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「生命の言葉」を一致してひろめる者たちものみの塔 1962 | 3月15日
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「生命の言葉」を一致してひろめる者たち
「いのちの言葉を堅く持って」― ピリピ 2:15,新口。
1 なぜ今日「いのちの言葉」はかつてないほどにひろめられているのですか。それはなぜ与えられましたか。
今はかつてないほどに「いのちの言葉」をひろめるべき時です。現代文明は破滅の危険に面しています。もっと悪いことに,全人類は,未曾有の破壊力をもつ兵器によって滅ぼされる危険に面しています。どの国も,核兵器や核兵器よりも恐ろしいガスが用いられる次の世界大戦の恐れに悩んでいます。その目的においては,武器を使う実際の「熱い戦争」と少しも変わらない「冷い戦争」が,国際的な規模で行なわれています。核兵器を擁して対立する二つの陣営の間の恐怖の均衡により,かろうじて平和が保たれている有様です。しかし人類は「いのちの言葉」にふさわしいですか。人間家族は救われるに値しますか。人間の創造主エホバ神はたしかにふさわしいとお考えになっています。神の愛する御子イエス・キリストもそうお考えになっています。そのわけでエホバ神は愛をもって「いのちの言葉」を与えて下さったのです。それはひろめる価値のあるものです。またはじめからひろめられるべきものでした。今ではかつてないほどに,広く宣べ伝えられています。
2 (イ)核戦争はこの世界の直面している最悪のものですか。(ロ)来たるべきものからだれが生き残りますか。
2 今日の世界が,自らの悪行のゆえに滅びに面している,というだけの理由で,「いのちの言葉」が天から与えられましたか。そうではありません。人類の直面している最悪のものは世界的な核戦争であると,今日一般の人々は考えています。世界がこのような戦争の危険をはらんだ事態に立ち至っているのは事実です。しかし実を言えば世界はもっと悪いものに直面しているのです。第三次世界大戦の有無は確かでないにしても,世界がこのもっと悪いものに突入することは間違いありません。それは「全能の神の大なる日の戦闘」であって,世界はこれに生き残らないでしょう。(黙示 16:14)しかし人間家族のある人々はこれに生き残って正義の新しい世を迎えるでしょう。それはいま「いのちの言葉を堅く持つ」人々です。しかし,私たちが全能の神の戦いに直面しているから「いのちの言葉」がはじめて与えられたのではありません。それはなぜですか。
3 そもそも「いのちの言葉」が与えられたのは,私たちの時代が恐ろしい滅びに面しているという理由だけによるのではありません。それはなぜですか。何時そしてだれが,はじめてそれを与えましたか。
3 死に直面したのは私たちの世代が最初ではありません。それで「いのちの言葉」を必要とするのは私たちだけではないのです。今までほとんど6000年の間,人類は最新の医学の進歩にもかかわらず死の道をたどってきました。無数の男女,子供が死んで墓に横たわり,忘れられています。それで「いのちの言葉」はその必要が最初おきた時に与えられました。死が人類のあいだにはいり込んですぐのち,それは与えられるようになりました。はいり込んだ死は,人類の敵です。死が人類の友であったことはありません。人類の敵が死の原因を作りました。「いのちの言葉」は人類の友,まったくのところ人類の最も偉大な友から与えられたものです。生命の与え主,生命の本来の源だけが,このような「いのちの言葉」を与え得るのです。それは創造主である神です。
4 (イ)人類の敵がエバに死の言葉を与えたのはどうしてですか。(ロ)今日の地が不従順な子供たちで満ちているのはなぜですか。
4 人類の母にむかって「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と語った人間の敵は,偽り者でした。(創世 3:4,新口)その者は「いのちの言葉」を差し出したのではなく,死の言葉を与えたのです。その者は人類の母を欺いて,生命の偉大な与え主エホバ神に背かせようとしたからです。彼女の夫アダムは,禁ぜられた木の実を食べてはいけない,と命じた神の言葉を従順に守ることによって,死を避け得ることを彼女に告げていました。神はアダムにこう言われたからです,「それを取って食べると,きっと死ぬであろう」。(創世 2:17,新口)神は地上のご自分のむすこと娘がエデンの園に生きつづけ,彼らと同じく罪のない完全な人間で全地をみたすことを望まれました。「終りの時」の預言通り,今日「親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者」で地はみたされていますが,神はその事を望まれませんでした。(テモテ後 3:1,2,新口)今日の地が不従順な子たちでいっぱいなのは,アダムとその妻エバが天の父である創造主にそむいたからです。
5 不従順なアダムとエバに対する宣告を,神はどのように実施しましか。アダムは子孫に何を伝えましたか。
5 生命を与えて下さった天の父に不従順な両親から生まれた子供が,地的な両親に不従順となっても不思議ではありません。またアダムやエバと同じく神に不従順なのはいうまでもないことです。アダムがその妻に加わって死をもたらす行いをしたために,神はアダムに対して,もとの土に帰り,生命のない無形の塵に戻ることを宣告しました。エデンの園を設けてそれを所有される神は,そのためにアダムとエバを外に追い出し,ふたりが大きな園の真中にある「命の木」をこっそりと捜しあててその実を食べ,今に至るまで,またいつまでも生きつづけることがないようにされました。(創世 3:17-24; 2:9,新口)このようにしてアダムがその子供たちに伝えたものは,完全な生命ではなくて人間の不完全さ,罪深さ,そして死の宣告でした。(ロマ 5:12)それで後の時代にイスラエルの国で次のことわざが書かれたのです。「父たちが,酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく」。―エゼキエル 18:2,新口。
6 (イ)エバを欺くために用いられたへびはどうなりましたか。しかしへびの背後にいた者はどんな宣告を受けましたか。(ロ)その宣告は何を意味しますか。
6 しかしこのすべての事をひき起こした人類の敵はどうなりましたか。その者はアダム,エバと同じくすでに死んでいますか。そうではありません。しかし神の定めの時にその者は打ち砕かれて死ぬでしょう。蛇の背後にいて神に反対するうそを語らせたこの目に見えない霊者は,まだ死んでいません。しかしその者は死ぬでしょう。どうして分かりますか。その者はサタン悪魔であり,「年を経たへび」とも呼ばれ,神はエデンの園でこの者に次の宣告を与えられたからです,「わたしは恨みをおく,おまえと女とのあいだに,おまえのすえと女のすえとの間に。彼〔女のすえ〕はおまえのかしらを砕き」。(創世 3:15,新口)蛇にとってそれは踏みつけられて死ぬことを意味します。「年を経たへび」,サタン悪魔にとってそれは,神の「女」のすえが父なる神にかわる刑の執行者として行動をおこす時に,非業の死をとげることを象徴しています。
7 大いなるへびサタンを将来殺すことの益について,どんな疑問が起きますか。だれがそれに答えますか。
