台湾における現代のエホバの証人の活動
わたしたちは神のみことば聖書にしるされている使徒たちの活動をいつも楽しく読みます。現在ではどんな事が行なわれているかを調べてみるのはいかがでしょうか。イエスが,『汝ら行きて,もろもろの国びとを弟子となし,父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し』と言われたとき,ご自分の忠実な追随者たちに大がかりなわざをゆだねておられたのです。(マタイ 28:19)キリスト・イエスがなくなられてのちに,彼らはこのわざに没頭しました。またこの王国の良いたよりを,証しのために全世界のすべての国民に宣べ伝えるわざは,「終結」が来る前のこの「終わりの日」に行なわれなければなりません。ちょうど使徒パウロ,バルナバ,シラス,また聖書中にその活動が記録されている他の多くの人びとが行なったように,エホバの忠実なしもべたちがいろいろな国々でどのようにわざを開始したかを見るのは,クリスチャンにとって心の暖まる思いがします。「目ざめよ!」誌のこの号とあとのいくつかの号には,“美しい島”― 台湾におけるエホバの証人の現代の歴史が掲載されます。この記録は,英文の「1972年のエホバの証人の年鑑」の中ですでに掲載されたものです。
「イルハ フォウモーサ!」 16世紀にポルトガルの船乗りは,この緑の草木におおわれた島を初めて見た時,船上からこう叫びました。それは「美しい島」という意味です。実際,今でも多くの人はこの島をフォウモーサと呼びます。中国大陸沖に位置する,長さ約380キロ,幅が154キロほどのこの島を初めて訪れる人は,現在でも同様の印象を受けることでしょう。なぜなら,この島は海岸線から,標高3,900メートルの山頂までじゅうたんを敷いたように緑におおわれているからです。台湾は面積がわずか3万6,000平方キロの小さな島ですが世界で最も人口密度が高く,一平方キロ当たり385人を上回る人が住んでいます。
台湾の歴史は変化に富んでおり,その住民は,アジアの遠く離れた土地から来た部族で構成されています。移住して来た人びとの中にはマライ人もいますが,現在の住民のうちでも一つの大部族を成すアミ族はマライ人の子孫です。17世紀末には中国大陸の人々が移住し,台湾は広大な中国の一つの省となりました。しかし,1895年,戦いに勝った日本に譲渡されてから,日本の植民者が来ました。日本の支配を受けた50年間に3つの世代が日本語の教育を受け,日本語はさまざまな言語集団の間で意志の疎通を図る唯一の共通語となりました。
日本の過酷な支配と教育活動が始まってから35年後に,数名の人がそれよりもっと重要な性質を持つ教育運動を進めるために台湾へ来ました。
ものみの塔協会は1927年に,協会の日本支部を開設するため,アメリカ生まれのある日本人を任命しました。当時,台湾はその新しい支部の管轄下の区域内にあったので,当然のこととしてその日本の支部のしもべは1928年から1930年にかけて首都台北を訪れ,公会堂で講演をしました。それらの集会で落合三郎という日本の青年は王国の音信の重要性に気づき,聖書を学び始めました。彼は知識を得て熱心になり,そのうちに,聖書の音信について学ぶようひとりの台湾人の青年を助けました。このふたりは後に,台北を起点として他の人々に聖書の音信を宣べ伝え始めました。
台北から160キロほど南にあるタイチュング市でのこと,それよりさらに南に住んでいる出井ミヨ夫人が,長老派の信者である友人宅に立ち寄ったところ,そこへ落合兄弟が尋ねてきたのです。出井夫人はそこで初めて,「神の立琴」と「創造」という,ものみの塔協会の出版物を目にしました。彼女にはお金の持ち合わせがなく,その家の主婦は全く関心を示しませんでした。しかし,出井夫人はその青年がそうした宣教のわざに熱心であることに深い感銘を受けました。
2年とたたないうちに,そのふたりの青年は,出井夫人の住むチアイという町まで宣教のわざを押し進めていきました。青年のひとりが近くの町の医者の家に滞在していることを聞くと,出井夫人はその青年に会いたいと伝えました。まもなくふたりの青年は出井夫人を訪問しました。夫人は落合兄弟を覚えていました。午前九時から午後四時まで,その間ちょっと休んで簡単な食事を取りましたが,熱心な討議が行なわれました。それから約40年後の今,出井夫人は次のように語っています。「わたしは自分が聖書から学んでいることにびっくりしました。あのふたりの知識の深さに驚嘆しながら,『そんなに重大な事が起ころうとしているのでしたら,世界の支配者たちはなぜ神の王国を無視するのですか』,『ハルマゲドンはいつ来るのですか』というふたつの質問をしたことを覚えています」。
