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  • あなたの業は火に耐えますか
    ものみの塔 1998 | 11月1日
    • あなたの業は火に耐えますか

      「各人は,自分が[土台]の上にどのように建てているかをいつも見守っているべきです」― コリント第一 3:10。

      1 忠実なクリスチャンは,弟子になる見込みのある人に関してどんな期待を抱きますか。

      あるクリスチャン夫婦は,自分たちの生まれたばかりの子供を見つめます。ある王国伝道者は,聖書研究生の顔に意欲的で興味深げな表情を見てとります。演壇から教えるクリスチャンの長老は,聴衆の中にいる新たに関心を持った人が自分の聖書を開いて熱心に聖句を調べているのに気づきます。これらエホバの忠実な僕たちの心は期待に満ちています。そして,こう考えずにはいられません。『この人はエホバを愛してエホバに仕えるようになるだろうか。そして,忠実を保つだろうか』。もちろん,自動的にそうなるわけではありません。それには業が必要です。

      2 使徒パウロはヘブライ人のクリスチャンに,教える業の重要性をどのように思い起こさせましたか。このことから,どんな自己吟味をするよう促されるでしょうか。

      2 自分自身も優れた教え手であった使徒パウロは,「あなた方は,時間の点から見れば教える者となっているべき(です)」と書いた時,教えて弟子を作る業の重要性を強調しました。(ヘブライ 5:12)パウロの語りかけたクリスチャンたちは,信者となって長い年月を経ていた割には進歩していませんでした。他の人を教える用意ができているどころか,真理の基本的な点を思い起こさせてもらう必要があったのです。今日,わたしたちも時折,教える者としての自分の能力を吟味し,どのように改善できるかを考えてみるのは良いことです。命がかかっているからです。わたしたちは何ができるでしょうか。

      3 (イ)使徒パウロは,クリスチャンの弟子を作る過程を何になぞらえましたか。(ロ)クリスチャンの建築者であるわたしたちにはどんな大きな特権がありますか。

      3 パウロは,広く適用できる一つの例えの中で,弟子を作る業を建物の建築の工程になぞらえました。初めにこう述べています。「わたしたちは神と共に働く者……です。あなた方は耕されている神の畑,神の建物です」。(コリント第一 3:9)ですから,わたしたちは人々に関連した建てる業に加わっており,人をキリストの弟子へと築き上げるよう助けます。「すべてのものを造られた」方の同労者としてそうするのです。(ヘブライ 3:4)何と大きな特権でしょう。この業にさらに熟達するのにコリント人へのパウロの霊感による助言がどのように助けとなるか,考えてみましょう。特に「教えの術」に焦点を合わせます。―テモテ第二 4:2。

      ふさわしい土台を据える

      4 (イ)クリスチャンの建てる業におけるパウロの役割は何でしたか。(ロ)イエスとイエスの話を聴く人々の双方が良い土台の重要性を知っていた,となぜ言えますか。

      4 建物を安定性と耐久性のあるものにしたいのであれば,良い土台が必要です。それでパウロは,「自分に与えられた神の過分のご親切のもとに,賢い作業監督として土台を据えました」と書いています。(コリント第一 3:10)イエス・キリストもそれに似た例えを用い,建築者が堅固な土台を選んでいたので家があらしに遭っても持ちこたえた,という話をされました。(ルカ 6:47-49)イエスは土台の重要性についてすべてを知っていました。エホバがまさに地の基を据えた時,その場にいたのです。a (箴言 8:29-31)イエスの話を聴く人々も,良い土台の大切さを認識していました。パレスチナで時折生じた鉄砲水や地震に耐えることができたのは土台のしっかりした家だけだったからです。しかし,パウロが念頭に置いていたのはどんな土台のことでしょうか。

