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  • 「マケドニアへ渡ってきて……ください」
    神の王国について徹底的に教える
    • 16章

      「マケドニアへ渡ってきて……ください」

      必要とされる所に喜んで出掛け,前向きな気持ちで迫害に耐えると,うれしい経験ができる

      使徒 16:6-40

      1-3. (ア)パウロの一行はどのように聖なる力に導かれましたか。(イ)これから何を見ていきますか。

      マケドニアの町フィリピから,女性たちが出ていきます。少し歩くと,ガンギテスという細い川に着きます。いつものように川岸に座り,イスラエルの神に祈ります。エホバは天からその様子を見ています。(代二 16:9。詩 65:2)

      2 そこから800㌔以上東では,男性たちがガラテア南部の町ルステラを出ていきます。数日後,西に延びるローマの街道に着きます。アジア州の人口が多い地域につながる舗装された道です。パウロ,シラス,テモテの3人は,その道を通ってエフェソスなどの町に行こうと考えています。そこの人たちにキリストについて伝えたいと思っています。ところが,旅を始めようとすると,聖なる力によって止められます。どう止められたかは聖書に書かれていませんが,いずれにしてもアジア州での伝道を禁じられました。どうしてでしょうか。イエスには考えがありました。聖なる力によってパウロたちを小アジアの先に導こうとしていました。エーゲ海を越えて,ガンギテスという小川の岸辺にまで行かせたいと思っていたのです。

      3 イエスがパウロたちをどのようにマケドニアに導いたかを調べると,大切なことを学べます。では,49年ごろに始まったパウロの2度目の宣教旅行の様子を見てみましょう。

      「神が私たちを招いた」(使徒 16:6-15)

      4,5. (ア)ビチニアの近くで,パウロたちにどんなことがありましたか。(イ)パウロたちはどうすることにしましたか。それでどうなりましたか。

      4 アジアでの伝道を禁じられたパウロたちは,北に向かうことにし,ビチニアの町々で伝道しようと考えます。そこへ行くために,フリギアとガラテアの人口が少ない地域を通り,舗装されていない小道を何日も歩いたかもしれません。しかし,ビチニアに近づくと,イエスが再び聖なる力によってパウロたちを止めます。(使徒 16:6,7)パウロたちは戸惑ったはずです。何について伝道するか,どのように伝道するかは分かっています。でも,どこで伝道したらよいか分かりません。アジアへの扉をたたきましたが,駄目でした。ビチニアへの扉をたたきましたが,それも駄目でした。それでも,パウロは諦めません。開く扉が見つかるまでたたき続けるつもりです。どうしたでしょうか。パウロたちは一見合理的とは思えないルートを選びます。西に進路を変えて550㌔歩き,次から次へと町を通り過ぎていきます。そしてトロアスの港に着きます。マケドニアへの船が出ている港です。(使徒 16:8)そこでパウロは3つ目の扉をたたきます。扉はついに大きく開きます。

      5 トロアスでパウロの一行に加わったルカは,こう書いています。「パウロは夜に幻を見た。マケドニアの男性が立っていて,『マケドニアへ渡ってきて私たちを助けてください』と頼むのだった。パウロがその幻を見てからすぐ,私たちは,彼らに良い知らせを広めるために神が私たちを招いたのだと結論して,マケドニアへ行こうとした」。a (使徒 16:9,10)ついに,どこで伝道したらよいかが分かりました。パウロは,途中で諦めなくて本当によかったと思ったことでしょう。4人はすぐに出発し,船でマケドニアに向かいます。

