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  • 子供たちはエホバからの相続財産
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 子供たちはエホバからの相続財産

      「出て行け! 出て行くんだ! 二度と戻って来るな!」 一人の父親はこう怒鳴って16歳になる息子を家から追い出しました。

      この十代の若者は,近年,世間の注目を浴びるようになった一群の子供たちのひとりです。「くずにされた子,勘当された子,家のない若者,追い出された子,また追われた子などと呼ばれるこれらの若者たちは,自分の家族から退けられ,大抵の場合,金も持たず,着の身着のままで『出て行く』よう告げられた子供である」とパレード誌の一記事は述べています。その記事はさらにこう述べています。「子供を勘当する親の中には,二度とその子に会いたくもないし,消息も聞きたくない,と思っている者もいる」。

      今日の大人の多くは,子供たちに関して明らかに悲観的な見方をしています。あなたはこうした態度の影響を受けていますか。この質問に対してどんな答えをされるにせよ,親が子供に対して取るよう聖書が勧めている見方を検討することには益があるでしょう。

      詩篇作者は,神の霊感の下で,嫡出の子についてこう書いています。「見よ! 子らはエホバからの相続財産,胎の実は報いである」。(詩 127:3,新)ウイリアム・ゲセニウスのヘブライ語辞典によると,この場合の「相続財産」という語は,「エホバから授けられた所有物,エホバの賜物」を意味します。高価な贈り物を受け取ると,人はそれを大事にするのが普通です。もしその贈り物を手入れし,維持してゆかねばならないなら,その点で最善を尽くすでしょう。

      あなたは,お子さんを,創造者であられるエホバから与えられた相続財産のように扱っていますか。聖書はこう述べています。「子どもが親のためにではなく,親が子どものために蓄えておくべきなのです」。(コリント第二 12:14)「当然のことですが,自分に属する人びと,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」。(テモテ第一 5:8)神は,親たちが自分の子供のために,物質的にも霊的にも必要物を「蓄える」よう望んでおられます。どうすればそれを首尾よく行なえるでしょうか。

      親も子供もみな,それぞれ独自の性格を持っていますから,どの家族のどんな子供にもうまくゆく,子育ての細かい規則を示すのは不可能です。しかし,いかなる場合にも有益なことが証明されてきた,特定の基本的な指針を検討してみることにしましょう。

      意思の疎通

      勘当された子供たちを収容している施設の一カウンセラーは,その施設の職員がそうした子供たちを助けようとする方法を指摘してこう述べています。「私たちは若い人々の話に耳を傾けます。そして問題に対して理解を示し,その子がどう思っているか聞き出します」。これは“意思の疎通”として知られており,それは耳を傾けることから始まります。意思の疎通を図ることによって,あなたの家族も益を受けられるでしょう。

      平生お子さんと十分意思を通わせていますか。といっても,むだ話や,天候など当たりさわりのない事柄に関する“強いられた”会話のことではありません。本当に効果のある意思の疎通は,“心と心”を通わせるものであるべきです。それは,親子の間の偽善のない愛と愛情に根ざしていなければなりません。『心に満ちあふれているものの中から口は語る』のですから,お子さんの話す事柄に注意していれば,お子さんの情緒的,また霊的な必要をよく知ることができます。―ルカ 6:45。

      子供たちと十分意思を通わせてゆくには,多大の忍耐と努力が求められます。これを首尾よく行なうため,親は,「何事も闘争心や自己本位の気持ちから」することがないように,という聖書の助言に従わねばなりません。親は,「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人[特に自分の子供]の事にも目をとめ」るべきです。(フィリピ 2:3,4)受け継いだ罪のために,人間はだれしも,他の人よりも自分のことに関心を持つきらいがあります。親はこうした傾向と闘い,自分の子供たちが魅力を感じる事柄にもっと関心を示さねばなりません。

      「懲らしめと精神の規整」

      親の愛の見過ごせない証拠について,箴言 13章24節(新)はこう述べています。「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのである。しかし子を愛する者は,懲らしめをもってこれを捜し出す」。聖書にはほかにも似たような指針があります。「細棒と戒めは知恵を与える。放任された少年は自分の母に恥を来たらす」― 箴 29:15,新。

      ここで述べられている懲らしめとは,単に体罰だけを意味しているのではありません。もっとも,時として体罰が必要になる場合もあります。子供たちは何をすべきか,また何をすべきでないかを知っているだけでなく,ある事柄がなぜ正しいか,あるいは間違っているかを知らねばなりません。言い換えれば,子供に効果的な懲らしめを与えるには,子供が納得して受け入れられる,矯正となる助言が必要です。