その後何回か話し合いましたが,それら熱心な王国の宣布者が立ち去るときには出井夫人に「創造」,「神の立琴」,「政府」,「預言」,「光」,「和解」という書籍を残していきました。それらの書籍はその後何年もの間,彼女の教師となり,伴侶ともなりました。やがて彼女が自分も宣べ伝えることをしなければいけないと気がついたのは言うまでもありません。出井夫人は,当時日本語で燈台社と呼ばれていたものみの塔協会に150冊ほどの小冊子を注文し,1930年代の初めにそれらを配布しました。彼女の活動は当局の目を免れずにはすみませんでした。彼女はそれについて次のように述べています。「わたしが伝道を始めて2,3か月したころ,日本の支部のしもべが逮捕されたことが新聞で報道されました。その影響はすぐに感じられました。なぜなら,文書を求めた人びとを再び訪問すると,わたしが配布した文書を刑事に押収されたと知らされたからです。やがて4人の刑事が来てわたしの家を捜索し,書籍や雑誌はすべて押収されました。わたしは,近くの派出所でその刑事のうちのひとりに尋問されました。しかし彼はわたしが何も悪いことをしているのではないことを認めて釈放してくれました」。
一方,落合兄弟とユエー・クオ・ユインは引き続き南へと宣教を進め,山を越えて,島の東側にあるふたつの山脈を二分する谷間まで行きました。その地域では,クアン・シャンという小さな町でささやかな代書屋を営むツー・チン・テングという名の台湾人が音信をすぐに受け入れ,他の人々に話しはじめました。落合兄弟とその仲間は,日本に帰ってからもしばらくの間,台湾にいるそれら関心を持つ人たちと文通しました。しかし,まもなくツー・チン・テングさんらの消息は全くわからなくなりました。世界情勢が悪化し,日本の中国征服が激しくなるにつれ,台湾の人々は大きな圧力を受け,日本の天皇を天照大神の直系として崇拝することを強いられました。
しかし,台湾の羊のような人々が忘れられていたわけではありません。いくらか自由になるとすぐ,大江頼一と香坂吉内というふたりの日本人の全時間奉仕者が,台湾で王国の関心事を再建するために台北にやって来ました。ふたりは自分たちが到着したことを出井家族に知らせました。出井家族はたいへん喜んで,ただちに「ぜひ来てください」と返事をしました。ふたりの青年が自転車でチアイに着いた1937年12月のその日は,その家族にとって忘れられない日となりました。ふたりは古い自転車に持ち物を積んで台北から240キロほどの道程をやって来たのです。ふたりのワイシャツのポケットから食事に使うはしが突き出ていました。出井夫人が「どうしてはしを持っているのですか」と尋ねると,ふたりは,旅行中いちばん安い店で食事をするが,店のはしはとても不潔だからと答えました。2日間の聖書研究のあと,喜ばしいことがありました。出井夫妻がバプテスマを受けて兄弟姉妹になったのです。
数日後,ふたりの開拓者は新しい兄弟と姉妹に別れを惜しみながら,台湾を1周する自転車旅行を続けました。自転車には文書や持ち物が積まれていましたし,山を越えたり山のまわりを行く道の多くは狭くてぬかるんでいましたから,その旅行はたいへんつらいものだったに違いありません。大江兄弟が出井姉妹にあてた手紙には,ふたりが関心のある,アミ族の人数名に会ったと書かれていました。実際,1938年1月には,台湾人の代書,ツー・チン・テングとアミ族の人数名がそのふたりの開拓奉仕者によってバプテスマを受けました。
タイツング郡のふたりのバプテスマを受けたエホバの証人が出井家族に合流するためチアイに移ったのはこのころのようです。そのことを聞くと,大江・香坂両兄弟は,出井家に帰って10日ほどのあいだその人たちを援助し,それから,協会の小さな倉庫の管理を続けるために台北へ行きました。台湾における王国のわざは,台北市,チアイ,タイツング郡の3か所でより強固な土台の上に築かれているように思われました。しかし,問題が起ころうとしていたのです。