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目ざめよ! 1984
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危険にさらされる,オリンピックの理念

オリンピック大会の規則の一つに,アマチュア選手だけが参加を許されるというものがあります。最近まで,自分の運動の技量をもって50㌦(約1万2,000円)を超える金銭的な利益を受けた選手はだれであれ資格を奪われていました。

その規則を今日の選手たちに当てはめるとすれば,オリンピック大会を中止しなければならなくなるでしょう。アマチュアという語に関する,その時代遅れの定義は,運動というものが悠々と暮らしてゆける身分の金持ちの気晴らしだった時代の遺物です。

最近の一報道は,アマチュアリズムは「スポーツのトップレベルには全く存在しない」という,冬季オリンピックの金メダリスト,フィル・メーヤーの言葉を引用しています。大勢の選手たちが言うように,何らかの財政的な支援も受けず,オリンピックに出られるほどの水準に達するために自分の時間の大半を費やせる人が今日いるでしょうか。ですから,プロの烙印とされるものを避けるために,複雑に入り組んだ経路を通して,“アマチュア”選手に報酬が与えられているのです。

スポーツマンシップか国家主義か

オリンピックの別の理念はスポーツマンシップを国家主義よりも優先させなければならないということです。オリンピック大会は,国家ではなく,個人が互いに競い合うためのものとされています。ですから,オリンピック委員会は国別の“メダル獲得数一覧表”を全く公表していません。しかし,新聞やテレビはすぐに独自の国別メダル獲得一覧表を出してそれを補ってしまいます。その結果,オリンピックは政治的なものになっています。新聞はオリンピックをいわゆる資本主義の国々と共産主義諸国とのメダル争いに仕立て上げています。元オリンピック選手のハロルド・コナリーは,ある人たちにとってオリンピックは「スポーツの名を借りた,イデオロギーの戦場」になっていると語りました。

作家のジェームズ・ミッチェナーは自著「アメリカのスポーツ」の中で,「米国全土でスポーツと国家主義を結びつけようとする試み」が見られることについて語っています。そしてさらにこう述べています。「我が国の政治指導者たちは,スポーツに三つのふさわしからぬ役割を果たさせようと駆り立てている。……1)スポーツは特定の政党を支持する宣伝の役割を果たすよう求められている。2)スポーツは軍事的な目標を支えるために利用されている。3)スポーツは支離滅裂で浅薄な愛国心を作り出すために甚だしく誤用されている」。ミッチェナーは,「スポーツが政治や軍国主義やどぎつい愛国心の僕となるよう求められているのを見て,私は非常に不安な気持ちを抱くようになっている」と述べました。

ミッチェナーは,この同じ傾向がオリンピックにも見られることを認めていますか。「1936年のオリンピックの際に,アドルフ・ヒトラーが国家主義の道具としてスポーツを利用した最初の人物になった」と,ミッチェナーは書いています。さらに,1968年および1972年のオリンピック大会からほかの例を引き合いに出し,こう付け加えています。「冷静な評論家たちは,この抑制されない国家主義が続けば,オリンピックを中止しなければならなくなると警告するようになっている」。

オリンピックにおける国家主義や愛国心は,単にマスコミが宣伝しているだけのものなのでしょうか。それとも,競技に参加している選手たちが実際に国家主義や愛国心に夢中になっているのでしょうか。ユーゴスラビアのサラエボで開かれた最近の冬季オリンピック大会は,この点を例証したと言えるでしょう。アイススケート競技に参加したアメリカ人のチャールズ(ピーター)・カルーザーズとモーリーン(キティー)・カルーザーズ(兄妹)は銀メダルを獲得しました。二人はどんな反応を示したでしょうか。ニューヨーク・タイムズ紙は,「アメリカの国旗が揚がった瞬間を私は決して忘れません」とピーターが語り,「揚がってゆく国旗しか目に入りませんでした。それは本当に美しく見えました」とキティーが語ったことを伝えています。

米国のスコット・ハミルトンはサラエボ冬季オリンピックで金メダルを獲得した時,「自分の演技のあと,最前列の観客からアメリカの国旗を受け取り,それを振りながらリンクをもう一度回って勝利の一周をした」と伝えられています。(1984年2月17日付,ニューヨーク・タイムズ紙)確かに,大抵の場合に選手と観客の双方が国旗をひときわ目立った象徴として用い,オリンピックを国家主義の発露の場に変えてしまいます。

しかし,スポーツ著述家のジョージ・ベクセイも述べる通り,「本来,オリンピックは国家主義とは無縁のものであるはずで,個々の人が世界の最も優れた運動選手と自分の技量を競う機会となるはずだった」のです。事態は一変してしまいました。「オリンピック大会の余分なわなは,国家主義である」とベクセイは付け加えました。

言うまでもなく,選手たちが一人残らず極端な愛国心の影響を受けているわけではありません。米国の回転競技の金メダリスト,フィル・メーヤーは,自分がスキーをしたのは自分の家族のためでも自分の国のためでもなく,「自分自身のためだった」と述べたということです。メーヤーはさらにこう付け加えました。「私は一つのものを勝ち取るためにスポーツに参加したことは一度もない。ここに来たのは技を競うためである。ここに来たのは自分の力を出し尽くすためである。私がスポーツに参加したのはスポーツを愛するからだ」。

しかし,どんな犠牲を払ってでも勝つという圧力が非常に高まっているため,別の油断のならない影響力がオリンピックに入り込んでいます。それは薬物です!

