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    ものみの塔 1996 | 9月1日
    • キリストの律法

      「[わたしは]キリストに対して律法のもとにある者です」― コリント第一 9:21。

      1,2 (イ)人間の犯した間違いの多くは,どうすれば防ぐことができたでしょうか。(ロ)キリスト教世界はユダヤ教の歴史から何を学び損ないましたか。

      「人民や政府が,歴史から何かを学んだ,つまり学び取れる原則に基づいて行動したという例は一つもない」。19世紀のドイツの哲学者はそう述べました。実際,これまでの人間の歴史は,「愚者の行進」,つまりひどい不手際と危機の連続と描写されてきました。その多くは,人間が過去の間違いから学ぼうとさえしていたなら防ぎ得たものです。

      2 過去の間違いから学ぼうとしないこの傾向が,神の律法に関するこの論考の中でもはっきり見えてきます。エホバ神はモーセの律法をさらに勝ったものに,すなわちキリストの律法に置き換えられました。ところが,キリスト教世界の指導者たちは,この律法を教えて,それに従った生き方をしていると唱えながらも,パリサイ人の甚だしい愚行から学んではきませんでした。そのためキリスト教世界は,ユダヤ教がモーセの律法に対してしたのと同じように,キリストの律法を曲解し,誤用してきました。どうしてなのでしょうか。まず,この律法そのものについて考慮しましょう。それはどのようなもので,だれを対象とし,どのように適用されますか。また,モーセの律法とはどんな点で違うのでしょうか。その後で,キリスト教世界がそれをどのように誤用してきたかについて調べます。こうしてわたしたちは歴史から学び,そこから益を受けられますように。

      新しい契約

      3 エホバは新しい契約に関してどんな約束をされましたか。

      3 エホバ神以外のだれが,完全な律法をさらに優れたものにすることなどできるでしょうか。モーセの律法契約は完全なものでした。(詩編 19:7)にもかかわらず,エホバはこう約束されました。「見よ,日がやって来る……わたしはイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは,わたしが彼らの父祖たちの手を取ってエジプトから連れ出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない」。モーセの律法の核心を成す十戒は石の書き板に記されました。しかし,新しい契約についてエホバは,「わたしは彼らの内にわたしの律法を置き,彼らの心の中にそれを書き記す」と言われました。―エレミヤ 31:31-34。

      4 (イ)新しい契約に関係しているのはどのイスラエルですか。(ロ)霊的イスラエル人のほかにだれがキリストの律法のもとにいますか。

      4 だれがこの新しい契約に入れられることになっていましたか。この契約の仲介者を退けた,文字どおりの「イスラエルの家」でないことは確かです。(ヘブライ 9:15)そうです,このたびの新しい「イスラエル」とは「神のイスラエル」,つまり霊的イスラエル人から成る国民です。(ガラテア 6:16。ローマ 2:28,29)霊で油そそがれたクリスチャンのこの小規模なグループには,あらゆる国民の中から来て,同じようにエホバを崇拝しようとする人々の「大群衆」が後に加わることになっていました。(啓示 7:9,10。ゼカリヤ 8:23)新しい契約の当事者ではありませんが,これらの人々も律法に服します。(レビ記 24:22; 民数記 15:15と比較してください。)「一人の羊飼い」のもとにある「一つの群れ」としてこれらの人々すべては,使徒パウロが書いているとおり,「キリストに対して律法のもとに」あるのです。(ヨハネ 10:16。コリント第一 9:21)パウロはこの新しい契約を「勝った契約」と呼びました。なぜでしょうか。一つに,それは来たるべき事柄の影にではなく,成就した約束に基づいているからです。―ヘブライ 8:6; 9:11-14。

      5 新しい契約にはどんな目的がありますか。これはなぜ成果を挙げますか。

      5 この契約にはどんな目的がありますか。それは,全人類に祝福をもたらすため,王たちまた祭司たちから成る国民を生み出すことです。(出エジプト記 19:6。ペテロ第一 2:9。啓示 5:10)モーセの律法契約はこのような国民を完全な意味では生み出しませんでした。イスラエルは全体としては反逆して,その機会を逸しました。(ローマ 11:17-21と比較してください。)しかし,新しい契約は確実に成果を挙げます。それは非常に異なったタイプの律法と結びついているからです。どんな点で異なっているでしょうか。

      自由に属する律法

      6,7 キリストの律法はどのようにモーセの律法より大きな自由を差し伸べていますか。

      6 キリストの律法は,繰り返し自由と結びつけて述べられています。(ヨハネ 8:31,32)「自由の民の律法」,また「自由に属する完全な律法」と呼ばれています。(ヤコブ 1:25; 2:12)もちろん,人間の間での自由はすべて相対的なものです。それでも,この律法はそれ以前のもの,つまりモーセの律法よりずっと大きな自由を差し伸べます。どのようにでしょうか。

