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「キリストの愛が私たちを駆り立てる」「来て,私の弟子になりなさい」
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セクション3
「キリストの愛が私たちを駆り立てる」
私たちがイエスの後に従いたいという気持ちになるのはどうしてでしょうか。使徒パウロはこう答えています。「キリストの愛が私たちを駆り立てるのです」。(コリント第二5:14)このセクションでは,イエスの愛について学びます。イエスはエホバを愛し,人間を愛し,私たち一人一人を愛しています。そのことを考えると感動し,いっそうイエスの手本に倣うよう駆り立てられます。
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「父を愛している」「来て,私の弟子になりなさい」
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第13章
「父を愛している」
1-2. 使徒ヨハネによると,イエスが悲惨な死を迎えることを決意していたのはどうしてですか。
年老いた男性が,ペン先をインクに浸します。過去の記憶が鮮明によみがえってきます。この人は,イエス・キリストの使徒のうち唯一生き残っているヨハネです。100歳ほどになった今,約70年前の印象的な晩のことを思い返しています。自分や他の使徒たちがイエスと過ごした最後の晩のことです。ヨハネは聖なる力に導かれて細かいことまで思い出し,書いていきます。
2 その晩イエスは,自分が間もなく処刑されることを弟子たちに伝えました。イエスがそのような悲惨な死を迎えることを決意していたのはどうしてか,ヨハネだけが明らかにしています。ヨハネによるとイエスはこう言いました。「私が父を愛していることを世の人々が知るために,父が命じた通りにしています。立ちなさい。出掛けましょう」。(ヨハネ 14:31)
3. イエスは父を愛していることをどのように示しましたか。
3 イエスにとって,お父さんへの愛は何よりも大事なことでした。聖書の中でイエスが「父を愛している」とはっきり言っているのはヨハネ 14章31節だけですが,イエスは常に自分の生き方によって父を愛していることを示しました。イエスが来る日も来る日も勇気や従順や忍耐を示したのも,宣教に打ち込んだのも,神を愛しているからこそでした。
4-5. 聖書はどんな愛を育むよう教えていますか。イエスはどれほどエホバを愛していますか。
4 現代では,愛と聞くと浮ついた軽い感情をイメージする人もいます。恋愛をテーマにした物語や歌などでも,そういう愛がよく描かれます。聖書にも異性間の愛について書かれていますが,愛を軽々しく扱ってはいません。(格言 5:15-21)そして,聖書に繰り返し出てくるのは,もっと深い種類の愛です。その愛は,単なる情熱や一時的な感情でも,感情の伴わない冷たい理念のようなものでもありません。心の底から湧き上がるもので,神の正しい基準に基づいていて,善い行動に表れます。決して薄っぺらいものではありません。聖書によると,その「愛は決して絶えません」。(コリント第一 13:8)
5 イエスほどエホバを深く愛した人は,これまで誰もいません。イエスは,神が与えた一番大事な命令として次の言葉を引用しました。「あなたは,心を尽くし,知力を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない」。(マルコ 12:30)イエス以上にこの命令に沿って生きた人はいません。イエスはどうしてそれほどまでにエホバを愛するようになったのでしょうか。地上にいる間も神への強い愛を持ち続けることができたのはどうしてでしょうか。私たちはどうすればイエスに見習えるでしょうか。
一番強い愛の絆
6-7. 格言 8章22-31節に書かれているのは文字通りの知恵のことではなく,神の子のことだと分かるのはどうしてですか。
6 あなたは友達と一緒に何かをして友情が深まったという経験がありますか。エホバと独り子イエスの間の愛も,そのようにして深まったに違いありません。すでに何度か取り上げた格言 8章30節について,文脈も見ながらさらに詳しく考えてみましょう。22節から31節には,擬人化された知恵について書かれています。それが神の子のことだとどうして分かるのでしょうか。
7 22節で知恵はこう言っています。「エホバが,創造の初めとして,昔の偉業の最初として私を生み出した」。これが文字通りの知恵のことではないのは明らかです。知恵が「生み出」されたことはないからです。知恵には始まりがありません。知恵を持つエホバが永遠の昔から存在しているからです。(詩編 90:2)一方,神の子は「全創造物の中の初子」です。エホバの偉業の最初として生み出されたのです。(コロサイ 1:15)「格言の書」に書かれているように,神の子は天や地よりも前から存在していました。そして神の代弁者である「言葉」なので,イエスが語ることには常にエホバの知恵が完璧に表れています。(ヨハネ 1:1)
8. 神の子は人間になる前に何をしていましたか。素晴らしい創造物を見る時,どんなことをイメージできますか。
8 地上に来る前の非常に長い期間,神の子は何をしていたのでしょうか。30節によると,「優れた働き手」として神のそばにいました。それはどういうことでしょうか。コロサイ 1章16節にこう説明されています。「他の全てのものは,天のものも地上のものも,神の子を通して創造され[ました]。それらは全て,神の子を通して,神の子のために創造されました」。創造者であるエホバは,優れた働き手であるイエスを使って,他の全てのものを創造したのです。そのようにして,天使たち,広大な宇宙,地球と多種多様な動植物,そして地上の創造物の最高傑作である人間が存在するようになりました。父と子がそのように協力して働いたことは,ある意味で建築士と建設業者の関係に似ています。建設業者は,建築士の設計通りに建物を建てます。その建物を見る人は,建築士の良いデザインに感心します。同じように,私たちは創造物を見る時,偉大な建築家であるエホバのデザインの素晴らしさに感動します。(詩編 19:1)そして,「優れた働き手」が長い期間にわたって創造者と一緒に喜んで働いた様子をイメージできます。
9-10. (ア)エホバとイエスの絆はどのようにして強くなりましたか。(イ)私たちはどうすれば天の父との絆を強めることができますか。
9 2人の不完全な人間が一緒に働く場合,仲良くやっていくのが難しいこともあります。でも,エホバとイエスは決してそのようなことはありませんでした。イエスは想像もつかないほど長い間エホバと一緒に働きましたが,「いつも神の前で喜んだ」と言っています。(格言 8:30)エホバと一緒にいられることを幸せに感じていたのです。エホバも同じように感じていました。イエスは神の良いところに倣い,ますますお父さんに似ていきました。そのようにして,父と子は非常に強い絆を育みました。最も古くから存在する,一番強い愛の絆です。
10 私たちはイエスのような特別な立場にはありませんが,それでもエホバとの絆を育むことができます。イエスはお父さんと一緒に働くことによって絆を強めましたが,愛情深いエホバは私たちにも「共に働く」機会を与えてくれています。(コリント第一 3:9)イエスの手本に倣って伝道する時,自分が神と共に働いているということを忘れないようにしましょう。神と共に働けば働くほど,私たちとエホバとの愛の絆は強くなっていきます。それ以上に素晴らしいことはありません。
イエスはエホバへの強い愛を持ち続けた
11-13. (ア)愛は植物とどのように似ていますか。イエスは少年の頃,エホバへの強い愛を持ち続けるために何をしましたか。(イ)イエスは人間になる前も,後に大人になってからも,エホバから学びたいと思っていることをどのように示しましたか。
11 愛はある意味で植物のようなものです。美しい鉢植えのように,愛が生き生きと育つには養分と世話が必要です。放っておかれ,養分を与えられないと,弱って枯れてしまいます。イエスは地上にいる間ずっと,エホバへの愛が弱くなってしまわないように努力を怠りませんでした。強い愛を持ち続けるためにイエスが何をしたか考えてみましょう。
12 イエスが少年の頃,エルサレムの神殿で教師たちと話していた時のことをもう一度思い起こしてください。心配した両親にイエスはこう言いました。「なぜ捜されたのですか。私が父の家にいるはずだと思われなかったのですか」。(ルカ 2:49)少年時代のイエスは,人間になる前の記憶がまだなかったようです。それでも,天の父エホバを熱烈に愛していました。そして,エホバを崇拝することによって愛を表せるということも分かっていました。ですから,清い崇拝が行われる神殿は,イエスにとって世界で一番魅力的な場所でした。ずっとそこにいたい,帰りたくないと思っていました。さらに,ただそこにいるのではなく,エホバについて学びたい,自分の知っていることを話したいと強く願っていました。そういう気持ちになったのはこの12歳の時が最初ではなく,もちろん最後でもありませんでした。
13 人間になる前も,イエスはお父さんから意欲的に学んでいました。イザヤ 50章4-6節に書かれている預言から分かるように,エホバはイエスにメシアとしてどんな役割を果たすことになるのかを教えました。イエスはエホバから選ばれた者として苦しい目に遭うことも知りましたが,熱心に学び続けました。地上に来て大人になってからも,父の家に行ってエホバが望んでいる通りに崇拝を行ったり学んだりする意欲を持ち続けました。イエスが日頃から神殿や会堂に通っていたことが聖書に書かれています。(ルカ 4:16; 19:47)私たちも,エホバへの強い愛を持ち続けるには,集会にいつも出席する必要があります。集会は,エホバを崇拝し,エホバのことをもっと知り,エホバとの友情を深める大切な場だからです。
「イエスは……祈りをするため自分だけで山に登った」
14-15. (ア)イエスが1人の時間を取ったのはどうしてですか。(イ)イエスの祈りのどんなところに,天の父への親しみと敬意が表れていますか。
14 イエスはまた,エホバへの強い愛を持ち続けるために,日頃からよく祈っていました。人が好きでたくさん友がいましたが,1人の時間も大切にしていました。例えば,ルカ 5章16節には,「イエスは人けのない場所に行っては祈っていた」と書かれています。マタイ 14章23節にも,「群衆を解散させた後,祈りをするため自分だけで山に登った。日が暮れても,1人でそこにいた」とあります。このようにイエスがよく1人の時間を取ったのは,人と関わるのを避けるためではなく,エホバと自分だけになって,思っていることを何でも話したかったからです。
