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  • オリンピック大会 ― 本当に「スポーツの光栄のため」ですか
    目ざめよ! 1984 | 11月8日
    • 大切なのは,征服することではなく,立派に闘うことである」。オリンピック大会の開会式の際に,一人の選手が参加者全員の名において,オリンピック宣誓,つまり約束を復唱します。クーベルタンによって考え出されたこの宣誓は次のようなものです。「私はここに,全競技者の名において,私たちがオリンピック競技大会の規約を尊重し,遵守しつつ,スポーツの光栄とチームの名誉のために,真のスポーツマン精神をもってこのオリンピック競技大会に参加することを誓います」。

      この宣誓全体には確かに,非常に崇高な響きがありますが,時代錯誤のようにも聞こえます。今日の現実はどのようなものでしょうか。幾千人もの選手たちが数百個の金メダルを目ざして競い合った米国カリフォルニア州ロサンゼルスで,この理念が本当に反映されていたでしょうか。選手たちはクーベルタンの当初の理念に従って競技に参加していたでしょうか。オリンピック大会の背後にある真の推進力は何ですか。それはスポーツマンシップとフェアプレーの精神でしょうか。オリンピック大会は国際平和と国際親善を著しく促進していますか。それとも,オリンピックは政治的な抗争の行なわれるいま一つの戦場と化しているのでしょうか。

  • 危険にさらされる,オリンピックの理念
    目ざめよ! 1984 | 11月8日
    • 危険にさらされる,オリンピックの理念

      オリンピック大会の規則の一つに,アマチュア選手だけが参加を許されるというものがあります。最近まで,自分の運動の技量をもって50㌦(約1万2,000円)を超える金銭的な利益を受けた選手はだれであれ資格を奪われていました。

      その規則を今日の選手たちに当てはめるとすれば,オリンピック大会を中止しなければならなくなるでしょう。アマチュアという語に関する,その時代遅れの定義は,運動というものが悠々と暮らしてゆける身分の金持ちの気晴らしだった時代の遺物です。

      最近の一報道は,アマチュアリズムは「スポーツのトップレベルには全く存在しない」という,冬季オリンピックの金メダリスト,フィル・メーヤーの言葉を引用しています。大勢の選手たちが言うように,何らかの財政的な支援も受けず,オリンピックに出られるほどの水準に達するために自分の時間の大半を費やせる人が今日いるでしょうか。ですから,プロの烙印とされるものを避けるために,複雑に入り組んだ経路を通して,“アマチュア”選手に報酬が与えられているのです。

      スポーツマンシップか国家主義か

      オリンピックの別の理念はスポーツマンシップを国家主義よりも優先させなければならないということです。オリンピック大会は,国家ではなく,個人が互いに競い合うためのものとされています。ですから,オリンピック委員会は国別の“メダル獲得数一覧表”を全く公表していません。しかし,新聞やテレビはすぐに独自の国別メダル獲得一覧表を出してそれを補ってしまいます。その結果,オリンピックは政治的なものになっています。新聞はオリンピックをいわゆる資本主義の国々と共産主義諸国とのメダル争いに仕立て上げています。元オリンピック選手のハロルド・コナリーは,ある人たちにとってオリンピックは「スポーツの名を借りた,

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