初ヘロデの宮廷でミカ書 5章2節の預言を指摘してもらわねばなりませんでした。神は夢のなかで,残忍なヘロデのもとに戻って報告してはならないとの警告を彼らにお与えになりました。メシアを殺す企てを潰えさせまいとしたヘロデは,ベツレヘムの二歳およびそれ以下の男の子を殺させましたが,イエスは難を免れました。み使いの警告で,ヨセフとマリアはイエスを伴ってエジプトに下っていたのです。ヘロデは,ベツレヘムを含め,ユダヤの王として息子アケラオを後に残して死にました。そこでイエスは,ベツレヘムにではなく,北のガリラヤのナザレに連れて行かれ,そこで成長しました。ベツレヘムのイエスではなく,ナザレのイエスと呼ばれるようになったのはそのためです。―マタイ 2:1-23; 21:11。
メシアを紹介する先駆者
35 メシアはだれによって紹介されることになっていましたか。その人は何を宣べ伝えましたか。
35 マラキ書 3章1節の預言によれば,メシアはある先駆者によってイスラエル国民に紹介されることになっていました。(リーサー,ユダヤ出版)その先駆者は,年老いた祭司ゼカリヤとその年取った妻エリサベツに授けられる子をヨハネと呼ぶよう,み使いから言われたその息子であることが明らかになりました。(ルカ 1:5-25,57-80)ティベリウス・カエサルの治世の第十五年に当たる西暦29年の初春,「神の宣言が荒野においてゼカリヤの子ヨハネに臨んだ。それで彼はヨルダンの周辺の全地方に来て,罪のゆるしのための悔い改めの象徴としてのバプテスマを宣べ伝えた」のです。(ルカ 3:1-3)ヨハネは,彼の話を聞きにやって来た人たちに,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と宣べ伝えました。(マタイ 3:1,2)その伝道者は,「バプテスマを施す人ヨハネ」と呼ばれました。―マルコ 1:1-4。
36 イエスはいつ,またなぜバプテスマを受けるためにヨハネのもとに行きましたか。それがよしとされたことを示す,天からのどんな証拠が与えられましたか。
36 ヨハネが宣べ伝えてバプテスマを施すわざを約六か月行なうのを見守った後,イエスは行動を起こしました。ご自分がその「天の王国」の地上の代表者になることを認識しておられたのです。その年,つまり西暦29年の秋にイエスは三十歳になりました。そして,ナザレでしていた大工の仕事をやめ,ご自分の母と母の他の息子や娘たちを同地に残して,彼の先駆者ヨハネを捜しに出かけました。イエスは詩篇 40篇6-8節に記されているダビデ王の預言的な言葉を考えておられたのです。(ヘブライ 10:1-10)それで,罪の許しを求める悔い改めの象徴としてではなく,将来にかかわる,ご自分に対する神の意志を行なうべくご自身を捧げることの象徴としてバプテスマを受けるために行かれたのです。神はイエスを受け入れたことをどのように示されましたか。こう書かれています。
「その時,イエスがガリラヤからヨルダンに,ヨハネのところに来られたが,彼からバプテスマを受けるためであった。しかし,ヨハネは彼をとどめようとして言った,『わたくしはあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたがわたくしのもとにおいでになるのですか』。イエスは答えて言われた,『このたびはそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなうことをすべて果たすのはふさわしいことなのです』。そこでヨハネはとどめるのをやめた。バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,イエスは,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。見よ,さらに天からの声があって,こう言った。『これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した』」― マタイ 3:13-17。
37 ヨハネは,イエスがだれであるかについて弟子たちにどんな証言を行ないましたか。ヨハネは,イエスが犠牲にされる人であることをどのように指摘しましたか。
37 バプテスマを施す人ヨハネはその出来事を見,天の父の声を聞きました。後日,彼は,神が天から仰せになるのを見聞きした時のことについて弟子たちに証しし,こう証言しました。「そしてわたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると証ししたのです」。ヨハネはまた,バプテスマを受けたイエスを,人類の救いのために犠牲にされる方として指摘してこう言いました。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」(ヨハネ 1:29-34)バプテスマを施す人ヨハネの証言は,今日わたしたちが受け入れて信ずるに値するものではありませんか。確かに値します!
38 (イ)神の霊がイエスの上に下ったことは,イエスにとって何を意味しましたか。(ロ)その時,何「週年」が終わりましたか。その後の週のうちに何が起こることになっていましたか。
38 バプテスマを受けたイエスの上にそのようにして神の聖霊が下ったことは,単に彼がそれ以後,天の霊の命を回復される見込みを持つ,神の霊的な子になったという以上のことを意味しています。神の霊によって油そそがれたということをも意味しました。今や事実上,油そそがれた者,メシアつまりギリシャ語でいうキリストになられたのです。この時,つまり西暦29年に油そそがれた者,メシアつまりキリストが生み出されることにより,七週(年)と六十二週(年)(合計483年)が終わりました。(ダニエル 9:25,新)今や第七十週(年)が始まり,その半ばの時点でメシアはご自身を人間の犠牲としてささげ,神の子羊としての犠牲の死を遂げて「断たれ」ることにより,「犠牲と供進の供え物をやめさせる」ことになりました。―ダニエル 9:26,27,新。
39 イエス・キリストはどこで,またどんな機会に,イザヤ書 61章1-3節がご自分のうちに成就していることに注意を引きましたか。
39 それにまた,メシアがエホバの霊で油そそがれることに関するイザヤ書 61章1-3節の預言も成就しました。かつてダビデは単なる植物油で油そそがれましたが,ダビデの主であるみ子はこのたびは聖霊で油そそがれました。翌年,再び大工の仕事をするためではなく,会堂で宣べ伝えるためナザレに戻ったイエスは,ご自分のうちにイザヤの預言が成就したことに注意を引きました。ルカ 4章16-21節の記録はこう述べています。
「そこで預言者イザヤの巻き物が彼に手渡された。彼は巻き物を開き,こう書いてある所を見いだされた。『エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそぎ,捕われ人に釈放を,盲人に視力の回復を宣べ伝え,打ちひしがれた者を解き放して去らせ,エホバの受け入れられる年を宣べ伝えさせるために,わたしを遣わしてくださったからである』。そうして彼は巻き物を巻き,それを付き添いの者に返して,腰を下ろされた。すると,会堂にいたすべての人の目がじっと彼に注がれた。その時,彼はこう言い始められた。『あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています』」。
40,41 (イ)サタンはどうして,油そそがれたイエスに特に忠誠を破らせたいと考えましたか。(ロ)イエスに対する誘惑者の試みは結局どうなりましたか。
40 大いなるへび,サタン悪魔は,この油そそがれたイエスが神の天の「女」のメシアなる「胤」であることを承知していました。今やここに,数ある「真の神の子たち」のなかの,その特別な方が存在したので,大いなるへびはその方に忠誠を破らせて,神に最大の恥辱をもたらしたいと考えました。そこで,ユダヤの荒野にいたイエスに近づきました。イエスはバプテスマを受けてエホバの霊で油そそがれた後,その荒野で四十日間過ごすため,直ちにそこへ行かれたのです。大いなるへびはイエスを誘惑しようとしました。石を奇跡的にパンに変えたり,エルサレムの神殿の胸壁から身を投げて,目に見えないみ使いたちの手でかかえてもらったりして,イエスが神の子であることを悪魔に対して実際に証明させようとしたのです。
41 ついにその誘惑者は,三度目に,それも必死になって,イエスからのただ一度の崇拝行為と引き替えに「世のすべての王国とその栄光」をイエスに与えようと提案しました。三度目にもイエスは書き記された神のみ言葉を引用して,「『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」と言われました。―マタイ 4:1-10。
42 この点でのイエスの経験は,モーセがホレブ山で神のみ使いと共に四十日間過ごした経験とどのように対応するものでしたか。
42 み使いたちは,いと高き神に対するメシアの忠誠がこのようにして試みられるのを見守っていました。それで今や,悪魔が敗北を喫して去ると,「見よ,み使いたちが来て彼に仕えはじめ」ました。(マタイ 4:11。マルコ 1:13)遠い昔,モーセはシナイの荒野のホレブ山上でエホバのみ使いと共に四十日間過ごしましたが,今やユダヤの荒野で四十日間断食と黙想を行なったメシアなるイエスは,イスラエルの地で確信をいだいて生涯の公の仕事に取りかかる用意ができたのです。―出エジプト 24:18。
[脚注]
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栄光を受けるメシア人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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12章
栄光を受けるメシア
1 メシアは栄光を受けるに先立って何に遭遇しなければならないかに関し,エホバは預言者イザヤ(53:7-12)に霊感を与えて何と述べさせましたか。
栄光を受けるには,その前に苦しまなければなりません。神のメシアなる「しもべ」は,それを経験することになっていました。それがメシアに関する神の目的であることを予告するに当たり,神は西暦前八世紀の預言者イザヤに霊感を与えて次のように述べさせました。
「彼は虐げられたが,自らへりくだり,口を開かなかった。ほふる者のもとに引いてゆかれる子羊のように,毛を刈る者の前で黙っている羊のように,彼は口を開かなかった。……それゆえ,わたしは,大いなる者たちの間で彼に分け前を分け与える。彼は力ある者たちとともに分捕り物を分け合う。彼は死に至るまで自分の魂をさらけ出し,背く者たちとともに数えられたからである。しかも彼は多くの者の罪を負い,背く者たちのために取りなしをした」― イザヤ 53:7-12,ユダヤ出版。使徒 8:32-35。
2 ヨハネが投獄されたことを聞いた後,イエスはどんな音信を伝え始めましたか。
2 メシアの先駆者さえ神の律法に対する忠実さゆえに苦しまざるを得ませんでした。バプテスマを受けた数多くの弟子をイエスのもとに導いた彼は,その後ヘロデ大王の子であるガリラヤの地区支配者ヘロデ・アンテパスによって投獄され,後日,ヘロデの誕生日の祝いのさい,打首にされました。(マタイ 14:1-12)イエスはヨハネが逮捕・投獄されたことを聞いた後,ヨハネの音信を伝え始めました。「その時からイエスは伝道を開始し,『あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです』と言いはじめられた」― マタイ 4:12-17。
3 モーセは何になることを選んだために苦しみましたか。イエスの経験はモーセのそれにどのように対応するはずでしたか。
3 バプテスマを施す人ヨハネと同様,イエスは,多くのユダヤ人がその再興を望んでいたマカベア家の地上の王国を宣べ伝えたのではありません。天の王国,つまり昔のダビデ王と関係のあった,神の王国を宣べ伝えていたのです。その苦しみの点では,預言者モーセと異なってはいませんでした。モーセの強い信仰に関しては,ヘブライ 11章25,26節にこう記されています。「罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民とともに虐待されることを選びました。キリストの非難をエジプトの宝にまさる富とみなしたからです。彼は報いをいっしんに見つめたのです」。メシアはモーセのような預言者になることになっていましたし,またモーセはエホバの預言者として任命される(油そそがれる)前とその後に苦しみに遭ったので,メシアなるイエスが苦しむのももっともなことでした。実際,その苦しみはモーセのそれよりも大きなものであるはずでした。―申命 18:15。
4 モーセはだれの名においてその民のもとに来ましたか。これはイエス・キリストの場合とどのように対応しますか。
4 モーセは神の民をエジプトにおける奴隷の境遇から導き出すため,全能の神エホバの名において同地に送り返されました。(出エジプト 3:13-15; 5:22,23)モーセが反対に遭ったのと同様,彼に対応する一世紀の人物も反対に遭いました。神から遣わされたメシアとしてのイエスを信じなかった人たちに向かって彼はこう言いました。
「わたしが父の名において来ているのに,あなたがたはわたしを迎えません。だれかほかの者が自らの名において到来すれば,あなたがたはその者を迎えるでしょう。あなたがたは互いどうしからの栄光を受け入れて,唯一の神からの栄光を求めていないのですから,どうして信じることができるでしょうか。わたしがあなたがたのことを父に訴えると考えてはなりません。あなたがたを訴える者がいます。モーセ,すなわちあなたがたが望みを置いている者です。実のところ,あなたがたがほんとうにモーセを信じているなら,わたしを信じるはずです。その者はわたしについて書いたからです。しかし,その者の書いたものを信じないのであれば,どうしてわたしの言うことを信じるでしょうか」― ヨハネ 5:43-47。
5 ユダヤ人はイエスが天の父の名において来たことを信ずべきでした。なぜですか。一群の人々はいつそのような信仰を表明しましたか。
5 メシアとしてのイエスを受け入れずに,彼に向かって,「いつまであなたは,わたしたちの魂をどっちつかずにしておくのですか。あなたがキリスト[マーシアー]であれば,わたしたちにはっきり言ってください」と言った人たちにイエスがどう答えたかに注目してみましょう。イエスは,ご自身の代わりにメシアとしてのご自分のわざに語らせてほしいと彼らに願って,こう言われました。「わたしはあなたがたに言いましたが,あなたがたは信じません。わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします。しかしあなたがたは信じません。わたしの羊ではないからです。わたしの羊はわたしの声を聴き,わたしは彼らを知り,彼らはわたしに従います」。(ヨハネ 10:24-27)しかし,一部のユダヤ人は,イエスが天の父の名において来られたことを信じました。それで,西暦33年の過ぎ越しの五日前,イエスがゼカリヤ書 9章9節の預言の成就としてろ馬にまたがってエルサレムに入場したとき,一群のそれらユダヤ人は歓呼して彼を迎え,大声でこう叫びました。「救いたまえ! エホバの名においてきたる者,イスラエルの王こそ祝福された者!」―ヨハネ 12:1,12,13。マタイ 21:4-9。マルコ 11:7-11。ルカ 19:35-38。詩 118:26。
6 イエスはだれの名において忠実な使徒たちを見守りましたか。
6 最後に,過ぎ越しの夜,ご自分の忠実な弟子たち,つまり使徒たちと共に過ぎ越しを祝ったイエスはエホバに祈って,こう言われました。
「わたしは,あなたが世から与えてくださった人びとにみ名を明らかに示しました。彼らはあなたのものであったのを,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみことばを守りました。……聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名ために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。わたしは,彼らとともにいた時,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました」― ヨハネ 17:6,11,12。
それで,エホバの名において来たという点で,イエスはモーセのような預言者でした。
また,奇跡と預言によっても見分けられる
