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その15 ファシスト ― ナチスの迫害下の海外の活動ものみの塔 1956 | 2月1日
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の180名は,二,三週間のうちに建物から強制立ち退きを命ぜられました。ヒットラーは次のようにのべています。
『これらの所謂,「最熱心な聖書研究者」「ヱホバの証者」は禍根をまくものである。彼らはドイツ内の調和ある生活をみだすものであつて,彼らはいかさま師のたぐひであると余は信ずる。また,ドイツ・カトリツクがこのアメリカ人の判事ルサフオードにより,このように汚されるのを許容することはできない。余はドイツからこの「最熱心な聖書研究者」を抹消する。また彼らの所有物を人々の福祉に供し,その文書全部を没収する』。―『事実を見よ』47頁-50頁。
アメリカのものみの塔聖書協会は1921年以来ドイツにおいても認められ,国際法によれば海外で財産を所有し運営することは許されておりましたが,ヒットラー政府がなした,この国際財産権利に対する目に余る違反は,継続されました。協会のブルックリン本部からの要請で,アメリカ合衆国,国務省はヒットラー政府に対して抗議文を提出しました。
協会のドイツ本部を閉鎖してから次に,ヒットラー政府は,全ドイツのヱホバの証者の会衆の集会を邪魔し始め,兄弟たちの集りを禁止する処置をとつたのです。このため,活動は1934年から地下で行われ,全体主義国家の命に従わない証者の投獄が開始されました。この不当なる迫害に対抗して,1934年10月7日,協会は全世界的な抗議運動を開始しました。政府の命令を無視して,ドイツの全会衆は10月7日の晩に参集し,ヱホバへの厳そかな祈りを捧げてから,ベルリンにあるヒットラー政府に対し,ヱホバの証者の地方会衆の署名づきの抗議の決議文が送られました。この同日同晩に,聖霊にむすばれた,50ヵ国にあつたヱホバの証者は,同様につどい,ヱホバへ祈りをささげてから,ヒットラー政府に宛てた抗議の電文を送りました。その文は次の通りのものです。『ヱホバの証者に対する貴殿の不法なる処置は,全地の善意の人々を驚かせ,神の名を汚がしている。ヱホバの証者に対してこれ以上迫害することを控えられよ。迫害を止めないならば,神は貴殿と貴殿の国家政党を滅ぼし去るであらう。』
目撃者の報告によると,この全世界的規模を持つた行動は,1934年10月7日ベルリンのライヒ内務省に少なからぬ衝動を与えました。当日ヒットラーみずから内務大臣フリック博士を訪れていたとき,これらの抗議電文が到着したのです。(ここに掲載してある)誓文によると,この電文をきいたヒットラーは,さつと立ち上り,ヒステリーのように拳をにぎりしめて,『この生意気な者共をドイツから根こそぎにして見せるぞ!』と叫んだと云われています。a このようにして,ドイツの国からヱホバの証者の姿を絶とうとする気狂いじみた全国運動が開始されました。やがて訪れた暗黒時代に,幾千もの証者は逮捕され,不当の有罪判定を下され,監獄や収容所に入れられて,言語に絶する苦痛をなめました。約2000名の証者は,ヱホバへの忠実を保つ戦を守つて,その生命をおとしたのです。しかし,1934年10月7日の電信,電報がよく警告してあつたように,神への挑戦者ヒットラーは,11年後の1945年にベルリンにおいて自殺をとげたと伝えられ,もはやこの世に生存しておりません。しかしながら,約8000名の証者は,悪鬼に劣らないヒットラーの極悪の拷問をうけても,収容所の中で生き残り,生ける神ヱホバの崇拝と伝道の業を継続しています。
イギリスでもまた神権福祉は拡大していました。1930年の初期の頃,聖書文書の配布とか,その数量についても,野外伝道の組織はすでに着実な歩みを見せていました。1931年までに365の会衆は設立され,4000名の規則正しい働き人のうち196名は開拓者で,それらの伝道者は150万から200万冊の書籍や冊子を配布しています。しかしながら,覚醒への特別の呼びかけが発せられて,イギリスにいる,ヱホバの御国宣明者たちは,懸命の努力と生長のために,更に励まされました。翌年,1938年の報告によると,5000名が野外奉仕にたずさわり,430万8710冊の文書が配布されています。1939年は618万5937の書籍及び冊子と6861名という奉仕者へと驚嘆すべき飛躍をとげました。この伝道者のうち,511名は開拓者です。この進歩は更につづいて,1940年には,9860名の伝道者により620万282冊の聖書出版物が配布されました。しかも,この年には,実に1037名という多くの数の開拓者が働いています。全体戦争の状態にもかかわらず,増加はなおも続いて,1942年に毎月の奉仕に携わつたものは1万2436名にのぼり,うち1488名は全時間奉仕者です。イギリスの証者は統一のとれた強固な制度となり,霊的にも少しも遅れず,戦争中の長い暗黒時代の試煉を充分耐える程になつていました。
