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世界展望目ざめよ! 1975 | 5月8日
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意志の堅い,地震の被災者
◆ 最近,パキスタンは地震のために何千人もの死傷者を出したが,被災者は救援活動を促進させるとともに阻害するものともなった。医師にとって問題となったのは宗教上の慣習であった。重傷を負ったある婦人の夫は,男子による診療を妻に受けさせるくらいなら死なせたほうがよいと言って怒った。「負傷した多くの婦人は,回教の慣習に従い,男性の医師から治療を受けることを拒んだ」と,ウォール・ストリート・ジャーナル紙は報じた。
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聖書の第60番めの本 ― ペテロの第一の手紙目ざめよ! 1975 | 5月8日
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『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
聖書の第60番めの本 ― ペテロの第一の手紙
筆者: ペテロ
書かれた場所: バビロン
書き終えられた時期: 西暦62-64年ごろ
含まれている時代: 確定できない
1 なぜクリスチャンたちは試練を忍ばねばなりませんでしたか。ペテロの第一の手紙はなぜ適切な時に書かれたと言えますか。
初期クリスチャンたちが神の卓越性を広く宣明してゆくにつれて王国の業は栄え,ローマ帝国の全域に拡大してゆきました。しかしながら,この熱心な人々についてある程度の誤解も生じていました。一つの点として,彼らの宗教はエルサレムまたユダヤ人にその起源を置いていましたから,ある人々は彼らを政治的な野心を持つユダヤ教の熱狂者と混同し,ローマのくびきに反抗して絶えず地方統治者の手を焼かせていた者たちと同様にみなしました。さらに,クリスチャンは皇帝に犠牲をささげることを拒み,当時の異教の儀式に携わろうとしませんでしたから,その点で他の人々と「異なって」いました。彼らはあしざまに言われ,その信仰のゆえに数々の試練に耐えなければなりませんでした。まさに適切な時に,また神の霊感の証拠とも言うべき先見をもって,ペテロは自分の最初の手紙を書き,確固とした立場を守るようクリスチャンを励まし,時の「カエサル」であったネロ帝のもとでいかに身を処すべきかを諭しました。そのすぐ後に始まったあらしのような迫害について思う時,この手紙は極めて適切な時期に書かれたと言えます。
2 ペテロがその筆者であることは何によって証明されていますか。この手紙はだれにあてられたものですか。
2 ペテロがその筆者であることは冒頭のことばから立証されます。さらに,イレナエウス,アレクサンドリアのクレメンス,オリゲネス,テルツリアヌスなども皆この手紙から引用し,ペテロをその筆者であるとしています。a ペテロ第一の書の典拠性も,他の霊感の手紙の場合と同じく証明されています。エウセビオスは,教会の長老たちがこの手紙を自由に引用したことを述べています。つまり,エウセビオスの時代(西暦260-340年ごろ)に,この手紙の典拠性に関する疑いはなかったのです。イグナティウス,ヘルマス,バルナバスなど二世紀初めの人々も皆この手紙のことにふれています。ペテロ第一の書は霊感による聖書の他の部分と完全に調和しており,「ポントス,ガラテア,カパドキア,アジア,ビチニアの各地に散っている寄留者たち」,ユダヤ人と非ユダヤ人のクリスチャンに対する強力な音信を提出しています。
3 この手紙が書かれた時期に関してどんな証拠がありますか。
3 この手紙はいつ書かれましたか。手紙全体の調子から見て,当時クリスチャンは異教徒か未転向のユダヤ人のいずれかのために試練に遭わされてはいましたが,ネロによる迫害はまだ始まっていなかったと考えられます。ネロの迫害は西暦64年に開始されました。ペテロはそのすぐ前,おそらく西暦62年から64年までの間にこの手紙を書いたものと思われます。マルコがまだペテロとともにいたということも,この結論の裏付けになります。西暦60年,マルコはローマでパウロといっしょにいましたが,まもなく小アジアに向けて旅だつことになっていました。また,西暦65年,パウロの二度めの投獄の時,マルコは再びローマでパウロとともになることになっていました。(ペテロ第一 5:13。コロサイ 4:10。テモテ第二 4:11)この中間の期間に,マルコはバビロンでペテロとともになる機会があったと考えられます。
4,5 (イ)ペテロはこの手紙をローマで書いたという主張の誤りはどのように証明されますか。(ロ)ペテロがこの手紙を文字どおりのバビロンで書いたことはどんなことに示されていますか。
4 ペテロ第一の書はどこで書かれましたか。聖書の注解者たちは,この書の典拠性,正典性,筆者,書かれた時期に関しては一致を見ていますが,どこで書かれたかという点になると意見が分かれています。ある人々は,アジアの有名な都市,ユーフラテス河畔のバビロンで書かれたと唱えています。一方では,エジプトのバビロン,今日のオールド・カイロで書かれたと論じる人々がいます。ローマ・カトリック教会は,バビロンは「ローマの象徴的な名」であるとして,ペテロがローマでこの手紙を記したと主張します。この点について,ハリーの「ポケット・バイブル・ハンドブック」,1944年版,506ページはこう述べています。「ペテロがローマに教会を設立し,25年間その司教であったというローマ・カトリックの伝承は,なんら歴史的な裏付け
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