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み言葉を大々的に広める目ざめよ! 1985 | 3月8日
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み言葉を大々的に広める
100年
「エホバの証人は“み言葉”を大々的に印刷する」。これは,米国の業界誌,「一貫作業による印刷」が,ものみの塔聖書冊子協会の印刷・出版事業を描写した言葉です。同誌はさらに,「一貫作業を行なうこの工場は,有志を活用して,190の言語で幾百万点もの印刷物を出している」と述べています。
「それらの有志は米国各地,および世界中から一貫作業を行なうこの工場にやって来る。そして,経験を積んだ専門家により最新の印刷設備について一から仕込まれ,幾らかでもそこにとどまれば,教育を……受ける。……彼らはお金のためにそうしているのではない」と,その記事の筆者は説明しています。―下線は本誌。
「彼らはお金のためにそうしているのではない」というのですか。エホバの証人のように,給料も受け取らずに一生懸命働く人はいないと考える人々は,このことを聞いて驚くかもしれません。
100年前の1884年12月13日に米国ペンシルバニア州の法律のもとで法人化されたとき以来,ものみの塔聖書冊子協会はその最初の定款に言い表わされていた通り,「冊子・パンフレット・文書類その他の宗教的な公式文書を用いて……各種の言語で聖書の真理を普及させること」に全く専心してきました。さらに,同協会はペンシルバニア州の非営利法人団体法に基づいて法人として認められています。ですから,法律的に,営利を目的とする企業ではあり得ないのです。
この協会を使って個人的に利益を得ることのできる人はいません。協会の定款の第5条は次のように述べているからです。「これ[協会]は,その会員,理事あるいは役員に対して,付随的であろうとなかろうと,金銭的な利得や利益を与えることを意図していない」。協会のニューヨーク本部で働く人々は皆,統治体の14人の成員であろうと,印刷や清掃の仕事をしたり協会の農場で働いたりする自発奉仕者であろうと,食事,宿舎そして月々の少額の手当など,生活に必要な基本的なものを一律に与えられます。俸給を受ける僧職者はいません。
3,000人を超える自発奉仕者たちはいずれも,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の存在する目的を追い求めています。その目的とは,「キリスト・イエスの治める神の王国の福音を全能の神エホバの名前とことばと至上権に対する証として諸国民すべてに宣べ伝えること。聖書を印刷,頒布し……各種の言語で聖書の真理を流布すること……クリスチャンの宣教者としてのわざにより,また聖書……について慈善的かつ博愛的な仕方で人々に教えることにより男女子どもを精神的かつ道徳的に向上させること」です。―同協会の定款より引用。
実践してきたか
1884年12月13日からすでに100年が過ぎましたが,この聖書協会は諸国民すべてに神の王国の福音を宣べ伝えるという,その定款に示された目的を効果的に果たしてきたでしょうか。世界のどこに住んでいようと,どんな言語を用いていようと,この雑誌を読者が手にしておられるという事実そのものから,この質問に対して,「果たしてきた」と迷わずに答えることができます。1879年当時,「ものみの塔」誌は6,000部ほど,月に1回英語だけで発行されていました。今では毎号1,000万部以上の「ものみの塔」誌が102か国語で発行されており,900万部ほどの「目ざめよ!」誌が54か国語で発行されています。
しかし,この協会は本当に「聖書協会」となってきたでしょうか。1896年以来,協会は,ジェームズ王欽定訳およびアメリカ標準訳を含む七つの異なった版の聖書を出版してきました。とはいえ,聖書出版の分野での傑出した業績は,1950年に最初の一部分が,そして1961年に1巻にまとめて発表された新世界訳聖書です。今ではこの聖書の全巻あるいは一部分が,ほかにも10か国語に翻訳されています。過去23年間に,この聖書は合計4,000万冊印刷されています。
20世紀の最も意義深い運動
エホバの証人は現在,190ほどの言語を使って,203の国々で宣べ伝えています。米国には67万人を超えるエホバの証人がおり,ドイツ連邦共和国,イタリア,メキシコ,ナイジェリア,そしてブラジルの各国には10万人を超えるエホバの証人がいます。ものみの塔聖書冊子協会は世界各地に支部事務所と印刷工場を持っています。創立100年を迎えるこの聖書協会はこれまで以上に強力になっており,活動にあふれています。この誉れはエホバ神に帰されなければなりません。―ゼカリヤ 4:6。