      5 クリスチャン会衆の土台はだれですか。このことはどのように予告されていましたか。

      5 パウロはこう書きました。「据えられているもの,それはイエス・キリストですが,それ以外の土台を据えることはだれもでき(ません)」。(コリント第一 3:11)イエスが土台に例えられたのはこの時が初めてではありません。事実,イザヤ 28章16節はこう予告していました。「主権者なる主エホバはこのように言われた。『いまわたしはシオンにひとつの石を基として据える。それは試みを経た石,確かな基の貴重な隅石である』」。エホバはずっと前から,み子がクリスチャン会衆の土台となることを意図しておられたのです。―詩編 118:22。エフェソス 2:19-22。ペテロ第一 2:4-6。

      6 パウロはコリント人のクリスチャンの内にどのように適正な土台を据えましたか。

      6 個々のクリスチャンにとって土台となるのは何でしょうか。パウロが述べたように,神の言葉の中で据えられている方 ― イエス・キリスト ― 以外に真のクリスチャンのための土台はありません。パウロは確かにそのような土台を据えました。哲学が非常に高く評価されていたコリントでも,世の知恵で人々に感銘を与えようとはしませんでした。むしろパウロは,諸国民が全く愚かなこととして退ける「杭につけられたキリスト」を宣べ伝えました。(コリント第一 1:23)パウロは,イエスこそエホバの目的における中心人物である,と教えました。―コリント第二 1:20。コロサイ 2:2,3。

      7 パウロが自分を「賢い作業監督」と呼んだことから,何を学べますか。

      7 パウロは自分が「賢い作業監督として」そのような教えを施したと述べました。これは独り善がりの発言ではありません。エホバから与えられたすばらしい賜物 ― 業を組織したり指導したりする賜物 ― を認めていたにすぎません。(コリント第一 12:28)もちろん,今日のわたしたちは,1世紀のクリスチャンに授けられた奇跡的な賜物は持っていません。それに,自分自身のことを,優れた才能のある教え手とは思わないかもしれません。しかし,ある重要な意味において,わたしたちは優れた才能のある教え手なのです。考えてみてください。エホバはわたしたちを助けるために聖霊を与えてくださいます。(ルカ 12:11,12と比較してください。)また,わたしたちにはエホバに対する愛と,み言葉の基本的な教えに関する知識とがあります。これらは,他の人を教える際に用いるべき本当にすばらしい賜物です。適正な土台を据えるためにそれらを活用することを決意しましょう。

      8 弟子となる見込みのある人の内にどのようにキリストを土台として据えますか。

      8 わたしたちは,キリストを土台として据える際,キリストを飼い葉おけの中の無力な赤子として示すことも,三位一体におけるエホバと同等の方として示すこともしません。そうです,そのような非聖書的概念は,偽クリスチャンの土台を成しているのです。むしろわたしたちは,イエスがこれまでに生存した最も偉大な人であること,わたしたちのためにその完全な命をなげうってくださったこと,また今日天で統治している,エホバの任命された王であることを教えます。(ローマ 5:8。啓示 11:15)また,研究生にはイエスの足跡に従って歩み,イエスの特質に倣おうという意欲を起こさせるように努めます。(ペテロ第一 2:21)イエスの示した宣教に対する熱心さ,低い立場にある人や踏みにじられた人に対する同情心,罪悪感に打ちひしがれた罪人に対する憐れみ,試練に面しても揺るぐことのない勇気などに,研究生が深く心を動かされることを望みます。確かにイエスは立派な土台です。では,次に来るのは何でしょうか。

      ふさわしい資材で築き上げる

      9 パウロはおもに土台を据える者でしたが,自分が教えた事柄についての真理を受け入れた人たちにどんな関心を抱いていましたか。

      9 パウロはこう書きました。「さて,この土台の上に,金,銀,宝石,木材,干し草,刈りわらで建てるなら,各人の業は明らかになります。その日がそれを示すのです。それは火によって表わし示されるからです。まさにその火が,各人の業がどんなものかを証明するのです」。(コリント第一 3:12,13)パウロは何を言おうとしたのでしょうか。背景を考えてみましょう。パウロはおもに土台を据える者でした。宣教旅行で都市から都市へと旅をし,キリストについて一度も聞いたことのない多くの人に宣べ伝えました。(ローマ 15:20)人々がパウロの教えた真理を受け入れるにつれ,各地に会衆が設立されてゆきました。パウロはそれら忠実な人たちのことを深く気遣いました。(コリント第二 11:28,29)しかし,業を進めるためには旅を続けなければなりませんでした。それで,コリントで土台を据えながら18か月を過ごした後,他の都市でも宣べ伝えるためにそこを去りました。それでも,自分がそこで始めた業を他の人たちがどのように成し遂げてゆくかに鋭い関心を抱いていました。―使徒 18:8-11。コリント第一 3:6。