      聖書のさらに述べる次の命令に従えば,その必要を満たすことができます。「父たちよ,あなたがたの子どもをいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。(エフェソス 6:4)子供たちは,人間の創造者の考え方や神の喜ばれる事柄と嫌われる事柄を学ばねばなりません。そのような精神の規整を備えるには,親自身が聖書によく通じている必要があります。

      この点と関連して有益なのは,古代イスラエルの親たちに対するモーセの次のような宣言です。「わたしが今日,あなたに命じているこれらの言葉はあなたの心にあらねばならず,また,あなたはこれをあなたの子に教え込み,家に座るときも,道を歩むときも,寝るときも,起きるときも,これについて話さなければなりません。また,これを徴としてあなたの手に結び付けなければならず,これはあなたの目の間の額帯とならなければなりません。また,これをあなたの家の側柱と門とに書き記さなければなりません」。(申命 6:6-9,新)この聖句に関して,カイルとデリッチ共著の聖書注釈書は次のように述べています。

      「神への愛がふさわしいものとなるには,神の律法が心に植えられ,思考と会話の絶えざる主題となっていなければならない。『その心にあらしめ』すなわち,神の律法は単なる記憶の問題ではなく,心の問題だ,ということである。……[申命 11:18と比較]その律法は,子供たちに施行され,家にいるときも,道を歩くときも,晩,床に就くときも,朝,起きるときも語られることになっていた。つまり,いつでも,どこでも語るということである。律法はしるしとして手に結ばれ,目の間に額帯(経札)として着けられた。……この言葉は象徴的なもので,いささかの逸脱もなく神の律法を守ることを表わしている」。

      お子さんをエホバから与えられた相続財産として扱うには,お子さんとの意思の疎通を常日ごろから図り,聖書に記録されている神のお考えを,たび重なる反復によって教えること(『教え込むこと』)が求められます。聖書に基づくそのような「懲らしめと精神の規整」を備えるに当たって,何らかの援助を必要としておられますか。もしそうでしたら,続く記事の中に示されている,聖書の諸原則と実生活での経験によく注意を払われるようお勧めいたします。

  • 十代の子供が親に期待するもの
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 十代の子供が親に期待するもの

      どんな大人も,十代という時期を経てきました。十代の子供を持つ親は,一人残らず,かつては十代の若者でした。ですから,大人は十代の若者たちの問題や欲求不満を理解してやらねばなりません。ところが,親たちは自分が十代の時期に抱えていた問題を忘れ,物わかりのよい仕方で十代の子供たちを扱わない場合が,余りにも多く見られます。一人のおじいさんは,自分の経験を回想して,こう述べています。

      「子供のころ,私は家のしつけが厳しくて,不公平だと思ったことがよくありました。そして,自分が成長して子供を持ったら,愛をもって子供をしつけ,子供の話に耳を傾け,子供と筋の通った話し合いをしようと思ったことを覚えています。

      「ところが,自分の人生でそうする段になると,家族を養ってゆくのに問題がとても多いことが分かりました。長い時間働いたので,子供たちに会う時間はほとんどありませんでした。子供たちと一緒にいると,私はいらいらして,気が短くなったものです。

      「子供が成長してゆく年月はあっという間に過ぎ去ってしまいました。今では孫もおり,自分が親だったときとは全く異なった心構えでいます。孫と遊んだりして楽しむ時間があり,孫が面倒を起こすと,親たちが厳し過ぎて物分かりが悪いと思い,孫をかばってやりたいと思うことがよくあります。そして,親たちが,祖父母の示すような辛抱強さと物分かりの良さを示してくれれば」と思うことが度々あります。

      十代の子供は普通,独自の必要を持つ,一個の人間として自己を主張するということを,親は忘れがちです。親が誤解して,問題は大きくなります。十代の抱える問題を調査した一奉仕者は,大勢の十代の若者に次のような質問をしたことを伝えています。「何にも増してご両親に求めるものを一つ挙げるとすれば,それは何ですか」。ほとんど例外なく,若い人々はこう答えます。

      「分かってもらうこと」

      15歳になる少女はこうした願いを言い表わし,次のように述べています。「私には立派な両親がいるわ。でも私はもう幼い子供ではないということを両親に分かってもらいたいの。私を三年生の子供のように扱うんですもの。私のことを理解して,信頼してもらえたらと思います」。この少女は,自分の年齢に応じて,幾つかの規則を変更してほしいと願っていました。

