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    ものみの塔 1976 | 2月1日
    • 神をわたしたちの命の主権者とする

      「世の主権は我らの主およびそのキリストの所有となった。彼はとこしえに統治するであろう」― 啓示 11:15,アメリカ訳。

      1,2 わたしたちの命の主権者がだれかということは,非常に重大な問題ですか。この点をどのように例で説明できますか。

      わたしたちの命の主権者がだれかということは,果たしてそれ程重大な問題なのでしょうか。まさにその通りです。どこであろうと,支配者が絶対の権力を有する国では,人民の上に立つ支配者のよしあしは重大な問題となります。

      2 “主権者”という称号は,最高の権力を有し,地位・権威・行政手腕に関し,国内に比肩すべきもののない君主あるいは政治支配者を指します。そうした君主また支配者は,主権を有しており,良きにつけ悪しきにつけ,その支配は全臣民の命に影響を与えます。古代の賢明な一君主はこの点を次のように述べました。「義者ませば民よろこび 悪きもの権を掌らば民かなしむ」― 箴 29:2。

      3 今日,どんな二つの強大な政治勢力が,地上のすべての人間の魂を支配することをねらっていますか。

      3 今日,わたしたちは非常な危機の時代に住んでおり,命の主権者に関する問題を避けて通ることはできません。事態を表面的に見るならば,政治上の二大勢力が,地の全住民に関する統治と主権をめぐって激しく相争っているように見えます。政治的中立を主張する国々でさえ,それら強大な政治勢力のいずれかによる侵略を恐れ,強力な防衛態勢を取ることを余儀なくされています。種々の国家集団は,人の魂の支配をかけて互いに一歩も譲らぬこの争いにおいて,そのいずれかの側に集められています。その一方の側は,人びとの私事および公事の一律化,完全な規制をねらっており,宗教でさえ,たとえそれが認められたとしても,政治家による制圧や規制を免れない状態です。もう一方の側は,市民の私生活や個人の営みにおいてある程度の自由を認めますが,いったん国家の利益が危急の事態にさらされ,突然の侵略から国益を守る必要が生じると,人びとの生活に全面的な統制を加えます。

      4 共産主義と民主主義の間の抗争よりも大きいどんな抗争が迫っていますか。

      4 しかし,こうした政治闘争をはるかに上回る規模の抗争が,全人類の命にかかわる支配権をめぐって展開されているのです。国際共産主義と資本主義的民主主義との抗争は世界的な規模に及びます。しかしそれより規模の大きいこの抗争は,全宇宙を包含するのです。それは二つの,強大で,倫理的な力の間で争われるものであり,一方は善,他方は悪の力です。この抗争は今日に至るまで,人類史上六千年近くの間続いており,間もなくその最高潮を迎えようとしています。この相争う二つの力は理知ある者に関係しています。つまりそれは,磁気や引力のように,その背後に理知的な導きを有することなく,良きにつけ悪しきにつけ非人格的な作用を及ぼす,二つの盲目的な力のことではありません。つまり,悪はある者が悪を行なうが故に存在するのであり,善はある者が善を行なうが故に存在するのです。善の働きには人格的な源があり,同様に悪の働きにも人格的な源があります。善い律法は善い理知的存在から出,悪い律法は悪い理知的存在から出ているのです。

      5 この二つの力は何に例えられていますか。なぜですか。

      5 この二つの相争う力は,光と闇に例えられています。善の力は光に例えられています。善は光の中で行なわれ,その行為者は恥も恐れをも抱くことがないからです。悪の力は闇に例えられています。悪の行為は闇の中で行なわれ,その行為者は自分が不正を行なっていることに気づいているので,処罰を受けることを望まないのです。発覚を避けて闇の中で行なわれる悪行に従事する者は,暴露する力を持つ光を憎みます。多くの人に読まれ,引用される,ある筆者が述べた通りです。『人びとは光よりやみを愛しました。その業が邪悪であったからです。いとうべき事がらをならわしにする者は,光を憎んで光に来ず,自分の業があばかれないようにするのです。しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が……明らかになるようにします』― ヨハネ 3:19-21。

      6 闇と結合した業と,光と結合した業とを,ローマ 13章12節から14節の中ではどのように対照させてありますか。

      6 闇と結合した業,また,光と結合した業とをさらに対照させながら,西暦一世紀の別の著名な筆者は,善を行なおうとひたすら努めていた人びとに次のように述べました。「夜はずっとふけ,昼が近づきました。それゆえ,やみに属する業を捨て去り,光の武具を着けましょう。浮かれ騒ぎや酔酒,不義の関係や不品行,また闘争やねたみのうちを歩むのではなく,昼間のように正しく歩みましょう。……肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」― ローマ 13:12-14。