      使徒パウロとテモテが船に乗っている。テモテが遠くを指さしている。船員たちが働いている。

      「それで,私たちはトロアスから船に乗っ[た]」。使徒 16:11

      6,7. (ア)パウロの旅からどんなことを学べますか。(イ)パウロが経験したことから,私たちもどんなことを期待できますか。

      6 ここから何を学べるでしょうか。注目したいポイントがあります。聖なる力の働き掛けがあったのは,パウロがアジアに向けて出発した後でした。イエスの考えが分かったのも,パウロがビチニアの近くに行った後でした。イエスがマケドニアに行くよう導いたのも,パウロがトロアスに着いた後でした。会衆のリーダー,イエスは,現代でも私たちを同じように導きます。(コロ 1:18)開拓者になりたい,伝道者が多く必要とされている地域で奉仕したいと願っている人もいます。でも,願っているだけでは目標は達成できません。行動を起こした後に,イエスが聖なる力によって導いてくれます。これは車の運転に似ています。運転手は行きたい方向に車を運転できますが,車が動いていなければ右にも左にも曲がれません。同じように,私たちが動いていなければ,つまり目標に向かって行動していなければ,イエスは私たちを導けません。

      7 行動してもなかなか目標が実現しないとしたら,どうでしょうか。聖なる力に導かれていないと考えて,諦めた方がよいのでしょうか。いいえ,諦めてはいけません。パウロも,何度も壁にぶつかりました。でも,開く扉を探し続け,ついに見つけました。私たちも「活動への大きな扉」を探し続けましょう。そうすれば,パウロのようにきっと見つけられます。(コリ一 16:9)

      8. (ア)フィリピはどんな町でしたか。(イ)パウロが「祈りの場所」で伝道したことにより,どんなうれしいことがありましたか。

      8 マケドニア州に着いたパウロたちはフィリピに向かいます。フィリピの人たちは,ローマ市民であることを誇りに思っていました。フィリピは退役したローマ兵が住むイタリア風の町で,まるで小さなローマでした。パウロたちは,町の外を流れる細い川のそばに「祈りの場所」がありそうだと考えます。b 安息日にそこに行き,神に祈るために集まっている女性たちを見つけます。そこに座って話し掛けます。聞いていた人の中に「ルデアという女性」がいて,「エホバは彼女の心を大きく開」きました。ルデアはパウロたちの話を聞いてとても感動し,ルデアも家の人たちもバプテスマを受けました。その後ルデアは,パウロたちを家に招いて泊めてあげました。c (使徒 16:13-15)

      9. パウロに倣っているどんな人たちがいますか。どんな良い経験をしていますか。

      9 ルデアがバプテスマを受けて,パウロたちはどんなにかうれしかったことでしょう。「マケドニアへ渡ってきて……ください」という呼び掛けに応じて本当によかった,と思ったはずです。信仰のあつい女性たちの祈りに答えるために,エホバが自分たちを遣わしてくれたのです。現代でも,たくさんの兄弟姉妹が,伝道者が多く必要とされている地域に引っ越しています。若い人もいれば,年配の人もいます。独身の人もいれば,結婚している人もいます。そうやって引っ越すには,もちろん苦労が伴います。でも,ルデアのように聖書を学ぼうとする人に出会えると,苦労などなかったかのようにうれしい気持ちになります。あなたも「渡って」いけますか。きっと素晴らしい経験ができます。中央アメリカの国に移住した20代のアーロンは,こう言っています。「外国で奉仕するようになって,クリスチャンとして成長できました。エホバとの絆が強くなりました。ここでの伝道は最高です。8件の聖書レッスンをしています」。アーロン以外にも,同じような経験をしている人がたくさんいます。

      2人の姉妹が道で若い女性に伝道している。2人が何を話しているかを知りたそうに,若い男性が見ている。

      あなたも「マケドニアへ渡って」いけますか。

      「群衆は2人に対していきり立った」(使徒 16:16-24)

      10. パウロたちは,邪悪な天使たちが起こしたどんな出来事に巻き込まれましたか。

      10 サタンは激怒していたでしょう。邪魔者のクリスチャンがこれまでいなかった地域で,良い知らせが広まり始めていたからです。そのため,邪悪な天使たちがある出来事を起こし,パウロたちが巻き込まれます。祈りの場所に通っていたパウロたちはある日,邪悪な天使に取りつかれた召し使いの女性に付きまとわれます。主人たちはこの召し使いに運勢占いをさせて金もうけをしていました。女性はこう叫び続けます。「この人たちは至高の神の奴隷で,救いの道を広めています」。邪悪な天使は,占いをする女性にそう叫ばせて,パウロの教えも彼女の占いと特に変わりがないと人々に思わせたかったのかもしれません。これにより,周りの人たちはクリスチャンたちの話に興味を持たなくなったかもしれません。そこでパウロは,女性から邪悪な天使を追い出して,叫ぶのをやめさせました。(使徒 16:16-18)

