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  • くつろぎを求めて
    目ざめよ! 1984 | 5月22日
    • くつろぎを求めて

      一番座り心地の良い椅子を選び,そこに座ってネクタイやエプロンのひもを緩め,はきものを脱いで目を閉じます。

      さて,自分が山の湖の青く澄んだ冷たい水に足をつけてぶらぶらさせている様を想像してみてください。近くにある花の甘い香りをかいでみます。のんびりとした小鳥の楽しそうなさえずりが聞こえてきます。山のすがすがしい空気に身が引き締まります。数分の間,できる限りほかの事は一切考えないようにして,この平和な情景を思い浮かべながら,ひたすら黙想するのです。

      気分が良くなりましたか。くつろいだ気持ちになりましたか。

      くつろぎを必要としない人がいるでしょうか。ある権威者の話によると,医院の待合室に座っている人の7割は,単に生活のさまざまな圧力に対処できなくなったばかりに病気になっているのです。

      それに加えて新しい研究は,人体の免疫反応や重要な機能に影響を及ぼすストレスその他の感情が,人間のかかる多くの病気の原因になっていることを示しています。医学によって,精神と身体の結びつきがこれまで考えられていた以上に人間の健康の面で大きな役割を果たしていることが明らかになっています。それゆえ,その仕組みを調べる医学研究の分野には,精神神経免疫学という新しい名前が与えられています。脳の生理学的な役割について,カリフォルニア大学のジョージ・F・ソロモン博士はこう述べています。「精神と体は不可分のものである。脳は,中枢神経がつかさどっているとは従来考えられていなかったあらゆる種類の生理的な作用に影響を及ぼしている」。

      患者の緊張をほぐす点で助けになれる医師が患者の最善の益を図っていることに疑問の余地はありません。医師は意識的に緊張をほぐす方法について幾つもの優れた提案をすることができます。電気機器を使って患者が特定の情況に対する自分たちの体の反応をもっと意識するよう助け,それによって自分たちの反応を意識的に制御する方法を教える医師もいます。例えば,バイオフィードバック(生体自己制御)は,意識的な精神の制御によって心拍や脳波を意のままに操るために用いられる手法です。体の緊張を和らげることを目的としている限り,こうした方法のあるものに対して異論が唱えられることはないでしょう。

      しかし,緊張を和らげるための助けとして,医師がある種のTM(超越的瞑想法)の手法やヨーガあるいは禅を勧めるならどうでしょうか。そのような方法を勧める医師は増加の一途をたどっています。例えば1978年には,5,000人を超える医師たちがTMの医学的な利用を促進するために約20か国で団体を結成しました。ヨーロッパの幾つかの国々で特に人気を博し,他の国々でも関心を呼んでいる別の瞑想法に,自律訓練法と呼ばれるものがあります。しかし,そのような療法のいずれかを受け入れる前に,事実を知っておく必要が確かにあります。

      さまざまな瞑想法

      黙想<メディテーション>とは基本的に言って,ある物事を自分の頭の中で考え巡らすこと,それについて継続的に考えること,そのことについて熟考することを意味しています。しかし,瞑想<メディテーション>法は,しばしばそれとは異なったものであることがあります。

      かつてインドの導師で,今ではプロテスタントに改宗している一人の人が,最近その違いをドイツの教会員のグループに説明しました。東洋の瞑想法の目ざすところは,しばしば恍惚状態に近い状態を引き起こすことにより自らを現実の世界や意識的な思考から切り離すことだと,その人は指摘しています。このようにして人はいわば「自分を見いだし」,自分の抱える問題を把握するようになり,「内なる自己」の助けを借りてそうした問題を解決できるというわけです。

      ドイツの医師で著述家のギゼラ・エーベルラインは,次のような言葉でその点を説明しました。「すべての瞑想法に共通しているのは,いずれも内に向かわせるもので,静けさの深みの中でのくつろぎを[もたらす]ことである。ヨーガ,超越的瞑想法,あるいは自律訓練法はそれぞれ異なってはいるが,それでもなお共通の目標,すなわち己を知ることを目ざしている」。