      7 (イ)イエスが裏切られた夜を制したのは何の権威でしたか。(ロ)西暦33年の過ぎ越しの日にその大きな犯罪を犯すことに,だれが一番大きな関心を抱いていましたか。

      7 キリスト教の創始者は,ご自分の十二使徒の一人で,反逆者となったユダ・イスカリオテによって裏切られた時,自分をひそかに捕らえようと夜陰に乗じてやって来た武装した群衆に向かい,「いまはあなたがたの時,やみの権威なのです」,と言われました。(ルカ 22:53)闇の権威はその悲劇の夜を制したのです。しかし,明くる日の午後,西暦33年の過ぎ越しの日に,人類史上最悪の犯罪へと発展した闇の業は,その遂行に当たって人間を代理者として用いました。さらに,その犯罪を犯すことに関し,当の犯罪行為に直接携わった人間以上に深い関心を抱いていた,より高位の者,より強力な者がいました。その犯罪を犯させようと彼らに影響力を行使していた,目に見えない,さらに高度の理知的存在者がいたのです。人間の域を超越したその理知的な存在者こそ,ユダ・イスカリオテの心の隙に乗じて,無罪の主人を裏切るという卑劣な考えを彼の心に植え込んだ者なのです。間違えようのない表現を用いて,その時の記録はこう述べています。「ユダに,つまりイスカリオテと呼ばれ,十二人[の使徒]の中に数えられていた者にサタンが入り込んだ。こうして彼は出かけて行き,祭司長および神殿の指揮官たちと,イエスを裏切って彼らに引き渡すうまい方法について話し合った」。(ルカ 22:3,4)過ぎ越しの夕食の際,イエス・キリストは自分を裏切る者に一口の食物を与えて,それがだれかを明らかにされました。次いで,記録はこう述べています。「その一口の食物のすぐあと,サタンがその者に入った。……そこで,その一口の食物を受けたあと,彼はすぐに出て行った。それは夜であった」― ヨハネ 13:27-30。

      8 イエスはその犯罪行為すべての扇動者をどのように明らかにされましたか。そしてその者は勝利を得ましたか。

      8 その後,十一人の忠実な使徒たちだけが共にいた時,イエスは進行中の犯罪行為すべてを扇動していた者の真の正体を明らかにし,彼らにこう言われました。「見よ,サタンは,あなたがたを小麦のようにふるいにかけるため,あなたがたを手に入れることを要求しました」。(ルカ 22:31)その結果,それら十一人の使徒はしばらくの間,ふるいにかけられた小麦のように散らされ,自分たちの指導者イエスを見捨ててしまいました。しかし,悪魔サタンは勝ちを得ませんでした。それらの使徒たちは再び共になり,復活させられた指導者を頭とする,一致した群れとして共に働いたからです。その中には,過ぎ越し当夜,イエスのことを三度否認した使徒シモン・ペテロも含まれていました。―ルカ 22:47-62。マタイ 26:31,35。マルコ 14:50-52。

      邪悪な主権者

      9 ユダヤ人のイエス殺害計画の背後に超人的な理知的存在者がいたことを,イエスはどのように示されましたか。

      9 もはや疑問の余地はありません。西暦一世紀当時,人間の目に見えないとはいえ,倫理的な闇の行為を行なうため,人間をその代理として用い,その行動をこうかつに指揮する,超人間的な理知的存在者がいたのです。その者は悪魔サタンです。イエス・キリストは,その邪悪な者の思惑通りに行動していた同国人に対し,実にこう言われました。「アブラハムの子どもであるというなら,アブラハムの業を行ないなさい。しかし,今あなたがたは,わたしを……殺そうとしています。アブラハムはそのようなことを行ないませんでした。あなたがたは自分たちの父の業を行なっているのです。……あなたがたは,あなたがたの父,悪魔からの者であり,自分の父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理のうちにかたく立ちませんでした。真実さが彼のうちになかったからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であり,偽りの父だからです」― ヨハネ 8:39-44。

      10 神に対する「神聖な奉仕」と思われていたものについて,イエスはなんと言われましたか。しかし,ここでどんな原則が当てはまりますか。

      10 割礼を受けた生来のユダヤ人は1,900年前に自国内でなされた闇の業により,実に今日に至るまでその悲痛な結果に苦しんでいます。これは,人間の域を超越する理知的存在,つまり悪魔サタンの影響下に置かれる国民全体に,何が起こり得るかを示す一つの例となっています。イエス・キリストはその邪悪な者を「この世の支配者」と呼ばれました。イエス自らその一員であった国民は,エルサレムの神殿で崇拝していると主張する神にではなく,自分たちの「支配者」,主権者としてその者に服していたのです。イエス・キリストは忠実な使徒たちにこう言われました。「あなたがたを殺す者がみな,自分は神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしています」。(ヨハネ 12:31; 16:2)しかし,そうした悪を行なう,誤導された宗教家たちは,神にではなく,実際には神の敵対者である悪魔サタンに奉仕をささげているのです。この点に当てはまる原則は,的確にも次のように述べられています。『あなたがたは,自分を奴隷としてだれかにささげてそれに従ってゆくなら,その者に従うがゆえにその奴隷となります』― ローマ 6:16。

      11 使徒パウロは,血肉を備えた邪悪な支配者以外にも邪悪な支配者が存在することにわたしたちの注意を喚起して,クリスチャンの格闘につきなんと書きましたか。

      11 今は人びとが,地上に住む,目に見える,血肉を備えた者以外にも世の支配者がいる,という事実に目ざめるべき時です。使徒パウロの次の言葉は,この事実にわたしたちの注意を喚起しています。彼は,神に神聖な奉仕をささげていると思い込んでいた者たちから苦しみを受けていた時,小アジアの異教都市エフェソスにいた仲間の信者たちにこう書き送りました。「悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からのよろいを着けなさい。わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府[主権,エルサレム聖書]と権威,またこのやみの世の支配者たち[この世に闇を生じさせる権力者たち,エ]と,天の場所にある邪悪な霊の勢力[天における悪の霊的軍勢,エ]に対するものだからです」― エフェソス 6:11,12。

