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  • キリスト教は「バイブル・ベルト」で後退している
    目ざめよ! 1973 | 5月22日
    • キリスト教は「バイブル・ベルト」で後退している

      2世紀以上にわたり,アメリカの南部地方は保守的なプロテスタントのとりででした。バプテスト派,メソジスト派,その他の「正統派」のキリスト教各派が非常に優勢であったので,同地域は「バイブル・ベルト」と呼ばれるようになりました。

      しかし現在,南部諸教会によって張られたかつての強固な宗教戦線はくずれつつあります。1971年には,南部の主要教派のうちバプテスト教会だけが,教会員を少数獲得したにすぎません。その増加率はわずか1.2%でその数は人口増加のわずか0.1%にすぎませんでした。1972年の増加はそれよりは少し印象的な数字でした。

      しかし,南部の諸教会を悩ましているのは,教会員の数以上の問題です。南バプテスト協議会の元会長は,ある福音伝道会議の席上で,「異教の思想や快楽主義や無神論が…教会をおびやかしている」と述べました。

      「オースチン・ステーツマン」紙(テキサス州)は同氏のことばを引用して次のように述べています。「教会は,最大の挑戦に直面する時に,最も気力のない,最も病弱な状態である。…われわれは[バプテスト]教会が,まさにわれわれの目の前で死ぬのを見ようとしている」。

      同会議に出席した,他の教派のオブザーバーも同様の考えを表明しました。「死にかけている」教会の復興は不可能かもしれないと考えている人もいます。牧師たちは,南部における教会の影響力の衰退にざせつ感をいだいています。オクラホマ・シティのハイランド・ヒルズ・クリスチャン教会の牧師,ケン・フォルシーは,同地区の25の教会の牧師をインタビューした後,次のような結論を述べました。

      「つとめから満足を得られる牧師1人に対し,身のふりかたさえわかればつとめをやめるであろう牧師が3人はいる。これは,今日,教会がかかえている最も重大な問題のひとつである」。

      フォルシーの同僚のひとり,レックス・ボーガンは,「平信徒だけでなく牧師でさえひどく失望している ― 具体的なビジョンも手段もないのである」と言いました。

      しかし,アメリカの正統派の教会のまさに心臓部と考えられているところで,この「具体的なビジョンの不足」や「満足感」の欠如,さらには「失望」が存在するのはなぜでしょうか。それは,アメリカの南部地方の教会特有の重大な問題に,「バイブル・ベルト」が直面しているからです。一例をあげれば,人種差別に関する見方が変化しました。その変化の影響を理解するためには,アメリカ南部の歴史を簡単に振り返ってみる必要があります。

  • 「バイブル・ベルト」の教会をゆすぶる人種問題
    目ざめよ! 1973 | 5月22日
    • 「バイブル・ベルト」の教会をゆすぶる人種問題

      19世紀の初頭北部アメリカと南部アメリカには,同じ宗教組織が存在していました。黒人奴隷制度も同じく,南部にも北部にも登場しました。しかし,商業,工業,西部への進出により多くの力をそそいでいた北部では,黒人奴隷制度は勢いを得ませんでした。それに反し,綿の裁培を経済の基盤としていた南部では,奴隷制度は安い労働力を供給しました。

      南北アメリカが奴隷問題をめぐって分裂した時,両者は宗教的にも分裂しました。北部の諸教会は奴隷制度を『信仰に反するもの』として非難し,南部はそれを『信仰に即したもの』と主張しました。南部の宗教家たちは,少しも関係のない聖書の句をひっぱり出して,黒人奴隷制度施行の妥当性を支持することに努めました。1844年,南部と北部のメソジスト教会は黒人奴隷の問題をめぐって分裂し,バプテスト派も一年後に分裂しました。ついで1861年,南北戦争のはじまった年に,長老派が,政治上のメイスン・ディクソン線を境にして分裂しました。