      「己を知ること」を目ざす瞑想法の幾つかについては,「目ざめよ!」誌のこれまでの号a の中ですでに論じられてきました。まだ取り上げられていないとはいえ,本誌の読者の大勢の人々,特にドイツ語圏の国々に住む人々に知られている別の方法は,自律訓練法と呼ばれるものです。それについて簡単に取り上げてみることは,ある種の瞑想法が“正常な”黙想とどのように異なっているかをよりよく理解するのに役立つでしょう。それは,今住んでおられる国の医師たちが勧めるかもしれない同様の手法について正しい結論を引き出す上で読者の役に立つはずです。

  • 「自律訓練法」― それは解決策になるか
    目ざめよ! 1984 | 5月22日
    • 「自律訓練法」― それは解決策になるか

      自律訓練法は半世紀前に,ヨハネス・ハインリッヒ・シュルツ(1884-1970)という名のベルリンの一神経科医によって開発されました。1932年にシュルツは自説についての本を著わし,その訓練法の名称が,「自己」を意味するギリシャ語アウトスと「誕生あるいは起源」を意味するゲネシスに由来することを説明しました。ですから自律訓練法は,字義通りに解せば,自分に起源を持つ,あるいは自分から生まれた訓練を意味しています。

      自律訓練法は標準と上級の2段階に分かれています。標準練習は六つの一連の練習,つまり手順から成っており,それを段階的に学びながら1日に数回数分ずつ行なうようになっています。それぞれの練習には短い決まり文句があって,患者はできる限りその決まり文句に考えを集中するよう求められ,その練習をしている間,つまりその手順に従っている間その決まり文句を頭の中で繰り返すようにと言われます。自律訓練法のある教本は次のような指示を与えています。「とはいえ,生徒は言葉で“考え”てはならず,ただ内を“見つめ”,その決まり文句に対応する内的自己の映像に目を向けるようにすべきである」。

      ですから,人が最初の練習をして,「右腕がとても重たい」と想像すれば,右腕が実際に重く感じられるのです。この最初の手順を経てから,「右腕がとても温かい」という2番目の練習が続きます。そのような手順を一つ一つ習得し,首尾よく成果が上がるようになると,さらに別の手順が加えられます。最後の四つの練習,つまり手順は,心拍,呼吸器官,内臓,および精神を制御することを目ざしたものです。訓練の期間中は,「気持ちが落ち着いている」ということを常にひたすら考えるようにします。

      目ざすところは,完全に体の緊張をほぐし,それによって体を意のままに操れるようになって,脳が下す指令に体がいや応なく従うようにすることです。自律訓練法の発案者であるシュルツ博士のもとで自律訓練法を研究したギゼラ・エーベルライン博士は,自分の受け持つ学生に自律訓練法を,「まず第一にいつでもどこでも休息とくつろぎを得ることを可能にする,集中的自己弛緩法として」紹介している,と述べています。

      しかし,自律訓練法はそれ以上のことを成し遂げるために考案されています。エーベルライン博士はさらにこう説明しています。「それに加えて,人は器官や器官系統に影響を及ぼす方法を習得する。すなわち,動悸や神経性の胃の痛みを鎮める方法を習得するのである。例えば,呼吸器系に影響を与えて,赤面を防ぐことができる」。

      効果があるか

      確かに,多くの場合,少なくともある程度の効果はあるように見えます。しかし,なぜでしょうか。第一に,くつろいで体の緊張を和らげることには,身体的な益があり得るからです。a

      次に,“プラシーボ(偽薬)効果”があります。ドイツの一医師はこの点を次のように説明しています。「現代病全体の半分以上には心身症的な原因がある。ということは,自己暗示療法に対して反応し易いことを意味している。中には,ある面でガンもこれに含まれるとまで考える医師たちもいる。絶えずガンを恐れて生活している人は,そうでない人たちよりもガンになることが多い。……ある薬の効果を固く信じている人は回復することが多い」。

      決定を下したり習慣を打破したりするための助けとして,積極的な考え方の持つ力を見過ごすわけにはゆきません。大きな決定に直面したとき,積極的な考え方をする人だけが,難しい,しかし必要不可欠な処置を取る勇気を奮い起こします。“自分にはできない”と考える人は成功することがほとんどありませんが,“自分でやり遂げる”と考える人は概して成功するものです。