      12 「この闇の世の支配的な霊者」はだれの支配下にありますか。この世にいるわたしたちは,どんなことを自問しないわけにはいきませんか。

      12 二十世紀後半の今日,倫理的な闇 ― すなわち,悪業や悪の行為 ― が地を支配していることをだれが反論するでしょうか。物質主義的な考えを持つ,世才にたけた多くの人が否定しようとも,「このやみの世の支配者たち」,あるいはギリシャ語聖書のアメリカ訳の述べる,「この闇の世の支配的な霊者」が存在することは事実であり,証拠はそのことをはっきり示しています。この「[目に見えない]天における悪の霊的軍勢」は,「邪悪な者」である悪魔サタンの主権の下にすべて置かれています。(エフェソス 6:16。マタイ 13:19)だれもが,この明白な事実を現実的に受け止めねばなりません。それはわたしたちにとって極めて個人的な意味を持っているからです。それは何ですか。わたしたちのだれもが「世におり」,その状態を変えることはできないという事実です。(ヨハネ 17:11)それ故にわたしたちは,人類の世が経て来たあらゆる困難な時,特に1914年以後の時代の影響を感じており,その経験を通して自分たちの置かれている悪い状況の意味を知らされているのです。したがって,だれ一人として次の問いを回避することはできません。悪魔サタンはわたしたちの置かれている「この世の支配者」である。では,彼はその故をもってわたしたちの命の主権者なのだろうか,という問いです。

      13 その邪悪な者に関連して世は依然どんな状態にありますか。それでどんな質問を自分に尋ねてみるのは賢明ですか。

      13 わたしたちは真剣に,また正直な態度でこの個人的な問いを考慮しなければなりません。世の現状は,聖書の最後の筆者が次のように述べた十九世紀前の事態と少しも変わりありません。『全世界は邪悪な者の配下にあります』。(ヨハネ第一 5:19)したがって,わたしたちは各自こう自問できます。この表現にはわたしも含まれているのだろうか。わたしも,邪悪な者である悪魔,つまりこの世の主権者の配下にあるのだろうか。このような問いに感情を害して,『そんな質問は,はなはだ不愉快だ。いや,考えるだけでも自分に対する侮辱である』などと言ったところで,事態が変わる訳ではありません。わたしたちは自分を欺くようなことをしたくないはずです。しかしその危険性が存在しているのです。聖書の筆者がその邪悪な者とその配下にある霊の軍勢が卑しめられる様を描写した時,彼はわたしたちの生きている時代の出来事を予告していました。

      14,15 悪魔はだれを惑わしていますか。彼はいつ初めて,惑わすことをとどめられますか。

      14 「こうして,大いなる龍,すなわち,初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちもともに投げ落とされた。そして,わたしは大きな声が天でこう言うのを聞いた。『……地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである』」― 啓示 12:9-12。

      15 この大いなる欺瞞者は,地上のだれの利益をも心にかけません。彼は投げ落とされた地球の近辺にあって依然自由自在に行動しています。刻々近づきつつあるハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」が過ぎるまでは,彼はとどめられることなく人の住む全地を惑わし続けます。その戦争が終わって初めて,彼は使いの悪霊たちと共に「底知れぬ深みに投げ込」まれ,『[イエス・キリストの統治する]千年が終わるまでもう諸国民を惑わすことができなく』なるのです。(啓示 16:14,16; 20:1-3)地球の近辺から悪魔サタンとその悪霊たちを除き去り,遠く離れた,底知れぬ深みに彼らを隔離する時はまだ来ていません。今日の地上の状態を見ると,その時が到来していないことは明らかです。したがって,すべての人は例外なく,この世の悪魔なる主権者に惑わされる危険にさらされています。全世界を配下に置いている者によって惑わされたりしてはいない,と自信を持って主張するのであれば,では,その人は超人間的な邪悪の力と闘って成功を収めているでしょうか。惑わされているか,闘っているか,二つに一つです。

      16 自分をこの世のものにするなら,だれと闘っていないことになりますか。世を改革しようとする努力はなぜ成功しないでしょうか。

      16 それ故,悪魔サタンは自分の命の主権者ではないと言い張る人はすべて,誠実な気持ちで自分自身に尋ねてみるべきです。わたしは,目に見えない,悪魔の超人間的な組織における「もろもろの政府」に対し,その権威に対し,「この闇の宇宙的支持者たち」に対し,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」に対し,勝利をもたらす闘いをしているだろうか,と。(エフェソス 6:12。現代英語聖書。新世界訳)惑わされている人類の世はそうした闘いをしていません。そしてわたしたちも,もし自分をこの世のものとするなら,やはりその闘いをしていないことになります。世界の政治,宗教,社会,物質事情を懸命になって改善しようとしているにしても,そのことに変わりありません。地上における悪魔の,目に見える組織を改善しようと努めることは,同組織の存続をその分だけ長引かせ,それをより魅力的かつ耐え易いものにしようとする努力に過ぎないからです。そのような改善の努力は,決して一千年の平和,繁栄また幸福を全人類にもたらすものではありません。現在のような制度下に置かれたこの世つまり人間社会に,全世界的な改革を施すことは無理です。それは滅亡に定められており,「この世の支配者」はそれをとどめることができません。

      わたしたちの主権者がだれかを決定する

      17,18 もし悪魔がわたしたちの主権者でなければ,主権者となるべく残されているのはだれですか。その方は自分の存在についてなんと述べていますか。

      17 わたしたちはこの世から出ることはできません。その中にいなければならないのです。では,わたしたちはそれ故に,邪悪の根源である悪魔サタンにわたしたちの命の主権者としての権を執らせるのですか。それを望まないなら,わたしたちが命の主権者として選べる,一体だれが残されているのでしょうか。それは悪魔サタンが真っ向から敵対している方です。その方は,生ける唯一まことの神であり(エレミヤ 10:10),聖書によると,エホバという名前を持っておられます。(詩 83:18)それは単なる抽象的な原理でも,また,全宇宙とその中のすべての有体物に充満する非人格的,無形の,流動的霊でもありません。その方は,悪魔サタンと全く同じく,存在者です。ご自分に関して用いられる言葉によると,神は体を持っておられます。しかしその形を想像することはわたしたちにはできません。自らを神に仕立てた悪魔サタンとは異なり,エホバは初めから神であり,存在する被造物が作り出した神などではありません。エホバは,あらゆる創造物に先立ち,ただ独り存在しておられた神です。人間の作り出した諸国の神々と比較して,エホバはご自分のことを的確にもこう述べておられます。

