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  • オリンピック ― 理想と現実
  • 目ざめよ! 1973
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目ざめよ! 1973
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オリンピック ― 理想と現実

昨年の秋,西ドイツ,ミュンヘンで開催されたオリンピック大会を直接,あるいはテレビで観戦した人はおよそ10億人に達しましたが,あなたもそのひとりでしたか。振り返ってみると,このオリンピック大会に関して特にどんな事がらが思い出されますか。

多くの人にとってたいへんきわだったできごとは,選手やコーチを含めて11人の参加者が殺された事件です。この残忍なできごとは現実のオリンピック競技の壮観さをほとんど薄れさせ,およそ2,000億円もの費用を投じたミュンヘン・オリンピックを台なしにさせる脅威となりました。しかし事態は収拾し,競技はわずかにおくれただけで事なきを得ました。

とはいえ,その殺人事件が起きなかったにしても,このオリンピック大会はそれ自身の理想に実際に恥じないものだったでしょうか。ミュンヘンで起きたことに照らしてオリンピックの理想を吟味してみましょう。

国家主義から解放されているか

理論的には,オリンピック大会は,国際オリンピック委員会のエベリー・ブランデージ会長の述べる「国際的協力と善意」を反映すべきものです。国家的威信や対抗意識は退けられるべきです。しかし,ミュンヘン大会は国家主義から解放されていましたか。

いいえ,そうではありませんでした。大会開催前から政治的影響力は同大会をほとんど運営不能に落とし入れました。およそ45か国は,ローデシアが競技に加わるなら,大会参加を中止するとしておどしました。結局,ブランデージ会長の評した「露骨な政治的恐かつ」とされる措置が取られて,ローデシアは同大会から締め出されましたが,それ以後,政治的利害関係が同大会にしみ込みました。

たとえば,判定に国家主義的偏見が加味されたとして何度か非難されたことがあります。審判員が演技の型の優劣を判定しなければならない競技の場合は特にそうでした。ボクシングの場合だけでも,ほとんど12,3人の審判員が退場させられましたし,他の審判員は不利な裁定を下したことで警告されました。タイム誌は次のように慨嘆しました。「大々的な宣伝に何百万[ドル]も費やされているが,不公平で抜け目のない役員のために払う金は一文もない」。

また,各国が獲得した『メダルを数える』ことに関しては強い反感が明らかに感じられました。オリンピックでは勝利を収める個人がメダルを獲得するのですが,ミュンヘン大会の観戦者は各国がメダルを何個得たかを思い起こさせられました。ソ連に比べてアメリカは,あるいは共産主義世界に対して非共産主義世界はどのように成績を上げたかが強調されたのです。

それで,「国際的協力と善意」という理想があるにもかかわらず,政治的違いはオリンピックによって実際には深められこそすれ,解決されてはいません。ニューヨーク・タイムス紙は,「『オリンピックによる平和』という考えが笑い草であることは今やだれも疑えない」と報じました。

しかし,オリンピック大会での競争は選手間の平和と友情に貢献するのではありませんか。選手たちは,「オリンピック大会で最も重要なのは勝つことではなくて,参加することである」という信条を受け入れているのではありませんか。

勝つことは重要ではない?

参加選手の見解を考慮すればはっきりわかりますが,実際には,勝つことが最も重要なこととされているのです。

アメリカのある跳躍選手は次のように告白しました。「しかし,実際にわたしを苦しめているのは,帰国した時に,わたしは勝てませんでしたと言うとき,どう思われるだろうかということです。だれかがやって来て,『やあ,どうだった』と聞かれて,2位にはいりましたと答ええると,人はわたしを敗者とみなすのです。人びとはいつも真っ先に,『勝ったのか』と尋ねますが,もし,いいえと答えようものなら,話はもうそれでおしまいなのです」。

また,激しい競争は競争者間の友情を築くものでもありません。それとは逆のことがなされます。アメリカのあるランナーが認めたとおりです。「オリンピック大会の精神は消え去ってしまいます。…トラックやフィールドの競技はおもしろいのですが,そこでは観衆はいつも,選手たちに競争相手を憎ませるように仕向けます。なぜ? それは競争以外の何ものでもないのです」。

ユーゴ対キューバの水球試合のさいに示されたような暴力行為を招くのは,友情ではなくて憎しみの念です。U・P・I通信のある報告はこう伝えました。「プールの水は血で染まった。選手たちはひじで突いたり,水中で相手を抑えつけたりするなど,軽微ながらほかにも種々の暴力行為が見られた」。しかし,オリンピックの激しい競争精神はほかにも悪影響を及ぼしています。

中には,エフェドリンのような覚醒剤を用いて,からだを興奮させ,競技への参加を止められた選手もいます。また,安定した精神状態を要求する特殊な競技に参加する選手で,鎮静剤を用いた人もいました。それらの選手は一番重要なのは「参加する」ことであると信じていたので覚醒剤などを用いたのでしょうか。いいえ,実際のところ,彼らは勝つ覚悟でいたのです。