      しかし,こうしたプラスの側面がある一方,自律訓練法にはマイナスの側面もあり,その点も考慮しなければなりません。

      注意すべき理由

      自律訓練法の練習は,資格のある指導者の監督のもとでのみ習得されるべきものだ,とシュルツ博士は警告しました。なぜでしょうか。それぞれの練習には,「利点ばかりでなく,害になる点も含まれていると考えられる」からだ,と同博士は述べています。ロンドンの自律訓練センターの所長であるマルコム・カルーザーズ博士も,テープに録音された課程や未熟な監督のもとで自律訓練法を習得することについてこう警告しています。「これは非常に力のある手法となり得るので,適切に扱わないと危険なものになる。十分の訓練を受けていない教師に就いて,始めた時よりも状態が悪化してしまった人々のことを私たちは知っている。感情を乱されている人がこの訓練を試してみて,事態を改善することができないなら,もっと憂うつになってしまうかもしれない」。

      注意すべき理由はほかにもあります。特に人が自律訓練法の上級練習へと進んだ場合にはそう言えます。B・ピーターおよびW・ガールがその著書「エントシュパンヌング(くつろぎ)」の中で述べたところによると,集中的な暗示のこの上級の段階は,「“新しい人”を生み出し,考え方と行動の新しいパターンを培うため」に考案されています。

      自律訓練法を扱った2冊の教本は,そのような訓練によって上級練習の段階で生じる幾つかの可能性を指摘しています。それらの可能性あるいは目的は,身体の健康を向上させる以上のところにまで及びます。それらの教本のうちの一つはこう述べています。「生徒は『腕が温かい』という考えに気持ちを集中できるのと全く同じように,『倹約は喜ばしいこと』……あるいは『必ず手紙を書く』といったことを想像することができる」。

      もう一方の教本はこう述べています。「ひとたび問題を把握し,自分が正しい道筋をたどっていると感じ取ると,その先の進歩は自分で意識的に導くことができる。……『わたしは自分の能力を見いだしている。そしてそれを活用している』。『わたしは人生というものを十分に心得ている。そして,正しいことを行なっている』。『わたしは積極的な態度をもっている』。『わたしは調和と幸福を目ざして努力している』。個々の人が選び,2週間に一つを決して超えないようにして自律訓練法により絶えず発展させられるこのような集中的な挿入句には,それぞれ効果がある。それらは大抵,『新しい人』が考え方と行動の新しいパターンを培うのに役立つ」。

      ですから,この訓練法を活用しているある開業医によると,自律訓練法には人を『新しい人』にし,人格を変え,行動を変化させる力があります。それは「身体と精神の健康の鍵」だ,とエーベルライン博士は述べています。この訓練法を活用する開業医の中には,体の障害や病気をも含めて,大きすぎて手に負えない問題はないとまで言う人がいます。事実上,ある人々は自律訓練法を万能薬だと言わんばかりにほめそやしています。しかし,本当にそうなのでしょうか。

      そうではない,と自律訓練法の専門家,マルコム・カルーザーズ博士は答えています。「それは魔法の万病薬ではない。単に,[医学]界が次第に多く取り上げるようになっている薬にすぎない」と,同博士は述べています。ですから,自律訓練法が万能薬であるという見方は,有害な結果をもたらしかねません。どうしてそう言えるのでしょうか。この訓練法を活用するある開業医は,必要とされるほかの治療法を調べようとしなくなる可能性があるからです。

      自律訓練法の上級練習の段階は,クリスチャンにとって特に危険をはらんでいます。というのは,クリスチャンは次のように勧められているからです。『あなた方は以前の生き方にかなった……古い人格を捨て去るべきで,……神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けるべきです』― エフェソス 4:22-24。

      クリスチャンが身に着けようと努めている「新しい人格」は,自律訓練法を用いて培うようなものではありません。むしろ,それは神のみ言葉について黙想し,明らかにされている神のご意志を行なうことによって培われます。―詩編 143:5; フィリピ 4:8をご覧ください。