7 人類の敵が将来に滅ぼされてしまうならば,その滅びの後に地上に住む人々にとって,それは益となるでしょう。しかし過去6000年のあいだに死んだ無数の人々や,サタン悪魔の生命が絶たれる前に死ぬかも知れない人々にとって,それは何の益になりますか。サタン悪魔はやがて滅ぼされます。その後はもう害を与えないでしょう。しかしすでに死んで墓に横たわっているすべての人の受けた害は,サタンの将来の滅びによってどのように取り除かれますか。エホバ神もそのことをお考えになって,私たちの益のためそれに答えることをされました。
どちらが先に滅びるか
8 (イ)どちらが先に砕かれますか。かかとを砕かれることは,すえにとって何を意味しますか。(ロ)どのようにしてのみ,砕かれたすえは後にへびのかしらを砕くことができますか。
8 神は「年を経たへび」であるサタン悪魔が神の「女」のすえによって滅ぼされると言われただけでなく,次のことをも言われました。「おまえは彼のかかとを砕くであろう」。神の「女」のすえがまず蛇のかしらを砕くならば,蛇は死んでしまいすえのかかとを砕くことはもちろん出来ません。そこで実際には,蛇が神の「女」のすえのかかとを砕くことが先に起こるのです。このかかとを砕くことは,すえ,すなわち神の御子にとって何を意味しますか。それは死を意味します。死? そうです。しかしすえが蛇にかまれて先に死ぬならば,すえはどうして後に蛇のかしらを砕くことができますか。神の再創造の力によって生き返らされるよりほかありません。それは神の力による死者の復活を意味します。これはエデンの園において神の述べられた意味深長な宣告の言葉を,私たちが解釈したものではありません。神がこの言葉を成就させた方法を見れば明らかなように,これは神ご自身の解釈です。
9,10 (イ)主要な意味において,だれのかかとが砕かれましたか。(ロ)彼はどのように神の「女」のすえでしたか。またどのように生まれて完全なアダムと等しい者になりましたか。
9 神の女のすえのかかとを砕くことは,おもに1900年前に起きました。約束されたすえは神の御子です。当時,神の子供であった人間は地上にいませんでした。アダムのために,人類は神の子供という立場を失ったからです。それでこのすえは天から来た神の子でした。天から来たゆえに,彼を生み出した母も天のものです。彼はこの母から出て来ました。それは神の象徴的な妻,すなわち目に見えない天の聖なる霊者,つまり天使から成る神の宇宙的な制度です。
10 この天的な制度は神に嫁いでいて公に神と結ばれ,破れることのない関係と従順を保っています。それは人間の妻が夫に結ばれて夫の律法に従うのと同様です。約束されたすえはこの天の制度の中でおもだった子,神のひとり子,「すべての造られたものに先だって生れたかた」であり,天の制度から地に遣わされて,人間として生まれました。(ヨハネ 3:16。コロサイ 1:15,新口)父なる神のご命令に従って彼はイエスと呼ばれた。その名前は「エホバは救いである」という意味です。地上のどんな人間もイエスの父になることはできません。それでイエスは処女から奇跡的に生まれました。このようにして血肉を持つ人となったイエスは,その天の父が完全であったゆえに完全な人となりました。(ヨハネ 1:14)人間となることによってイエスは完全なアダムに等しい者となり,また以前には長としてご自分が支配した天使たちよりも低い者となりました。
11 約束されたすえとして働くにあたって,神の御子が完全な人になることはなぜ必要でしたか。
11 しかし質問があります。神のひとり子が神の女のすえとして蛇のかしらを砕くために,天使よりも低い完全な人とならねばならなかったのはなぜですか。それはエデンの園における神のお約束の成就としてかかとを砕かれる,すなわち完全な人間として死の苦しみを受けるために必要でした。これと一致して次のように書かれています,「ただ,『しばらくの間,御使たちよりも低い者とされた』イエスが,死の苦しみのゆえに,栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは,彼が神の恵みによって,すべての人のために死を味わわれるためであった」。「このように,『子ら』が血と肉とにあずかっているので,イエスもまた同様に,同じものをそなえておられる。それは,死をもたらす手段を持つ者,すなわち悪魔を,ご自分の死によって滅ぼし…」(ヘブル 2:9,新口,14,新世)また次のようにも書かれています,「罪を犯す者は,悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは,悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」。―ヨハネ第一 3:8,新口。
12 完全な人となることによつて,神の御子はどんな犠性をささげることができましたか。それはだれを解放するためですか。
12 神の女のすえ,すなわち御子は,エデンの園で創造された時のアダムと同じ完全な生命の価値を持つ完全な人となったために,「すべての人のために死を味わ」うことができたのです。どうしてですか。御子は人類の受けついだ罪を除くためにご自分の完全な人間の生命を犠性としてエホバ神にささげることができたからです。アダムとエバの罪のために,その子孫である私たちはひとりも完全な人間の生命を持つことができませんでした。ご自分の完全な人間の生命を犠牲にして,イエスは,死にゆく人類の身代りとなりました。それは神にささげられたイエスの犠牲を受け入れるすべての人が完全な生命を再び得ることのできるためです。
13 人間として生まれたとき,神の御子は何になると発表されましたか。その直後に「年を経たへび」は何をすることをはばまれましたか。
13 イエスの生まれた時,天の御使がユダのベツレヘム近くの,神を恐れる羊飼にあらわれて,その誕生を次のように告げました,「すべての民に与えられる大きな喜びを,あなたがたに伝える。きょうダビデの町に,あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。(ルカ 2:10,11,新口)「キリスト」とは「油そそがれた者」を意味する称号です。キリストすなわち油そそがれた者が神から遣わされて来ることは,ずっと前から預言されていました。ユダヤ人はこのかたをメシヤと呼びましたが,このヘブル語の言葉の意味はギリシャ語のキリストと同じです。サタン悪魔はイエスが約束されたキリスト,あるいはメシヤであることを知りました。そこで「年を経たへび」なるサタンは2歳にもみたない「幼な子」のうちにイエスを殺そうと企てました。しかし神が幼な子のイエスを保護されたので,悪しき蛇はその時にイエスのかかとを砕くことができなかったのです。―マタイ 2:1-23。新口。
14 (イ)どのようにイエスはキリストとなりましたか。(ロ)すえのかかとを砕くことを不必要にするため,サタン悪魔はどんな手段をとりましたか。
14 成長して30歳の完全な人となったとき,イエスはナザレでしていた大工の仕事をやめて,ヨルダン河に行き,洗礼者ヨハネの手によって洗礼を受けました。その水の洗礼の直後に神は,天から聖霊をもってイエスに油を注ぎ,イエスを油注がれた者にしました。その時から神の女のすえである神の御子は,まさしくイエス・キリストと呼ばれたのです。(マタイ 3:13-17)その後40日たって,サタン悪魔は,利己的で野心にみちた奇跡を行なわせることにより,またサタン悪魔を神と認めて崇拝するならば世界を支配させると誘惑して,神の女のすえを死に至らせようと図りました。サタンは完全なアダムを誘惑して神に対する罪を犯させましたが,この完全な人を罪に誘惑することはできませんでした。イエス・キリストは忠実にも三つの誘惑に耐えてサタンを退けたからです。(マタイ 4:1-11)全く従順であったイエス・キリストは神に罪せられることなく,死の宣告を受けなかったので,「年を経たへび」は ― 後になって ― そのかかとを砕くことが必要でした。
