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  • 自由で責任を持つ人間
    ものみの塔 1958 | 7月15日
    • 責任,あらゆる状態下で最善をつくすべき責任を奪いとつてしまうでしよう。そして,正しい論理,つまり自分にしてもらいたいと欲する通りに他の人を扱うという神の要求を否定するでしよう。彼らはそれによつて人間が自由であることも否定するのです。

      米国の各地で流行している『進歩的教育』も同じく愚かなことです。これは,子供は自分で努力したり訓練することを要求されるべきではなく,学習が子供の未熟な心と性癖に訴えるものでなければならないという理論に基づいています。学年末には,彼が何を習得したかにかかわらず自動的に進級させられます。そのため子供は,励みと責任の両方をうばわれてしまうのです。そのような教育の成果が非常に貧弱であることが自由職業,経済,工業界で,発見されるのは不思議ではなく,またそのような教育を受けた者が,なぜ将来に有望な職業よりも,職業の提供する休暇や給料や病気の時の保障ばかりに気を取られるか不可解ではありません。

      西欧諸国の経済的傾向は,人間から責任を取り去りつつあるようです。それは,雇主がなす税金の割引き,失業保険,養老年金その他の点に見られます。また,自分自身の能力,勤勉さ,忠実さを反映するところの一つの製品の完成に対しても人の個人的な責任は益々少くなつています。20世紀の有名な博物学者の一人,故アレクシス・カーレルが,自著「未知なる人間」という本に示しているごとく,物質的な繁栄や現代の多くの発明,大量製産は,人間から責任感,個性,威厳を奪い,人間をロボットのように,道徳的に軟弱なものにしたと言つています。カーレルの言うところによると,これらすべては人間にとつて凶兆です。

      今日におけるこの傾向は,さらに家庭生活の中にも見られます。両親は,子供を持つことによつて生じた責任を無視し,雑草のように子供が育つままに放任します。子供たちは子供たちで,家庭内の,または家族の他の者に対するどのような責任をも負おうとしません。父親たちは,責任を負うよりも,むしろ一番まさつの少い道を選び,母親たちは,父親に属す責任を奪いながらも特に母親に属する責任を回避することが度々あります。夫たちや妻たちは,彼らがお互の精神的,感情的,肉体的福祉に対して特つ責任を無視し,愛人同士は互いの愛情に関するささいなことで同じような傾向を示します。L・A・アルセン・医学博士はこれを適切に『責任回避』と呼びました。

      この責任回避の最も憂慮すべき状態は,宗教界に見られます。米国教会連盟は『諸教会の実情』という題で新聞に次のように報道しました,『宗教に対する関心は非常に高く,教会員は1億を超えたが,犯罪,不道徳,社会の混乱もまた最高潮に達している。』(プログレス・ブルティン,1957年12月3日,カリフォルニヤ州,ポモナ)前もつて預言されていたごとく,人々は『教会』の会員になることによつて信心深い様子を示しますが,その責任を無視して真実性がない証拠を示しています。そのような人々は,他の人の例や『合理化』というもつともらしい言い訳を使つて,自分の無責任な行為を正当化します。

      この責任回避は,ヱホバの証者から聞いた音信の真実性を認める人々の間にさえ見られます。そのような人は,自分がヱホバの証者になる時に生ずる責任を恐れて,家庭で聖書を研究するのをことわります。またある人々は,種がしばらくの間繁茂する石地か,いばらの多い土地のようです。ひとたび責任を負わなければならなくなると,それを回避して,真理の種を枯らしてしまいます。事実,献身したクリスチャンたちの間にさえ,それらにともなう責任を負いたくないため,人々と家庭聖書研究を行つたり,会衆内における奉仕の特権を持つことをしりごみする人があります。ついでに,無神論者が創造主の実在を否定し,不可知論者が創造主の実在を疑問に思う一つの理由は,意識的にか無意識にか,創造者の実在を認めることによつて生ずる責任を負いたくないからだということがいえましよう。創造主の存在を認めることは,私たちが感謝と服従を神に帰すべきことを認識することです。

      クリスチヤンの責任

      真理はクリスチャンを自由にするという理由により,クリスチャンは更に大きな責任を持つことになります。それは使徒パウロが,『人はそれぞれ,自分自身の重荷を負うべきである』と述べた通りです。しかしながら,両者は相互関係にあり,これらがよつて立つ一つのものは知識です,『人が,なすべき善を知りながら行わなければ,それは彼にとつて罪である。』またこれは,反対者に関してイエスが言われた通りです『もしわたしがきて彼らに語らなかつたならば,彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となつては,彼らには,その罪について言いのがれる道がない。』― ガラテヤ 6:5。ヤコブ 4:17。ヨハネ 15:22,新口。