7 モーセはなぜエジプト人とイスラエル人の前で数々のしるしを行ないましたか。そのしるしは,メシアの行なったそれと,数の点でどのように比べられますか。
7 預言者モーセは,イスラエル人とエジプト人の両方に対して,自分が生ける唯一真の神の名において来たことを数多くの奇跡によって証明しました。それらの奇跡は,エホバがモーセを遣わしたことを証明する,神から与えられた「しるし」でした。(出エジプト 4:1-30; 7:1-3; 8:22,23; 10:1,2。申命 34:10,11)古代のイスラエル人は「天からのしるし」をモーセに要求したりはしませんでした。したがって,西暦一世紀のイスラエル人がそのようなしるしをイエスに求めたのは不当なことでした。(マタイ 16:1-4)メシアの資格を証明するものとしてイエスの行なったしるしは,モーセの行なった奇跡的なしるしを数の面ではるかにしのいだと言っても,信じがたいことではありません。
8 イエスはご自分の「しるし」の始めとして何を行ないましたか。数々の「しるし」は弟子たちやニコデモにどんな影響を及ぼしましたか。
8 イエスはモーセのように水を血に変えたりはしませんでしたが,ガリラヤのカナで開かれた婚宴で手持ちのぶどう酒が尽きたとき,イエスは確かに水を最良のぶどう酒に変えました。ヨハネ 2章11節によれば,それは始まりに過ぎませんでした。こう記されています。「イエスはこれを,自分のしるしの始めとしてガリラヤのカナで行ない,こうしてご自分の栄光を明らかに示された。そして,弟子たちは彼に信仰を持った」。西暦30年の過ぎ越しに関しては記録はこう述べています。「過ぎ越しの時,その祭りのさい彼がエルサレムにいたあいだに,たくさんの人が彼の行なうしるしを見て,その名に信仰を持った」。(ヨハネ 2:23)例えば,ユダヤ人の一支配者で,エルサレム・サンヘドリンの一員だったパリサイ人ニコデモは夜,イエスを訪ねて,こう言いました。「ラビ,わたしたちは,あなたが教師として神のもとから来られたことを知っております。神がともにおられないかぎり,あなたがなさるこうしたしるしをできる者はいないからです」― ヨハネ 3:1,2; 7:50,51; 19:39,40。
9 イエスの奇跡はモーセのそれと,種類の点でどのように比べられますか。
9 モーセはらい病を癒しましたか。イエスはイスラエルの地で多数のらい病患者を癒しました。モーセはその民を救うため紅海の水を分けましたか。イエスはガリラヤの海の上を歩き,危険なあらしに際して水を静めました。イスラエル人は四十年のあいだ天からのマナを食べて荒野で生活しましたが,後に死にました。イエスはご自身の人間性を犠牲にして天からのマナを備えました。信仰によってそれを食べる人たちすべてがいつまでも生きるためです。(ヨハネ 6:48-51)モーセは,イエスが癒したような病気や疾患のすべてを癒したり,だれかを死人のなかからよみがえらせたりしたことは一度もありませんでした。イエスは預言者エリヤやエリシャが行なったよりも多くの人を死人のなかからよみがえらせました。そのうちの一人,ベタニヤのラザロは,死んで四日間も墓に入れられていたのです。(ヨハネ 11:1-45; 12:1-9)イエスの敵でさえ,彼が数多くのしるしを行なったことを認めざるを得ませんでした。というのは,彼らはこう述べたからです。「この人が多くのしるしを行なうのだが,われわれはどうすべきだろうか。彼をこのままほっておけば,みんなが彼に信仰を持つだろう。そして,ローマ人たちがやって来て,われわれの場所も国民も取り去ってしまうことだろう」― ヨハネ 11:46-48; 12:37。
10 ペテロは,ペンテコステのおりにエルサレムでユダヤ人に対して,またカエサレアでは異邦人に対して,イエスの奇跡についてどのように証言しましたか。
10 それで,使徒ペテロが西暦33年のシャブオス(週)の祭りの日にさいして何千人ものユダヤ人に向かって次のように言い得たのは,大げさなことではありませんでした。「イスラエルの皆さん,このことばを聞いてください。ナザレ人イエス,それは,あなたがたも知るとおり,神がその人を通してあなたがたの中で行なわれた強力な業と異兆としるしにより,神によってあなたがたに公に示された人です」。(使徒 2:22)何年か後,この同じペテロはそのことを,カエサレアで,ユダヤ人に好意をいだいていた何人かの関心のある人々に述べて,こう言いました。
「あなたがたは,ヨハネの宣べ伝えたバプテスマののちにガリラヤから始まり,ユダヤ全体にわたって話題となった事がらを知っています。すなわち,ナザレから来たイエスのことで,神がどのように聖霊と力をもって彼に油そそがれたかです。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです。そしてわたしたちは,彼がユダヤ人の土地で,またエルサレムで行なったすべての事がらの証人です」― 使徒 10:37-39。
11,12 (イ)イエスは,預言者としてのモーセにどのように似ていますか。(ロ)イエスのたいへん広範な預言の成就についてはどうですか。
11 モーセは預言者でしたか。確かにそのとおりです! それで,メシアなるイエスもそうでした。彼は数多くの預言的なたとえ話や例えを話されました。彼はご自分の使徒ユダに裏切られること,ご自分の死がどのようにして,まただれによってもたらされるか,さらに死後三日目によみがえらされることについて予告されました。また,西暦70年にローマ人の手でもたらされようとしていたエルサレムの滅びについても予告されました。その最も広範な預言は,マタイ 24および25章,マルコ 13章そしてルカ 21章に保存されている記述中に記されている預言です。この預言はエルサレムとその神殿の滅びはいつ起きるか,またメシアとしてのイエスの再来と「臨在」(パルーシア)の「しるし」,および「事物の体制の終結」のそれは何かに関する弟子たちの質問に答えるものでした。
12 この預言の正確さを示す証拠として,その特色を成す種々の事柄が当時の世代中に成就しました。しかも,さらに注目すべきことに,それに対応する著しい事柄とその詳細は,西暦1914年以来のわたしたちの世代に成就しており,その年以来,わたしたちは戦争,食糧不足,地震,疫病,イエスの追随者の迫害,世界的な苦悩を経験してきましたし,前途には空前の「大患難」を控えているのです。―マタイ 24:21。
13 自分のことを予告し,またわが身に成就する預言を述べるという点では,イエスはモーセとどのように比べられますか。
13 預言者モーセは,自分のことを予告し,自分自身に成就する預言を述べたことはありません。しかし,創世記からマラキ書までのヘブライ語聖書全巻には,イエスの誕生から死および復活に至るまでその身の上に成就して,イエスがまさしくメシアであること,つまり大いなるへび,悪魔サタンによって「かかとを」砕かれようとしている「胤」であることを証明する何百もの預言があります。イエスご自身,神により死人のなかからよみがえらされた後,弟子たちの注意をそのことに向けさせました。ルカ 24章25-48節はこう述べています。
「するとイエスは彼らに言われた,『ああ,無分別で,預言者たちの語ったすべてのことを信じるのに心の鈍い者たちよ。キリスト[マーシアー]はこうした苦しみを経て自分の栄光に入ることが必要だったのではありませんか』。そして,モーセとすべての預言者たちから始めて,聖書全巻にある,ご自分に関連した事がらを彼らに説き明かされた。
「それから彼らにこう言われた。『まだあなたがたとともにいた時に,わたしが話したことばはこうでした。つまり,モーセの律法の中,そして預言者たちと詩編の中に,わたしについて書いてあることはみな必ず成就するということです』。そして,聖書の意味をつかむよう彼らの思いを十分に開いてから,こう言われた。『こう書いてあります。すなわち,キリスト[マーシアー]は苦しみを受け,三日めに死人の中からよみがえり,その名によって罪のゆるしのための悔い改めがあらゆる国民の中で宣べ伝えられる ― エルサレムから始めて,あなたがたはこれらの事の証人となるのです』」。
14 モーセはイスラエルに臨むのろいや,犯罪者を神にのろわれた者とする事柄について何と書きましたか。それはだれを考えに入れたものでしたか。
14 レビ記 26章および申命記 28章15-68節にモーセは,エホバ神との律法契約を履行しない場合イスラエル国民に臨むのろいのことばとのろいをすべて書き留め,またこう書き記しました。
「ある人のうちに死刑に値する罪が生じて,その人が殺され,あなたがその人を杭に掛けた場合,その死体を夜通し杭につけておいてはならない。その日のうちにどうしてもその人を葬るべきである。掛けられた者は神にのろわれたものだからである。あなたの神エホバが相続財産としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない」― 申命 21:22,23,新。
この律法は明らかに神がご自分のメシアのことを念頭においてお与えになったものです。どうしてですか。神との律法契約を破ったためにもたらされるのろいからイスラエル国民が救われるには,メシアがイスラエルに代わってのろわれた者として杭の上で死ななければならなかったからです。
死に遭遇し,次いで栄光を受ける
15 西暦33年の過ぎ越しの日に,神の子羊を非ユダヤ人の手で処刑させるため,どんなことが行なわれましたか。
15 西暦33年のニサン14日の過ぎ越しの日に,過ぎ越しの子羊が殺され,イエスご自身の使徒たちも食べることができるよう,整えられました。(マタイ 26:1-30。マルコ 14:1-26。ルカ 22:1-39)しかし,バプテストのヨハネが「世の罪を取り去る,神の子羊」と呼んだ方についてはどうですか。(ヨハネ 1:29,36)過ぎ越しの夕食の後,その夜遅く,イエスは使徒ユダ・イスカリオテに裏切られ,武装した一群の人々によって拘引され,エルサレムの宗教指導者たちに引き渡されました。そして,サンヘドリン法廷で裁判を受け,律法に関する宗教指導者たちの解釈にしたがって死刑の宣告を受けました。死刑執行の点では権限に限界かあることを考えたその司法部は,有罪とされたイエスを治安攪乱者ならびにゆゆしい扇動者として異邦人知事,ポンテオ・ピラトに引き渡しました。告発者たちは,イエスを杭に掛けて殺させることを執ように要求しました。
16 ピラトの前でイエスは,王国と真理について何と言われましたか。
16 ポンテオ・ピラトの前での審問のさい,イエスは,ご自分の王国は天のものであって,中東のエルサレムに建てられる地上のものではないことを指摘されました。「あなたはユダヤ人の王なのか」とピラトに問われたイエスは,こう答えました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。この答えを聞くや,ピラトは尋ねました。「それでは,あなたは王なのだな」。イエスは答えました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています。真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」― ヨハネ 18:33-37。
17 次いで,イエスはどのように「違犯者たちとともに数えられ」ましたか。彼は違犯者のひとりにどんな希望を告げましたか。
17 ピラトは不本意ながら,イエスを杭に掛けるようにとの告発者たちの要求に屈しました。処刑の場所はエルサレムの城壁の外のゴルゴタ(「どくろの場所」)つまりカルバリとなりました。イエスは二人の悪行者つまり「違犯者」の間で杭に掛けられました。モーセの律法に精通していた人たちは,イエスを「神にのろわれた者」として見上げました。こうして,『違犯者たちとともに数えられた』とはいえ,イエスは将来のご自分のメシアの政府の治める,人類のための地上のパラダイスの希望をなおも考えておられました。ですから,イエスが潔白な人で,罪人のための身代わりのやぎであることに気づいた一人の違犯者がイエスに向かって,「イエスよ,あなたがご自分の王国にはいられる時,わたしのことを思い出してください」と言ったところ,イエスはこう答えました。「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」― ルカ 23:39-43; 22:37。
18 イエスはどのようにしてご自分の墓を邪悪な者たち,また富んだ者たちとともにしましたか。シェオールではどんな状態のもとにありましたか。
18 イエスはその過ぎ越しの日の午後の半ばごろ死にました。「彼は死に至るまで自分の魂をさらけ出し」た,つまり「死に至るまでも自分の魂を注ぎ出し」たのです。(イザヤ 53:12,ユダヤ出版; 新)そして,申命記 21章22,23節にしたがって,まさしくその日の午後に葬られました。遺体は,ある富んだ人の,新たに切り開かれた墓に置かれました。こうして,次の言葉のとおりになりました。「彼は自分の埋葬の場所を邪悪な者たちとともにし,死にさいしては富裕階級とともにする。彼は暴虐を行なわず,その口に欺きがなかったにもかかわらず」。(イザヤ 53:9,新)こうして,イエスの魂も人類共通の墓であるシェオールに行きました。その墓では,死んだイエスにも次の言葉が当てはまりました。「死ねる者は何事をも知らず……汝の行かんところのシェオールには,業も,計略も,知識も,知恵もあることな(し)」― 伝道 9:5,10,ア標; 改標。
19 エホバはいつ,またどのようにして詩篇 16篇10節のご自分の霊感による預言を成就されましたか。イエスのありかに関してどんな疑問が生じますか。
19 しかし,ダビデ王は預言的な意味をこめてこう書きました。「そは汝わが魂をシェオールに捨て給はず。汝の聖なる者に腐れを見さしめ給はざるべければなり。汝命の道を我に示し給はん。汝の御前には満ち足れる喜びあり。汝の右にはもろもろの楽しみとこしへにあり」。(詩 16:10,11,ア標; ア改)全能の神エホバはご自分の霊感によるこの言葉にたがわず,三日目のニサン16日にメシアなるイエスをよみがえらせられました。その日,神殿では大祭司カヤファが,大麦の収穫の「初穂の束」をエホバにささげました。(レビ 23:9-14,新。コリント第一 15:20,23)イエスが置かれた墓は確かにからでしたが,弟子たちはどうして彼をどこにも見いだせなかったのでしょうか。復活後の四十日間,イエスはご自分が死人のなかから生き返ったことを証明するため,突然弟子たちに現われては,またこつ然と姿を消されたのはどうしてでしたか。―使徒 1:1-3。ヨハネ 20:1-31。マタイ 28:1-18。
20 ペテロはイエスの復活をどう説明していますか。パウロは,それに対応するイエスの弟子たちの復活をどのように述べていますか。
20 復活させられたイエスは一度個人的に使徒ペテロに現われましたが,そのペテロは,古代の預言者の時代に霊のみ使いたちがしたようにイエスが何回か肉体の姿を取って現われたわけを説明して,こう述べています。「キリストもわたしたちの罪のために一度だけ死なれました。正しい方である彼が,正しくない人びとに代わって苦しまれたのです。わたしたちを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。また,霊において彼は捕われた霊たちのところに行って宣言を行なわれました」。(ペテロ第一 3:18,19,新英,改標。コリント第一 15:5。ルカ 24:34)イエスの復活の際,その忠実な弟子たちの復活にさいして彼らに起きると予告されていたのと同様のことがイエスに関しても生じたのです。
「不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。物質の体かあるなら,霊の体もあります。まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダムは命を与える霊になったのです。
「また,兄弟たち,わたしはこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません。……朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久にのみ込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」― コリント第一 15:43-45,50-54。
「彼の死と同じ様になって彼と結ばれたのであれば,わたしたちは必ず,彼の復活と同じ様にもなってやはり彼と結ばれるからです」― ローマ 6:5。
21 神はイエスをどんな存在として復活させましたか。それで,イエスはどうしてご自分の人間としての犠牲の効力を保持しておられましたか。
