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「御心が地に成るように」(その3)ものみの塔 1959 | 2月1日
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44 イエスが弟子たちに祈るように教えた神については,何が知られていましたか。
44 それとは反対に,イエスはいわゆる母 ― 父なる神dとか,名前の無い神に祈るようにと弟子たちに教えず,その名前をイエス自身およびイスラエルの大祭司の知つていた神に祈りを捧げるようにと教えたのです。ヱホバという神の個有の御名が重要でないなら,なぜイエスは模範的な祈りの最初の部分で,『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように(または清められますように,新世訳)』と教えたのはなぜですか。イエスの山上の教えを聴いていた者たちは,インドとか他の国々の神々を信じておらず,イエス御自身の崇拝した神を信じていました。キリスト自身の名前は,天的な父なるこの神の御名を崇めます,なぜならイエスという名前は,『ヱホバは救い』という意味だからです。―マタイ 1:21。
(次号につづく)
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目ざめている者は幸福であるものみの塔 1959 | 2月1日
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目ざめている者は幸福である
『見よ,私は盗人のごとく来る。裸のままで歩かないように,またその恥のところを見られないように,目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である。』― 黙示 16:15,新世。
1 解雇された働き人の衣服を没収して,こわすことを必要とする特定な業は,誰の監督の下になされますか。
今日,ある仕事をしていて,目ざめていない為に仕事を取り上げられるという場合に,上衣を没収されてこわされるというようなことは,すべての種類の仕事に当てはまるわけではありません。それでは,黙示録 16章15節に言及されている特定な種類の仕事,つまりその仕事に従事しながら眠つてしまうなら,その仕事から解雇され,衣服を取られてこわされてしまう,という仕事は何ですか。それは,次のような警告を発する天的な者の監督と支配を受ける仕事です,『見よ,私は盗人のごとく来る。裸のままで歩かないように,又その恥のところを見られないように,目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である。』そのように語つている方は,イエスです。
2 自称の弟子たちについては,イエスは何に鋭い関心を持つていますか。この事柄につき,彼はどのようにして真実の知らせを得ますか。
2 イエスの弟子と自称する者たちの現在の振舞の仕方について,イエス・キリストは非常な興味を示しています。彼らはイエスに忠実に倣つていますか,それとも不忠にも又偽善的にも世の前にイエスを悪く代表していますか。彼らは愛の気持をもつてイエスに仕えていますか,それとも敵なる世に仕えていますか。彼らは,1914年以来の現在行うようにとイエスの命じている業を,注意深く行つていますか。それとも,この世のさしのべる安楽,平和,そして繁栄を求める為に,クリスチャンの義務に関しては眠つていますか。イエス・キリストはこれらの質問の真実の答を知らねばなりません。それで,彼は前もつて知らされていない時,そしてイエスのいない時に自分のしたい放題のことをしている時,イエスの自称の弟子たちのところに来るのです。
3 彼が来るとき,目ざめているクリスチャンと眠つているクリスチャンには何が生じますか,彼はどの場所に来ますか。
3 イエスが盗人のごとくに来るとき,目ざめているクリスチャンは自分の上衣を持ちつづけます。眠つている者たちは,自分の上衣を失うでしよう。主イエス・キリストは彼らから上衣を取り去つてしまい,彼らは裸で歩き,不名誉にも恥の部分をさらすことになるのです。しかし,イエスはどの場所に来ますか。バチカンですか,それともローマ・カトリック教会ですか。英国の教会ですか,それとも他の新教徒の教会あるいは新教徒教会の連合ですか。そうではありません。彼は神の霊的な宮に来るのです。すなわち,神の真実の霊的な宮と,そして神の霊的な宮と偽りにも自称するところの両方に来るのです。
4 長なる監督として彼が来る宮とは何ですか。
4 宮についての事柄を明白に理解いたしましよう。真実のクリスチャンたち,すなわちイエス・キリストに真実に従う者で見ならう者に対して,使徒パウロは次のように書いています,『あなた方は神の宮であつて,神の御霊が自分のうちに宿つていることを知らないのか。もし人が神の宮を破壊するなら,神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら,神の宮は聖なるものであり,そして,あなた方はその宮なのだからである。』(コリント前 3:16,17,新口)ユダヤ人たちの建てたヱホバ神の宮はエルサレムのモリア山上にありましたが,(西暦)70年にローマの軍隊によつて滅ぼされました。その時以来,存在しているヱホバの唯一つの宮は,霊的な宮であつて,神は御自分の霊すなわち聖なる活動力によつてその宮に住まわれています。その霊的な宮は,『生ける石』によつて構成されています。イエス・キリスト御自身は,隅の基礎石であり,14万4000人の選ばれた弟子たちはイエスの上に建てられた『生ける石』です。(エペソ 2:21,22。ペテロ前 2:5-7)イエスは長なる監督として,この宮に来るのです。
5 どんな行いは宮級を汚していますか。汚す者たちは,何であると自らを証明していますか。
5 同じ真実のクリスチャンに対して,使徒パウロは次のようにも書いています,『不信者とつり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアル(サタン)となんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。神がこう仰せになつている「私は彼らの間に住み,かつ出入りをするであろう。そして,私は彼らの神となり,彼らは私の民となるであろう。」だから「彼らの間から出て行き,彼らと離れよ。」とヱホバは言われる。「そして,汚れたものに触れてはならない。」「私はあなた方を受けいれよう。」』(コリント後 6:14-17,新世。イザヤ 52:11。エゼキエル 20:41)明白に分るごとく,不信者と釣合わないくびきを共しにて,クリスチャンの光の原則と暗いこの世的な哲学の教理を混ぜ合わせ,そして悪魔の崇拝を借り受けて会衆の崇拝に偶像を持ちこむクリスチャンの級は,宮級に汚れをもたらしています。キリスト教を奉ずると自称するそれらの者共は神の偽わりの宮を建てています,彼らは神の真の宮ではなく,単に神のクリスチャンの宮であると自称しているものです。彼らは実際にはこの古い世の偽善的な部分です。
6 滅びをなす為にその霊的な宮に来るとき,なぜイエス・キリストは調査をしなければなりませんか。
6 古い世,すなわち圧制を加えるこの汚れた悪しき古い組織制度を亡ぼす為に,イエス・キリストは盗人のように来ます。そのとき,彼は調べをなして何を滅ぼすべきかを見出さねばなりません。彼はクリスチャンと称える宗教制度を調べねばなりません。彼は真のクリスチャンから偽善のクリスチャンを分けねばなりません。そのわけで彼は神の霊的な宮に来なければならないのです。