      7 一つに,キリストの律法のもとに生まれついた人はいないという点です。人種や出生地などの要素は関係がありません。真のクリスチャンはこの律法への従順というくびきを受け入れることを自分の心の中で自由に選び取ります。そうするとき,それが心地よいくびき,軽い荷であることに気づきます。(マタイ 11:28-30)結局のところモーセの律法は,人が罪のある者であり,請け戻しのための贖いの犠牲を切実に必要とする者であることを人に教えようとして与えられたものでもありました。(ガラテア 3:19)キリストの律法は,メシアが来て,自分の命をもって贖いの代価を払い,わたしたちが罪と死による厳しい虐げから自由になる道を開いたことを教えています。(ローマ 5:20,21)益を受けるためには,その犠牲に「信仰を働かせる」必要があります。―ヨハネ 3:16。

      8 キリストの律法には何が含まれますか。それに従って生きるために幾百もの法的規則を覚える必要がないのはなぜですか。

      8 「信仰を働かせる」ことには,キリストの律法に従って生きることが伴っています。それにはキリストの命令すべてに従うことも含まれます。これは幾百もの戒律や法令を覚えるという意味でしょうか。そうではありません。古い契約の仲介者であったモーセは,モーセの律法を書き記しましたが,新しい契約の仲介者であるイエスは,ただ一つの律法も書きませんでした。むしろ,それに沿って生きたのです。その完全な生き方によって,すべての人の従うべき型を定めました。(ペテロ第一 2:21)初期クリスチャンの崇拝が「この道」と呼ばれたのはそのためでしょう。(使徒 9:2; 19:9,23; 22:4; 24:22)彼らにとって,キリストの律法はキリストの生き方のうちに例示されました。イエスに見倣うことはこの律法に従うことでした。彼らがイエスを熱烈に愛したことは,預言されていたとおりこの律法がまさしく彼らの心に書き記されたことを意味しました。(エレミヤ 31:33。ペテロ第一 4:8)そして,愛ゆえに従う人は,虐げられているなどとは考えません。これも,キリストの律法が「自由の民の律法」と呼ばれる理由です。

      9 キリストの律法のまさに本質を成すものは何ですか。この律法にはどんな意味で新しい命令が含まれていますか。

      9 モーセの律法において愛が重要だったのであれば,クリスチャンの律法において愛はまさにその本質です。そのため,キリストの律法には一つの新しい命令が含まれています。すなわち,クリスチャンは互いに対して自己犠牲的な愛を抱くべきであるという命令です。イエスがしたのと同じように愛さなければなりません。イエスは友のために進んで命を捨てられたのです。(ヨハネ 13:34,35; 15:13)ですから,キリストの律法はモーセの律法に比べ,神権政治のさらに高遠な表現であると言ってよいでしょう。本誌が以前に述べたとおりです。「神権政治は神による支配であり,神は愛である。ゆえに,神権政治は愛による支配である」。

      イエスとパリサイ人

      10 イエスの教えはパリサイ人の教えとどのように対照的でしたか。

      10 そうであれば,イエスが当時のユダヤ人の宗教指導者たちと相いれなかったのも特に驚くべきことではありません。「自由に属する完全な律法」は,書士やパリサイ人たちの思いからは全くかけ離れたものでした。彼らは民を人間の設けた種々の規定によって支配しようとしました。その教えは圧制的,断罪的,否定的なものになりました。それとは全く対照的に,イエスの教えは心底から人を築き上げる,積極的なものでした。イエスは実際を重んじ,民の真の必要や関心にこたえました。日常生活から得られる例えを用い,神の言葉という権威をよりどころとし,分かりやすく,真実の感情をこめて教えました。だからこそ,「群衆はその教え方に驚き入っていた」のです。(マタイ 7:28)そうです,イエスの教えは彼らの心をとらえました。

      11 モーセの律法は道理と憐れみをもって適用すべきであった,ということをイエスはどのように実証されましたか。

      11 イエスはモーセの律法にさらに規定を付け加えるのではなく,ユダヤ人がその律法をどのように適用してくるべきであったか,すなわち道理と憐れみをもって適用すべきことを示しました。例えば,血の流出を患っていた女性がイエスに近づいた時のことを思い起こしてください。モーセの律法によれば,そのような女性が触れた人はだれでも汚れた者となりました。ですから,そのような女性は群衆の中に出るものではないとされていたのです。(レビ記 15:25-27)ところがその女性は,いやされたいという一心で,群衆をかき分けて進み,イエスの外衣に触りました。するとすぐに,出血は止まりました。イエスはその女性を,律法に違反したとして叱責したでしょうか。いいえ,むしろその人のやむにやまれぬ事情を思いやり,律法の最大の教え,すなわち愛を実証されました。イエスは相手の身になって考え,その女性に,「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい。そして,あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」と言われました。―マルコ 5:25-34。

