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イスラム教 ― 服従により神に達する道神を探求する人類の歩み
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12章
イスラム教 ― 服従により神に達する道
[アートワーク ― アラビア文字]
1,2 (イ)クルアーンの冒頭の章にはどんなことが記されていますか。(ロ)これらの言葉はムスリムにとってなぜ重要な意味を持っていますか。(ハ)クルアーンは元々どんな言語で書かれましたか。「クルアーン」という言葉は何を意味していますか。
「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」。この一文はクルアーン,もしくはコーランの上記アラビア語本文の訳文です。この文章はさらにこう続いています。「万有の主,アッラーにこそ凡ての称賛あれ,慈悲あまねく慈悲深き御方,最後の審きの日の主宰者に。わたしたちはあなたにのみ崇め仕え,あなたにのみ御助けを請い願う。わたしたちを正しい道に導きたまえ,あなたが御恵みを下された人々の道に,あなたの怒りを受けし者,また踏み迷える人々の道ではなく」― クルアーン,スーラ 1:1-7,日本ムスリム協会; ピクタール訳。a
2 これらの言葉はイスラム教徒の聖なる書,聖クルアーンの巻頭の章,もしくはスーラである,アル・ファーティハ(「開端」の意)章の全文です。世界人口の6分の1余りの人々がイスラム教を奉じており,信心深いムスリム,つまりイスラム教徒は毎日の祈りの中でこれらの節を少なくとも5回復唱して祈るので,これらの言葉は地上で最もよく読誦されるものの中に入るに違いありません。
3 イスラム教は今日,どれほど広まっていますか。
3 ある情報源によれば,世界には9億人以上のムスリムがいるので,イスラム教の信徒数はローマ・カトリック教会に次いで多いということになります。イスラム教の運動はアフリカや西洋で広がっているため,イスラム教は恐らく世界で最も急速な成長を遂げている主要な宗教と考えられます。
4 (イ)「イスラム」という言葉は何を意味していますか。(ロ)「ムスリム」という言葉は何を意味していますか。
4 イスラムという名称はムスリムにとって重要な意味を持っています。というのは,この名称はアッラーに対する「服従」,「降伏」,もしくは「傾倒」を意味しており,ある歴史家によれば,「それはムハンマド(マホメット)の説くところを傾聴している人々の内心の態度の表現」だからです。「ムスリム」とは,『イスラム教を奉ずる,もしくは行なう者』という意味です。
5 (イ)ムスリムはイスラム教に関して何を信じていますか。(ロ)聖書とクルアーンとの間にはどんな類似点がありますか。
5 ムスリムは,自分たちの信仰は昔の忠実なヘブライ人やクリスチャンに与えられた啓示の終極的な結果であると考えています。しかし,ムスリムがヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の双方から引用するとはいえ,その教えは幾つかの点で聖書からそれています。b (285ページの囲み記事をご覧ください。)イスラム教の信仰をもっとよく理解するには,この宗教がいつ,どこで,またどのようにして始まったのかを知らなければなりません。
ムハンマドの召命
6 (イ)ムハンマドの時代のアラブ人の行なっていた崇拝の中で注目の的とされたのは何でしたか。(ロ)カーバ神殿に関するどんな伝承がありましたか。
6 ムハンマドcは西暦570年ごろ,サウジアラビアのメッカ(アラビア語,マッカ)で生まれました。その父アブドゥッラーはムハンマドが生まれる前に亡くなりました。その母アーミナは彼が6歳のころに亡くなりました。当時,アラブ人はメッカ渓谷のカーバ神殿の神聖な場所を中心として行なわれていた,一種のアッラー崇拝を行なっていました。そのカーバ神殿は簡単な方形の建物で,その建物の中で黒いいん石が崇敬の対象とされていました。イスラム教の伝承によれば,「カーバ神殿は最初,天界の原型に基づいてアダムにより建てられたもので,大洪水後,アブラハムとイシュマエルにより再建され」ました。(「アラブ人の歴史」,フィリップ・K・ヒッティ著)その神殿は,360体の偶像,つまり太陰暦の1年のそれぞれ1日に対する一体の偶像のための聖所となりました。