7 彼の来る場所が宮であるということは,彼が何について述べていることから裏づけされるように見えますか。イエスの時代では,そのような勤めは何処で行われましたか。
7 その場所に彼が来るということは,裸のままで歩かないように,またその恥のところを見られないように,目ざめていて,その上衣を保て,と述べていることからも裏づけされるように見えます。このことは,イエス・キリストが地上にいたときエルサレムのヱホバの宮で行われていた一つの勤めに言及したものでしよう。その宮では,アロン(予言者モーセの兄弟)の昔の家族の息子たちは,祭司として奉仕し,レビの支族の息子たちは祭司の補佐として奉仕しました。彼らの間に行われた取り極めや勤めについては,ユダヤ人のミシュナ(神学博士,ハーバート・ダンビー訳)に次のように録されています。
8,9 ユダヤ人のミシユナなによると誰が宮の見張りの義務につきましたか。そして自分の部署で眠つている見張りは,どのように取り扱われましたか。
8 『祭司たちは,宮の内の3ヵ所で見張りをしていた,すなわちアブティナスの部屋,火焰の部屋,そして炉の部屋である。そして,レビ人たちは21の場所で見張りをした。5人は宮の山の5つの門で,4人は内部の四隅で,5人は宮の庭の5つの門で,4人は外部の四隅で,一人は捧げ物の部屋で,一人は幕の部屋で,そしてもう一人は贖罪所の背後(すなわち宮の至聖所の西側つまり背後の壁の外部にあたるところ)にいた。
9 宮づかえの者は,燃える炬火を手に持つて見張りのところに行き,そしてもし見張りが立ち上つて,「宮仕えの御方よ,平和があなたにありますよう」と言わず,その見張りの眠つていることが明白な場合には,その宮仕えは彼を杖で打ち,その上衣を燃す権利を有していた。そして,彼らは次のように言う,「宮の内のあの騒音は何か。」「或るレビ人が,見張り中に眠つたために,打ち叩かれて上衣を燃やされたのだ。」ラビであるエリーザー・ベン・ジェイコブは「私の母親の兄弟は,その眠つているのが見つかつて,その上衣を燃された。」と語つた。』ミシュナ,ミドス(『測定』)1,1と2節。
10,11 (イ)それぞれの見張りが,自分の部署で目ざめていることはなぜ必要でしたか。(ロ)くじを投げる係りの者が来るのに備えて,目ざめていることはなぜ必要でしたか。
10 宮に仕える監督は,夜の見張りをしている24ヵ所を一巡していましたから見張りをする各人は自分の部署でいつでも目を覚ましていることが必要でした。それは監督によつて隙を突かれない為です。また,宮奉仕のくじ投げの責任を持つ別の宮仕えのために,戸を開くことも必要でした。このことについては,次のように書かれています,『祭壇の灰を清掃する者は,朝早く起きて宮仕えの来る前に水に身を浸した。宮仕えは何時来たか。必ずしも同じ時ではない。或る時には一番鶏が鳴いたときか,或る時にはそれよりも少し早目か,又は遅いこともあつた。宮仕えは来て,彼らのいる(戸)を叩き,彼らは彼の為に戸を開いた。彼は言つた,「水に浸した者を出させ,くじを投げさせよ」そして彼らはくじを投げて,くじは落ちた。a
11 『彼は鍵を取つて小門を開き,炉の部屋を通つて宮の庭に入つた。祭司たちは火の燃えるたいまつ2本を持つて彼の後から入り,それから二つの群に分かれた』― ミシュナ,タミド(『日々の全き献げ物』)2節と3節。
12 (イ)宮で奉仕していた祭司たちやレビ人たちによつて示されたごとく,目ざめていよとのイエスの励ましの言葉は,特に誰に向かつて述べられていますか。(ロ)1931年以来,また誰がそのようなさとしに注意を払うべきですか。そして,なぜ?
12 エルサレムのヱホバの宮で奉仕していた祭司とレビ人たちは,ヱホバの大祭司なるイエス・キリストの足跡に従う14万4000人の勝利の弟子たちを前もつて表わし示し,予表したのです。『霊的な家』なる神の宮の内では,この14万4000名は『生ける石』であると共に『聖なる祭司』であり,『イエス,キリストにより,神によろこばれる霊のいけにえ』を捧げます。(ペテロ前 2:5,新口)この『霊的な家』の『生ける石』の選択は,『クリスチャン時代』中に行われて来ました。19世紀経つて後の今日,彼らの中の僅かな残れる者がこの地上に存在しており,その数は年々減少しています。目ざめていて上衣を保てというイエスの励ましの言葉は,特にこれらの者に対して告げられています。しかし,1931年以来,ヱホバ神を崇拝する『大いなる群衆』は,全国民とすべての言語から来て『霊的な家』である『聖なる祭司』の残れる者と共に交わつています。黙示録 7章9-15節は,神を崇拝する羊のごとき『大いなる群集』の集められることを前もつて見こしました。そして,彼らが神の御座の前に立ち,神と小羊イエス・キリストに救いを帰し,そして昼も夜も宮で神に聖なる奉仕を捧げると書き表わしました。宮の奉仕を夜もすると述べられていることから,『聖なる祭司』の霊的な残れる者に対する目ざめていよとのいましめに,彼らも,注意を払うべきです。彼らは眠りに落ちこんで,自分の衣服を失うような者になりたいとは欲しません。
上衣
13 (イ)ヱホバの宮では,祭司たちのどんな身体上の状態が禁ぜられていましたか。(ロ)それでは,残れる者が保持せねばならぬ上衣とは何ですか。
13 昔の異教の宗教では,ぶどう酒の神であるバッカスに犠牲を捧げる場合とか,その他の場合のように,祭司たちは裸体で偽りの神々に犠牲を捧げました。エルサレムにあつたヱホバの昔の宮では,裸体は禁ぜられていました。祭司たちがリンネルの股引を穿いたのは,その理由によるものでした。それは宮で奉仕しているとき,どんな位置であろうと,祭司たちの陰部が見えないようにする為だつたのです。(出エジプト 20:26; 28:42)それでは,ヱホバの霊的な宮にいる『聖なる祭司』の残れる者が着用して,保持せねばならぬ『上衣』とは何ですか。夜の勤めをする際,自分の仕事に目ざめていないなら,宮における奉仕の仕事を失い,そして裸にされるという恥辱を受けました。それですから,上衣はヱホバ神の僕であり,そしてヱホバの宮でヱホバの大祭司イエス・キリストの共働の奉仕者という名誉ある職務を保つことを示す明瞭なしるし,あるいは証跡を表わしているのです。上衣はヱホバの宮において神に公の奉仕を捧げ最高の神ヱホバの証者であるという名誉ある奉仕を示すものです。そのような衣服は神からの贈り物であります。それで,着用者がその聖なる奉仕の責任を果さないなら神はその衣服を取りさることもできます。
14 霊的な宮におけるそのような宣教の上衣は,何時与えられますか。そして,どんな特権が結果として生じますか。
14 霊的な宮における奉仕という上衣は,何時与えられるのですか。それは,ヱホバを唯一つの生ける真の神と信じ,イエス・キリストを通してのヱホバの救いの御準備を受け入れ,そして永遠にわたつてヱホバを崇拝し,ヱホバに仕えるため愛の気持から神に献身するときです。献身がイエス・キリストを通して受け入れられたとき,ヱホバ神は献身した者を聖なる奉仕に入れられます。象徴的に言つて,ヱホバは献身したクリスチャンに上衣を着せます。その上衣は,彼が神の宮奉仕していることを象徴するものです。そして,ヱホバは,奉仕という聖なる特権を与えることにより,献身したクリスチャンを承認せられるのです。
15 このことは昔のイスラエルで,どのように予じめ示されましたか。なぜ,宣教の衣服を着用しようと努め,そして保持すべきですか。