15 (イ)油そそがれたことと一致して,イエスは何を始めましたか。どこで?(ロ)「年を経たへび」は自分の用いるどんなすえを生み出しましたか。どんな偽りの告訴によって彼らはイエスを死なせましたか。
15 さてイエス・キリストは油そそがれた者にふさわしく神への奉仕を始め,全人類を救う唯一の政府である神の御国を伝道し始めました。また弟子たちを集めて教え,神の御国を伝道するわざに訓練しました。これは悪魔の世界のただ中,当時において世界の支配的な勢力であったローマ帝国の中で行なわれたのです。(マタイ 4:17; 10:1-7。ルカ 10:1-9)「年を経たへび」がそのすえを生み出すことをも,神は預言されていました。この大いなる蛇は,イエス自身の民と,支配した宗教家の中から,この悪魔のすえを生み出しました。ユダヤの地方を治めたローマ総督の前で彼らは,イエス・キリストが,自分の国を建ててローマのカイザルの帝国にとって代わろうとしていると訴えました。この偽りの告訴のためにイエスはエルサレムの町の外で杭につけられ,極悪の反逆者のように,人々に見さげられて死にました。
16 それはいつでしたか。神はその日に何が起きることを許しましたか。
16 それは西暦33年4月1日,金曜日のことでした。イエスは無罪でしたが,神は女のすえをこの残酷な死から救うために介入することをされませんでした。昔から告げられていた御目的通り,神は「年を経たへび」が約束のすえのかかとを砕くことをお許しになったのです。(ヨハネ 18:12–19:37)神を恐れる人々が永遠の生命を得る希望は,イエス・キリストの死と共に無くなったように見えました。
17 神のエデンの約束のうち,他のどんな部分がなお成就されるはずでしたか。神はどのようにその成就をはかりましたか。
17 神は預言された通り,「年を経たへび」が女のすえを砕くことをお許しになりました。そこでエデンの預言の他の部分,すなわち女のすえが時をへてこの大いなる蛇のかしらを砕くという預言の成就は,神に依存していました。そのためにイエスの死は,かかとを砕かれることだけにとどまらねばなりません。神の目から見てそれは犠牲の死,無罪の人の死でした。罪のないイエスがその死につながれていることは正しくありません。イエスは,アダムのように神が永遠の死にとどめておくべき意識的な罪人ではないからです。従って預言されていた時,すなわち死んで三日目に,全能の神はご自分のすえである御子を死からよみがえらせました。
18 (イ)イエスが永久に死につながれていることは不可能であること,およびイエスの受けた復活の種類についてペテロは何と言いましたか。(ロ)人類があがなわれることは,どうしてこの復活により可能となりましたか。
18 シモン・ペテロと呼ばれたイエスの弟子の一人は,この驚くべき奇跡のことを,次のように述べています,「ナザレのイエスは,汝らの知るごとく,神かれに由りて汝らの中に行い給ひし能力ある業と不思議と徴とをもて汝らに証し給へる人なり。この人は神の定め給ひし御旨と預じめ知り給ふ所とによりて付されしが,汝ら不法の人の手をもて釘磔にして殺せり。然れど神は死の苦難を解きて之を甦へらせ給へり。彼は死に繫れをるべき者ならざりしなり。…神はこのイエスを甦へらせ給へり,我らは皆その証人なり」。(使行 2:22-32)イエスは「御使たちよりも低い」人間によみがえされたのではなく,大いなる蛇であるサタンよりも力の強い霊的な御子によみがえされました。この同じシモン・ペテロは次のように語っています,「キリストも,あなたがたを神に近づけようとして,自らは義なるかたであるのに,不義なる人々のために,ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし,肉においては殺されたが,霊においては生かされたのである」。(ペテロ前 3:18,新口)このようにしてイエスの完全な人間の生命は犠牲としてとどまり,復活して40日後に天に戻ったイエスは人類をあがなうために,その価値を神にささげることができました。
19 (イ)その時以来,サタンはだれを砕いてきましたか。しかし今では何を待っていますか。(ロ)サタンに対するこの処置は,どんな象徴によって弟子のヨハネに示されましたか。
19 大いなる蛇であるサタンが,神の女の御子のかかとを砕くことは,もはやできません。次のように書かれています,「キリストは,死人の中からよみがえらされて,もはや死ぬことがなく,死はもはや彼を支配しないことを,知っている」。(ロマ 6:9,新口)大いなる蛇はその後キリストの忠実な弟子たちのかかとを砕くことを許されてきましたが,サタンは今や復活して不滅性を持つ神の女の御子の手によってかしらを砕かれるのを待つばかりです。イエスの復活と昇天後何年もたって弟子のヨハネに与えられた預言的な幻は,「年を経たへび」なるサタンが天における神の御国の誕生後に天から追い落されたことを示しています。それからサタンは捕えられて,キリストの支配する千年のあいだ底知れぬ所に入れられて無力にされ,ついでゲヘナに落とされて永遠の滅びを受けることが,その幻の中で示された。
20 (イ)完全に砕かれたのち,サタンはもはやだれに干渉することがありませんか。(ロ)「いのちの言葉」が最初に与えられた時に関して,私たちはいま何を理解することができますか。
20 この順序で大いなる蛇サタンはそのかしらを完全に砕かれるのです。それで再び完全な人間となって全地にひろがる楽園に住むあがなわれた人類は,二度とサタンからの干渉を受けません。(黙示 12:7-17; 20:1-10)この記事のはじめのほうで,「いのちの言葉」は死が人間家族にはいってから間もなく,人類の最大の友,エホバ神によって与えられたと述べた理由がこれで理解できます。エデンの園においてその言葉は与えられました。
「いのちの言葉」をどうするか
21 (イ)希望を与えるこの知らせをどこから得ることができますか。(ロ)創世記から黙示録に至るまで聖書の本66冊の全体を通して,どんなすばらしい事が語られていますか。
21 しかし希望を与えるこの知らせはどこから得られますか。それは生命の偉大な与え主エホバ神の霊感によって書かれた本から得られます。それはこの輝かしい「いのちの言葉」をおさめた,全世界で唯一の本すなわち聖書です。ヘブル語で書かれた創世記と呼ばれる聖書の最初の本は,神の子のすえが蛇のかしらを砕くという神のエデンの御約束を述べています。19世紀前,最初通俗のギリシャ語で書かれた黙示録と呼ばれる聖書の最後の本は,「年を経たへび」サタンがその悪鬼たちと共に遂にかしらを砕かれて全くうせはてることを幻の中で述べています。神はご自分のすえイエス・キリストを通して人類のために救いを備えられました。そのご準備によって人類は死から永遠に救われ,また「年を経たへび」サタン悪魔の束縛から解放されて,神の天の御国の下に地上において平和で幸福な生活を,永遠に楽しむことができるのです。霊感を受けた聖書の本66冊,全部はこのすばらしい事柄を物語っています。