21 したがって,聖書の証拠は,イエス・キリストが不滅性と不朽とを身につけた,神の霊の子として復活させられたことを明らかにしています。(使徒 13:32-37)それで,死人のなかから復活させられたとき,イエス・キリストはご自分の体を取り戻すことによって,犠牲としてのご自身の体を神の祭壇から引き取ったりはなさいませんでした。(ヘブライ 10:1-10)年毎の贖罪の日に犠牲の動物の血は罪をあがなうため至聖所に運ばれましたが,動物の体は処分されたように,神はイエスの人間性という犠牲を受け入れましたが,イエスの体は処分なさいました。どのようにしてかは,わかりません。(ヘブライ 13:10-13。レビ 16章)全能の神は人間の体を備えたみ子イエス・キリストを復活させたわけではありませんが,それでも復活させられた神のみ子は,贖罪を行なうために大祭司が神殿の至聖所に運んだ犠牲の血にも似た,ご自分の人間としての犠牲の価値もしくは効力を確かに保持しておられました。
22,23 (イ)復活によって霊的存在となられたイエスは今や,贖罪の日の大祭司によって予示されていたどんな事を行ない得ましたか。(ロ)今やイエスはへびの「頭を」砕き得る,より強力な地位についたとどうして言えましたか。
22 神の霊の子となられたイエス・キリストは,死人のなかから復活させられた後,四十日目に天に昇って帰ることができました。忠実な弟子たちのうち何人かは,その昇天の証人になりました。(使徒 1:1-11)ユダヤ人の大祭司は至聖所の中で贖罪の血を金の契約の箱に向かってふりかけましたが,同様にイエスは天の神のみ前に入り,ご自分の完全な人間としての犠牲の価値もしくは効力を提出されました。(ヘブライ 9:11-14,24-26)次いで,いと高き神はイエスを「メルキゼデクのさまにしたがって,定めのない時まで(続く)祭司」として,ご自分の右に座させました。―詩 110:1-4,新。使徒 2:31-36。ヘブライ 5:10; 10:11-13。
23 このようにして,神のみ子は,完全な人間となって,大いなるへびにより「かかとを」砕かれる以前に持っていた地位よりも高い天的な地位をもって報われました。そして,人間になる以前のミカエルという名を取り戻したので,天には再び「み使いの頭」が存在することになりました。(ユダ 9。啓示 12:7)栄光を受けた,神の「女」の「胤」は今や,神のご予定の時にへびの頭を砕く,さらにはるかに強力な地位につくことになりました。―創世 3:15,新。
24,25 (イ)ユダヤ人も異邦人も,神のみ子がどんなメシアではないことを等しく喜べますか。(ロ)フィリピ 2章5-11節で,わたしたちはどんな精神態度を取るよう勧められていますか。
24 神の約束のメシアがダビデ王のような単なる地上の人間に過ぎない「油そそがれた者」ではなく,死ぬことのない天的なメシアになるということは,生来のユダヤ人もしくは異邦人の別なく人類すべてにとって何と感謝し,喜ぶべき事柄なのでしょう。預言を述べさせる霊感を受けたダビデは,この大いに高められた方を自分の主と認めましたが,それはまたわたしたちの態度でもあるべきでしょう。霊感のもとに次のように記された言葉のなかで,そのような素直な精神態度を取るよう勧められています。
25 「キリスト[マーシアー]・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした[それでも,神と同等であることを強いて求めようとは考えませんでした,新英]。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました。まさにこのゆえにも,神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名にまさる名をすすんでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名においてかがみ,すべての舌が,イエス・キリスト[マーシアー]は主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するためでした」― フィリピ 2:5-11。また,コリント第二 5:16をも見てください。
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メシアに関する他の秘義が啓示される人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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13章
メシアに関する他の秘義が啓示される
1,2 (イ)「秘義」という言葉はどのように定義されていますか。(ロ)神はキリストに関連するどんな目的をわたしたちに対して公然の秘密とされましたか。
秘義とは,「神の啓示による以外知り得ない真理」と定義されています。それは神かご予定の時に啓示なさる「神聖な奥義」です。(ローマ 16:25,26)メシア,つまり神の天の「女」の「胤」とはいったいだれかということは長い間秘義,つまり神聖な奥義でした。また,メシアつまりキリストに関する神の目的も長い間秘義もしくは神聖な奥義でした。しかし,神はご自分の定めた時に,家令による家の経営の場合のように,すべての事物の管理に関連してメシアつまりキリストを用いるのがご自分の目的であることを啓示されました。つまり,それを秘密にしてはおかれませんでした。一致を図るためのそうした管理がなされるとは,神がすべてのものをメシア(キリスト)のうちに統括する,つまりメシアすなわちキリストの頭の権のもとにすべてのものを再び集めることを意味しました。管理者であられる神は親切にもそのことを啓示されました。それは次のとおりです。
2 「神はそれを,あらゆる知恵と分別とにおいてわたしたちに満ちあふれさせてくださいました。み旨の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださったことにおいてです。それは,定められた時の満了したときにおける管理[家令による場合のような経営]のため,ご自身のうちに定められた意向にしたがってであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリスト[マーシアー]において再び集めることです。そうです,彼において,彼との結びつきにおいて,わたしたち[キリストの弟子たち]はまた相続人として選定されたのです。み旨のおもむくままにすべてのものを作用させるかたの目的[ギリシャ語,プロセシス]のもとに,わたしたちがあらかじめ定められていたからであり,それは,キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが,その栄光の賛美に仕えるためです」― エフェソス 1:8-12。
3 「新しい契約」に関する神の約束は,古いモーセの律法契約とその目的にとって何を意味するものでしたか。
3 メシアなるイエスは神により任命された,会衆の頭となりましたが,イエスがその会衆の基を据え始めたことは,神のこの目的と調和していました。キリストの治めるこの会衆の個々の成員は個人的にあらかじめ定められ,つまり予定されてはいませんでした。ただその成員の人数およびそれらのクリスチャンの特性は,あらかじめ定められていました。エレミヤ記 31章31-34節(新)の預言は,エホバ神がご自分の民と「新しい契約」をどのように結ばれるかを予告していましたが,イエスの教えが示すとおり,イエスはそのことをご存じでした。したがって,モーセが仲介者となって生来のユダヤ人のために成立させた古い律法契約は終わることになりました。ヘブライ 8章13節でこう述べられているとおりです。「『新しい契約』と言うことによって,神は以前のものを廃れたものとされました。そして,廃れたものとされて古くなってゆくものは,近く消えてゆくのです」。イエスが生涯の公の仕事に携わる時分までには,モーセの律法契約は1,540年余の年数を経ていました。しかも,その全期間を経てもなお「祭司の王国,聖なる国民」を産み出しかねていました。(出エジプト 19:6,新)千九百年後の今日に至るまででさえ,依然モーセの律法契約下にあると主張するそれら生来のユダヤ人は,「祭司の王国,聖なる国民」を神に供してはきませんでしたし,西暦70年以後は彼らのアロンの家系の祭司職さえ消失してしまいました。
4 クリスチャン会衆の基については何と言うべきでしょうか。その基は最初にいつ据えられましたか。
4 イエスは,イスラエル国民が十二人の族長,つまりヤコブの十二人の息子を礎にして興されたことを覚えておられました。(創世 49:28)それで,ご自分の弟子たちのなかから十二人を選び,それらの人を「使徒」(遣わされた者)と呼びましたが,彼らは会衆の主要な基であるイエスの上に二次的な基として据えられることになっていました。(マルコ 3:14。ルカ 6:13。エフェソス 2:20)ご自分のことを基の岩と呼んだイエスは,十二使徒の聞こえる所でこう言われました。「この岩塊の上にわたしは自分の会衆を建てます。ハデスの門はそれに打ち勝たないでしょう」。(マタイ 16:18)とはいえ,ご自分の死ぬその日に至るまで,イエスはイスラエル国民が神の会衆であることを認め,その会堂で宣べ伝えたり,エルサレムの神殿で教えたりしました。イエスが頭および基である会衆が初めて形成されたのは,彼が死人のなかから復活させられた日から数えて五十日目のことでした。どんな根拠があってそう言えるのですか。次のような確かな根拠によるのです。
5 七週のその祭りの日には何が,まただれに注がれましたか。ペテロはそれがどのように注がれたかについてどう説明しましたか。
5 シャブオスもしくはペンテコステのその祭りの日に,ヨエル書 2章28,29節の預言の成就として神の聖霊が注がれました。だれにですか。エルサレムで七週(シャブオス)のその祭りを祝っていたイスラエル国民にでしたか。いいえ,エルサレムのとある二階の部屋に集合していた百二十人ほどの,イエス・キリストの忠実な弟子たちに注がれたのです。その見聞きできる証拠として,「さながら火のような舌」が弟子たちの頭上に舞い,彼らは自国語以外の他の言語で話し出しました。集まって驚き怪しんだ何千人ものユダヤ人に向かって使徒ペテロは,神の霊が注がれることに関するヨエル書 2章28,29節の成就が起きている旨説明し,次いでこう付け加えました。
「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです。実際ダビデは天に上りませんでしたが,自らこう言っています。『エホバはわたしの主に言われた,「わたしの右に座っていなさい。わたしがあなたの敵たちをあなたの足の台として据えるまで」』。ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリスト[マーシアー]ともされたことをはっきりと知りなさい」― 使徒 2:1-36。
6 (イ)イエスが霊を注いだことは,その弟子たちに関しては何を意味しましたか。(ロ)イスラエル国民とその律法契約にとっては何を意味しましたか。
6 このような訳で,イエスは神からの聖霊をご自分の忠実な弟子たちに注ぐことによって,彼らに聖霊で油をそそぎ,ご自身の会衆を建てておられたのです。では,このことは,メシアつまりキリストを杭につけたイスラエル国民にとって何を意味しましたか。彼らがもはやエホバ神の会衆ではないこと,また彼らの古い律法契約が消滅したことを意味しました。イエス・キリストが過ぎ越しの日にイスラエル国民に代わってのろわれたものとして掛けられたその杭に,あたかも神ご自身が律法契約を釘づけになさったかのように,同契約は解消されてしまいました。(コロサイ 2:13,14。ガラテア 3:13)その律法契約のもとに生まれたユダヤ人は,この神のみ子を犠牲にされたメシアとして受け入れることによって,律法ののろいのもとから出て,エホバ神の祝福を受けることができました。―使徒 3:25,26。
7 イエスは今や仲介者としてご自分の血によって何を成立させましたか。そのために,肉によるイスラエル国民はどんな立場に放置されましたか。
7 そのうえ,イエス・キリストはご自分の人間としての命の血の効力もしくは価値を天の父に捧げたとき,新しい契約,エレミヤ記 31章31-34節で約束されている契約を発効させました。モーセは仲介者として単なる動物の犠牲の血をもって古い律法契約を成立させましたが,同様に今やイエス・キリストは仲介者として神のみ前で,ご自身の犠牲の血をもって新しい契約を成立させました。この点でもやはりイエスはモーセのような預言者でした。(申命 18:15-18)ゆえに,新しい契約が古い律法契約に取って替わったので,肉によるイスラエル国民はその新しい契約にははいってはいませんでした。したがって,同国民はもはやエホバ神の会衆でもなければ,「神のイスラエル」でもありませんでした。それで,律法契約の解消後に生まれた生来のユダヤ人はすべて,彼らのラビの主張に反するかもしれませんが,その古い律法契約下にいたことは一度もありません。
8 ペンテコステのその日にどのようなイスラエルが存在するようになりましたか。ペテロはそのイスラエルと生来のそれとの相違をどのように示していますか。
8 西暦33年のペンテコステのその日をもって,基の岩塊であるイエス・メシアの上に建てられた,霊的な「神のイスラエル」が存在するようになりました。それは,ガラテア 6章15,16節に,「割礼も無割礼も重要ではなく,ただ新しく創造されることが重要なのです。そして,この行動の規準にしたがって整然と歩むすべての人,その人たちの上に,そうです神のイスラエルの上に,平和とあわれみとがありますように」と述べられているとおりです。使徒ペテロは,それらの人たちと,イエス・メシアを退けた国民との相違を示して,メシアの弟子たちにこう書き送りました。「しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」― ペテロ第一 2:8,9。
9 イエスは弟子たちのためにどんな新しい夕食を始められましたか。どんな契約について話されましたか。
9 この霊的な「神のイスラエル」は古いモーセの律法契約のもとにはいないので,年毎の過ぎ越しは祝いません。エルサレムで使徒たちと共に祝った最後の過ぎ越しを終えたとき,イエスは種の入っていない一かたまりのパンとぶどう酒の杯とを取って,神の子羊で,新しい契約の仲介者であるご自分の死を記念するものとして,追随者たちのための年毎の新しい夕食を始めました。ぶどう酒の杯に関して祈った後,イエスは忠実な使徒たちに言われました。「あなたかたはみなそれから飲みなさい。これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪のゆるしのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです」。(マタイ 26:27,28。出エジプト 24:8と比べてください。)しかし,イエスはどんな契約について語っておられたのでしょうか。イエスの言葉を記したルカの記述はこう述べています。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなたがたのために注ぎ出されるものです」― ルカ 22:20。コリント第一 11:20-26。
10 その契約は,モーセが仲介者となって成立させたものとどのように比べられましたか。割礼を受けた生来のユダヤ人のある人々は,なぜその新しい契約に入れられませんでしたか。
10 それはエレミヤ記 31章31-34節で予告され,イエスの血によって発効することになっていた「新しい契約」で,その契約に入れられる人たちの罪は神によってゆるされるのです。イエスは昇天後,ご自分の血の価値つまり効力をエホバ神に捧げたとき,この新しい契約を発効させました。それゆえに,イエスは,西暦前1513年にモーセが仲介者として成立させた契約よりも勝った,新しい契約の仲介者になりました。(ヘブライ 8:6-13; 9:15-20; 12:24; 13:20。テモテ第一 2:5,6)不幸にして,メシアとしてのイエスを受け入れるのを拒んだ,割礼を受けた生来のユダヤ人は,新しい契約に入れられなかったので,霊的な「神のイスラエル」の一部とはなりませんでした。
11 新しい夕食に際して,イエスは王国について使徒たちに何と言われましたか。それは新しい契約が何を首尾よくなし得ることを保証しましたか。