15 イエスは祈りの中で,「アバ,父よ」と神に呼び掛けることがありました。(マルコ 14:36)「アバ」というのは父親に話し掛けるときに使われていた言葉で,子供が最初に覚える言葉の1つでした。親しみと敬意の両方がこもっています。イエスがこの言葉を使って祈ったことから,天の父ととても親しかったことや,父エホバに深い敬意を持っていたことが分かります。聖書に書かれているイエスのどの祈りにも,それが表れています。その1つの例は,ヨハネ 17章にある,イエスが亡くなる前の最後の晩に捧げた,心からの長い祈りです。その祈りをじっくり読むと心に響きます。私たちもイエスのような祈りをしたいものです。イエスの言葉を一字一句まねることはしませんが,天の父にどのように心から語り掛けたらよいかをイエスから学べます。イエスに見習っていつも祈るなら,エホバへの強い愛を持ち続けることができます。
16-17. (ア)イエスは天の父への愛を込めて,どんなことを語りましたか。(イ)イエスはエホバが良いものを惜しみなく与えてくれることをどのように示しましたか。
16 この章の初めの方で考えた通り,イエスは「父を愛している」と何度も言ったわけではありませんが,イエスが語った多くのことに天の父への愛が表れていました。例えばどんなことでしょうか。イエスは「天地の主である父……を大いに賛美」しました。(マタイ 11:25)イエスが天の父を賛美した方法の1つは,この本のセクション2で学んだように,父がどれほど素晴らしい方かを人々に伝えることでした。ある話の中ではエホバを,息子を許したいと心から思っている父親に例えています。その父親は,道を踏み外した息子が悔い改めて帰ってくるのを待っていて,遠くに息子を見つけるとすぐに走っていって迎え,抱き締めました。(ルカ 15:20)エホバが愛し許してくださることをイエスがこのように教えてくれたので,私たちは温かい気持ちになってエホバに引き付けられます。
17 イエスは,エホバが良いものをたくさん与えてくれることについてもよく語り,エホバを賛美しました。ある時には,不完全な人間の父親を例に挙げて,天の父が私たちに必要な聖なる力を必ず与えてくれることを示しました。(ルカ 11:13)また,エホバが与えてくれている素晴らしい希望についても語りました。例えば,自分には天の父のそばに戻るという希望があると話しました。(ヨハネ 14:28; 17:5)弟子たちには,エホバがキリストの「小さな群れ」を天に住まわせて,メシアである王と共に治められるようにしてくれるということを伝えました。(ルカ 12:32。ヨハネ 14:2)死を目前にした犯罪者には,パラダイスで生きられることを約束しました。(ルカ 23:43)イエスは,エホバが惜しみなく与えてくれる良いものについてこのように語ることで,エホバへの強い愛を持ち続けることができました。キリストの弟子たちにとっても,エホバについて語り,エホバが与えてくださっている希望を伝えることは,エホバへの愛と信仰を強めるために大切です。
イエスのようにエホバを愛する
18. イエスの後に従って生きていく中で一番大切なのはどんなことですか。どうしてですか。
18 イエスの後に従って生きていく中で一番大切なのは,心,力,知力,自分の全てを尽くしてエホバを愛することです。(ルカ 10:27)そのようにエホバを愛する人は,エホバへの強い愛を感じるだけでなく,行動します。イエスは,天の父への愛を感じたり,「父を愛している」と言ったりすれば十分だとは考えませんでした。そのことは,「私が父を愛していることを世の人々が知るために,父が命じた通りにしています」という言葉にも表れています。(ヨハネ 14:31)サタンは,エホバを心から愛してエホバに仕える人などいないと言いました。(ヨブ 2:4,5)イエスは,サタンのその中傷じみた主張が間違っていることをはっきりさせるために,勇気ある行動を取り,どれほど天の父を愛しているかを皆に示しました。自分の命を失うことになっても神に従い通したのです。あなたはイエスに見習いますか。エホバ神を心から愛していることを,行動によってはっきり示しますか。
19-20. (ア)クリスチャンの集会にいつも出席することが大切なのはどうしてですか。(イ)個人的に聖書をじっくり学んだり祈ったりすることも欠かせないのはどうしてですか。
19 私たちは,神を愛し神との絆を強める必要のあるものとして造られています。エホバはそんな私たちのために崇拝の場を設け,どのように崇拝したらよいかを教えてくれています。クリスチャンの集会に出席する時,神を崇拝し神への愛を深めるために集まっているということを忘れないようにしましょう。集会で神を崇拝するには,心から祈りに加わり,歌で神を賛美し,話される事柄をよく聞き,できるときにはコメントすることが大切です。仲間の兄弟姉妹を励ますこともできます。(ヘブライ 10:24,25)集会にいつも出席してエホバを崇拝するなら,神への愛がますます強くなっていきます。
20 個人的に聖書をじっくり学ぶことや祈ることも,エホバへの愛を深めるために欠かせません。そうしたことをする時,エホバと自分だけの時間を持つことができるからです。神の言葉である聖書を読み,じっくり考えると,エホバの考えや気持ちが伝わってきます。祈る時には,自分の考えや気持ちを何でもエホバに話すことができます。とはいえ,してほしいことばかり言うような祈りにならないようにしましょう。エホバがしてくれたことに感謝したり,エホバが行ったことの素晴らしさをたたえたりすることもできます。(詩編 146:1)忘れてはいけないこととして,エホバへの感謝を表し,エホバを愛していることを示す一番の方法は,エホバについてほかの人に生き生きと語ることです。
21. エホバを愛することはどれほど重要ですか。続く幾つかの章ではどんなことを考えますか。
21 神を愛する人の前には,いつまでも幸せに暮らす道が開かれています。アダムとエバも神を愛しさえすれば幸せになれたのに,神を愛そうとしませんでした。神を愛するなら,どんな試練や誘惑に遭ってもそれを乗り越えて,強い信仰を持ち続けることができます。イエスの弟子にとって,神への愛は一番大事なものです。そして,神を愛する人は周りの人をも愛します。(ヨハネ第一 4:20)続く幾つかの章で,イエスがどのようにさまざまな人を愛したかを取り上げます。まず次の章で,多くの人がイエスに引き付けられたのはどうしてかを考えましょう。
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「大勢の人が」イエスに引き付けられた「来て,私の弟子になりなさい」
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第14章
「大勢の人が」イエスに引き付けられた
「子供たちを私の所に来させなさい」
1-3. 親たちが子供をイエスの所に連れてきた時,どんなことがありましたか。イエスについてどんなことが分かりますか。
イエスの地上での生涯の終わりが迫っています。あと数週間しかありませんが,行うべきことがまだたくさんあります。イエスは使徒たちと一緒にヨルダン川の東のペレア地域で伝道しながら,南のエルサレムに向かっています。そこでイエスにとって最後の過ぎ越しを祝うためです。
2 宗教指導者たちとのやり取りの後,人々が子供たちをイエスに会わせようとして連れてきます。いろいろな年齢の子がいたと思われます。この出来事について記録するに当たり,マルコは以前に12歳の子を指して使ったのと同じ言葉を使っていますが,ルカは「幼児たち」を意味する言葉を使っているからです。(ルカ 18:15。マルコ 5:41,42; 10:13)子供たちが集まると,たいてい騒がしくなるものです。イエスの弟子たちは,主人は忙しくて子供に構っている暇はないと考えたのか,親たちを叱りつけます。ではイエスはどうするでしょうか。
3 イエスは憤ります。子供たちに対してでも親たちに対してでもなく,弟子たちに対してです。そしてこう言います。「子供たちを私の所に来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこの子供たちのような人のものだからです。はっきり言いますが,幼い子供のように神の王国を受け入れる人でなければ,決してそこに入れません」。それから子供たちを「抱き寄せ」,祝福があるようにと願います。(マルコ 10:13-16)マルコが使った表現から,イエスが優しく子供たちを抱き締めたことをイメージできます。ある翻訳にあるように,赤ちゃんを「腕に抱」くこともしたでしょう。子供が好きだったことがよく分かります。さらに分かることとして,イエスはとても近づきやすい人でした。
4-5. (ア)イエスが近づきやすい人だったことは,どんなことから分かりますか。(イ)この章ではどんなことを考えますか。
4 もしイエスが厳しかったり冷たかったり高慢だったりしたら,子供たちはイエスに近寄らなかったでしょうし,親たちもイエスに会いに行こうとは思わなかったことでしょう。でもイエスからは優しさがにじみ出ていて,神と同じように子供を大切に思っていることが伝わってきます。親たちは,イエスが愛情深く子供たちに接し,祝福があるようにと願うのを見て,本当にうれしかったに違いありません。イエスは誰よりも重い責任を担っていましたが,誰よりも近づきやすい人でした。
5 ほかにどんな人たちがイエスに引き付けられたでしょうか。イエスがとても近づきやすかったのはどうしてでしょうか。私たちはどうすればイエスのようになれるでしょうか。こうした点を考えていきましょう。
どんな人たちがイエスに引き付けられたか
6-8. イエスの周りにいたのは大抵どんな人たちでしたか。宗教指導者たちとは違って,イエスはその人たちにどのように接しましたか。
6 福音書を読むと,多くの人がイエスのそばにいたいと思ったことがよく分かります。「大勢の人」がイエスに会いに来たというエピソードが何度も出てきます。例えばこう書かれています。「大勢の人が来てイエスの後に従った」。「大勢の人が集まってきた」。「大勢の人が……多くの人を連れてき」た。「大勢の人がイエスと一緒に旅していた」。(マタイ 4:25; 13:2; 15:30。ルカ 14:25)イエスはよくたくさんの人に囲まれていたのです。