しかし,どうしてエホバの証人とその増加に関心を持たなければならないのでしょうか。厳密に言って,実際に『終わりが来る前に王国の良いたよりを全地で宣べ伝えている』クリスチャンのグループはエホバの証人だけだからです。(マタイ 24:14)聖書の預言によると,神は人間の行なう事柄に再び介入し,腐敗した現在のこの事物の体制に終わりをもたらされるので,実のところエホバの証人は人間の救いのために行なわれている,20世紀の最も意義深い世界的な運動に携わっていることになります。そのようなわけで,エホバの証人の教えと彼らが行なっている事柄を広い心で調べていただきたいと思うのです。―ルカ 21:34-36。ペテロ第二 3:8-13。エゼキエル 33:6-9。イザヤ 43:9,10。
しかし,この100年間の業績はどのようにして成し遂げられたのだろうか,エホバの証人はどうして過去1世紀間に世界的な運動を起こすまでになったのだろうか,と尋ねる方もおられるでしょう。
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良いたよりを広めるために用いられた現代の発明品目ざめよ! 1985 | 3月8日
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良いたよりを広めるために用いられた現代の発明品
100年
今から100年前に生きていたら,生活を楽しめたと思いますか。確かに当時の生活は今とは大変異なっていました。家庭には電気が引かれておらず,ラジオもテレビもありませんでした。路上に自動車の影はなく,旅行は馬車や蒸気機関車や船で行なわれました。飛行機はありませんでした。大西洋を横断するには,今のように3ないし7時間ではなく2ないし3週間をかけなければなりませんでした。しかし同時にその年は,偉大な発明の時期をしるしづける節目になり,それらの発明により古い生活様式はほどなくして変わることになっていました。
『半年もたたないうちに,くず同然になってしまうでしょう』
1884年という年は幾つかの理由で特別な年でした。興味深いことに,「民衆の年代記」という歴史書は,その年に関する二つの顕著な事柄に言及しています。最初の項目はこう述べています。「ドイツ系アメリカ人の機械工,オットマール・メルゲンターラー(30)が特許を取ったライノタイプ鋳植機は,新聞社の植字室に革命をもたらすことになろう」。2番目の項目は次の通りです。「チャールズ・テイズ・ラッセルが,自分の書いた書籍,パンフレット,雑誌を発行するためにものみの塔聖書冊子協会を設立。ラッセルは……この世が恐るべきハルマゲドンの戦いで絶滅する瀬戸際にあると説いている」。
これら二つの歴史的な記述にどんな関係があるというのでしょうか。1884年以来36年間にわたって,ものみの塔聖書冊子協会は外部の印刷業者に依頼して聖書関係の出版物を幾百万冊も印刷してきました。しかし,1920年に協会は雑誌の印刷を独自に行なうことにしました。この進展はまた,ライノタイプ鋳植機をやがて入手しなければならなくなることを意味しました。活字の組版をより早く行なうためのメルゲンターラーの1884年の発明は印刷業界に恩恵をもたらしましたが,今度は良いたよりを広める業を速める上で大きな助けになったのです。
1922年に,協会は書籍と聖書を独自に印刷することにしました。地元の印刷業者や製本業者は快く思いませんでした。一報告は次のように述べています。「植字,電気メッキ,印刷および製本の機械一式 ― その大部分は新品だった ― が購入されました。それまで協会の印刷の仕事の大半を行なっていたある著名な印刷会社の社長は,その設備を見て次のように言いました。『あなたがたは一級の印刷設備を持っておられますが,その扱い方を知っている人はここにひとりもおられないようですな。半年もたたないうちに,この全部はくず同然になってしまうでしょう。そして,あなた方のために印刷をしていた人々が,やはり仕事に慣れているし,うまくやれることが分かるでしょう』」。
この実業家の悲観論は正しいことが立証されたでしょうか。立証されるどころか,協会の本部の自発的な働き人たちは技術を速やかに習得していきました。当初,1日に2,000冊しか製本できませんでしたが,1927年にはその数字が1日に1万2,000冊にまで達していました。しかも,もう一つの利点がありました。外部の会社で印刷されていたときには,書籍の一般価格は50ないし75㌣でした。ところが,自発的な労働者により協会の印刷機で印刷されるようになると,書籍は1冊25㌣で生産され,配布されるようになったのです。利益を得ることが目的でしたか。ここに挙げた数字はその答えを雄弁に物語っています。
蓄音機と映画の出現
1887年にトーマス・エジソンは,円筒状のワックスレコードを用いる最初の動力式蓄音機を発明しました。その同じ年に,エミール・バーリナーが円盤と水平に動く針を使って,蓄音機に改良を加えました。こうして蓄音機,つまりレコードプレーヤーが誕生しました。これと平行して,映画の製作の面でも大きな発展がありました。1896年には米国で初めて無声映画が一般に公開されました。