      キリストの律法はどんなことでも許容するのか

      12 (イ)キリストはどんなことでも許容するものと思うべきでないのはなぜですか。(ロ)多くの法律を作れば多くの抜け道ができることはどんなところにも見られますか。

      12 では,パリサイ人がそのすべての口頭伝承をもって人の行動を厳重な境界内に一応とどめたのに対し,キリストの律法は「自由に属する」ものであるゆえにどんなことでも許容する,と結論すべきでしょうか。いいえ,そうではありません。今日の種々の法体系が例証するとおり,多くの場合,法律が増えれば人が見いだす抜け道も多くなります。a イエスの時代,パリサイ人の設けた規則が多かったため,その抜け道を探すことや,愛のこもらない業をおざなりに行なうこと,また内面の腐敗を隠すために外面を義で装うことが行なわれました。―マタイ 23:23,24。

      13 キリストの律法が,どんな法律より高い行動の規準となるのはなぜですか。

      13 それとは対照的に,キリストの律法はそのような態度を助長しません。事実,エホバの愛に基づき,また他の人々に対するキリストの自己犠牲的な愛に見倣うことによって守られる律法に従うことは,形式的な法的規範に従うことよりはるかに高い行動の規準となります。愛は抜け道を探しません。愛を抱いていれば,法典で明確に禁じられてはいなくても害となる事柄は行ないません。(マタイ 5:27,28をご覧ください。)ですから,キリストの律法は,形式的などんな法もわたしたちにさせることのできないような仕方で,他の人々のために物事を行なうよう,つまり寛大さやもてなしの精神や愛を示すようわたしたちを動かします。―使徒 20:35。コリント第二 9:7。ヘブライ 13:16。

      14 キリストの律法に従って生きることは,1世紀のクリスチャン会衆にどんな影響をもたらしましたか。

      14 初期のクリスチャン会衆は,成員がキリストの律法に従った生き方をすれば,それだけ温かく愛のある雰囲気を享受できました。比較的に言って会衆は,当時の各地の会堂で非常に一般的であった,厳格ですぐに善悪を決めたがる偽善的な傾向を免れていました。これら巣立ったばかりの会衆の成員には,「自由の民の律法」に従った生き方をしているという実感があったに違いありません。

      15 クリスチャン会衆を腐敗させようとするサタンの初期の努力にはどのようなものがありましたか。

      15 しかしサタンは,かつてイスラエル国民を腐敗させたように,クリスチャン会衆を内部から腐敗させようと躍起になりました。使徒パウロは,「曲がった事柄を言(って)」神の羊の群れを虐げるおおかみのような者たちについて警告しました。(使徒 20:29,30)パウロはユダヤ教化を図る人々と闘わなければなりませんでした。それらの人々は,キリストの律法に伴う相対的な自由を,キリストにあってすでに成就していたモーセの律法への奴隷状態に置き換えようと努めたのです。(マタイ 5:17。使徒 15:1。ローマ 10:4)使徒たちの最後の者が亡くなってからは,そのような背教に対する抑制力がなくなりました。そのため,腐敗が急速に広まりました。―テサロニケ第二 2:6,7。

      キリスト教世界はキリストの律法を汚す

      16,17 (イ)キリスト教世界ではどんな形態の腐敗が生じましたか。(ロ)カトリック教会の戒律はどのように,性に関してゆがんだ見方を助長するものとなりましたか。

      16 ユダヤ教の場合と同様,キリスト教世界においても腐敗の形態は一つにとどまりませんでした。やはり偽りの教理や締まりのない道徳観のえじきになりました。そして,信徒たちを外部の影響から保護しようとするその努力が,清い崇拝の名残をもむしばんでしまう場合が少なくありませんでした。厳格で非聖書的な戒律が次々と設けられました。