      また人が,知識に従つて行動する時,その責任はさらに重くなります。ですから神に献身した人は,その献身を全うしなければなりません,『汝神に誓願をかけなばこれを果すことを怠るなかれ……汝はそのかけし誓願を果すべし。誓願をかけてこれを果さざるよりは,むしろ誓願をかけざるは汝に善し。』― 伝道 4:4,5。

      神にかけた誓願を果すに際して,私たちを導くために,神はご自分の御言葉である聖書を私たちに与えて下さいました。しかし聖書は,特定の場合に何をすべきかを,個人的に私たちに告げているわけではありません。むしろ聖書は,行動の基本的原則を述べて,これを日常生活に応用することを私たちの責任としています。一つの例を挙げると,私たちは何がカイザルに属し何が神に属するかを個人的に区別しなければなりません。―マタイ 22:21。

      それに加えて,すべてのクリスチャンは,イエスの示された通り,実を結ぶべき責任があります。(ヨハネ 15:2)その実の中には,『愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制』などがあります。これは,機会と資産のゆるす限り私たちのクリスチャン兄弟を援助することも含まれています。私たちは,道の反対側を歩いて,打ちのめされ奪われた旅人を助ける責任からのがれようとした祭司やレビ人のようであつてはなりません。むしろ私たちはわざわざやつて来て苦しんでいる人を助けたよきサマリヤ人のようでなければなりません。―ガラテヤ 5:22,23。ルカ 10:29-37,新口。

      イエスが『真理を証しする』目的で地上に来られた以上,クリスチャンが知識と機会のゆるす限り,「御国のよい音信」を伝道するのは,実を結ぶことの中に含まれています。私たちは,イエスのたとえ話にでて来る1ミナまたは1タラントの奴隷,つまり,主人の物に対する責任を負うことを拒絶して,少くともそれを活用してふやすことができたのに,それを土の中にかくした奴隷のようであつてはなりません。むしろ私たちは,パウロが叫んだように感じなければなりません,『もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである!』パウロは自分の責任を認めまたそれらを負いました。―ヨハネ 18:37。コリント前 9:16,新口。

      もう一つの強調すべきクリスチャンの責任範囲は私たちの罪や欠点から生ずるものです。

      私たちはこれらに関して鋭い良心を持つべきであり,またキリストのあがないを基礎にして絶えずゆるしを乞うべきです。しかしそれにもまして私たちは,これらに対し道徳的責任を負わなければなりません。神や両親や環境のせいにしたり,アダムやエバやサウル王のように他人のせいにしてはなりません。そうすることは,愛のないことや円熟していないことを示すのみでなく,実際にくいあらためていないこと,そのためにゆるされるにふさわしくないことを示すものです。

      私たちは自由であるため,自分の責任を負わなければなりません。そうするためには,愛と知恵が必要であると同じく鋭敏な正義感が必要です。私たちは円熟するとともに,責任も加えるべきです。それに対処することによつて私たちは強くなり,満足と喜びをましくわえついに神の承認を得て,新しい世における永遠の生命を報いとして受けるでしよう。

  • 生命の水は流れ込む
    ものみの塔 1958 | 7月15日
    • 生命の水は流れ込む

      共産主義のハンガリーで,良心のために兵役を拒否して苦難を受けた一人のヱホバの証者は,軍隊の刑務所にいるクリスチャンでさえ如何にして聖書の文書を入手したかを次のように語つています。

      『ブタペスト第九地区にある軍隊の刑務所では規律がきわめて厳重で,何か禁ぜられている物をその中に持ち込むことは全く不可能のように思われましたが,それでも生命の水は地下の流れを通して兄弟たちのところに達しました。

      『ところが,あるとき私は「ものみの塔」の記事を何とかして持ち込むことができました。仕事から帰つてきたとき,私は汚いセメントのバケツを下げていました。入口で厳重な検査を受けてから,私は中に入れと言われましたが,バケツにはわざと注意を払わなかつたところ,番兵はすぐに私のうしろからどなりました「なんでバケツをここにおいて行くのか。」私はバケツを取ると,それを持つて中に入りました。「ものみの塔」の記事はその中にあつたのです。バケツの底に紙をかぶせてセメントをかけておきました。

      『後に私は修繕工として再び外で働きましたが,幸いなことに自由の身の兄弟と再び会うことができました。私は自分で作つた木の道具箱を二重底にしておき,間に「ものみの塔」を入れました。そして何時も鋭い鉄片を沢山,道具箱の中に入れて番兵がよく調べないようにしておいたのです。このようにして,「ものみの塔」をこつそりと持ち込むことは全く容易でした。修繕工だつた私はどの独房にも近づくことができ,刑務所内で霊的食物を回すことができました。このように,ヱホバの過分の御親切によつて兄弟たちは幾らかの霊的食物を得たのです。』

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