それからわずか16年後に,ものみの塔聖書冊子協会は王国の音信を宣べ伝える業にさらにはずみをつけるため,これら二つの発明を利用しました。1912年に,新分野を切り開く意欲的な計画が実施されるようになりました。「ほかならぬピッツバーグで!」という出版物はこのことについて次のように述べています。「最初の大掛かりな映画。それは『創造の写真劇』と呼ばれ,ほかの有声映画が製作されるより15年前に登場したにもかかわらず,録音された講演と同調させた映画およびスライドを組み合わせたものを提供していた。これは4部から成っており,上映時間は合計8時間で,800万人ほどの人がそれを見た」。この映画は1914年以降,非常に大規模な証言をするのに役立ちました。
マルコーニの発明で良いたよりは電波に乗る
グリエルモ・マルコーニは1901年に,大西洋を越えて初めて送られて来た無線信号を受信しました。しかし,毎日スケジュールにしたがって運営されるラジオ局としては世界最初のものとなったKDKAがイースト・ピッツバーグから放送を始めたのは,1920年になってからでした。ですから1922年4月に,ものみの塔協会の当時の会長だったJ・F・ラザフォードが「現存する万民は決して死することなし」という主題の話をする声を聞いた,ペンシルバニア,ニュージャージー,そしてデラウェアの各州に住む大勢の人々はたいへん驚きました。このすべてが目新しい試みであったことは,フィラデルフィアのレコード紙の見出しからも分かります。「ラザフォード判事の講演はメトロポリタン・オペラ・ハウスから放送された。送話器に直接話す。音信はベル電話会社の電線によってハウレット[ラジオ]局まで何マイルも運ばれた」。
ものみの塔聖書冊子協会は,人気が出てきていたラジオによって王国の音信を素早く伝達する可能性を機敏に見て取りました。ですから1922年に協会は,独自のラジオ局を建てるためにニューヨーク市スタテン島に土地を購入しました。政府の認可が下り,協会のラジオ局にはWBBRというコールサインが与えられました。最初の放送は1924年2月24日,日曜日に行なわれました。
これはものみの塔協会がラジオを利用するようになった始まりにすぎませんでした。1925年にはWORDというコールサインを持つ別のラジオ局が米国イリノイ州バテービアから聖書の真理を放送していました。やがて,録音された聖書のプログラムと講演を放送するために,世界のラジオ放送局をつなぐ放送網ができました。ピークになった1933年には,六つの大陸に音信を伝達するため,実に408局が用いられていたのです。
1957年に協会はWBBRを売却し,33年にわたる放送の歴史を閉じました。どうして方針が変わったのでしょうか。その時にはラジオ局の電波の届く範囲内にエホバの証人の会衆が数多く存在しており,証人たちは人々の家を訪問することにより,一層効果的な一対一の証言を行なえたからです。(使徒 20:20)さらに,ラジオ局やプログラムにつぎ込まれていた労力や資金は,ほかの面で,特に宣教者の分野でよりよく活用することができました。同様の理由で,テレビもあまり使われてきませんでした。
蓄音機を使って宣べ伝える
ラジオでレコードを使ったことから別の新機軸 ― 蓄音機を使って家から家に宣べ伝えること ― への道が開かれました。1934年にものみの塔協会は,短い聖書の音信を使って家から家に宣べ伝えるためのこの携帯用蓄音機と78回転のレコード盤を用いる業を推し進めました。特製の軽量携帯用蓄音機が協会のブルックリン本部で設計され,ブルックリンの工場で2万個が製作されました。ですから,協会が民間ラジオ局を使わなくなった1937年に,蓄音機の業はその穴埋めをすることになったのです。
しかし,1944年までにエホバの証人は,個人的に口頭で証言をする点で一層資格にかなうようになっていたので,蓄音機による業は漸次廃止されていきました。ラジオ同様,この発明品もその目的を果たしたのです。
独自のシステム
ライノタイプ鋳植機が1884年に印刷業界に革命的な恩恵をもたらしたのと全く同様,1960年代にはずみのついたオフセット印刷と写真植字の組み合わせもやはり革命的な恩恵をもたらしました。鉛を溶かして使う植字組版工程は,写真植字のためにほとんど一夜にして廃れてしまいました。写真植字の利点を実例を挙げて示すと,従来の方法で植字組版をすると通常1年はかかっていた600ページの本が,写真植字だと12時間で済んでしまいます。
ものみの塔聖書冊子協会はこの分野での事態の進展を見守り,そのシステムにかかわる様々な問題の大半が解決されたときに写真植字に入りました。1978年以来,協会はオフセット輪転印刷機で印刷しており,MEPSすなわち多言語電算写植システムa と呼ばれる,多言語で印刷前の諸工程を処理するコンピューター化された独自のシステムを開発しました。これは世界で最も進んだ,印刷前の諸工程を処理する全自動のシステムです。