      11. パウロが女性から邪悪な天使を追い出した後,どんなことがありましたか。

      11 召し使いの女性の主人たちは金もうけの手段を失い,激しく怒ります。パウロとシラスを捕まえて,広場まで引きずっていきます。行政官(ローマを代表する役人)たちが裁判をする場所です。主人たちは,裁判官たちの愛国心と優越感をくすぐる訴えをします。「このユダヤ人たちは,私たちローマ人には受け入れられない習慣を教えて,騒動を起こしている」というような訴えです。するとすぐに,「[広場にいた]群衆は2人[パウロとシラス]に対していきり立」ち,行政官たちは2人を「棒で打ちたたくようにと命令し」ます。その後,2人は牢屋まで引きずっていかれます。牢番は,傷を負った2人を奥の牢屋に入れ,足かせをはめます。(使徒 16:19-24)牢番が戸を閉めると,監房は真っ暗になり,お互いの顔も見えません。でも,エホバは見ていました。(詩 139:12)

      12. (ア)キリストの弟子たちは迫害されたとき,どう考えますか。どうしてですか。(イ)サタンはどんな手を使って反対をあおりますか。

      12 イエスは弟子たちに,「人々[は]あなたたちをも迫害します」と言っていました。(ヨハ 15:20)パウロたちはマケドニアに来た時,迫害を覚悟していたはずです。迫害に遭ったとき,エホバから見放されていると考えるのではなく,怒り狂ったサタンから攻撃を受けていると考えました。現代でも,サタンにいいように使われている人たちは,フィリピの人たちと同じような手を使います。学校や職場で私たちについて事実ではないことを言って,反感をあおります。国によっては,宗教家たちが裁判でエホバの証人を訴えて,こういうようなことを言います。「このエホバの証人たちは,代々信仰を守ってきた私たちには受け入れられない習慣を教えて,騒動を起こしている」。エホバの証人が捕まり,打ちたたかれて刑務所に入れられている国もあります。でも,エホバは見ています。(ペテ一 3:12)

      「すぐにバプテスマを受けた」(使徒 16:25-34)

      13. どんなことがあって,牢番は「救われるには何をしなければなりませんか」と尋ねましたか。

      13 波乱の一日を終え,パウロとシラスの気持ちはまだ高ぶっています。でも,真夜中になる頃にはいくらか落ち着き,「祈ったり歌で神を賛美したりして」いました。すると突然,地震が起き,監房が揺れます。目を覚ました牢番は,戸が開いていることに気付き,囚人たちが逃げてしまったと思い込みます。責任を問われて処刑されると思った牢番は,「剣を抜いて自殺しようとし」ます。しかしパウロが叫びます。「やめなさい。皆ここにいます!」取り乱した牢番は尋ねます。「先生方,救われるには何をしなければなりませんか」。パウロとシラスには救えません。救えるのはイエスだけです。それでパウロたちはこう答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」。(使徒 16:25-31)

      14. (ア)パウロとシラスは牢番にどんなことをしてあげましたか。(イ)前向きな気持ちで迫害に耐えた2人に,どんなうれしいことが待っていましたか。

      14 「何をしなければなりませんか」と聞いた牢番は,本当に知りたくてそう尋ねたのでしょうか。パウロは牢番の誠実さを感じ取りました。牢番は異国人で,聖書の知識がありませんでした。クリスチャンになるには,基本的な教えを学び,信じなければいけません。それでパウロとシラスは時間を取って,「牢番……にエホバの言葉を語」りました。熱中して教えるあまり傷の痛みも忘れてしまっていたかもしれません。でも,牢番は2人の背中の深い傷に気付き,手当てしてあげます。その後,牢番と家の人たちは「すぐにバプテスマを受け」ました。前向きな気持ちで迫害に耐えた2人に,こんなにもうれしいことが待っていました。(使徒 16:32-34)