7 イエスの周りにいたのは大抵,宗教指導者たちから軽蔑され,「地の民」と呼ばれていた一般の人たちでした。パリサイ派の人や祭司はその人たちについて,「律法を知らないあの群衆は神に見放されているのだ」と言いました。(ヨハネ 7:49)彼らのそういう見方は,後代のラビの著作にも表れています。多くの宗教指導者は一般の人たちを見下げ,彼らとの食事や商取引や交友を避けていました。口伝律法を知らないその人たちには復活の希望などないと言う人たちさえいました。立場が低い人の多くは,そういう宗教指導者たちに助けや導きを求めたいとは思わなかったことでしょう。でも,イエスには違うものを感じました。
8 イエスは分け隔てなく一般の人たちに接しました。一緒に食事をし,病気を治し,教え,希望を与えました。もちろん,イエスはほとんどの人がエホバに仕えようとしないという現実を分かっていました。(マタイ 7:13,14)それでも,どの人も正しい生き方をする可能性を秘めていると考えました。冷たくて思いやりのない祭司やパリサイ派の人たちとは全く違っていたのです。その祭司やパリサイ派の人たちの中にも,イエスに引き付けられ,生き方を変えてイエスに従うようになった人たちがいました。(使徒 6:7; 15:5)一部の裕福な人や権力者たちもイエスに引き付けられました。(マルコ 10:17,22)
9. 女性たちがイエスに引き付けられたのはどうしてですか。
9 女性たちも安心してイエスに接しました。人を見下す宗教指導者たちの前では,萎縮してしまうことが多かったでしょう。多くのラビは,女性を教えることをよしとしませんでした。女性は信頼できないと考えていたので,裁判で証言させませんでした。自分たちが女性でないことを祈りの中で神に感謝することさえしました。対照的に,イエスは女性を見下したりせず,大切にしました。それを感じた多くの女性がイエスの所にやって来て,イエスから学ぼうとしました。一例として,イエスがラザロと姉妹たちの家に行った時,マルタは食事の支度で忙しく動き回っていましたが,マリアはイエスの足元に座り,イエスの話に聞き入っていました。イエスは,より大事なことを優先したマリアを褒めました。(ルカ 10:39-42)
10. 宗教指導者たちとは違って,イエスは病気の人にどのように接しましたか。
10 宗教指導者たちからのけ者にされていた病気の人たちも,イエスの所にやって来ました。モーセの律法では,重い皮膚病の人を衛生上の理由で隔離することになっていましたが,その病気の人たちに冷たくしてよいということではありませんでした。(レビ記 13章)ところが,後代にラビたちが作った規則には,その病気の人は排せつ物と同じほど不快だと書かれています。その人たちを遠ざけるために石を投げつける宗教指導者もいました。そのような扱いを受けた人たちは,教師に会いに行こうとは思わなかったに違いありませんが,イエスには会いに行きました。次のように信仰を表明した人もいます。「主よ,あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます」。(ルカ 5:12)この時イエスがどうしたかは次の章で考えますが,ここで注目したいのは,病気の人たちにとってもイエスはとても近づきやすい人だったということです。
11. 罪を犯して罪悪感に苦しんでいる人がイエスに会いに行った,どんな例がありますか。イエスのように近づきやすい人になるのが大切なのはどうしてですか。
11 罪を犯して罪悪感に苦しんでいる人たちも,イエスに会いに行きたいと思いました。イエスがパリサイ派のある人の家で食事をしていた時のことを考えましょう。罪人として知られている女性が入ってきて,イエスの足元にひざまずき,自分の罪のことで涙を流します。そして,その涙でぬれたイエスの足を自分の髪の毛で拭きます。イエスを招待した人は眉をひそめ,その女性を近寄らせたイエスを心の中で批判しますが,イエスは女性が誠実に悔い改めたことを優しく褒め,エホバに許されていると伝えて安心させます。(ルカ 7:36-50)現代ではますます多くの人が罪悪感を抱えていて,神に許してもらうために安心して頼れる人を必要としています。では,イエスがとても近づきやすい人だったのはどうしてかを分析してみましょう。
イエスが近づきやすい人だったのはなぜか
12. イエスが近づきやすい人だった主な理由は何ですか。
12 イエスは愛する天の父に完璧に見習っていました。(ヨハネ 14:9)聖書に書かれている通り,エホバは「私たち一人一人から遠く離れてはいません」。(使徒 17:27)エホバに忠実に仕える人や,神のことを知って神に仕えたいと思っている人は皆,「祈りを聞く方」であるエホバにいつでも話し掛けることができます。(詩編 65:2)エホバは宇宙で最も偉大で力がある方ですが,誰よりも近づきやすいのです。そのエホバと同じように,イエスも人を愛しています。そのイエスの深い愛についてはこの後の幾つかの章で取り上げますが,多くの人がイエスに引き付けられたのは主に,イエスの愛をはっきりと感じることができたからです。では,イエスのどんなところに愛が表れていたかを考えてみましょう。
13. 親はどのようにイエスに見習えますか。
13 イエスは一人一人に関心を払い,そのことが相手に伝わりました。大変な時にも,人への気遣いが欠けることはありませんでした。すでに考えた通り,親たちが子供をイエスに会わせようと連れてきた時,イエスは重責を果たすために忙しくしていましたが,喜んで子供たちのために時間を取りました。親にとって素晴らしい手本です。今の世の中で子供を育てるのは簡単ではありませんが,いつでも親に頼れると子供が感じられるようにするのは大切なことです。親は忙しくて子供に構っていられないこともあるかもしれませんが,そういうときにもできるだけ早く時間を取ることを子供に約束できます。子供は辛抱することの大切さを学べるでしょう。そして親が約束を守れば,子供は何かあったらいつでも親に相談できると分かって安心します。
14-16. (ア)どんなことがあってイエスは最初の奇跡を行いましたか。それがすごい奇跡だったと言えるのはどうしてですか。(イ)カナでの奇跡からイエスについてどんなことが分かりますか。親はどんなことを学べますか。
14 イエスは相手の気に掛かっていることをきちんと受け止めました。一例として,イエスが行った最初の奇跡について考えましょう。ガリラヤのカナという町で結婚の披露宴に出席していた時,ぶどう酒が足りなくなるという問題が起きました。そのことを母親のマリアから伝えられたイエスは,どうしたでしょうか。給仕たちに,大きな石の水がめ6つを水でいっぱいにするようにと言いました。給仕たちがそれを少しくんで宴会の幹事の所に持っていくと,なんと上等のぶどう酒でした。水が「ぶどう酒に変えられた」のです。(ヨハネ 2:1-11)人間は昔から,ある物を別の物に変えられたらいいのにと考えてきました。何世紀もの間,錬金術師と呼ばれる人たちが鉛を金に変えようと努力しましたが,一度も成功しませんでした。鉛と金はかなり似た元素なのに,うまくいかなかったのです。a では,水とぶどう酒はどうでしょうか。水は2つの基本的な元素が結合した単純な化合物です。一方,ぶどう酒には1000近い成分があり,その多くが複雑な化合物です。では,披露宴でぶどう酒が不足したというささいなことのために,イエスはどうしてそれほどの奇跡を行ったのでしょうか。
15 新郎新婦にとっては,それはささいな問題ではありませんでした。古代の中東では,招待客をもてなすことはとても大事なことでした。結婚の披露宴でぶどう酒を切らしてしまったら,新郎新婦は相当恥ずかしい思いをし,結婚の日が台無しになって,苦い思い出を何年も引きずることになったでしょう。ですから,2人にとって一大事であり,イエスもそのことをよく理解していて,何とかしてあげたいと思ったのです。イエスは確かに,気掛かりなことを相談したいと誰もが思うような人でした。
お子さんの気持ちを受け止め,気に掛けていることが伝わるようにしましょう
16 イエスのこの手本からも,親は大切なことを学べます。お子さんが何かのことで悩んで相談しに来たら,あなたはどうしますか。大したことではないと言って片付けたくなるかもしれません。思わず笑ってしまいそうになることもあるでしょう。自分が抱えている問題に比べれば,本当にささいなことかもしれません。でも,お子さんにとっては重大な問題だということを忘れないようにしましょう。愛するお子さんが悩んでいるのですから,真剣に受け止めたいと思うのではないでしょうか。あなたが気に掛けていることが伝われば,お子さんは何でも話してくれるようになるでしょう。
17. イエスが温和だったことは,どんなことから分かりますか。温和な人は強い人だと言えるのはどうしてですか。
17 第3章で考えたように,イエスは温和で謙遜でした。(マタイ 11:29)温和な人は魅力的です。温和でいられるのは謙遜だからこそです。温和は神の聖なる力が生み出すものの一面であり,神からの知恵と結び付いています。(ガラテア 5:22,23。ヤコブ 3:13)イエスはどんなにひどいことをされても感情的になったりしませんでした。温和だったからといって,弱かったわけではありません。ある学者は温和について,「その物柔らかさの背後には鋼鉄のような強さがある」と述べています。確かに,怒りを抑えて温和に人に接するには強さが必要です。でもエホバに助けてもらいながら努力すれば,私たちもイエスに見習って温和で近づきやすい人になることができます。
18. イエスが分別のある人だったことがどんな出来事から分かりますか。分別のある人が近づきやすいのはどうしてだと思いますか。
18 イエスは分別のある人でした。イエスがティルスにいた時,ある女性がイエスの所に来ました。娘が「邪悪な天使に取りつかれ,ひどく苦しめられて」いたので,助けてほしいと思ったのです。それに対してイエスは,助けるつもりがないことを3回にわたって示します。まず何も答えないことによって,次に助けるわけにいかない理由を説明することによって,最後にその点を例えで強調することによってです。イエスは冷たくあしらっていたのでしょうか。その女性のことをずうずうしいと感じて黙らせようとしていたのでしょうか。そうではありません。女性はイエスの温かさを感じ取っていたからこそ,断られてもイエスに頼み続けたのです。イエスは女性がそれほどまでに強い信仰を持っているのを見て,娘を癒やすことにしました。(マタイ 15:22-28)イエスは分別があり,よく耳を傾け,可能な限り願いを聞き入れる人でした。それで人々は引き付けられたのです。
