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  • 人生には意味がありますか
    目ざめよ! 1981 | 1月22日
    • 人生には意味がありますか

      80代の一人の男の人はこう考えます。『私の人生は終わりに近づいている。人生はまたたく間に過ぎ去ってしまった。もう余命幾ばくも無い。そのすべてはどこへ消えて行ってしまったのだろう。人生にはどんな意味があったのだろう。すべてが過ぎ去ってしまった。前途にあるものといえば,墓場と,忘れ去られることだけだ。それ以外は何もない。すべては全く無意味だった。冷笑家が「食べて,飲んで,楽しくやろう。明日は死ぬのだから」と言うのも無理はない』。

      しかしこれがすべてなのでしょうか。

      遠い昔,理由も分からずに厳しい試練に耐えていた一人の人は,人間の境遇に絶望し,こう叫び声を上げました。「女から生まれる人は日が短く,悩みに満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ,影のように飛び去って,とどまらない」― ヨブ 14:1,2,口語訳。

      これがすべてなのでしょうか。人生には意味がありますか。時代を通じて,幾世代もの人々が,こうした質問を繰り返し尋ねてきました。特に年を取ると,人生を振り返ってみて,それにどんな意味があったのかあれこれと思いを巡らします。

      年老いた人の葬儀では,『故人は充実した人生を送った』というような言葉が聞かれます。充実した人生を送ったのだから死んでもあきらめがつくという意味なのでしょう。しかし,充実した人生を送ったということで,死が受け入れやすいものになりますか。それとも受け入れにくいものになりますか。充実した人生よりは,中味のない人生をあとにする方が容易なのではありませんか。「とても幸せだから自殺する」と言う人はいません。自殺を図るのは悲惨な状態にある人です。昨日満腹していても,今日の空腹を満たすことにはなりません。そして,かつて意味深いと思えた事柄も死が近づくと,大抵,それほど重要なこととは思えなくなります。

      人生は多くの人にとって意味のないものになっています。世界情勢は暗たんたるもので,人生の価値はなくなり,多くの人にとって失望の種となっています。若い人たちはないがしろにされ,お年寄りは邪魔者扱いにされてわびしい老人ホームに送られます。ストレスが高じて,心臓麻痺や暴力ざたを引き起こすまでになります。政界には汚職がはびこり,不信感が広がります。個々の人が憂慮して事態を改善しようと努めても,象に飛びかかるノミほどの影響しかありません。人々は幻滅し,自分の事に没頭するという無意味な行為にふけります。この傾向について,米国のベストセラー,「ナルシシズムの文化」はこう述べています。「実のある仕方で人生を向上させる希望がないため,重要なのは精神面での自己改善であると人々は心得るようになっている。自分の感情の機微を知ること,健康食品を食べること,バレーやベリーダンスのレッスン,東洋の知恵に浸ること,ジョギング,“順応”する方法を学ぶことなどがそれである。……そうした人々はより生命感あふれる経験をし,怠惰な肉体をむち打って活動的にならせ,食べ過ぎで減退した食欲をよみがえらせようとする。……健全な精神状態とは,種々の抑制をかなぐり捨て,あらゆる衝動を即座に満足させることを意味している」― 29,39,40,43ページ。

      人々がこうした道を追い求めると,その無意味な人生はいよいよ意味のないものになります。逃れようとあがくあまり,そうした人々は性の乱行や倒錯にのめり込み,蛮行や無分別な暴力行為に走り,麻薬を用い,果ては最終的な逃避手段である自殺を選びます。このすべては,自分の人生に意味がないと感じているために起きる事柄です。

      しばしのあいだ生を受け,そののち墓場と忘却のかなたへ消えてゆきます。それにどうして意味があると言えるでしょうか。人間をアリやイナゴよりも重要な存在としているものは何ですか。宇宙空間の広大さを考えると,人間など無に等しく,場違いで,重要ではなく,かりそめの命が終わるととこしえに消え去ってしまうように思えてきます。人生はむだな努力のように見えます。

      「どうしたら人生を意味あるものにできるだろうか」と人は考えます。『私がいなくなって,一体だれがどれほどの期間寂しく思うだろうか。だれかが寂しがるとしても,それは私にとってどれほど役立つだろうか。私は無数の人々の中の一人にすぎない。だれが私に目をとめ,私を気づかい,覚えていてくれるだろうか』。