15 このことを予じめに示すものとして,イスラエルの祭司たちは正式の衣服を身に着けて自分たちの聖なる奉仕の任命を表わしました。レビ人について言うならば,彼らは祭司の援助者となつて宮で奉仕をする前に,自分の衣服を洗うことが必要でした。(出エジプト 28:1-43。民数記略 8:5-22)神の霊的な宮で真実のクリスチャン奉仕という象徴的な衣服を身に着けることは名誉です。イエス・キリストが地上に来て,割礼を受けたユダヤ人,すなわち『イスラエルの家の失われた羊』のあいだで神の御国の良いたよりを伝道したとき,象徴的な衣服を身に着けていました。聖書には次のごとく書かれています『キリストは神の真実を明らかにするために,割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に,異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである。』(ロマ 15:8,9,新口)栄光をうけたイエス・キリストは,宇宙の創造者なる最高の神の最大の奉仕者,長なる奉仕者であります。唯一つの生ける真の神の大祭司,イエス・キリストと共に奉仕し得ることは,被造物の最大の名誉であります。この宣教の誉を表わす衣服を着用しようと努め,そして保持すべきであります。
16 (イ)どんな事柄が,ここで問題になつていますか。なぜ,それはすべての人にとつて肝要ですか。(ロ)人の宗教の形式が死をもたらすものということは,どうしてあり得ますか。それで,真の宗教に何が生じるのを許してはなりませんか。
16 ここの事柄は,真実の清い宗教に関するものです。清い宗教は叡智を持つすべての被造物にとつて生命を意味します。叡智を持つすべての被造物は清い宗教によつて,天における生命であろうと,地上の生命であろうと,すべての生命の源である御父なる神と接しつづけます。被造物の崇拝の形式は,間ちがいのもので崇拝者の心をあざむき,無益で実の結ばぬもの,そして生命を与える代りに死をもたらすこともあり得ます。もしその人が舌を抑えず,そして真の神とその目的について真実の正しいことを語り,伝道し,教え,そして祈らないならば,たとえ誠実な崇拝であろうとも,その人の崇拝の形式は祝福と救いをもたらしません。『人もし自ら正式の崇拝者であると思いながら,その舌にくつわをつけず,自分の心を欺くならば,この人の崇拝の形式は無益である。私たちの父である神の立場から見て,清く汚れない崇拝の形式とは,孤児と寡婦とをそのなやみの時に世話し,また自分を守つて世から汚されないことである。』(ヤコブ 1:26,27,新世)唯だ一つの真の宗教は,この世の偽りの宗教と崇拝の形式に汚されてはなりません。またキリスト教国の偽りにも『クリスチャン』と呼ばれる宗教で汚されてもならないのです。
目ざめている目的
17 真の宮に関して,目ざめていて見張りをする目的は何ですか。私たちは誰と共に見張らねばなりませんか。そして,なぜ?
17 エルサレムにあつた昔のヱホバの宮では,祭司たちやレビ人たちの宮の守りは,それぞれの部署について宮を守りました。それは,泥棒とか,汚れた人々,そして正しい用向きもないのに宮の内に入つて来る人々を内に入れないためでした。神の霊的な宮と,そこで今日行われている神の崇拝に関連して見るとき,目をさまして見張りをつづけるという目的は同じです。その目的は,神の清い崇拝を清く保ち,汚れた者とか,このバビロン的な古い世の汚れの入つて来るのを防ぐことです。清くて神に受け入れられる崇拝が保たれ,高められ,そして他の者たちにつたえられるようにします。それは,生命を救う恩恵がそれから他の者に及び,そして神が崇められて高められるためです。幸いにも神の与え給うた唯一つの宗教を持つすべてのクリスチャンは,このバビロンの世にいるかぎりは,警戒をしなければなりません。彼らは神の助けを受けて見張りをなし,神の聖なる御使の援助と聖霊の活動に信頼を持たねばなりません。このことについては,聖書に次のごとく書かれています。『ヱホバ家を建て給うにあらずば,建つる者の勤労は空しく,ヱホバ城を守り給うにあらずば,衛士のさめおるは徒労なり』(詩 127:1)私たちが見張りをして守ることは不完全なもので,十分ではないでしよう,しかし神の見張られることは完全で,すべてのものの上にあり,いかなる緊急事態が生じようとも見ることのできるものです。私たちは神の見張りが共にあることを必要とします。
18 (イ)宮級の会衆内の誰が,見張りをする特別な責任を持つていますか,(ロ)監督として見張りをつづけることは,現在なぜ一層たいせつですか。そして,何に対して?
18 神の宮級の会衆内で監督として任命された人々は,悪い不適当な状態の起ることに対して,特別に見張る責任を持つています。いまから19世紀前に使徒パウロは次のような言葉を監督たちに告げましたが,現在ではその言葉に注意を払うことは猶更いつそうに重要です,『どうか,あなた方自身に気をつけ,またすべての群れに気をくばつていただきたい。聖霊は,神が御自身の御子の血であがない取られた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群れの監督に任命したのである。私が去つた後,狂暴な狼が,あなた方の中に入りこんできて,容赦なく群れを荒らすようになることを,私は知つている。また,あなた方自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方にひつぱり込もうとする者らが起るであろう。だから,目を覚ましていなさい。そして,三年間,夜も昼も,私が涙をもつて,あなた方一人一人を教えつづけたことを記憶しておいてもらいたい。……あなた方はこのように働いて弱い者を援助し,主自ら「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を心に留意するべきである。」』(使行 20:28-35,新世)いまでも目を覚まして見張ることは是非必要です。全くのところ昔よりも一層必要なのです。それは貪り食う狼共の入るのを防ぎ,そして弟子たちを正しい羊飼に従わせず自分たちに引きこもうとする野心的な宗教指導者たちの起ることを防ぐためです。正しい羊飼は,次のように語りました。『また,あなた方は教師と呼ばれてはならない。あなた方の教師はただひとり,すなわち,キリストである。そこで,あなた方のうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない。』― マタイ 23:10,11,新口。
19 どんな出来事が不定であるため,すべての崇拝者は目ざめていなければなりませんか。彼らはどんな意味においてそうしなければなりませんか。
19 しかしながら,ヱホバ神の真実の霊的な宮にいるすべての崇拝者は,目ざめて見張りをしなければなりません。それは,入つて来る汚れた者たちに対して行うだけでなく,また大祭司なる検閲者の来ることに対してもなされねばならないのです。イエスは,最後の調べを行う時の何時であるかは不定であると私たちを戒めました。ともかく,その時になつてみると,私たちが見張りの期間の終りまで,すなわちこの世の組織制度の全き終りまで,神への崇拝と奉仕に耐え忍んだかどうかが明白にされます。イエスはこう語りました。『その日,その時は,だれも知らない。天にいる御使たちも,また子も知らない。ただ父だけが知つておられる。気をつけて,目をさましていなさい。その時がいつであるか,あなた方にはわからないからである。それはちようど,旅に立つ人が家を出るに当り,その僕たちに,それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ,門番には目をさましておれと命じるようなものである。だから,目をさましていなさい。いつ,家の主人が帰つて来るのか,夕方か,夜中か,にわとりの鳴くころか,明け方か,わからないからである。あるいは急に帰つてきて,あなた方の眠つているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。私があなた方に言うこの言葉は,すべての人々に言うのである。』(マルコ 13:32-37,新口)この意味は,つまり霊的な意味において,すべての者が眠らずに目を覚ましていること,宗教的な領域でいつも十分に目ざめているということです。