11 イエスは新しい契約に適用されることになっていたご自分の血を表わす,ぶどう酒の杯を回して使徒たちに飲ませた後,彼らに話し続けてこう言われました。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)この言葉はイエスの血によって発効した新しい契約が「祭司の王国,聖なる国民」を首尾よく生み出すことを保証しました。新しい契約に入れられている霊的な「神のイスラエル」の忠実な成員は,ダビデ王の地的領土以上のものを治める天の王国をイエス・キリストと共有します。それらの人たちはまた,「メルキゼデクのさまにしたがって,定めのない時まで祭司」となることになっていた主イエス・キリストの従属の祭司として仕えます。―詩 110:4,新。
アブラハムの「胤」に関する秘義が明らかにされる
12 西暦33年のペンテコステの際,アブラハムの「胤」に関するどんな秘義が明らかにされましたか。それはどのような「胤」になろうとしていましたか。
12 西暦前1943年の昔,族長アブラハムに対して神が契約に基づく約束をなさって以来,地のあらゆる族を祝福する,アブラハムの約束の「胤」はだれによって構成されるかという秘義が生じました。(創世 12:1-3)この秘義は,西暦33年のペンテコステの日に明らかにされました。もち論,その「胤」は,メシアなるイエスだけでなく,もっと多くの人によって構成されることになっていました。神はアブラハムに,その胤が天の星や浜辺の砂粒のようになると約束しておられたからです。割礼を受けた生来のイスラエルは確かにそのようになりましたが,アブラハムの真の胤は,肉による生来のイスラエルではなく,霊的なイスラエルによって構成されることになっていました。後者は神の霊によって生み出されて,天的な相続財産を目ざす,神の霊的な子となります。神はより大いなるアブラハムであって,アブラハムとは「大勢の人びとの父」という意味なのです。
13 ペンテコステのさい,アブラハムの霊的な「胤」の一部となる機会はだれに与えられましたか。その機会はどれほどの期間,専ら彼らだけに差し伸べられましたか。なぜですか。
13 とはいえ,生来のイスラエル人には,アブラハムの霊的な「胤」の成員になる最初の機会が与えられました。西暦33年のペンテコステの日に神の聖霊によって神の子として生み出され,新しい契約に入れられたのは,割礼を受けた生来のユダヤ人,つまりアブラハムの生来の子孫でした。それによってエホバ神は,その霊的な「胤」にとって,より大いなるアブラハムとなられました。イスラエル国民は『第七十週年』(西暦28年から36年)の半ばにメシアの死を図って彼を断つことに関与しましたが,それでもエホバ神はアブラハムと結んだ契約のことを考えて,その第七十週年の後半の期間中,引き続き彼らに恵みを示されました。イスラエル国民はそのアブラハムの子孫でした。(ダニエル 9:24-27)それで,アブラハムの霊的な「胤」となる機会は,引き続き第七十週の終わりまで,まず第一に彼らに提供されました。
14 ペテロはエルサレムの神殿で,アブラハムの生来の胤のためのこの情け深い備えをどのように指摘しましたか。
14 ペンテコステの後,何日かして,使徒ペテロはエルサレムの神殿で一群のユダヤ人に次のように話して,神のこの情け深い備えを指摘しました。「そして,実に,サムエル以来のすべての預言者,およびそれに続いた人びと,およそ語った者はみな,やはりこの時代のことをはっきり宣べました。あなたがたは預言者たちの子,また,神がアブラハムに,『そしてあなたの胤によって地のすべての家族は祝福を受けるであろう』と言って,あなたがたの父祖と結ばれた契約の子です。神は,ご自分のしもべを起こされたのち,邪悪な行為からおのおのを転じさせてあなたがたを祝福するため,まずあなたがたのところに彼を遣わされたのです」― 使徒 3:24-26。
15 では,アブラハムの「胤」の祝福はまず第一にだれに及びましたか。そのような祝福された人たちは,どのようにして隷従から釈放されましたか。
15 何年か後のこと,かつてユダヤ教の伝承を極めて熱狂的に支持していた,以前の一パリサイ人は,次のような言葉を書きました。
「キリスト[マーシアー]はわたしたちの代わりにのろわれたものとなり,こうしてわたしたちを律法ののろいから買い取って釈放してくださったのです。『杭に掛けられる者はみなのろわれた者である』と書かれているからです。その目的は,アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民に及び,こうしてわたしたちが,約束された霊を自分の信仰によって受けるためです。
「しかし,時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法のもとに置かれ,こうして彼が律法のもとにある者たちを買い取って釈放し,わたしたちが養子とされることになったのです。では,あなたがたは子なのですから,神はご自分のみ子の霊をわたしたちの心の中に送ってくださり,それが,『アバ,父よ!』と叫ぶのです。ですから,もはや奴隷ではなくて子です。そして,子であれば,神による相続人でもあります」― ガラテア 3:13,14; 4:4-7。
16 アブラハムの霊的な「胤」の成員になることは,肉的つながりに基づいていますか。それとも,何に基づいていますか。
16 「アブラハムの胤」の成員となる資格は,アブラハムとの肉的つながりではなく,アブラハムのいだいていたような信仰を働かせることに基づいていることを説明した前述の筆者,使徒パウロはこう述べました。「あなたがたは,信仰を堅く守る者がアブラハムの子であることがわかるはずです。さて,聖書は,神が諸国の人びとを信仰によって義と宣することを予見し,前もってアブラハムに良いたよりを宣明しました。すなわち,『あなたによってあらゆる国民が祝福されるであろう』と。現にあなたがたはみな,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。キリストへのバプテスマを受けたあなたがたはみなキリストを身に着けたからです。ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなたがたはみなキリスト・イエスと結ばれてひとりの人となっているからです。さらに,キリストに属しているのであれば,あなたがたは実にアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人なのです」― ガラテア 3:7,8,26-29。創世 12:3。
何世代も後に明らかにされた秘義
17 どれほど多くのユダヤ人がアブラハムと同様の信仰を持ち,また彼らに対して神の恵みが示された『第七十週年』の期間を活用しましたか。
17 アブラハムは信仰を持ち,その結果,肉の割礼を受ける前でさえ,義人,また神の「友」と呼ばれましたが,その肉身の子孫すべてが同様の信仰を持った訳ではありません。(創世 15:6。ローマ 4:9-12。ヤコブ 2:21-23)それで,アブラハムの契約がアブラハム,イサクそしてヤコブの肉身の子孫のために『有効なものとして保たれて』いた『第七十週年』の期間を生来のユダヤ人の多くの人々が活用した訳ではありません。(ダニエル 9:27,新)そうしたのは,ただ少数の残りの者だけでした。西暦36年に『第七十週年』が終わる以前にエルサレムでメシアなるイエスを受け入れたユダヤ人の人数で,最後に記録されているのは約五千人でした。―使徒 4:4。
18 神は霊的なイスラエル人を何人持つことを意図されましたか。それで,『第七十週』の終わりにさいし,どんな疑問が生じましたか。
18 神は新しい契約によって生み出される,ご自分の「祭司の王国,聖なる国民」のために,それよりもはるかに大きい人数をあらかじめ定めておられましたが,西暦70年にエルサレムが滅ぼされた後,それも一世紀の終わりごろになるまでは,ご自分の意図された正確な人数を啓示されませんでした。次いで,神は生き長らえて年老いた使徒ヨハネに対して,ご自分の意図して選定された,霊的なイスラエル人の人数は14万4,000人であることを啓示されました。(啓示 7:4-8; 14:1-3)西暦36年の秋に『第七十週』が終わったとき,イエスをメシアとして受け入れて,聖霊でバプテスマを受けたユダヤ人の数は,明らかに14万4,000人をはるかに下回っていました。では,どうなりましたか。神の目的は潰えましたか。それとも,神は今や,キリストにかかわるご自分の「とこしえの目的」を潰えさせないようにするため,どんな驚くべき措置を取ることになりましたか。
19 メシアなるイエスを頭として戴く,バプテスマを受けた信者たちの集団に関して,神は今やどんな啓示をお与えになりましたか。
19 メシアなるイエスの,バプテスマを受けた追随者の会衆は,西暦36年の秋に至るまでは,専ら生来のユダヤ人や割礼を受けたサマリア人,それに割礼を受けてユダヤ教の改宗者になった他の人たちだけで成り立っていました。(使徒 2:10; 8:1から9:30; 11:9)残りの人類は,「キリストを持たず,イスラエルの国家から疎外され,約束にかかわる数々の契約に対してはよそ者であり,希望もなく,世にあって神を持たない」不信者でした。(エフェソス 2:11,12)さて,啓示が到来しました。メシアなるイエスを頭として戴いていた信者たちの集団は,もはや専らユダヤ人およびユダヤ教の改宗者のなかから取られた人々だけで構成されるのではなくなったのです。したがって,神がアブラハムを召し,次いで彼と契約を結び,ご自分との交友関係を持つことを信仰ゆえに彼に認めた時のそのアブラハムと全く同様,割礼を受けていない人々,つまり割礼を受けていない信者が,メシアを信ずる人たちの集団に入れられることになりました。ゆえに,それら受け入れられた非ユダヤ人もやはり信仰を持っていました。
20 (イ)それで,何がもはやユダヤ人と非ユダヤ人との間に障壁として介在すべきものではなくなりましたか。(ロ)ゆえに,神は今やだれに好意的な注意を向けましたか。
20 西暦33年における『第七十週』の半ばに,神はモーセの律法契約を廃止し,霊的イスラエルとの,より良い「新しい契約」を創始されました。ゆえに,古い律法契約はもはやユダヤ人と異邦人との間の障壁として介在すべきものではなくなりました。それで,エホバ神はエフェソス 2章13-18節に述べられているように,障害の取り除かれた道を下って,『ご自分のみ名のための民を取り出す』ため,割礼を受けていない異邦諸国民に好意的な注意を向けられました。―使徒 15:14。アモス 9:11,12,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳。
21 次いで,神はだれにみ使いを遣わしましたか。そのみ使いは何をしましたか。
21 第七十週年の終わりにエホバ神はみ使いをだれに遣わされましたか。ユダヤ州を治めるローマ知事の首都にいた,割礼を受けていないある異邦人に遣わされました。その異邦人とはイタリア隊の百人隊長コルネリオでしたが,彼は「篤信の人であり,自分の家の者たちすべてとともに神を恐れ,民にあわれみの施しを多くなし,絶えず神に祈願をささげて」いました。コルネリオは南の沿岸都市ヨッパに人をやって,シモン・ペテロを連れて来させるよう命じられました。シモン・ペテロは,彼を連れて来るよう遣わされた三人の人たちと同行しました。ペテロは,『神が清めた物を汚れていると呼ぶ』のをやめて,それら三人の人々と同行するよう指示されていたのです。
22 その異邦人の家で,ペテロは集まった人々に何について宣べ伝え,罪のゆるしについて何と言いましたか。
22 それで,シモン・ペテロは異邦人の家に入るのを嫌う偏見を抑えて,カエサレアのコルネリオの家に入りました。招きに応じたペテロは,その異邦人と彼が使徒ペテロの話を聞かせようとして自宅に集めておいた人たちにみことばを宣べ伝えました。ペテロは,神がイスラエルに遣わされたメシアについて彼らに宣べ伝えました。そしてペテロはこう続けました。「また彼は,民に宣べ伝えるように,そして,これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと,わたしたちにお命じになりました。彼についてはすべての預言者が証しをしています。彼に信仰を持つ者はみな,その名によって罪のゆるしを得るとです」― 使徒 10:1-43; 11:4-14。
23 どんな奇跡に接したとき,ペテロは話を聞いていた人たちに,バプテスマを受けるよう命じましたか。だれの名においてそうしましたか。
23 これらの言葉は,コルネリオおよび彼と一緒に耳を傾けていた人たちにとって十分なものでしたし,そのうえ神も彼らの心を読み取って行動を起こされました。こう書かれています。
「ペテロがまだこれらのことについて話しているうちに,聖霊がみことばを聞いているすべての者の上に下った。そして,割礼のある人びとで,ペテロといっしょに来ていた忠実な者たち[割礼を受けた六人のユダヤ人の信者]は驚嘆した。無償の賜物である聖霊が諸国の人びとの上にも注ぎ出されていたからである。彼らがいろいろな国語で話し,神をほめたたえているのを聞いたのである。これに応じてペテロは言った,『わたしたちと同じように聖霊を受けたこの人びとに,だれか水を禁じてバプテスマを受けさせないようにできるでしょうか』。そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けることを彼らに命じた。それから彼らは,幾日かとどまるようにと彼に頼んだ」― 使徒 10:44-48; 11:1-17。
24 ペテロの説明を聞いた,エルサレムのそれらのユダヤ人は,それにどう答え応じましたか。
24 後日,エルサレムに戻ったペテロは,その地の,割礼を受けたユダヤ人の信者たちに経過を説明して言いました。「それゆえ,神が,主イエス・キリストを信じて頼ったわたしたちに与えてくださったと同じ無償の賜物を彼らにもお与えになった以上,どうしてわたしなどが神を妨げえたでしょうか」。今日のわたしたちも,ペテロの説明を聞いた当時の人々のようであるべきでしょう。「さて,これらのことを聞くと,彼らは黙って同意し,それから神の栄光をたたえてこう言った。『それでは,神は命のための悔い改めを諸国の人びとにもお授けになったのだ』」― 使徒 11:17,18。
25 次いで,割礼を受けたユダヤ人の信者は,復活させられたイエスのどんな命令を履行しましたか。
25 その時以来,使徒および仲間のユダヤ人の信者たちは,自分たちの活動を単にユダヤ人とその改宗者だけに限定せず,復活させられたイエスから行なうよう次のように命じられた事柄を行ないました。「それゆえ,行って」― だれを?―「すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」― マタイ 28:19,20。
26 特にどんな使徒が,信仰の厚い異邦人に関連した神の秘義について書きましたか。
26 コルネリオがメシアの弟子として改宗するに先立って,メシアを信じた同胞のユダヤ人を良心上の理由で迫害していたタルソスのサウロ自身も改宗しました。彼は早速,割礼を受けた他のユダヤ人に宣べ伝えるわざを開始し,ダビデの子であるこのイエスこそ予告されたメシアつまりキリストであることを,霊感を受けたヘブライ語聖書から彼らに示しました。やがて彼は使徒としての身分を与えられてパウロと呼ばれ,特に「諸国民への使徒」とされました。彼は特に,西暦36年当時,信仰の厚い異邦人が「アブラハムの胤」の成員としてキリストの弟子たちの集団に入るのを神がお許しになって啓示されたことがどんなに驚嘆すべき秘義つまり「神聖な奥義」かについて書きました。―ローマ 11:13。
27 パウロは異邦諸国民のなかでどんな壮大な「神聖な奥義」を知らせていましたか。
27 例えば,パウロは長年奥義とされてきたメシアの会衆の特色に関してこう書きました。「わたしは,神から受けた家令職にしたがってこの会衆の奉仕者となりました。それは,あなたがたのため,神のことばを十分に宣べ伝えるために,わたしに与えられたものです。すなわち,過去の事物の諸体制から,また過去のもろもろの世代からは隠されてきた神聖な奥義[あるいは秘義]を宣べ伝えるためにです。それは今,神の聖なる者たちに対して明らかにされたのであり,神は,諸国民の間におけるこの神聖な奥義の栄光ある富がどんなものかを彼らに知らせることを喜びとされたのです。それは,あなたがたと結ばれたキリスト,その栄光の希望です」。(コロサイ 1:25-27)これほどの長期間を経た後に,異邦諸国民のなかから来る信者にもメシアつまりキリストと共に栄光を受ける天的希望が与えられるとの何と壮大な「神聖な奥義」が啓示されることになったのでしょう。そのような希望を持つ会衆の奉仕者であることは本当に名誉であり,特権でした!
