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    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 独立200年

      アメリカ合衆国は,北アメリカの13の植民地が,大英帝国からの独立を宣言した1776年7月4日に“誕生”しました。

      1976年の7月4日は,その200周年記念日に当たります。この行事は,英語で“Bicentennial(200年祭)”と呼ばれてきました。それは“2”を意味するbiと,“100年祭”を意味するcentennialから成る語です。

      この200年間に,米国は人口および面積の点で,世界第四位の大国にのし上がりました。同国の人口は,現在約2億1,500万人を数えます。

      しかし,他の国々と比べると,この国にはまだ若さが感じられます。ヨーロッパ人の最初の植民地は,1607年,英国人によって,バージニアのジェームズタウンに設立されました。それら初期の入植者の大半は,宗教や政治上の自由を求めて,あるいは経済状態を改善しようとしてやって来た人々でした。

      革命が始まる

      1776年までには,260万の人口を擁する,13の植民地が存在するようになりました。しかし,その年よりもずっと前から,ジョージ3世の英国政府と植民地人の間には敵対関係が生まれていました。植民地人の大半は,より大きな政治および経済上の自由を求めました。それが与えられないと見ると,彼らは反逆し,自分たちで大陸会議を設置しました。

      アメリカの革命分子が軍事面で初めて成功を収めたのは,1775年5月のことでした。バーモントのエサン・アレンの率いる“グリーン山脈義勇軍”が,ニューヨークのタイコンデローガにある英軍のとりでを攻撃したのです。アレンは,「偉大なるエホバおよび大陸会議の名において」英軍に降伏するよう求め,遂に降伏させました。

      翌年,大陸会議がフィラデルフィアのインディペンデンス・ホールで開かれ,1776年7月4日,その場所で独立宣言が採択されました。

      望まれた自由

      独立宣言には,望まれていた自由がはっきりと説明されていました。それは気高く,崇高な理想を具体的に言い表わしたもので,一部次のように述べられています。「我々は以下のことを自明の真理なりと信ずるものである。すなわち,すべての人は生まれながらにして平等であり,譲ることのできない一定の権利を創造者から与えられており,その中には生命,自由,および幸福の追求が含まれている。人類はこれらの権利を確保するために政府を組織する。その政府の正当な権力の根源は被治者の同意にある。したがって,いかなる形態の政府といえども,もし以上の目的を阻害するに至った場合,これを改廃し,新たな政府を組織することは人民の権利とされる」。

      独立宣言にはまた,英国が『人民の権利を尊重する法案を通過させず,公正の執行を妨害し,多くの場合に陪審員による裁判の恩恵を与えず,我々の領海で略奪を行ない,我々の沿岸を荒らし,町々を焼き,人民の命を奪い,王のための強制徴用と称して市民を捕らえた』ことに対する抗議が含まれていました。

      八年に及ぶ激しい戦闘の末,1783年にようやく平和条約が締結されました。英国軍は完全に撤退し,米国は今や自由になったのです。

      それ以来,どんなことが起きてきましたか。宣言された自由に基づく200年間は,同国に何をもたらしましたか。その将来は明るいものですか。“300年祭”に対する見込みはどんなものですか。

  • 自由は長続きしたか
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 自由は長続きしたか

      独立宣言が1776年に発せられて以来,人間の政府に関して,類例をみない大規模な実験が行なわれてきました。それは近代的な民主主義の実験です。当時,他の国々の大半は,王制あるいはその他の形の独裁政体の下に置かれていました。

      しかし米国では,宿願の自由を守れるのは『人民の同意を得た政府』だけである,と考えられていました。そうした自由の中には,言論,信教,出版,および集会の自由などが含まれます。

      そのような自由は,「譲ることのできない権利」であると宣言されました。そして,1787年,そうした権利は,米国の基礎ともなる公式文書,すなわち合衆国憲法の中に組み込まれました。

      記録は何を示しているか

      言明された理想の真価は,それがどれほど実行されるかによって明らかになります。崇高な言葉を文書に著わすことはそれほど難しくはありません。しかし,それを守るとなると,別問題です。

      この点に関する歴史の記録には矛盾するものがあります。多くの場合,言明された自由は,かなりよく守られてきました。しかし一方,基本的な自由の乱用や軽視が悲惨な結果を招いた場合もありました。

      良い面を取り上げれば,言論,信教,出版,および集会の自由にかかわる基本的な理念は,おおかた守られてきました。しかし時としてそれを守ることは,憲法の定める自由を確保するための,法廷での難しい闘争を意味しました。

      闘争

      信教の自由を行使しようとする際,少数者の信仰が圧迫を受けたことがありました。例えば,1930年代の後半から1940年代の前半にかけて,米国ではエホバの証人が迫害されました。暴徒たちだけでなく,偏見を持った特定の役人も,彼らの憲法上の権利を認めようとしませんでした。

      その結果,エホバの証人は,米国の最高裁判所に数多くの訴訟を持ち込まねばなりませんでした。喜ぶべきことに,同最高裁判所の判決は,圧制的な勢力を次々に敗退させました。信教の自由は擁護されたのです。

      エホバの証人の世界本部は米国に置かれているため,そうした自由は,エホバの証人の世界的な宣べ伝える業に確かに益を及ぼしてきました。そして,憲法の保証する,信教,集会,言論,および出版の基本的な自由は,米国内のすべての宗教団体にとって重要なものであったことに疑問の余地はありません。

      こうした状況は他の国々と著しい対照をなしています。この点は,ヒトラー支配下のドイツで,そうした宣べ伝える業がどのように抑圧されたかを考えるだけでも分かります。また,今日,神を自由に崇拝することが禁じられている他の多くの独裁主義国と同様,共産主義の国々でもそのような業を公に行なうことはできません。

      このように,人々の求める基本的な自由を守るため,幾多の熾烈な闘争が繰り返されてきました。そして,現在でも米国では,そのような闘争が依然として行なわれているのです。

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