7 ムハンマドはどんな宗教的な慣行で悩まされましたか。
7 ムハンマドは成長するにつれて,当時の宗教的な慣行を疑問視するようになりました。ジョン・ノスは自著,「人間の宗教」の中で,「[ムハンマドは]宗教や名誉に関するあからさまな利害を巡ってクライシュ族[ムハンマドの所属していた部族]の酋長たちの間で絶えず生じていた反目で悩まされた。さらに,アラブ人の宗教の原始的な遺物,つまり偶像崇拝を伴う多神教やアニミズム(精霊崇拝),宗教上の集会や定期市での不道徳行為,当時はやっていた飲酒や賭博や舞踏,およびメッカのみならず,アラビアの至る所で行なわれていた,望まれない幼い女児を生き埋めにする処置などに対する不満の念は一層強いものがあった」。―スーラ 6:137。
8 ムハンマドはどんな状況の中で預言者となる召命を受けましたか。
8 ムハンマドが預言者になるよう召命を受けたのは,40歳のころだったとされています。瞑想にふけるため,ガハール・ヒラーと呼ばれる近くの山の洞くつに行くのを習慣にしていた彼は,そうしていたある時,預言者になるよう召命を受けたと主張しました。イスラム教の伝承によれば,彼がそこにいた時,後にガブリエルであることが明らかにされたというみ使いから,アッラーの名によって読誦するよう命ぜられました。ムハンマドは命令に応じなかったため,み使いは『力ずくで彼を捕らえ,あまり強く締めつけたため,彼はもはや耐えることができなくなり』ました。それから,み使いはその命令を繰り返しましたが,ムハンマドはまたもや応じなかったため,み使いは再び『そののどを締めて息を止めさせ』ました。このことが三度起きた後,ムハンマドはやっと,クルアーンを構成する一連の啓示の最初のものとされている言葉を読誦し始めました。別の伝承によれば,鈴の鳴り響く音のように,神からの啓示がムハンマドに伝えられたとされています。―「サヒーフ アル・ブハーリー」の中の「啓示の書」。
クルアーンの啓示
9 ムハンマドが最初に受けた啓示とされているのは,どんな言葉ですか。(啓示 22:18,19と比較してください。)
9 ムハンマドが最初に受けた啓示とされているのは,どんな言葉ですか。イスラム教当局は普通,それがアル・アラク,つまり「凝血」章という表題のスーラ 96の最初の5節の言葉だったという点で同意をみています。その章(スーラ)には次のように記されています。
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
読め,『創造なされる御方,あなたの主の御名において。
一凝血から,人間を創られた。』
読め,『あなたの主は,最高の尊貴であられ,
筆によって書くことを教えられた御方。
人間に未知なることを教えられた御方である。』」― 日本ムスリム協会; ピクタール訳。
10-12 クルアーンはどのようにして保存されましたか。
10 アラビア語の出典,「啓示の書」によれば,ムハンマドは,「私は読み方を知りません」と答えました。ですから,彼は復唱したり,読誦したりすることができるよう,啓示を暗記しなければなりませんでした。アラブ人は物を記憶することが上手で,ムハンマドも例外ではありませんでした。ムハンマドがクルアーンの音信全部を受けるのに何年ほどかかりましたか。普通,西暦610年ごろから,彼が亡くなった同632年までの20ないし23年ほどの期間に啓示が与えられたと考えられています。
11 イスラム教の出典の説明によれば,ムハンマドは啓示を受ける度に,そばに居合わせた人々に対して直ちにそれを読誦したとされています。次いで,それらの人がその啓示を記憶にとどめ,またそれを読誦することにより生き生きとした状態に保ちました。アラブ人は紙の製法を知らなかったので,ムハンマドは書記を用いて,らくだの肩甲骨,やしの葉,木,および羊皮紙など,当時入手できた原始的な書写材料に啓示を書き記させました。しかし,クルアーンがムハンマドの後継者や仲間の者たちの指導のもとで現在の形にされたのは,この預言者が亡くなった後のことでした。それは最初の3人のカリフ,つまりイスラム教の指導者たちの支配した時代のことでした。