オリンピック選手は「アマチュア」だけか

また,理想からいえば,オリンピック選手はすべて「アマチュア」であるべきです。また,金銭を愛するがゆえではなく,スポーツを愛するがゆえに参加すべきです。しかし,エスクワィア誌は,いわゆる『アマチュア資格』の背後に見られる偽善を次のように指摘しました。

「多くの場合,アマチュアかどうかは,公に報酬を受けているか,ひそかにそうしているかどうかの問題にすぎない。ある『アマチュア』ランナーは最近,ただ一度のレースで4,000㌦のお金をもらったと報じられている。ある跳躍選手は,オリンピックの決勝戦の直前にトラック・シューズの商標を変えて,6,000㌦相当のスポーツ・カーを手に入れたことを認めた。ヨーロッパでもひそかに報酬が払われているが,多くの場合,公然と行なわれている。あるアメリカ人は,2万人のヨーロッパ人の環視の中で優勝台上に立ち,その場である封筒を手渡されたときのことについて笑いながら,こう述べた。『その封筒の中身が何かはだれもが知っていたし,たいていの人はそれがどれほどの額かをも知っていました。それを私に手渡したのはその国のオリンピック委員のひとりでした』」。

ですから,金銭上の利得は確かに多くの「アマチュア」競争者を動かすものとなっています。通信員エーリック・セガルがオリンピックを「商業的象皮病に病んでいる」と評したのも驚くには当たりません。

それにしても,今日,「アマチュア」と「プロ」を明確に区別するのは困難です。たとえば,共産主義体制のもとでは,オリンピック選手は全員,食費や住居費そして給料を政府から支給されています。ところが,彼らは「プロ」ではありません。共産主義世界には「プロ」のスポーツ選手はひとりもいないからです。しかし,それら共産主義国の選手は,苦労して『自ら生計をまかなって』オリンピックに出場する他の国々の選手と競争するのです。西洋諸国は,これはたいへん不公平なことだと指摘しています。

しかしながら,西洋諸国のチームはそうした非難を完全に免れられますか。アメリカの各地の大学は「アマチュア」学生選手に何千㌦にも相当する奨学金を与えてはいませんか。アメリカの一部軍人は食費や住居費を政府から受けながら,軍務に服する全時間の多くを運動に費やして,「アマチュア」選手として競技に参加してはいませんか。このようなことも,貧しい選手にとっては同様に不公平なことです。

『アマチュア資格』の理想をめぐって生ずる衝突ゆえに,オリンピック支持者の多くは,「プロ」の選手を含め,あらゆる選手の参加を許すほうがよいと考えています。すでにゴルフやテニスの選手権試合では,「アマチュア」や「プロ」などの類別を廃して良い結果が得られています。

オリンピックにおける宗教の役割

オリンピックは世界の目ざましいスポーツ行事と呼ばれていますが,実際には,オリンピックに関連して数多くの宗教的習慣が保持されています。このことで読者は驚かされますか。

西暦前776年に始まって西暦紀元の時代まで続けられた古代ギリシアのその競技は,特に宗教的性格を持つものでした。今日でもその宗教的伝統は維持されています。どのようにしてですか。1972年のオリンピック開催前に起きた事がらを考慮してください。

女大祭司のような装いをしたひとりの女性がゼウスの恵みを請い求め,ギリシア,オリンピアにあるヘラ神殿の廃虚で太陽の光を利用してトーチ(たいまつ)に火をともしました。次いで,オリンピックのその「聖火」は,リレー・ランナーに受け継がれ,およそ5,600㌔の行程を4週間かかってミュンヘンに運ばれました。そのトーチを用いてオリンピック大会場の「聖火」が点じられるにさいしては,はなやかなトランペットのファンファーレが行なわれ,何千羽もの鳩が放たれ,礼砲が轟き,次いで祝祷がささげられ,オリンピック賛歌が歌われました。実際,古代ギリシアの宗教的儀式が,近代化されたとはいえ,オリンピック大会のうちにまさしく生き続けているのです。

オリンピックの将来

オリンピックの理想はある人びとにとって気高いものと思えるかもしれませんが,1972年のオリンピック大会は,そうした理想が遂げられていないことを再びまざまざと示しました。中には,オリンピック大会の規模を縮小して,ある場所では水泳選手権大会を,別の場所ではトラック競技大会をといったぐあいにしてはどうかと提案する人びともいます。

しかし実際のところ,オリンピック大会は,同大会によって代表される,国家主義や競争また商業主義で満たされた,問題をかかえて苦脳する世界を反映しているにすぎません。オリンピック大会は世界が遭遇している問題に似た諸問題をかかえているため,1976年のオリンピック大会さえ開催不能ではなかろうかと見る向きもあります。

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