      17 カトリック教会は,幾つもの法典から成る膨大な教会法を設ける点で先頭に立ってきました。これらの戒律は,性に関連した事柄で特にゆがめられました。「性に対する見方とカトリック教」という本によれば,同教会は,どんな形態の快楽にも警戒心を抱くストア主義のギリシャ哲学を吸収しました。また,性の快楽は正常な夫婦関係におけるものも含めてすべて罪深い,と教えるようになりました。(箴言 5:18,19と対比してください。)性は生殖のためであって,それ以外のためのものではない,と主張されました。そのため教会法では,避妊はどんな形態のものでも非常に重い罪とされ,その罪を犯したなら長年にわたって贖罪行為をしなければならない場合もありました。さらにまた,司祭の職に就く人は結婚することを禁じられました。この布告は,児童虐待も含めて多くの不義の性関係を生じさせるものとなってきました。―テモテ第一 4:1-3。

      18 教会法の数が増えた結果,どんなことが生じましたか。

      18 教会法は数が増すにつれ,集成されて幾つもの書物になりました。こうした書物は,聖書をあいまいなものとし,聖書を押しのけるようになりました。(マタイ 15:3,9と比較してください。)ユダヤ教と同様,カトリック教も,一般の書物を疑いの目で見,その多くを脅威とみなしました。この見方は間もなく,この点に関する聖書の分別ある警告をはるかに越えたものになりました。(伝道の書 12:12。コロサイ 2:8)西暦4世紀の教会著述家ヒエロニムスは,「ああ,主よ,われ再び世の書物を所有する,あるいは読むことあらば,われなんじを否みたるなり」と声を上げました。やがて,カトリック教会は書物を ― 宗教とは無関係の論題の書物をさえ ― 検閲するようになりました。例えば,17世紀の天文学者ガリレオは,地球が太陽の周りを回っていると書いたことで痛烈に批判されました。教会が自分たちはどんな事柄に関しても ― 天文学の問題に関してさえ ― 最終的な権威であると言って譲らなかったことは,長期的には聖書に対する信仰を弱めさせるものとなりました。

      19 修道院はどのように厳格な権威主義を助長する所となりましたか。

      19 教会の規則作りは,修道士たちの自己否定の生き方のために世から隔てられた修道院で盛んに行なわれました。ほとんどのカトリック修道院は「聖ベネディクトゥスの宗規」に付き従いました。大修道院長(英語ではabbotで,「父」という意味のアラム語に由来する語)は絶対的な権威をもって支配しました。(マタイ 23:9と比較してください。)たとえある修道士に親から贈り物が届いても,それをその修道士が受け取るか他のだれが受け取るかを決めるのは大修道院長でした。ある宗規は,下品な事柄を非とするにとどまらず,世間話や冗談をすべて禁じ,「弟子はだれもその種の話をしてはならない」と命じました。

      20 プロテスタントも非聖書的な権威主義に熟達したことはどんな点に示されていますか。

      20 プロテスタントはカトリック教の非聖書的な行き過ぎを改革しようとしましたが,これもやがてキリストの律法に基づかない権威主義的な規則を設けることに同じほど熟達しました。例えば,指導的な改革者であったジャン・カルバンは,「修復された教会の宗規制定者」と呼ばれるようになりました。カルバンは,「長老たち」の施行する数多くの厳格な規則をもってジュネーブを治めました。その長老たちの「職務はすべての者の生活を監督することである」と,カルバンは述べています。(コリント第二 1:24と対比してください。)その教会は宿屋を管轄し,会話の話題としてどんな事柄が許されるかを規定しました。不まじめな歌を歌う,あるいはダンスをするなどの違反に対して厳しい罰が科せられました。b

      キリスト教世界の誤りから学ぶ

      21 『書かれている事柄を越える』キリスト教世界の傾向は全体的にどのような影響をもたらしてきましたか。

      21 これらすべての宗規や戒律はキリスト教世界を腐敗から保護する働きをしてきたでしょうか。いいえ,全く逆の結果になっています。今日,キリスト教世界は幾百もの派に分裂し,極端に厳格なものから甚だしく自由放任的なものまであります。どの宗派も何らかの点で「書かれている事柄を越えて」おり,人間の考えが信徒たちを支配し,神の律法に抵触するままにしてきました。―コリント第一 4:6。

      22 なぜキリスト教世界の背信はキリストの律法が終わったことを意味していませんか。

      22 しかし,キリストの律法の歴史は何ら悲しむべきものではありません。エホバ神は単なる人間が神の律法をぬぐい去ることを決してお許しになりません。クリスチャンの律法は真のクリスチャンの間で今日大いに効力を発揮しており,それらクリスチャンにはその律法に従って生きる大きな特権があります。しかし,ユダヤ教とキリスト教世界が神の律法に関して行なったことについて考察した今,次のように考えることができるかもしれません。『神の律法の精神そのものを弱める人間的な推論や規則によって神の言葉を汚すというわなを避けながら,どのようにキリストの律法に従った生き方ができるだろうか。キリストの律法は今日のわたしたちにどんな平衡のとれた見方を教えてくれているだろうか』。次の記事はそうした問いを取り上げます。