協会は独自の研究所まで持っていますが,そこまでコンピューター化に深くかかわり合うようになったのはなぜでしょうか。高く評価されている「出版システムに関するシーボルド・リポート」は,次のように述べてその答えの鍵を与えています。「ものみの塔の多言語にわたる要求は類例を見ないもので,どんな売り手にとっても多大の特注の仕事を,場合によっては設計の仕直しをも意味するものとなろう。……ものみの塔の印刷・出版事業は,毎年幾億冊もの書籍やパンフレットを生産するものである。世界中に配布することを目的として,これらの出版物が幾十もの異なった言語で生産されていることが,普通とは違った植字組版上の問題の原因となっている」。
エホバの証人はこれらの様々な問題を解決し,「ものみの塔」誌は1985年1月1日号から,その内容がほとんどの主要な言語で同時に発行されるまでになっています。この大きな進展により,世界中の読者の9割以上が重要な聖書の情報を同時に受け取ることになります。
別の有用な助け
長年にわたって,多くの国々で文盲や半文盲が重大な障壁となってきました。そのために大勢の誠実な人々が聖書を個人的に知ることは妨げられてきました。ものみの塔協会は世界中で幾十年にもわたって読み書き教室を設けてきましたが,協会は科学技術のもう一つの進歩を活用して,聖書の知識を広める必要性を見て取りました。その科学技術の進歩とは,テープレコーダーとカセットテープです。ですから,協会は1978年からブルックリンにテープ複製部門を開設しています。それ以来,1,800万個を超えるカセットテープが生産されてきました。
聖書朗読や聖書劇,クリスチャンの音楽を録音する際の特別な必要を満たすために録音スタジオが設けられました。その結果,世界中のエホバの証人の諸会衆すべてが,録音されたピアノ音楽の同じ伴奏でクリスチャンの歌を歌うことができます。この同じ音楽のオーケストラ版もあり,「王国の調べ」と呼ばれて世界中で多くの人々に愛されています。視力障害者を含む大勢の人々は,点字で様々な出版物を入手できることに加え,聖書の各書のカセットテープを自国語で聴いて,聖書に対する認識を深めています。
テープを製作する機械を販売する米国フロリダ州の一実業家は,最近,ものみの塔協会のテープ複製部門を訪れた後に次のような手紙を書いています。「言うまでもなく,私は皆さまの作業工程全体に深い感銘を受けました。皆さまの所ほど清潔で効率の良い工場をこれまでに一度も見たことがありません。お金以外の別の動機づけがあると,人々はより良い仕事をし,その仕事により大きな誇りを持つのだと思います」。
ものみの塔聖書冊子協会の100年の記録は,神の王国政府に関する良いたよりを世界中に宣べ伝えるという,その定款に示された目的を成し遂げるため,同協会が新しい発明品をよく利用してきたことを物語っています。しかし,これに対して,宗教上および政治上の敵たちからの暴力を伴う激しい反対がなかったわけではありません。次の記事を読めばお分かりになるように,それは世界的な規模での宗教的迫害の,類例を見ない歴史となっています。
[脚注]
a MEPSのより詳しい説明については,「目ざめよ!」誌の1984年7月22日号,19-25ページをご覧ください。
[6ページの図版]
これらの発明品は王国の音信を広めるために用いられた
[7ページの図版]
科学技術の進歩は世界的な規模で影響を及ぼした
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北アメリカでの激しい迫害目ざめよ! 1985 | 3月8日
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北アメリカでの激しい迫害
100年
「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう」。「人々はあなた方に手をかけて迫害し……あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。……彼らはあなた方のうちのある者たちを死に渡すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう」。―ヨハネ 15:20。ルカ 21:12-17。
上に挙げたイエスの言葉は,その真の追随者たちが迫害されることをはっきりと示しています。しかし,なぜ迫害されるのでしょうか。イエスはこう答えておられます。「あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです」― ヨハネ 15:19。
ものみの塔聖書冊子協会を代表する奉仕者たち,すなわちエホバの証人の場合に,これは真実となってきましたか。真実となってきたとすれば,彼らが迫害されてきた理由は何でしょうか。政治に介入したり,宗教戦争や革命でどちらかの側に付いたりしたためですか。過去100年間の記録はどんなことを示していますか。
米国における初期の反対