22 聖書はどんな種類の言葉と言えますか。なぜ正しくそう言うことができますか。
22 従って霊感を受けて書かれた聖書全体を「いのちの言葉」と呼ぶことができます。そう呼ぶのは正しいことです。聖書は神の愛にみちたご親切による賜物だからです。そのことについて次のように書かれています,「永遠の昔にイエス・キリストにあってわたしたちに賜わっていた恵み,そして今や,わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし,福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」。(テモテ後 1:9,10,新口)聖書のほかに今日,「いのちの言葉」はありません。
23,24 (イ)「いのちの言葉」から益を受けるため私たちはそれをどうしなければなりませんか。(ロ)その言葉の中でさしのぶられている生命を得るため,どんな武器を用いて戦わねばなりませんか。
23 神の愛あるご親切によってこの「いのちの言葉」を持つ私たちは,それをどうすべきですか。私たちは死にゆく人間世界の中に住み,近づいている「全能の神の大いなる日の戦闘」のときに滅びるこの古い組織制度の終りの日を目のあたりに見ています。「いのちの言葉」から益を得て,その中に約束された神の新しい組織制度に永遠の生命を得たいと望むならば,私たちはたしかに「いのちの言葉」に固くつき従わなければなりません。この悪い組織制度と共に滅ぼされることなく,このような永遠の生命にふさわしい者であることを証明するために,私たちはこの言葉と一致した生活を送らなければなりません。神の霊的な子供となった人々にむかって,霊感を受けた使徒パウロは次の言葉を書き送っています,「すべてのことを,つぶやかず疑わないでしなさい。それは,あなたがたが責められるところのない純真な者となり,曲った邪悪な時代のただ中にあって,傷のない神の子となるためである。あなたがたは,いのちの言葉を堅く持って,彼らの間で星のようにこの世に輝いている」。(ピリピ 2:14-16,新口)この事をするならば,私たちは与えられた「いのちの言葉」を無駄にしたことにはなりません。私たちはこの生命を得るためにある意味で戦わねばなりません。そしてこの戦いに成功する手だてを持っています。それは何ですか。
24 使徒パウロは「いのちの言葉」すなわち神の言葉を「神の武具」のひとつである剣にたとえています。パウロはこう語っています,「また,救のかぶとをかぶり,御霊の剣,すなわち,神の言を取りなさい」。(エペソ 6:11-17,新口)生命のために戦いつづけ,象徴的な剣をたたき落されることのないように,「いのちの言葉を堅く持つ」ことが必要です。
25 (イ)「いのちの言葉」を自分のものだけにしておくべきかどうかは,どんな個人的な経験から知ることができますか。(ロ)「いのちの言葉」をどうすべきかについて,だれが親しく私たちに告げましたか。
25 しかしそれは「いのちの言葉」を自分だけのものにして,自分自身の救い,自分が永遠の生命を得ることだけに関心を持つという意味ですか。そのようにして私たちは「いのちの言葉」を手に入れましたか ― この言葉を持つ他の人々がそれを独り占めにしたため,エホバ神ご自身が私たちのもとに来られて手ずから「いのちの言葉」を与えられましたか。全くのところ私たちは否と答えざるを得ません。永遠の生命を私たちにもたらす神の手段であるイエス・キリストは,「いのちの言葉」をどうすべきかを私たちに告げられました。
26 (イ)私たちが生命を得ることはイエスと関連しています。それはイエスを指して用いられるどんな表現からも分かりますか。(ロ)イエスは自分一人で生命を楽しみましたか。また生命をもたらす手だてであるご自身をどのように描写しましたか。
26 イエス・キリストご自身が「いのちの言葉」と呼ばれています。エホバ神の代弁者であるイエスは「神の言」と呼ばれています。天におけるその公の称号は「言」でした。(黙示 19:11-13。ヨハネ 1:1,新口)神の新しい組織制度で永遠の生命を受けつぐ人々にむかって使徒ヨハネは,19世紀前のイエスの地上の臨在について次の事を書いています,「初めからあったもの,わたしたちが聞いたもの,目で見たもの,よく見て手でさわったもの,すなわち,いのちの言について ― このいのちが現れたので,この永遠のいのちをわたしたちは見て,そのあかしをし,かつ,あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは,父と共にいましたが,今やわたしたちに現れたものである ―」。(ヨハネ第一 1:1,2,新口)地上でイエスは言われました,「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である……わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」。(ヨハネ 6:51,57)神の御子は,利己的にも自分だけが生命を楽しむことをしませんでした。彼は私たちに生命を与えるために遣わされて来たのです。
27 (イ)「いのちの言葉」をどうすべきかについて,イエスはどんな最後の命令を与えましたか。(ロ)このように世界的にひろめる事自体は,なぜほめるべきことですか。
27 イエス自身,天から遣わされて,ご自分の中に宿る生命を与えるために来られました。そのようにイエスは「いのちの言葉」を持つ人々を遣わして,他の人々にその言葉を与えさせます。書かれた神の言葉の中から最後の教訓を弟子たちに与えたとき,イエス・キリストはこう言われました,「こう,しるしてある。キリストは苦しみを受けて,三日目に死人の中からよみがえる。そして,その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが,エルサレムからはじまって,もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは,これらの事の証人である」。(ルカ 24:46-48,新口)「ただ,聖霊があなたがたにくだる時,あなたがたは力を受けて,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,さらに地のはてまで,わたしの証人となるでしょう」。(使行 1:8,新口)イエスの追随者は,一致して「いのちの言葉」を地のはてにまで,宣べ伝えることを命ぜられました。このように宣べ伝えるのは全く正しいことでした。この言葉は全人類にとって生命の言葉だからです。
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死にゆく世界で「生命の言葉」をひろめるものみの塔 1962 | 3月15日
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死にゆく世界で「生命の言葉」をひろめる
1 人間の生存の音信は,今日どのようにひろめられていますか。それはどこにありますか。
軍事家,科学者,経済学者の言葉から判断するならば,今日,人類の生存は疑問視されています。しかしその人々の表明する恐れがどんなに不安を抱かせるものであっても,権威のある生存の音信がいま宣べ伝えられています。ゆえに人類の生存を信じる人々が今日,存在しているのです。このような注目すべき信念を持つ少数者の声が今日広く聞かれます。彼らは至るところで「いのちの言葉」をひろめています。この生命を与える言葉は,生命の源エホバ神の与え給うた言葉,聖書の中におさめられています。