12 翻訳者であるムハンマド・ピクタールはこう書いています。「クルアーンのスーラはすべて,この預言者が亡くなる前にすでに書き記されており,多くのムスリムはクルアーン全体を記憶にとどめていた。しかし,書き記されたスーラは人々の間で流布され,戦闘の際に……クルアーン全体を暗記して知っていた人々の相当数の者が殺されるに至り,クルアーン全体の収集が行なわれ,また書き記されたのである」。
13 (イ)イスラム教の教えと指導の三つの源とは何ですか。(ロ)イスラム教の一部の学者はクルアーンの翻訳をどう見ていますか。
13 ムスリムの生活は三つの権威 ― クルアーン,ハディース(伝承),およびシャリーア(道)― によって支配されています。(291ページの囲み記事をご覧ください。)ムスリムはアラビア語のクルアーンが最も純粋な形態の啓示であると信じています。というのは,アラビア語は神がガブリエルを通して話した際に用いた言語だとされているからです。スーラ 43:3には,「本当にわれは,それをアラビア語のクルアーンとした。あなたがたが理解するために」と記されています。(日本ムスリム協会; アリー訳)ですから,どんな翻訳でも,純粋さの失われる恐れがあり,結局文意は弱められてしまうと考えられています。実際,イスラム教の学者の中には,クルアーンを翻訳しようとしない人もいます。「翻訳するとは,とにかく裏切ることである」というのが,それらの学者の見方です。ですから,イスラム教史の講師J・A・ウィリアムズは,「ムスリムはクルアーンを他の言語に翻訳しようとする試みを常に非難し,時には禁じてきた」と述べています。
イスラム教の拡張
14 どんな出来事がイスラム教の歴史の初期の重要な転機をしるし付けるものとなりましたか。
14 ムハンマドは大変な敵を相手にして自分の新たな信仰を興しました。彼はメッカの人々,それも自分の部族の人々からさえ退けられました。迫害と憎悪に遭遇しながら13年を過ごした後,彼は活動の中心地をヤスリブの北に移しました。そこは後にマディーナ(メディナ),つまり預言者の都市として知られるようになりました。西暦622年のこの移住,つまりヒジュラはイスラム教の歴史の重要な転機をしるし付ける出来事となり,この年代がイスラム暦の起点として採用されました。d
15 メッカはどのようにしてイスラム教の巡礼のための主要な中心地となりましたか。
15 やがて,ムハンマドは,西暦630年(ヒジュラ紀元8年)1月にメッカを開城させて,支配権の獲得を達成し,その支配者になりました。こうして,政権と教権を掌握したので,カーバ神殿から偶像を一掃すると共に,今日まで続いているメッカ巡礼の中心としての同神殿の地位を確立することができました。―289,および303ページをご覧ください。
16 イスラム教はどれほど遠くまで広がりましたか。
16 西暦632年にムハンマドが亡くなった後,二,三十年もたたないうちに,イスラム教はアフガニスタンまで,また北アフリカのチュニジアに至るまで広がりました。8世紀初頭までには,クルアーンに対する信仰はスペインにも浸透しており,フランス国境にまで達していました。ニニアン・スマート教授は自著,「長年にわたる探求の過程の背景」の中で次のように述べました。「人間的な見地からすれば,キリストの死後,六,七世紀ごろ生活したアラビア人の一預言者の成し遂げた業績は驚異的なものである。人間的に言えば,新しい文明が彼から生じたのである。しかし,もちろん,その業はムスリムにとって神の業であり,その成し遂げた業績はアッラーのそれであった」。
ムハンマドの死は分裂をもたらす
17 ムハンマドの死後,ムスリムはどんな大問題に直面しましたか。