      より大きな自由を得たいという衝動は大人へと成長してゆく正常な段階の一部です。ところが,多くの親にはこの事実を受け入れる用意ができていません。幼いころから,子供は親を頼り,親に依存してきました。そして,親はそのことに満足を覚えていました。ところが今や,十代になった子供は,完全な依存の精神から,より大きな自己依存の精神へと移ってゆきます。こうした態度の変化は悪いものではありません。十代の若者の中には,比較的若くして大人っぽい見解を培うようになる者もいます。聖書中に見られる例はヨシア王です。「彼はまだ[15歳ぐらいの]少年であったが,その父祖ダビデの神を求め始めた」。25歳ぐらいになって,ヨシア王は,自分の父親の推進していた偽りの崇拝に対して,攻撃的な挙に出ました。この十代の若者には,自分の意志に従って行動する自由がありました。単にまだ若かったというだけで,この王の態度や行動を非とすることができますか。いいえ,できません。(歴代下 34:1-8,新)また,ゴリアテと戦うことについて尋ねた際の,若者ダビデの動機は良いものでしたが,兄に誤解されました。―サムエル前 17:26-28。

      しかし,十代の若者はまだ大人にはなっていないので,その欲望すべてが円熟したものであるわけではありません。遊ぶ時間が必要です。親がくつろいでいたいと思うときにも,自分には物事を行なうエネルギーがあることを親に理解してもらう必要があるのです。十代の子供たちには交わりが必要です。もし親がふさわしい交わりをあてがってやらないなら,若者たちは自分で交わりを求め,それが親から認められないようなものであることに気付くかもしれません。

      十代の若者の大半は,パーティーを楽しみます。そのようなパーティーで時折見られる行状のために,親たちは自分の子供がそうしたパーティーに参加するのを望まないかもしれません。しかし,子供たちがパーティーへ行くのを全く禁じてしまうなら,若者をがっかりさせてしまい,気落ちさせる結果になりかねません。(コロサイ 3:21)親が集まりを取り決めれば,呼ぶ人を制限したり,その活動を監督したりする権利が親にあるので,数多くの問題を未然に防げます。若者たちが計画に加われば,一層うまくゆくでしょう。

      十代の若者が誤りを犯して,窮地に陥った時には,いつにも増して,親の理解を必要としています。親は自分の若いころを振り返り,若くて経験がないために犯した誤りを思い出してみるとよいでしょう。そうすれば,必要以上に過敏になったり,批判的になったりしないで済むでしょう。十代の若者が問題に陥ったときに,自分のところに来てほしいと思うなら,親はより軽い違反行為に対する反応の仕方によって,信頼を勝ち得ねばなりません。

      その間違いが不注意による誤りであれば,親は十分に思いやりを示さねばなりません。どこが間違っていたか,またどうしたらその間違いを繰り返さずに済むかを説明するために,あらゆる努力を払う必要があります。しかし,子供に向かって,お前が悪いのだと告げてはなりません。

      しかし,十代の子供が,学校で規律にかかわる重大な問題を起こしたり,警察ざたになったり,麻薬や不道徳に関係したりした場合,その親はどうすればよいでしょうか。親は,幼いころからの訓練でそうした問題を未然に防げると思うかもしれません。しかし,そうした問題が実際に起きてしまったらどうしますか。その時こそ,十代の子供が助けと巧みな導きを必要とする時なのです。

      このような問題は親にとって,非常な試みとなります。親たちはしばしば,「自分たちのどこが間違っていたのだろう」と言います。そして大抵の場合に,非行を犯した子供を脅し,非難しますが,そうすることはその子に苦々しい思いをさせ,かえってかたくなにその道を進ませてしまうきらいがあります。エホバは,ご自分の民が正道からそれたときにも,理解を示し,進んで許す態度を示されました。民の罪はゆゆしいものでしたが,神はご自分から率先してその民と意思の疎通を図り,援助の手を差し伸べました。エホバはこう言われました。「さあ,来なさい,あなたがた民よ。わたしたちの間で事を正そう。……たとえあなたがたの罪が緋のようであっても,それは雪のように白くされる」― イザヤ 1:18,新。

      若い人の将来は,この重大な時期にどのように扱われるかによって決まります。「放とう息子」が父親のもとへ戻って来たと同じように,子供があなたのもとへ戻って来るのを難しくするようなことを言ったり,行なったりしてはなりません。親は,子供が自分の監督下にある限り,その子たちを決して見放すべきではないのです。辛抱強くあり,憐れみを示してください。こうした特質を示す点で,エホバに見倣いたいものです。―ヤコブ 2:13。ペテロ第二 3:9,15。ルカ 15:11-24。

      一個の人間として扱われる

      十代の若者が大いに必要としているのは,一個の人間として扱われることです。チャールズ・R・フォスターは,自著,「今日の生活のための心理学」の中で,こう述べています。

      「人間は単に食べては寝るという生活をしていても満足しないことが知られている。人は一個の人間として認められることを求め,自分が成功していると感じたがる」。

      「当然のことながら,自分がある事柄を首尾よく成し遂げることができ,世の中で自分の占めている立場が重要であると感じるなら,だれしも良い気持ちになり,より能率的に働く。社会行動を研究する者は大抵,どんな人間にもまだ磨けば光るような隠れた才能があると考えている。それが何であるかを見いだすことさえできれば,どんな人間にも,うまくできる事柄やよりよくできる事柄が何かしらあるものである」。