あなたは近づきやすい人ですか
19. 自分が本当に近づきやすい人かどうかは,どんなことから分かりますか。
19 自分は近づきやすい人だと思っている人は少なくありません。例えば上司であれば,自分はいつも部下に何でも遠慮なく言うように言っているから,部下から慕われている,と自負しているかもしれません。でも聖書の次の言葉には考えさせられます。「自分の揺るぎない愛を公言する人は多いが,実際に忠実な人はまれである」。(格言 20:6)自分は近づきやすい人だと口で言うのは簡単ですが,実際にイエスのように愛情深く人に接していなければ本当に近づきやすい人だとは言えません。私たちがそういう人かどうかは,自分で自分をどう見るかではなく,周りの人が私たちをどう見ているかで分かります。パウロはこう言っています。「分別があることが全ての人に知られるようにしてください」。(フィリピ 4:5)このように考えてみましょう。「私は周りの人たちからどう見られているだろう。どんな人として知られているだろう」。
近づきやすい人になることは長老にとって大切
20. (ア)長老たちが近づきやすい人になる必要があるのはどうしてですか。(イ)どんなことを考えると,会衆の長老たちに謙遜に協力できますか。
20 長老たちは特に,近づきやすい人になるよう誠実に努力する必要があります。イザヤ 32章1,2節に書かれている役割を果たすためです。そこにはこうあります。「彼らはおのおの,風から逃れるための場所,暴風雨から避難するための場所,水のない土地に流れる水,乾き切った土地にある大岩の陰のようになる」。この聖句にあるように兄弟姉妹を守ったり,爽やかにしたり,安心させたりするためには,近づきやすい人であることが欠かせません。長老たちはこの大変な時代にさまざまな重い責任を担っていますから,なかなか余裕がないこともあるでしょう。でも,あまりに忙しそうにしていると,兄弟姉妹は助けを求めて近づくのをためらってしまいます。エホバの羊である兄弟姉妹にそう感じさせたくはありません。(ペテロ第一 5:2)会衆の人たちは,努力している長老たちを批判したりせず,謙遜に協力することが大切です。(ヘブライ 13:17)
21. 親はどうすれば子供にとっていつでも頼れる存在になれますか。次の章では何について考えますか。
21 親が子供にとっていつでも頼れる存在になれるように努力することは,とても大事です。子供には,お父さんやお母さんには何を話しても大丈夫だという安心感を持ってほしいものです。それで,子供が失敗を打ち明けたり,聖書の教えと違うことを言いだしたりしても,感情的になったりせず,温和さや分別を示しましょう。子供の話によく耳を傾けながら,辛抱強く教えます。長老や親に限らず,私たちは皆,イエスのような近づきやすい人になりたいと思っています。次の章では,イエスが近づきやすかった理由の1つである心からの思いやりについて詳しく考えます。
a 元素の周期表で,鉛と金は比較的近くにあります。原子核に含まれる陽子の数は,鉛が金より3つ多いだけです。現代の物理学者はごく少量の鉛を金に変える方法を見つけましたが,その過程には膨大なエネルギーが必要なので割に合いません。
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「かわいそうに思った」「来て,私の弟子になりなさい」
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第15章
「かわいそうに思った」
「主よ,目が見えるようにしてください」
1-3. (ア)目が見えない2人の人から助けてほしいと懇願された時,イエスはどうしましたか。(イ)「かわいそうに思[う]」という表現にはどんな意味がありますか。(脚注を参照。)
目が見えない2人の人が,エリコに近い道路の脇に座っています。毎日そこにやって来て,人通りの多そうな場所で物乞いをしているのです。しかしその日,ある出来事によって2人の人生が大きく変わります。
2 突然,ざわめきが聞こえます。2人は何が起きているのか見えないので,そのうちの1人が何の騒ぎなのかと尋ねると,「ナザレ人イエスが通っていくのだ!」という答えが返ってきます。イエスがエルサレムに向かう最後の旅をしているところで,大勢の人が付いてきています。イエスが通ると聞いた2人は,「主よ,憐れみをお掛けください,ダビデの子よ!」と叫び始めます。いら立った周りの人たちから静かにしているようにと言われますが,2人は黙ろうとせず,必死に叫び続けます。
3 騒がしい中,2人の叫び声がイエスの耳に届きます。イエスはどうするでしょうか。ちょうど地上での最後の週を迎えようとしているところで,気掛かりなことがたくさんあります。エルサレムでひどい目に遭って殺されることも分かっています。でも,2人の必死の願いを聞き流したりはしません。立ち止まり,叫んでいる人たちを連れてくるように頼みます。2人が「主よ,目が見えるようにしてください」と懇願すると,イエスは「かわいそうに思い」,2人の目に触れます。a すると2人は目が見えるようになり,すぐにイエスの後に従います。(ルカ 18:35-43。マタイ 20:29-34)
4. イエスは,「立場が低い人……を哀れに思」うという預言の通り,どのように行動しましたか。
4 イエスはこの時だけでなく,いろいろな時に深い思いやりを示しました。聖書にはイエスが「立場が低い人……を哀れに思」うことが預言されていました。(詩編 72:13)その言葉通り,イエスは人の気持ちに寄り添い,進んで人を助けました。伝道したのも,思いやりがあったからこそです。では,イエスの言動にどのように思いやりが表れていたか,福音書を調べ,どのようにイエスの思いやりに倣えるかを考えましょう。
人の気持ちに配慮した
5-6. イエスが心から人に感情移入したどんな例がありますか。
5 イエスは心から人に感情移入しました。苦しんでいる人たちを見ると,自分のことのように感じました。その人たちと同じ経験をしたことがなくても,どれほどつらいかを感じ取りました。(ヘブライ 4:15)12年間も出血が続いていた女性を癒やした時には,その女性が「つらい病気」で大変な思いをしてきたことへの理解を示しました。(マルコ 5:25-34)ラザロが亡くなった時には,マリアや周りの人たちが泣いて悲しんでいるのを見て,心を揺さぶられました。自分がこれからラザロを生き返らせることは分かっていましたが,同情して涙を流さずにはいられませんでした。(ヨハネ 11:33,35)
6 またある時,重い皮膚病の人がイエスの所に来て,治してほしいと嘆願し,「あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます」と言いました。イエスは完全な人で病気になったことがありませんでしたが,その人に心から同情し,「かわいそうに思い」ました。(マルコ 1:40-42)それから,普通では考えられないことをします。律法によれば,重い皮膚病の人は汚れていて,ほかの人から離れていなければなりませんでした。(レビ記 13:45,46)イエスはその人に触れずに癒やすこともできたでしょう。(マタイ 8:5-13)しかし,あえて手を伸ばしてその人に触り,「そう望みます。良くなりなさい」と言いました。すると,すぐに病気は跡形もなく治りました。イエスの優しい思いやりが伝わってきます。
人をいたわりましょう
7. どうすれば感情移入できるようになりますか。思いやりはどのように表れますか。
7 クリスチャンである私たちは,イエスに見習って人に感情移入する必要があります。聖書には,人を「いたわる」ようにと書かれています。b (ペテロ第一 3:8)慢性的な病気やうつ病などに苦しんでいる人の気持ちを理解することは,そういう経験がない人にとって簡単ではないかもしれません。でも,同じ経験をしていなければ感情移入できないということはありません。イエスは病気になったことがありませんでしたが,病気の人に感情移入しました。では,どうすれば感情移入できるようになるでしょうか。大切なのは,苦しんでいる人がつらい気持ちを話してくれる時に親身になって耳を傾けることです。「自分が相手の立場だったらどう感じるだろう」と考えてください。(コリント第一 12:26)人の気持ちを敏感に感じ取れるようになればなるほど,「気落ちしている人に慰めの言葉を掛け」るのが上手になります。(テサロニケ第一 5:14)思いやりが言葉だけでなく涙に表れることもあるでしょう。ローマ 12章15節には,「泣く人と一緒に泣きましょう」とあります。
8-9. イエスが人の気持ちをよく考えて行動したどんな例がありますか。
8 イエスはいつも人の気持ちをよく考えて行動しました。耳が聞こえず言語障害のある男性がイエスのもとに連れてこられた時のことを考えましょう。イエスはその人の不安そうな様子に気付いたようで,人を癒やす時に普段しないことをしました。「群衆の中からその男性だけを連れて」いき,誰にも見られない所で癒やしたのです。(マルコ 7:31-35)
9 目が見えない男性を人々が連れてきて,治してほしいと頼んだ時も,イエスは同じように思いやり深く行動しました。「目が見えない男性の手を取って村の外に連れて」いき,段階的に癒やしたのです。そのおかげで,男性は目に映るまぶしい光景に少しずつ慣れ,何を見ているかを徐々に理解できるようになったことでしょう。(マルコ 8:22-26)本当に素晴らしい配慮です。
10. 人の気持ちを考えている人はどのように行動しますか。
10 イエスの弟子である私たちも,人の気持ちを考えて行動しなければなりません。例えば,話し方に気を付けます。軽率に話すと人を傷つけてしまうことがあるからです。(格言 12:18; 18:21)人の気持ちに寄り添うクリスチャンは,きついことを言ったり,人をけなしたり,皮肉を言ったりはしません。(エフェソス 4:31)長老は,人の気持ちに配慮していることをどのように示せるでしょうか。助言を与えるときには,相手の尊厳を傷つけないように,親切な言い方をしましょう。(ガラテア 6:1)親は,どのように子供の気持ちに配慮できるでしょうか。子供を正す必要があるときにも,不必要に恥ずかしい思いをさせないようにします。(コロサイ 3:21)
進んで人を助けた
11-12. イエスが人に頼まれなくても思いやりを示したどんな例がありますか。