17 この預言者の死は危機をもたらしました。彼は男性の子孫をだれも残さずに,つまり明確に指名された後継者なしに死去しました。フィリップ・ヒッティが述べているとおりです。「ゆえに,カリフの地位はムスリムが直面せざるを得なかった最古の難問題である。それは依然として現に存在する問題である。……ムスリムの歴史家シャハラスターニ[1086-1153年]の言葉を借りれば,『カリフの地位(イマーマ)ほど流血を引き起こしたイスラム教の問題はほかには決してなかった』」。その難問題は西暦632年の昔,どのように解決されましたか。「アブー・バクル……は首都マディーナ(メディナ)に居合わせた指導者たちの参加した,ある種の選挙により(632年6月8日に)ムハンマドの後継者として指名され」ました。―「アラブ人の歴史」。
18,19 どんな主張のためにスンニー派とシーア派のムスリムが分裂しましたか。
18 預言者の後継者は支配者,つまりハリーファ,もしくはカリフになるはずでした。しかし,ムハンマドの真の後継者になるのはだれかという疑問は,ムスリムの信徒の間に分裂をもたらす原因となりました。スンニー派のムスリムは預言者の血統ではなく,選挙による地位継承の原則を認めています。ですから,この派の人々は,最初の3人のカリフ,つまりアブー・バクル(ムハンマドのしゅうと),ウマル(預言者の顧問),およびウスマーン(預言者の娘婿)がムハンマドの正当な後継者だったと考えています。
19 シーア派のムスリムはその主張に異議を唱えています。この派の人々は,真の指導者の地位は預言者の血筋を通して,またそのいとこで娘婿,つまりムハンマドのまな娘ファーティマと結婚した最初のイマーム(「指導者および後継者」の意)であるアリー・イブン・アビー・ターリブを通して伝えられるとしています。結婚したこの二人の間にムハンマドの孫ハサンとフサインが生まれました。シーア派はまた,「最初から,アッラーとその預言者がはっきりと『アリーを唯一正統な後継者』に指名していたが,最初の3人のカリフが彼を欺いてその正当な地位を奪った」とも主張しています。(「アラブ人の歴史」)もちろん,スンニー派のムスリムはこのことに関して別の見方をしています。
20 ムハンマドの娘婿アリーはどうなりましたか。
20 アリーはどうなりましたか。第4代カリフとしてのその治世中(西暦656-661年),アリーとシリアの総督ムアウィーヤとの間で指導権を巡る闘争が起きました。二人は戦いを交じえましたが,ムスリムの流血がそれ以上起きないようにするため,自分たちの争議を仲裁機関にゆだねました。アリーが仲裁を受け入れたため,その主張は弱められ,ハーリジー派(離脱派)を含め,追随者の多くが離れて行き,アリーの執念深い敵になりました。西暦661年に,アリーはハーリジー派のある熱狂者により,毒を塗ったサーベルで殺害されました。この二つのグループ(スンニー派とシーア派)は争い合いました。その後,イスラム教のスンニー派は,預言者の家系外の人々であった,ウマイヤ朝の者たち,つまりメッカの裕福な酋長たちの中から一人の指導者を選びました。
21 ムハンマドの後継者に関するシーア派の見解について述べてください。
21 シーア派について言えば,アリーの長子,ムハンマドの孫ハサンが真の後継者でした。ところが,彼は辞任し,殺害されました。その弟フサインが新しいイマームになりましたが,彼もまた,西暦680年10月10日にウマイヤ朝の部隊により殺されました。その死,つまりシーア派の見方によれば殉教の死は,今日に至るまで,シーア・アリー,つまりアリーの党派に重大な影響を及ぼしてきました。彼らは,アリーこそムハンマドの真の後継者であり,「誤りや罪を犯さないよう神により守られた」最初の「イマーム[指導者]」だったと考えています。シーア派は,アリーとその後継者のことを「神からの完全無欠という賜物」を持つ,不謬の教師とみなしました。シーア派の最も広い階層にわたる人々は,真のイマームはただ12人だけだったと信じており,その最後のムハンマド・アルムンタザルは「子孫を残さずに,サーマルラの大きなモスクの洞くつの中で」姿を消しました。(西暦878年)こうして,「彼は『隠れた(ムスタティール)』,もしくは『待望の(ムンタザル)』イマームとなった。……やがて,彼は真のイスラム教を回復するために,マフディー(神により導かれる者)として現われ,全世界を征服し,すべての事物の終わりの前に短い千年期を招来するであろう」と言われています。―「アラブ人の歴史」。