28,29 (イ)異邦人の信者に対するこうした愛ある思いやりは,だれに関連して立てられた神の目的に含まれていましたか。(ロ)このことに関連して自分の役目に対する,感謝を表わしたパウロは,神の「とこしえの目的」について何と書きましたか。
28 ああ,考えてもみてください。神がご自分のメシアに関連してお立てになった高遠な目的には,異邦人の信者を全人類を祝福するアブラハムの霊的な「胤」の一部にするための,こうした愛ある思いやりがすべて含まれていたのです! 愛ある神がご自分の意志のこの際だって寛大な面を,それがご自身の「とこしえの目的」の一部であるゆえに堅持してこられたのは,何と賞賛すべきことなのでしょう。このことに関連して神から与えられた自分の役目に対する感謝の意を表わしたパウロは,こう言いました。
29 「すべての聖なる者たちの中でも最も小さな者よりさらに小さな者であるわたしにこの過分のご親切が与えられ,こうしてわたしは,キリストの測りがたい富に関する良いたよりを諸国民に宣明し,定めのない過去から,すべてのものを創造された神のうちに隠されてきた神聖な奥義がいかに管理されるかを人びとに示すことになりました。これ[この処置]は,天の場所にあるもろもろの政府と権威に対して,きわめて多様な神の知恵が,今や会衆を通して知らされるためであり,それは,キリスト,すなわちわたしたちの主イエスに関連して神がお立てになったとこしえの目的[ギリシャ語,プロセシス]にかなうところでした」― エフェソス 3:8-11。
30 (イ)神はご自分の「とこしえの目的」にしたがって,ご自身の『きわめて多様な知恵』をどのように明らかにされ始めましたか。(ロ)現代に生を享けたわたしたちは,たいへん恵まれています。なぜですか。
30 このようなわけで,神はこうしてご自分の「神聖な奥義」の管理を続行されたので,『キリストに関連して神がお立てになったとこしえの目的』にしたがって,今や現時点までには,天の場所における政府や権威に対し,「きわめて多様な神の知恵」が,その例証としてのクリスチャン会衆を生み出すことによって明らかにされていることでしょう。神の「とこしえの目的」にしたがって神の「神聖な奥義」を理解できるこの現代に生を享けたわたしたちは,たいへん恵まれているのではないでしょうか。パウロは述べています。
「ほかの世代において,この奥義は,今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているようには,人の子らに知らされていませんでした。すなわち,諸国民が良いたよりによってキリスト・イエスと結ばれて,共同の相続人,同じ体の成員,わたしたちとともに約束にあずかる者となる,ということです」― エフェソス 3:5,6。
31,32 (イ)キリスト教時代以前のだれが,これらの事柄を理解することに関心をいだいていましたか。(ロ)ゆえに,キリストの「体」はだれによって構成されますか。
31 キリスト教時代以前の古代の預言者たち,いや,み使いたちさえ,この「神聖な奥義」がエホバ神によっていったいどのように管理されるかに関心をいだいていました。
「ほかならぬこの救いに関して,勤勉な探究と注意深い調査が,あなたがたに向けられた過分のご親切について預言した預言者たちによってなされました。彼らは,自分のうちにある霊が,キリストに臨む[定められていた,待ち受けていた]苦しみとそれに続く栄光についてあらかじめ証しをしている時,それがキリストに関して特にどの時期あるいはどんな時節を示しているかを絶えず調べました。彼らは,天から送られた聖霊をもってあなたがたに良いたよりを宣明した人びとを通し今あなたがたに発表されている事がらに奉仕しましたが,それが,自分自身のためではなく,あなたがたのためであることを啓示されました。み使いたちは,実にこうした事柄を熟視したいと思っているのです」― ペテロ第一 1:10-12,新; アメリカ訳。
32 ゆえに,キリストの「体」の全成員はユダヤ人はもとより異邦人からも取られる人たちによって構成されることが,神のご予定の時に啓示されました。最初にエデンの園で立てられた神の「とこしえの目的」には,メシアを頭として戴くこの会衆のことが考慮に入れられていたのです。その会衆のなかでユダヤ人と異邦人は一体となりました。
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「とこしえの目的」のための勝利人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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14章
「とこしえの目的」のための勝利
1 神の「とこしえの目的」に反対する霊者となったのはだれですか。それはいつからですか。
神の「とこしえの目的」については,天にも地上にもそれに反対する者がいます。それらの者はその「とこしえの目的」の究極的勝利をはばもうとして戦ってきましたし,なおも戦い続けています。神はエデンの園で大いなるへびや罪深いアダムとエバの聞こえるところでご自分の「とこしえの目的」を発表したとき,そのへびに向かって言われました。「わたしはおまえと女との間に,またおまえの胤と女の胤との間に敵意をおく。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕く」。(創世 3:15,新)それ以来,サタン悪魔と,悪霊となった不従順なみ使いたちとは,一致結束して神の明言された目的に逆らって戦ってきました。
2 (イ)創設されて日の浅い「選ばれた種族」を滅ぼそうとする悪魔的な試みがどんな方法でなされましたか。(ロ)腐敗をもたらす種々の分子の浸透に対する警告の言葉のなかでペテロは何と述べましたか。
2 西暦33年のペンテコステの祭りの日に霊的な「神のイスラエル」が十二使徒の基の上に設立された後,地上ではその創設されて日の浅い「選ばれた種族」つまりその「王なる祭司」また「聖なる国民」を滅ぼそうとする悪魔的な試みが行なわれました。(ペテロ第一 2:9)まず最初に,激しい迫害が利用されましたが失敗しました。(使徒 7:59から8:4; 9:1-5,21; 11:19)次いで,霊的なイスラエルをその教えや生き方の面で腐敗させようとする試みがなされ,重大な被害がもたらされました。西暦64年ごろ,キリスト教の信仰の支持者にあてて手紙を書いた使徒ペテロは,そのような霊的腐敗のきたるべき浸透について一世紀のクリスチャンに前もって警告してこう述べました。
「預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです。しかしながら,民の間に偽預言者も現われました。それは,あなたがたの間に偽教師が現われるのと同じです。実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです。さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。また,彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう。しかし,彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでもありません」― ペテロ第二 1:21から2:3。ユダ 4をも見てください。
3 (イ)パウロは会衆を腐敗させる者たちに注意するよう,どのように警告しましたか。(ロ)「不法の人」とはだれですか。その人はいつ明らかになりますか。
3 同様に,使徒パウロはエルサレムへの最後の旅行の途上,クリスチャン会衆の長老たちに対して警告しました。「わたしが去ったのちに,圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなた自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう」。(使徒 20:29,30)また,それよりも前にマケドニアのテサロニケにある会衆に書き送った一通の手紙のなかで,パウロは会衆内で宗教上の反逆が起こること,また「不法の人」つまり「滅びの子」が明らかになることについて警告し,「この不法の秘事はすでに作用しています」と戒めました。その「不法の人」は複合的な人,つまりキリスト教世界の僧職者級となることになっていました。(テサロニケ第二 2:3-9)ローマ皇帝,コンスタンティヌス大帝が腐敗した「司教たち」と取引きをして,その宗教をローマ帝国の国教とした西暦四世紀に,この複合的な「不法の人」が明らかになりました。コンスタンティヌスは公式の僧職者級を確立し,こうしてキリスト教世界が存在するようになりました。
4 キリスト教世界の僧職者は同世界が創設されて以来何世紀もの間に,自分たちのためにどんな記録を残しましたか。しかもなお,キリスト教世界は同世界が何であることを主張していますか。
4 その後,二十世紀の今日に至るまでの16世紀間,キリスト教世界はどのような記録を自ら残してきましたか。それは同世界の僧職者が政治に関係し,ますます多くの異教的な教えを自分たちの宗教信条に取り入れ,自分自身のために富や権力をふやし,自分たちの宗教上の羊の群れを虐げ,宗教戦争や残忍な十字軍,はては種々の迫害を助長し,混乱した何百もの宗派を作り出し,互いに戦い合ういわゆる“キリスト教”諸国の軍隊を祝福し,自分たちの教会員の道徳を腐敗させ,神の「とこしえの目的」を覆い隠し,大いなるへびの地上の見える「胤」のように,実際には神の目的に逆らって働いてきた記録となっています。同世界内にはキリスト教に基づく真の一致はありませんでした。キリスト教世界の宗教上の衣のすそには,流血の罪を示す,おびただしい血痕がついています。同世界のなかでは神の聖霊の実,とりわけ兄弟愛は少しも培われてきませんでした! むしろ,何世界には「肉の業」が充満してきました。(ヨハネ 13:34,35。ガラテア 5:19-24)しかもなお,キリスト教世界を罪に定める聖書上の証拠があるにもかかわらず,同世界は「神のイスラエル」であると主張してきたのです。
5 キリスト教世界によって偽って伝えられたにもかかわらず,神はご自分の「とこしえの目的」にしたがって何を行なってこられましたか。
5 こうして神とその霊的なイスラエルがあらゆる点で偽って伝えられたため,神はご自分の「とこしえの目的」を首尾よく達成するのを妨げられましたか。一瞬といえども妨げられませんでした! 神はそうした事柄すべてを予見し,書き記されたみことばである聖書のなかでそれを予告されました。霊的なイスラエルと結ばれた神の新しい契約は効力を保ち続けましたし,また確かに神は,メシアなるイエスと約束された天の王国を共有する霊的なイスラエル人を選択し,用意を整えさせ続けられました。
6 14万4,000人の最後の人たちは地上でどんな状態に導き入れられることになりましたか。
6 天の王国でメシアとともになる共同相続権を有する者として印を押される霊的なイスラエル人の数は,啓示 7章4-8節また14章1-3節によれば14万4,000人に限られているのですから,王国級の全成員を満たすに必要な最後の人たちがこの地上で見いだされる時は必ず来ます。それらの人たちはキリスト教世界の諸宗派のように宗教上分裂しているどころか,人種,色,国籍あるいは部族的きずなの違いにもかかわらず,集められて霊的に一致することになります。また,彼らはこの世のものではないので,この世から刈り入れられることになります。―ヨハネ 17:14-23。
7 イエスはその集めるわざを何にたとえられましたか。また,それをどの時期のわざとして位置づけられましたか。
7 王国の秘義つまり「王国についての神聖な奥義」を使徒たちに説明した主イエス・キリストは,そのような「王国の子たち」を集めるこの最終的なわざを「収穫」と呼ばれました。そして,次のように述べて,この霊的な「収穫」がいつ行なわれるかを示されました。
「収穫は事物の体制の終結であり,刈り手はみ使いたちです。それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものと不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。その時,義人たちはその父の王国で太陽のように明るく輝くのです。耳のある人は聴きなさい」― マタイ 13:11,39-43。
8 「事物の体制の終結」の期間中に起きることになっていたのは,この霊的な「収穫」のわざだけでしたか。イエスはどんな質問に対する返答としてその答えを述べましたか。
8 その「事物の体制の終結」にさいしては,「王国の子たち」を刈り入れるこのわざ以外に他の種々の事柄の起きることが予告されていました。(マタイ 24:31)霊的な収穫とともに,それら他の事柄すべては,わたしたちの生きているこの時代が予告された「事物の体制の終結」の時であることを見分ける目じるしとなるものだったのです。モーセのような預言者であったメシアなるイエスは,エルサレムの神殿の滅びを予告した後,使徒たちの質問に対する答えとしてそれらの事柄を列挙されました。彼らはイエスにこう尋ねたのです。「そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在[ギリシャ語,パルーシア]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」― マタイ 23:37から24:3。
9 その時のことに関してイエスは何を予告なさいましたか。エルサレムの「終わりの時」はいつ始まって,いつ終結しましたか。
9 マタイ 24章4-22節の記述を読むと,質問に対する答えとしてイエスがどのようにエルサレムの滅びを再び予告し,さらに戦争,飢きん,地震,忠実な弟子たちの迫害,不法の増大,愛が冷えること,弟子たちによってなされる宣べ伝えるわざ,また「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」によって聖なる場所が汚されるのを見た後に弟子たちがユダヤとエルサレムから逃げ去ることなどについてどのように予告なさったかがわかります。それはイエスと使徒たちが一部となっていた『その世代』のうちに起こることになっていました。つまり,エルサレムと,宗教上の国家的中心としてのその都を基盤とした事物の体制が「終わりの時」を迎えていたのです。その「終わりの時」は,バプテスマを施す人ヨハネが「悔い改めなさい。天の王国が近づいたからです」と宣べ伝え始め,次いでイエスにバプテスマを施した西暦29年に始まり,エルサレムとその神殿が荒廃し,アロンの家系の祭司職が消滅した西暦70年に終わりました。以来,ユダヤ民族およびユダヤ教は決して以前と同じではなくなってしまいました。
「終わりの時」のしるし
10 イエスはその預言のなかで,一世紀当時のエルサレムをどのように用いられたので,その預言は今日に適用されますか。
10 とはいえ,イエスはエルサレムが滅ぼされた後に起こる多くの事柄について話し,「そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」と付け加えられました。(ルカ 21:20-24)マタイ 24および25章,マルコ 13章そしてルカ 21章に記されているイエスの完ぺきな預言を注意深く調べてみると,イエスはまた,一世紀当時のエルサレムをその現代的相対物であるキリスト教世界を預言的に表わすものとして,また世界各地に散在していたユダヤ人の間に存続していた事物の体制をキリスト教世界によって支配される現代の世界的な事物の体制を表わすものとしてそれぞれ用いておられたことがわかります。それで,「事物の体制の終結」に関するイエスの預言はその完全な成就という点ではやはり今日に適用されます。どうして「今日」と言えるのでしょうか。それはわたしたちが今日,予告された「事物の体制の終結」の時期に生活しているという意味ですか。そのとおりです!