      18 「我よりまへにつくられし神なく我よりのちにもあることなからん ただ我のみ我はエホバなり われの外にすくふ者あることなし」― イザヤ 43:10,11。

      19,20 なぜエホバ神はすべての善いものの源ですか。エホバ神は最初の人間をだれに似せて創造しましたか。

      19 エホバは,すべての善いものの源である,理知を持たれる人格的実在者です。それは,ご自身が全く善そのものであるからです。この方が,わたしたちの地球,そして天,またその中に存在するすべてのものを創造されました。人間を地上に置き,人間を善そのものである方の様に作られたのはエホバです。聖書の最初の書はこう述べています。「神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり神彼等を祝し神彼等に言たまひけるは生よ繁殖よ地に満盈よ之を服従せよ又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸の生物を治めよ……

      20 「神其造りたる諸の物を視たまひけるに甚だ善りき夕あり朝ありき是六日なり」― 創世 1:27-31。

      21 神は創造物をどんな状態におかれましたか。またどんなものを創造するようご自分に言い聞かせることをされませんでしたか。

      21 ご自分のお造りになったすべての物が『甚だ善い』のをご覧になった神は,すべての物をその善い状態に保ち,そして地と地に住む人間に関する創造の業を休まれました。神は次のようなことはおっしゃいませんでした。『すべてのものにはそれに対立するものが存在すべきである。「甚だ善い」ものと対照をなすその反対,すなわち悪いものが存在する必要がある。だから,わたしは悪いものを創造しなければならない。わたしは良い神だから,その反対の邪悪な神を創造しなければならない。わたしは悪の原理を作用させ,人類に悪を行なう動機づけを与えねばならない』。

      22 神が善いものと道徳的に悪いものとの両方の源でありえないことを示すのに,使徒はどんな例を挙げていますか。

      22 いいえ,神はそのような間違った哲学を考え出されはしませんでした。真水と塩水が同じ泉から同時にわき出ることはありません。それと同じく,神が善いものと悪いものの両方の源であるはずはありません。(ヤコブ 3:12)神が光であり,同時に闇でもある,ということはあり得ません。使徒パウロはこの点に関連して次の質問を提起しています。「義と不法になんの交友があるでしょうか。また,光がやみと何を分け合うのでしょうか」。(コリント第二 6:14)まことの神がいかに明るく,輝かしく,清く,そして啓発的であるかを説明するため,使徒ヨハネは次のように記しました。「神は光であり,神と共にはいかなるやみもありえません。『神と分け合う者である』と言いながらやみの中を歩きつづけるなら,わたしたちは偽りを語っているのであり,真理を実践してはいません。しかし,神ご自身が光の中におられるのと同じように光の中を歩んでいるなら,たしかにわたしたちは互いに分け合う者となっている」のです。―ヨハネ第一 1:5-7。

      23,24 (イ)神はどのように「天の光の父」ですか。(ロ)創造の最初の日のときのように,神は使徒時代にどのように霊的光を輝かせることをされましたか。

      23 エホバは,天にいるもの地にいるものを問わず,ご自分の被造物の益のために啓発を与えてくださる神です。神の創造の週の最初の日におけるご命令が,「光あれ」というものであったのは,何と意義深いことではありませんか。神は地上の被造物に光を与えるため,天に発光体を創造されました。それ故に「天の光の父」と呼ばれました。日中に輝く自然界の光は,神からもたらされる良いものの一つです。こう書かれています。「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物は上から来ます。つまり天の光の父から下って来るのです。そして父には影の回転による変化もありません」。―創世 1:3,14-18。ヤコブ 1:17。

      24 使徒パウロの次の言葉は,啓発に関する神の力を何と雄弁に物語っているではありませんか。「神は,『光がやみの中から輝き出よ』と言われたかたであり,また,キリストの顔により神の栄光ある知識をもって明るくするため,わたしたちの心に輝いてくださったのです」。(コリント第二 4:6)この証言を前にしては,だれも,聖書の神エホバは無知と偽りの教えを信ずる神である,などと真実に言えないはずです。わたしたちはクリスチャン使徒ヨハネと共に,『神は光である』と言うべきであり,神はそれ故に,生きとし生けるものの中で最大の啓発者です。キリスト教,といっても,キリスト教世界の諸教会が信奉するキリスト教ではなく,真のキリスト教のことですが,それこそ人類にもたらされた最大の啓発です。光と同様,それは命を与えるもの,自由を与えるものなのです。

      25 この啓発の神をわたしたちの命の主権者とするなら,わたしたちの命はどのように明るく照らし出されますか。

      25 わたしたちが命の主権者であって欲しいと願う霊的存在者は,この啓発の神ですか。この神を主権者とするなら,わたしたちの命は必ず明るく照らし出されるでしょう。真理の光により,正しい事柄において自由に,理知ある行動を取れるよう解放をもたらす光により,また,宇宙の主権者と調和する永遠の命の道を指し示す光により,わたしたちの命は明るく照らし出されるのです。

  • 神を主権者として選ぶ時
    ものみの塔 1976 | 2月1日
    • 神を主権者として選ぶ時

      1 キリスト教世界が16世紀を経た今日,「異教」世界の目に映る宗教の現状はどんなものですか。

      過去1,600年以上の間,つまりコンスタンティヌス大帝の時以来,世はキリスト教世界の行ないを見て来ました。それ程の期間を経た今日,宗教の現状はいわゆる“異教”世界の人びとの目にどう映っているでしょうか。それは人類史上かつてない,最悪の宗教的混乱と分裂を呈しています。宗教の観点からは,闇が全地に垂れこめており,この事態は次の聖書預言と符合します。「視よくらきは地をおほひ闇はもろもろの民をおほはん」― イザヤ 60:2。