      ノース・カロライナ州,ローレイのプレン・メモリアル・バプテスト教会の牧師E・M・ポティートによると,南部の諸教会は奴隷の売買にさえ関係していました。同牧師は次のように述べています。「キリスト者の男たちが,神の栄光のために奴隷を所有していたばかりでなく,教会自身もしばしば,神の家の動産となっていた奴隷を借し出すことによって天国の仕事を促進した」。

      こうして黒人奴隷制度は南部に深く根をおろしました。しかしながら,もし黒人奴隷制度が,南部に先がけてそれを有していた北部で経済的に成功していたなら,北部の諸教会は疑いなく,南部の彼らの片割れ同様熱烈にそれを支持していたにちがいないことを忘れてはなりません。

      南北戦争後の人種的偏見

      1865年に南部が敗北して南北戦争が終わりをつげたあと,南部の牧師たちは依然として彼ら独自のもの,すなわち「バイブル・ベルト」新教主義にしがみつきました。同盟の解体にあたって,ミシシッピー州の一牧師は,「もし政治的独立を得られないのであれば,少なくとも精神的独立を確立しよう」と主張しました。K・K・ベイリーの著わした「20世紀における南部白人新教主義」という本は次のように述べています。「南部の指導者たちは,南部の白人の宗教は,北部の同じ教派の宗教よりも純粋の形態のものであることを確信していた」。

      奴隷たちは南北戦争後,法律の上では解放されていたかもしれませんが,黒人は社会的には依然として追放されたままの状態でした。南部の過激派は白人上位を固執し,メソジストやバプテストの伝道師たちまであの恐ろしいク・クラックス・クランに加わって,解放された黒人たちを苦しめました。1863年の奴隷解放宣言後も,南部の黒人人口の大部分は,何十年もの間,貧困と文盲の手錠をかけられたままでした。

      その結果,追放された黒人たちは,無教育のため,聖書を読むだけの力がありませんでした。白人の教会には歓迎されないのが常だったので,彼らは自分たちだけの礼拝を行なうようになりました。最初それは,普通の話しや歌よりは少しましな程度のものでした。彼らは彼ら自身の歌,すなわち“黒人霊歌”をつくりました。どの説教もたいてい,父親からむすこへ語り伝えられた,そしてその間にひどく尾ひれのついた,聖書物語以上のものではありませんでした。

      しかし,たとえ白人が彼らの教会にはいることを黒人に許しても,それを喜ぶ黒人はいなかったでしょう。「ディープ・サウス」の著者は次のように述べています。「彼らが知っていたのはアングロ・サクソン人のバプテスト派とメソジスト派の信徒によって象徴されたキリスト教でしかなかったし,またそれが白人のボスや地主を強く連想させたので,彼らは,白人の神が自分たちの上に,長い間経験してきたのと同様の残虐と不正をひきつづき押しつける場所で,永久に生活することを余儀なくされるのではないかという恐れをいだいていた」。

      アメリカの歴史は,黒人が白人主義者の神と関係を持とうとしなかったことを物語るものです。大多数の黒人は,彼ら独自の正統派宗教を好みました。

      現代の変革が南部の教会におよぼした影響

      そして1954年,南部の状態に劇的な変化が生じはじめました。アメリカ最高裁判所は,学校における人種差別を打ち砕きました。その時以来,黒人は「バイブル・ベルト」をかき回しています。100年にわたって黒人の心と精神を奴隷にしていた壁はくずれつつあり,黒人の大学卒の世代が出てきて遠慮なく発言し,白人との平等を要求しています。

      昔の南部の白人上位主義者の宗教上の主張は,相ついで制定される法律や国民的支持を有する反対運動の前にその力を失いました。多くの人は,以前人種的偏見をいだいていた教会を捨てました。とはいえ,過去数年間に生じた激しい変化の中で,南部の黒人の教会も無きずではすみませんでした。

      黒人の教会は抗議運動やデモを組織するための集会場と化しました。社会正義のための闘争で著名な黒人牧師たちは,市会議員から上院議員に至るまでのすべての政治的地位をねらうことさえしました。