2 (イ)「いのちの言葉」をひろめることには,当然何の配布がともないますか。(ロ)ヤコブの手紙の冒頭の句およびその書かれた時を考えると,それが配布されたことはどうして分かりますか。
2 「いのちの言葉」が聖書の頁におさめられている以上,「いのちの言葉」をひろめるには当然,聖書を出版し,頒布しなければなりません。この本は至るところにひろめられるために書かれました。この本の中にある色々な預言から見て,その事は明らかです。聖書におさめられた数多くの手紙の冒頭の句は,その事を示しています。たとえば弟子ヤコブはクリスチャン,イスラエルの象徴的な「十二部族」に手紙を送り,その冒頭にこう述べています,「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから,離散している十二部族の人々へ,あいさつをおくる」。(ヤコブ 1:1,新口)この「部族」は当時どのぐらい広く離散していましたか。特にヤコブが西暦60年頃,すなわち五旬節の日,エルサレムにおいて聖霊のそそがれた時から約27年を経てこの手紙を書いたとすれば,どういう事が言えますか。五旬節の日,およそ3000人のユダヤ人と改宗者が,イエスを主または師,かつメシヤあるいはキリスト,神の子として受け入れて改宗しました。使徒行伝 2章5節から11節(新口)によれば,それは「天下のあらゆる国々」すなわちパルテヤ,メジヤ,エラム,メソポタミヤ,カパドキヤ,ポント,アジア,フルギヤ,エジプト,リビヤ,ローマ,クレテとアラビヤから来た人々でした。五旬節の祭を終えてから,人々はエルサレムを去ってこれらの遠い国々へと帰ってゆきました。ヤコブの手紙は,霊的イスラエルの「十二部族」である信者すべてに届くように,写しを作って広く行き渡らせることが必要でした。
3 (イ)ヘブル人への手紙がヤコブの手紙と同じく流布されたのはなぜですか。(ロ)ペテロの最初の手紙を流布することはなぜ必要でしたか。
3 同様に聖書の58番目の本はヘブル人すなわちヘブル人のクリスチャンに直接に宛てられています。この手紙がヘブル人のクリスチャンの手に届くためにはヤコブの手紙と同じく流布されなければなりません。(ヘブル 1:1)使徒ペテロの最初の手紙の冒頭の句は次のようです「イエス・キリストの使徒ペテロから,ポント,ガラテヤ,カパドキヤ,アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち,すなわち…父なる神の予知されたところによって選ばれ…ている人たちへ」。(ペテロ前 1:1,2,新口)このようにペテロの手紙は流布されることが必要でした。その元の手紙が会衆から会衆へとゆっくり回覧されたのでなければ,写しを作って,手紙の冒頭にあげられているすべての会衆に分けたに違いありません。
4 (イ)聖書の最後の本もまた,どうしてひろめることが必要でしたか。(ロ)パウロはその手紙を広く読むことを,どのようにすすめていますか。バビロンにいてパウロの手紙をよく知っていたのはだれでしたか。
4 聖書の最後の本であるヨハネに与えられた黙示は,ヨハネから「アジヤにある七つの教会」すなわちエペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,ヒラデルヒヤ,ラオデキヤにある教会に送られたものです。従って「いのちの言葉」の最後の本も流布を必要としました。使徒パウロは偉大な手紙の書き手であり,クリスチャン・ギリシャ語聖書中の14通の手紙を書いています。パウロはロマ人,コリント人,ガラテヤ人,エペソ人,ピリピ人,コロサイ人,テサロニケ人およびヘブル人一般に手紙を書いていますから,特にその手紙の流布をすすめました。コロサイにいるクリスチャンに宛てた手紙の結びの句の中でパウロは次のように述べています,「この手紙があなたがたの所で朗読されたら,ラオデキヤの教会でも朗読されるように,取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を,あなたがたも朗読してほしい」。(コロサイ 4:16,新口)使徒ペテロでさえ,メソポタミヤのバビロンから手紙を書いた時,パウロの手紙に通じていたことを述べています。(ペテロ後 3:15。ペテロ前 5:13)すべての証拠に照らして明らかなように,1世紀のクリスチャンは,「いのちの言葉」をこの死にゆく世界にいる他の人々に分かちました。
5 (イ)クリスチャン・ギリシャ語聖書のどんな写本が現存していますか。(ロ)聖書を写すことについて言えば,クリスチャンの写本家にはどんな先例がありましたか。その人々はどのようにして聖書の全部を作ることができましたか。
5 クリスチャン・ギリシャ語聖書におさめられた27冊の本の写本は今でも4000余り現存しています。しかし1世紀のものはひとつもありません。このほかラテン語に訳されたものの写本が約8000,他の言語のものが1000余り存在しています。写本を作ることについて言えば,はじめユダヤ人,すなわちヘブル人から成っていた初期クリスチャンには,ユダヤの法学者すなわちソヘリムの前例がありました。ソヘリムは祭司の写本家エズラの時代から,霊感されたヘブル語聖書を,ユダヤ人の会堂用に手で書き写してきました。会堂はユダヤ人の散らされて行った先々で,ローマ帝国の内外至るところに設立されました。それで小アジア,ピシデヤのアンテオケでも,マケドニヤのベロアでも,あるいはイタリアのローマにおいても,会堂にはいるとヘブル語聖書の朗読を聞くことができたのです。(使行 13:14,15; 17:10,11; 28:16-23)ゆえにヘブル語聖書は当時の世界中にひろまっていました。従ってクリスチャンの写本家は,クリスチャン・ギリシャ語聖書を書き写すほかにも,ユダヤ人の売り手から写本を買えない場合には,霊感されたヘブル語聖書あるいはギリシャ語七十人訳の写本をも作ることができました。このようにして霊感された66冊の本から成る聖書全部の写本を作ることができたのです。
6 ひろめることについては,クリスチャンはどのようにユダヤ人とは異なった命令を与えられていますか。(ロ)試みにあった時のイエスが示したように,この「いのちの言葉」はどんな種類の言葉ですか。
6 モーセの律法の下においてユダヤ人は交わらないでいること,すなわち異邦人から離れることを命ぜられていました。しかし偉大なるモーセ,イエス・キリストとその12使徒の命令の下にあるクリスチャン会衆は,外に出て一致のうちに,地上最大の宣べ伝える制度,すなわち「いのちの言葉」である神の御国のよいたよりを,死にゆく世界のすべてに宣べ伝えるクリスチャンの制度になることを命ぜられています。この「いのちの言葉」は代々,語り伝えられてきた単なる言伝えではありません。それは書かれた言葉であり,時を経ても事情が変わっても不変のものです。また読むこと,分析すること,聖書の預言の成就とくらべることのできるものです。それゆえに「神の言」また「いのちの言葉」と呼ばれたイエス・キリストご自身も,「と書いてある」と繰り返し述べて,悪魔の誘惑を退けることができました。そしてイエスは書かれた聖書 ― 聖なる書き物 ― から引用されたのです。―マタイ 4:1-10,新口。
