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    ものみの塔 1963 | 11月15日
    • 霊とはなにかを理解する

      神のことばは知恵の宝庫です。しかしそれを学ぶことに精を出し,正しい理解を得ようと努めるのでなければ,この富を手に入れることはできません。この事について箴言 4章7節はよいさとしを与えています。「知恵の初めはこれである,知恵を得よ,あなたが何を得るにしても,悟りを得よ」。

      聖書に出てくる言葉のいろいろな意味を知ることは,悟りを得るうえに大切です。たとえば「霊」という言葉には少なくとも7つの異なった意味があります。これらの意味を知らなければ,この言葉の使われている聖句を正しく理解できません。

      聖書の原語であるヘブライ語とギリシャ語において,「霊」という言葉の基本的な意味は,風に似たもの,目に見えないもの,風のように力のあるものです。それでエホバ神,イエス・キリスト,天使は霊と呼ばれています。ヨハネ伝 4章24節に「神は霊である」という句があり,コリント前書 15章45節において,復活したイエス・キリストは「命を与える霊」と呼ばれています。天使については,ヘブル書 1章7節に「神は,御使たちを風〔霊〕とし……」と述べられています。

      霊はヘブライ語でru'ahh<ルアフ>,ギリシャ語でpneu'ma<プニユーマ>です。ヨブ記 26章4節,箴言 20章27節に使われているneshamah'<ネシャマ>というヘブライ語を霊と訳した聖書のほん訳もありますが,正確なほん訳は霊のかわりに「息」を使っています。neshamah'<ネシャマ>は創世紀 2章7節にあるアダムの創造の記録の中で,アダムにいれられた生命の息を指して使われています。これから見て,神がアダムの鼻に吹き入れたのは文字通りの息であったようです。しかし神がアダムに与えた生命力は,神のru'ahh<ルアフ>すなわち霊でした。それによりアダムは意識のある者として存在するようになりました。この生命は創世記 2章7節に明確に述べられてはいませんが,ほかのところに出ています。―創世 6:17; 7:22。伝道之書 12:7。

      生命の力すなわち生き物のもつ生命の本質,呼吸によって支えられているこの力は,霊という言葉の1つの意味です。ヨブ記 27章3節において,霊はこの意味に使われています。「わたしの息がわたしのうちにあり,神の息〔霊〕がわたしの鼻にある間……」。この聖句の中でヘブライ語のneshamah'<ネシャマ>は文字通りの息を指しており,ru'ahh<ルアフ>は霊すなわち生命力の意味で使われています。

      時に霊という言葉は,人の気質を意味します。気質は目に見えないものですが,人の表情また行動によって外に表われます。詩篇 34篇18節において,霊は気質の意味に使われています。「エホバは心のいたみかなしめる者にちかくいまして,たましひ〔霊〕の悔いくづほれたるものを救ひたまふ」。岩はつちで打ち砕かれます。それと同じように,神のことばによって自分の罪の深さを思い知らされるとき,悔いた人の心は砕かれ,ちょうど五旬節の日,ペテロの言葉を聞いて有罪感に「強く心を刺され」た人々がしたように,謙遜に許しを求めます。(使行 2:37,新口)それで「霊の悔いくづほれた」という表現は,自分の罪と霊と霊的な必要を自覚するに至った人の心の状態を表わします。

      怒りもまた気質であり,時に「霊」という言葉で表わされます。士師記 9章23節において,この気質を指すのに「悪霊」という表現が使われています。そこではアビメレクとシケムの人々との間に生じた悪感情を指して,この言葉が使われているのです。伝道之書 10章4節には,「つかさたる者〔の霊〕があなたに向かっ立腹しても」とあります。箴言 25章28節が「自分の心〔霊〕を制しない人は,城壁のない破れた城のようだ」と述べているのは,怒りをおさえることのできない人のことです。

