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  • 一生の目的を追い求める
    ものみの塔 1961 | 11月15日
    • も,エホバに対する全時間奉仕を続けていきたいと思っています。現在のところ,私たちはメキシコのベテルの家族のメンバーとして,事務所で働きこの全時間奉仕の特権を楽しんでいます。

      全時間の伝道者としての生活は,喜びのみがあり,むずかしいことなどぜんぜんないようにひびきますか。そうではないのです。つらい時やむずかしいこともあります。しかし,喜びは悲しみをりょうがし,エホバ神の僕として一生の目的を追い求めてきた自分の道をふりかえって見る時,胸に浮かぶのは,これらの喜びなのです。1946年クリーブランドの大会に出席できなかったということが,どんなにつらかったかおぼえています。その大会は,私がメキシコに着くやいなや開かれたので出席できなかったのです。その時,私は大会を思って泣いてしまいました。しかし,二,三日たつと,私たちのことをおぼえている多くの友から,手紙やニュースの切りぬきがとどきました。私たちの涙は喜びにかわりました。父が死んだ時,私がそばにいることができなかったのも,つらいことでした。またその当時アメリカにいた妹が,がんで死んだ時もそうでした。母と共に暮らすために任命地を去ってアメリカに帰ることはやさしいことだったでしょう。しかし,母は元気でよくやっており,私が任命地にとどまっているのを喜んでいます。そして私がもっとも豊かな祝福を受けたのは,この任命地においてです。

      エホバの奉仕を一生の目的にした人の生活は何と充実しているのでしょう! 献身は転換点であり,新しい時期を画するすべてのできごとは,神に対する誓にふさわしく生きたために得られた喜びでした。私の生涯において,大会はその喜びの中でもきわだっています。特に1958年の大会には,ギレアデの卒業生がたくさん集まり,深い喜びを味わいました。つけ加えられた奉仕の特権,新しい任命,私が援助した新しい人々,また私が奉仕した忠実な証者たち,これらはすべて私の幸福をつくりあげるのに役立ちました。エホバの御心を行なうということを一生の目的にする人々は,何と大きな祝福を得るのでしょう!

  • 子どもを正しく訓練する
    ものみの塔 1961 | 11月15日
    • 子どもを正しく訓練する

      子どもを教え訓練することがまじめにつづけられるなら,実を結ぶ時がきます。ある姉妹は戸別伝道をしている時にそのことを経験しました。つまり,ふたりの息子が通っている学校の校長先生にあったわけです。校長先生はそのふたりの少年がどんなにお行儀がよいかを話しました。ほかの校長先生の奥さんもそこにいましたが,その人は,「でも子どもさんがそこまでなるのには,どのような教育をなさるのですか。いまの世の中ではほんとに珍らしいことですね」。それに対する答えは,月々の聖句の討議をしたり,毎日子どもの振舞をいましめたりして,良い訓練を家庭でほどこすことにあるということでした。

      ここのところ過去2年間にわたり,夏の間,家族が休暇開拓をして,子供もよくそれに参加しています。このような神権的な訓練と背景を持ち,これらの子供たちは,強いクリスチャンの男女に成長します。―1961年度のエホバの証者の年鑑より,バルバドス。

  • 神の目的とエホバの証者(その30)
    ものみの塔 1961 | 11月15日
    • 神の目的とエホバの証者(その30)

      「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      第21章 第二次世界大戦が近づくにつれて神権的な秩序は設立される。

      トム: ジョンさん,今夜お帰りになる前に欧州でのわざの状況をちょっと話していただけませんか。

      ジョン: 1934年までには,協会はすべての大陸の49の国々に支部事務所をもっていました。a これらの支部事務所はブルックリン本部と密接な連絡を保ち,わざはアメリカ合衆国で行なわれていた型にしたがって発展していました。しかし,カトリック・ファシズムは欧州に勢力を伸ばし,わざのあらゆる面が難局に直面するようになりました。すでにお話ししたようにわざは1932年イタリアで禁ぜられましたが,約50人の証者たちは活動をつづけました。彼らはたえず警察につけ狙われたのです。警察は文書を受け取った人をも逮捕しました。b 多数のイタリア人の兄弟たちは,ムッソリーニのファシスト政府により投獄されました。1936年から1939年までのファシストの革命にもかかわらず,わざはスペインでも行なわれました。しかしその進歩はおそいものでした。この内乱の只中にあっても,スペイン人の証者たちは10万5570部の聖書文書を配布しました。c 遠い国である日本では,わざは1933年制限をうけるようになり,1939年には全面的に禁止されるようになりました。

      おぼえていらっしゃると思いますが,ヒトラーの政府はマグデブルグにあった協会の資産を没収して,集会とか文書配布などに関する一切の証者の活動を禁じました。それでも,ドイツでは活動がさらにさかんに行なわれたのです。それは1933年の6月でした。同年の10月,資産は協会に返却されましたが,文書は禁令下にあったため,証者たちはその施設を用いることができませんでした。この行きづまりの状態は戦争が1939年に始まるまでつづきました。1939年,ドイツ政府はふたたび協会所有の建物を没収し,戦争目的のために変えました。