11 イエスは人に頼まれなくても思いやりを示しました。本当に思いやりがある人は,いつも受け身でいるのではなく,自分から進んで人を助けます。イエスもそうでした。一例として,大勢の人が食べ物も持たずにイエスと3日過ごした時,誰もイエスに,皆がおなかをすかせているから何とかしてほしいと頼む必要はありませんでした。聖書にこう書かれています。「イエスは弟子たちを呼んで,言った。『群衆がかわいそうです。私と共に3日いて,食べる物がないのです。空腹のまま去らせたくありません。途中で倒れてしまうかもしれません』」。それからイエスは自分の意思で奇跡を行って群衆に食べ物を与えました。(マタイ 15:32-38)
12 別の例も考えましょう。西暦31年,イエスはナインという町の近くで悲しい光景を目にします。葬式の行列が町から出てきて,近くの丘の斜面にある墓地に向かうようです。亡くなったのは,ある「やもめ」の「一人息子」でした。この母親がどれほどつらい気持ちだったか,容易に想像できます。悲しみを分かち合える夫もいません。たくさんの人がいる中で,イエスはそのやもめに注目し,「かわいそうに思い」ました。誰に頼まれたわけでもありませんでしたが,同情心から行動せずにはいられませんでした。それで,「遺体を載せた台に近づいて触」り,若者を生き返らせました。それからどうしたでしょうか。自分に同行していた大勢の人たちに加わるようその若者に求めたりはせず,「息子を母親に渡し」ました。その2人がまた一緒に暮らして,やもめが世話を受けられるようにしたのです。(ルカ 7:11-15)
困っている人を進んで助けましょう
13. 困っている人がいたら,イエスに見習ってどのように助けることができますか。
13 私たちはどのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。もちろん,奇跡を行って食べ物を与えたり人を生き返らせたりすることはできませんが,イエスのように自分から進んで人を助けることができます。例えば,兄弟姉妹がお金に困っていたり,失業していたりするかもしれません。(ヨハネ第一 3:17)やもめの姉妹が家の修理を緊急に必要としているかもしれません。(ヤコブ 1:27)家族を亡くした兄弟姉妹が,慰めや手伝いを必要としている場合もあるでしょう。(テサロニケ第一 5:11)本当に助けを必要としている人がいるなら,頼まれなくても行動しましょう。(格言 3:27)思いやりがあれば,自分にできることをして助けたいと思うことでしょう。たとえそれがちょっとした親切や心のこもった一言だとしても,思いやりは十分に伝わるものです。(コロサイ 3:12)
思いやりの気持ちから伝道した
14. 良い知らせを伝える活動をイエスが何よりも大切にしたのはどうしてですか。
14 この本のセクション2で考えたように,イエスは良い知らせを伝える点で素晴らしい手本を残しました。こう言っています。「私はほかの町にも神の王国の良い知らせを広めなければなりません。そのために遣わされたからです」。(ルカ 4:43)イエスがこの活動を何よりも大切にしたのは,主に神を愛していたからでした。でも,人を心から思いやり,神との絆を強められるように助けたいと思ったからでもありました。イエスはいろいろな方法で思いやりを示しましたが,一番大事だったのは,神を正しく知らず満たされない気持ちでいる人たちを助けることでした。では,イエスがそういう人たちのことをどう思っていたかが分かる出来事を2つ考えましょう。私たちもどういう気持ちで伝道すべきかが分かります。
15-16. どんな2つの出来事から,一般の人に対するイエスの見方が分かりますか。
15 イエスは2年ほど精力的に宣教を行った後,西暦31年にガリラヤの「全ての町や村を旅して回り」,より徹底的に伝道することにします。その時のことについて,マタイはこう書いています。「イエスは……群衆を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,放り出されていたからである」。(マタイ 9:35,36)イエスは一般の人たちに同情しました。その人たちが神のことをよく知らず,惨めな状態にあったからです。導いてくれるはずの宗教指導者たちからひどい扱いを受け,全く教えてもらっていませんでした。イエスは深い同情心から,人々に希望のメッセージを伝えるために奮闘しました。彼らは神の王国の良い知らせを何よりも必要としていたのです。
16 しばらくして,西暦32年の過ぎ越しが近づいた頃,同じようなことがありました。その時イエスと使徒たちは舟に乗り,ガリラヤ湖を渡って静かな場所で休もうとしていました。ところが,群衆が岸に沿って走り,舟より先に向こう岸に着いてしまいます。イエスはどうしたでしょうか。こう書かれています。「イエスは舟を下り,大勢の人を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のようだったからである。そして,多くのことを教え始めた」。(マルコ 6:31-34)この時も,イエスは神をよく知らない人たちの惨めな状態を見て「かわいそうに思」いました。彼らはいわば「羊飼いのいない羊」のようにおなかをすかせ,さまよっていたのです。イエスがその人たちに伝道したのは,単なる義務感からではなく,その人たちのことを思いやったからです。
思いやりの気持ちから伝道しましょう
17-18. (ア)私たちが伝道を大切にするのはどうしてですか。(イ)どうすれば人への思いやりを深めることができますか。
17 イエスの弟子である私たちが伝道を大切にするのはどうしてでしょうか。この本の第9章で考えたように,私たちは伝道して人々を弟子とする任務を与えられています。(マタイ 28:19,20。コリント第一 9:16)とはいえ,単なる義務感から伝道するのではありません。何よりも,エホバを愛しているので,エホバの王国の良い知らせを伝えます。さらに,エホバを知らない人たちへの思いやりから伝道します。(マルコ 12:28-31)では,どうすれば人への思いやりを深めることができるでしょうか。
18 エホバを知らない人たちに対して,イエスと同じ見方をする必要があります。「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,放り出されて」いる人たちと見るのです。迷子の子羊を見つけたところを想像してみてください。牧草地や水場に連れていってくれる羊飼いがいないので,その子羊はおなかをすかせていて,喉も渇いています。かわいそうに思うのではないでしょうか。何とかして食べ物や水を与えようとすることでしょう。まだ良い知らせを聞いたことがない多くの人は,この子羊のようです。頼りになる牧者がいないので,心が飢え渇いていて,将来に希望を持てないでいます。私たちは,そういう人たちが必要としているものを持っています。聖書から得られる,心を養う食物と,心に染みる真理の水です。(イザヤ 55:1,2)真理を知らずにいわば迷子になっている人たちのことを考えると,私たちはかわいそうに思います。イエスのようにそういう人たちへの深い思いやりがあれば,王国の希望を伝えるためにできる限りのことをせずにはいられなくなります。
19. 聖書を学んでいる人が伝道に参加する資格を満たしているなら,伝道者になるようどのように励ませますか。
19 他の人がイエスの手本に倣えるよう,どのように助けられるでしょうか。伝道に参加するよう,聖書を学んでいる人やしばらく伝道をしていない仲間を励ましたい場合のことを考えてみましょう。ポイントは,行動したいという気持ちを起こさせることです。イエスは人々のことを「かわいそうに思った」ので,進んで教えました。(マルコ 6:34)それで,イエスのように良い知らせを伝えたいと思ってもらうには,人への思いやりを深められるように助けることが大切です。こんなふうに尋ねてみることもできます。「神の王国について知ることができて,どんなことが良かったと思いますか。まだ王国について知らない人たちにとって,良い知らせを聞くことはどれほど大切だと思いますか。どうしたらそういう人たちの助けになれると思いますか」。もちろん,私たちが宣教を行う主な理由は,神を愛していて,神に仕えたいと思っているからです。
20. (ア)イエスの弟子になるにはどんなことが必要ですか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。
20 イエスの弟子になるには,単にイエスの言動をまねればよいというわけではありません。イエスと同じ「考え方」ができるようになる必要があります。(フィリピ 2:5)イエスがどんな思いで行動したかが聖書に書かれているおかげで,私たちは「キリストの考え」を知ることができます。それによって,イエスのように人の気持ちに寄り添い,心からの思いやりを示せるようになります。(コリント第一 2:16)次の章では,イエスが特に弟子たちにどのように愛を表したかを考えます。
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「自分に従う人たちを……最後まで愛した」「来て,私の弟子になりなさい」
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第16章
「自分に従う人たちを……最後まで愛した」
1-2. イエスは使徒たちとの最後の晩にどんなことをしましたか。その時間をとても大切にしたのはどうしてですか。
イエスは使徒たちを,エルサレムのある家の階上の部屋に集めました。一緒に過ごす最後の晩です。天の父のもとに戻る時が近づいています。あと数時間もすれば捕らえられ,かつてないほど信仰を試されることになります。でも,自分の死が迫っている中で,使徒たちのことを深く気に掛けています。
2 イエスはこれまでも自分がいずれいなくなることについて使徒たちに伝えてきましたが,彼らを力づけるために言うべきことがまだあります。それで,その最後の貴重な時間を使って,使徒たちが試練に遭っても忠実でいられるよう,大切なことを教えます。普段以上に温かく胸を打つ言葉で使徒たちに語り掛けます。イエスが自分のことよりも使徒たちのことを考えていたのはどうしてでしょうか。一緒に過ごす最後の時間をそれほどまでに大切にしたのはどうしてでしょうか。それは,使徒たちのことを深く愛していたからです。
3. イエスがずっと弟子たちを愛していたことは何に表れていましたか。