[脚注]
a ミシユナのヨマ(『贖罪の日』)という見出しの下に第1巻8節と第2巻1と2節は,次のように述べています。
『鶏が鳴いたとき,またはその時刻に近い前後のとき,彼らは祭壇から灰を取り除いた。しかし,贖罪の日には,真夜中に(した)。そして祭日,過越,五旬節,幕屋には最初の夜番のときにした。そして,鶏が鳴く時よりも前に,幕屋の庭はイスラエル人で一杯になつた。
『以前には,祭壇から灰を取りのぞきたいと思う人は,誰でもそうすることができた。そうする人々が多人数の場合には,彼らは(祭壇の)反(そり)にのぼつて,最初に4キュビト以内に来た者が,その仕事を成し行つた。……宮の係りがその危険なのを見たとき,くじによらなければ祭壇を清掃してはならぬと命じた。4つのくじがあつたが,これは最初のくじであつた。」
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目ざめている為の危急なる時ものみの塔 1959 | 2月1日
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目ざめている為の危急なる時
1 どんな軍事上の背景に対して,目ざめていよと述べるイエスの危急の警告はいま適用しますか,私たちは,どんな側に立つて目ざめていることが必要ですか。
『見よ,私は盗人のごとく来る。目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である。』という危急な警告は,いま全世界にわたり劇的に設けられている予言的な背景に対して,栄光を受けたイエス・キリストの与えたものです。全地の王や,支配者および天の支配者たちは,行進しているのです! 天でも地でも軍勢の足音が聞えます。彼らはいま戦いの中の戦い,すなわちメギドの山の宇宙的な戦争に向かつて行進しています。この戦争に中立というものはありません。生きているすべての者は,決定を強制されます。そしてその結果は,生命か死か,生存か亡びかのどちらかです。是非とも解決せねばならぬこの論争について目をさましていることは,絶対に必要です。目ざめていて,忠実を立証し,そして大論争の正しい側に信頼を保つことは絶えず必要です。このことをなすようにとの時機に適つた助言は,ずつと以前に与えられた予言的なしるしの中に述べられているのです。その予言的なしるしは,現在おこりつつある事柄を前もつて表わし示すものです。
2 黙示録 16章15節にあるイエスの時機に適つた助言は,どんな予言的なしるしの間にさし挟まれましたか。
2 『第五の者(御使)が(神の怒りの)鉢を獣の座に傾けた。すると,獣の国は暗くなり,人々は苦痛のあまり舌をかみ,その苦痛とでき物とのゆえに天の神をのろつた。そして,自分の行いを悔い改めなかつた。第六の者(御使)が(神の怒りの)鉢を大ユフラテ川に傾けた。すると,その水は,日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために,かれてしまつた。また見ると竜の口から,獣の口から,偽予言者の口から蛙のように見える三つの汚れた霊感の表現が出て来た。それらは実際に悪鬼共によつて,霊感された表現であつて徴を行うのである。そしてそれらは全地の王たちのところに行き,全能の神の大いなる日の戦争のために,彼らを集める。「見よ私は盗人のごとく来る。裸のままで歩かないように,又その恥のところを見られないように,目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である』そして彼らは,ヘブル語でハルマゲドン(メギドの山)という所に,王たちを召集した。』― 黙示 16:1,10-16,新世。
3 イエス・キリストや使徒ヨハネのようなヘブル人にとつて,メゲドン又はメギドという言葉は,何を想い起させましたか。
3 イエス・キリストが地上にいた時とか,使徒ヨハネのいた時のヘブル人に,メゲドンまたはメギドという言葉を述べるなら,それはその場所にちなむ戦争の歴史を思い起させました。イスラエル人がカナンの地を支配していたとき,ヱホバのさばきつかさであるヨシュアはメギドの邑で戦い,その異邦の王を敗りました。(ヨシュア 12:7,21)ヱホバのさばきづかさなるバラクもそのところで戦い,カナンの圧制的な王たちを征服しました。(シシ 5:1,19-21)エルサレムの『ヱホバの座位』に坐つたヨシヤ王は,『メギドの谷』でエジプト人に対して愚かな戦いをしかけ,重傷を受けて死にました。彼の軍隊も敗北を喫しました。―歴代志略下 35:20-25。
4,5 (イ)それでは,神の大いなる日の戦争に適用されるとき,メギドという名前はどんな意味で一杯になりますか。(ロ)どんな王たちの前に古代のバビロンは倒れましたか。そして,ユフラテ河はどのような関係を持つていましたか。
4 それですから,メギドという名前は,『全能の神の大いなる日』の宇宙的な戦争に適用されるときに重大な意味を持つているのです。この戦いのときに,ヱホバは『全地の王たち』と戦い,永遠の敗北を喫せしめます。メギドから525マイル東のユフラテ河にあつた古代バビロンで表わし示された大きな世界制度もそのとき全能の神と御子イエス・キリストの前に倒れねばなりません。この二人の天的な王たちとは,『日の出る方から来る王たち』として示されている者たちであり,彼らの前には象徴的な『大ユフラテ河』の水は乾き上がり,象徴的なバビロンに入る道を備えました。『神の怒り』は,その象徴的な河の上にあります。それは象徴的なバビロンの商業に貢献して富をもたらし,そして又バビロンに強い保護を与えていたからです。
5 ずつと以前の昔,キリスト前539年の10月の或る夜に,実際のユフラテ河は軍事技術者によつて涸れてしまいました。それから,東部からの二人の王,すなわちメデヤ人ダリヨスとペルシャ人クロスは,水の乾いた河床を行進して,開け放たれていた門からバビロンに入りベルシャザル王を殺しました。バビロンの世界勢力は倒れました。その後,程無くして予言者ダニエルの民であるヱホバの民は,エルサレムでヱホバの宮の再建の為,クロス王によつて釈放されました。
6 このバビロンの滅びの現代版は何ですか。崇拝のどんな場所が立ちつづきますか。
6 このことの現代版として,今日の象徴的なバビロンは,ヱホバとその共同の王であるイエス・キリストの怒りの前に倒れるでしよう。全地の王たちは,バビロンを助けることができません。悪鬼の霊感する宣伝や政策は,いまこれらの王たちを集めて,バビロンを助けようとし,そして自由になつているヱホバの民すなわち今日の地上にいるヱホバの献身した証者たちを襲おうとします。これは『全能の神の大いなる日の戦争』を惹きおこし,ずつと以前のメギドの場合と同じく全地の王たちは敗北を受けて亡ぼされてしまうでしよう。しかし,神の霊的な宮は立ちつづき,神の崇拝は神の霊的な宮で勝ちつづけます。