22 シーア派はフサインの殉教の死をどのように記念していますか。
22 シーア派は毎年,イマーム・フサインの殉教の死を記念し,人々は行列を行ない,その際,ある人々はナイフや剣で自分の体に傷を付けたり,その他の方法で我が身を苦しめたりします。もっと近年になって,シーア派のムスリムはイスラム教の信条に対する熱心さゆえに一般に広く知られるようになりましたが,それでも彼らは世界のムスリムのわずか20%を代表しているにすぎず,スンニー派のムスリムが大多数を占めています。しかし今度は,イスラム教の教えの幾つかを取り上げて,イスラム教の信仰がムスリムの日常の行動にどのように影響しているかに注目してみましょう。
イエスではなく,神が最高の方
23,24 ムハンマドやムスリムはユダヤ教やキリスト教をどのように見ましたか。
23 世界の三大一神教はユダヤ教,キリスト教,およびイスラム教です。しかし,ムハンマドが現われた西暦7世紀の初めごろまでには,これら最初の二つの宗教は,ムハンマドに関する限り,真理の道からそれていました。実際,イスラム教の一部の注解者によれば,クルアーンは,「あなたの怒りを受けし者,また踏み迷える人々の道ではなく」と述べて,ユダヤ人やクリスチャンを退けています。(スーラ 1:7,日本ムスリム協会; ピクタール訳)それはなぜですか。
24 クルアーンの注解はこう述べています。「啓典の民ユダヤ人は律法を破り,マルヤム(マリア)やイーサー(イエス)を中傷し……不正をあえてした。またキリスト教徒は,使徒イーサー(イエス)を」,三位一体の教理により,「アッラー(神)と同位に配した。」― スーラ 4:153-176,日本ムスリム協会; アリー訳。
25 クルアーンと聖書には,どんな並行表現がありますか。
25 イスラム教の主要な教えは,まさに簡単そのもので,ムスリムならだれもがそらで言えるシャハーダ,つまり信仰告白,「ラー イラーハ イッラ-ラーフ ムハンマド ラスールッ-ラー」(「アッラーのほかに神はなく,ムハンマドはアッラーの信徒である」の意)という言葉で知られています。これはクルアーンの「あなたがたの神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく,慈悲あまねく慈愛深き方である」という表現とも合致しています。(スーラ 2:163,日本ムスリム協会; ピクタール訳)この考えは,2,000年ほど前にイスラエルに対してなされた,「イスラエルよ,聴きなさい。わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである」という古い呼びかけの言葉で表わされました。(申命記 6:4)ムハンマドが登場する約600年以上も前に,イエスはこの極めて重要な命令を復唱されました。それはマルコ 12章29節に記されていますが,しかしイエスがご自分は神である,あるいは神と同等であるなどと唱えられた箇所はどこにもありません。―マルコ 13:32。ヨハネ 14:28。コリント第一 15:28。
26 (イ)ムスリムは三位一体をどう見ていますか。(ロ)三位一体は聖書に基づいていますか。
26 神の特異性に関して,クルアーンは,「だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。『三(位)』などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯一の神であられる」と述べています。(スーラ 4:171,日本ムスリム協会; アリー訳)しかし,真のキリスト教は三位一体を説くものではないことに注目しなければなりません。これはキリストや使徒たちの死後,キリスト教世界の背教者たちによって導入された,異教に起源を持つ教理です。―11章をご覧ください。e
魂,復活,楽園<パラダイス>,および地獄の火
27 クルアーンは魂について,また復活について何と述べていますか。(レビ記 24:17,18; 伝道の書 9:5,10; ヨハネ 5:28,29と比べてください。)