      十代の若者は各々,他のどんな人間とも異なっているとみなされる必要があります。親は,子供が一人一人異なっていることを学びます。一人の子供には効を奏する訓練や懲らしめも,下の子には効き目がないかもしれません。子供たちが十代になると,特にそう言えます。

      ですから,一人の子を別の子と比較するのは良い事ではありません。ある人の業が,別の人のより優れた業と比較されると,励ましではなく,恨みが残ります。(コリント第二 10:12と比較してください。)十代の若者は,ありのままの自分,また一個人として自分にできる事柄のゆえに受け入れてもらいたいのです。そして,ありのままの自分を両親に愛してもらいたい,人間味のある思いやりをもって扱ってもらいたいと思っているのです。また一方では,息苦しくなるほど抑えつけられたり,いつまでたっても子供扱いにされたいとは思いません。

      一貫した指針を与えられること

      十代の若者が必要としている別の事柄は,変わることのない,一貫した指針や導きです。ザ・デトロイト・ニューズ紙によると,米国海軍兵学校の校長で,三人の子供の父親である,ジェームズ・F・カルバート海軍少将は,最近,次のように語りました。

      「今の子供たちは,我々から学ぶよりも,はるかに多くをテレビから学ぶ。普通の15歳の子供は,読書に毎日20分を費やし,テレビを見るのに二時間を費やす」。

      『義務感と家族の誇りという感覚』を植え付ける点での親たちの失敗に言及した後,同少将はさらに,「規律なくしては,基本となる敬意はあり得ない」と述べています。カルバート少将は,人間の規律を卵の殻に例えてこう語っています。「損なわれていなければ,それは強くて美しいものであるが,ひとたび壊れたり,ひびが入ったりすると,すぐに崩れ去ってしまう」。

      「若い人々は規律を求めて声を上げることはないかもしれないが,若者たちはそれを切実に必要としている。親の厳格な権威は,子供のうちに安心感を育む」。

      十代の若者は一貫した規律のもたらす安心感を必要としています。ある種の制限や規則の必要性を容易に認めないかもしれませんが,親がその規則に関して一貫性を示すべきだという点にはすぐに同意します。十代の若者は,自分がしても良い事柄と,してはいけない事柄を知りたがります。その時々の親の“気まぐれ”でそれらの規則が日によって変わるなら,子供は落胆してしまいます。イエスは,「あなたがたの“はい”ということばは,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしなさい」と言われました。―マタイ 5:37。

      規則や制限は境界線に例えることができます。十代の若者に必要とされるのは,境界線がはっきり定められ,それを識別することです。ひとたび識別したなら,十代の若者はその境界線内で信頼と自由を得たいと考えます。一人の父親はこの事実を,家を借りた際にその家族が経験した事と比較してこう語っています。

      「それは樹木の茂った地域にありました。私たちがまず最初に尋ねた事柄の一つは,境界線はどこかということでした。その地所で何をすることが許されているのか,という点を知りたいと思いました。そこで楽しく生活するには,そうした事柄を知らねばなりません。地主が毎週のように規則を変えた場合に引き起こされる不快感と失意は容易に想像できます。十代の子供たちに課される制限にも,同じ原則が当てはまります。その規則は道理にかなった,一貫したものであるべきです。それから,その境界線内では,信頼を示し,自由を与えるのです」。

      その規則を,実情にそぐわないほど厳しくする必要はありません。何か特別な出来事や行事があれば,例外として何かを頼むということも考えられるでしょう。

      人生の目的を定める上での助け

      必要とされる導きの中には,人生の目的を定め,職業を選び,必要とされる世俗の教育を受ける上での助けも含まれます。だれしも,自分には自分なりの価値があり,自分の行なっている事柄にはそれなりの価値があると感じられねばなりません。自尊心を持ち,一個の人間として誇りを抱いているべきです。

      親は,その子に合った職業を選ぶよう十代の子供を助けることにより関心を示します。その子の「賜物」,才能,あるいは好みを考慮に入れねばなりません。(ローマ 12:6と比較してください。)そして,達成可能な目標を定めるよう援助されるべきです。すべての人が目立った地位に就けるわけではありません。一つの目標が実現されるたびに,より高い目標を定めていけば,現実的な仕方で数々の目標を達成できます。