  • キリストの律法に従って生きる
    ものみの塔 1996 | 9月1日
    • キリストの律法に従って生きる

      「互いの重荷を負い合い,こうしてキリストの律法を全うしなさい」― ガラテア 6:2。

      1 今日キリストの律法は善いことへと人を促す強大な力である,と言えるのはなぜですか。

      ルワンダのフツ族とツチ族のエホバの証人は,近年国中で起きた部族抗争の際,自らの命を危険にさらしても互いを大量虐殺から守ろうとしました。破壊的な地震に見舞われて家族を亡くした,日本の神戸のエホバの証人は,失ったもののゆえに打ちひしがれはしましたが,すぐに自らも他の被災者たちを救助するために行動しました。そうです,世界中から寄せられる心温まる経験は,今日,キリストの律法が機能していることを物語っています。その律法は,善いことへと人を促す強大な力なのです。

      2 キリスト教世界はどのようにキリストの律法の肝心な点を見落としてきましたか。わたしたちはどのようにしてその律法を全うできますか。

      2 これと同時に,この危機的な「終わりの日」についての聖書預言の一つも成就しつつあります。多くの人は「敬虔な専心という形」を取りながら『その力において実質のない者となって』います。(テモテ第二 3:1,5)とりわけキリスト教世界で,宗教は往々にして心の問題ではなく,ただ形だけのものになっています。それはキリストの律法に従って生きることが余りにも難しくてできないからでしょうか。そうではありません。イエスは,従うことができないような律法を与えるはずがありません。キリスト教世界はその律法の肝心な点を全く見落としてきました。霊感を受けたこの言葉,すなわち「互いの重荷を負い合い,こうしてキリストの律法を全うしなさい」という言葉に留意しなかったのです。(ガラテア 6:2)わたしたちは,パリサイ人に倣って不当に兄弟たちの荷を増し加えるのではなく,互いの重荷を負い合うことによって「キリストの律法を全う」します。

      3 (イ)キリストの律法に含まれる命令にはどのようなものがありますか。(ロ)クリスチャンの会衆にはキリストの直接の命令以外にどんな規則もあるべきではない,と結論するのはなぜ間違いですか。

      3 キリストの律法には,キリスト・イエスの命令すべてが含まれます。宣べ伝えて教えること,浄く純一な目を保つこと,隣人との平和を保つよう努めること,会衆から汚れを除くことなどです。(マタイ 5:27-30; 18:15-17; 28:19,20。啓示 2:14-16)実際,クリスチャンには,キリストの追随者に対する聖書中の命令すべてを守り行なう義務があります。ほかにもあります。エホバの組織,ならびに個々の会衆は,ふさわしい秩序を保つために必要な規則や手順を定めなければなりません。(コリント第一 14:33,40)集会をいつ,どこで,どのように開くかについて何の決まりもないとすれば,クリスチャンは集まり合うことさえできないでしょう。(ヘブライ 10:24,25)組織内のそれら所定の権威によって設けられる道理にかなった指針に快く従うことも,キリストの律法を全うすることなのです。―ヘブライ 13:17。

      4 清い崇拝の背後にあって推進力となっているものは何ですか。

      4 とはいえ,真のクリスチャンは,崇拝を数々の戒律で固められた無意味なものにはしません。エホバに仕えるのは,単にだれかから,あるいは組織からそうするように言われるからではありません。そうではなく,崇拝の背後にあって推進力となっているのは愛です。パウロは,「キリストの愛がわたしたちに迫る」と書いています。(コリント第二 5:14,脚注)イエスは追随者たちに,互いに愛し合うようにと命じました。(ヨハネ 15:12,13)キリストの律法の基盤は自己犠牲的な愛であり,これが家庭でも会衆でもどこにおいても真のクリスチャンに迫る,つまり行動を促します。それがどのようになされるかを調べましょう。

      家族内で

      5 (イ)親はキリストの律法を家庭でどのように全うできますか。(ロ)子供には親からのどんなものが必要ですか。親によっては,それを与えるためにどんな障害を克服しなければなりませんか。

      5 使徒パウロはこう書いています。「夫たちよ,妻を愛し続けなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を引き渡されたのと同じように」。(エフェソス 5:25)夫はキリストに見倣い,愛と思いやりをもって妻に接するとき,キリストの律法の重要な面を全うしています。さらに,イエスはためらうことなく幼子たちに愛情を示し,子供たちを両腕に抱き寄せて,その上に両手を置き,祝福なさいました。(マルコ 10:16)キリストの律法を全うする親も子供に愛情を示します。確かに,この点でイエスの模範に倣うことに難しさを感じる親がいます。生来,あまり感情を表に出さない人もいます。親の皆さん,そのような考え方のために,お子さんに対して抱いておられる愛を示さないでいてはなりません。子供を愛していることを自分が知っているだけでは十分ではありません。子供もそれを知っていなければならないのです。もし親が自分の愛を実際に示さないならば,子供は愛されていることが分からないでしょう。―マルコ 1:11と比較してください。