11 この世界はどんな時期に遭遇していますか。それは以前のどんな同様な時期に対応しますか。
11 今日,この世界はその「終わりの時」を経つつあります。ノアの時代のあの「古代の世」つまり「不敬虔な人びとの世」「その時の世」は世界的な洪水で覆われてしまいましたが,その時代の世の「終わりの時」は,西暦前2370年に大洪水の起こる百二十年前に始まったことを覚えておきましょう。(ペテロ第二 2:5; 3:6。創世 6:1-3。マタイ 24:37-39)西暦前607年にバビロニア人によってエルサレムが滅ぼされる前に,神はエルサレムの王座についたダビデの家系の最後の王ゼデキヤに話しかけ,「終わりの過ちの時」に言及されました。当時,エルサレムの「終わりの時」は四十年にわたるもので,その時は神がヨシヤの治世の第十三年にエレミヤをご自分の預言者として起用されたときに始まりました。(エゼキエル 21:25。エレミヤ 1:1,2。エゼキエル 4:6,7)また,西暦一世紀のエルサレムにも四十一年(西暦29-70年)にわたる「終わりの時」がありました。―ルカ 19:41-44。テサロニケ第一 2:16。
12 エホバはどんな預言者を用いて「終わりの時」のことを指摘させましたか。西暦1914年以来わたしたちがそのような時期に入っていることを何が示していますか。
12 エルサレムがバビロニア人によって初めて滅ぼされてから何年も後のこと,神のみ使いは,世界的な規模の事物の体制に臨むことになっていた「終わりの時」について預言者ダニエルに話しました。(ダニエル 11:35から12:4)わたしたちは西暦1914年以来,その「終わりの時」に遭遇しています。わたしたちがそう言うのは,単にその年に第一次世界大戦が勃発し,全人類を一掃する可能性を秘めた恐るべき暴力と戦争の時代を招来したというだけの理由によるのではありません。さらに,その重大な年以来,事物の体制の終結の「しるし」に関するイエスの預言は確かに完全な成就を遂げてきました。しかも,この「事物の体制の終結」は,イエスが「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」と呼んだ最高潮を迎えるのですから,わたしたちはこの事物の体制の全き終わりに,それとともに「不敬虔な人びとの世」の滅びに近づいていることになります。―マタイ 24:21。
13 (イ)キリストの「臨在」は神の王国と関係を持つことになっていましたが,マタイ 24章14節はそのことをどのように示していますか。(ロ)キリストは年代を述べなかったので,どんな疑問が生じますか。
13 それにしても,西暦1914年を注目すべき年とする理由は,メシアの王国の権威を持つ主イエスの「臨在」(パルーシア)がその年に始まったことにあります。この点で,その目に見えない「臨在」が真実であったことは,その「臨在のしるし」に関する使徒たちの質問に答えてイエスが述べた特別な事柄によって示されています。それはマタイ 24章14節に述べられている事柄です。「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。使徒たちに対する答えのなかで,イエスは年代を指摘してはおられませんが,それでも1914年以来今日に至るまで明らかにされてきた「しるし」は,その年が天で神のみ子イエス・キリストの治める,神のメシアの王国の誕生した時であることを確証しています。しかし,その年代を割り出して,それがキリストの「臨在」する王国の誕生する,あらかじめ定められた時であることを確証するもう一つの方法があります。1914年を確証するそのもう一つの方法とは何ですか。
14 イエスが指摘なさった異邦人の時はいつ始まりましたか。それはどんな出来事が生じた後も続くことになっていましたか。
14 「そうしたことはいつあるのでしょうか」という点に関して述べた預言のなかで,イエスは差し迫ったエルサレムの滅びを予告して,こう付け加えました。「そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。(ルカ 21:20-24)その「[非ユダヤ人,つまり異邦人の]諸国民の定められた時」は,バビロニア人がエルサレムを滅ぼして,ダビデ王の子孫として君臨していた,永続する王国のための神の契約の相続者を打ち破った西暦前607年に始まりました。しばしば異邦人の時と呼ばれるその期間は,イエスの時代に至るまで続き,しかも聖都の二度目の滅亡後もさらに継続することになっていました。エルサレムとユダの地が七十年間荒廃した後,ユダヤ人の忠実な残りの者がバビロンの流刑の地から帰還して,長年にわたって荒廃した地にエルサレムおよび他の都市を再建したのは事実です。とはいえ,エルサレムが最初バビロニア人によって,次にバビロンを征服したメディア-ペルシャ人によって踏みにじられることが終わった訳ではありませんでした。
15 (イ)西暦前537年にエルサレムが再建された後も異邦人の時は続きました。なぜですか。(ロ)イエスがポンテオ・ピラトの前で裁きを受けた後も,その時は続きました。なぜですか。
15 どうしてですか。なぜなら,西暦前537年にエルサレムが再建された後も,エルサレムにはダビデの王統の王座もメシアの王国も再興されなかったからです。エルサレムは今やメディア-ペルシャ帝国の一属州に位置しており,メディア人ダリウスおよびペルシャ人クロス大王の支配下にありました。それで,西暦前1070年にダビデ王によって攻略されて以来エルサレムが表わしたもの,すなわちダビデ王の子らである後継者の治めるメシアの王国の首都としての地位はなおも踏みにじられていました。レビ人の支配者の治めたマカベア王国(西暦前104-63,40-37年)もその事実を変えるものではありませんでした。次いで,「ダビデの子」イエスがやって来て,神の霊で油そそがれた者として現われたとき,ユダヤ人の宗教指導者およびその追随者の大多数は,イエスを自分たちのメシアなる王として受け入れようとはせず,ローマ知事ポンテオ・ピラトに向かって,「わたしたちにはカエサルのほかに王はいません」と叫びました。(ヨハネ 19:15)それで,異邦人の時はさらに進行し,メシアとしての王権を受ける権利はなお後代に至るまで踏みにじられました。
16,17 (イ)イエスの預言の成就ゆえに,異邦人の時はいつ満たされたと言えますか。(ロ)神はその時の長さを昔のどんな王に啓示しましたか。神はその王をどのようにお用いになりましたか。
16 ところが,イエスは,「諸国民の定められた時が満ちるまで」と言われました。西暦前607年にバビロンがエルサレムのダビデ王の王座を覆した後,異邦人が神のメシアの王国に干渉したその時はどれほどの期間続くことになっていましたか。
17 もち論,第一次世界大戦以来イエスの預言の成就として起きた事柄を見てきた後の今,それは西暦1914年に異邦人の時が満了するまで続くことになっていたと確信をもって答えられます。それはそうですが,それだけではありません。西暦前607年にエルサレムを滅ぼしたネブカデネザル王の時代に神は,当時始まっていた異邦人の時が神のメシアの王国の干渉を受けずに続く期間の限度を定めたことを啓示し,象徴的な七つの「時」の間続くことを示しました。神は夢の中でその期間をネブカデネザルに啓示し,預言者ダニエルがその夢を解き明かしました。(ダニエル 4:16,23,25,32,新)神はネブカデネザルを木こりのように用いて,西暦前607年にエルサレムにおける神の王国の地的表現をいわば切り倒させました。その象徴的な「木」の切り株には輪がかけられ,「七つの時」が終わるまでは,切り株から芽が出て新しい木が生じないようにされました。
18 (イ)ダビデ王家によって行使されて然るべき,王国の支配権は,その異邦人の時の期間中,だれによって,またどんな仕方で行使されましたか。(ロ)メシアによる支配が回復されることはどのように描かれていましたか。
18 一方では,その「七つの時」の間,異邦人の世界支配者が支配権を行使することになりましたが,その支配権は実際には,永続する王国のために神がダビデ王と結ばれた契約のゆえに,ダビデ王の王統に属するものでした。しかし,そのような異邦人の支配者たちは,狂気に陥っていた七年間ネブカデネザルが示したように無分別で,きわめて非神権的で,反メシア的な仕方でその支配権を揮いました。しかし,その七年の終わりに,正気になったネブカデネザルが支配者の地位に復したのと全く同様,異邦人が世界を支配した「七つの時」の終わりに,神の王国のメシア的特色が回復されることになっていました。その時,王位を表わす切り株の輪が解かれ,その根からは支配権を表わす新しい木が成長することになっていました。―ダニエル 4:1-37。
19 (イ)異邦人の時は七つを数えますが,その各の一「時」はどれほどの長さになりますか。(ロ)その七つの時は,一年のうちのいつごろ始まり,いつごろ終わりましたか。
19 さて,西暦1914年から西暦前607年までさかのぼって計算すると,その期間は2,520年となります。次に,「時」の数である七で2,520年を割ると,360年となります。これが聖書中の預言的な一「時」の長さです。(啓示 12:6,14。啓示 11:2,3と比べてください。)ネブカデネザルが狂気に陥った文字どおりの七年は,2,520年の長さの「七つの時」を例示しています。360日で成る預言的な一「時」の各一日は一年を表わしているからです。(エゼキエル 4:6。民数 14:34)象徴的な「七つの時」は,バビロンの軍隊がエルサレムとユダの地を荒廃させ,殺害された総督ゲダリヤに代わる総督をその他に立てずに放置した,陰暦チスリの月の半ばころに始まりました。ゆえに,それは西暦1914年のその時期,つまり1914年10月4日か5日ごろ終わったことになります。
20 西暦1914年には,西暦前607年に起きた事柄の逆のことが生じましたが,それは何を意味しましたか。
20 この後者の時点にさいしては,異邦人の時が始まった西暦前607年のチスリに起きた事柄の逆のことが起きることになっていました。ユダの地は廃きょのまま放置され,エルサレムには神殿もなく,ダビデ王の油そそがれた子孫の座した「エホバの王座」もありませんでした。(歴代上 29:23,新)ということは,西暦1914年の初秋に異邦諸国民がメシアの王権を踏みにじることが終わり,地上のエルサレムにではなく,今やダビデ王の主であるみ子がエホバ神の右に座している天で,メシアの王国が誕生することを意味していました。(詩 110:1,2,新)その時,「正当な権利を持つ」油そそがれた者が来て,エホバ神はその油そそがれた者に王国をお与えになったのです。―エゼキエル 21:25-27,新。ダニエル 7:13,14。
21 神のメシアの王国が天で誕生することは,どのように描かれていましたか。それに続いて,直ちに何が起こりましたか
21 その驚嘆すべき出来事が目に見えない天で起きた時,第一次世界大戦は既に二か月余経過していました。啓示 12章1-5節では,生まれたばかりのそのメシアの王国は,神の天の「女」が産んで,神と支配権を共にするため神のみ座に引き上げられた男の子として描写されています。ゆえに,神の「とこしえの目的」のこの壮大な特色となる事柄は,それも超人間的な反対にもめげず勝ち誇ったのです。このことについては,こう記されています。
「また,天で戦争が起こった。ミカエルとその使いたちが龍と戦った。龍とその使いたちも戦ったが,優勢になれず,彼らのための場所ももはや天に見いだされなかった。こうして,大いなる龍,すなわち,初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちもともに投げ落とされた。そして,わたしは大きな声が天でこう言うのを聞いた。
「『今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した! わたしたちの兄弟を訴える者,日夜彼らをわたしたちの神の前で訴える者は投げ落とされたからである。そして彼らは,子羊の血のゆえに,また自分たちの証しのことばのゆえに彼を征服し,死に面してさえ自分の魂を愛さなかった。このゆえに,天と天に住む者よ,喜べ! 地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである』。
「さて,自分が地に投げ落とされたのを見た時,龍は,男の子を産んだ女を迫害した。……それて龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った」― 啓示 12:7-17。
22 (イ)ミカエルがサタンとその悪霊たちを天から投げ出すということは,ミカエルの正体に関して何を示していますか。(ロ)イエスは,「[女の]胤のうちの残っている者たち」に臨む迫害をどのように予告されましたか。
22 そうです,み使いの頭ミカエルは再び天に現われ,へびの頭を砕くよう定められていた,神の「女」の「胤」として戦いに勝ち,元のへびとその使いたちである悪霊を地に投げ落とします。怒った大いなるへびは,たまたま第一次世界大戦中,またそれ以後地上にいた「彼女の胤のうちの残っている者たち」を迫害することによって,「女」を迫害します。イエスはご自分の預言のなかで,「事物の体制の終結」の期間中に起きることになっている,油そそがれた追随者たちのそのような迫害を予告し,弟子たちにこう言われました。
「その時,人びとはあなたがたを患難に渡し,あなたがたを殺すでしょう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。……しかし終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」― マタイ 24:9-13。
23 (イ)油そそがれた残りの者は,イエスから与えられたどんな命令に従うことによって自分たちの実体を明らかにしてきましたか。(ロ)彼らは異邦人の時が終わる年を,早くもいつ発表していましたか。
23 それで,1914年の初秋に「終わりの時」が始まったことを示す,聖書および世界史からの証拠が手近にあります。この事と完全に調和して,「神のおきてを守り,イエスについての証しの業を持つ」油そそがれた残りの者に対する迫害は続いています。彼らはイエスの預言のなかで与えられている,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」という神のおきてを守る人たちです。(マタイ 24:14)油そそがれた人々のこの残りの者は,西暦1914年以来,歴史の記録のなかで自分たちの実体を明らかにしてきました。その年以前にも,この油そそがれた残りの者の成員は,キリスト教世界とは別個に神のみことばを真剣に研究し,人間の作り出した宗教上の伝承よりも聖書を優先させ,早くも1876年には,2,520年にわたる異邦人の時が1914年に終わることを発表していました。その年以来起きてきた出来事は,彼らが誤ってはいなかったことを証明しています。
24 (イ)第一次世界大戦中,残りの者はなぜ国際的憎しみの的となりましたか。(ロ)同大戦後,彼らはどんなわざに携わりましたか。どんな名を一般に知らせることに努めましたか。
24 第一次世界大戦中,彼らはあらゆる国民の憎しみの的となり,激しい迫害を被りました。それは,彼らが神のメシアの王国を支援し,キリスト教世界が流血行為に加担して自らを汚していた罪を犯さないよう努力したためでした。同大戦後の最初の年である1919年に,彼らはクリスチャンとしての自分たちの責務を認め,異邦人の時の終わった1914年に天で樹立された神のメシアの王国を,かつてないほどふれ告げるようになりました。(マタイ 24:14)1925年には,彼らの霊的理解の目は開かれ,神が名を揚げる時が来たことを悟りました。(サムエル後 7:23。エレミヤ 32:20。イザヤ 63:14。1925年8月1日付の「ものみの塔」誌の226ページ,第2欄,4節,また1925年9月15日号同誌280ページの41-43節を見てください。)ゆえに今や彼らは,聖書に記されている,生ける唯一真の神の名と,「わたしたちの主イエスに関連して神がお立てになったとこしえの目的」とを世界中に知らせるわざに精をだしました。―エフェソス 3:11。
25 油そそがれた残りの者は,自分たちを何から区別する必要がありましたか。それで,西暦1931年に何を採用しましたか。
25 それで,1931年にはせん越な行動を取るどころか,今や自分たちの講ずる処置を正当なものとする十分の理由を得た彼らは,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンと自分たちとを区別する名称を採用しました。彼らは啓示 18章4節にある神のおきてに従って,その大いなるバビロンから出て来たのです。そうです,何百もの分派を擁し,俗事に関係し,非常な流血の罪を犯したキリスト教世界からさえ自分たちを区別する名称を採用したのです。確かにそれは聖書に基づいたものであり(イザヤ 43:10,12),またキリストの教えにかなう自分たちのわざを自分自身の前に提示する名称です。すなわちそれは,その時以来世界中で知られるようになり,尊ばれるとともに憎まれた,エホバの証人という名称です。彼らはこの名称に恥じない生活をしています!