27 イスラム教は,人間にはあの世に移って行く魂があると教えています。クルアーンは,「アッラーは人間が死ぬとその魂を召され,また死なない者も,睡眠の間それを召し,かれが死の宣告をなされた者の魂は,そのままに引き留め(られる)」と述べています。(スーラ 39:42,日本ムスリム協会; ピクタール訳)同時に,スーラ 75は全部,「キヤーマ,つまり復活」(同協会; アリー訳),もしくは「死者のよみがえり」(ピクタール訳)に充てられています。その章は一部こう述べています。「わたしは,復活の日において誓う。……人間は,われがかれの骨を集められないと考えるのか。……かれは,『復活の日はいつか。』と問う。……かれには,死者を蘇らせる御力がないとするのか。」― スーラ 75:1,3,6,40,同協会; アリー訳。
28 クルアーンは地獄について何と述べていますか。(ヨブ 14:13; エレミヤ 19:5; 32:35; 使徒 2:25-27; ローマ 6:7,23と比べてください。)
28 クルアーンによれば,魂は天の楽園<パラダイス>か,火の燃える地獄での処罰かいずれかの異なった運命をたどることができます。クルアーンが次のように述べているとおりです。「かれらは,『審判の日は何時のことですか。』と問う。それはかれらが,火獄で試みられる日。言ってやるがよい。『あなたがたの責め苦を味わえ。』」(スーラ 51:12-14,日本ムスリム協会; ピクタール訳)「かれらに対しては,現世の生活でも罰が科せられる。だが来世の懲罰は更に厳しい。かれらはアッラーの御怒りに対し,守護者もないのである。」(スーラ 13:34,同協会; ピクタール訳)次のように問われています。「それが何であるかを,あなたに理解させるものは何か。それは焦熱地獄の火。」(スーラ 101:10,11,同協会; アリー訳)「本当にわが印を信じない者は,やがて火獄に投げ込まれよう。かれらの皮膚が焼け尽きる度に,われは他の皮膚でこれに替え,かれらに飽くまで懲罰を味わわせるであろう。誠にアッラーは偉力ならびなく英明であられる。」(スーラ 4:56,同協会; ピクタール訳)さらにこう描写されています。「本当に地獄は,待ち伏せの場であり……かれらは何時までもその中に住むであろう。そこで涼しさも味わえずに,どんな飲物もない,煮えたぎる湯と膿の外には。」― スーラ 78:21,23-25,同協会; ピクタール訳。
29 魂とその運命に関するイスラム教の教えと聖書のそれとを比べてください。
29 死んだ人の魂はバルザフ,つまり「障壁」,すなわち,「人の死後,審判に至るまでいる場所,もしくは状態」に入る,とムスリムは信じています。(スーラ 23:99,100,脚注,日本ムスリム協会; アリー訳)魂はそこで意識を保っているので,人がかつて邪悪な者だったならば,「墓の懲罰」と呼ばれるものに遭いますが,忠実だったならば,幸福を享受します。しかし,忠実な者たちも,生きていた時の少数の罪のゆえに,やはり多少の責め苦に遭わなければなりません。審判の日に人は各々永遠の運命に直面し,その結果,あの中間状態は終わりを告げます。f
30 クルアーンによれば,義人には何が約束されていますか。(イザヤ 65:17,21-25; ルカ 23:43; 啓示 21:1-5と比べてください。)
30 それとは対照的に,義人には天の楽園<パラダイス>の園が約束されており,こう記されています。「だが信仰して善い行いに励む者には,われは川が下を流れる楽園に入らせ,永遠にその中に住まわせよう。」(スーラ 4:57,日本ムスリム協会; ピクタール訳)「本当に楽園の仲間たちは,この日,喜びに忙しい。かれらはその配偶者たちと,木陰の寝床によりかかる。」(スーラ 36:55,56,同協会; ダウッド訳)「われはムーサー(モーセ)に訓戒を授けた後,詩篇の中に,『本当にこの大地は,われの正しいしもべがこれを継ぐ。』と記した。」このスーラ(章)の脚注は詩編 25編13節,および37編11節と29節,それにマタイ 5章5節のイエスの言葉に読者の注意を引いています。(スーラ 21:105,同協会; アリー訳)。ここで配偶者たち,つまり妻たちに言及しているので,もう一つの疑問を取り上げることにしましょう。
一夫一婦,それとも一夫多妻?