      10,11 (イ)パウロは種類の異なる建築資材をどのように対照させましたか。(ロ)古代コリントには,文字どおりのどんな種類の建物が存在していたと考えられますか。(ハ)火に耐えやすいのはどんな種類の建物ですか。それは,弟子を作るクリスチャンにとってどんな実物教育となりますか。

      10 パウロがコリントで据えた土台の上に築いていた人たちの中には,ずさんな仕事をしている人もいたようです。その問題を明らかにするために,パウロは2種類の建築資材を対照させました。すなわち,一方は金,銀,宝石で,他方は木材,干し草,刈りわらです。建物は,良質の,耐久性のある,火に耐える資材で建てることもできれば,使い捨ての,間に合わせにすぎない,燃えやすい資材で急いでこしらえることもできます。コリントのような大都市には,どちらの種類の建物も沢山あったことでしょう。数多くの巨大な,高価な切り石で造られた印象的な神殿が幾つもありました。それらは部分的に金や銀で表面が覆われたり装飾が施されたりしていたかもしれません。b そうした耐久性のある建造物は,近辺の粗末な木製の骨組みでわら葺きの差し掛け小屋や,あばら屋,屋台などよりも高く堂々とそびえていたものと思われます。

      11 そうした建物は火事になったらどうなるでしょうか。答えは,パウロの時代にも今の時代と同じほど明白でした。実際,コリントの町は,西暦前146年にローマの将軍ムンミウスに征服されて火を掛けられたことがありました。木材,干し草,刈りわらなどで作られていた多くの物は,すっかり焼けてなくなったに違いありません。銀や金で装飾を施された頑丈な石造りの建物はどうだったでしょうか。恐らく,残存したでしょう。コリントにいたパウロの研究生たちは,そのような建物のそばを毎日通っていたことでしょう。それらは,近隣にあった耐久性のない建物を全滅させた,かつての災難の時にも持ちこたえた,見事な石造りの建物でした。ですから,パウロは言いたいことを実に鮮やかに述べていたのです。わたしたちも,教える際には自分を建築者のようにみなす必要があります。できる限り最善の,最も耐久性のある資材で作業をしたいと思います。そのようにすれば,自分の業が永続する可能性は大きくなります。それら耐久性のある資材とは何でしょうか。また,それを用いることが肝要なのはなぜでしょうか。

      あなたの業は火に耐えるか

      12 コリント人のクリスチャンのうちのある人々は,どんな点で,粗雑な建築を行なっていましたか。

      12 コリントのクリスチャンの中にはずさんな建て方をしている人もいる,とパウロが考えていたことは明らかです。どこが間違っていたのでしょうか。文脈からも分かるように,会衆は分裂を生じさせる傾向に悩まされていました。会衆内の一致を危うくするにもかかわらず人物を称賛する傾向があったのです。「わたしはパウロに属する」と言う人もいれば,「わたしはアポロに[属する]」と主張する人もいました。また,自分の知恵を買いかぶっていた人もいたようです。その結果,肉的な考え方,霊的未熟,ひどい「ねたみや闘争」を特徴とする雰囲気になっていたのも驚くには当たりません。(コリント第一 1:12; 3:1-4,18)そうした態度は,きっと会衆内や宣教奉仕における教えに反映されたことでしょう。その結果,弟子を作る業は,劣悪な資材を使った建築のように,粗雑なものになりました。そのような建物は「火」を切り抜けられません。パウロはどんな火のことを言っていたのでしょうか。