ハルマゲドンを生き残る「大群衆」
26 神はどれほど遠い昔から「ご自分のみ名のための民」を取り出してこられましたか。今日,神にはそのような民がありませんか。
26 このすべては単なるつかの間の宗教的熱情の表われでしたか。単なる筋違いの偶然でしたか。それとも,神の漸進的な目的にしたがった事柄でしたか。結果を見てください! 神が聖霊を注ぎ,霊に満たされた使徒ペテロが立ち上がってヨエル書 2章28-32節の預言を引用し,何千人ものユダヤ人に,「そして,エホバの名を呼び求める者はみな救われるであろう」と述べた,西暦33年のペンテコステのあの歴史的な日に,エルサレムでは特にある事柄が始まりました。そこで神は「ご自分のみ名のための民」,霊的なイスラエルを組織し始められたのです。(使徒 2:1-21; 15:14)西暦36年の『第七十週年』の終わりには,さらに別の処置が取られ,神は使徒ペテロを遣わして,割礼を受けていない異邦人に対して宣べ伝えさせ,信仰の厚い非ユダヤ人に聖霊を注がれました。こうして神は,異邦人にもバプテスマを受けさせ,聖霊で油そそぎ,彼らを霊的イスラエルに加えて,「ご自分のみ名のための民」を増大させました。(使徒 10:1から11:18; 15:7-11)それは一世紀当時の出来事ですが,二十世紀の今日についてはどうですか。論争の余地のない歴史上の事実は,神が今なお「ご自分のみ名のための民」を首尾よく持っておられることを証明しています!
27 ゆえに,この点で今日のわたしたちには,神がご自分の目的を固守してこられたことを示すどんな証拠がありますか。このことから,今やだれに祝福が及んでいますか。
27 アブラハムの霊的な「胤」の最後の残りの者が今日地上にいますが,これはイエス・キリストを頭とする14万4,000人の霊的なイスラエル人の全成員を神が今や満たしておられることの証拠です。しかもそれは,悪霊や人間のあらゆる反対にもめげずなされているのです!『キリストに関連して神がお立てになったとこしえの目的』は,今や勝ち誇っています! 神は以前と少しも変わることなく,近い将来にご自分の目的を貫き,完全に実現させて勝利を収めるよう見届ける覚悟でおられます。ああ,それは人間にとって何という益をもたらすものとなるのでしょう。このことを正しく評価する人々の「大群衆」は世界中で増えています。彼らは既に,アブラハムの霊的な「胤」の,神の用いる残りの者を通して祝福を得ています。
28 アブラハムの「胤」のおもな者とはだれですか。祝福がその「胤」の成員だけに限られているかどうかを,何が示していますか。
28 昔の族長アブラハムはエホバ神を表わしていました。エホバご自身はより大いなるアブラハムです。その「胤」はおもに,一度犠牲にされたみ子,わたしたちの主イエス・キリストです。霊的なイスラエルの全成員さえ,その「胤」の主要な者を通して祝福されてきました。しかし,その祝福はそれらの人たちで終わるのではありません! 神は昔のアブラハムに誓いをもって約束されました。「あなたの胤によって,地の国々の民はみな,確かに自らを祝福するであろう」。(創世 22:18,新。使徒 3:22-26)この「胤」に含まれるのは決してイエス・キリストだけではありません。アブラハムの胤は星や海辺の砂のようにたいへん多くなることになっていたからです。それで,その「胤」には霊的なイスラエル全員が含まれます。他の人々,そうです,その「胤」つまり霊的なイスラエル以外の「地の国々の民はみな」,その「胤」全体によって祝福を得るのです。ゆえに,全人類は,霊的な「胤」の天の父,大いなるアブラハムであられるエホバ神によって祝福されます。このような結末を考慮して,その「胤」のメシアの王国のもとで死者の復活が行なわれるのです。―使徒 24:15。
29,30 (イ)その「胤」の残りの者を通して今祝福を受けている人たちは,キリスト教時代以前にはだれによって予表されていましたか。(ロ)イエスはきたるべき「大患難」の生存者のことをどのように指摘されましたか。
29 そして今日,国々の民すべてのなかで,アブラハムの「胤」の「残りの者」を通して,あるいはその「残りの者」と交わって祝福を受けているのはどんな人たちですか。神の愛ある目的によれば,そのような人たちは昔から予表されていました。だれによってですか。
30 西暦前1513年の昔,解放されたイスラエル人は最初の過ぎ越しの夜の後,エジプトを去り,その後紅海を無事通過してシナイ半島の岸に着いたとき,彼らに同行した,「大勢の入り混じった人びと」がありました。(出エジプト 12:38,新。民数 11:4)西暦前607年にバビロニアの軍隊がエルサレムを最初に滅ぼした時,エチオピアの宦官エベデメレクと,イスラエル人ではないレカブ人も聖都とその神殿の滅びを生き残りました。(エレミヤ 35:1-19; 38:7-12; 39:16-18)また,西暦33年のニサン11日にイエスは,西暦70年にエルサレムに臨もうとしていた滅びを予告して次のように言われましたが,その滅びはわたしたちの世代におけるキリスト教世界の滅びを預言的に示す型でした。
「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。事実,その日が短くされないとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」― マタイ 24:21,22。マルコ 13:19,20。
31 霊的な残りの者と共にその「患難」を生き残る「大群衆」に関するどんな幻が使徒ヨハネに与えられましたか。
31 霊的なイスラエルの残りの者つまり「選ばれた者たち」のほかにも,近づいたその「大患難」を生き残る人たちがいます。西暦96年ごろ,霊的なイスラエルの「残りの者」と一緒になって「大患難」を通過する人たちに関する幻が,年老いた使徒ヨハネに与えられました。霊的なイスラエルの14万4,000人の成員に霊的な仕方で証印を押すことに関する幻を受けた後,ヨハネは直ちにこう続けて言いました。
「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』。
「すると,長老のひとりがこれに応じてわたしに言った,『白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか』。それでわたしはすぐ彼に言った,『わたしの主よ,あなたが知っておられます』。すると彼はわたしに言った,『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることもなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」― 啓示 7:9,10,13-17。
32 (イ)この幻に関する,現代の諸事実に合致した説明が初めて発表されたのはいつですか。(ロ)この「大群衆」に属する人たちは天に行って,神の子羊とともに統治すると考えるべきではありません。なぜですか。
32 この幻に関する,現代の諸事実に合致する説明は,1935年5月31日に開かれたエホバのクリスチャン証人のワシントン(特別区)大会を皮切りに,同1935年に初めて発表されました。その幻で見た「大群衆」は,天に行って,14万4,000人の霊的なイスラエル人と共に天のシオンの山で統治することを期待してはいません。例えば,啓示 14章1-3節には,神の子羊と共に天のシオンの山に立つのは14万4,000人の霊的なイスラエル人だけであると書いてあります。その「大群衆」がそこに立っているのは見えませんが,それはもっともなことです。ただ14万4,000人についてだけ,「これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」と言われています。(啓示 14:4,5。ヤコブ 1:18)「人類の中から買い取られ」ている14万4,000人に関しては,神の子羊に次のように話しかけられたことが書かれています。
「あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取ったからです。……彼らは地に対し王として支配するのです」― 啓示 5:9,10。
33 では,神の新しい契約の目的はだれのうちに実現されますか。
33 ゆえに,霊的なイスラエルと結ばれた神の「新しい契約」は,それら14万4,000人のうちに実現します。なぜなら,その新しい契約は,古いモーセの律法契約が生み出さなかったものである「祭司の王国,聖なる国民」を生み出すことになっていたからです。(出エジプト 19:5,6,新)啓示 7章9-17節にある「大群衆」は,その新しい契約に入れられてはいませんが,彼らは今日,新しい契約にはいっている霊的イスラエル人の「残りの者」と確かに交わっています。
34 「大群衆」に属する人たちは,どこで永遠の命を享受することを期待していますか。彼らは神とその子羊について何を認めますか。
34 ですから,その「大群衆」は,「大患難」を生き残った後でさえ天に行くことを期待するわけではありません。「大群衆」に属する人たちは,「大患難」の後この地上で神の子羊によって牧され,パラダイスの地で永遠の命に導かれることを期待しています。彼らは王位につかれた天の神を全創造物を治める宇宙の主権者として認めます。また,彼らはメシアなるイエスを「世の罪を取り去る,神の子羊」として認め,ひとたび「ほふられた」子羊を通して自分たちの救いを神に負っており,彼らは信仰と従順によって「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」ことを認めます。
35 (イ)彼らは神の「神殿」のどこで絶えず神に仕えますか。なぜですか。(ロ)彼らは神の大祭司に対する忠節をどのように表わしますか。イエスはたとえ話のなかで彼らのことをどのように描かれましたか。
35 彼らは主権者であられる主エホバのみを自分たちの神として認めます。彼らが神の霊的な神殿の地上の中庭で「昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」ところが見えるのはそのためです。その神殿の至聖所は,聖なる天にあります。(ヘブライ 9:24)それで,「大群衆」は今や,新しい契約によって生み出される王なる祭司となる見込みを持つ14万4,000人の霊的なイスラエルの残りの者と接触しています。「大群衆」に属するそれらの人たちは,王なる祭司イエス・キリストに対する忠節の表現として,なお地上にいる,イエスの霊的な兄弟たちに対して忠節を示しています。彼らはキリストの霊的な兄弟たちに加わって「王国のこの良いたより」を全世界で宣べ伝えることさえして,それら霊的な兄弟たちにできるかぎりの善を行なっています。そのような忠節な人たちこそ,イエスがそのたとえ話のなかで次のように述べて描写した「羊」級の人々なのです。
「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたしが飢えると,あなたがたは食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなたがたはあたたかく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました』。その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を与えたり,渇いておられるのを見て飲む物をさし上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見てあたたかく迎えたり,裸なのを見て衣をあげたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。すると,王は答えて言うでしょう,『あなたがたに真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』。
「そして,[やぎ級]は去って永遠の切断にはいり,義なる者たちは永遠の命にはいります」― マタイ 25:34-40,46。
36 たとえ話のやぎ級はいつ,またなぜ『切り断たれ』ますか。
36 今や統治しておられる王イエス・キリストの霊的な兄弟たちに対して「羊」のように行動しない人たちは,きたるべき「大患難」のさいに切り断たれます。そのような人たちは神の天の「女」の「胤」ではなく,「初めからのへび」サタン悪魔の「胤」を支持しているからです。(創世 3:15,新。啓示 12:9,17)彼らは,「初めからのへびで……人の住む全地を惑わしている者」の影響と指図に屈しており,またそれゆえに,間もなく「大患難」が起こるとき,彼らはへびの「胤」の側にいることがわかるのです。
37 今やこの世俗的な体制は1914年以来どんな時期に遭遇していますか。ゆえに,ダニエル書 12章1節によれば,この世代は何に直面していますか。
37 神のメシアの王国が1914年に天で誕生して以来,この世俗的な事物の体制はその「終わりの時」にはいりました。その「終わりの時」は間もなく,イエス・キリストの予告なさった「大患難」で最高潮を迎えます。エホバ神がご自分の初子である天のみ子を地に遣わし,み子がイエスと呼ばれるに至るずっと以前,その類例のない患難は預言者ダニエルによって予告されました。そこで,神のみ使いはダニエルに向かってその預言を次のような言葉で言い表わしました。
「そして,その時の間に,あなたの民の子らのために立っている大いなる君,ミカエルが立ち上がります。国民が存在するようになって以来その時までに起きたことがないような苦難の時が必ず起こります」― ダニエル 12:1,新。マタイ 24:21と比べてください。
人類のこの世代は今やその「苦難の時」に直面しているのです。
38 (イ)どんな宗教を実践する人たちは,大いなるバビロンの滅びを生き残りますか。(ロ)「全能者なる神の大いなる日の戦争」は,どんな問題を解決するために行なわれなければなりませんか。
38 その「苦難の時」つまりその「大患難」の時の間に,宗教に敵対する政治勢力は現代の大いなるバビロン,すなわち古代バビロンとともに始まった偽りの宗教の世界帝国を滅ぼします。(創世 10:8-12。啓示 17:1から18:24)霊的なイスラエルの「残りの者」および「大群衆」の成員は,真の宗教を実践する者として神の保護のもとで,その滅びを生き残ります。(ヤコブ 1:27)そのようにして,宗教に敵対する勢力が,清くて汚れのない「崇拝の方式」つまり真正な宗教を地から一掃することに失敗したのち直ちに,象徴的な意味でハルマゲドンと呼ばれる所で「全能者なる神の大いなる日の戦争」が起きます。(啓示 16:14,16)なぜですか。なぜなら,残りの者と「大群衆」が擁護している,全創造物に及ぶエホバの主権の問題がやがて解決されなければならないからです。その問題を解決することは,神の約束の「胤」の主要な者である「キリスト,すなわちわたしたちの主イエスに関連して神がお立てになったとこしえの目的」のすべてなのです。
39,40 (イ)その問題をめぐる軍事的対決はどこで起きますか。わたしたちは,だれがそこに集まっているのを見ていますか。(ロ)そこでだれの勝っていることが勝利によって明らかにされますか。
39 今日の諸政府の主張する国家主権と創造者の宇宙主権とは両立しません。この「終わりの時」が尽きようとしている今,この最も重要な問題をめぐる軍事的対決がいよいよ迫っています。きたるべき出来事を先見した啓示の書に照らしてみると,地上の王たち,また政治支配者たちとその軍隊や支持者たちがあくまでも戦おうとしてハルマゲドンの戦場に集められているのが見えますか。確かに見えます。