      大人の生活の諸問題に対処できるよう若者に教育を施すことには重い責任が伴います。若者は,自活できるように訓練され,手に職を持つのは大切です。(テモテ第一 5:8。箴 31:10,19,20)イエスはキリストになるはずでしたが,その養父ヨセフがイエスに職を仕込んだので,「大工の息子」また「大工」として知られるようになりました。(マタイ 13:55。マルコ 6:3)使徒パウロは,自分の職業,つまり天幕作りをすることによって,自分とその同行者たちが生活してゆけるようにしました。―使徒 18:1-4; 20:33,34。

      大人の生活の諸問題に対処し,大人としての責任を受け入れる準備をするに当たって,十代の子供は親の支えと,“落伍者”にならないための励ましを必要としています。宿題をするのに助けを必要とする場合は少なくありません。時には,宿題を投げ出したくなることもあるでしょう。そのようなとき,その挫折感に理解を示し,問題を率直に話し合うことによって,親は励ましの源になれます。親が時折り難しい宿題の手助けをするなら,宿題をする際の若い人々の挫折感をよりよく理解でき,実際的な提案を与えることができます。物分かりの良い親が少しの時間を費やして,問題を話し合うだけで,十代の子供がその危機を乗り越えるのに役立つ十分な励ましになる場合もあります。

      必要とされていると感じること

      恐らく子供が一番望んでいるのは,自分が必要とされているということでしょう。そのため,若い人たちは,自分が養子かどうか,親が自分を産む計画だったのか,また自分を望んでいたのかなどと親に尋ねることがあります。子供は,親の愛を確かめたいのです。わたしたちはだれしも,自分が家族の一員であることを知って安心感を得たいと切に願います。親が十代の子供のこうした必要を認め,理解のある仕方でそれを満たしてあげるなら,家族内の幸福はいや増すでしょう。

  • 若い皆さん,あなたは真の成功への道を歩んでいますか
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 若い皆さん,あなたは真の成功への道を歩んでいますか

      一世紀あまり前の米国の作家エマソンは,若者が成功を収めるための処世訓を与えています。彼はこう勧めました,「馬車を星に掛けよ」。エマソンが意味したのは,若者は大志を抱いてその達成に努めるべきであるという事です。しかし若者が成功するには,規律正しい鍛練を重ねながら,このような目標を目ざして励んでゆかなければなりません。

      若い皆さん,あなたは将来のために適切な計画をいま立てていますか。高尚な目標を定め,その達成を決意するのは賢明なことです。

      青春は生命の萌出る時です。煩わしい責任のない,比較的に自由な時期であり,いっそう大きな喜びや幸福を前途に望み見ている時です。青年男女は精力と健康に満ち,幸福な期待を抱いています。

      残念なことに,今日の若者の多くは人生における高い目標に打ち込むことができないでいます。そうする代わりに,責任の無い自由や独立を手に入れようとしてむなしい結果に終わった多くの人は,麻薬,相手を選ばぬ性行為や他の愚行にはけ口を求めます。しかし次の助言を心に留めることが大切です。「神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」― ガラテア 6:7。

      目標の中に常に神を置きなさい

      聖書には次のことが書かれています。「若者よ,あなたの若い時を歓べ。あなたの心が青春の日々にわたりあなたに善を行なうように。あなたの心の道に,あなたの目で見られる物事のうちを歩きなさい」。(伝道 11:9前半,新)それで創造者エホバは,若い人々が人生を楽しむことを望んでおられます。そして若い人々の関心事や,その心と目の欲望に訴えるものに否定的な見方をされてはいません。一方若い人は,自分の行動に対して神の前に責任があることを覚えておかねばなりません。

      聖書の句は次のように続いています。「しかし,これらすべてのことのゆえに真の神があなたを裁かれることを知れ。ゆえに,あなたの心からいらだちを除き,あなたの体から災難を払いのけなさい」。(伝道 11:9後半,10前半,新)若い人々に選択の自由を与えているとはいえ,至高者は,間違った道を追い求めることの苦い結果から若い人々をかばうことはされません。

      同じ聖書の筆者は次の言葉を加えています。「若い時も人生の盛りも空しいことだからである」。(伝道 11:10後半,新)なぜそう言えるのですか。ひとつには,人がいつまでも若さを保てる訳でないことは明白だからです。血気盛りの時に病にかかって死ぬ人さえいます。この事を無視する若者は,自分の持つものを賢明に使うことをせず,大人になってからの人生をいっそう難しいものにするような生活の仕方をして,体の精力や,伸びる素質を浪費するかもしれません。

      この事に照らして,若い人々は何をすべきですか。聖書にはこう書かれています,「では,あなたの若い日に,あなたの偉大な創造者を覚えよ」。(伝道 12:1,新)このように絶えず神を覚えていることは善行を促し,若い時代を通してエホバとの関係を強固なものにすることでしょう。

      キリストの弟子であることの「くびき」

      聖書は,生涯の賢明な目的を目ざして若者が精力をその方に向ける必要を示しています。さもなければなんの有意義な目標を達成することもなしに,このような力を浪費してしまうことになるでしょう。