      13 パウロの例えで言われている火は何を表わしていますか。クリスチャンは皆,何を知っているべきですか。

      13 わたしたちすべてが生活の中で直面する一種の火があります。すなわち,信仰の試みです。(ヨハネ 15:20。ヤコブ 1:2,3)コリントのクリスチャンは,自分が真理を教える相手の人はみな必ず試される,ということを知っていなければなりませんでした。このことは今日のわたしたちも知っておかなければなりません。教え方がずさんだと,残念な結果になるかもしれません。パウロはこう警告しました。「その上に建てただれかの業が残るなら,その人は報いを受けます。だれかの業が燃え尽きるなら,その人は損失を被ることになりますが,その人自身は救われます。しかし,そうであるとしても,火をくぐるようにしてでしょう」c ― コリント第一 3:14,15。

      14 (イ)弟子を作るクリスチャンはどのように「損失を被る」ことがありますか。しかしまたどのように,火をくぐるようにして救われるかもしれませんか。(ロ)どうすれば,損失を被る危険を最小限にとどめることができますか。

      14 本当に身の引き締まる言葉です。せっかく人を弟子になるよう助けたにもかかわらず,その人が誘惑や迫害に屈し,挙げ句の果てに真理の道から離れてしまうとすれば,非常に心が痛むことになります。パウロはそれを認め,そのような場合にわたしたちが損失を被ると述べています。その経験は,わたしたちが「火をくぐるようにして」救われると描写されるほど ― つまり,火事で何もかも失い,辛うじて命だけ助かった人の場合のように ― 非常に痛ましい経験となるかもしれません。わたしたちとしては,どうすれば損失の危険を最小限にとどめることができるでしょうか。耐久性のある資材で建てることです。研究生の心に訴えて,知恵,識別力,エホバへの恐れ,真の信仰といった貴重なクリスチャンの特質の大切さを認識するよう促すなら,耐久性のある,火に耐える資材で建てていることになります。(詩編 19:9,10。箴言 3:13-15。ペテロ第一 1:6,7)そうした特質を身につける人は,神のご意志を行ないつづけることでしょう。永久に生きていられるという確かな希望は,そのような人のものです。(ヨハネ第一 2:17)では,どうすればパウロの例えを実際に生かせるでしょうか。幾つかの例を考えてみましょう。

      15 自分の聖書研究生に関して粗雑な建築を行なわないよう,どんな点に気をつけることができますか。

      15 わたしたちは,聖書研究生を教える際,決して人間をエホバ神の上に高めるべきではありません。目標は,わたしたちを知恵の主要な源とみなすように教えることではありません。研究生には,エホバ,み言葉,神の組織に導きを求めてもらいたいと思います。そのため,何か尋ねられた場合,答えとして自分の見解を述べて済ませるようなことはしません。むしろ,聖書と「忠実で思慮深い奴隷」の提供している出版物を用いて答えを見いだすように教えます。(マタイ 24:45-47)同様の理由で,自分の聖書研究生を独り占めしないように気をつけます。他の人が研究生に関心を示すときには,憤慨する代わりに,研究生が愛情の点で「自分を広くし(て)」会衆内のできるだけ多くの人を知り,正しく評価するよう励ますべきです。―コリント第二 6:12,13。

      16 長老たちはどのように,耐火性の資材で建てることができますか。

      16 クリスチャンの長老たちも,弟子を築くのに重要な役割を演じます。会衆の前で教える際,耐火性の資材で建てるように努めます。教える能力,経験,人格などは長老によってそれぞれ大いに異なるとしても,長老はその相違点を利用して追随者たちを自分につかせようとはしません。(使徒 20:29,30と比較してください。)コリントの一部の人々がなぜ「わたしはパウロに属する」とか「わたしはアポロに」と言っていたのか正確には分かりません。しかし,それら忠実な長老のどちらもそのような分裂的な考えを助長したりしなかったと,わたしたちは確信できます。パウロはそのような言葉におだてられることなく,そのように言う人たちの誤りを力強く証明しました。(コリント第一 3:5-7)同じように今日,長老たちは自分が「神の羊の群れ」を牧していることを思いに留めます。(ペテロ第一 5:2)その群れはどんな人間のものでもありません。ですから長老たちは,だれか一人が羊の群れや長老団を支配するような傾向には屈しません。会衆に仕え,心に訴え,羊たちがエホバに魂をこめて仕えられるように助けたいという謙遜な願いによって動機づけられている限り,長老たちは耐火性の資材で建てているのです。