      しかし待ってください。目をとめてくださる方が,気づかってくださる方が,覚えていてくださる方がいるのです。人生には確かに意味があります。ただあなたがそう望み,人生を意味あるものとするならばのことです。続く一連の記事は,それが真実であることを示しています。

  • 人生には意味が必要
    目ざめよ! 1981 | 1月22日
    • 人生には意味が必要

      だれがそれを必要としていますか。ミミズでもワシでも,リスでもクジラでもありません。人生には意味があるのか,という質問を提起するのは,地球の全生物の中で人間だけです。あらゆる世代の人々がこの質問について考え抜いてきました。人間が生来生きる意味を必要としていないのであれば,この質問が時代を通じて人を悩ませることはなかったでしょう

      人間には大きく思える地球も,太陽と呼ばれる中程度の大きさの星の周りを回る小さな惑星にすぎません。太陽の直径が約140万㌔あると聞くと圧倒されますが,それも直径30億㌔を超す赤色超巨星の存在を聞くまでのことです。毎秒29万9,800㌔進む光が太陽から地球まで届くには8分間かかりますが,約1,000億の星を擁する銀河系を光が横切るには10万年かかります。

      宇宙には銀河系と同じような星雲が,銀河系の中の星の数と同じほどあると推測する天文学者もいます。電波望遠鏡は,100億光年aのかなたから来た光を探知しました。しかし,この驚くべき数字も,宇宙の全貌を伝えるものではありません。

      宇宙空間のこの計り知れない広大な広がりは,ウサギやゴキブリやチンパンジーや他のいかなる動物にも重要な関心事ではありません。しかし,人間はそれを見て,畏敬の念にうたれます。昔,イスラエルのダビデ王は天空に輝く二,三千の星,つまり宇宙空間のごく微小な部分を見ただけで,エホバ神に次のような叫び声を上げました。「わたしが,あなたの指の業であるあなたの天を,あなたの整えられた月や星を見るとき,死すべき人間が何者なので,あなたはこれを思いに留められるのですか。地に住む人の子が何者なので,これを顧みられるのですか」― 詩 8:3,4,新。

      ダビデは数千個の星を見て自分が小さな存在であると感じました。無数の星雲があるという知識を持つわたしたちは,自分の存在が顕微鏡的であると感じて然るべきです。もし地球が宇宙の中にあって塵の一点にすぎないのであれば,この点の上に生きる個々の人はどれほど重要でしょうか。

      自分たちの人生に意味があると考えるのを難しくさせるのは,大きな宇宙におけるわたしたちの存在の微小さだけではありません。連綿と続く時の流れにおけるわたしたちのつかの間の存在もその一因です。動物には,宇宙空間に対する知識が全くないのと同様,時間の概念もありません。しかし,「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」,「彼は人間に過去と将来の時の感覚をお与えになった」のです。(伝道 3:11,口語訳および新英訳聖書)時はとこしえまで続くことを知っていながら,人はやはり自分の命がほんのつかの間のものであることを告げられているのです。

      詩篇作者はこう語っています。「死すべき人間については,その日は緑の草のようだ。その咲き出る様は,野の花のようだ。風がその上を過ぎ行きさえすれば,もはやそれはないからである。それがあった場所は,もうそれに気づきもしない」。「人はただ吐く息に似ており,その日々は過ぎ去る影のようです」。クリスチャンの聖書筆者ヤコブも同様の言葉を次のように述べています。『あなたがたは,少しのあいだ現われては消えてゆく霧のようなものです』。―詩 103:15,16; 144:4,新。ヤコブ 4:14。

      人生はこうして矢のように過ぎて行き,忘却のかなたへ消えてゆく将来が待ち受けているのであれば,どうして人生に意味があると言えるでしょうか。それでも,人生の意味と永遠に生きることの必要性は非常に大きく,そのため人々は霊魂不滅や再生の教えにすがるようになります。自分にまつわる何物かをあとに残し,この現在の人生を記念すべきものにする必要を感じる人は少なくありません。本・絵画・楽曲・基金・財団など,自分が生きていたことを示す有形の証拠となれば何でも良いのです。それが,自分の存在にいくらかなりとも意味があったと感じるのに役立つかのようです。名を成した人々でさえ,現在生きている著名な人々の影に隠れて,人々の記憶から消え去っていきます。人生のこの事実を変えようとする様々な努力について,結論としてこう言うことができます。「見よ,すべては空であって,風を追うようなものであった」― 伝道 1:14,新。