31 クルアーンは一夫多妻について何と述べていますか。(コリント第一 7:2; テモテ第一 3:2,12と比べてください。)
31 一夫多妻はムスリムの間の規則ですか。クルアーンは一夫多妻を許していますが,多くのムスリムにはただ一人の妻しかいません。費用のかかる戦いが何度か行なわれた後,おびただしい数の未亡人が残されたため,クルアーンは一夫多妻を認める余地を設けて,こう述べています。「あなたがたがもし孤児の女たちに対し,公正にしてやれそうにもないならば,あなたがたがよいと思う2人,3人または4人の女を娶れ。だが公平にしてやれそうにもないならば,只1人だけ娶るか,またはあなたがたの右手が所有する者(奴隷の女)で我慢しておきなさい。」(スーラ 4:3,日本ムスリム協会; ピクタール訳)イブン・ヒシャームによるムハンマドの伝記は,ムハンマドが15歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚したことを述べています。彼女が死んだ後,ムハンマドは多くの女性と結婚し,亡くなった時には,9人の未亡人を後に残しました。
32 ムターとは何ですか。
32 イスラム教で行なわれている,もう一つの形態の結婚はムターと呼ばれています。これは「結婚を申し込んだり,承諾したりして,限られた期間,また終身結婚契約の場合のように特定の持参金を払って,男女間で結ばれる特別の契約」と定義されています。(「イスラムナ」,ムスタファー・アル・ラーフィー著)スンニー派はこれを楽しみのための結婚と呼んでおり,シーア派は特定の期間内に解消すべき結婚と呼んでいます。この同じ資料は,「[そのような結婚による]子供は嫡出子であり,終身結婚による子供と同様の権利を持つ」と述べています。このような形態の一時的な結婚がムハンマドの時代に行なわれたらしく,ムハンマドはその存続を許しました。スンニー派はそれが後に禁じられたと主張する一方,シーア派最大のイマーミース派はそれが依然有効であると考えています。事実,特に妻のもとから長期間離れている男性で,そのような結婚をする人は少なくありません。
イスラム教と日常生活
33 “行(ぎょう)と信仰の五柱”とは何ですか。
33 イスラム教には五つの主要な義務と五つの基本的な信仰があります。(296,および303ページの囲み記事をご覧ください。)その義務の一つは,信心深いムスリムは毎日5回,メッカの方を向いて礼拝(サラート)をすることです。ムスリムの安息日(金曜日)にはモスク(礼拝堂)の尖塔から流れる祈祷時報係の忘れ難い呼び声を聞くと,人々は礼拝のためにモスクに群がってやって来ます。今日では,生の呼び声の代わりに,録音した声を流すモスクも少なくありません。
34 モスクとは何ですか。それはどのように使われていますか。
34 モスク(アラビア語,マスジッド)はムスリムの崇拝の場所で,サウジアラビアの王ファハド・ビン・アブドゥル・アズィズによれば,「神への呼びかけのための隅石」と描写されています。彼はモスクのことを「礼拝,研究,法律上ならびに司法上の活動,協議,伝道,指導,教育,および準備の場所……モスクはムスリム社会の心臓部である」と定義しました。この崇拝の場所は今では世界中にあります。歴史上最も有名なモスクの一つは,何世紀ものあいだ世界最大であった,スペイン,コルドバのメスキータ(モスク)です。その中心部は今ではカトリックの大聖堂として使用されています。
キリスト教世界との,また同世界内の争い
35 かつて,イスラム教とカトリック教の間にはどんな状況が見られましたか。
35 イスラム教は7世紀以来,西は北アフリカへ,東はパキスタン,インド,バングラデシュ,およびインドネシアにまで広がり始めました。(表紙の見返しにある地図をご覧ください。)イスラム教はそのように広がるにつれて,ムスリムの手から聖地を取り返すために十字軍を組織した戦闘的なカトリック教会と争うようになりました。1492年には,スペインのイサベル妃とフェルディナンド王がカトリックによるスペイン奪回を完了しました。ムスリムとユダヤ人は改宗するか,スペインから追放されるかのいずれかを強いられました。ムスリムの支配下のスペインでそれまで互いに示し合っていた寛容の精神は,カトリックの異端審問所の影響を受けて消失しました。しかし,イスラム教は生き残り,20世紀には蘇生と大きな成長とを経験してきました。
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イスラム教 ― 服従により神に達する道神を探求する人類の歩み
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[285ページの囲み記事]
クルアーンと聖書
「かれは真理をもって,あなたに啓典を啓示され,その以前にあったものの確証とし,また先に律法と福音を下され,この前にも人びとを導き,今また正邪の識別を御下しになる。」― スーラ 3:3,4(3:2,ダウッド訳)。