7,8 (イ)真の宮で誰が奉仕しつづけますか。そこでは,奉仕者たちの必要がなぜ増加しているのですか。(ロ)私たちが更にすすんで行くにつれて,目ざめていて見張りをする必要は,なぜますます大きくなるのですか。
7 しかしながら,神の真実の霊的な宮で,誰が神に奉仕しつづけますか。イエスの警告に注意を払う真のクリスチャンたちです。そのイエスの警告は,全地の王たちが悪鬼の宣伝と政策によつて,どのようにハルマゲドンに集められるかを予言的に説明する言葉の中に挿入せられているものです。真のクリスチャンは,霊的な宮で見張りをなし,目ざめていなければなりません,というのは象徴的なユフラテ河の水は乾き上がつて象徴的なバビロンには支持と保護を与えませんが,『ヱホバの家の山』に行く人々の流れは,ますます大きくなつて,年中流れなければならないのです。それですから,宮の門はいつの時でも開かれていて,昼でも夜でも閉じてはならないのです。それは,献身した崇拝者たちの流れ込む群衆を宮の庭に受け入れるためです。(イザヤ 2:2-4; 60:11-13)増し加えられるすべての崇拝者のために,奉仕者たちはますます必要です。
8 聖なる宮に入つて瀆しをしようと努める汚れた者とか,悪意を持つ者は,追い出されねばなりません。忠実を保つ崇拝者はみな,『すべての民のいのりの家』として神の宮を清いもの,聖なるものに保ちます。(イザヤ 56:7)汚れたもの,そして霊的に危険なものの侵入に対して,目を覚まし見張りをする必要は,ますます大きなものになつています。というのは,象徴的な竜であるマゴグのゴグの指導の下にいる全地の王たちが,ハルマゲドンでヱホバの忠実なクリスチャン崇拝者たちに対して死にもの狂いの攻撃を加える時は近づいているからです。―エゼキエル 38:1から39:8。
どのように目ざめているか
9 眠つてしまうとその人はどんな危険に入りますか。それで神を愛する崇拝者たちは,何をしますか。
9 ヱホバの奉仕者が自分の部署についていながら眠つてしまうとき,長なる宮の検閲者イエス・キリストにより捕えられる危険を持ちます。イエスはハルマゲドンの時に盗人のごとく来り,キリスト教と称するすべての宗教的な領域を最終的に調べ,そして最後の裁きを執行します。眠る者は裸にされて,その象徴的な衣服を燃されてしまう危険があります。a 専心の献身をこめて神を愛し,そして長なる検閲者を愛すると共に,その最終の裁きに彼の来ることを待ち望む崇拝者は目ざめつづけようと断乎とした決意をもつて努めるでしよう。彼はヱホバの清い崇拝の行われるようにと見張り,またキリストによる神の御国の貴重な事柄をも見張るでしよう。崇拝者は,どのようにして霊的に目ざめていますか。
10,11 (イ)目ざめているために,予言の中でイエスが助言しているごとく,人は何をすることが必要ですか。それではどんな面で私たちはバビロン人のような行いをしたいと欲しませんか。そして,なぜですか。
10 根本的に言つて,目をさましているためには最初に正しい休息を取ることが必要です。そして又食べ過ぎや飲み過ぎを避けることも必要です。前もつて告げられた事柄が起るのは何時で,その時のしるしは何であるかとイエスの弟子たちはイエスに尋ねました。それについて,イエスは次のように言われています。『あなた方が放縦や,泥酔や,世の煩いのために心が鈍つているうちに,思いがけないときその日がわなのように,あなた方を捕えることがないように,よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて,人の子の前に立つことができるように絶えず目をさまして祈つていなさい』― ルカ 21:7,34-36,新口。
11 世間の人々はバビロン人のようになつていますが,私たちはバビロン人のようになりたいとは欲しません。バビロン人は,ベルシャザルの祝宴につらなり,すこしの警戒心も持たずに飲み浮かれていました。そして,この世の軍事施設に依存してヱホバ神の事物を悪く用い,かつヱホバ神に冒瀆の行いをなしたのです。このすべての事は,亡びを受けたその日の夜に起りました。そのとき,奇跡的な字が壁の上に現われ,奇跡的な解釈が与えられました。(ダニエル 5:1-30)そのようなバビロン的な放縦と霊的なことに思いを向けない世俗主義は,必ずや眠気と安易な気持をもたらし,人の警戒心をなくさせて神への祈りを止めさせてしまうでしよう。それは,神の御国の良いたよりを伝えるクリスチャン奉仕者としての責任感を鈍くさせます。そして原則に対する立場を弱め,時のおそいことを忘れしめます。悪い僕だけが食べたり飲んだりして酔つぱらい,自分の主人が家に帰つてきて取り調べをするのはまだ先遠いと考えます。―ルカ 12:43。
12 この緊急な必要のあるあいだ,何が私たちを助けて益のある目ざめた状態に保ちますか。そして,なぜですか,
12 たいへん緊迫した状態下にあつて,私たちが目を覚まし,見張りをなすことが緊急に必要な場合,刺激剤の助けで目ざめている状態を保つことができます。その刺激剤は力を与えるものであつても,将来に対する力の貯えを減らすものであつてはなりません。もしそうするなら,実際には自分自身の活力を奪い取つていることになり,将来の弱さにみちびいてしまいます。ヱホバ神の崇拝者が目的を以つて,理性を働かしながら神の御言葉を研究し,そして自分の宣教を為し行つて予想した事柄に対処するために自分自身の備えをなそうと努めるとき,それは霊的な刺激剤としての役割を果します。このことは,神に祈りを捧げつつ,定期的にすることが必要です。なぜなら,神は惜しみなく智恵を与え,しかも自分の智恵の足らないことについて祈る者を非難するようなことはありません。(ヤコブ 1:5)疑人化された智恵は,次のように語つています,『おおよそ,我に聞き,日々わが門の傍にまち,わが戸口の柱のわきに立つ人は幸福なり。そは我を得る者は生命を得,ヱホバより恩寵を得ればなり。』(シンゲン 8:34,35)幸福は刺激を与えます。
13 研究するときに,私たちの状態は何でなければなりませんか。なぜ私たちの研究は,進歩的でなければなりませんか。
13 しかしながら,研究している時は目ざめていることが必要です。研究に進歩して行き,研究をすることにより知識と理解を増し加えて行くことが必要です。さらに,神の言葉と目的についての知識と理解の進歩するにつれて,それについて行かねばなりません。このことをする為に,私たちは研究しなければなりません。そのとき私たちがすでに知つていて理解しているものよりも一層先に進んで行きます。私たちの研究する事柄は,その知識において進歩的でなければならず,クリスチャン真理の初歩の事柄にいつまでも止まつていてはなりません。大きく成長して行く子供でありながら,おもちやといつまでも遊んでいるような者であつてはなりません。私たちの研究する事柄は,私たちの正しい欲求と刺激を高めるものでなければなりません。そのとき,私たちの研究は,心を爽快なものとなし,精神的な目ざとさおよび霊的な目ざとさに刺激を与えるものです。そのような研究によつて,私たちはクリスチャン円熟に成長します。―ヘブル 5:14;6:1-3。
14 私たちは知識と理解の面でなす進歩を,どのように固定しますか。私たち自身にはどんな感情的な影響をもたらしますか。