      注意すべき別の理由は,自律訓練法の上級練習の段階が,ある点でヨーガに似ているように見えることです。ヨーガは,「体,精神および意志に関するあらゆる活動の抑制」と定義されています。別の言葉で言えば,思いを完全に空にしなければならないということです。思いの中からすべての考えを振り払うための助けとして,マントラ(呪文)が絶え間なく繰り返して唱えられることは珍しくありません。これは危険です。思いの中が全くきれいに掃かれていると,容易に外部からの影響力のえじきになります。その影響力は不完全な人間の指導者からのものである場合もあれば,もっと悪いことに超人間的な悪霊の勢力からのものである場合もあります。聖書によると,悪霊の勢力は人間の思いを意のままに操りたいと願っています。―テモテ第一 4:1。ルカ 11:24-26と比較してください。

      では,自律訓練法は本当のヨーガなのでしょうか。類似点があるとはいえ,自律訓練法はヨーガとは同じではないようです。少なくとも,標準練習の段階ではそうではないと思われます。自律訓練法に関する幾冊かの本によると,標準練習の段階ではマントラは用いられず,思いも空にされることがありません。それでも,クリスチャンは注意する必要があります。霊的に有害なものとなりかねない習わしに自分たちがどれほど近づけるか試してみたいとは思わないからです。クリスチャンは,真の崇拝を支持する,はっきりとした確固たる立場を取りたいと願っています。―コリント第二 6:14-17。

      催眠術と結びつく起源

      ことのほか注意を要する理由はここにあります。シュルツ博士は,催眠術を使って患者を治療する別の医師と一緒に仕事をしている際にこの問題に関心を抱くようになりました。その観察の結果,同博士自身が書いているように,「催眠術から“自律訓練法”を開発する」ことができました。事実,同博士はこの訓練法を「催眠術の落とし子」とさえ呼んでいます。この訓練法を活用している開業医の中には,自律訓練法が“自己催眠”の一種であることを認める人もいます。しかし,自律訓練法を活用する開業医すべてが催眠術を使うわけではありません。むしろ,人間の体の器官や機能に対する集中的思考暗示を用いるのです。

      自己催眠が用いられているとすれば,それはクリスチャンにとって本当に危険なものとなり得ます。なぜでしょうか。催眠術がどのようにして作用するのか本当のところを説明できる人は一人もいませんが,その背景はよく知られています。「神秘学百科事典」は,「催眠術の歴史は神秘学<オカルト>と複雑に織り交ざっており,今日でさえも,催眠現象の多くは,『心霊術的なもの』とされている」と述べています。いかなる形のものであれ,心霊術の行ないは,神の不興を招きます。―申命記 18:10-12。ガラテア 5:19-21。

      クリスチャンはオカルトと関係のあるいかなる習わしにも日課にもふけることはできません。例えば,小アジアのエフェソスにいた1世紀のオカルト信奉者のある人たちは,同市でクリスチャンの使徒パウロが宣べ伝えるのを聞いたのち,どんなことをしたでしょうか。「信者となった者の多くがやって来ては告白をし,自分の行なってきたことをあらわに告げるのであった。実際,魔術を行なっていたかなり大勢の者が自分たちの本を持ち寄って,みんなの前で燃やした。そして,それらの値を計算してみると,合わせて銀五万枚になることが分かった」― 使徒 19:18,19。

      ですから,自律訓練法はクリスチャンにとって危険をはらんでいます。その起源は催眠術と結びついており,この訓練法を活用する開業医の中には実際に自己催眠の一種を用いる人がおり,この訓練法の上級練習の段階はヨーガにも似た瞑想法を採用しています。

      瞑想のさまざまな手法が人類の病弊のふさわしい解決策を提供していないのであれば,神の解決策はどのようなものでしょうか。

      [脚注]

      a 体の緊張をほぐすことおよびストレスを克服する方法に関する提案については,「目ざめよ!」誌の1974年12月8日号,16-19ページおよび1981年1月8日号,3-15ページをご覧ください。

      [5ページの拡大文]

      今日の病気には,ストレスや緊張と関係のあるものが少なくない

      [6ページの拡大文]

      自律訓練法の練習は,資格のある指導者の監督のもとでのみ習得されるべきものだ ― J・H・シュルツ博士

      [6ページの拡大文]

      「これは非常に力のある手法となり得るので,適切に扱わないと危険なものになる」― M・カルーザーズ博士

      [8ページの拡大文]

      クリスチャンは注意をしていなければ,聖書の教えとは調和しない概念について黙想し,その結果信仰を失うことになりかねない

      [7ページの図版]