「コーランの中で歴史上の物語の箇所にはほとんどすべて,聖書の並行記述が見られる。……旧約聖書の人物の中では,アダム,ノア,アブラハム(25の別々のスーラの中で70回ほど言及されており,アブラハムの名はスーラ 14の表題とされている),イシュマエル,ロト,ヨセフ(スーラ 12では専らヨセフのことが扱われている),モーセ(この名は34の別々のスーラに出て来る),サウル,ダビデ,ソロモン,エリヤ,ヨブ,およびヨナ(この名はスーラ 10に出て来る)が一際目立っている。……創造とアダムの堕落に関する物語は5回,洪水は8回,ソドムも8回引き合いに出されている。実際,コーランには聖書の他のどの書よりも五書<ペンタチューク>の並行記述が多く見いだされる。……
「新約聖書の人物の中で強調されているのは,ゼカリヤ,バプテストのヨハネ,イエス(イーサー),マリアだけである。……
「コーランと聖書双方の物語……を比較・研究してみると……逐語的に依存してはいない[つまり,直接引用されてはいない]ことが分かる……」g ―「アラブ人の歴史」。
[脚注]
g [しかし,300ページ,30節のスーラ 21:105も参照]
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教えと指導の三つの源
聖クルアーンは,み使いガブリエルによりムハンマドに啓示されたものとされています。アラビア語で書かれたクルアーンの意味や言葉は,霊感を受けたものであるとみなされています。
ハディース(伝承),もしくはスンナ(言行),「預言者の行為,言説,および暗黙の是認(タクリール)は……[ヒジュラ紀元]2世紀に文章の形式を備えたハディースの中で確定された。それゆえ,ハディースは預言者の行動や言辞の記録である」。これはまた,ムハンマドの「仲間たち,もしくは彼らの後継者たち」のだれの行動や言辞にも当てはまります。ハディースの中では,意味だけが霊感を受けたものとみなされています。―「アラブ人の歴史」。
シャリーア(道),もしくは聖法のことで,これはクルアーンの原則に立脚しており,宗教的,政治的,および社会的な意味でムスリムの全生活を律しています。「人間の行為はすべて,以下の五つの範ちゅうに分類される。すなわち,(1)絶対的な義務と考えられる行為(ファルド)[行なったことに対する報い,もしくは行なわなかったことに対する処罰が関係する]; (2)推奨すべき,あるいは賞賛に値する行為(ムスタハーブ)[報いが関係しているが,不作為に対する処罰はない]; (3)許される行為(ジャイズ,ムバー)で,法的には問題にならない; (4)非難されるべき行為(マクルー)で,非とされるが,処罰されない; (5)禁止行為(ハラーム)で,それをすれば,処罰される」―「アラブ人の歴史」。
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信仰の五柱
1. ただひとりの神アッラーに対する信仰(スーラ 23:116,117)
2. 天使たちに対する信仰(スーラ 2:177)
3. 多くの預言者たち,ただし唯一の音信に対する信仰。アダムは最初の預言者で,他の預言者の中にはアブラハム,モーセ,イエス,および「預言者たちの封緘」であるムハンマドが含まれていました(スーラ 4:136; 33:40)
4. 審判の日に対する信仰(スーラ 15:35,36)
5. 神の全知性,および神は事前にすべての知識を有しており,すべての出来事を定めておられることに対する信仰。しかし,人間には自分の行動の点で選択の自由があります。[イスラム教は自由意志の問題で幾つかの分派に分かれています](スーラ 9:51)
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行の五柱
1. 次のような信仰告白(シャハーダ)を復唱すること。「アッラーの他に神なく,ムハンマドはアッラーの信徒である。」(スーラ 33:40)
2. 1日に5回メッカの方を向いて行なう礼拝(サラート)(スーラ 2:144)
3. 喜捨(ザカー),自分の収入や幾らかの資産の評価額の1%を与える義務(スーラ 24:56)
4. 断食(サウム),特にラマダーンの1か月間の断食(スーラ 2:183-185)
5. 巡礼(ハッジ)。男子のムスリムは皆,一生に一度はメッカまで旅をしなければなりません。それを差し控えられる正当な理由は,病気と貧困だけです(スーラ 3:97)
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イスラム教 ― 服従により神に達する道神を探求する人類の歩み
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[286ページの図版]
イスラム教の伝承によれば,ムハンマドはエルサレムの“岩のドーム”の中のこの岩から天に昇ったと言われています
[289ページの図版]
イスラム教の巡礼者はメッカで,カーバ神殿の周囲を7回巡り,左下の黒い石に触ったり,口づけしたりします
[290ページの図版]
クルアーンを読むには,アラビア語を学ばなければなりません
[298ページの図版]
左上から右回りに: エルサレムの“岩のドーム”; イラン,南アフリカ,およびトルコのモスク(礼拝堂)
[303ページの図版]
コルドバのメスキータはかつて世界最大のモスクでした(その中心部は今,カトリックの大聖堂として使用されています)
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