      ヒトラー政府に対する抗議

      すでにお話ししたように,ルサフォード兄弟はドイツにいて状態の推移を注意深く観察し,とるべき処置について考慮を払っていました。1934年,7月,大胆で決定的な手段が取られました。本部からの手紙はドイツの中の各会衆に送られました。その手紙に従い,兄弟たちはみなその日に会合し,全地の兄弟たちと時を同じくして抗議の決議を採決することにしました。諸会衆は,手紙の指示通りに行ないました。彼らはエホバに厳粛な祈りをささげて後,ベルリンのヒトラー政府の役人に宛てた決議文を電報で送りました。

      その抗議文は次のことを指摘していました,すなわちヒトラー政府は神の律法に逆らって,エホバの証者の権利を犯しており,エホバの証者が共に集まって神の御言葉を研究し,神を崇拝して神に仕えることを禁じている。証者たちは,ヒトラーの法律と神の律法はまったく反するものであると責め,ヒトラーにこう告げました。

      どんな犠牲を払おうとも,われわれは神のいましめに従う。神の御言葉を研究するために集会し,神のいましめ通り神を崇拝し,神に仕える。もし,われわれが神に従っているので,貴下の政府か役人が,われわれに害を加えるなら,われわれの血は,貴下にそそがれ貴下は全能の神に申し開きをせざるを得ないであろう」。d

      彼らは,ヒトラーとその政府にはっきり次のことを保証しました,すなわち,エホバの証者は政治的な事がらに興味を持たずキリストの支配する神の御国に全く献身しており,そのわざの結果としてだれにも害は生じないと保証していました。それからその電文は「敬具エホバの証者」とむすばれ,彼らが会衆として集会した町か都市の名前が述べられていました。

      ふたたびエホバの証者の一致は全世界にわたって示されました。同じ日曜日の朝,50の国のエホバの証者は野外奉仕に出かける前に,集まって,ドイツ人の兄弟たちを支持したからです。それぞれの群れは,エホバに祈りをささげて後,ヒトラーとその政府に宛てた次の抗議電文を送りました。

      ドイツ,ベルリン,ヒトラー政府,エホバの証者に対する貴下の虐待行為は,地上の善人全部をおどろかし,神の御名をぼうとくするものである。今後,エホバの証者を迫害することを中止せよ。さもなくば神は貴下と貴下の国家政党を滅ぼすであろう。

      その電文は「エホバの証者」と署名され,会衆の集まった都市や町の名が記されていました。e

      トム: それはヒトラーの政府に強烈な影響をおよぼしたにちがいありません。その反応はどうでしたか。

      ジョン: 兄弟たちの受けた反応は,迫害の程度がぐっと強まったことです。しかし,この莫大な数の抗議状の結果として実際に生じたことについて,協会は宣誓文書を所有しています。この文書は,カール・アール・エイ・ウィッティングの準備したもので,1947年11月13日,マイン・フランクフルトの公証人の前で署名されたものです。

      宣言 ― 1934年10月7日,私は前もって召喚されていたので,当時ドイツ帝国とプロシアの内務大臣であったウイルヘルム・フリック博士を訪問した。その場所は,ベルリン・ケーニングスプラッツのドイツ帝国の本部事務所であった。そのとき,私はルーデンドルフ将軍の全権大使だったのである。私は通信物を受けとることになっていた。その内容は,ルーデンドフ将軍を説得して,ナチ政権に対する反対中止をはかるものであった。フリック博士と話している最中,ヒトラーがとつぜん現われて,会話に加わり始めた。私たちが,いまにいたるまでのドイツの万国聖書研究会〔エホバの証者〕に対する処置について話し合ったとき,フリック博士はヒトラーに多数の電報を示した。それらは聖書研究生を迫害する第三ドイツ帝国に対する抗議の電文であって,フリック博士はこう言った,「もし聖書研究生がすぐに服従しないなら,われわれはもっと強い手段を用いて彼らに対処する」。すると,ヒトラーは起立して,こぶしをにぎりしめてヒステリックな声でこう叫んだ,「この奴らをドイツから根絶してやる!」。この会話から4年後に,ヒトラーの激怒は単なるおどしではないということを私は十分に確認した。私自身が7年間,サクセンハウセン,フロセンベルグ,そしてマウトハウセンにあった地獄とも言えるナチ収容所の保護刑務所に入れられて,そのことを目のあたりに見たからである。私は同盟軍によって救われるまで刑務所の中にいた。前述の収容所内にいた囚人の群れで聖書の研究生ほど残酷な仕方で秘密警察から迫害されたものはひとつもない。肉体的な拷問と精神的な拷問がたえず加えられ,残虐そのものであった。この世の言葉では,それをとうてい言い表わすことができぬ。f

      1933年,この危機の時が始まったばかりのとき,11月1日号の「ものみの塔」(英文)は,「彼らを恐るるなかれ」という題の下に中心記事を載せました。それはこの危険な時におけるエホバの油そそがれた残れる者に課せられた責任を明白かつ聖書的に示したものです。その表題の聖句は,マタイ伝 10章26,27節です,「この故に,彼らをおそるな。おほはれたるものにあらはれぬはなく,かくれたるものに知られぬは無ければなり。くらきにて我が告ぐることを光明

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