      イエスはしいたげられた人々を元気づけてこう言われました,「わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきはここちよく,わたしの荷は軽いのです」。(マタイ 11:29,30)イエス・キリストの弟子であることは,この上もない特権ではありませんか。若い時代を過ごすのに,これにまさる方法があるでしょうか。しかしこれにはクリスチャンのバプテスマという真剣な段階を踏むことが必要です。その事をして初めて人はイエスの「弟子」の一人として自分を見ることができます。

      必要な訓練を受ける

      若い時のイエスは養父ヨセフの下で大工の職を身につけました。(マルコ 6:3)そのように今日でも若いクリスチャンは一定期間,基礎教育を受けて益を得ます。これは大人になってから自活する備えを身につけるための世俗の教育を受け入れるということです。

      クリスチャンは多くの場合,自分の住む土地で受けられる標準的な世俗の教育を利用するのが賢明なことを経験してきました。米国では高校の教育がたいていの場合,実際的な価値を有しています。

      数学,歴史,国語などの基礎的な科目のほかに,多くの学校では工具と機械の使用法,大工,電気,自動車修理,印刷などの課程を設けています。女子ならば家政,タイプその他,秘書に必要な技能,医療従事者の助手あるいは現在,婦人に開かれている興味深くて実用的な分野の仕事を修得できます。

      将来について考える

      たいていの若い人は高校時代の終わりごろに転換期を迎えます。それは様々な選択の機会が開かれている時です。

      このような転換期にあたって,若い人が,エホバに仕える点で自分の行なおうとする事柄を決めるのは良いことです。このような教育の終わりの年月は,技能を習得する良い機会です。そのような技能があればイエスの行なわれた業,つまり宣べ伝え,弟子を作る業に十分の時間を用いられる仕事に就くことができるでしょう。―マタイ 24:14; 28:19,20。

      『霊のためにまく』

      若い皆さん,あなたが築いているのは神の王国を中心にした将来ですか。それとも世の事柄を中心にした将来ですか。これら正反対の目標は正反対の結果をもたらします。(ヨハネ第一 2:15-17)人間が二人の主人に仕えられないことは,イエスの言葉に明白に示されています。(マタイ 6:24)賢明な若者はエホバ神に心を向けています。彼らは神と自分との個人的な関係を絶えず強めます。クリスチャンの若者は「王国のこの良いたより」を定期的に宣べ伝えるにとどまらず,聖書の次の勧めに従います。「善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」― ヘブライ 13:16。ヤコブ 1:26,27と比べてください。

      すべての人間は罪深い性向のゆえに利己主義と物質的な欲望に傾いています。若い人々は,聖書の言う「若さに伴いがちな欲望」と絶えず戦うことが必要です。(テモテ第二 2:22)何年も後まで悔いを残す「若き時の罪」を愚かにも犯した人が大ぜいいます。―詩 25:7,新。

      若い皆さん,あなたの将来を台なしにするような悪行を決してしないことを決意してください。相手を選ばぬ性行為,麻薬の乱用そして他のタイプの放縦な生活をして“若気の放とう”を好む人々は,後になって悲劇的な結果を刈り取ることが決して少なくありません。霊感の言葉が明白にしている次の事の真実を,彼らは自らの苦い経験によって思い知らされるのです。「自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取…ることになる」― ガラテア 6:8前半。

      神およびクリスチャン会衆との良い関係を求めるほうが勝っていませんか。そのようにして,あなたは,「霊のためにまいている者(が)霊から永遠の命を刈り取る」ことを喜びのうちに体験するのです。―ガラテア 6:8後半。

      このような聖書の真理を信ずる若者は,汚れあるいは淫行につながるおそれのある状況をすべて避けることでしょう。(コリント第一 6:18)神を喜ばせたいと願う若者は,敬虔な行ないをする点で励みとなるような人々と交わることを求めなければなりません。「命の叱責を聴く耳は賢い人々の間にこそ宿る」。(箴 15:31,新)あなたは敬虔な知恵を表わし示す人々との交わりを捜し出すことに努めていますか。(ヤコブ 3:17,18を見てください。)神の言葉は明白に述べています,「愚鈍な者たちと関係する者は悪い事態に陥る」。(箴 13:20,新)あなたはそれを信じていることを自分の生活の仕方によって示していますか。

      神を恐れる若者は聖書の命ずる次の言葉に従います。「すべての魂は上にある権威に服しなさい」。(ローマ 13:1)「あなたがたのだれも,殺人者,盗人,悪行者,あるいは他人の事に干渉する者として苦しみに遭ってはなりません」。(ペテロ第一 4:15)「上にある権威」である政府に従うことは,交通法規の遵守をも含め,すべての面で法律を守るという意味です。