チャールズ・テイズ・ラッセルは,32年間(1884年-1916年)にわたって,ものみの塔聖書冊子協会の会長を務めました。ラッセルは恐れを知らない伝道者で,たくさんの本を書いた人でした。そして,三位一体の教理,霊魂不滅やいつまでも燃えさかる地獄の火の教理を大胆に非難し,論ばくしました。ラッセルの訓話は一時,米国,カナダ,ヨーロッパの3,000ほどの新聞に毎週掲載されていました。結果として,ラッセルは主に僧職者から絶えず攻撃を受けました。その敵の中には,ラッセルの評判を落とそうとして卑劣にも人身攻撃に訴える者も少なくありませんでした。ラッセルはそれら中傷する者たちをどうみなしていたでしょうか。彼はかつて,「自分に向かって吠える犬がいる度に立ち止まってその犬をけ飛ばしていたら,あまり遠くまでは行けないだろう」と語ったことがありました。
ラッセルは法廷で多くの時間やお金を浪費しないことに決めました。法廷で争っても,反対する僧職者たちについて広く知らせるだけに終わってしまいます。ラッセルはイエスが言明された次の法則を信じていました。「りっぱな木で腐った実を生み出しているものはなく,腐った木でりっぱな実を生み出しているものもないのです。木はそれぞれその実によって知られるからです。……善良な人は自分の心の良い宝の中から良いものを取り出し……ます」。ラッセルは自分の宣教の良い実によって,自分に対する汚名をすすぐほうがよいと考えました。―ルカ 6:43-45。
「ある人たちは腹を立てるだろう」
しかし,最大の反対はラッセルの死後まもなく起こりました。生前ラッセルは「聖書研究」と呼ばれる,聖書を研究するための書籍をシリーズで出版していました。そして,完結編となる第7巻を書くつもりでいました。あるいは,ラッセルの言葉を借りて言えば,「主がその鍵をだれか他の人にお授けになるなら,その人が書けばよいのです」。ラッセルは1916年に死去し,「終了した秘義」と呼ばれるその第7巻はブルックリン本部職員の手で完成され,1917年7月に発表されました。この本は数か月間で85万冊の発行部数に達しました。
この本は,キリスト教世界の僧職者階級のことと,愛国心が政治的にあやつられ,世界大戦の当事者双方が行なってきた大量殺りくが正当化されていることを容赦なく暴露しました。その本の序文は次のように述べていました。「ある人々はこの本に対して不平の声を上げ,粗捜しをするだろう。ある人たちは腹を立てるだろう。そしてある人々は迫害者たちに加わるだろう」。ものみの塔聖書冊子協会に加えられた打撃は非常に激しいものでした。それはどのようにして生じましたか。
1917年4月に米国はドイツに宣戦を布告し,第一次世界大戦の参戦国になりました。カナダを含む大英帝国はすでにその戦争に巻き込まれていました。こうした出来事が「終了した秘義」の中の数節と相まって,僧職者たちにこの聖書協会をつぶす機会を与えることになりました。
1918年2月12日に,カナダ政府はものみの塔協会を禁令下に置きました。禁令下に置くどんな理由があったのでしょうか。ある新聞の特電は次のように述べました。「国務長官は,出版の検閲規定に基づき,カナダにおいて何冊かの出版物の所有を禁じるよう指令した。その出版物の中には,国際聖書研究者協会[カナダにおけるものみの塔協会の支部の名称]により発行された,『聖書研究 ― 終了した秘義』があ(る)。……禁止されている本を持っている者は,5,000㌦以下の罰金および懲役5年の刑を受けることがある」。―下線は本誌。
攻撃の背後にいたのはだれか
後日,カナダのウィニペグ市のトリビューン紙は次のように述べました。「『聖書研究者月刊』の最近号のひとつには,二,三週間前,聖ステファノ教会の牧師チャールズ・G・パターソン師が説教壇から公然と非難した箇所がある。後ほど,ジョンソン法務長官はパターソン師のところに人をやって,その出版物を1部求めさせた。検閲に関する命令が出されたのは,これによる直接の結果と考えられている」。(下線は本誌。)ある愛国的な僧職者たちがこの攻撃を促進したものと思われます。
米国では,ニューヨークのある地方裁判所が,ものみの塔協会の新しい会長,J・F・ラザフォードおよび同会長と親しい7人の仲間たちに対する逮捕状を出しました。これらの人たちは,「アメリカ合衆国の陸海軍の兵役に対して,不法かつ故意に,また重罪に当たることとして,反抗,不忠節,拒否の態度を起こさしめ……『聖書研究,第7巻,終了した秘義』と呼ばれる本をアメリカ合衆国中に配布し,公に流布する[ことによりそれを行なった]罪」に問われていました。
戦争熱と燃え上がる愛国主義の最中にあって,8人の被告に対しておざなりの訴訟手続きが取られ,結局は弁護士のラザフォードを含む7人に,四つの訴因に対する刑期が同時に進行する20年の懲役刑が言い渡されました。8人目の被告には10年の刑が言い渡されました。上訴の手続きがなされたので,保釈の申請が出されました。カトリック教徒のマントン判事はその申請を却下しました。