      17 クリスチャンの親はどのように,耐火性の資材で建てるよう努力しますか。

      17 クリスチャンの親たちも,このことに深い関心を抱いています。自分の子供が永久に生きるのをこの目で見たい,と切に願っています。だからこそ,子供の心に神の言葉の諸原則を「教え込(もう)」と骨折っているのです。(申命記 6:6,7)親は子供に真理を,単なる規則集もしくは同じ事実を繰り返し述べたものとしてではなく,満ち足りた,報いの多い,幸せな生き方として知ってほしいと思っています。(テモテ第一 1:11)愛情深い親は,子供をキリストの忠実な弟子へと築き上げてゆくために,耐火性の資材を用いるよう努力します。辛抱強く子供と共に働き,エホバの憎まれる特質を摘み取って,エホバの愛される特質を培うよう助けます。―ガラテア 5:22,23。

      だれに責任があるか

      18 弟子が健全な教えを退けたとしても,それは必ずしも,当人を教えて訓練しようと努力した人の落ち度ではありません。なぜそう言えますか。

      18 ここまで考察を進めてくると,一つの重要な質問が生じます。わたしたちは,助けようと努力したのにその人が真理から離れ落ちた場合,教える者として失敗した ― つまり,劣悪な資材で建てたに違いない ― ということになるのでしょうか。必ずしもそうではありません。パウロの言葉は確かに,弟子を築く業には重大な責任が伴うことを思い起こさせます。わたしたちは,上手に築くために,力の及ぶかぎり何でも行ないたいと思います。しかし神の言葉は,わたしたちが助けようと努めたのにその人が真理から離れ去る場合,その責任はすべてわたしたちの側にあり,わたしたちは自責の念に駆られるようになる,と述べているのではありません。建築者としてのわたしたちの役割だけでなく,関係する要素がほかにもあります。例えば,この建築でずさんな仕事をした教え手に関してパウロが述べている事柄,すなわち「その人は損失を被ることになりますが,その人自身は救われます」という言葉に留意してください。(コリント第一 3:15)もしこの人が ― 研究生の内に築き上げようと努力したクリスチャン人格が火のような試みに遭って「燃え尽きる」と描写されていながらも ― 結局は救われるのであれば,わたしたちはどんな結論を下さなければならないでしょうか。そうです,エホバは,忠実な歩みをするかどうかに関して研究生の決めることはおもに研究生自身に責任がある,とみなされるのです。

      19 次の記事ではどんなことを考察しますか。

      19 本人すなわち個人の責任ということは,非常に重要な問題です。これはわたしたち一人一人に影響します。特に,聖書はその問題に関してどんなことを教えているでしょうか。次の記事でその点を考察します。

      [脚注]

      a 『地の基』とは,地球 ― および天体すべて ― をしかるべき場所にしっかり保っている物理的な力のことかもしれません。それに,地球そのものも,決して『よろめく』つまり滅びを被ることがないように造られています。―詩編 104:5。

      b パウロの言う「宝石」とは,必ずしもダイヤモンドやルビーのような宝石のことではありませんでした。むしろ大理石,雪花石こう,あるいは花崗岩といった高価な建築用石材であったかもしれません。

      c パウロが疑問視していたのは,建てる人ではなく,建てる人の「業」が救われるかという点です。「新英訳聖書」はこの節をこう訳しています。「ある人の建てた物が持ちこたえるなら,その人は報われます。もし燃えてしまえば,その損失を忍ばねばなりません。しかし自らは,火から逃れるようにして生き延びるでしょう」。