      2 その闇はだれにとって挑戦となっていましたか。マタイ 24章14節に予告されていたように,彼はそれについて何を行ないましたか。

      2 全地を覆う闇は,宇宙の主権者なる神に対する挑戦となって来ました。創造の週の初めに「光あれ」と命令された神は,これに対し何をしようとしておられましたか。神は十九世紀前と同じ方法で,一貫した行動を取られました。それに関し,使徒パウロはこう述べています。「『闇から光が輝き出るように』と言われたその同じ神が,わたしたちの中にご自分の光が輝くようにしてくださった。啓示,それもイエス・キリストのみ顔にある神の栄光の啓示の光を与えるためである」。(コリント第二 4:6,新英語聖書。エルサレム聖書)この同じ神はこの言葉にたがわず,暗たんたる日々の続いた第一次世界大戦終了以来,人類史上空前の規模の啓発運動を推進して来られました。神はみ子イエス・キリストの次の言葉の中でそのことを予告しておられました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:14。

      3,4 この光はどんな待遇を受けましたか。そしてもっと多くの人が啓発を受けることを,何が妨げましたか。

      3 しかし,この世界的な運動が十九世紀前とは違った仕方で受け入れられて来たと考えてはなりません。十九世紀前,啓発を与える努力がどのように迎えられたかに関し,こう記されています。「どんな人にも光を与える真の光が世にはいろうとしていた。彼は世にいたのであり,世は彼を通して存在するようになったのに,世は彼を知らなかった[認めなかった,新英]。彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった」。(ヨハネ 1:9-11)当時,その光を受け入れた人たちは,他の人たちにも啓発の光を与えようと努めました。光を隠さなかったのです。当時,もっと多くの人が啓発を受けなかった理由は,啓発の業に対する反対勢力が増大していたからです。光に対する反対勢力の主要責任者は,使徒パウロの次の言葉によって明らかにされています。

      4 「そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールがかけられているとすれば,それは滅びゆく者たちの間においてベールがかけられているのであり,その者たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」― コリント第二 4:3,4。

      5 王国の宣明に対する反対の背後にはだれがいますか。彼は「天の場所にある邪悪な霊の勢力」の主権者であると同時に,まただれの主権者でもありますか。

      5 同様に,この啓発運動は現在でも,世界各地で反対を受けています。その運動は,天に樹立された神のメシアによる王国に関する良いたよりの宣明を通して進められています。十九世紀前,メシア(キリスト)に関する良いたよりにもたらされた反対の背後にいた者は,第一次世界大戦以来行なわれて来た王国の音信の宣明に対する反対運動を操っている者と同じです。それは人の思いをくらます者,使徒パウロが「この事物の体制の神」と呼んだ者です。この「神」は,人間を超越した霊的な,「このやみの世の支配者たち」,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」を,暗黒をもたらす業の提携者としました。(エフェソス 6:12)この者は,自分がそれら「天の場所にある邪悪な霊の勢力」の主権者であると同じように,地上のもろもろの民の命に関しても,その主権者としてとどまろうと懸命になっています。そのため,盲目にされた人びとの思いに王国の真理の光が達することのないよう,あらゆる妨害を試みているのです。

      6,7 真のクリスチャンは,イエスとヤコブの述べたどんな原則に一致してその霊の勢力とどのように闘いますか。

      6 自分たちの主権者,悪魔サタンの配下にある,それら「天の場所にある邪悪な霊の勢力」こそ,啓発の業を推進する真のクリスチャンが闘わねばならない相手です。それにしても,それら真のクリスチャンはどのようにして闘うのですか。魔神崇拝,占星術,心霊術,神秘主義,物神崇拝,ブーズー教,魔術などが悪魔に源を発していることを暴露するにとどまらず,どんなに圧力を受けようとも,サタンが「神」として君臨するこの「事物の体制」の一部とならないよう,断固抵抗することによってです。そうした抵抗も,それら目に見えない,超人的な邪悪の勢力に対するクリスチャンの闘いなのです。彼らは,イエス・キリストの述べた真のクリスチャンの生き方に関する次の原則に付き従います。「わたしが世のものではないのと同じように,彼ら[わたしの追随者]も世のものではありません」。(ヨハネ 17:16)その原則と調和した生活を送っていなかった自称クリスチャンに対し,ヤコブはこう言いました。

      7 「あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,自分を神の敵としているのです」― ヤコブ 4:4。

      8,9 (イ)世から離れているのはどんな理由によりますか。それでこの問題はどんな成り行きになりますか。(ロ)それでクリスチャンは,最高指揮官から,パウロを通して,どんな命令を与えられていますか。

      8 クリスチャンが世から離れている理由は,世が,その超人的な主権者すなわち,生ける唯一まことの神エホバに対しサタンまた悪魔としての存在を持つ者の側にいるからです。故に,この問題に関しては次の成り行きしかありません。つまり,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」に対するクリスチャンの闘いは,この世が存続する限り,そして,悪魔サタンとその使いの悪霊たちが鎖でつながれ,千年にわたるキリストの統治のあいだ底知れぬ深みの中に投げ込まれるまで続く,ということです。(啓示 13:1-8; 16:13-16; 19:19から20:3)この邪悪な日にあって抵抗を試み,確固として立ち得るために,エホバ神の友である人たちは,「完全にそろった,神からのよろい」の色々な武具で身を固めねばなりません。(エフェソス 6:11)肉の武器,あるいは『物的武器』はこれに含まれていません。―コリント第二 10:4,欽定訳。

      9 天の最高司令官が使徒パウロを通してご自分の戦士たちに与えた命令は次の通りです。「それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなたがたはそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神のことばを受け取りなさい。それとともに,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい」― エフェソス 6:14-18。