      くつろぎと体の緊張の緩和には,身体的な益がある

      脳

      心臓

      胃

      腎臓

      肝臓

  • はるかに優れたもの
    目ざめよ! 1984 | 5月22日
    • はるかに優れたもの

      ある種の瞑想法の能書きとしては,自分に対する理解を深める,消極的な傾向や悪い習慣を積極的なもので置き換える,思い煩いや恐れを克服する,そしてさらには健康を増進するなど,なかなか魅力的なものがあります。

      「人生の諸問題に対してふさわしい内的な態度があれば,それらを解決することもできる」と,「上級者用自律訓練法」というドイツ語の本は約束しています。「己を知ること」と「内なる,つまり真の自己」を見いだすことを,あらゆる問題を解決する万能薬として掲げる人は少なくありません。しかし,これは現実的な取り組み方でしょうか。

      「心[動機の座]はほかの何物にも勝って不実であり,必死になる」と,聖書は述べています。(エレミヤ 17:9)ですから実際のところ,わたしたちの奥深くにある傾向や感情,わたしたちの「内なる,つまり真の自己」は信頼の置ける導きではないのです。

      人生には数多くの問題があります。その幾つかを挙げるだけでも,差別,老化,重い病気,死などがあります。こうした問題を解決するに当たって,「ふさわしい内的な態度」は一体どれほど効果があるのでしょうか。なるほど,ふさわしい態度は生活上のこうした難しい問題に対処するのに役立ち,そうした問題によって感情的にあるいは心理的に参ってしまうことを防ぎはしますが,それらの問題を解決することはできません。これは人間の能力の及ぶ範囲を超えています。

      古代の最も賢い人物であった,イスラエルのソロモン王はこう言いました。「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。(箴言 3:5,6)しかし,中にはそうするのは非現実的なことだと感じる人もいるでしょう。瞑想法に助けを求めた一人の人は,「私には,宗教的な信仰や祈りは受動的すぎるように思えた。私はそれより多くのもの,潜在意識の積極的な支えを必要としていた。……自律訓練法は私がそれを得るのに役立つはずであった」と述べています。しかし,宗教的な信仰や祈りは必ずしも受動的なものではありません。確かに,そうした信仰や祈りが純粋であれば,決して受動的にはならないでしょう。

      真のクリスチャンには人格の変化が求められますが,自己中心的な瞑想法を使った,“自分で行なう”訓練計画によって変えるのではありません。むしろ聖書は,『古い人格を脱ぎ捨て,新しい人格を身に着ける』に当たり,助けを求めて神に全く頼ることを勧めています。(コロサイ 3:9,10。エフェソス 4:22-24)クリスチャンの使徒パウロは,「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」と言いました。(フィリピ 4:13)明らかに,パウロの遂げた人格の変化は,神の聖霊の支えと導きを伴う正確な知識に基づいており,「潜在意識の積極的な支え」に基づいてはいませんでした。

      より優れた種類の黙想

      より優れた種類の黙想は,被造物ではなく,創造者を中心にしたものです。聖書筆者は祈りの中で創造者に対し,「あなたのすべての働きを確かに思い巡らし[字義的には,黙想し],あなたの行なわれたことを思いに留めます」と述べました。(詩編 77:12)この種の黙想は,人類の諸問題を解決する真の万能薬となる今や間近に迫った神の王国にわたしたちの注意を向けさせます。

      神のこの王国のもとで,人間は自らの持つあらゆる弱さや悪習慣や誤った傾向を完全に取り除いていただき,病気をもすべて完全にいやされるのです。「エホバをほめたたえよ……神は,あなたのすべてのとがを許し,あなたのすべての疾患をいやし(ておられる)」と,詩編 103編2,3節は述べています。それがどんな事を意味しているか考えてみてください。それは人間の完全さ以外の何物でもありません。これ以上に良い報告,あるいはこれ以上に快いことばがあるでしょうか。そのような報告を聞くと,人間にとって,精神的にも身体的にも良い影響があるのではありませんか。箴言 15章30節と16章24節によれば,「良い報告は骨を肥や(し)」,「快いことばは……骨のいやしとなる」のです。