      しかし,人間が宇宙空間の中にあって微小な存在で,時の流れの中にあって飛び去ってしまうようであっても,人間はなお自分の人生に意味があると感じる必要があります。これは人間が造られた様に由来する,生来の必要です。言語療法と呼ばれる精神病治療の一流派を創始した精神科医,ビクトレ・フランクルは,その療法を,意味を与える療法と定義し,こう述べています。「人間の内にある動機付けとなる主要な力は,自分の人生の意味を見いだそうと努めることである」。

      人生には意味がなければなりませんが,その必要をどうしたら満たせるでしょうか。続く記事はそのために必要とされる事柄をいくつか挙げています。

      [脚注]

      a 1光年=約9兆5,000億㌔。

      [5ページの拡大文]

      もし地球が宇宙の中にあって塵の一点にすぎないのであれば,この点の上に生きる個々の人はどれほど重要でしようか。

      [5ページの拡大文]

      「人間の内にある動機付けとなる主要な力は,自分の人生の意味を見いだそうと努めることである」。

  • 人生を意味あるものにする
    目ざめよ! 1981 | 1月22日
    • 人生を意味あるものにする

      目標を定めることにより

      「少年よ,大志を抱け」という勧めの言葉があります。高邁な目標は人生に有意義な方向付けを与え,わたしたちがさまよったり,まごついたり,進歩を鈍らせたりすることがないように助けてくれます。人間は目標を指向する生き物です。目標を定めることは進歩の助けになり,目的を強化します。精神科医のビクトル・フランクルは,「意味を求める人間の探究」の中で,ナチの強制収容所の中においてさえ目標が大切であったことについてこう書いています。「強制収容所の中で人の内的力を回復させようとする試みは,どんなものであれ,まずその人に何らかの将来の目標を指し示すことに成功しなければならなかった」。

      フランクルは,自殺をすることに決めた強制収容所内の二人の男性について語っています。一体何のために生きてゆかなければならないというのでしょう。しかし,そのうちの一人は愛する子供が自分を待っていることを悟った時に,またもう一人は未完になっている科学書のシリーズを完成させなければならないことに気づいた時に,共に生きてゆくことに決めました。フランクルはこう書いています。「あえて言えば,最悪の状況に遭っても生き続けるよう人を助ける面で,自分の人生には意味があるという知識以上に効果的なものはない」。

      「最悪の状況」においてそうであれば,目標を定め,それに到達するよう努力することは,日常生活においてはなおさら人々の助けになるはずです。

      仕事をすることにより

      しかし,目標そのものにはそれほど意味はありません。それに行動が伴ってはじめて本当に意味のあるものとなります。農夫はある作物を収穫するという目標を立てるかもしれませんが,その目標を達成するためには種をまき,生産に必要とされる付加的な仕事すべてを行ない,作物を取り入れなければなりません。伝道之書 11章4節(新)に描かれているような農夫であってはならないのです。「風を見守る者は種をまかない。雲を見つめる者は刈り取らない」。

      成し遂げられた仕事は働き手の質と能力を反映し,その人がどんな人であるかを示し,それが成功する場合には当人に物事を成し遂げたという実感を与えます。「物事を成し遂げたと感じることなしに長生きすることは非常に退屈なものである」とハンス・セリエ博士は述べています。

      子供たちさえ仕事から益を受けます。マサチューセッツ大学の社会学者,アリス・ロッシ教授は,家庭内で子供に仕事を与えるよう親たちに勧めてこう述べています。「自分が必要とされ,役に立っていると感じることは,愛されていると感じることと同じほど重要です。ところが,わたしたちの育児観では愛と子供を遊ばせることばかりに重きが置かれ,仕事がないがしろにされてきました」。

      霊的な事柄に注意を払うことにより

      生きる目的や意味は肉的な事柄ではなく,霊的な事柄に基盤を置くものです。フランクルは強制収容所における苦しみに耐える力が霊的な力にあることについてこう書いています。「人の内的な価値基準に対する意識はより高度で,より霊的な事柄にしっかり結びついており,強制収容所の生活でそれが揺り動かされることはない」。出世街道を進んでおり,物質的にも恵まれた管理職にある人が,人生の半ばで転職を図るのはなぜでしょうか。心理学者であるレビンソンはそうした人々が次のように自問しだすことについて述べています。「これがすべてだろうか。これまで自分の持てるものすべてを投げ出してきたのは価値のあることだったのだろうか。残された人生をこのような仕方で歩んで行きたいと思っているのだろうか」。