      あなたの生活は神の言葉のこのような指針と調和していますか。真の意味での成功に至る道を歩んでいる若者は,霊感の次の助言を常に心に留めています。「あなたがたは,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」― コリント第一 10:31。

  • 自分たちの創造者を覚える若い人たち
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 自分たちの創造者を覚える若い人たち

      1978年に,百を超えるエホバの証人の「勝利の信仰」国際大会が開かれましたが,金曜日午後のプログラムには. 「若い人たち,信仰の点で手本でありなさい」という主題が付されていました。「自分たちの創造者を覚える若い人たち」と題するプログラムの中で,献身した若い男女がエホバのしもべとして生きることについて語りました。下に記すのは,それらの若い男女が語った経験の一部です。

      皆さんは,インタビューに出た若い人たちの多くが,「王国のこの良いたより」を宣べ伝えるために全時間をささげる決意をしたことに気付かれるでしょう。(マタイ 24:14)この活動に毎月少なくとも140時間を費やす“特別開拓者”として奉仕している人々もいます。“正規開拓者”となって,「良いたより」を宣明するのに一年間に最低1,000時間をささげている人々も少なくありません。それらクリスチャンの若者たちが語った事柄の幾らかを考慮してみましょう。

      ニューヨーク市の大会で,一人の若い女性は次のように語りました。『中にはエホバ神に義務を負うことにためらいを感じている若い人たちのいることを私は知っています。バプテスマを受けている人の中にさえ,霊的関心事を第一にしない人々がいます。私はこれを経験から話しています。というのは,私もそのように感じていたからです。しかし,私たちが負っているものをエホバに返すよう述べられているマラキ 3章10節のような聖書の原則は,私が心を変化させる上で助けとなりました。私は,聴衆の中にいる若い方すべてに,霊的関心事を第一にするようお勧めしたいと思います。パーティーに行ったり,不道徳な行ないや麻薬に走ったりする年齢に達している人ならだれでも,エホバに献身する年齢に達していると言えます』。

      野外奉仕を楽しむ

      「畑は世界です」とイエスは言われました。(マタイ 13:38)その理由で,エホバの証人は,宣べ伝える活動を“野外奉仕”と呼んでいます。ニューヨーク大会で,十代の一少女は自分にとって野外奉仕は何を意味するかについて語りました。

      『私は,聖書の真理を他の人々に分かち合う活動をごく幼い時から始めました。私は両親と共に家から家へ行き,明るい笑顔で家の人にあいさつをし,音信を載せた小さな印刷物を手渡しました。やがて聖書の主題について人々に話せるようになりました。私が話し掛けた人々の多くが,聖書を理解する助けを求めていることを知って私はうれしく思いました。私はそのような人々を定期的に訪ねました。そして,それらの人々が神の知識の点で進歩し,新たに見いだした,聖書に基づく信仰を他の人々と分かち合いたいとの願いを示すと共に,汚れた習慣をやめるのを見て,私は胸のおどるのを覚えました。野外奉仕にひんぱんに携わることによって,全地に楽園を復興する来たるべき神の新秩序に対する私の信仰は強められました。(啓示 21:1-5)その希望に関して他の人々を納得させようとする場合,それはまず自分自身の中で強固なものでなくてはなりません』。

      カナダのモントリオール大会の英語のプログラムの中で話した若いエホバの証人は次のように語りました。『私は幼い子供のころに野外奉仕を始めました。両親が野外奉仕へ出かけるときにいつもついて行きました。五歳ごろには,簡単な紹介の言葉を一軒一軒話すようになっていました。

      『そうした幼いころ,野外奉仕はとても面白いものでした。しかし,やがて,私は学校において他の人々の中で目立つ存在になっていることが分かりました。それから,仲間の生徒に真理について語ることをきまり悪く感じるようになりました。家から家に伝道している間も,学校での知り合いに会うのではないかと恐れるようになりました。そのころのことを振り返ってみると,私の場合問題は,人間に対する恐れだったようです。そのような恐れは「わなを仕掛ける」と聖書は述べています。―箴 29:25,新。

      『学校を出てから,私はしばらく開拓奉仕をしてみることにしました。その結果,宣べ伝える業に,今まで感じたことのないような魅力を感じました。もはや私はその活動を面白いものとも重荷ともみなしませんでした。自分の聖書研究生が真理の面で進歩するのを見て,エホバ神が私の努力を支えてくださっている証拠だと思い,深い満足感を覚えました。今まで,二年半以上の間私は開拓奉仕を行なってきました。他の職業を選ぶ機会もありましたが,私の気持ちは,次のように書いた使徒パウロの気持ちと同じです。「わたしは実際のところ,わたしの主キリスト・イエスに関する知識の優れた価値のゆえに,いっさいのことを損とさえ考えています。彼のゆえにわたしはすべてのものを損失しましたが,それらを多くのあくたのように考えています。それは,自分がキリストをかち得るためです」』。―フィリピ 3:8。