      さらに一般の黒人は,平等を要求した結果,以前よりもさらに物質主義的になりました。U・S・ニュース・アンド・ワールド・リポート誌は,「黒人牧師たちは,かつて黒人教会を生活の大黒柱としていた人びとの間に,宗教への無関心が広がっているのを感じ取っている」と述べています。(1972年9月25日号)南部の黒人の多くが非常に宗教的で聖書を尊敬していることは事実です。しかし,社会的,宗教的状態の急激な変化によって,ひとつの新しいムードが生まれてきています。ある白人が言ったとおり,南部の黒人は今,「教会を捨てて懐疑主義者,あるいは無神論者になるとしても,ほとんどうしろめたさを感じません」。

      人種差別の撤廃と黒人勢力の台頭は,「白人」と「黒人」の正統派宗教が,「バイブル・ベルト」で足場を失う原因となっています。しかし,他にどんな要素が,これまで堅固であった南部の宗教戦線にくさびを打ち込んでいるのでしょうか。

  • 聖書にかんする無知も教会員のいっそうの減少を招く
    目ざめよ! 1973 | 5月22日
    • 聖書にかんする無知も教会員のいっそうの減少を招く

      アメリカの教会は,1950年代中に急速に発展しました。会衆の会員は増加し,主要な教派から多くの新しい分派が生まれました。「バイブル・ベルト」地域ほど,『世界をキリストの王国に変える』というバラ色の夢がよりバラ色に見えたところはありませんでした。しかし,1960年代にはいってから,宗教熱は冷えてゆきました。南部では,すでに述べたように,多数の教会員と牧師が社会問題や政治問題に心を向けて横道にそれてゆきました。

      しかし,誠実な気持で霊の食物を教会に求めていた人たちはどうでしたか。そこでは聖書が神のことばとして教えられていたでしょうか。そして彼らは,聖書を生活の導きとして用いる方法を教えられたでしょうか。この質問に対しては教会指導者たちがはっきりと答えています。たとえば,南バプテスト協議会の元議長カール・ベーツは次のように述べています。「われわれは,われわれの宗教の教理にほとんど無知のバプテストの世代を育てた」。またバプテストのK・L・チャフィン博士は,「彼らは自分の信仰をはっきり表現するすべを知らない」と言っています。

      教会員の間に聖書の知識が欠けているのはなぜか

      しかしなぜ教会員は「ほとんど無知」で,聖書に基づいているはずの「自分の信仰をはっきり表現」できないのでしょうか。牧師が,聖書から会衆に与えるしっかりしたものを持っていないということはないでしょうか。南部の牧師たちは,使徒パウロと同じように,聖書を「神の感動によるもの」とほんとうに信じているでしょうか。―テモテ後 3:16。

      ひとつの教会の答えとして,バプテストの学者たちによって出された「ブロードマン聖書注釈書」のことを考えてみましょう。同書は聖書の確実性に大きな疑いを投げかけているので,この本の出現によって南バプテストの社会では数年にわたり騒ぎがつづいています。しかし現在では同注釈書に挑戦する教会人はしだいに少なくなっています。クリスチャン・センチュリー誌は,1972年南バプテスト協議会事務会議について,次のように述べています。

      「南バプテスト協議会の審議の席上で耳をろうするほどの痛撃を受けるかに思われた問題 ―『ブロードマン聖書注釈書』12巻とその編集者に関係した,長期間つづけられている審理 ― は,ぶつぶつ不平を言うような口調で提出された。…[保守派は]同書が,聖書の絶対不びゅう性を信ずるバプテスト派の信仰に反するという理由で同書の撤回と書き換えを要求する決議を提出した」。

      大多数の代表は,聖書の「絶対不びゅう性」を疑問視する注釈書を拒否することに賛成したでしょうか。彼らは,聖書に対する疑問の余地のない支持を示すために,その書き換えを望んだでしょうか。報告はつづきます。