      人生に幸福をもたらし,人生を意味あるものにするのは,人が自分の霊的必要を自覚し,それを満たすことです。(マタイ 5:3)使徒パウロはこう書きました。「肉の思うことは死を意味するのに対し,霊の思うことは命と[神との]平和を意味するのです」。(ローマ 8:6)聖書を研究し,エホバ神とキリスト・イエスを知るようにしてください。『唯一まことの神と,神がお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味している』からです。―ヨハネ 17:3。

      正しい態度により

      イエスは目が見えるようになることを求めた二人の盲人に対して,「あなたがたの信仰どおりのことが起きるように」と言われました。二人が積極的な態度を抱き,信じていたので,その目は見えるようになりました。(マタイ 9:29)目標に向かって働くにあたり,疑ったり,優柔不断になったりせず,確信と活力を持って行ないますか。消極的な考え方をすれば,消極的な結果しか得られません。積極的な結果を得るためには積極的な考え方をしなければなりません。疑いは裏切り者のようなもので,恐れずに試みてさえいればわたしたちが勝ち得ることができたものを失わせます。立派な事柄を思いめぐらすようにしましょう。(フィリピ 4:8)そのことはなぜ肝要なのでしょうか。箴言 23章7節に言い表わされている,『そは,その心に思うごとくその人となりも亦しかればなり』という原則があるからです。

      他の人に仕えることにより

      他の人を助ける時わたしたちは自分は有用であると感じます。それはわたしたちに他の人に与えるものがあることを示しており,イエスの言われたように「受けるより与えるほうが幸福である」のです。(使徒 20:35)他の人に役立つ人生は,他の人の目から見ても,わたしたち自身の目から見ても,意味のある人生です。人類に奉仕することそれ自体,目標となり,人の人生に意味を与えるものとなります。

      たとえわたしたちが広い宇宙にあって小さな存在で,時の流れのごくわずかな部分しか占めていなくても,神に仕えるなら,自分たちの人生が意味深いものであるとみなす上でずっと多くを成し遂げられます。

      義のために苦しめられることにより

      「苦しむことにより自分が犠牲を払っているというように,苦しみに意味のあることが分かった瞬間,何らかの方法で苦しみは苦しみでなくなる。人は苦しむ用意さえある。言うまでもなく,それは自分の苦しみに意味がある場合である」とフランクルは書いています。義のために苦しむこと以上に意味のあることがあるでしょうか。

      「義のために迫害されてきた人たちは幸いです」とイエスは言われました。使徒たちはその喜びを経験しました。こう記されています。「[ユダヤ教の宗教法廷サンヘドリンは]使徒たちを呼び出してむち打ち,イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから,彼らを去らせた。そこでこれらの者は,彼の名のために辱しめられるに足る者とされたことを喜びつつ,サンヘドリンの前から出て行った」。(マタイ 5:10-12。使徒 5:40,41)悪行のために苦しんだとしてもそれにはほめるべき点はありませんが,善を行なって苦しみに遭うのであれば,それは,「神にとって喜ばしいことなのです」。―ペテロ第一 2:20。

  • 生きる意味の究極の源
    目ざめよ! 1981 | 1月22日
    • 生きる意味の究極の源

      「唯一のふさわしい道徳の体系は,人生の究極の意味を基にしたものである」。これは著名な精神科医ロロ・メイの語った言葉です。この体系と人生の究極の意味をどこに見いだせるか,という質問を提起してから,メイはこう答えています。「究極の体系は神の本質である。神の法則は,創造の最初から最後まで生命の底を流れる法則である」。

      メイはさらにこう述べています。「人間には神とのかかわり合いがある。これは人間の中にあって非常に基本的な事柄であるため,人間が創造されたことに起因すると考えられる。その際に,人間は『神の像に造られた』」。メイはまた,人間のエゴと身勝手さのために人間は神の像からそれてしまい,その結果,内面の葛藤と緊張と罪悪感が生じたと語っています。これは使徒パウロの陥ったジレンマを思い起こさせます。パウロはこう語っています。「自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです。わたしはなんと惨めな人間でしょう」。(ローマ 7:19,24)しかし,ここでパウロの述べている事柄の基本的な要点は,人生の究極の意味がエホバ神との関係にあるということです。