薬物を使ってオリンピックでの栄光?

どんな犠牲を払ってでも勝つという基準のために,今ではオリンピックに薬物の暗い影が投げ掛けられています。スポーツの多くの分野で選手たちが自分たちの能力を向上させるため,筋肉増強剤のアナボリック・ステロイドやテストステロン,およびその他の物質などの薬物を用いていることはずっと以前から知られていました。しかし,この問題を本当に白日の下にさらしたスキャンダルは,1983年8月に行なわれたパンアメリカン競技大会で生じました。その時,13人の米国の選手が競技への参加を自分たちのほうから取りやめたのです。どんな事が引き金になって参加を取りやめたのでしょうか。禁止されている薬物を使ったためにほかの11人の選手たちが急に失格したことでした。ニューヨーク・タイムズ紙の特派員は,この失格事件を「この種のものとしては国際スポーツ史上最も大規模な事件」と描写しました。

その翌日,1984年のオリンピック大会に参加するアメリカの選手たちに対する責任をもつ米国オリンピック委員会は,米国代表の資格を得た選手たちに対して無作為抽出による検査を行なうよう命じました。禁じられている薬物を使っていたことが明らかになった選手は全員,ロサンゼルス・オリンピックの代表からは外されることになっていました。

スポーツの世界で薬物の使用が広まった結果,カリフォルニア大学ロサンゼルス校のキャンパスに150万㌦(約3億6,000万円)の工費をかけてオリンピック薬物検査センターが建てられました。オリンピック選手の中に,禁じられている薬物のいずれかを使い,人為的な手段で優位に立つ者がいないようにするために検査が行なわれます。

オリンピック ―「世界で最大の社会的影響力」?

1964年に,当時の国際オリンピック委員会の会長であったアベリー・ブランデージは,「オリンピック運動は世界で最大の社会的影響力と言えるかもしれない」と語りました。これは当時,議論の余地のある意見でしたが,今でもやはり議論の余地のある意見です。経験豊かなスポーツ・ジャーナリストのレナード・コペットはこの点を自著「スポーツの幻想,スポーツの現実」の中で次のように言い表わしています。「スポーツは社会状況を反映するのであって,社会状況を引き起こすのではない。……それ以上に,スポーツの現在の姿があるのは,それが発展してきた社会によって形造られたためである。……社会が変われば,スポーツも変わるのであり……スポーツが変化を生じさせるのではない」。

現代の世界のほかのあらゆるものと同様,オリンピック大会は,20世紀の事態の進展 ― 大企業,競争,暴力あるいは薬物の使用など,どの分野であろうと ― の圧力を受けています。その結果,スポーツ関係者の中にはオリンピック運動の将来について憂慮すべき疑問を提起する人が少なくありません。クーベルタンの最初のオリンピック理念を保ち続けてゆけるでしょうか。オリンピックは本当に真の意味でのアマチュア・スポーツのままでいられるでしょうか。大勢の選手に対する大企業の圧力のために,“まがいのアマチュア”時代に終止符が打たれるでしょうか。政治や国家主義の高まりつつある波を食い止めることができるでしょうか。どんな犠牲を払ってでも勝つという哲学の前に,フェアプレーとスポーツマンシップの精神は徐々に失われてゆくでしょうか。「より速く,より高く,より強く」というオリンピックの標語は,専ら力と能力だけによって達成されるのでしょうか,それとも薬物によって達成されるのでしょうか。今後数年間に,ある答えは明らかにされるはずです。

クリスチャンにとっては,ほかにも考慮に値する質問があります。オリンピックには宗教感情が関係しているだろうか。キリスト教の原則と相入れないことがあるだろうか。クリスチャンはスポーツに参加することに対してどんな見方をすべきだろうか。スポーツを人生の主要な関心事とすべきだろうか。こうした点に関して,この一連の記事の最後の記事に示されている論議を追ってみるようお勧めいたします。

[7ページの囲み記事]

「光るものすべてが金とは限らない」

「オリンピック選手は念願の賞を勝ち得ようと幾年も努力を重ねるかもしれないが,最終的にそれらの選手たちの首にかけられる金・銀・銅のメダルの価値は,現実のものというよりは象徴的なものである」と,1984年2月17日付のニューヨーク・タイムズ紙は述べています。一般に信じられていることとは逆に,金メダルは金無垢ではありません。1924年にフランスのシャモニーで開かれた第1回冬季オリンピックの最初の金メダリストであるチャーリー・ジュートローは,幾らか悲しい仕方でその事実を知りました。シャモニーの金メダリストのうち生きているのはジュートローだけで,最近,「メダルが金無垢でないのを知った時は本当にいやな気持ちになりました。その価値を問題にしているのではありません。気に障ったのは根本にある考え方でした」と語りました。

今年,サラエボの冬季オリンピックで授与された“金”メダルは,実際には4.3オンス(約134㌘)の銀に0.21オンス(約6.5㌘)の純金をかぶせたものでした。その市場価格は1個に付き約120㌦(約2万8,800円)でした。純金であったなら,メダルにはその10倍以上の価値があったことでしょう。

[8,9ページの図版]

オリンピックの理念は,大企業や薬物,国家主義,暴力などの前に敗れ去ってしまうだろうか

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