      「[代表たちは]圧倒的起立投票によって,同注釈書の撤回を認めることを拒否した。頭数は数えられなかったが,決議は4対1の割合で否決されたようである」。

      教会の指導的メンバーでさえ,「聖書の不びゅう性」のような基本的な事柄について意見を異にしているのですから,一般の教会員が「自分の信仰をはっきり表現するすべを知らない」のも無理のない話です。聖書の役割にかんする疑いの結果として,確かに種々様々の信仰があります。しかし,あいまいなのは信仰だけにかぎられてはいません。

      クリスチャンの行ないは聖書を導きにしたものであるべきです。では,何がクリスチャンの行動や行ないとして正しいかについても,疑いがあるのではないでしょうか。

      そうです。その結果起きた混乱の,ひとつの具体的な例をあげてみましょう。ジョージア州の一広報会社が,二人の南バプテストの牧師に,もし政治関係の投票を行ない,軍隊にはいり,国家の象徴に敬礼し,信仰合同運動を行ない,愛国主義的な儀式に参加し,国連を支持するなら,「この世の者」になるか,という質問をしました。ひとりの牧師は質問の全部の点に対して「イエス」と答えました。もうひとりの牧師はそれぞれの点に対して「ノー」と答えました。にもかかわらず,二人の牧師のうちひとりは,送られてきた質問書に,「神はみだれの神にあらず」としるしました。

      なるほど神は混乱しておられないし,神のことばである聖書も混乱してはいません。しかし,同じバプテスト派の中の牧師の間に混乱があるのは明らかではありませんか。普通の人はもっと混乱しているでしょう。「ほとんど完全に無知の」一般信徒の多くが彼らの教会を捨てているのも驚くにはおよびません。

      行為にかんする聖書の規準に従わないことも,「バイブル・ベルト」のメソジスト派信徒の間に不和を生ぜしめる問題となっています。それはどんな問題ですか。

      メソジスト派信徒と同性愛

      それは同性愛という問題です。聖書は,「自ら欺くな…姦淫をなすもの,男娼となるもの…は,みな神の国をつぐことなきなり」とはっきり述べています。(コリント前 6:9)それにもかかわらず,アトランタの4人の牧師が,同性愛は聖書の原則に反するか,という質問を受けたとき,反すると答えたのはひとりだけでした。

      1971年に,「ザ・テキサス・メソジスト」という定期刊行物が,同性愛行為につき,同教会の会員を対象にして調査を行ないました。「あなたは,クリスチャンであると同時に同性愛者であることができると思いますか」という質問に対して,「イエス」と答えた人は回答者合計533人の41%でした。そして牧師の60%は「イエス」と答え,同性愛は「自然」なことであるとさえ言った牧師もありました。

      同性愛の問題が,同地域のメソジスト教会におよぼした分裂的な影響は,ある古い教会員が「ザ・テキサス・メソジスト」に寄せた次の手紙にはっきりうかがえます。「私は70年以上メソジスト派の信徒としてすごしてきましたが,今メソジスト教会内で行なわれているような不潔なことは見たことがありません。でもそれは,わたしたちの教会の指導者たちによって認められていることのようです。多くの会員が教会を去っていくのも不思議ではありません」。

      「バイブル・ベルト」の多くの人びとに背を向けさせる偽善

      多くの人びと ― とくに若い人びと ― が,「バイブル・ベルト」の正統派キリスト教に背を向けている原因がもうひとつあります。それは何でしょうか。ノース・カロライナ州,ローレイのマルチン・ストリート・バプテスト教会のポール・H・ジョンソンのことばはその答えになるでしょう。「多数の若者は,クリスチャンの行ないが口で言うこととはちがうのを見ている」と彼は述べています。

      「バイブル・ベルト」の大部分の教会員には長い間,禁煙や禁酒の厳重な要求が課せられていました。しかし,教会員はそれらの教えをほんとうに信じていたでしょうか。アメリカの膨大なたばこ生産量の90%以上は,いまだに南部で生産されます。またケンタッキー州は依然としてアメリカ一のウイスキー生産州です。今日のそう明な若者たちがその明らかな矛盾を無視するでしょうか。まず考えられないことです。