7 (イ)いまの時代における良いたよりについて,イエスは何を預言しましたか。(ロ)それをなし遂げるためには何が必要でしたか。現在までにこれはどの程度行なわれましたか。
7 世界戦争,ききん,疫病,地震,ハルマゲドンの宇宙戦争における終りを目前にした諸国民の悩みなどそのすべてを経験した今の時代を見越してイエスは言われました,「こうして,福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない」。(マルコ 13:8-13,新口)キリストの治める神の御国を通して与えられる永遠の生命の良い音信が,すべての国民に宣べ伝えられ,理解されるためには,それを人々の言葉にほん訳することが必要でした。このため,そしてまた聖書は神が全世界にお与えになった音信であるゆえに,人間の歴史の中で他のどの本よりも多くの言語にほん訳されてきたのです。1961年現在において,聖書の全部また一部は,1165の言語と方言に訳されています。それで地上のすべての人が自分の国語を読むことを習ったとすれば,世界人口の90パーセントに当たる人々が聖書を読めるのです。
8 アジア,アフリカ,大洋の島々の人々のために聖書をほん訳することに関して,何が報告されていますか。
8 現在100ちかくの宗教団体に1000人のほん訳者がいて,その中には40の異なった国籍の人々がいると報告されています。それらのほん訳者はアフリカ,アジア,大洋の島々の人のために,聖書の権威あるほん訳,欽定訳とも言うべきものを準備しています。人々のために聖書をほん訳するにあたって学問上また技術上の援助を与えるため,聖書協会は「その長い歴史の上でも先例のない拡大と協力の段階を迎えた」と言われています。
9 聖書協会が設立されたのは特に何時ですか。ローマ法王はこのような協会について何と言いましたか。
9 聖書協会は特に前世紀の初頭に設立されました。これらの協会はバチカンの法王またローマ・カトリック教職制度の是認を受けるに至りませんでした。西暦1825年,アイルランドのローマ・カトリック教職者に送った教書の中で,法王レオ12世は次のことを述べています。「俗に聖書協会と呼ばれるある協会は,ふらちにも世界中に勢力をのばしている。法王の伝統を軽視し,衆知のトレント会議の定めを破ってこの協会は,ひとつの目的 ― ほん訳というよりはむしろ聖書を曲げて全国民の通俗の言葉にかえること ― のために力を結集し,努力を傾けている」。のちの法王ピオ9世は「いのちの言葉」に対して次のような態度を表明しています。「聖書協会と呼ばれるきわめて巧妙かつ欺瞞的な協会はのろわれよ。彼らは無経験な若者の手に聖書を押しつけている」。a
10 カトリックの否認にもかかわらず,どんなわざがすすめられましたか。そしてヨーロッパとアメリカには何が設立されましたか。
10 ローマ・カトリック教会の否認と反対にもかかわらず,「いのちの言葉」を翻訳してひろめるわざは進められました。イタリア語の聖書は西暦1500年以前に何回も版を重ねドイツ語の聖書も,かつて僧侶だったマルチン・ルーテルの翻訳が世に出る前に18の版を重ねています。1804年,ニュールンベルクにおいてバーズル聖書協会が設立されました。その同じ年,ロンドンに英国および外国聖書協会が設立されています。これはヨーロッパ大陸の聖書協会を財政的に援助しました。アメリカにおいて最も早くには1808年,フィラデルフィアに聖書協会の創立を見,ついで1809年にはニューヨーク聖書協会,1816年にはアメリカ聖書協会が設立されました。コペンハーゲンのデンマーク聖書協会およびスウェーデン聖書協会は1814年にそれぞれ生まれました。ハンブルク・アルトナ聖書協会とアムステルダムのオランダ聖書協会も同じ年に設立されています。パリ・プロテスタント聖書協会がフランス政府の認可を得たのは1818年のことです。その後ヨーロッパでは数多くの聖書協会が作られました。しかし大英百科辞典(英文)(11版第3巻)の907頁には次のことが書かれています。「そのあるものは政治家または教会の反対にあって遂に解散したか,あるいは抑圧されてしまった。特に敵意を示したのはローマ教会である」。
11 1884年どんな協会が法人化されましたか。それは今日まで何を印刷してきましたか。
11 比較的におそく,しかし神の時の予定に従って1884年,ペンシルバニア州ピッツバーグにおいて,今日「ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会」と呼ばれる法人が形成されました。ローマ・カトリックの教職者や新教の牧師から攻撃の的にされたにもかかわらず「ものみの塔協会」は今日に至るまで聖書の印刷をつづけ,エホバの証者の用いる出版機関となっています。
12 聖書協会の設立以来,配布された聖書の数はどんな大きなものになっていますか。これは世界人口の増加とどのようにくらべられますか。
12 これらすべての聖書協会の設立以来,出版され配布された聖書の数はぼう大なもので,聖書はその全部あるいは一部が20億冊もすでに配布されています。過去1年間に,全部の聖書協会が世界中で配布した聖書は,3000万刷に上ります。その多くは新約聖書,すなわちクリスチャン・ギリシャ語聖書でした。しかし世界人ロは毎年4500万人ずつ増加しています。つまり聖書の数とくらべると3分の1だけ多い数です。従って聖書の生産は世界人口の増加に追いついていません。しかも世界人口の増加の多くは鉄と竹のカーテンの背後にある共産主義のロシアと中共において見られ,聖書はこれらの人々の手になかなか渡らないという事を考えるべきです。
13 ある聖書協会の経験からわかる通り,どのようにもっと多くの聖書が求められていますか。
13 もっと多くの聖書を配布する必要が叫ばれています。ある聖書協会の報告によると,「政治情勢の緊迫した地域や革命の起きた地域において,聖書の頒布は驚くほどの増加を見せ」ました。たとえばキューバとアフリカのコンゴで協会の在庫はなくなり,情勢の不安なこれら地域の宗教団体の需要に応ずるため,改版の新しい聖書を空輸することも時に必要でした。また75ヵ国の他の聖書協会と協力してこの団体は昨年,2300万冊の聖書を配布しました。これは1959年における配布数にくらべて32パーセントの増加に当たります。―1961年5月12日付ニューヨーク・タイムス。
それを無駄なものにしない
14 このように多くの聖書を配布しても,その多くが無駄に終わったかも知れないのはなぜですか。どのようにしてのみ,聖書を理解できますか。
14 ここでいくらかの質問をすることが適当です。このぼう大な聖書の配布のうち,どれだけが無駄なものに終わりましたか。最近は「読書の爆発的な人気」という事が言われている折から,聖書を読む人はふえているに違いありません。しかし聖書を読むだけで人は生命を得ることができますか。熱意と認識をもって聖書を読み始めた人も,しばらくするとやめてしまい,聖書を本棚の上に置いたままにしてしまうのではないでしょうか。自分一人で読むことによって,聖書を理解し,調和させることができますか。神はひとりの人にではなくて一民族に聖書をお与えになりました。それはまず,ヘブル民族に与えられ,次にはペテロが神の「聖なる国民」と呼んだ人々,肉にではなくて心に割礼を持つ「神のイスラエルに」に与えられたのです。従ってこれは制度の本です。神の聖霊にみたされた,神の真の見える制度と共に学んでのみ,聖書を理解することができます。―ペテロ前 2:9。ガラテヤ 6:12-16,新口。