アトランタ刑務所で9か月を過ごした後,ものみの塔の役員たちはようやく保釈され,控訴を待つことになりました。後日,その最初の裁判には少なくとも125の誤りが含まれており,誤った有罪判決を棄却するにはそのうちの二,三の点を挙げれば十分であることが示されました。こうしてJ・F・ラザフォードとその提携者たちの無実の罪は晴らされました。事実,ラザフォードは米国の最高裁判所で弁護士を務めましたが,何らかの犯罪で有罪判決を受けていたとしたら,そのようなことは決してできなかったでしょう。
僧職者と暴徒の暴力
しかし,これらの出来事がきっかけになって迫害の波が一気に押し寄せ,僧職者はこの時とばかりにそれに油を注ぎました。愛国主義という口実のもとに,ものみの塔聖書冊子協会を一度限り永遠につぶす絶好の機会が到来した,と考えたのです。
一報告は次のように伝えています。「オレゴン州のある町では,市長と二人の僧職者が暴徒を組織し,[国際聖書研究者]協会の講演者の一人を追いかけてその市から追い出し,隣町まで追いかけて行った。その講演者は逃げ延びたが,暴徒はその人に付き添っていた友人を捕らえ,グリースとタールでその人を覆った。……
「ロサンゼルスでは僧職者たちが,聖書研究者たちは逮捕され,保釈金を認められることなく拘留されることになるであろうと豪語した。それら僧職者たちのある者は,アパートの所有者のところを回り,国際聖書研究者協会の会員である借家人を追い立てるよう家主を説き付けようとした。……
「1918年4月22日,オクラホマ州ウインウッドにおいて,クラウド・ワトソンは最初に投獄され,のちに伝道師,実業家その他からなる暴徒の手に故意に渡された。彼らはワトソンを打ちのめし,黒人に彼をむち打たせた。そして,なかば意識をとりもどすと再びむち打った。それから,体中にタールと羽毛を浴びせた」。
しかし,宗教および政治分子が結託したこの反対により,ものみの塔聖書冊子協会は消滅したでしょうか。まったく正反対です。J・F・ラザフォードとその仲間たちが刑務所から釈放されて6か月がたち,1919年9月に聖書研究者の全国大会がオハイオ州シーダーポイントで開かれました。その地で,J・F・ラザフォードは,「黄金時代」と呼ばれる新しい雑誌の刊行を発表しました。長年にわたって,その出版物は「この事物の体制の神」であるサタンとサタンが人類をとりこにするために用いている三重の器 ― 偽りの宗教,野獣のような政治,および大企業 ― を,恐れることなく暴露しました。「黄金時代」誌(後に「慰め」と呼ばれた)は,全人類のための唯一の合法的な政府として,キリストによる神の王国を指し示しました。―コリント第二 4:4。
今日,その同じ雑誌は「目ざめよ!」誌と呼ばれており,読者は今まさにその雑誌をお読みになっているのです。この雑誌は54か国語で,毎号実に900万部近くも発行されています。本誌の姉妹誌である「ものみの塔」は第二次世界大戦中の難しい年月の間,多くの国々で禁令下に置かれましたが,今では合計102か国語で,毎号平均1,020万部印刷されています。それは世界中のどの雑誌よりも多くの言語で頒布されている雑誌です。これらの事実は,100年に及ぶ出版と迫害の歴史の後,ものみの塔聖書冊子協会がますます強力になっていることの証拠です。
[10ページの図版]
僧職者たちは「終了した秘義」という本をたねに迫害を引き起こした
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証人たちに対するナチとファシストの攻撃目ざめよ! 1985 | 3月8日
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証人たちに対するナチとファシストの攻撃
100年
米国の証人たちに対する暴力行為は,数年後にナチのドイツおよびファシストのスペインとイタリアで頭をもたげた暴力行為と比べれば実際には穏やかなものでした。1933年に,アドルフ・ヒトラーはドイツにおける12年に及ぶその独裁制を敷き始めました。それと前後して,ナチズムに服従しないグループに弾圧が加えられました。
1933年4月には,ものみの塔協会が共産主義と結託している証拠を見いだそうとして,ナチの警察がマクデブルクにある協会の工場を占拠しました。その証拠は見つかりませんでしたが,突撃隊員たちは6月に再びやって来て,工場を閉鎖し,その建物にかぎ十字の旗を掲げました。6月29日にこの措置はラジオを通してドイツ国民に伝えられました。ドイツ・ルーテル教会はナチスと協力し,“熱心な聖書研究者”に対する禁令が出たことを喜びました。ドイツの証人たちはそのような名前でも知られていたのです。a ルーテル派の牧師オットーは次のように述べました。「このような協力の最初の成果として,ザクセン州における熱心な聖書研究者たちの国際協会とその下部組織の活動が本日禁止されたことをお知らせできます」。エホバの証人に対する戦いが始まったのです。
強制収容所へ!