      彼らはまた,「バイブル・ベルト」の多くの教会自体の内部における偽善をも見のがしません。ジョージア州,ディケイターに住むある婦人は次のように述べています。「私はバプテスト派の牧師の娘として育ちました。ということは,お化粧をすることも,飾身具をつけることも,家の中でトランプ遊びをすることも,どんなダンスも,女の子が髪を短くすることも,日曜日に音楽を聞くことも禁じられ,そしてたばこやアルコールは厳禁されていたことを意味します。ほとんどすべてのものが「いけないこと」でした。しかし12歳ごろまでには,みんなが,口で言うとおりの生活をしていないことに気づいていました。なかでも私の父はそうでした。父は日曜日になると,自分が一週間ずっとしてきたこととは逆のことを説教しました」。こうした偽善は,多くの人びとが南部の教会に背を向ける今ひとつの理由となっています。

      聖書の教えを固守することによって聖書を信ずることをしなかった結果,「バイブル・ベルト」の宗教諸組織の内部には確かに分裂とあいまいさと偽善が生じました。それは会員の減少の原因ともなりました。それでも多数の誠実な人びとは,アメリカの「バイブル・ベルト」の宗教に,ほんとうに健全な場所があるのだろうかと問いかけます。

  • 聖書の真理は「バイブル・ベルト」で伸展する
    目ざめよ! 1973 | 5月22日
    • 聖書の真理は「バイブル・ベルト」で伸展する

      アメリカ,ジョージア州,メーコンにあるマーサ大学のバプテスト教会史家,H・L・マクマヌス博士は最近,「バイブル・ベルト」(および世界の他の場所)の霊的な健康状態を示すひとつの兆候を指摘しました。同博士は,『大教派』になる見込みのあるものとしてエホバの証人をあげ,証人たちの『驚くべき増加』に注意を促しました。

      伝統的な「バイブル・ベルト」地域15州におけるエホバの証人の働きの結果を示すここに掲げられている数字は,マクマヌス博士か述べているように,証人たちが確かに『驚くべき増加』を遂げたことを示すものです。

      年: 1961 1971 1972

      証人の数: 70,926 101,032 120,425

      1971年から1972年の1年間の増加が,1961年から1971年までの10年間における増加のほぼ3分の2に当たることに注目してください。しかし,彼らはなぜそのように精力的に増加しているのでしょうか。別のバプテスト派の牧師,フロリダ州,ジャクソンビル,リバーサイド・バプテスト教会のC・アール・クーパが説教の中で行なった次の説明を考慮してください。

      「証人たちは聖書を…初めから終わりまで,すなわち『聖書の一部分だけではなく,全部』を信じている。もし,あなたがた(バプテスト教会員)が自分の宗教を証人たちと同じほど強く信じていたなら,また自分の宗教の理性的な現実性をねばり強く主張していたなら,もし,アメリカ中にいる1千万人の南バプテスト教会の教会員が,エホバの証人が彼らの宗教を信じているのと同じように自分たちの宗教を信じていたなら,北アメリカに大きな変化をもたらし,正しい状態にしていたであろう。しかし,われわれはそうしていないのである」。

      何千もの人びとは,「証人たちが聖書を信じている」ことに気づき,神のことば聖書に口先だけの敬意しか払わないことの多い正統派キリスト教会から離れています。多数の人びとが,聖書を理解し,聖書を生活の導きにすることを熱望しているにもかかわらず,エホバの証人と接するまでは,彼らにとって聖書はまるで閉ざされた本のようでした。

      たとえば,サウスカロライナ州のコロンビアに住むある男の人は,「バイブル・ベルト」の教会での50年間とエホバの証人との聖書の勉強を通して学んだ事柄とを次のように比較しています。「エホバの証人と勉強するにつれ,[以前の教会の]日曜学校では,出席がとられ,寄付盆が2回まわされ,聖書は一度も開かれることも使われることもなかったのに気づき始めました。わたしはただすわって話を聞くだけで,聖書からは何も学びませんでした。エホバの証人の王国会館に出席した時,わたしは聖書のすぐれた話を聞き,多くの聖句を調べ,正確な知識と理解を確かに得ました」。