      テモテ前書 4章1節において,「霊」という言葉は全く異なった意味に使われています。それは霊感された表現すなわち言葉という意味です。テサロニケ後書 2章2節にあるギリシャ語のpneu'ma<プニユーマ>についても同様であり,聖書のほん訳によっては,これを霊と訳しています。「霊により,あるいは言葉により,あるいはわたしたちから出たという手紙によって……すぐさま心を動かされたり,あわてたりしてはいけない」。(新口)ここで言われている霊は,「霊感された表現」の意で,新世界訳聖書はこの言葉を使っています。

      エホバ神がそのみ心を成し遂げるために用いる見えない活動力は,聖霊と呼ばれています。これは創造のわざに用いられた力であって,神の霊が水のおもてをおおっていた」と述べた創世記 1章2節の霊はこの意味です。「神の霊はわたしを造り」と述べたヨブ記 33章4節も同様です。そのわざをしたのは,神の強力な力でした。創造主は神であっても,神の霊が創造のわざをしたと言うのは,電気がエレベーターを上昇させたと言うのと同様です。実際にその働きをするのはモーターであり,電気ではありません。

      イエス・キリストは神の霊すなわち活動力によって奇跡を行ないました。「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら,神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」。(マタイ 12:28,新口)サムソンが,ろばのあごの骨で1000人を殺し,また町の門の柱を持ち去るような怪力を発揮したのは,この同じ活動力のためでした。(士師 15:14,15; 16:3)同じ力に導かれて他の人,たとえばバプテスマのヨハネの父は預言しました。(ルカ 1:67)イエス・キリストの128人の弟子が外国語を話し,病気をいやし,死人をよみがえすことができたのも,五旬節の日,聖霊をそそがれたからです。神はこのように聖霊をそそぎ,聖霊でバプテスマを施しました。(使行 2:17)それで「霊」という言葉は,神のみ心を成し遂げるために働く,神の見えない強力な力を指して,しばしば用いられます。

      すでに見たように,「霊」という言葉には少なくとも7つの異なった意味があります。それはエホバ神,イエス・キリスト,生き物の持つ生命力,気質,霊感された表現,神の活動力を指して用いられています。これらの意味を念頭において聖書を読むことは,聖書の理解を助けます。神のことばを十分に学んで悟りを得るとき,創造主に奉仕する多くの特権に恵まれ,遂には永遠の生命に至る道が目の前に開けます。―マタイ 7:14。

  • ベネゼラで
    ものみの塔 1963 | 11月15日
    • ベネゼラで

      ◇ 幼時から心臓の弱い若いカトリックの婦人が文書を求め,真理に深い興味を持ちました。しかし,主人と両親は彼女の聖書研究を望まず,偶像,信仰治療,霊媒術などによってからだは良くなると考えていました。やがてこの夫婦は他の町に移転しましたが,婦人は隣りの家の奥さんが日曜ごとに伝道カバンを持って外出するのに気付き,早速たずね,真理についてさらに話を聞きました。夫婦はまた他のところに引っ越しましたが,まもなく証者がたずね,研究が取りきめられました。婦人はそれまで三位一体説のあやまりについて主人に説明していましたので,主人も『楽園』の本の勉強に時おり参加するようになりました。勉強が進んで「神を真とすべし」の本にはいるとき,だれか兄弟が研究の司会をしたほうが良いように思われました。一人の兄弟とその妻が研究を引き継ぎ,やがてこの夫婦は集会に出席し,神権宣教学校のプログラムも受け持つようになりました。次いで野外奉仕に参加し,翌月には二人そろってバプテスマを受けました。主人はたばこを止め,婦人の健康も以前より良くなりました。二人とも家からの家への伝道が大好きであり,それぞれ自分の研究を司会しています。半病人のようだった以前の彼女を知る人はとても同じ人とは思わぬほどです。それは,病気が良くなったというよりも,彼女がそれほどうれしそうにしていた事がなく,また病気も心臓の疾患もない将来の新しい世に対する希望にあふれているからです。―1963年エホバの証者の年鑑から

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