      主権者なる主エホバ

      10 エホバを自分の命の主権者とする人々は,だれと共に立ちますか。

      10 この神の命令に従う者すべてがだれを命の主権者としているか,この点に関しては疑問の余地がありません。それはエホバ神です。そのみ言葉は彼らの手にある剣のようであり,「霊の剣」と言えます。自分たちの主権者としてこの方を選んだ彼らは,この世およびその事物の体制と共に立つのではなく,イエス・キリストおよびその使徒たちと共に,また,古代エルサレムのダビデ王と共に,メシアの地的父祖である族長アブラハムと共に,そうです,その記録を聖書にとどめられている,敬虔な信仰を抱いたすべての男女と共に立つのです。

      11 アブラハムは神にどのように語りかけることによって,自分と神との関係を示しましたか。一部の翻訳者は,アブラハムが用いたヘブライ語の表現をどのように訳していますか。

      11 アブラハムは至高の神を主権者なる主と認めました。略奪隊を率いた四人の王との戦いで勝利を得て帰り,至高の神の祭司メルキゼデクによって祝福を受けた後,アブラハムに神から次の言葉が臨みました。「アブラハムよ懼るなかれ我は汝の干櫓なり汝の賚は甚大なるべし」。それにこたえて,アブラハムは次のように神に語りかけ,だれが自分の至上者としての主人であるかを明らかにしました。「〔主権者なる〕主エホバよ何を我に与んとしたまふや」。神は,アブラハムを導き入れた土地を彼に与えると約束なさいました。その時のアブラハムの言葉は,神との関係における自分の立場を彼がどう考えていたかを示しています。「〔主権者なる〕主エホバよ我いかにして我之を有つことを知るべきや」。(創世 15:1,2,8〔新〕)ここで族長アブラハムは,自分の言葉であるヘブライ語で,アドナイ エホウィーと神に語りかけました。ある聖書の翻訳者たちは神の固有のみ名を使うことを避け,この表現を「主なる神」と訳しています。聖書の用語索引を出版したヤングは「主エホバ」(Lord Jehovah)と訳しています。しかしエルサレム聖書は,「わたしの主ヤハウェ」(My Lord Yahweh)と翻訳しており,ロザハムによる詳訳聖書も同じ訳し方をしています。

      12 「新世界訳聖書」が示しているように,ヘブライ語のアドナイにはどんな意味がありますか。

      12 しかし,アドナイというヘブライ語は,「わたしの主」という意味ではありません。それはアドニムという語の古い形であると理解されており,文字通りには「主」(複数)です。したがってこの語が個人に関して用いられると,卓越あるいは崇高の意を帯び,卓越した主,崇高な主という意味になります。聖書の中でヘブライ語のこの古語は,エホバまたヤハウェにだけしか用いられていません。その理由で,新世界訳はヘブライ語の称号アドナイを「主権者なる主」a と訳しているのです。これと一致して,使徒 4章24節の幾つかのヘブライ語訳は,「主権者なる主」という意味の「アドナイ」という語を用いています。―使徒 4:24,新世界訳。

      13 エホバは当然,宇宙の主権者であられますが,なぜですか。したがってエホバは,どんな挑戦の言葉を発することができますか。

      13 この神エホバは,真に宇宙の主権者です。あらゆるものの上におられ,ご自分の被造物のだれにもご自分と同等の力を付与されたことはないからです。したがって,エホバは常に全能者であり,あらゆることをなし得る方なのです。エホバは宇宙の主権者として,適切にもアブラハムにこう言われました。「我は全能の神なり汝我前に行みて完全かれ」。(創世 17:1)また,預言者モーセにエホバはこう言われました。「我はエホバなり 我全能の神といひてアブラハム,イサク,ヤコブに顕れたり」。(出エジプト 6:2,3)エホバは全き自信をもって次の挑戦の言葉を発することができました。「なんぢら誰をもて我にくらべ我にたぐふか」。(イザヤ 40:25)わたしたちは今日,アブラハムと同じく,この神をわたしたちの命の主権者とするでしょうか。

      14 今こそ,エホバの主権に関し,わたしたちが賢明に行動すべき時です。なぜですか。

      14 いやしくも主権者たる者は,自分の臣民に仕えて,それら臣民一人一人が決定を下すのを待つなどというようなことはしません。主権者には,行なうべき支配が,また統治にかかわるあらゆる務めがあり,彼はしかるべき時に自分の義務を遂行しなければなりません。宇宙の主権者であるエホバ神に対し,彼は我々がエホバを自分の主権者とするかどうかに関する個人的な決定を下すまで待たねばならない,しかるのち,厳密に時間の定められた目的の遂行に取り掛かってもよい,などと地上に住むわたしたち微少な人間が考えるなら,それははなはだしい思い上がりと言わねばなりません。ご自分の主権と調和し,行動を起こすべき定めの時が到来すると,エホバは必ず行動されます。それ故に今こそ,エホバの主権に関し,わたしたち各自が賢明に行動すべき時なのです。

      世の主権の変化

      15 神の主権に関する天の発表はいつから人類に伝えられていますか。それ以前に伝えられなかったのはなぜですか。

      15 この地球に関する最も重大な発表がもうすでに天でなされ,それは全地の人類の世に伝えられています。この発表です。「世の主権は我らの主およびそのキリストに移った。彼はとこしえに統治するであろう」。(啓示 11:15,新英語聖書。アメリカ訳)「世の主権は今や我らの主およびそのキリストのもの。そして彼は代々限りなく王である」。(ウェイマス,第3版)この宇宙的な関心事は,西暦1914年以来真実となっています。バビロニア人によってエルサレムおよびユダの地が荒廃させられた西暦前607年から数える「異邦人の時」,あるいは「諸国民の定められた時」は,同年10月4/5日ごろに終了しました。西暦前607年から2,520年間,異邦(非ユダヤ)諸国民は神のメシアによる王国から何の干渉も受けずに人類の事態を支配して来ました。その間,ダビデの王統の手中にある,エルサレムにおけるユダヤ人の王国は一度も建てられたことがありません。―ルカ 21:24,欽定,新。