      15. (ア)多くのエホバの証人はどのようにパウロとシラスに倣っていますか。(イ)会衆の区域の人を繰り返し訪問することが大切なのはどうしてですか。

      15 現代でも,パウロとシラスのようにしている兄弟たちがいます。信仰を貫いたために刑務所に入れられた多くのエホバの証人が,そこで良い知らせを伝え,聞いた人たちがクリスチャンになっています。例えば,活動が禁止されていたある国では,刑務所で聖書を学んだ人がエホバの証人全体の40%を占めていた時期があります。(イザ 54:17)ほかにも注目したいポイントがあります。牢番が学ぶ姿勢を示したのは,地震があった後でした。同じように,これまでは良い知らせに関心がなかった人も,生活を揺るがすようなショッキングな事が起きた後,学ぼうとすることがあります。家の人が関心を持った時にいつでも聖書を学べるよう,会衆の区域の人を繰り返し訪ねるのはとても大切なことです。

      「今,ひそかに出そうというのですか」(使徒 16:35-40)

      16. パウロとシラスが打ちたたかれた翌日,どのように形勢が逆転しましたか。

      16 棒で打ちたたかれた日の翌朝,行政官たちはパウロとシラスの釈放を命じます。でもパウロはこう口を挟みます。「あの人たちはローマ市民である私たちを,有罪の宣告もせずに人前で打ちたたき,牢屋に入れました。それを今,ひそかに出そうというのですか。それはなりません! 彼らが出向いてきて,私たちを連れ出すべきです」。行政官たちはパウロたちがローマ市民であることを知って,「恐ろしく」なります。2人の権利を侵害してしまっていたからです。d 形勢逆転です。パウロとシラスは人前で打ちたたかれました。今度は,行政官たちが人前で謝罪しなければいけません。行政官たちは,フィリピから去るようにと2人に懇願します。2人はそれに応じますが,その前にまず,新しくクリスチャンになった人たちを訪ね,励ますことにします。その後,町を出ていきました。

      17. 新しい弟子たちは,パウロとシラスの手本からどんな大事なことを学んだはずですか。

      17 パウロとシラスは,自分たちがローマ市民であることを早めに伝えていれば,打ちたたかれることはなかったかもしれません。(使徒 22:25,26)でもそうすると,フィリピの弟子たちはどう感じたでしょうか。2人がキリストのために苦しまなくて済むよう市民権を利用した,という印象を持ったかもしれません。フィリピのローマ市民ではない弟子たちは,ローマ法で守られてはいません。2人が早めに市民権を行使したら,そういう弟子たちは,2人の信仰を手本にしにくく感じたかもしれません。パウロたちは自ら罰に耐えることで,新しいクリスチャンたちに大事なことを教えました。キリストの後に従う人たちは迫害に遭っても信仰を貫ける,ということです。さらに,その後パウロとシラスは市民権を行使し,行政官たちが違法行為を公に認めざるを得ないようにしました。そうすることで,この先クリスチャンたちはひどい扱いを受けにくくなり,法的に守られやすくなったかもしれません。

      18. (ア)現代の監督たちはどのようにパウロに倣いますか。(イ)エホバの証人は,「良い知らせを……広める法的権利を得るため」にどんなことをしますか。

      18 現代の監督たちも,自ら手本になって教えます。兄弟姉妹にこうしてほしいと思うことがあれば,自分もそれを実践します。さらに,パウロに倣って,いつどのように法的手段を取るかを慎重に判断します。必要であれば,法的な保護を受けるために裁判所に訴えます。国際裁判所に訴えることもあります。目的は,世の中を変えることではありません。パウロが10年ほど後にフィリピの会衆に書いた通り,「良い知らせを擁護し,その知らせを広める法的権利を得るため」に,そうします。(フィリ 1:7)もちろん,裁判の結果がどうであろうと,パウロたちのように,聖なる力が導いてくれる場所で「良い知らせを広め」続けます。(使徒 16:10)