14 神の御言葉の知識と理解について進歩をするとき,私たちはその進歩を固定させねばなりません。それは知識と理解の面で私たちの得た事柄を他の人に与えることによるのです。新しい事柄や,啓発を与える事柄で私たちが一杯になると自然と心に溢れ出て来るものです。私たちは,自分の楽しんでいる新しい進歩的な事柄を他の人々,すなわち私たちと交わるようになるすべての人々に与えます。特にこのことは,ヱホバの証者の御国会館とか,会衆内の幾人かの人々が聖書研究の手引を用いつつ毎週の聖書研究をする家庭とか,そして家から家の証言をする時とか,聖書研究に興味を持つ羊のような人々を再訪問するとき,人々の家庭でなされます。進歩的な知識を他の者に与えるということは,私たちの心の中に知識を快く刺激し,心に留意せしめます。そして,それを他の人に説明することは,私たち自身の理解を一層良く助けるものです。私たちが進歩的な知識をしつかりと握つて,たしかに自分のものにしたと知り,かつ神の御言葉の教育者としての私たちに有益なものであると知り,私たちはよろこびます。
15 この種の刺戟は,将来に関して私たちにどう影響しますか。
15 前述のような刺激は,私たちに新しい生命を与え,将来の必要物に対して私たちを強めます。そして将来に必要とする予備をいま使うことをしません。
16,17 (イ)ヱホバの崇拝者たちに命ぜられている他のどんな刺戟がありますか。(ロ)このいましめに今従うことは,なぜ猶更一層に緊急なこととなつていますか。
16 私たちを目ざめさせて宣教に活撥ならしめ,そして現状とその意味する事柄に注意深くせしめる今一つの強力な刺激は,進歩的な心を持つ友なるクリスチャン証者と共に互いに定期的に会し合うことです。それらの証者たちは,同じヱホバの霊的な宮で崇拝を捧げているのです。実際の事実は,私たちが仲間の崇拝者たちと共に集会に出席することは,ヱホバが崇拝者に命じている事柄です。ヱホバの大祭司が最終の検閲をなし,そしてハルマゲドンの宇宙的な戦争で裁きを執行する日は,ますます近づいて来ています。それですから,霊感の下に述べられたヘブル書 10章23-25,35-37節新口の言葉に従つて行うことはなおさら一層に緊急なこととなつているのです。
17 『また,約束をして下さつたのは忠実なかたであるから,私たちの告白する望みを動くことなくしつかりと持ちつづけ,愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか,だから,あなた方は自分の持つている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いがともなつているのである。神の御旨を行つて約束のものを受けるため,あなた方に必要なのは,忍耐である。「もうしばらくすれば,きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。」』
18 なぜこの冷い世界では,私たちは互いに集まることによつて得ることのできる励ましとすすめが必要ですか。
18 私たちはみな,忠実な兄弟たちと会い,彼らと慰めや信仰や,希望を分け合う際に得られる励ましとか,すすめを必要とします。この冷い世では,大多数の人々の愛は冷えてきました。それで集会の際に忠実な兄弟たちが与える励まし,訓戒,そしてすすめは,ちようどドイツ人のヱホバの証者が互いにし合つた頬打ちのようなものです。それは,その証者たちが裸でナチの地下牢に入れられた時,骨身を切る冷さがだるい気持と眠けを誘つたので,互いに目を覚まして活動しつづけ,凍死するのを妨ぐために行われたのです。頬打ちは痛いものですが,私たちの生命を救います,『愛する者の傷つくるは真実よりし』(シンゲン 27:6)こらしめを軽んじなかつたダビデは,次のように語りました,『義者われをうつとも我はこれを愛しみとし,その我をせむるを頭のあぶらとせん。わが頭はこれを辞まず』(詩 141:5)それで,友なる崇拝者や奉仕者と共に会うことは,目ざめさせる強力なはげましとなります。
19 私たちの宣教のために,なぜ注意と警告は,私たちに必要ですか。
19 ヱホバの霊的な宮における私たちのクリスチャン義務について,私たちは自分自身良く知らねばなりません。また,他の者たちにも同じことを知らせねばならないのです。私たちの宣教を成し行うに際しては,私たちは自分自身を改善しようと常に努めるべきです。なぜなら,改善は宣教の際の大きなよろこびをもたらすだけでなく,よろこびを生ずる大きな結果をもたらします。『ヱホバの証詞はかたくして愚かなるものを智からしむ。』(詩 19:7)ヱホバの忠実な共働者で成り立つ目に見える制度を通して,ヱホバ神から来る注意と警告を心にしつかり採り入れるとき,人は智恵を得ます。
20 私たちの使うことのできる為に,更にどんな刺戟が備えられましたか。最大の誘惑を受けた際に,イエスはこの刺戟の効果的なることをどのように表わし述べましたか。
20 目ざめさせる今一つの刺激は,神に捧げる私たちの祈りの特権です。私たちは兄弟を必要とする以上に神を必要とします。そして,愛の御心を持つ神は,御自身と私たちとの間に交わりをなす道を立てられました。私たちはその御準備を必要とします。その為にこそ,この御準備はつくられているのです。それですから,私たちはその御準備を用いるべきであり。無視したり,拒絶したりしてはなりません。ゲッセマネの庭で自分の弟子たちと会つた最後のとき,イエス・キリストは天の御父に捧げる祈りこそ,霊的な眠気を妨げる大きな力であると知りました。イエスが戻つて来たときには信頼していた弟子たちが眠つていたというのですから,彼は可成り長い時間のあいだ祈つたにちがいありません。イエスは次のように言いました,『あなた方はそんなにひと時も私といつしよに目をさましていることが,できなかつたのか。誘惑に陥らないように,目をさまして祈つていなさい。……まだ眠つているのか,休んでいるのか。』彼らは祈らなかつた為に眠つて誘惑に入りました。イエスは祈りを捧げて目をさまし,最大の誘惑に反抗したのです。(マタイ 26:36-45,新口)私たちは血肉に対する戦いをせず天上にいる悪の霊に対して戦いをしています。この戦いには,象徴的な竜,獣そして偽りの予言者から出て来る悪鬼の霊感した宣伝に対する戦いも含まれているのです。それですから,『神の武具』以上のものが必要です。私たちは祈りをも必要としています。―エペソ 6:18,新口。
21 神からの武具を身につける以外に,クリスチャン戦士は何を為すべきであるとパウロは言いましたか。
21 現在の悪しき日において首尾よく反抗をする為に,使徒パウロは『神の武具』で身を固めよと私たちを訓しています。しかし,彼はその他にも次のようにも述べました。『絶えず祈りと願いをし,どんな時でも御霊によつて祈り,そのために目をさましてうむことがなく,すべての聖徒のために祈りつづけなさい。また,私が口を開くときに語るべき言葉を賜わり,大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように,私のためにも祈つてほしい。私はこの福音のための使節であり,そして鎖につながれているのであるが,つながれていても,語るべき時には大胆に語れるように祈つてほしい。』― エペソ 6:11-20,新口。
22 すべてのものの終りには,何を為すべきであるとペテロは言いましたか。
22 使徒ペテロは,次のように語つていますが,それは特に私たちの時代の為のものであり,霊感を受けて書いたにちがいありません『すべてのものの全き終りは近づいた。それで健全な心を持ち,祈りをなしつつ油断するな。』(ペテロ前 4:7,新世)私たちは祈りをする時には,目をさましており,何を祈るべきかを明白に認識し,そして祈りをすることにより目ざめた状態を保つべきです。