      もちろんこの人は,エホバの証人が単に聖書を学んでいるだけでなく,聖書を信じ,聖書に従って生活を送っていることにも気づきました。たとえば,エホバの証人は「寄付盆」を回したり,会衆の成員に寄付を割り当てたりするようなことをしません。むしろ,自発的に与えるという聖書の原則に従っています。コリント後書 9章7節には次のように書かれています。『おのおの惜しむことなく,しいてすることなく,その心に定めしごとくせよ。神は喜びて与うる人を愛したまえばなり』。

      死者に関する真理は多くの人を引きつけている

      南部の諸教会に属し,聖書を信じたいと望んでいる多くの人びとは,「地獄の火」の教えにとまどっています。たとえば,ルイジアナ州,フーマに住む一婦人は,「地獄の火」の教理に満足できないものがあったことを次のように語っています。「わたしは,ヨハネ伝 3章16節に述べられているように,神は愛の神であると教えられてきました。しかし教会は火の燃える地獄を教えています。これは愛の神にあるまじき矛盾のように思えました。わたしは最近愛する家族のひとりを亡くし,その死後の状態について心配していました。聖書から死者の状態とすばらしい復活の希望を学んだときには,胸がおどりました」。伝道の書 9章5節に述べられているように,『死ねる者は何事も知らず』に,復活すなわちよみがえりを待ちつつ,死の眠りについているという単純な聖書の真理が,この婦人の場合のように,正直な人の心に訴えるのです。この婦人は,今では,愛のある神が「地獄の火」で人びとを永遠に苦しめることなどないということを知っています。

      ジョージア州,ダラビレの別の婦人は母親を亡くしました。彼女はバプテスト教会の牧師に,(その牧師の教会の教会員ではなかった)母親が「地獄の火」の中にいるかどうかを尋ねました。答えに窮した牧師を思い出しながら,その婦人は言いました。「『たぶん』とか『わかりません』とかいうことばを聞いた時,そうです,そのことばを聞いた時わたしの心は決まりました。わたしはやっと,この人は神のことば聖書について何も知らないのだということに気づきました。それで,わたしはすべてのこと,そうです,牧師も,教会も,何もかも忘れることに決めました」。

      その後,エホバの証人がその婦人を訪問しました。今や彼女は死者の状態に関する質問の答えを得ただけでなく,聖書が生きている人に助けとなることについても学びました。彼女は次のように語っています。「今わたしはクリスチャンとしての生活の仕方を学んでいます。エホバの証人はほんとうに事の大小にかかわりなく,エホバをすべての問題に関する最高権威者としています。すべての答えは聖書の中にあります。そして今わたしは,かつてのわたしと同じように神のことば聖書からの答えを得ていない人びとを助けたいという願いをいだきつつ,今その答えを学んでいます」。

      聖書の道徳規準は人びとの心に訴える

      エホバの証人の組織が奨励する,聖書の偽善のない真実の道徳規準は多くの人びとの心に訴えるものをもっています。

      たとえば,ルイジアナ州のあるバプテスト教会のかつての理事は次のように述べています。「理事会の席でわたしたちは,副牧師から,少女に妊娠させないで淫行を行なう方法を10代の少年に教えるようにと指示されました」。この人は教会を離れました。

      その後どうなりましたか。彼はこう述べています。「わたしの妻がエホバの証人と聖書を勉強し始めました。妻は証人たちの道徳的な清さに感銘しました。わたしはエホバの証人の集会に招待され,そこでの会衆の友好的なふん囲気にすぐに気がつきました。その時,会衆が悪行者を排斥することも学びました。わたしはここに非常に高い道徳規準を持つ組織があることを知りました」。この男の人は聖書の道徳規準を受け入れ,今ではエホバの証人のひとりとなっています。