      ルカ 「使徒の活動」を書いた人

      「使徒の活動」は16章9節まで第三者の視点で書かれています。つまり,登場人物の発言や行動が客観的に書かれています。しかし,使徒 16章10,11節から書き方が変わります。11節には,「私たちはトロアスから船に乗ってサモトラケ島に直行し」たとあります。ここで筆者のルカが旅に加わったということが分かります。でも,ルカの名前は「使徒の活動」には出てきません。どうしてルカが書いたと分かるのでしょうか。

      ルカが机に向かって座っている。巻物を書いている。

      「使徒の活動」とルカの福音書の冒頭部分から分かります。両方とも「テオフィロ」という人物に宛てて書かれています。(ルカ 1:1,3。使徒 1:1)「使徒の活動」はこう始まっています。「テオフィロ様,私は最初の記述で,イエスが行い,教え始めた全ての事柄についてまとめました」。「最初の記述」つまり福音書をルカが書いたことは,古代の学者たちも認めています。それで,「使徒の活動」もルカが書いたと考えられます。

      ルカについての情報は少なく,ルカの名前は聖書に3回しか出てきません。使徒パウロはルカのことを,「皆に愛されている医者」とか,「私と共に働く仲間」と呼んでいます。(コロ 4:14。フィレ 24)ルカが「私たち」と書いている箇所を調べると,ルカは50年ごろパウロの旅行に初めて同行し,トロアスからフィリピまで行ったことが分かります。パウロがフィリピを離れた時には,ルカは一緒にいなかったようです。2人は56年ごろにフィリピで再会し,ほかの7人の兄弟と一緒にフィリピからエルサレムへ旅しました。パウロはそこで捕らえられます。2年後,ルカは,鎖につながれたままのパウロに同行し,カエサレアからローマに行きました。(使徒 16:10-17,40; 20:5–21:17; 24:27; 27:1–28:16)パウロはローマで2度目に拘禁されていた時に,処刑される日が近いと感じます。その時,一緒にいたのは「ルカだけ」でした。(テモ二 4:6,11)ルカは各地を旅し,良い知らせのために苦労を惜しみませんでした。

      ルカは,自分がイエスについて書いた内容はどれも実際に見たことだ,とは言っていません。「目撃証人」から話を聞き,「出来事を1つの記述にまとめ」たと言っています。「全てのことを初めから綿密に調べ」,「順序立てて書」きました。(ルカ 1:1-3)ルカが書いたものを見ると,入念に調査したことが分かります。情報を集めるために,エリサベツや,イエスの母マリアなどから話を聞いたかもしれません。ルカは,ほかの福音書にはない情報をたくさん載せています。(ルカ 1:5-80)

      パウロによれば,ルカは医者です。ルカは苦しんでいる人について,医者らしい観点で書いています。例えば,イエスが邪悪な天使に取りつかれた人を癒やした時に,「邪悪な天使はその男性[に]傷を負わせることなく出ていった」と書いています。また,使徒ペテロのしゅうとめが「高い熱」で苦しんでいたことや,イエスが癒やしたある女性が「18年間邪悪な天使に取りつかれて病弱」だったことも書いています。(ルカ 4:35,38; 13:11)

      ルカは「主の活動」に打ち込みました。(コリ一 15:58)医者としての成功や名声を追い求めるのではなく,エホバについて伝道して教えることに集中しました。

      ルデア 紫布を売る人

      ルデアは,マケドニアの大きな町フィリピに住んでいました。出身は小アジア西部のリュディア地方の町テアテラで,紫布の商売をするためにエーゲ海を渡ってきました。敷物,タペストリー,布地,染料など,紫のさまざまな品物を扱っていたようです。フィリピで見つかった碑文によれば,フィリピには紫布を売る人たちの組合があったようです。