      16 では,なぜ西暦1914年以降,神の主権について発表することができたのですか。

      16 西暦前607年に,エルサレムで統治していたダビデの家系の最後の王は廃位させられ,異邦諸国民は世界に対する全面的な支配権を掌握し,ユダヤ人・異邦人を問わず,全人類に対する主権の行使を許されました。しかし異邦人の時の終結する西暦1914年に,イエス・キリストが天の父の右で待つ期間は終わりました。その時,主権者なる主エホバは,「天のエルサレム」のみ座,天のシオンの山に,み子イエス・キリストを就任させ,こうしてダビデの王統は再び王の座に高められ,メシアによる王国が誕生することになりました。同時に,古代のメルキゼデクに似た偉大な祭司兼王,すなわちメシアなるイエスが天の王国において就任させられました。(ヘブライ 10:12,13。詩 110:1-4)その時から,人類の世に次の布告をすることが可能となったのです。「世の主権は我らの主およびそのキリストの所有する所となった。そして彼は永遠に統治するであろう」― 啓示 11:15,アメリカ訳。

      17 神は行動を起こす前に,まず人々や国々にお尋ねになりましたか。正しい反応は二十四人の長老によってどのように示されましたか。

      17 人類の世はこのことに関し事前に何も尋ねられませんでした。国家主権を有する地上の国々も,神のこの行動に関し事前に何も相談を受けませんでした。至高の神はご自身の定めの時に自ら,直ちに行動し,ご自分の宇宙主権と和して天のメシアによる王国を樹立されました。(ダニエル 4:35)主権に関する神の正当な表明に対し人の取るべき正しい態度は,身を屈めて神を崇拝し,次のように述べた二十四人の長老の行動に示されていました。「いまおられかつておられたかた,全能者なるエホバ神よ,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の偉大な力を執り,王として支配を始められたからです」― 啓示 11:16,17。

      18 しかし,諸国民の反応はどんなものでしたか。これは二十四人の長老によってどのように予告されていましたか。

      18 しかし,世の諸国民はどうでしたか。彼らは世界支配をめぐる第一次世界大戦を戦い抜こうと,躍起になっていたではありませんか。全面戦争においてあらゆる国民を自分たちを支持する側に組み入れようと,彼らは主なる神とそのキリストの主権の側に立場を取った真のクリスチャンに対し憤り,迫害を加えました。それら二十四人の長老によって予告された通りです。彼らは続けてこう述べています。「しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたの名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にもその報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定めの時が到来しました」― 啓示 11:18。

      19 (イ)今は,主権に関してわたしたちがどんなことを自問する適切な時ですか。(ロ)諸国家の例に倣うことはわたしたちにとって何を意味しますか。

      19 まさに今日に至るまで,諸国民はエホバの「聖なる者たちに,そして,あなたの名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも」憤り続けて来ました。ですから今は,わたしたち各自が次のように自問する適切な時と言えます。『自分はどうなのだろうか。この世の諸国民の歩みに倣い,それを導きにしようとしているのだろうか。それとも,啓示 11章16,17節の二十四人の長老のように,神がご自分の主権を表明し,偉大な統治の権を執ったことに対し感謝しようとしているのだろうか。わたしは世の主権がエホバ神の所有する所となったということを認めるだろうか。この重大な事実を認めて,わたしはエホバ神を天の主権者として選ぶだろうか。エホバ神を自分の命の主権者とするだろうか』。いずれにせよ,今日のわたしたちにとって,主権者なる主である神との新しい関係,有利な関係か,さもなくば不利な関係を持つことは避けられないことです。憤る諸国民の側につく者は,宇宙の主権者に対し不利な関係に自分を置くことになり,それは破滅を意味します。なぜなら,諸国民こそ「地を破滅させている」者たちであり,やがて彼らは,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」において滅ぼされるからです。―啓示 16:14,16。

      20,21 (イ)わたしたちが自分の主権者とする方の証人になることについての質問に答える際,わたしたちは詩篇のどの言葉を好んで指摘しますか。(ロ)わたしたちの最大の模範者の場合と同じく,地上の誉れはいかなるものであっても何に勝るものではありませんか。

      20 これは次の質問を提起します。『神を命の主権者とすることは,エホバの証人になることを意味するのだろうか』。この質問に対する答えとして,神を自分の命の主権者とした,霊感を受けた詩篇作者の言葉を指摘することができます。彼はこう記しています。「神にちかづき奉るは我によきことなり われは〔主権者なる〕主エホバを避所としてそのもろもろの事跡をのべつたえん」。(詩 73:28,〔新〕)。さらに,「わが神よあしきものの手より不義残忍なる人のてより我をまぬかれしめたまへ 〔主権者なる〕主エホバよ なんぢはわが望なり わが幼少よりの恃なり われは〔主権者なる〕主エホバの大能の事跡をたづさへゆかん われは只なんぢの義のみをかたらん」― 詩 71:4,5,16〔新〕。