15 だれかの助けなしに聖書を理解できないことは,聖書を読んでいたエチオピヤ人のどんな例から分かりますか。
15 聖書を読んでいたエチオピヤの人のことを心に留めて下さい。この人はエルサレムの宮に行って帰りの道すがら,馬車の中でイザヤの預言を声高く読んでいました。神の天使に導かれたクリスチャンの福音伝道者ピリポは馬車に近寄って声をかけ,エチオピヤの宮廷に仕えるこの人に,読んでいることがお分かりですかと尋ねました。エチオピヤの人は「だれかが,手びきをしてくれなければ,どうしてわかりましょう」と正直に答えました。そしてピリポを馬車に乗せ,ピリポがクリスチャンの見地から預言を説明するのに耳を傾けました。さて理解を得たこの人は,「神の言」イエス・キリストの追随者になりたいと望むようになり,水のある所に来たとき「わたしがバプテスマを受けるのに,なんのさしつかえがありますか」と尋ねたのです。洗礼を施してからピリポはこの人を離れ,エチオピヤ人は喜びながら旅をつづけました。―使行 8:26-39,新口。
16 聖書を読んでいたベレヤのユダヤ人の場合からも分かる通り,聖書を理解するにはだれの説明が必要でしたか。
16 マケドニヤのベレヤで聖書を読んでいたユダヤ人のことを考えて下さい。その人々は会堂で律法と預言書の朗読を聞き,自分で聖書を調べましたが,少しも理解できなかったのです。そこへ使徒パウロが来て,会堂にはいりました。パウロの語った事柄はその人々にとって耳新しく,異なった事でした。しかしそうであっても,彼らはすなおでした。どのようにですか。「心から教を受けいれ,果してそのとおりかどうかを知ろうとして,日々聖書を調べていた。そういうわけで,彼らのうちの多くの者が信者になった。また,ギリシャの貴婦人や男子で信じた者も,少なくなかった」。(使行 17:10-12,新口)聖書を理解して救われるために,人々は神の制度を通して聖書を説明してもらうことが必要でした。
17 ユダヤ人の会堂およびキリスト教国の教会や家庭において聖書を読むことについて,どんな質問をしなければなりませんか。
17 その時から19世紀を経て今日に至るまでユダヤ人の会堂では律法と預言書と詩篇が朗読され,ラビたちの説明が加えられてきました。しかしその事はユダヤ人を救いましたか。教会またユダヤ人でない人々の家庭において,ヘブル語およびクリスチャン・ギリシャ語の両方の部分を含む完結した聖書を読むことについて言えば,キリスト教国の数多い宗派に属する何億という人々は,聖書を読み,また聞くことによって救いを見出していますか。
18 このような聖書の朗読が無駄に終わっていることは,何を見るとき明らですか。
18 この混乱した時代において,宗教的に聖書を読む人々は今の時代の最重要な問題に面して正しい決定を下すことができますか。私たちはいま「組織制度の終り」の時に住んでいます。また宇宙的な至上権を持つのはエホバ神か,サタン悪魔かという至上の論争に関して,諸国民は神の前に裁かれているのです。キリスト教国の宗教組織につながりを持つ人々は聖書を読み,また聖書の朗読を聞きます。しかしそれにもかかわらず,人々は無神論者,不可知論者,懐疑論者,異教徒と同じく,依然としてこの古い世にならっています。人々は神の国の側に来て,「全能の神の大なる日の戦闘」を迎える準備をととのえていません。神の御国のよいたよりはすべての国民に対してあかしとなるために,いま宣べ伝えられているのです。(マタイ 24:14)人々が自分で聖書を読んでいても無駄に終わることは明らかです。では何が必要ですか。
19 (イ)聖書そのものの配布は,どのようにほむべきことですか。(ロ)しかしエチオピヤ人や聖書を読んでいたベレヤ人の例から分かる通り,聖書のほかにも何が必要ですか。
19 あのエチオピヤ人や聖書を読んでいたベレヤの人々の場合と同じく,神の聖霊に満ちて神の導きを受けている教訓者,導き手,教える者が必要です。ピリポやパウロはそのような人でした。ピリポとパウロはもはや捨てられたユダヤ人の宗教組織の者ではなく,神があらたに選ばれた組織すなわち「選ばれた種族」「聖なる国民」「神につける民」のものであって,神の聖霊に満ちていました。聖書を翻訳して出版し,配布するのは確かにほこるべきことです。このようなことをするとすれば,聖書にまさる本はありません。聖書は象徴的に「御霊の剣」と呼ばれています。軍備競争に携わって,人々を傷つけ,不具にし,殺すだけの武器を作るよりも,「御霊の剣」を作ってひろめるほうが確かにまさっています。しかし聖書とともに他のものも必要です。それはキリスト教国やユダヤ教の指導者の言伝えではありません。聖書と共に必要なものは,献身して洗礼を受けた神の制度の人です。神はその人々を遣わして伝道と教えるわざを行なわせます。
20 イエスが追随者に告げたどんな別れの言葉は,今でも適用されますか。従って聖書の配布と共に何が必要ですか。
20 追随者に告げられたイエスの別れの言葉は19世紀を経た今日でも,同じく力強く,同じく適用されるものです。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ 28:19,20,新口)いまの「組織制度の終り」の時に至っても,書かれた神の言葉,聖書のほかに,遣わされた者のなす教えるわざが必要です。
21 生命の言葉を読むだけの者,聞くだけの者とそれを行なう者について,パウロとヤコブの言葉は何を示していますか。
21 パウロの言葉を思い起こして下さい「なぜなら,神には,かたより見ることがないからである。そのわけは,律法なしに罪を犯した者は,また律法なしに滅び,律法のもとで罪を犯した者は,律法によってさばかれる。なぜなら律法を聞く者〔しかしそのもとで罪を犯す者〕が,神の前に義なるものではなく,律法を行う者が,義とされるからである」。(ロマ 2:11-13,新口)またヤコブも次のように述べています,「そして,御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は,ちょうど,自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると,そのとたんに,自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して,完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は,聞いて忘れてしまう人ではなくて,実際に行う人である。こういう人は,その行いによって祝福される」。(ヤコブ 1:22-25,新口)従って聖書を単に読む人や聖書を聞くだけの人ではなくて,生命の言葉を行なう人が是認を受け,生命の報いを得るのです。
22 (イ)それでは聖書の出版と配布のほかに何をしなければなりませんか。(ロ)また聖書を説明する本を配布するほかに何が必要ですか。
22 それではどういう事になりますか。私たちは聖書を出版し,ひろめるだけでなくて,聖書に生きなければなりません。聖書を人々の家に配布するだけでなく,再び訪問して,人々が読むために,私たちの渡した聖書を理解できるように援助しなければなりません。解明された聖句とこの「組織制度の終り」の時に成就している預言に従って聖書の真理を悟るように,家庭聖書研究をとりきめることが必要です。神が選び,「いのちの言葉」をひろめるためお用いになっている見える制度に対して神のなさる事柄に従って真理を悟るように,人々を援助しなければなりません。また聖書の手引を出版するにとどまらず,聖書を読む人々がこれらの説明の本をも理解し,その中に述べられている事を自分の聖書によって証明できるように援助しなければなりません。