      ルデアが生地を見せている。

      ルデアは「神を崇拝」していたと書かれていますが,これはユダヤ教に改宗していたことを意味しているようです。(使徒 16:14)ルデアは,故郷の町でエホバについて知ったのかもしれません。フィリピとは異なり,そこにはユダヤ人の集会場がありました。ルデアという名前は,フィリピで彼女に付けられたあだ名(「リュディアの女性」という意味)だと考える人もいます。でも,ある文献によれば,ルデアは実名としても使われていたようです。

      リュディア地方と周辺の地域は,ホメロスの時代(紀元前9世紀か8世紀)以来,紫の染色技術で有名でした。テアテラの水を使うと「最も鮮やかであせにくい色」が生まれるという評判までありました。

      紫の品物はぜいたく品で,裕福な人にしか買えませんでした。紫の染料はいろいろな物から採れましたが,地中海の貝を原料とするものが最も上質で高価で,上等の亜麻布に使われました。1個の貝から採れる染料はごくわずかで,1㌘採るのに8000個もの貝を処理しなければなりませんでした。そのため,紫色の布はとても高価でした。

      ルデアの商売にはかなりの資金が必要でした。それに,パウロ,シラス,テモテ,ルカの4人を泊められるだけの家を持っていました。そのことからすると,ルデアは商売で成功した裕福な人だったと思われます。「家の人たち」のことが出てくるので,親族と一緒に住んでいたか,奴隷や召し使いがいたのかもしれません。(使徒 16:15)パウロとシラスはフィリピを出る前に,ルデアの家で兄弟たちと会いました。ルデアの家は,フィリピで新しくクリスチャンになった人たちが集まる場所になっていたようです。ルデアは人をよくもてなす女性でした。(使徒 16:40)

      パウロが10年ほど後に書いたフィリピ会衆への手紙には,ルデアのことが出てきません。ルデアについて分かるのは,使徒 16章に書かれていることだけです。

      a 「ルカ 『使徒の活動』を書いた人」という囲みを参照。

      b フィリピには退役軍人が多く住んでいたため,ユダヤ人は町の中に会堂を設けることを禁じられていたのかもしれません。あるいは,この町ではユダヤ人の男性が10人(会堂の設立に必要な最低人数)に満たなかったのかもしれません。

      c 「ルデア 紫布を売る人」という囲みを参照。

      d ローマ法によれば,市民には常に正当な裁判を受ける権利があり,有罪の宣告もせずに市民を人前で処罰するようなことをしてはなりませんでした。

  • 「パウロは……聖書から論じ[た]」
    神の王国について徹底的に教える
    • 17章

      「パウロは……聖書から論じ[た]」

      パウロの上手な教え方とベレアの人たちの学ぶ姿勢

      使徒 17:1-15

      1,2. 誰がフィリピからテサロニケに向かっていますか。どんなことを考えたかもしれませんか。

      ローマの熟練工が建設した道路が,岩だらけの山々を縫うように走っています。往来の多いその道では,いろいろな音が聞こえます。ロバのいななき,石畳を行く馬車の車輪の音,旅をする兵士や商人や職人たちのにぎやかな話し声などです。パウロとシラスとテモテが,この道を通ってフィリピからテサロニケに向かっています。130㌔以上の道のりを行きます。特にパウロとシラスにとってはきつい旅です。フィリピで打ちたたかれた時の傷がまだ痛むからです。(使徒 16:22,23)

      2 長く険しい道のりですが,会話をしているとそれもあまり気になりません。フィリピでとてもうれしいことがありました。牢番と家の人たちがクリスチャンになりました。神の言葉をこれからも広めていきたいという気持ちが強まっています。それでも,港町テサロニケに近づくにつれて,少しの不安がよぎります。そこではユダヤ人からどんな扱いを受けるでしょうか。フィリピでされたように,捕らえられて打ちたたかれるのでしょうか。