上衣を失う
23 (イ)自ら十分に知つていて,最新の知識を持つことにより,なぜ私たちは眠りたいと欲しませんか。(ロ)長なる検閲者の来ることが盗人のようであることから,私たちはどんな危険を避けようとするべきですか。
23 ヱホバ神の目的について生じている事柄を十分に知り,そのことについて最新の知識を持つとき,時は余りにも興奮的なものであるため,私たちは何かを見のがすとか失うということを欲しません。長なる検閲者が盗人のごとく来て,ハルマゲドンの来るべき戦いで神の裁きを執行するということから,私たちは目ざめた状態を保つために,あらゆる努力と取極めを為すべきです。危険は次の事柄に存在しています。すなわち物質的に安楽にして気楽にしようとの取極めを設け,そして検査をする者の来る時がはつきりしていないということから,彼が来るのはまだまだ遠い先のことであり,そして,この期間中,私たちは楽にしていて,彼が間近い中に来るという著しい証拠を得る時行動しようと考える事です。
24 なぜ長なる検閲者は,ハルマゲドンの明確な時を前もつて私たちに知らせないのですか。彼に対する見張りをするために,私たちにとつて大きな援助とは何ですか。
24 検閲者はハルマゲドンの日と時間を,前もつて私たちに知らせません。それは,私たちが或る種の目ざまし時計を仕かけておいて,彼の来るほんの少し前に目をさまし,あたかもずつと注意を払つていて目をさまし,そして自分に割り当てられた奉仕の他位に忙しくしていたという振をさせないためです。実際のところ神の警報はいま鳴つているのであつて,ハルマゲドンの直前に鳴るのではありません。それですから,私たちはいま目をさまして私たちの宣教を十分に成し行い,大いなる検閲者の来る前にできるだけ多くのことを為さねばなりません。私たちは,彼に対して偽善者の行いをしたいとは欲しません ― そんなことはとてもできないものでしよう ― むしろ,私たちは正しい良心をもつて彼の是認を得たいと欲します。それはみな私たちがこの来る方を愛しているからです。彼の来る理由について,そしてその結果が何であるかについて私たちの興味を保ちつづけるなら,それは私たちにとつて大きな助けとなります。
25,26 (イ)上衣の意味から照らし合わせて,なぜ上衣を失うことは失う者にとつて大きな不幸を意味しますか。(ロ)宣教の上衣を取り除かれることは,何を示しますか。見張りが眠ることは,なぜ重大な事柄ですか。
25 もし私たちが上衣を保たないなら,それは私たちにとつて大きな不幸を意味します。なぜなら彼は,私たちをその上衣を着るのに不適当な者と見なし,私たちから上衣を取り去り,そしてすつかり焼却してしまうからです。目ざめていて見張りをせねばならぬ奉仕者が衣服を失うことは,何を意味しますか。また,上衣を燃されることは何を意味しますか。象徴的な上衣とは,ヱホバの霊的な宮で宣教の任命を受けていることを示す表面の証跡です。そのことを認めるものとして,神の聖霊なる活動力は,そのような任命された奉仕者の上に注がれて,その人の義務遂行を援助します。そしてその奉仕者は神の御国の良いたよりを伝道して,羊のような善意者を全国民から集め,それから霊的な食物で彼らを養い,霊的に守るという機会と特権が与えられています。
26 奉仕の上衣を取り除かれるということは,神の承認を失うということ,および宣教の際に不忠実になり,感謝の念を持たなかつた為に神の奉仕の特権をことごとく取り去るということを示します。自分の部署についていながら眠りこけ,安易な生活をして無活動になる為,自分の義務や任された仕事を行わない奉仕者には,そのような事柄が生じます。キリスト教国の宗教牧師がこのような真実の奉仕の『上衣』を身につけたことは一度もなく,いつの時でも神の御前にあつて裸かであつたことは明白です。ずつと以前にペテロは次のように警告しました。『さばきが神の家から始められる時がきた。それが,私たちからまず始められるとしたら,神の福音に従わない人々の行く末は,どんなであろうか。また義人でさえ,かろうじて救われるのだとすれば,不信なる者や罪人は,どうなるであろうか。』(ペテロ前 4:17,18,新口)見張りが眠つてしまい,自分に委ねられた品物を失つたり,汚したりすることは重大な事柄です。この世の軍隊で,見張りの部署についている歩哨が,戦争中に眠るなら,その者は銃殺されました。なぜですか,なぜなら,彼らは多数の兵士たちを守る為に見張つていながら,兵士たちの生命または自由を危険なものにしたからです。
27 (イ)見張りの責任について,ヱホバはどんな警告を予言者エゼキエルに与えましたか。(ロ)奉仕者たちは何を見守つていますから,そんなにも注意深くなければなりませんか。
27 見張りが眠つてしまうなら,危険が都市や村落に近づいているのを見ることはできません。それですから,警報を鳴らすことができず,他の人々を近づいている危険に目ざめさせることができません。2500年以上のむかし,エルサレムがバビロンの戦勝軍によつて滅ぼされそうになつたとき,ヱホバ神は予言者エゼキエルに警告を与えました。ヱホバ神は危険に瀕したイスラエル人の見張りにエゼキエルを立てたのです。『見守る者が,つるぎの臨むのを見てもラッパを吹かず,そのため民が,みずから警戒しないでいるうちに,つるぎが臨み,彼らの中のひとりを失うならば,その人は,自分の罪のために殺されるが,私はその血の責任を,見守る者の手に求める。』エゼキエルは,目をさまして見張りをつづけ,滅びの剣で危険に瀕した悪人たちを警告するよう告げられていました。(エゼキエル 33:6-9,新口)彼はそういたしました。不忠実なエルサレムは滅亡して,悪しき者たちは死滅したのです。しかし,エゼキエルは予言者の奉仕の上衣を着つづけました。奉仕者たちは,貴重な生命または魂を見張ります。この事実は,クリスチャンに宛てられた指示の中で強調されています,『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなた方のたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなた方の益にならない。』― ヘブル 13:17,新口。
28 (イ)眠つている見張りから上衣を取りさると,なぜ非常な恥を受けますか。(ロ)不忠実な見張りを霊的に『裸か』にすると,どうしてそれは彼の失敗に対する刑罰となりますか。
28 眠つている見張りから上衣を剥ぎ取つて燃してしまうなら,この信頼の置けぬ見張りは裸かになつてしまいます。恥ずかしいことに,彼の陰部はあらわにされてしまいます。創造者なる神が人体の或る部分を恥ずかしいものにつくつたというのではありません,ただ罪が世に入つて堕落した肉体に不道徳な欲望が働くため,自尊心を持つ人は陰部が一般人の目にさらされて,嘲笑や,侮りや,屈じよくを受けることに或る程度の恥を感じます。(創世 2:25;3:7。コリント前 12:22,33)それですから,不忠実な奉仕の見張りが裸にされることは,その失敗に対する刑罰です。羊のような人々や御使たちにとつては,彼がヱホバの奉仕に活潑でなく,またクリスチャンの任務を成し遂げてもおらず,その任務の下にあつて自分の義務を成しとげていないということを示します。彼はクリスチャンであることの目的を成しとげておらず,ヱホバの証者および奉仕者の一人であるとの目的をも果していません。名前だけはクリスチャンで,敬虔の形式だけは持つていますが,その実にたいしては実際には偽りです。(テモテ後 3:5)彼は不忠実で,怠け者で,安易を愛し,不注意になつて自分の義務を神権的な精神の中に真剣に採り上げていません。その人はヱホバ神のものを大切にせず,また保存して清く保とうとしません。彼は神の御国の地的な福利の増加に気をつけておらず,また地上にいるヱホバの忠実な証者たちの霊的パラダイスの保存と拡大にも気をつけていません。