3 何十年もたってから,使徒ヨハネは聖なる力に導かれてその晩のことを次のように書きました。「イエスは,過ぎ越しの祭りの前に,自分がこの世を去って天の父のもとに行くべき時が来たことを知った。そして,世にいて自分に従う人たちを,それまでも愛してきたが,最後まで愛した」。(ヨハネ 13:1)この言葉の通り,イエスは「自分に従う人たち」を最後の晩に至るまでずっと愛しました。その愛は,イエスのさまざまな言動に表れていました。では,イエスがどのように愛を表したかを調べて,弟子としてどのようにイエスに見習えるかを考えましょう。
辛抱強く接した
4-5. (ア)弟子たちに対するイエスの辛抱は何度も試されました。どんなことがありましたか。(イ)ゲッセマネの庭園で3人の使徒が眠り込んでしまった時,イエスはどうしましたか。
4 コリント第一 13章4節に「愛は辛抱強[い]」とある通り,愛がある人は人に辛抱強く接します。イエスもそうでした。第3章で考えたように,使徒たちはなかなか謙遜になれませんでした。自分たちの中で誰が一番偉いかについて何度も議論しました。では,イエスは腹を立てたりいら立ったりしたでしょうか。そうではなく,辛抱強く諭しました。一緒に過ごした最後の晩にも使徒たちの間で「激しい議論」が起きましたが,イエスの態度は変わりませんでした。(ルカ 22:24-30。マタイ 20:20-28。マルコ 9:33-37)
5 その晩の少し後に,イエスが11人の忠実な使徒たちと一緒にゲッセマネの庭園に行った時,またしても辛抱が試されます。イエスは8人の使徒を残し,ペテロとヤコブとヨハネを連れて庭園の奥の方に行って,こう言いました。「私は悲しみのあまり,死んでしまいそうです。ここにとどまって,私と共にずっと見張っていなさい」。そして,少し離れた所に行って熱烈に祈り始めます。長い祈りを終えて戻ってみると,なんと3人は眠り込んでいました。イエスにとって一番大変な時に緊張感もなく寝ていた3人を,イエスは叱りつけたでしょうか。そうはせず,辛抱強く助言し,「もっとも,心は強く願っていても,肉体は弱いのです」と言いました。その言葉から,使徒たちの弱さや感じていたストレスをよく理解していたことが分かります。a その後も使徒たちはさらに2回眠り込んでしまいましたが,イエスはずっと辛抱しました。(マタイ 26:36-46)
6. イエスに見習ってどのように人と接したらよいですか。
6 イエスが使徒たちに見切りをつけなかったことは,私たちにとっても励みになります。イエスの辛抱は報われました。使徒たちは,謙遜であることや目を覚ましていることの大切さを学んだのです。(ペテロ第一 3:8; 4:7)私たちはイエスに見習ってどのように人と接したらよいでしょうか。特に長老たちは仲間に辛抱強く接する必要があります。疲れ切っている時や自分の心配事で頭がいっぱいの時に,兄弟姉妹に相談を持ち掛けられることがあるかもしれません。助言になかなか応じない人もいることでしょう。それでも,辛抱強ければ「温和な態度で」教えることができ,「群れを優しく扱」えます。(テモテ第二 2:24,25。使徒 20:28,29)親にとっても,イエスに見習って辛抱することは大切です。子供がなかなか言うことを聞かない場合があるからです。愛情深くて辛抱強い親は,諦めずに子供を教え続けます。そうすれば,きっと喜ばしい結果になることでしょう。(詩編 127:3)
必要なものを与えた
7. イエスはどのように弟子たちの体を気遣い,必要な物に事欠かないようにしましたか。
7 愛がある人は,人のためになることをします。(ヨハネ第一 3:17,18)「自分のことばかり考え」ません。(コリント第一 13:5)愛情深いイエスは,弟子たちの体を気遣い,必要な物に事欠かないようにしました。弟子たちから頼まれなくても,弟子たちのためを思って行動することがよくありました。例えば,弟子たちが疲れていることに気付いた時には,「一緒に静かな場所に行って,少し休」むことにしました。(マルコ 6:31)弟子たちや,教えを聞きに集まっていた何千人もの人たちがおなかをすかせていることを見て取ると,食べ物を与えました。(マタイ 14:19,20; 15:35-37)
8-9. (ア)イエスは弟子たちが強い信仰を持てるように,必要な教えや励ましを与えました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)杭に掛けられていた時,イエスは母親のことを深く気遣ってどんなことをしましたか。
8 イエスは弟子たちが強い信仰を持てるように,必要な教えや励ましを与えることもしました。(マタイ 4:4; 5:3)人々を教える時に,主に弟子たちのことを念頭に置いていたこともよくありました。例えば山上の垂訓は,特に弟子たちのために話しました。(マタイ 5:1,2,13-16)例えを使って教えた時には,「弟子たちだけの時に全ての説明を」しました。(マルコ 4:34)さらにイエスは,終わりの時代に弟子たちが信仰を強める食物を十分に受け取れるよう,「忠実で思慮深い奴隷」を任命することを予告しました。1919年以来,聖なる力によって選ばれたイエスの兄弟たちの少人数の一団が,地上で忠実な奴隷として「適切な時に食物を与え」ています。(マタイ 24:45)
9 イエスは亡くなる日に,愛する家族がエホバとの強い絆を持ち続けられるように取り計らいました。その感動的な場面を想像してみてください。イエスは杭に掛けられ,ひどい苦しみに耐えています。息をするには,脚で体を持ち上げなければならなかったことでしょう。そうすると激痛が走ったに違いありません。くぎを打たれた足の所が体の重みで裂け,むちで打たれた背中が杭にこすれたからです。そういう状態では,話すのも大変だったでしょう。それでも,息を引き取る直前に,イエスは母親のマリアへの深い愛が表れた言葉を語ります。そばに立っていたマリアと使徒ヨハネを見て,周りの人にも聞こえるほど大きな声でマリアに,「見なさい,あなたの子です!」と言います。それからヨハネに,「見なさい,あなたの母親です!」と言います。(ヨハネ 19:26,27)その忠実な使徒が,マリアを生活面だけでなく信仰面でも支えてくれることを確信していたのです。b
子供を愛する親は,子供に辛抱強く接し,子供の幸せのために必要なことをする
10. 親はどのようにイエスに見習えますか。
10 親がイエスの手本についてじっくり考えるのは良いことです。家族を心から愛する父親は,家族を十分に養います。(テモテ第一 5:8)また,家族のリーダーとして,家族がバランスよく休養や楽しいことをする時間を取れるようにします。一番大事なこととして,クリスチャンの親は子供が神との強い絆を持てるように助けます。そのために,家族で聖書を学ぶ時間を欠かさずに取ることは大切です。子供たちが楽しく学んで,エホバに仕えたいと思えるようにします。(申命記 6:6,7)さらに,伝道や集会がとても大切であることを教え,よく準備して参加することによって手本を示します。(ヘブライ 10:24,25)
快く許した
11. 人を許すことについて,イエスは弟子たちにどんなことを教えましたか。
11 愛がある人は,人を許します。(コロサイ 3:13,14)コリント第一 13章5節にある通り,「傷つけられても根に持ちません」。イエスは,許すことの大切さを繰り返し弟子たちに教えました。「7回ではなく77回」人を許すようにと言いました。何度でも許しなさい,ということです。(マタイ 18:21,22)また,罪を犯した人が助言を受けて悔い改めたなら,その人を許すようにとも教えました。(ルカ 17:3,4)口先だけの偽善的なパリサイ派の人たちとは違い,イエスは自ら手本を示しました。(マタイ 23:2-4)親しい友の言動にがっかりした時にも,イエスがどのように快く許したかを考えてみましょう。
12-13. (ア)イエスが捕らえられた夜,ペテロはイエスをがっかりさせるようなどんなことをしましたか。(イ)イエスが快く人を許したことは,復活後のどんな言動から分かりますか。
12 イエスの親しい友の1人に,温かい心の持ち主である使徒ペテロがいました。ペテロは時々衝動的に行動することもありましたが,イエスはペテロの良いところに注目し,特別な務めや機会を与えました。例えば,ペテロはヤコブやヨハネと一緒に,他の使徒たちは見ることができなかった奇跡を見せてもらいました。(マタイ 17:1,2。ルカ 8:49-55)また,イエスが捕らえられた夜も,その2人と一緒にゲッセマネの庭園の奥の方までイエスに付き添いました。しかし,その夜にイエスが裏切られて拘束された時,ペテロや他の使徒たちはイエスを見捨てて逃げました。その後,イエスが不当な裁判にかけられている間,ペテロは勇敢にも外で待っていました。ところが,怖くなって重大な間違いをしてしまいます。イエスなど知らないと3回もうそをついたのです。(マタイ 26:69-75)イエスはどうしたでしょうか。あなただったら,親友にそのようにがっかりさせられたらどうしますか。
13 イエスはペテロを許しました。ペテロが罪悪感に苦しんでいることをよく分かっていました。ペテロが「泣き崩れた」ことから,深く後悔していたことは明らかでした。(マルコ 14:72)復活した日に,イエスはペテロの前に現れました。慰めて安心させるためだったのでしょう。(ルカ 24:34。コリント第一 15:5)それから2カ月もしないペンテコステの日に,ペテロはエルサレムで使徒たちの先頭に立って群衆に話しました。イエスがペテロにその務めを与えたことは,ペテロへの信頼の表れでした。(使徒 2:14-40)イエスは自分を見捨てたほかの使徒たちのことも根に持ったりしませんでした。復活した後も,彼らを「私の兄弟たち」と呼んでいます。(マタイ 28:10)イエスが許すよう人に教えただけでなく,自分自身も快く人を許したことがよく分かります。
14. 人を許すように努力する必要があるのはどうしてですか。誰かから気に障るようなことをされたとき,具体的にどうしたらいいですか。
14 キリストの弟子である私たちは,人を許すように努力する必要があります。イエスと違って私たちは皆不完全で,互いに間違ったことを言ったりしたりしてしまうことがよくあるからです。(ローマ 3:23。ヤコブ 3:2)悔い改めている人を許すなら,自分も神に罪を許してもらえます。(マルコ 11:25)では,誰かから気に障るようなことをされたとき,具体的にどうしたらいいでしょうか。愛があれば,相手の小さな間違いや欠点はたいてい見過ごすことができるでしょう。(ペテロ第一 4:8)自分を傷つけた人がペテロのように誠実に悔い改めているなら,イエスに見習って快く許したいと思うことでしょう。根に持ったりせず,水に流すのが最善です。(エフェソス 4:32)そのようにすれば,会衆の平和に貢献でき,自分自身も穏やかな気持ちでいることができます。(ペテロ第一 3:11)