      3. 不安を乗り越えたパウロの手本からどんなことを学べますか。

      3 この時の気持ちを,パウロは少し後にテサロニケのクリスチャンに送った手紙の中で書いています。「ご存じのように,私たちはまずフィリピで苦しめられ,侮辱を受けましたが,神の助けにより勇気を奮い起こし,厳しい反対に遭いながらも皆さんに神の良い知らせを伝えました」。(テサ一 2:2)このように,パウロはテサロニケに行く前にいくらか不安があったことを認めています。フィリピでした経験からすれば,それも当然です。あなたもパウロのように感じたことがありますか。良い知らせを伝えるのをちゅうちょしたことがありますか。パウロはエホバを信頼して,自分を奮い立たせました。パウロに倣うと,私たちも勇気を奮い起こせます。(コリ一 4:16)

      「聖書から論じ[た]」(使徒 17:1-3)

      4. パウロはテサロニケに3週間以上いたと考えられます。どうしてですか。

      4 記録によると,テサロニケでパウロは,3週続けて安息日に会堂で伝道しました。テサロニケに3週間しかいなかったのでしょうか。そうとは限りません。テサロニケに到着後どれくらいしてから会堂に行き始めたか分かりません。また,パウロの手紙によると,パウロたちはテサロニケにいた時に,収入を得るために働きました。(テサ一 2:9。テサ二 3:7,8)さらに,パウロはテサロニケにいる間に,フィリピの兄弟たちから物資を2度受け取っています。(フィリ 4:16)それで,パウロはテサロニケに3週間以上いたと考えられます。

      5. パウロはどのように教えましたか。

      5 パウロは勇気を出して,会堂に集まった人たちに話し掛けます。こう書かれています。「パウロは自分の習慣通り……聖書から論じ,キリストが苦しみを受け,そして生き返る必要があったということを説明したり,関連する点を挙げて証明したりして,『私が伝えているこのイエス,この方がキリストです』と言った」。(使徒 17:2,3)パウロは感情に訴えようとはせず,理性的に考えさせようとしました。聞いていた人たちは聖書になじみがあり,聖書を大切にしていました。でも分かっていないことがありました。ナザレのイエスが約束のメシアつまりキリストであるということです。パウロはそのことを「聖書から論じ,……説明し,……証明し」ました。

      6. イエスはどのように聖書を使って教えましたか。教わった弟子たちはどう感じましたか。

      6 パウロはイエスの教え方に倣っていました。イエスはいつも聖書から教えました。例えば,人の子は苦しんでから死に,生き返るということを聖書を基に説明しました。(マタ 16:21)その通りイエスは生き返り,弟子たちの前に姿を現しました。それだけでもイエスが語ったことが正しかった証拠になります。でも,イエスは聖書からの説明も加えました。どんなふうにそうしたか,こう書かれています。「モーセと全ての預言者の書から始めて,聖書全巻にある自分に関連した事柄を2人[の弟子]に解き明かした」。イエスの説明は弟子たちの心に響きました。弟子たちはこう言っています。「あの方が道中,話してくれた時,聖書をはっきり説明してくれた時,私たちの心は燃えていたではないか」。(ルカ 24:13,27,32)

      7. 聖書を使って教えることが大切なのはどうしてですか。

      7 神の言葉には力があります。(ヘブ 4:12)イエス,パウロ,ほかの使徒たちのように,神の言葉 聖書を使って教えましょう。筋道立てて話し,聖書の言葉の意味を説明します。聖書を開いて見せ,根拠を提示します。そもそも私たちは,自分たちの考えを教えているわけではありません。できるだけ聖書を使うようにすれば,神の考えを教えていることを分かってもらえるはずです。それに,聖書を使えば,パウロのように自信を持って語れます。何よりも信頼できる神の言葉を根拠にしているからです。

      「ある人たちは信者となっ[た]」(使徒 17:4-9)

      8-10. (ア)テサロニケの人たちは良い知らせを聞いて,どうしましたか。(イ)ユダヤ人たちがパウロのことを面白く思わなかったのはどうしてですか。(ウ)怒ったユダヤ人たちはどうしましたか。