23 (イ)私たちすべてはどんな面で,地上最大の聖書の教師にならうべきですか。(ロ)そうするとき,私たち全部は何をひろめますか。
23 この活動をするとき,私たちは地上最大の聖書の教師,人となった神の言葉,イエス・キリストにならわなければなりません。神がご自分の霊をイエスの上にそそがれたとき,イエスは伝道の使命を与えられました。(イザヤ 61:1-3。ルカ 4:16-21)イエスが聖書を人々の手に渡したという記録がなくても,イエスは与えられた使命を全うしました。イエスは聖書を作る事と配布する事を当時のユダヤ人の学者や写本家に任せました。イエスは聖書を写すことや,写本を作ることではなくて,聖書からすでに書き写された事柄を教えるわざに専念したのです。イエスは人々の持っていた聖書や,会堂に備えられていた聖書を使いました。(ルカ 4:17,20)私たち全部が聖書を印刷できるわけではありません。しかし私たちは聖書を配布し,特に聖書を教えることができます。これは今日,私たちが特に「いのちの言葉」をひろめることのできる方法です。
24 家から家の伝道においてエホバの証者が使う聖書のほん訳については,どんな事実がありますか。
24 「しかしエホバの証者には自分の聖書のほん訳があって,それを使っている」とある人々は批評し,聖書を教えるエホバの証者のわざに偏見を抱かせて,他の人々をつまずかせようと努めます。聖書そのものが示している如く,聖書はモーセから始まって聖書の最後の本を書いた使徒ヨハネに至るまで,エホバの証者によって書かれました。そして原語(ヘブル語,アラミヤ語,ギリシャ語)で書かれました。しかし現在ある数多くの聖書のほん訳は,だれの手になるものですか。エホバの証者と主張する人々の手になるものですか。そうではありません。その大部分はキリスト教国の宗派に属する人々の手によって作られたものです。今日エホバの証者は命ぜられた教えるわざを158の言語で行なっており,自分たちのほん訳ではなくて,すでにある1165のほん訳を使っています。家から家に伝道するときに訪れる家庭に聖書があるならば,エホバの証者はその聖書を使います。また「いのちの言葉」を学ぶ家庭研究を司会するときにも,家の人が自分の聖書を使うことをすすめます。しかもこのような聖書を用いてエホバの証者は,神の設立された,キリストによる御国の同じ良いたよりを教えることができるのです。
25,26 (イ)エホバの証者の用いている法的な団体は何ですか。聖書のほん訳の印刷に関して,この団体はどんな記録を持っていますか。(ロ)御国の音信を伝道するにあたって,エホバの証者はどんな聖書のほん訳を使いますか。
25 エホバの証者はその管理,出版をつかさどる法的な団体として,「ものみの塔聖書冊子協会」を用いています。この法人はニューヨーク市ブルックリンに所有する印刷工場で,英語の聖書をつくっています。この協会が法人化されて42年の後,はじめて協会の設備を用いて聖書を印刷することが始められました。それは協会が法人となる20年前に,クリスタデルフィアンによって作られたザ・エンファティック・ダイアグロットと呼ばれるギリシャ語,英語の両方をおさめた新約聖書でした。協会は設立後58年を経て,1611年の欽定訳聖書すなわちジェームス王エピスコパリアン訳を印刷し始めました。設立後60年を経て協会は,1901年のアメリカ標準訳聖書の印刷を始めました。そして設立後77年を経たいま,すなわち1961年に協会ははじめて1冊にまとめられた新世界訳聖書を作っています。このほん訳は1950年から1960年にわたり6巻になって出たものです。これは英語の聖書です。従って今日181の国々で157の他の言語を用いて伝道し教えているエホバの証者はこれを使うことができません。
26 ゆえにエホバの証者をキリスト教国の他のすべての宗派から区別する栄光の音信すなわちエホバ神とキリストの設立された御国の良い音信を伝道し教えるために,自分自身の聖書のほん訳を持つ必要はありません。私たちは入手できるすべての言語の聖書を使います。
27 (イ)聖書のほん訳でなければ,今日の本当の問題は何ですか。(ロ)では一致してひろめる者たちは「いのちの言葉」に関して何をするべきですか。
27 今日の問題は聖書のほん訳ではなくで,聖書から御国の本当の音信を教えることです。では「いのちの言葉」を一致してひろめる皆さん,前進しつづけて下さい。どんなことがあってもその言葉を離してはなりません。しかし同時に,死にゆくこの世界において「いのちの言葉」を他の人々と分かち合うことにより,そのことをして下さい。「いのちの言葉」は全世界,すべての国民のためのものです。「異邦人よ,主の民と共に喜べ」とエホバ神ご自身が言われます。(申命 32:43。ロマ 15:10,新口)ゆえに皆さん,神の栄光ある「いのちの言葉」を一致してひろめることにより,生命を求めるすべての国民の人々を喜ばせて下さい。
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反対に耐える ― イスラエルでものみの塔 1962 | 3月15日
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反対に耐える ― イスラエルで
ある善意者は,特別開拓者と1年余り聖書の研究をして,それが真理であることを認識するようになりました。そして,夫がどんなにひどく反対しても,集会に定期的に出席し,週に1回戸別伝道をするようになりました。夫は,いつか御国会館に行ってあばれて困らしてやるんだ,ということまで言っていましたが,ほんとうに5人の友だちと一緒にめんどうを引き起こしました。おもしろくないお客さんが来るということをある善意者から知らされていたその特別開拓者は,いつもと違った気配を外に感じたときすぐにへやを出て行きました。そして男の腕をとらえて中にはいらせないようにしました。その間に兄弟たちは,ドアにかぎをかけました。男はかんかんに怒って窓をこわしはじめました。女家主が警官を呼びました。警官たちは兄弟たちにも家主にもよい態度は示しませんでしたが,私たちの味方をした家主のむすこさんとその男を警察に連れて行きました。そうしているうちに集会もすんで,3人の兄弟が警察に行きました。夫は警官のまえで妻をなぐりましたが,警官は間にはいろうとしませんでした。警官のくわしい調査と,兄弟たちのよい証言のあとで,その男は,そのようなことをする権利は全くもたないことを告げられました。彼はついに,めんどうを起こしたこと,損害を与えたことをわび,妻にキスをして,一緒に家に帰るように頼みました。妻は,警官のまえで,夫がふか酒をやめることと,すべての集会に行くことおよび週に1回奉仕に行くことを許すという条件に同意しない限り帰らないと答えました。夫はそうすることを約束し,将来自分が集会に連れて行くと言いました。約束通り彼はいま定期的に妻を集会に連れてきています。また,家主と兄弟たちに乱暴をしたことをわび,損害をすべて弁償しました。―1962年のエホバの証者の年鑑(英文)より
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