      王国の支配のもとでもたらされる祝福について思い巡らすようにします。例えば,詩編 37編10,11節を読んで,地が「柔和な者たち」だけで満たされるときに,一体どのような有様になるかを頭に描いてみるのです。それから,他の人のぶっきらぼうな態度によって最近いらいらさせられた出来事について考えます。「柔和な者たち」が厳しい者たちに取って代わるので,そうした毎日のいらいらはなくなるでしょう。『邪悪な者がいなくなる』ときに,夜間一人で歩いてもどんなに安心していられるかを黙想します。核による大破壊の脅威がもはや頭上に垂れ込めることはなくなったときに,どんなに『豊かな平和を喜ぶ』ことになるかをも思い巡らすのです。この種の黙想は永続的な益をもたらし得ます。

      神の目的に関する正確な知識を得て,み言葉の優れた助言に従順に従う人々が,内気や思い煩いを克服し,偏見に立ち向かい,自分自身や周りの人々にとって快い人格を培い,そしてある程度まで健康を増進する結果になることを示す生きた例になっているのは,幾千幾万ものエホバの証人です。これはどのようにして行なわれるのでしょうか。思いを空にすることによってではなく,「あらゆる知恵と霊的な把握力とにより,神のご意志に関する正確な知識に満たされる」ように思いを絶えず働かせることによってです。―コロサイ 1:9。

      「己を知ること」は,エホバ神とそのみ言葉についての黙想によってもたらされるような益や満足を決してもたらすことはありません。この種のより優れた形の黙想のために時間を取っておられますか。そうであれば,決して万能薬にはなり得ない危険な瞑想法を避けることになるでしょう。神の王国のみが万能薬なのです。

      [10ページの図版]

      より優れた種類の黙想は,被造物ではなく,創造者とその方の目的を中心にしている

  • 「建物ではなく,あなた方の心の中にあるものです」
    目ざめよ! 1984 | 5月22日
    • 「建物ではなく,あなた方の心の中にあるものです」

      米国コロラド州のある都市の建築検査官は,「詳しくは分からないのですが,世界中の人々がエホバの証人のようだったら,克服できない問題は一つもないでしょう」と言いました。

      この市当局者は何に促されてこのような見解を述べたのでしょうか。この人は丁度その時,王国会館が二日足らずで,基礎の上に建てはじめられる段階から,完成した崇拝の家になるのを目撃したのです。エホバの証人の自発的な奉仕者から成る作業班が,地元のエホバの証人の会衆のための集会場を建てるために昼夜兼行で働いたのです。

      釘を打つ金づちの最初の音が建築の始まりを告げてから42時間後,会衆は最初の集会を行なうために集まっていました。使用許可証の署名を求めるためにその場に来ていた検査官は,集会が始まる前に,会衆に対して短い話をする許可を求めました。

      「あなた方には驚かされました! 皆さん方とご一緒に働けたのは身に余る光栄だった,ということをひとこと申し上げたかったのです。これまで世界の至る所で建設作業班と一緒に働いてきましたが,皆さんすべてが示したような一致や推進力,協力の精神そして友情は一度も見たことがありません」とこの検査官は言いました。そして次のような例を挙げました。「私は大工の仕事をする人が屋根から降りて来て,前掛けを取り,石をシャベルですくい始めるのを見ました。これは普通では見られない事柄です。あなた方には私に理解できない推進力があります」。

      カナダとアメリカで,二日で建つ王国会館が毎月少なくとも15,自発的な働き人の手で建てられています。それらの会館の平均床面積は370平方㍍で,収容人員は200人です。しかも,中には24時間足らずで建てられるものもあります。その点について,前述の検査官はどんな事を述べているでしょうか。

      とうとう使用許可証に署名する時がきました。検査官は次いで会衆に対してこう述べました。「この建物は[公式の土地利用制限法の区分では]教会と呼ばれるでしょう。しかし,これを教会にしているのは建物ではなく,あなた方の心の中にあるものです。当市内の教会を幾つも検査しましたが,これはその中でも群を抜いて優れた仕方で建てられた教会です。市条例の求めるところすべてを十分すぎるほどに満たしています。

      「この次に,ご自分がだれであるか尋ねられたなら,自分の名前を言わずに,エホバの証人です,と言って,エホバの証人であることに誇りを持ってください」。

      結論として,この検査官は,「神様がこの建物を祝福してくださいますように。そして,きっと祝福してくださるに違いないと思います」と言いました。

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