      6 (イ)子供には親の設ける規則が必要ですか。なぜそう答えますか。(ロ)子供たちは,家庭で規則が設けられるどんな根本的理由を理解する必要がありますか。(ハ)家庭内にキリストの律法が行き渡るとどんな危険を避けられますか。

      6 同時に,子供には境界線も必要です。これは,親が規則を設け,それを,時には懲らしめをもって守らせなければならないことを意味しています。(ヘブライ 12:7,9,11)その場合でも,その規則が設けられた根本的理由,つまり親が子供を愛していることを子供が理解できるよう少しずつ助けてゆかなければなりません。そして子供たちは,愛ゆえに親に従うのが一番良いということを学ばなければなりません。(エフェソス 6:1。コロサイ 3:20。ヨハネ第一 5:3)識別力のある親の目標は,「理性」を働かせるように子供を教えて,ゆくゆくは子供が自分で良い決定を下せるようにすることです。(ローマ 12:1。コリント第一 13:11と比較してください。)他方,規則は多すぎたり,懲らしめは厳しすぎたりしてはなりません。「父たちよ,あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」と,パウロは述べています。(コロサイ 3:21。エフェソス 6:4)家庭内にキリストの律法が行き渡ると,腹立ちまぎれに懲らしめを与えたり,嫌味たっぷりの皮肉を言ったりする余地はなくなります。そのような家庭に育つ子供は,重苦しさや打ちのめされた気持ちではなく,安心感と心強さを覚えます。―詩編 36:7と比較してください。

      7 家庭内に規則を設けることに関し,ベテルはどんな点で模範と言えますか。

      7 世界各地のベテルを訪ねたことのある人たちは,ベテルは家族のための規則の面で平衡がとれていて良い模範であると言います。大人だけで構成されてはいますが,その施設の機能は家族とよく似ています。a ベテルで行なわれる事柄は多岐にわたり,その運営にはかなり多くの規則が必要です。普通の家族の場合より規則が多いことは確かです。それでも,ベテルのホーム,事務所,また工場の運営面で指導の任に当たる長老たちは,キリストの律法を当てはめることに努めます。仕事を組織的に果たすだけでなく,仲間の働き人たちの間に霊的な進歩と「エホバの喜び」を伸展させることも,自分の割り当てられた務めとみなします。(ネヘミヤ 8:10)それゆえに,積極的な,人を励ますような仕方で物事を行ない,道理にかなっているようにします。(エフェソス 4:31,32)ベテル家族が喜びにあふれた霊で知られているのも不思議ではありません。

      会衆内で

      8 (イ)会衆内でのわたしたちの目標は常にどのようなものであるべきですか。(ロ)ある人々はどんな状況のもとで規則を求めたり規則を設けようとしたりしましたか。

      8 会衆内でも同様で,わたしたちの目標は,互いを愛の霊によって鼓舞し合うことです。(テサロニケ第一 5:11)ですから,個人的に選択すべき事柄の場合,どのクリスチャンも自分の考えをあえて他の人に押しつけて,その人の負っている重荷をさらに重いものにすることがないよう気をつけるべきです。時折,ものみの塔協会には,特定の映画や書籍,さらには玩具をどう見るべきかといった事柄に関して判定を求める手紙が寄せられます。しかし,協会はそのような事柄について調べたり判断を下したりする権限を持っていません。ほとんどの場合,それは各人が,あるいは家族の頭が聖書の原則に対する愛に基づいて決めるべき事柄です。一方,協会が与えた提案や指針を規則にする傾向のある人たちもいます。例えば,「ものみの塔」誌,1996年3月15日号には,会衆の成員を定期的に牧羊訪問するよう長老たちを励ます優れた記事が載りました。その目的は規則を定めることでしたか。そうではありません。その提案に従うことのできる人は多くの益を得ますが,そのとおりにできない長老たちもいます。同様に,「ものみの塔」誌,1995年4月1日号の「読者からの質問」の記事は,バプテスマの際に浮かれ騒いだり勝利のパレードをまねたりするといった極端に走って,その場の品位を損なうことがないようにと忠告しました。ある人々はこの熟慮の助言を適用する点で極端になり,バプテスマの時に励ましのカードを送るのも間違っているという規則を作ることまでしました。