40 とはいえ,わたしたちはまた信仰によって,天の王の王イエス・キリストとそのみ使いの軍隊があたかも白い軍馬に乗ってその同じ戦場めざして疾走しているのを見ています。わたしたちは神のことばの述べることを信ずることができます。ハルマゲドンにおけるその戦いは,全能者なる神にとっては勝利を,また人間の作り出した種々の体制とその役人や軍隊および愛国主義的支持者たちすべてにとっては滅びをもたらして最高潮に達します。かつては子羊にも似たイエス・キリストはご自分が王の王であることを実証なさるでしょう。というのは,エホバ神はメルキゼデクのような,ご自分の王兼祭司のそばで戦士としてその右におられるからです。―啓示 17:12-14; 19:11-21。詩 110:4,5。
41 (イ)ハルマゲドンの後,「初めからのへび」は残りの者と「大群衆」に対してそれ以上戦うことはできなくなります。なぜですか。(ロ)神の「女」の「胤」にとって今やどんな意味で絶好の時が到来しますか。
41 それは,「初めからのへび」とその使いたちである悪霊が天から放逐されて以来,欺かれた人類すべてを導いて陥らせてきた『地と海との災い』の壮大な最高潮となります!(啓示 12:7-12)「初めからのへび」は,その地上の「胤」すべてがハルマゲドンで滅ぼされるので,女の「胤のうちの残っている者たち」と,主権者であられる主エホバの仲間の崇拝者たちとに対してそれ以上戦いをまじえることはできなくなります。(啓示 12:13,17)その「初めからのへび」と配下の見えない悪霊たちで成る「胤」は,天から追い落とされて入れられているこの地球の近辺に,自由に動けるまま放置されることになるのでしょうか。そうではありません! というのは,殺意を抱いたあのへびによって,かつてかかとを砕かれた,神の「女」の天的な「胤」であるイエス・キリストにとって今や絶好の時が到来するからです! 形勢は一変し,今や神の天的な「女」のその「胤」はへびの「頭」を砕き,へびとその悪霊たちで成る「胤」は,あたかもかつて存在したことがなかったかのように処置されます! どのようにしてですか。
42 (イ)その時,へびとその「胤」はどのように砕かれますか。(ロ)その時,天的な支配勢力と地上の社会に関してはどんな変化が生じますか。
42 へびとその悪霊たちを地球の近くから除去して「底知れぬ深み」に投げ込み,鎖でするように彼らを縛って,次の千年間そこに閉じ込め,封印することによってそうするのです。啓示 20章1-3節ではこのことはハルマゲドンの戦いの一部を成す事柄としてではなく,その戦いに続いて起きる事柄として描かれています。(創世 3:15,新。ローマ 16:20。ルカ 10:18-20)こうして,地上の人類社会を制するサタンの古い「天」は永久にぬぐい去られ,神のメシアの「新しい天」が広がって,地上の新しい人類社会を祝福します。ああ,その時こそ使徒ペテロの言葉は実現して勝ち誇るのです。象徴的な古い天と地の滅びを説明した後,彼は次のように述べてエホバ神の真の崇拝者たちを激励しています。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」― ペテロ第二 3:7-13。啓示 20:11; 21:1。イザヤ 65:17。
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創造の第七「日」を神聖にする人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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15章
創造の第七「日」を神聖にする
1,2 (イ)大いなるへびが砕かれることによって,神の「とこしえの目的」は完全に達成されることになりますか。(ロ)神の目的によれば,へびを砕くことによってだれに益がもたらされることになっていましたか。
「キリスト,すなわちわたしたちの主イエスに関連して神がお立てになったとこしえの目的」が,人類の永続する益のために勝ち誇る,待望の時は間近に迫りました。これはそのために生きるだけの,つまりそれを見て,言いようのない喜びを抱きつつその益にあずかるだけの価値のある事柄ではないでしょうか。霊的なイスラエルの生き残る残りの者と,仲間のエホバの証人で成る「大群衆」はその勝利を見,永遠にわたってその益にあずかります。しかし,神の天的な「女」の「胤」に関連する神の「とこしえの目的」は,その時完全に達成されるわけではありません。それはメシアなるイエスとアブラハムの「胤」の14万4,000人の仲間の成員が統治するよう指定された千年の期間中,またその終わりに至るまで,さらに勝利を収め続けなければなりません。(啓示 20:4-6。ガラテア 3:8,16,29)それはどうしてですか。
2 そうです,罪と死のもとに生まれた人類が,大いなるへびの頭が砕かれることによって益を受けるのは神の「とこしえの目的」に添うことでした。アブラハムに対する神の約束によれば,地のすべての族,また国々の民はみな,アブラハムの霊的な「胤」によって自らを祝福し,永続する祝福を得るのです。(創世 12:3; 22:18)キリストの統治する千年の期間は,そのような祝福をもたらすわざを行なえる時となります。
3 神の最初のどんな目的が実現するためには,地に対する千年統治がなければなりませんか。それはだれによる統治ですか。
3 メシアなるイエスとその栄光を受けた14万4,000人の仲間の王また従属の祭司たちは,人間を地上のエデンの園に置いた創造者なる神の最初の目的を忘れはしません。それは全地を世界的な規模のエデンの園として栄えさせることでした。神の最初の不変の目的は,そのパラダイスの全地を義にかなった完全な男女で満たし,それらの人々が神の天と地の宇宙的な家族の成員,つまり神の宇宙的な組織の成員として天の父と平和な,愛ある関係を保ってこの地上でとことわに生きることでした。海の魚や天の飛ぶ生き物はすべて,また飼いならされたものや野生のものを含め,地上に動く生き物はすべて,他に危害を加えることなく,その敬虔な人類におとなしく服従することになっていました。(創世 1:26-31,新。イザヤ 45:18。詩 115:16; 104:5)神のこの最初の目的が実現するためには,神の天的な「女」の「胤」は千年間統治しなければなりません。それを成し遂げるわざは,地上にいたとき「人の子」と呼ばれたメシアなるイエスに割り当てられました。―詩 8:4-8。ヘブライ 2:5-9。
4 霊的なイスラエルの残りの者が栄光を受けた後,生き残った「大群衆」だけが地上に人間の住民として残されるわけではありません。なぜですか。
4 したがって,霊的なイスラエルの生き残った残りの者が地上での歩みを終えて,統治するメシアなるイエスおよびその共同相続者の他の者たちとともに栄光を受けた後,「患難」を生き残った他の「大群衆」だけが,清められた地上に取り残されるのではありません。それらの人たちは『地を満たす』には少な過ぎます。それに,主イエス・キリストの完全な人間の犠牲によって贖われたのは彼らだけではありません。イエスは,「すべての人のために死を味わう」べく「かかとを」砕かれ,「すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与え」られたのです。(ヘブライ 2:9。テモテ第一 2:5,6)それら贖われた人たちの大多数は今や人類共通の墓の中で死んでいます。彼らはどのようにしてメシアの贖いの益にあずかれるのでしょうか。約束された,死者の復活によるのです。(ヨブ 14:13,14。イザヤ 26:19。マタイ 22:31,32。ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15。啓示 20:12-14)このような訳で,復活させられるそれら何十億もの人々が,生き残った「大群衆」に加わります。そのすべては,あの最初の一組の人間アダムとエバの子孫だからです。何と世界的な規模で家族が再び結び合わされるのでしょう。
5 (イ)キリストとその14万4,000人の者たちの遂行すべき神の目的としては,ほかに何がありますか。(ロ)神はどのようにして創造の第七「日」に休まれましたか。
5 今や,統治するイエス・キリストとその14万4,000人の共同相続者が遂行しなければならない特別の目的があります。それは何ですか。神の創造の第七「日」を祝福された日,神聖な日にすることです。神がアダムとエバを創造し,ふたりに仕事を委ね,パラダイスでの生活の目的を両人に説明した後,神の創造の第六「日」は終わり,創造の第七「日」が始まりました。それは約六千年前のことでした。神はこの後者の創造の「日」をご自身のための安息の「日」と定めました。神はその日に地的創造のわざをやめて休むことになりましたが,それは疲れたからではなく,最初の人間夫婦とその子孫をしてご自身に仕えさせることによって,ご自分を生ける唯一真の神として崇拝させるとともに,彼らに割り当てた奉仕を遂行させるためでした。ご自分の述べた,人間に対する目的が,次の七千年つまりご自身の安息「日」の期間中に遂行されることをご存じだったのです。
「神はその第七日目を祝福し,それを神聖にされた。それは,その日に,神が造るために創造を行なっていたすべてのわざをやめて休んでおられるからである」― 創世 2:3,新。
6 (イ)神の安息日としてのその創造の第七「日」はどのように神聖さを汚されましたか。(ロ)それにもかかわらず,神はどのようにしてそれを祝福された神聖な「日」にされますか。
6 そのすぐ後のこと,自ら悪魔サタンになった,神の霊の子が,エホバ神のその聖なる創造の第七「日」を汚しはじめました。六千年にわたってサタンとその「胤」は,それを神の『休み』を妨げる汚れた,のろわれた「日」のようにさせ,神にご自分の定めた安息「日」を破らせようとする試みを続けることが許されてきたのです。しかし,むだでした! 大いなるへびとその悪霊たちで成る「胤」が底知れぬ深みに入れられる千年の間に,エホバ神は,ご自分の安息日の神聖さを汚したそれらの者たちが地上で行なったすべての悪を取り消します。エホバ神はみ子イエス・キリストの千年統治によって,最初の人間夫婦の子孫である人類を向上させ,人間として完全で罪のない状態に引き戻します。人類のなかの反抗的で不従順な者たちだけが,エホバ神の大いなる安息「日」を尊ばない者として滅ぼされます。(啓示 20:14,15)パラダイスは地に回復され,全地に広げられます。全地は最初の人間夫婦から出た人類で満たされ,そのとき全地は従わされます。―創世 1:28,新。
7 こうして,イエスの教えられたどんな祈りが成就しますか。その時,イエスはエホバの宇宙主権に対する認識をどのように示されますか。
7 「キリスト,すなわちわたしたちの主イエスに関連して神がお立てになったとこしえの目的」が成就することによって,神の創造の第七「日」は祝福され,聖別された,神聖な日となります。エホバは六千年前にその「日」を祝福し,次いでそれを神聖にされましたが,それが無効にされてエホバが永遠の恥辱を被るということはありません。「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」というメシアの祈りはその効力を保持し,輝かしい成就を見ます。(マタイ 6:10)イエス・キリストはエホバの「とこしえの目的」のために尽くし,その目的を勝ち誇らせて神に誉れを帰し,次いで「王国を自分の神また父に渡し」,こうして宇宙の主権者で,いと高き方であられるエホバに自ら服されます。(コリント第一 15:24-28)イエスは忠節をつくしてエホバの宇宙主権を立証されるのです。
従順な人類を永遠の命を受けられる者として義とする
8 その時,回復させられた人類は,神のみ前でどんな立場に立ちますか。神は,永久の命を受けられる者としてだれかを義とする前に,何を行なわれますか。
8 神に神聖な奉仕をささげる割当てを神から与えられた,罪のない,完全なアダムがパラダイスのようなエデンの園にいたときと全く同様,回復させられた人類は今や独り立ちしています。パラダイスの地上にいる回復させられた人類のなかでだれが,愛ある創造者で,あらゆる命の源であられるエホバの主権と神位に対して忠節を保つでしょうか。エホバは,パラダイスの地上で永久の命を受けられる者としてだれを義とされますか。つまり,義と宣されますか。回復させられた全人類をこの重大な事柄で試みるため,エホバはイエス・キリストから渡される王国を受け,また大いなるへびとその悪霊たちを底知れぬ深みから解き放たせます。そして,改心しないそれら霊の反逆者が再び人類を誘惑し,惑わそうとするのを許します。
9 (イ)へびとその悪霊たちによる欺きに屈する,回復させられた人間には何が臨みますか。(ロ)神の「とこしえの目的」の最終段階はどのように成し遂げられますか。
9 回復させられた人類の一部の者が,エデンの園にいた完全なアダムとエバの場合と全く同様,サタンとその悪霊たちに惑わされるままになることを,エホバは否定してはおられません。数えられないほどの群衆がそうなるのを許されます。その試験が十分の限度に達し,宇宙主権と神位に対して個人個人がどのような立場を取るかに関し人類が決定的に分けられると,人間の反逆者たちには天から滅びがもたらされます。最後には,エホバの安息の神聖さを汚した大いなる冒涜者,悪魔サタンとその悪霊たちで成る「胤」の滅ぼされる番が来ます。それは神の天的な「女」の「胤」によってなされるに違いありません。その「胤」は,エデンの園で述べられた神の「とこしえの目的」によれば,へびの「頭」を砕く任務を与えられたからです。(創世 3:15,新)悪魔サタンとその悪霊たちは底知れぬ深みには決して戻れません。かえって,硫黄のまじった火によるような完全な滅びが彼らの受ける分となります。大いなるへびの頭を砕くその最終段階には一時的な回復はありません。サタンが誘惑者として行動する機会がさらに許されるということはありません。―啓示 20:7-10。
10 エホバの宇宙主権と神位に対する忠節を実証する人たちは,どのように報われますか。
10 それは,「キリスト,すなわちわたしたちの主イエスに関連して神がお立てになったとこしえの目的」にとって何とこの上ない勝利となるのでしょう。回復させられた人類のなかで,宇宙の主権者で,生ける唯一真の神であられるエホバに仕え,また服従する不変の決意を明らかに示す人たちを,エホバは義と宣します。そして,神の足台である,限りなく栄える地上のパラダイスにおける永久の命を報いの賜物として,それら義とされた人たちに授けられます。(イザヤ 66:1)エホバは,常に満足と活気を与える目的をもって彼らの終わりのない生活を充足させ,キリスト,つまりわたしたちの主イエスによりご自身に栄光をもたらされます。(啓示 21:1-5)ハレルヤ!―詩 150:6。
11 その比類のない神の目的に関して,わたしたちはどんな良い事を行なえますか。
11 さあ,ここに人類のための比類のない見込みがあります! それは自分たちの生活を今神の「とこしえの目的」と一致させる人たちのものです。神の目的をわたしたちの目的とする以上に優れたことはありません。
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理解しやすい聖書人間の益のために今や勝ち誇る,神の「とこしえの目的」
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理解しやすい聖書
「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」は,理解しやすい聖書です。なぜですか。なぜなら,理解しにくい古文ではなくて,現代の日本語で書き著わされているからです。
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