信頼していることを示した
15. 欠点がある弟子たちをイエスが信頼したのはどうしてですか。
15 愛がある人は,人を信頼します。聖書によると「全てのことを信じ」ます。c (コリント第一 13:7)愛情深いイエスは,不完全な弟子たちを信頼しました。弟子たちが心からエホバを愛していて,エホバの望むことを行いたいと思っていることを信じていました。弟子たちが間違いをしても,心が曲がっているからだとは考えませんでした。例えば,使徒のヤコブとヨハネが王国でイエスの隣に座れるように母親を通してお願いした時,イエスは2人の誠実さを疑ったり,使徒にはふさわしくないと考えたりはしませんでした。(マタイ 20:20-28)
16-17. イエスは弟子たちにどんな責任を委ねてきましたか。
16 信頼の表れとして,イエスは弟子たちにいろいろな責任を委ねました。奇跡によって食べ物を増やして大勢に与えた時には,2回とも食べ物を配るのを弟子たちに任せました。(マタイ 14:19; 15:36)自分にとって最後の過ぎ越しを祝うに当たっては,エルサレムに行って準備をするようペテロとヨハネを遣わしました。2人は,子羊,ぶどう酒,無酵母パン,苦菜など,必要な物を用意しました。それは単なる雑用ではありませんでした。過ぎ越しを正しい方法で祝うことはモーセの律法で求められており,イエスは律法を注意深く守る必要があったからです。しかもその晩,過ぎ越しの祝いの後にイエスが自分の死を記念する式を制定した時,パンとぶどう酒はイエスの体と血を表す重要な物として使われました。(マタイ 26:17-19。ルカ 22:8,13)
17 イエスは弟子たちにさらに重要な務めも与えました。すでに考えた通り,伝道して人々を弟子とするという重大な任務を託しました。(マタイ 28:18-20)また,聖なる力によって選ばれた弟子たちのうちの少人数の一団に,信仰を強める食物を分配させることにしました。(ルカ 12:42-44)天で王となった今でも,イエスは弟子たちを信頼し,聖書に書かれた資格を満たしている「人々という贈り物」に自分の会衆の世話を任せています。(エフェソス 4:8,11,12)
18-20. (ア)兄弟姉妹を信頼する人はどんな見方をしますか。(イ)人に責任を委ねる点でどのようにイエスに見習えますか。(ウ)次の章ではどんなことを考えますか。
18 人に対する見方の点で,どのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。兄弟姉妹を信頼することは,愛の表れです。愛がある人は,人の悪いところではなく,良いところを見るようにします。人にがっかりさせられることはあるものですが,愛情深ければ,相手に悪意があるとすぐに決めつけたりはしません。(マタイ 7:1,2)仲間の良いところに注目すれば,批判したりするのではなく,励まして力づけたいと思えることでしょう。(テサロニケ第一 5:11)
19 人に責任を委ねる点でもイエスに見習えるでしょうか。会衆の監督たちが人を信頼し,その人に合った有意義な仕事を任せるのは良いことです。経験のある長老たちはそのようにして,会衆の役に立とうと「努めている」若い兄弟たちが大切なことを学んで成長できるように助けることができます。(テモテ第一 3:1。テモテ第二 2:2)人を育てるのは大事なことです。エホバがますます多くの人を会衆に招き入れているので,教え導く資格のある兄弟たちがいっそう必要になっているからです。(イザヤ 60:22)
20 イエスは人を愛する点で素晴らしい手本を残しています。イエスの弟子としてできる一番大切なことは,イエスの愛に見習うことです。イエスは私たちを深く愛して,私たちのために自分の命を差し出してくれました。そのことにイエスの愛が一番よく表れています。次の章で詳しく考えましょう。
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「これより大きな愛はありません」「来て,私の弟子になりなさい」
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第17章
「これより大きな愛はありません」
1-4. (ア)ピラトが暴徒たちの前にイエスを連れ出した時,どのような反応がありましたか。(イ)屈辱的でひどいことをされたイエスは,どんな態度を貫きましたか。これからどんなことを考えますか。
「見なさい,この人だ!」 ローマ総督ポンテオ・ピラトは,自分の邸宅の外に集まった暴徒たちの前にイエス・キリストを連れ出し,そう言いました。西暦33年の過ぎ越しの日の朝のことです。(ヨハネ 19:5)ほんの数日前にイエスが神に選ばれた王としてエルサレムに入った時,人々は大喜びで迎えました。ところが今は,イエスに対して敵意をむき出しにしています。
2 イエスは王族が着るような紫の長い衣を身に着け,冠をかぶっています。しかしそれは,自分を王だと言ったイエスをばかにするために人々が着せたものです。衣の下の背中はむちで打たれてずたずたに裂けていて,血まみれです。冠はいばらを編んだもので,それが頭に押し付けられたため,頭からも血が流れています。祭司長たちにあおられた群衆は,ぼろぼろのイエスに全く敬意を払おうとしません。祭司たちは「杭に掛けろ! 杭に掛けろ!」と叫び,群衆も「彼は死に値します」と声高に主張します。(ヨハネ 19:1-7)
3 イエスは,どれほど屈辱的でひどいことをされても堂々としていて,じっと耐えています。a 死ぬ覚悟ができているのです。その過ぎ越しの日,イエスは杭に掛けられ,ひどく苦しみながら亡くなりました。(ヨハネ 19:17,18,30)
4 イエスは弟子たちのことを本当に愛していたので,大切な友たちのために自分の命を差し出しました。「友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」と言っていた通りです。(ヨハネ 15:13)それにしても,イエスがそれほどまでに苦しんで死ぬ必要が本当にあったのでしょうか。イエスがためらわずに命を差し出したのはどうしてでしょうか。イエスの弟子であり「友」でもある私たちは,どのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。
イエスが苦しんで死ぬ必要があったのはなぜか
5. 自分がどんな試練に遭うかをイエスが知っていたのはどうしてですか。
5 イエスは自分が約束のメシアとしてどんな経験をするか分かっていました。メシアがどのように苦しんで死ぬかを詳しく予告していたヘブライ語聖書の数々の預言を知っていたのです。(イザヤ 53:3-7,12。ダニエル 9:26)それで,自分がどんな試練に遭うかを弟子たちに何度か伝えました。(マルコ 8:31; 9:31)自分にとって最後の過ぎ越しを祝うためにエルサレムに向かっていた時には,使徒たちにこう言いました。「人の子は祭司長と律法学者たちに引き渡され,死に値すると断罪されて異国の人々に引き渡されます。そして,人の子はあざけられ,唾を掛けられ,むち打たれ,殺されます」。(マルコ 10:33,34)イエスは決して大げさなことを言っていたのではありません。ここまでで取り上げた通り,イエスは実際にあざけられ,唾を掛けられ,むち打たれ,殺されました。
6. イエスが苦しんで死ぬ必要があったのはどうしてですか。
6 では,どうしてイエスは苦しんで死ぬ必要があったのでしょうか。幾つかの大事な目的があったからです。第一に,イエスが忠誠を貫くことにより,エホバの名が神聖なものとされることになりました。サタンは,神の治め方には問題があり,人間が神に仕えるのは私利私欲からにすぎない,と主張しています。(ヨブ 2:1-5)イエスは「苦しみの杭に掛けられて死ぬ」まで忠実であり続けることにより,サタンの主張が間違っていることを証明しました。(フィリピ 2:8。格言 27:11)第二に,メシアが苦しんで死ぬことにより,人々の罪が償われることになりました。(イザヤ 53:5,10。ダニエル 9:24)イエスが「多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与え」てくれたおかげで,私たちは神との友情を育むことができます。(マタイ 20:28)第三に,イエスはさまざまな苦しみに耐えたことで,「あらゆる点で私たちと同じように試され」ました。そのようにして,「私たちの弱さに同情」できる思いやり深い大祭司になりました。(ヘブライ 2:17,18; 4:15)
イエスがためらわずに命を差し出したのはなぜか
7. イエスはどんな犠牲を払って地上に来ましたか。
7 イエスがしたことはどれほどすごいことだったのでしょうか。次のように考えてみてください。あなたが外国に移住することになったとして,もし移住先のほとんどの人から嫌われ,侮辱されたり暴力を振るわれたりし,最後には殺されるということが分かっていたら,あえて家族や家を後にして移住しようと思うでしょうか。イエスがしたのは,まさにそういうことでした。地上に来る前,イエスは天で父エホバのそばにいて,特別な立場に就いていました。それなのに,住み慣れた天を後にし,地上で人間として生きることを受け入れました。ほとんどの人から憎まれ,ひどい屈辱や虐待を受け,苦しんで死ぬことになると分かっていたのに,そうしたのです。(フィリピ 2:5-7)イエスがそれほどの犠牲を払おうと思ったのはどうしてでしょうか。
8-9. イエスがためらわずに自分の命を差し出したのはどうしてですか。
8 一番の理由は,天の父を深く愛していたからです。イエスはエホバを愛していたので,お父さんの名や評判のことを気に掛けていました。(マタイ 6:9。ヨハネ 17:1-6,26)長い間悪く言われてきたお父さんの名誉が回復されることを心から願っていました。そのためなら何でもしたいと思っていました。それでイエスは,苦しい目に遭っても忍耐し,正しいことを貫き通しました。そうすれば天の父の美しい名を神聖なものとすることに貢献できると分かっていたからです。(歴代第一 29:13)
9 イエスが自分の命を差し出したのは,人間を愛していたからでもあります。イエスは人間の歴史の最初から,ずっと人間のことを愛してきました。地上に来る前のイエスについて,聖書にこう書かれています。「私は……人間に深い愛情を抱いた」。(格言 8:30,31)イエスは地上に来てからも,人々を愛していることをはっきり示しました。この本の第14章から第16章で考えたように,イエスの言動にはいつも,あらゆる人への,特に弟子たちへの愛が表れていました。そして西暦33年ニサン14日には,全人類のために命をなげうってくれました。(ヨハネ 10:11)イエスはそこまでして私たちへの深い愛を表してくれたのです。私たちはこのイエスの愛に倣えるでしょうか。イエスはそうしてほしいと思っています。