ナチ・ドイツのエホバの証人は,世から離れているようにというイエスの語られた定めに付き従い,選挙で投票することを拒否しました。ナチ党員たちは証人たちを公の場で辱めました。ザクセン州オシャツに住むマクス・シューベルトは,「私は投票しなかったので,ならず者で,祖国に対する裏切者です」というサインを持った突撃隊員と共に荷馬車に乗せられ,行進させられました。シューベルトは人々が「こいつはどこへ行くべき人間か」と繰り返し唱える中で街路を行進させられました。暴徒は,「強制収容所行きだ!」と答えました。ほどなくして幾千人ものエホバの証人がそれら悪名高い収容所に送られました。収容所の状況はどのようなものでしたか。
ドイツの状況について書いた英国政府の公式刊行物によると,すでに1933年に,「むち打ちや拷問は日常茶飯事で,国家社会主義[ナチ]運動がその運動に無思慮にも反対する者たちに対して恐ろしい報復措置を取っていることはドイツでは周知の事実となって」いました。ブーヘンワルト強制収容所で苦しみに遭ったひとりの元収容者はこう述べています。「作業時間は1日16時間で,日曜日も平日も同じであった。作業時間中は,暑い盛りでも飲み物を飲むことは禁じられていた。……言うまでもなく,作業は重い石を動かすことだった。その石は大抵の場合,栄養を十分に取った普通の人の力でもとても動かせるようなものではなかった」。
当時,英国の報告によると,強制収容所には約8,000人が収容されており,その中には「1,500人のユダヤ人と800人のエルンスト・ビーベルフォルシェル(国際聖書研究者)がいた。……ユダヤ人の収容者は月に2回手紙のやり取りができた。聖書研究者たちは外部の世界と何の連絡を取ることも許されなかった……ヘール Xはこれらの人々について最大級の敬意を込めて語っている。その勇気と信仰には驚くべきものがあった。彼らはどこまでも苦しみを甘受するつもりであることを言い表わした。……収容所では毎日だれかが死んでいった」。
ブーヘンワルトの別の元収容者は,収容者たちがどのようにこの“悲しみの新しい都市”に迎え入れられたかを説明しています。収容所の外で所長のレードルが次のような言葉で収容者たちを迎えました。「お前たちの中にはすでに刑務所に行ってきた者もいるだろう。そこで経験した事柄など,ここで経験することと比べたら何でもない。お前たちは強制収容所へ入るのだ。つまり地獄に入るということだ。……この収容所には2種類の刑罰しかない。むち打ちと死刑だ」。
強制収容所は幾百万もの生命という,身の毛もよだつような実を刈り取りました。それらの人々は倒錯した政治哲学の犠牲者です。それらの人々は計画的に卑しめられ,人間の尊厳をはぎ取られ,それから殺されました。それら幾百万もの犠牲者各人が個人的に味わった苦もんや苦しみを想像することができるでしょうか。
「このやからをドイツから根絶せよ!」
中には単に犠牲者にとどまらず,殉教者になった人々もいます。その人たちの場合,釈放してもらうこともできたからです。ある資料によると,ヒトラーとその親衛隊の部下たちが組織したサディズムと暴虐行為の犠牲者になったエホバの証人の男女1万人の場合がそうでした。それらの証人たちには,自分たちの宗教を捨てることをしたためた文書に署名して,自由の身になる機会が与えられました。それに応じた人はごく少数でした。―クリスティーヌ・E・キング博士著,「ナチ国家と新宗教: 不服従に関する五つの事例研究」をご覧ください。
上記の資料によると,1万人のうち約2,500人はついに自由の身になることはありませんでした。その人たちは,神エホバに,また模範となっておられるイエスに対する忠実を保って,ダハウ,ベルゼン,ブーヘンワルト,ザクセンハウゼン,ラベンスブリュック,アウシュビッツ,マウトハウゼンおよびその他の収容所で死んだのです。ガスで殺された人々のほかに,殴打や飢え,医学実験などの結果として死亡した人も少なくありませんでした。ほかにも,女性をも含め,絞首刑や打ち首,銃殺刑などに処せられた人々もいました。なぜでしょうか。ヒトラーの軍隊に入ったりヒトラーに救いを帰したりしてクリスチャンの中立の立場を侵すようなことをしなかったからです。それらの人々は世から離れていて,終わりまで忠実を保ちました。―マタイ 24:13。
1934年に,ドイツおよび他の国々のエホバの証人は,証人たちに対する残虐な仕打ちに抗議する電報をヒトラーに送りました。このことを聞いたヒトラーは「急に立ち上がるなり,両のこぶしを握りしめてヒステリックな声で,『このやからをドイツから根絶せよ!』と絶叫した」と,目撃証人は伝えています。50年後の現在,この「やから」は抹殺させられたでしょうか。
それどころか,彼らはますます盛んになっています。しかし,ヒトラーとそのナチズムは消滅してすでに約39年がたちました。それとは対照的に,今ではドイツ連邦共和国に10万7,000人を超える活発な証人たちがおり,それに加えてドイツ民主共和国には禁令下に置かれているさらに幾千人もの人々がいます。この「やから」は抹殺されませんでした。その数は増えて,ますます強力になっているのです。
ファシズムは証人たちの業をやめさせようとする
イエスが『あなた方は世のものではない……ので,そのために世はあなた方を憎むのです』と言われたことを忘れてはなりません。これはナチ・ドイツにおけるエホバの証人にだけではなく,世界中のエホバの証人に当てはまります。彼らはキリストの原則と模範に固く従ってきたからです。
第二次世界大戦前に,証人たちはイタリアでも禁令下にありました。1929年,カトリック教会がムッソリーニのファシスト政府との政教条約に調印した時,ブルックリンにあるものみの塔協会とイタリアの証人たちとの接触を押さえつける宗教的な弾圧の時期が始まりました。25人の忠実なイタリア人のエホバの証人から成る一グループには,2年から11年まで様々な刑期の懲役刑が言い渡されました。中にはその刑期を全うしなかった人々もいました。なぜでしょうか。ファシズムのほうが先に倒れて,証人たちは釈放されたからです。b