      人間は,既に述べた空間や時間だけでなく,自分の周りにいる地球上の幾十億人もの人間を前にすると,自らの存在が小さなものであると感じます。C・G・ユングは,「群衆が大きくなればなるほど,個々の人は取るに足らないものにされやすい」と語っています。そうなると人は「自分が弱小で無力であると感じて圧倒されてしまい」,その結果,「その人の人生は意味のないものになってしまう」のです。

      しかし,個々の人を圧倒するような人間の集団も,神と比べれば無に等しいものです。神にとって,『諸国民は桶からの一しずくのようです。そして彼らは天びんの上の一片の塵のようです。……すべての国々の民はそのみ前には無きもののようです』。(イザヤ 40:15,17,新)この言葉は,西暦1856年に生まれたジグムント・フロイトを中心人物とする現代心理学の様々な学派が確立される2,000年以上も前に書き記されました。

      わたしたちの人生が真に意味あるものとなるには,宇宙の創造者であられるエホバ神とのつながりが必要です。しかし,今日大勢の人々は,神の存在をさえ疑っており,そのため神との関係を持つことを難しく思っています。それでも,神の存在の証拠には事欠きません。天と地を見て,使徒パウロの次の言葉に同意する人は少なくありません。『神の見えない特質は,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるのです』。そうした人々は,記録されている詩篇作者の次の言葉を復唱することもできるでしょう。「天は神の栄光を告げ知らせ,大空はみ手の業を語り告げる」。―ローマ 1:20。詩 19:1,新。

      現在,科学者たちの間で意見の一致を見ているのは,宇宙に初めがあったということです。聖書の冒頭の節もこう述べています。「初めに神は天と地を創造された」。(創世 1:1,新)ロバート・ジャストローは自著「神と天文学者」の中でこう書いています。

      「このように,天文学上の証拠が世界の起源に関する聖書の見解に導くことがわかる。詳細については異なっていても,天地創造の記録は天文学によるものも聖書によるものも同じである。すなわち,人間の出現にまで至る一連の出来事が,時の流れの特定の瞬間に,光とエネルギーのさく裂と共に,突然また急激に始まったということである。科学者の中には,世界がこのような仕方で始まったという概念に不快感を表わす者もいる。……しかし最新の証拠は,幾億年も昔に間違いなく大爆発があったことをほぼ確証している」。

      英国の理論家エドワード・ミルンは,相対性理論に関する数学論文の結論でこう述べています。「膨張説[宇宙大爆発生成説]との関連における宇宙の第一原因については,読者のご高察に任せるが,その存在なくしては我々の心像は未完成である」。

      アメリカ医師会ジャーナル誌の1977年8月22日号899ページはこう述べていました。「今日,生物学を扱う科学者の少なくとも80%は,生物活動と生命が何らかの高位の力によって統制されていることを認めるであろう。

      「生命の様々な表われや細胞・分子レベルの基本的な作用に見られるすばらしい秩序と規則は,より高位の力が存在するという信念に強い影響を及ぼす」。

      さて,この偉大な第一原因者として認められている方にはエホバという名前があり,この方は地を造る際に次のような目的つまり目標を持っておられました。「彼は地を形造り ― 彼はそれを堅くし,永続的なものとされた。彼はそれを荒れ果てた所としてではなく,人々が住む所として造られた」。ですから,アダムが庭園の中に置かれたのも,「それを耕し,それを守る」ためでした。アダムとエバの両人に対して神はこう言われました。「多くの子供をもうけ,あなた方の子孫が地の全面に住み,それを自分たちの管理下に置くように。わたしはあなた方に,魚と鳥とすべての野の動物を管理させる」。(イザヤ 45:18; 創世 2:15; 1:28,今日の英語聖書)「すべてのものをエホバはその目的のために造られた」。これが人類に対する神のお目的であり,その目的が潰えることは決してありません。―箴 16:4,新。イザヤ 46:11。