      21 ですから,わたしたちはこう尋ねます。今日,主権者なる主エホバを避け所とする人は,『[神の]もろもろの事跡をのべつたえた』古代の詩篇作者と異なる行動を取るだろうか,と。今日,『不義なる人の手より』免れ,主権者なる主エホバを自分の望みとした人は,『大能の事跡をたづさへゆき』,『[神の]義をかたる』ことをしないでしょうか。その人が自分の命の主権者を恥じることは決してありません。わたしたちの最大の模範イエス・キリストは,ご自分の主権者なるエホバ神を恥じることはありませんでした。それだからこそ,エホバの証人となり,それ故に「『忠実な証人』……イエス・キリスト」と呼ばれているのです。彼はご自分のことを「忠実で真実な証人,神による創造の初めである者」と述べておられます。(啓示 1:5; 3:14)その足跡に従う真の追随者も,同じくそのみ父エホバの証人にならねばなりません。地上に住む者にとって,エホバの証人であることに勝る誉れはありません。

      22 エホバを自分の主権者にすると,どんな経験をすることになりますか。そのときには,詩篇作者のどんな祈りを取り上げることができますか。

      22 エホバ神を命の主権者とする人びとには迫害がもたらされます。それは,かの邪悪な者が「神」「支配者」また主権者として君臨する「世のもの」となることにより,悪魔サタンを自分の主権者とする者たちからもたらされるものです。(コリント第二 4:4。ヨハネ 14:30; 15:19)しかし,迫害され,苦難に遭う時には,ダビデ王の次の祈りを取り上げることができます。『〔主権者なる〕主エホバよなんぢの名のゆえをもて我をかえりみたまへ なんぢの憐憫はいとふかし ねがはくは我をたすけたまへ』。(詩 109:21〔新〕)「わが救のちからなる〔主権者なる主エホバ〕よ なんぢはたたかひの日にわが首をおほひたまへり エホバよあしきひとの欲のままにすることをゆるしたまふなかれ そのあしき企図をとげしめたまふなかれ おそらくは彼等みずから誇らん」。(詩 140:7,8〔新〕)「〔主権者なる〕主エホバよ わが目はなほ汝にむかふ 我なんぢに依頼めり ねがはくはわが〔魂〕をともしきまゝに捨ておきたまふなかれ 我をまもりてかれらがわがためにまうくる羂とよこしまを行ふものの機とをまぬかれしめたまへ」― 詩 141:8,9〔新〕。

      組織された民の主権者

      23 エホバを自分の主権者とするとき人は,エゼキエル 36章37,38節が示しているように,ひとりぼっちになるのではありません。なぜですか。

      23 あなたが今,エホバ神を自分の主権者として選ぶなら,そうするのはあなた一人だけではありません。あなたはその民の一人となるのです。エホバ神は,地上のただ一人の人に対する主権者ではなく,組織された民の主権者です。エホバ神は,この「終わりの時」に宗教的大いなるバビロンから霊的イスラエル人を集め出しておられますが,古代イスラエル国民をその霊的イスラエルの模型とみなして次のように言っておられます。「〔主権者なる〕主エホバかく言たまふイスラエルの家我が是を彼らのために為んことをまた我に求むべきなり我群のごとくに彼ら人々を殖さん 荒たる邑々には聖き群のごとくエルサレムの節日の群のごとくに人の群満ん人々すなはち我がエホバなるを知べし」― エゼキエル 36:37,38〔新〕。啓示 18:1-4。ダニエル 12:4,新。

      24 エホバを自分の主権者とする人々はどのように祝福されますか。何を選ぶことが,新秩序を歓呼すべく生き残る決め手となりますか。

      24 今日,エホバを自分の神として選び,エホバを自分の命の主権者とする人たちは祝福されています。エホバは,王座につかせたみ子,メシアなるイエスにより,その人たちの上に天の王として統治されるのです。差し迫った「大患難」において,様々に分裂している今日の国家主権が取り除かれ,諸国民の,目に見えない現統治者,悪魔サタンが縛られ,底知れぬ深みに投げ込まれる時,全能の神はご自分の宇宙主権を愛の気持ちから支持する者たちを安全に,また確実に守ってくださいます。(マタイ 24:21,22。啓示 7:14,15)わたしたちは,「我らの主およびそのキリストの」単独の「主権」の下に置かれる義の新秩序を歓呼する,祝福された生残者の一人に数えられるでしょうか。エホバをわたしたちの命の主権者として選ぶその決定が,わたしたちに恵みをもたらすものとなりますように。―啓示 11:15,アメリカ訳。

      [脚注]

      a 「新世界訳聖書」(1971年版)の中の,創世記 15章2,8節に関する脚注をご覧ください。

      [84ページの図版]

      エホバを自分の主権者として選ぶ人々は,イエスやアブラハムやダビデのような敬虔な信仰の人であることを示す

  • 「教えられた者たちの舌」を与えられる
    ものみの塔 1976 | 2月1日
    • 「教えられた者たちの舌」を与えられる

      ● 喜んで物事を行なう大勢の働き人がエホバの組織に続々入って来るにつれ,エホバはご自分の『忠実な奴隷』級を通して,老若を問わずそれらの人々すべてに必要な訓練を与える備えを設けられました。その結果として,エホバのしもべたちは,「教えられた者たちの舌」を持てるようになりました。(イザヤ 50:4,新)これは増加に寄与するものとなりました。世の人々もまた,そうした訓練が証人たちにもたらした効果に注目してきました。たとえば,ある新聞は,ドイツのレクリングハウゼンで行なわれた朗読コンテストで11歳のインゴ・リュッカーが優勝したことを報じ,次のように述べました。「驚いたのは局外者だけであろう。というのは,基本的に言って彼の勝利を阻むものは何もなかったからである。11歳のインゴ・リュッカーは,エホバの証人の宣教学校で,3年間にわたってコンテストに備えて有利な得点を得ていたのである。……彼は,これまた宣教学校に出席している一少女との間で決勝戦に至るまでずっと接戦を演じたとはいえ,ヨゼフ・スクールの最優秀朗読者であった」。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より

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