      9 互いに対して過度に批判的になり,すぐに裁いてしまうことがないようにするのはなぜ大切ですか。

      9 次の点も考慮しましょう。すなわち,「自由に属する完全な律法」を自分たちの中に行き渡らせたいのであれば,すべてのクリスチャンの良心が全く同じではないという点を受け入れなければなりません。(ヤコブ 1:25)人が聖書の原則に反しない個人的な選択をした場合,わたしたちはそれを問題にすべきでしょうか。いいえ。そうするなら分裂を引き起こすことになります。(コリント第一 1:10)パウロは,仲間のクリスチャンに関して裁きを下さないように警告した際,こう言いました。「その人が立つも倒れるも,それはその主人に対してのことなのです。実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです」。(ローマ 14:4)個人の良心にゆだねられるべき事柄で互いを悪く言うとしたら,神の不興を被る危険があります。―ヤコブ 4:10-12。

      10 だれが会衆を見守る務めを割り当てられていますか。わたしたちはどのように支持するべきですか。

      10 次の点も忘れないようにしましょう。長老たちは神の羊の群れを見守る務めを割り当てられているということです。(使徒 20:28)長老たちは助けを差し伸べるためにいるのです。わたしたちは遠慮なく近づいて助言を求めるべきです。長老たちは聖書の研究生であり,ものみの塔協会の刊行物の中で論じられた事柄に通じているからです。長老たちは聖書の原則に対する違反につながりかねない行ないを目にするとき,恐れることなく必要な助言を与えます。(ガラテア 6:1)会衆の成員は,自分たちの間で指導の任に当たっているこれら敬愛すべき牧者たちに協力することにより,キリストの律法に従います。―ヘブライ 13:7。

      長老たちはキリストの律法を適用する

      11 長老たちはキリストの律法を会衆内でどのように適用しますか。

      11 長老たちは会衆内でキリストの律法を全うすることを切に願っています。良いたよりを宣べ伝える業に率先し,聖書から教えて心をとらえるようにし,また愛ある優しい牧者として「憂いに沈んだ魂」にことばをかけます。(テサロニケ第一 5:14)キリスト教世界の諸宗派の多くに見られる非クリスチャン的な態度を避けます。確かに,この世は急速に堕落しており,長老たちはパウロと同様,群れのことが心配になるかもしれません。しかし,そのような気遣いから行動する場合でも平衡を保ちます。―コリント第二 11:28。

      12 クリスチャンが長老に近づいて助けを求めるとき,長老はどのように対応できますか。

      12 例えば,あるクリスチャンは,聖書中の直接の言及だけでは答えの出せない,あるいはキリスト教の種々の原則を考え合わせなければならない重要な問題について長老に相談したいと思うかもしれません。職場で昇進の機会が差し伸べられ,昇給するが責任も大きくなるというような場合です。あるいは,信者でない父親が,クリスチャンである年若い息子に,奉仕の務めに影響し得る事柄を要求しているかもしれません。そのような場合,長老は自分個人の意見を述べることは控えます。むしろ,聖書を開き,関係する種々の原則に基づいて推論できるよう当人を助けるでしょう。入手できるのであれば「ものみの塔出版物索引」を使って,「忠実で思慮深い奴隷」が「ものみの塔」誌や他の出版物の中でその点について述べている事柄を探し出せるかもしれません。(マタイ 24:45)当のクリスチャンがそのあと,長老には賢明に思えない決定をするとしたらどうでしょうか。その決定が聖書の原則や律法にじかに違犯するものでないかぎり,そのクリスチャンは,長老が「人はおのおの自分の荷を負う」ということを知っていて,そうした決定をする個人の権利を認めていることに気づくでしょう。しかし,クリスチャンは,「何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになる」ということも覚えているべきです。―ガラテア 6:5,7。

      13 長老が質問に直接に答えたり,自分の意見を述べたりせず,問題について推論するよう助けるのはなぜですか。

      13 経験のある長老がこのように行動するのはなぜでしょうか。それには少なくとも二つの理由があります。第一に,パウロはある会衆に,わたしは「あなた方の信仰に対する主人」ではありません,と述べました。(コリント第二 1:24)長老は,兄弟が聖書に基づいて推論し,よく理解した上で自ら決定するよう当人を助けることにより,パウロの態度に見倣っています。イエスが自分の権限に限度のあることを認めておられたのと同じように,長老も自分の権限に限度のあることを認めます。(ルカ 12:13,14。ユダ 9)同時に長老たちは,必要な場合にはすぐ,聖書に基づいた有用な,時には強い助言もためらわずに与えます。第二に,長老は仲間のクリスチャンを訓練しています。使徒パウロはこう述べました。「固い食物は,円熟した人々,すなわち,使うことによって自分の知覚力を訓練し,正しいことも悪いことも見分けられるようになった人々のものです」。(ヘブライ 5:14)ですから,成長して円熟するためには,いつもだれかほかの人に答えを示してもらおうとするのではなく,自分の知覚力を用いなければなりません。長老は,聖書に基づいて推論する方法を仲間のクリスチャンに示すことにより,その点で当人が進歩できるよう助けているのです。