      今日の人々は自分の人生を意味深いものにしてくれると思える目標を目指して働きますが,そうした目標には永続的な面が備わっているでしょうか。時間や宇宙空間の中にあって,その意味は存続しますか。生きる意味の究極の源は,エホバ神が人類のために定められた仕事を進んで行なうことにあります。それは,地球を管理し,それを美化し,動物に対して愛ある監督を行き届かせ,キリスト・イエスの王国の下で命を享受しながらエホバを賛美することです。こうして,もはや宇宙空間に圧倒されたり,時間に妨げられて存在を断たれたりすることはなくなります。その時にはだれもが,地に対する神の目的と調和し,その目的を促進するようになります。そうなれば,それぞれの人の人生は意味を持つようになります。人間と神にとって意味深いものになるのです。そして,自分の人生を意味深いものにするという究極の目的が時間に妨げられないためには,キリストの王国の下でパラダイスと化する地での永遠の命を得ることを自分の目標にするのです。

      神にささげられた生涯には,宇宙的に重要な意味を持つ別の側面があります。この一連の記事の冒頭に引用した古代の人,ヨブの言葉を覚えておられますか。その言葉が人間の生きる日々の短さとそれが問題に満ちていることを激しく嘆くものであったのを覚えておられますか。ヨブの日々が問題に満ちていたのは,サタン悪魔が幾千年も前に提起した挑戦のためでした。試みの下にあっても神に忠誠を保つ人を地上に持つことなどエホバにはできない,というのがその挑戦でした。

      ある時,エホバがサタンに次のようにお尋ねになったのは,既に提起されていたこの論争との関連においてであったことは疑いのないところです。「あなたはわたしの僕ヨブに心を留めたか。彼のように非の打ちどころがなくて廉潔で,神を恐れ,悪から離れている人は,地上にはひとりもいないのだが」。サタンの反論は次のようなものでした。『あなたは彼の周りに保護の垣を巡らされたのだ。わたしに彼の所有物すべてをはぎ取らせてくだされば,彼は必ずやあなたの顔に向かってあなたをのろうでしょう』。サタンはそうすることを許され,後には痛みを伴う病気を臨ませて,ヨブをひどく苦しめることさえ許されました。神とサタンの間の論争は宇宙的なものでした。それは,エホバ神の天の法廷でみ使いたちを前に公然と述べられたからです。―ヨブ 1:6から2:8。

      サタンは神に対するヨブの忠誠を打ち砕くためにヨブに対してありとあらゆる手を打つことを許されましたが,ヨブの忠誠を破らせることはできませんでした。ヨブは,「わたしは息絶えるまで,自分の忠誠を自分から奪い去らない!」と叫びました。後にヨブは,「神はわたしの忠誠をやがて知ってくださるであろう」と語りました。ヨブは,サタンがうそつきで,その挑戦が偽りであることを証明しました。さらに続くヨブの言葉は,全人類の希望の叫びともなっています。「わたしは,よく知っている。わたしを請け戻す方は生きておられ,わたしの後に来て,塵の上に立ち上がられることを。そして,わたしの皮,これを彼らがはぎ取った後 ― これが! それでも,わたしの肉が衰弱しても,わたしは神を見,この方を,実にわたしは自分で見(る)」。―ヨブ 27:5; 31:6; 19:25-27,新。

      この点で失敗してきた人は少なくないものの,どの時代にも神への忠誠を保ち,サタンの挑戦が偽りであることを証明し,それによってエホバのお名前の立証に貢献した人々がいました。宇宙の創造者の目的を支持すること,人間すべてを神から引き離せると語った時にサタンがうそをついていたことを人間とみ使いたちの前で示せること,これ以上に人生を意味深くするものは確かにありません。

      伝道之書の中でソロモンは,一貫して今の命と世俗の業がむなしいものであることをくり返し語り,それを「短く,むなしい命の日を影のように送る」ことであるとして退けています。(伝道 6:12,口語訳)しかし,ソロモンは若い人々に創造者を覚えるように励まし,次のような言葉でその書を結んでいます。「すべてが聞かれたからには,事の結論はこうである。真の神を恐れ,そのおきてを守れ。これが人の務めの全体だからである。真の神は,あらゆる業を,それが善いか悪いかについて,すべての隠されたことに関連して裁かれるからである」― 伝道 12:13,14,新。

      エホバ神への忠誠のうちに歩んだ人生は,むなしいものでも,無益なものでも,無意味なものでもありません。宇宙の創造者であられるエホバ神は生きる意味の究極の源であられ,エホバにささげられた命は永遠に続き,永遠に意味のあるものとなるでしょう。

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