29 眠る者が『裸か』にされることは,なぜこの世の人の裸かの状態よりも一層恥ずかしいのですか。彼の刑罰は,どんな結果をもたらしますか。
29 眠る者は,罪人であるこの世の人と同じく『裸』になります。この世の人よりも,一層恥ずかしい状態で裸になります,というのは,その人はかつて名誉あるクリスチャン奉仕という衣服を身につけたのですから,自分の責任をより良く知り,その責任にふさわしい生活をするべきでした。彼の受ける刑罰は,次に述べられている『悪い僕』の受ける刑罰と同じようになります,『その僕の主人は思いがけない日,気がつかない時に帰つてきて,彼を厳罰に処し,偽善者たちと同じ目に合わせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり,歯がみをしたりするであろう。』(マタイ 24:48-51,新口)王なる検閲者イエス・キリストにより,ハルマゲドンで神の裁きが執行されるときに,彼は不忠実な者たちや,偽善者たちと共に死ぬでしよう。彼は『裸の』牧師共と一緒に死ぬでしよう。彼らは宗教的な衣服を身に着けてキリスト教国の所謂神の宮と呼ぶ処で偽善的な奉仕をしています。それは希望の無い死,第2の死を意味します。―黙示 21:8。
上衣を保つことの幸福
30 (イ)眠る者に臨む不幸を見分けることは,何をより一層認識する助けとなりますか。(ロ)任命されたときのイスラエルの祭司たちのごとく,私たちは愛の中に何を遂行しますか。このことのために,私たちは神から何を頂きますか。
30 眠つて上衣を失うことから生ずる恐ろしい結果を良く認識するとき,目をさましていて神の奉仕者として上衣を保つという特権を持つ者の幸福をより一層深く認識することができます。ハルマゲドンで王なる検閲者が盗人のごとく来るとき,私たちはそれを不意打のように受けてはなりません。また私たちは御国奉仕に怠けて,何もせず,無活動であつてはなりません。私たちの試験を受ける全部の期間中,私たちは愛の中に神への献身を成しとげます。私たちは自分の義務に目をさまし,私たちの聖なる奉仕の任務内にとどまります。丁度,宮の奉仕を命ぜられ,そして次のように命ぜられた祭司たちのなしたと同じようです,『なんじらは集会の幕屋の門口に七日のあいだ,日夜おりてヱホバの命令を守れ。然せばなんじら死ることなからん。』(レビ 8:35,36)それで,十分に目ざめている忠実な見張りとして,私たちは検閲者イエス・キリストを通し神の是認を受けるでしよう。おお,それは何と幸福なことでしよう!
31 私たちが上衣を保つ結果は何ですか。
31 この結果は,私たちが活潑な奉仕を行いつつ上衣を保つということになります。正式な衣服を無くさずに持つているということは,私たちが神の奉仕者として今でも引きつづき認められていること,そして神の聖なる奉仕に従つていることを意味します。神の宮でなす正式な奉仕の衣服は,取り去られて燃されることがなく,また『裸で歩い』て,宇宙の前で恥じよくを受け,ハルマゲドンで滅ぼされるこの世の一部として暴露されることもありません。ハルマゲドンのとき,検閲者にして刑の執行者は,私たちの生命を救います。正義の新しい世における私たちの生命の見込みは,私たちの為に保たれます。このようにして,私たちは永遠にわたつて『目をさまし』神の永続する新しい世で生活することを楽しみます。―黙示録 3:3-6を比較しなさい。
32 崇拝の事柄に関して,目ざめている奉仕者はどのように報いを受けますか。
32 私たちは,目ざめていて,汚れたものや害のあるものに対し宮で絶えず見張りをすることに報いを受けます。それは,『私たちの父である神の立場から見て清く汚れない崇拝の形式』なる真の宗教を地上で保存することによろこびの参加をするということです。唯一つの真の永遠の神ヱホバの崇拝を忠節に立証し,かくして非難を受けて来た彼の聖名を清めます。ヱホバの崇拝は,『全能の神の大いなる日の戦争』にも存続して,神の是認の下に行いつづけられます。そして,イエス・キリストによる神の御国の支配下にあつて新しい秩序の中に行われます。神の是認を受けて,良く見張りをなす奉仕者たちは,このことと全く一致しています。そして永遠の勝利の王を永久に崇拝して崇めるという報いを持つでしよう。そして,宇宙内の『生ける被造物』と共に『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なるヱホバ神。昔いまし,今いまし,やがてきたるべき者』(黙示 4:8,新世)と絶えず言いつづけます。よく見張りをして神の是認を受ける奉仕者は,かくしてその生活の最高の目的,すなわち創造者なる神を永久に亙つて称え,崇めるという目的を成しとげます。
33 現在の大きな特権にもかかわらず,『ヱホバの日』が盗人のごとく来るとき,神の与えた上衣を着ることはどのような面で特権ですか。
33 現在,ヱホバ神の霊的な宮でヱホバ神に仕えることは,なんと栄光に充ちた名誉な事柄なのでしよう。神のメシヤによる御国の良いたよりを宣べ伝えて神に奉仕するとき,この暗い悪の世の中にあつても,現在私たちは表現できぬ程の何という幸福を持つているのでしよう! 神の奉仕者として,それにふさわしい神から与えられた上衣を着ることは,なんという特権なのでしよう!『ヱホバの日』が『夜の盗人のごとく』来て,キリスト教国の偽善的な神の宮を滅ぼし,そして象徴的な竜と獣と偽りの予言者および『全地の王たち』をことごとく滅ぼすとき,この宣教の衣服を着ることは,何という特権なのでしよう! 悪鬼の霊感した宣伝と政策は,『全地の王たち』をハルマゲドンにいま集めて,彼らの滅びを図つているのです!(テサロニケ前 5:2,3。ペテロ後 3:9,10。黙示 19:19から20:3まで)そのとき目ざめていて自分の義務を活潑に行つていると見出される宣教の見張りは,ヱホバの永遠の勝利を目撃するでしよう。ヱホバは,御自分の真の宗教,および全宇宙にある御自分の唯一つの正しい政府に対する敵に対して勝利を得ます。
34 価値のある奉仕者は,裸かと恥を受ける代りに何の中に入りますか。彼らが目ざめていなければならぬ危急の時は何時ですか。
34 それで,彼らは裸かにされて恥を受けず,むしろそのすばらしい新しい世に生き残つて,宇宙の最高の神にふさわしい奉仕者として美と名誉を受けるでしよう。彼らはみな『尊いきよめられた器となつて,主人に役立つものとなり,すべての良いわざに間に合うようになる』(テモテ後 2:21,新口)ヱホバ神の霊的な宮で目ざめている者の報いは,全く幸福なものです。しかし,目ざめていなければならぬ危急の時は,今なのです!
[脚注]
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『ものみの塔』の研究ものみの塔 1959 | 2月1日
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『ものみの塔』の研究
3月1日: 目ざめている者は幸福である,1-19節。そして目ざめている為の危急なる時,1-6節。49頁
3月8日: 目ざめている為の危急なる時,7-34節,54頁
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