「私があなたたちを愛した通りに,……互いを愛しなさい」
10-11. イエスが弟子たちに与えた新しいおきてとはどういうものですか。そのおきてに従うのが大切なのはどうしてですか。
10 イエスは亡くなる前の晩,親しい弟子たちにこう言いました。「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。それは,互いに愛し合うことです。私があなたたちを愛した通りに,あなたたちも互いを愛しなさい。あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。(ヨハネ 13:34,35)「互いを愛しなさい」というのが「新しいおきて」だと言えるのはどうしてでしょうか。モーセの律法にも,「仲間[または,隣人]を自分自身のように愛さなければならない」というおきてがありました。(レビ記 19:18)でもイエスによると,私たちは人のために自分の命を与えるほどの,もっと大きな愛を示さなければなりません。そのことは,次のイエスの言葉から分かります。「私があなたたちを愛した通りにあなたたちが互いを愛すること,これが私のおきてです。友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」。(ヨハネ 15:12,13)ですから,新しいおきてとは,「人を自分自身のようにではなく,自分よりも愛しなさい」ということです。イエスは人のために生きて死ぬことによって,確かにそのような愛を示しました。
11 新しいおきてに従うことが大切なのはどうしてでしょうか。イエスの言葉に注目してください。「あなたたちの間に[自己犠牲的な]愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。自己犠牲的な愛は本物のクリスチャンの特徴だということです。この愛は,エホバの証人が大会で着けるバッジに似ています。そのバッジを見れば,その人の名前と会衆がすぐに分かります。同じように,私たちが自己犠牲的な愛を身に付け,示し合うなら,それを見る人たちは私たちが本物のクリスチャンだということが分かります。その愛は大会バッジのように誰の目にも明らかであるべきなのです。それで,こう考えてみましょう。「私の自己犠牲的な愛という“バッジ”は周りの人にはっきり見えているだろうか」。
自己犠牲的な愛を示すとはどういうことか
12-13. (ア)私たちは互いへの愛を表すためにどれほどのことをすべきですか。(イ)自己犠牲とはどういうことですか。
12 私たちはイエスの弟子として,イエスが愛してくれた通りに互いを愛する必要があります。それはつまり,兄弟姉妹のために進んで犠牲を払うということです。どれほどの犠牲を払うべきかについて,聖書にはこう書かれています。「私たちが愛を知ったのは,イエスが私たちのために命をなげうってくださったからです。それで,私たちも兄弟のために命をなげうたなければなりません」。(ヨハネ第一 3:16)イエスのように,必要なら兄弟姉妹のために死ぬ覚悟でいなければならないのです。例えば迫害に遭うとき,たとえ自分が殺されることになっても,兄弟姉妹を裏切って危険にさらすようなことはしません。人種間や民族間の争いが起きている地域では,兄弟姉妹を命懸けで分け隔てなく守ります。戦争が起きたときには,投獄されたり処刑されたりするとしても,決して武器を取りません。兄弟姉妹とも,ほかの誰とも戦いたくないからです。(ヨハネ 17:14,16。ヨハネ第一 3:10-12)
13 仲間のために自分の命を犠牲にする以外にも,自己犠牲的な愛を示す方法はいろいろあります。そもそも,命を犠牲にしなければならないほどの状況はそう多くありません。でも,命を差し出せるほど兄弟姉妹を愛していれば,日頃から進んで犠牲を払って兄弟姉妹を助けるでしょう。自己犠牲とは,自分にとって都合が悪くても人のためになることをするということです。周りの人のことをいつも優先し,何を必要としているかによく心を配ります。(コリント第一 10:24)そのような愛を実際にどんな場面で表せるでしょうか。
会衆や家庭で
14. (ア)長老たちはどのように忙しく働いていますか。(イ)あなたの会衆で一生懸命に働いている長老たちについてどう思いますか。
14 会衆の長老たちは,「羊の群れを世話」するために忙しく働いています。(ペテロ第一 5:2,3)自分の家族を支えるだけでなく,集会の話などを準備したり,牧羊訪問をしたり,審理問題を扱ったりと,会衆のために晩や週末も時間を割いています。もっと多くのことをしている長老たちもたくさんいます。大会の運営のために働いたり,医療機関連絡委員会や患者訪問グループで奉仕したり,LDCボランティアとして奉仕したりしています。このように,長老たちは自己犠牲的な愛を抱き,自分の時間や体力や資産を進んで使っています。(コリント第二 12:15)仲間のために尽くす長老の皆さんのことを,エホバは深く愛しています。会衆の兄弟姉妹も感謝しているに違いありません。(フィリピ 2:29。ヘブライ 6:10)
15. (ア)長老の妻たちはどんな犠牲を払っていますか。(イ)会衆のために働く夫をよく支えている姉妹たちのことをどう思いますか。
15 長老の妻たちのことも考えてみてください。夫が会衆を世話できるように,たくさんの犠牲を払って支えています。夫が家族と過ごす時間を削って会衆のために働かなければならないとき,寂しく思いながらも喜んで協力しています。巡回監督の妻が払っている犠牲についても考えてみましょう。夫と共に,会衆から会衆へ,巡回区から巡回区へと移動するのは楽なことではありません。自分たちの家を持たず,毎週違う布団で寝ることさえあります。こうした長老の妻たちは,自己犠牲的な愛を示して自分のことよりも会衆のことを優先していて,本当に素晴らしい手本です。(フィリピ 2:3,4)
16. 親は子供のためにどんな犠牲を払いますか。
16 家庭ではどのように自己犠牲的な愛を表せるでしょうか。親であれば,子供を養い,「エホバが望む指導と助言によって育て」るために,ベストを尽くしていることでしょう。(エフェソス 6:4)子供の衣食住を賄うために,くたくたになりながら働かなければならない場合もあります。子供に必要なものを買ってあげるためなら自分が我慢しようとさえ思っているかもしれません。子供に聖書を教え,一緒に集会や伝道に参加するためにも,多くのエネルギーをつぎ込んでいます。(申命記 6:6,7)そのようにして自己犠牲的な愛を表す親は,家族という枠組みをつくったエホバに喜ばれます。そして,子供たちと一緒にいつまでも幸せに暮らせることでしょう。(格言 22:6。エフェソス 3:14,15)
17. 夫はイエスの自己犠牲的な愛にどのように倣えますか。
17 夫はどのようにイエスの自己犠牲的な愛に倣えるでしょうか。聖書にこう書かれています。「夫は,キリストが会衆を愛したのと同じように,妻を愛し続けてください。キリストは会衆のために自分を差し出しました」。(エフェソス 5:25)この章で考えてきた通り,イエスは弟子たちを深く愛していたので,自分の命さえ差し出しました。いつも弟子たちのことを優先し,「自分を喜ばせることはしませんでした」。(ローマ 15:3)そのイエスに見習う夫は,妻の願いや必要としていることを自分のことよりも優先します。妻と意見が分かれるときには,自分の考えを押し通そうとはせず,聖書の教えに反しない限り妻の意見を聞き入れます。そのようにして自己犠牲的な愛を示せば,エホバに喜ばれます。妻や子供もそんな父親のことをますます愛し,尊敬することでしょう。
イエスに従って生きる
18. どんなことを考えると,新しいおきてに従いたいという気持ちになりますか。
18 新しいおきてに従って互いを愛するのは楽なことではありませんが,パウロのように考えると,努力したいという気持ちになります。パウロはこう書きました。「キリストの愛が私たちを駆り立てるのです。私たちは次のように考えているからです。1人の人が全ての人のために死にました。……その方が全ての人のために死んだのですから,生きている人たちはもはや自分のために生きるのではなく,自分のために死んで生き返らされた方のために生きるべきです」。(コリント第二 5:14,15)イエスが私たちのために死んでくださったことを考えると,イエスのために生きたいという気持ちになるのではないでしょうか。イエスの思いに応えるには,イエスの自己犠牲的な愛に倣うことが大切です。
19-20. エホバは私たちにどんな素晴らしい贈り物をくれましたか。その贈り物を受け取るにはどうしたらいいですか。
19 イエスは,「友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」と言いました。まさにその通りです。(ヨハネ 15:13)私たちのために自分の命をなげうってくれたことに,私たちへのイエスの愛が一番よく表れています。でも,イエスより大きな愛を示してくれた方がいます。イエスはこう言っています。「神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。そのようにして,独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました」。(ヨハネ 3:16)神は私たちを深く愛しているからこそ,自分の子を贖いとして与えてくださいました。そのおかげで私たちは,罪と死から救われます。(エフェソス 1:7)それでもエホバは,その素晴らしい贈り物を受け取るよう私たちに強制してはいません。
20 エホバからの贈り物を受け取るかどうかは私たち次第です。受け取りたいなら,イエスに「信仰を抱く」必要があります。イエスを信じていると言うだけでは不十分です。信じていることが毎日の行動や生き方全体に表れていなければなりません。(ヤコブ 2:26)イエス・キリストの後にしっかり従って生きていくなら,今も,そして将来も,幸せな生活を送ることができます。この本の結びとなる次の章で,そのことについて考えます。
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