戦後,1946年に,イタリアには35の小さな会衆と交わる120人の証人たちがいました。今日ではどのような状況が見られますか。今やエホバの証人はイタリアで2番目に大きな宗教団体となっており,1,600ほどの会衆と交わる11万5,000人を超える活発なクリスチャンを擁しています。そうです,ますます強力になっているのです。
多くの国々について同様の話があります。例えば,1959年にスペインの内務省は,エホバの証人の活動に関して安全保障局の総局長に次のような指示を与えました。「したがって,前述の悪のこれ以上の進展を徹底的に阻むため,閣下は[すべての警察本部へ]回覧状を送り……その中でこれらの活動を単に警戒するだけでなく,この者たちを根絶する結果をもたらすような措置を取ることを命じなければならない」。―下線は本誌。
新たな迫害の波がスペイン全土を洗い,1970年まで続きました。幾百人もの証人たちが,単に聖書を研究したり,他の人々に宣べ伝えたり,政治的な問題で中立を保ったりしたために,罰金刑を受けたり投獄されたりしました。証人たちとその活動は根絶されましたか。それどころか,1970年には当局が渋々法的認可を証人たちに与えました。1959年には1,400人の証人たちしかいなかったのが,1970年には1万1,000人になったのです。それからわずか14年後の現在は,5万6,000人を超える証人たちがおり,840以上の会衆に組織されています。ものみの塔聖書冊子協会はマドリード近郊にりっぱな支部を持っており,そこではイベリア半島での需要を賄うための「ものみの塔」および「目ざめよ!」の両誌が印刷されています。では,第二次世界大戦に至るまでの,および同大戦中のナチとファシストの攻撃の波により,エホバの証人は根絶されたでしょうか。いいえ,証人たちはますます強力になっているのです。
[脚注]
a ナチの残虐行為に関する詳細な記録については,「エホバの証人の1975年の年鑑」,111-216ページをご覧ください。
b ファシストのイタリアで証人たちが生き伸びた詳細な記録については,「1983 エホバの証人の年鑑」,136-179ページをご覧ください。
[13ページの図版]
大勢の証人たちが悪名高い強制収容所で死亡した
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100年を経てますます強力になる!目ざめよ! 1985 | 3月8日
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100年を経てますます強力になる!
100年
真の信教の自由が存在しない幾つかの国々で,ものみの塔協会は依然として禁令下にあったり制限を課せられたりしています。しかし,それらの国々では神の王国政府に関する良いたよりが宣べ伝えられていないということになりますか。ユダヤ教の僧職者たちによって禁令下に置かれた時,クリスチャンの使徒たちはどのように対応したでしょうか。使徒たちはこう言いました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません。そして,わたしたちはこれらの事の証人であり,聖霊もまたそうです。神はそれを,支配者としてのご自分に従う者たちにお与えになりました」― 使徒 5:29,32。
重要なのはその点です。エホバの証人は,神の聖霊の導きと保護により繁栄し,今やますます強力になっているのです。確かに,証人たちは中立を守り,平和を愛する人々なので,非常に害を被りやすいようにも思えます。証人たちには政治的な影響力はなく,守ってくれる盟友もいません。では,どのようにして生き長らえ,繁栄できたのでしょうか。
聖書の神はこう答えておられます。「『あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう。これはエホバの僕たちの世襲財産であり,彼らの義はわたしからのものである』と,エホバはお告げになる」。「『軍勢によらず,力にもよらず,ただわたしの霊による』と,万軍のエホバは言った」。―イザヤ 54:17。ゼカリヤ 4:6。
100年を経てますます強力になる
1918年の末に,活発な証人たちは全世界でほんの数千人しかおらず,その聖書文書は17ほどの言語で出版されていました。すでに見てきた通り,ものみの塔協会は1933年から1945年までの間,多くの国々でまたもや迫害を受け,難しい時期を経験しました。信教の自由が法律によって保護されている米国においてさえ,エホバの証人は神の王国の良いたよりを宣べ伝える自分たちの権利を法的に擁護してきました。(フィリピ 1:7)米国の最高裁判所で,証人たちは自分たちの崇拝と原則にとって有利な判決を21回勝ち取りました。第二次世界大戦が終わった時には,戦争が勃発した当時の7万1,509人と比べて,14万1,606人の証人たちが68か国で活発に奉仕していました。1945年には年ごとのキリストの死の記念式の祝いに,合計18万6,137人が出席しました。
39年たって,証人たちはどんな状態にありますか。今では,267万人以上の証人たちが203の国々で190ほどの言語を用い,宣べ伝える業に携わっています。1984年の記念式の出席者数は約700万人でした。世界の国々の大多数は,これほどの人口を有していません。
このことに関して,エホバの証人は自分たちに誉れを帰していますか。いいえ。証人たちは王国の良いたよりを宣べ伝える責任を受け入れはしますが,『神がそれをずっと成長させてくださる』ことを認識しています。―コリント第一 3:6,7。
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