      聖書の預言は多くの人の関心を引いている

      他の人びとは聖書の預言を学んで感激しました。クリスチャンである使徒ペテロは,クリスチャンが『預言のことばに注意を向ける』のはよいことであると教えています。―ペテロ後 1:19,新。

      しかし,「バイブル・ベルト」のおおかたの教会において,預言はほとんど無視されています。ジョージア州のある「キリストの教会」の牧師は,預言のことを「あらゆる種類の主観的推論の余地のあるもの」とさえ述べました。

      しかし,今日の類例のない世界情勢は,聖書預言の光に照らして初めて明確に理解されるのです。(マタイ伝 24章,マルコ伝 13章,ルカ伝 21章をご覧ください。)そのうえ,神のご意志が天のように地上にも行なわれるすばらしい正義の新秩序をクリスチャンに明らかにしているのも預言です。(マタイ 6:9。黙示 21:1-4)エホバの証人は,神のことばである聖書全体を信じているゆえに前述の希望を堅く保っているということを,多くの人は理解しています。彼らも同じ希望を学んでエホバの証人になりました。

      こうした幾つかの実例が示しているように,エホバの証人の教える,神のことば聖書の真理は,世界中の他の場所におけると同様に,「バイブル・ベルト」においても急速に広まっています。他の教会が教会員の数の減少を見守っている一方で,エホバの証人は数の面でも増加し,また非常に重要な霊的な面すなわち神のみことばの理解においても進歩を続けています。この進歩の理由をご自分で直接にお調べになってみてはいかがですか。どこにお住まいのかたでも,エホバの証人と連絡をおとりになって,聖書に即した信仰を持つ,そしてそれに従って生活する人びとから真理を学んでください。

  • 増加する輸血なしの手術
    目ざめよ! 1973 | 5月22日
    • 増加する輸血なしの手術

      ◆ 最近,アメリカでは,指導的な外科医たちが輸血をきらうようになっている。ヒューストン市の外科医,クーレイ博士は110人のエホバの証人に輸血なしで心臓手術を施した。同博士は,彼が行なうすべての心臓切開手術の30%は供血者の血液を輸血せずに行なっていると言っている。しかし彼はまた,「大手術の大半は輸血なしで行なえるということは今や明らかである」と語っている。ロサンゼルスのJ・H・ケイによれば,彼の患者の45%から50%は心臓手術中にもはや供血者の血を輸血されない。同氏はその利点として,血清肝炎の危険がないこと,手術後の出血が少ないこと,入院期間が少なくてすむことをあげている。ペンシルベニヤ大学のS・ダドリックは,輸血を施すよりも手術の前後に患者の血液をふやすほうがよいと言っている。彼は,「わたしたちはもはやいやでも血液のビンを振りまわすことはしない」と語っている。

  • 健康状態に及ぼす喫煙の影響
    目ざめよ! 1973 | 5月22日
    • 健康状態に及ぼす喫煙の影響

      ◆ 今や医学の権威者たちは,喫煙が健康状態に悪影響を及ぼすという点で一般に意見の一致を見ている。メディカル・ワールド・ニューズ社の発行した「老人病科」1971年版は次のように述べた。「慢性的な喫煙者の肺の機能は平均して,およそ10歳年上の,喫煙をしない人のその機能のレベルにまで低下している」。

      しかしながら,中には,『あまりにも長年たばこをのんできたので,今さらやめたところで何の益にもなるまい』と言う人もいよう。しかし,前述の記事はこう説明している。「喫煙をやめれば,肺の機能は12か月ないし18か月以内に,たばこをのまない人のその機能のレベルにほとんど戻るものである。このことは60歳の人の場合にさえ当てはまる。これで明らかなとおり,回復作用は老齢者の場合でも依然として働いているのである」。

      あなたは健康状態を改善し,できれば寿命をさらに伸ばしたいと望んでおられるであろうか。もし,たばこをのんでいるのであれば,みずから行なえることがある。喫煙をやめることである。それは確かに努力するだけの価値がある。

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