      会衆に対する認識

      若い人たちは,クリスチャン会衆と交わることをうれしく思っているでしょうか。ケベックで開拓者として奉仕しているダンは自分自身の経験を次のように述べています。『私は1975年にバプテスマを受けましたが,聖書の真理を知るようになる前の生活は,非常にだらしのない,クリスチャンらしくないものでした。刺激を求めて,私はよく酔っぱらったものです。それも楽しくなくなると,マリファナをすったり,他の麻薬を試してみたりするようになりました。17歳のときには,毎日のようにマリファナをすっていました。

      『しかし,当時私が手にしていると思っていた幸福は,エホバの民と交わるようになってから得ている喜びと比べれば無に等しいものでした。王国会館での初めての集会は忘れることができません。私が一番感銘を受けたのは,集会後,いろいろな人が私に近付いてきて自己紹介をし,私をくつろがせようとしてくれたことです。その時以来,私は定期的に,王国会館で開かれる集会に出席しています。真理を学ぶ前には,年配の人々と交わりたいという気持ちは全くありませんでした。共通の事柄など何もなかったからです。しかし,仲間のクリスチャンの間では,あらゆる年齢層の良い友を大勢見いだしました』。

      ニューヨークから来たもう一人の若いエホバの証人は,会衆との交わりを楽しんでいる別の理由を述べました。『私は,他の人々に仕えることができるので,会衆の一員となれることをうれしく思っています。年配の兄弟姉妹が部屋を掃除するのに助けを必要としている場合,喜んでそれらの兄弟姉妹の手伝いをします。時折,仲間のクリスチャンの引っ越しを手伝うのも特権です。若者である私には,体力とエネルギーがあります。会衆内で他の人々に仕えてエホバに栄光をもたらすこと以上に優れた体力の用い方があるでしょうか』。

      十歳の子供が助けを求める

      ドイツのミュンヘンで開かれた大会において,一人の若者は,その大会のギリシャ語のプログラムの中で次のような経験を話しました。『私が小学生の時,私の両親はクリスチャン会衆と交わるのをやめました。私はまだ子供でしたが,うれしいことに,会衆と幾らか接触を保つことができました。

      『十歳のとき,私はエホバに助けを祈り求めるようになりました。両親は,私がエホバの証人と公然と交わるのを許してくれなかったため,宣べ伝える業を支持する唯一の方法はお金を寄付することのように私には思えました。それで,私は両親からもらう小遣いを貯金し始めました。二年間に500ドラクマたまったので,私はそれを喜んで会衆に寄付しました。兄弟たちは私のために祈り,私と同い年の子供が私を訪問する計画をたててくださいました。その子と遊ぶ時間に聖書研究が行なわれ,それによって私の信仰は強められました。数年後,私は学校の勉強のために外国へ行きました。しかし,私の本当の動機は,会衆の集会に自由に出席することにありました。

      『両親はそのことを聞いて,良い影響を受けたようです。二人は再び王国会館での集会に出席するようになり,父は今では,会衆内の責任ある立場で奉仕しています。私自身は,現在,正規開拓者として奉仕する喜びにあずかっていますが,若い人たちみんながその喜びにあずかれるようにと願っています』。

      エホバの崇拝を自分の生活の中で最も重要な事柄としている多くの若い人たちのことを聞くのは,本当に喜ばしいことです。私たちは,これらの経験により,他の人々もまた,次のような聖書の戒めに聴き従うよう鼓舞されることを願っています。「では,あなたの若い日にあなたの偉大な創造者を覚えなさい」― 伝道 12:1,新。

  • 示唆に富む,本の感想文
    ものみの塔 1979 | 7月15日
    • 示唆に富む,本の感想文

      エホバの証人である学生は,しばしば,学校で他の人々に「良いたより」を分かち合えることに気付きます。例えば,スペインで,あるクラスの生徒たちは,冬休みに本を一冊読み,後でそれに関する発表を教室で行なうよう割り当てられました。

      十二歳のあるエホバの証人は,ものみの塔協会の出版物である「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」と題する本を基にして感想文を書くことにしました。少女がその本の要約をすると,多くの仲間の生徒は関心を示しました。結果として,この若いエホバの証人は「若い時代」の本を48冊他の人々に配布し,少なくとも一つの進歩的なすばらしい聖書研究が始まりました。

      もう一人の若者は,クリスチャンの集会で話されたこの経験を聞きました。今度はその少年が,自分の学校で,聖書に基づくその同じ出版物を他の人々に提供し,すばらしい結果を得ました。

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