しかしイギリスの活動も迫害のうちに推進されました。世界の他の国々のように,カトリックからの迫害を経験しましたが,その激しさは他とは比べものにならない程の激しさでした。数回に亘るカトリックーファシストからの攻撃は,1938年と1939年に,ロンドン,グラスゴウ,クリデバンク,オルデハム,ニューブリッヂ,チーネのヘブルン,フォルケストン,キャンバーレイ,レイセスター,ダウンデー,エボウ・バアーン及びノースウイッヒの各地でありました。あるときには,牧師の導く暴民は証者を攻撃し,あるときには集会をも邪魔しました。1940年には71件の攻撃事件が報ぜられております。1938年10月14日のロンドンの『カトリック・ヘラールド』は証者と判事ルサフォードに誹謗的な攻撃を加え,証者の活動は反政府的であるとの偽りの非難を浴びせました。しかし,『カトリック・ヘラールド』は,11月25日号の第1頁に,先の声明撤回を余儀なく発表し,その面目を失いました。
1938年,9月10日11日,ロンドンは,ものみの塔協会最初の多都市大会の中心都市として注目を集めていました。ヱホバの証者の50の大会は,イギリス,スコットランド,アイルランド,カナダ,アメリカ合衆国,オーストラリヤで同時に開催されました。50の都市全部はラジオ電話の設備により,連絡されていました。ロンドンのローヤル・アルバァート・ホールから判事ルサフォードによつて話された,二つの主要なる話は,イギリスの島々の都市や海外の都市の聴衆により,明瞭にきくことができました。土曜日の1時間の話は,『地にみてよ』の題についての心打つものでした。日曜日(9月11日)の公開講演のとき,50の都市にあつた15万名はルサフォードの声そのままをききました。『事実を見よ』という演題の心躍る話で,カトリックファシストの世界征服競争の接近について民主主義国家の人々を警告しました。それは,じつに特筆すべき大会です。12ヵ月のち,世界第二次大戦が開始され,ナチスとファシストは,予言されていたとおりに,世界征覇に全力を傾注しはじめました。
『事実を見よ』の公開講演のときには,サンドウィッチ式の看板が大会都市において大規模に使用されました。のちに小さい公共の集会所で色々の講演がレコードにより人々に聞かせる場合には,一列に並んだ伝道者たちが宣伝の看板を肩にかけて,通行ひんぱんな道路をねり歩き,集会宣伝のビラをくばりました。人々の目を見はらしたこの街頭伝道は『宣伝行進』として知られています。このようにして,『事実を見よ』の講演をおさめた冊子は,1200万冊も全世界で配布されています。まこと,力強い大戦前の証言運動です。(つづく)
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7歳の少年の伝道は実を結ぶものみの塔 1956 | 2月1日
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7歳の少年の伝道は実を結ぶ
これはイタリーの田舎のある学校でおきたことです。ここに在学していたある若い伝道者は,先生が宗教の題についての作文を命ずると,いつもヱホバ神の真の崇拝について書いていました。ところが,時折,この少年は目に涙をためて帰宅します。その理由は先生が折角のその作文を破つて,さいてしまうからです。クリスマスの時機になつて,この若い伝道者も,クリスマスの詩を暗記するよう命ぜられました。しかしながら,仮の馬小屋も作り,教室で稽古しているとき,彼はきっぱりした態度で自分の参加しない理由をのべ,しかも,それを詩篇 115篇と出エヂプト記 20章からの引用をもつて証明しました。先生みづからも聖書をしらべ,この少年の語るところが真理であることに気付いて,驚嘆したのです。この不思儀な宗教について詳細を知りたかつた先生はその少年の両親をたずね,親たちも喜んで,先生の沢山の質問に答えました。先生はヱホバ神とその目的についての知識を学びつづけ,知識がすすむにつれて,人への恐れも克服できるようになりました。まもなく自分の立場を宣明し,ヱホバに献身し,洗礼をうけました。今日では,先生も,その妻も,子供も,ヱホバの証者の会衆の集会に出席しています。それのみでなく,この一家全部は家から家に良いたよりを熱心にのべ伝えて居ります。これは,7歳の少年の伝道により結ばれた実に外なりません。
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