  • 自分の救いを達成してゆきなさい
    ものみの塔 1998 | 11月1日
    • 自分自身の内に行なう“建てる”業

      4 コリント第一 3章10-15節は耐火性の資材を用いて建てることについて述べていますが,これはどういう意味ではありませんか。

      4 コリント第一 3章10節から15節の使徒パウロの例えを考えてみましょう。その箇所でパウロはクリスチャンの行なう建てる業のことを述べており,その例えの原則は内面的な宣教と外面的な宣教に当てはまります。パウロが言おうとしているのは,弟子が最終的にエホバに仕えることを選び,その選んだ道にとどまるかどうかは,その人を教えて訓練した人にすべての責任があるということでしょうか。そうではありません。パウロは,教える者が建てる業に可能な限り最善の努力を尽くすことの重要性を強調していたのです。前の記事で学んだように,そのことに関して研究生や弟子には選択の余地がないと言っていたのではありません。確かに,パウロの例えは,わたしたちが自分自身を築き上げることにではなく,他の人の内に行なう業に焦点を合わせています。そのことは,建てられたものが粗雑であれば,それは焼けてなくなっても,建てる人自身は救われる,とパウロが述べていることから明らかです。とはいえ聖書は,同じ比喩的表現を,わたしたちが自分自身の内に行なう業に適用している場合も実際にあります。

      5 クリスチャンが自分自身の内に“建てる”業を行なわなければならないことは,どんな聖句に示されていますか。

      5 例えば,ユダ 20節と21節を考えてみてください。「愛する者たちよ,あなた方は,自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ,聖霊をもって祈ることにより,自分を神の愛のうちに保ちなさい」とあります。ユダはここで,パウロがコリント第一 3章で使ったのと同じ『築く』という意味のギリシャ語を使っていますが,ここの要点は,わたしたちが自分自身を自分の信仰という土台の上に築き上げるということのようです。ルカも,岩塊の上に家を建てた人に関するイエスの例えを記録する際,パウロがクリスチャンの建築に関する例えの中で使っているのと同じ「土台」という意味のギリシャ語を使っています。(ルカ 6:48,49)さらにパウロも,仲間のクリスチャンに霊的な進歩を遂げるよう勧める際に,「土台」の上に堅く立てるという概念を用いています。そうです,神の言葉はわたしたちが自分自身の内に“建てる”業を行なうべきことを教えているのです。―エフェソス 3:15-19。コロサイ 1:23; 2:7。

      6 (イ)クリスチャンの弟子一人一人が共同建築プロジェクトの結果であることを例えで説明してください。(ロ)弟子の各人にはどんな責任がありますか。

      6 クリスチャンを築くことは一個人の仕事でしょうか。では,家を建てることに決めた自分を想像してみてください。設計図を描いてもらうために建築技師の所へ行きます。作業の多くは自分でするつもりですが,一緒に働きながら最善の方法を教えてくれる請負人を雇います。もしその人が堅固な土台を据え,設計図を理解できるよう助けてくれ,購入すべき最良の資材を提案し,さらには建築について多くのことを教えてくれるなら,あなたはその人の働きが良いものであったと認めるでしょう。しかし,その人のアドバイスを無視し,資材も安物や粗悪な物を買い求め,しかも建築技師の設計図から逸脱するとしたら,どうでしょうか。家が崩壊したとしても,請負人や建築技師を責めることはできないでしょう。同様に,クリスチャンの弟子一人一人も,共同建築プロジェクトの結果です。エホバは大建築技師です。忠実なクリスチャンが「神と共に働く者」の一人として研究生を教え,築き上げるとき,エホバはそのクリスチャンを支援されます。(コリント第一 3:9)とはいえ,研究生も関係しています。結局,当人の選ぶ人生の歩み方については当人に責任があるのです。(ローマ 14:12)立派なクリスチャンの特質を自分のものとしたいなら,それを身に着けるため,つまりそれを自らの内に築くために懸命に努力しなければなりません。―ペテロ第二 1:5-8。

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