      14 円熟した人は自分がエホバを信頼していることをどのように示せますか。

      14 わたしたちは,エホバ神がご自分の聖霊によって真の崇拝者たちの心に影響を及ぼされるという信仰を抱くことができます。ですから,円熟したクリスチャンは兄弟たちの心に訴えかけ,使徒パウロがしたように懇願します。(コリント第二 8:8; 10:1。フィレモン 8,9)パウロは,正しい道を守るために細目にわたる律法が必要なのは義者ではなく,むしろ不義者のほうであることを知っていました。(テモテ第一 1:9)パウロは,疑念や不信ではなく,兄弟たちを信じていることを言い表わしました。ある会衆に対しては,「あなた方に関し,主にあってこう確信しています」と書いています。(テサロニケ第二 3:4)パウロの示した信仰,信頼,確信は,それらのクリスチャンを大いに奮い立たせたに違いありません。今日,長老や旅行する監督たちも同様の目標を持っています。これら忠実な男子は,愛をこめて神の羊の群れを牧するとき,何とさわやかな存在なのでしょう。―イザヤ 32:1,2。ペテロ第一 5:1-3。

      キリストの律法に従った生き方をする

      15 自分が兄弟たちとの関係でキリストの律法を適用しているかどうかについてどんなことを自問できますか。

      15 わたしたちは皆,自分がキリストの律法に従った生き方をし,その律法を促進しているかどうかについて定期的に自己吟味する必要があります。(コリント第二 13:5)実際,わたしたちすべてにとって,次のように自問するのは益になります。『わたしは人を築き上げているだろうか,それとも批判的だろうか。平衡がとれているだろうか,極端になっているだろうか。他の人に配慮しているだろうか,自分の権利に固執しているだろうか』。クリスチャンは,聖書中に明確には述べられていない事柄について兄弟がどんな行動を取るべきか,あるいは取るべきでないかを指図しようとはしません。―ローマ 12:1。コリント第一 4:6。

      16 どうすれば,自分自身について消極的な見方をしている人を助けて,キリストの律法の重要な面を全うできますか。

      16 この危機の時代にあって,互いに励まし合うための方法を探し求めることは大切です。(ヘブライ 10:24,25。マタイ 7:1-5と比較してください。)兄弟姉妹に目を留めるとき,わたしたちにとってその良い特質は弱い点よりずっと多くの意味を持つのではないでしょうか。エホバにとって一人一人は貴重です。残念なことに,すべての人がそう感じているわけではありません。自分自身についてさえそう感じていないのです。自分の欠点や不完全さだけを見がちな人は少なくありません。そのような人を,そして他の人々を励ますために,集会のたびに一人か二人に話しかけるようにして,その人の出席と会衆での大切な貢献を大いに評価している理由を知らせることができるでしょうか。このようにして彼らの重荷を軽くし,それによってキリストの律法を全うするのは何という喜びでしょう。―ガラテア 6:2。

      キリストの律法は機能している

      17 キリストの律法はあなたの会衆でどのような様々な面で機能していますか。

      17 キリストの律法はクリスチャンの会衆内で機能しています。わたしたちは毎日それを見ています。仲間の証人たちは熱心に良いたよりを伝え,互いに慰め,励まし合い,最も難しい問題にもめげずエホバに仕えようと奮闘しており,親は子供が喜びにあふれた心でエホバを愛するよう育てることに努め,監督たちは愛と温かさをこめて神の言葉を教え,神の羊の群れが永久にエホバに仕えようという燃えるような熱意を抱くよう鼓舞しているのです。(マタイ 28:19,20。テサロニケ第一 5:11,14)わたしたち一人一人,自分の生活の中でキリストの律法が働くようにすれば,エホバの心はどれほど歓びに満ちることでしょう。(箴言 23:15)エホバはご自分の完全な律法を愛するすべての人が永久に生きることを望んでおられます。やがて実現する楽園では人類が完全になる時が来ます。その時には,わたしたちの心のどんな傾向も正しく整えられ,律法に違反する人はいません。キリストの律法に従った生き方に対する何と栄光ある報いでしょう。

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