      8 イエスはこう言ったことがあります。「奴隷は主人より偉く[ありません]。世の人々が私を迫害したのであれば,あなたたちをも迫害します。私の言葉を守ったのであれば,あなたたちの言葉も守ります」。(ヨハ 15:20)パウロはすでにその言葉通りのことを経験していました。テサロニケでもそうなります。パウロの話を聞こうとする人もいれば,はねつける人もいました。パウロから学んでクリスチャンになった人たちについて,こう書かれています。「ある人たち[ユダヤ人]は信者となってパウロとシラスに加わった。神を崇拝する非常に大勢のギリシャ人や,かなりの数の主立った女性たちもそうした」。(使徒 17:4)新しくクリスチャンになった人たちは,聖書を正しく理解できて喜んだことでしょう。

      9 パウロの話に感謝する人がいる一方で,激しく怒る人もいました。ユダヤ人たちは,パウロが「非常に大勢のギリシャ人」の心をつかんだことを面白く思わなかったようです。彼らはこれまで,ギリシャ人たちをユダヤ教に改宗させようとして,ヘブライ語聖書をずっと教えてきました。自分たちの側に付いていると思っていた人たちが,あっという間にパウロに説得されて離れていってしまいました。しかも,よりによってユダヤ教の会堂でそういうことが起きました。ユダヤ人たちの怒りは収まりません。

      暴徒たちに追われているパウロとシラスが家の門の中に避難している。門の所で男性が暴徒と話している。

      「ユダヤ人たちは……パウロとシラスをその暴徒の前に引き出そうとした」。使徒 17:5

      10 記録はこう続いています。「ユダヤ人たちは嫉妬し,広場をぶらつくならず者たちを寄せ集めて,町に騒動を起こし始めた。そして,ヤソンの家を襲撃し,パウロとシラスをその暴徒の前に引き出そうとした。しかし2人が見つからないので,ヤソンと何人かの兄弟たちを町の支配者たちの所に引きずっていき,こう叫んだ。『至る所で騒ぎを起こした男たちがここにまで来ていて,ヤソンが迎え入れました。この男たちは皆カエサルの命令に逆らって行動し,イエスという別の王がいると言っています』」。(使徒 17:5-7)パウロたちはどうなるのでしょうか。

      11. パウロたちはどんなことで訴えられましたか。ユダヤ人が言った皇帝の命令とは,どんなものだったと考えられますか。(脚注を参照。)

      11 暴徒と化した人たちというのは,手が付けられないものです。どんどんエスカレートし,暴力的になっていきます。ユダヤ人がパウロとシラスを追い出そうとして使ったのは,まさにそういう暴徒たちでした。ユダヤ人は「町に騒動を起こし」た後,パウロたちがとんでもないことをしていると,町の支配者たちに訴えを起こします。まず,パウロたちが「至る所で騒ぎを起こした」と言い張ります。騒ぎを起こしたのは当の自分たちなのにです。次に,さらに大きなことを持ち出し,彼らはイエスという王について広めて皇帝の命令に違反している,と主張します。a

      12. パウロたちは,重い処罰を受ける危険にさらされました。どうしてですか。

      12 以前,宗教指導者たちがイエスについて同じようなことを訴えました。「この男は私たちの民を扇動し,……自分が王キリストだと言っていました」とピラトに訴えました。(ルカ 23:2)ピラトは,反逆の罪を大目に見たと皇帝から思われたくなかったためか,イエスに死刑を宣告します。テサロニケでのユダヤ人の訴えも,同じような重い処罰につながりかねません。ある文献にはこうあります。「彼らはこれ以上ないほどの危険にさらされた。『皇帝に対する反逆をほのめかしたというだけでも,告発された者はたいてい命を落とすことになった』からである」。パウロたちはこのひどい策略にはまってしまうのでしょうか。

      13,14. (ア)暴徒たちが伝道を止められなかったのはどうしてですか。(イ)パウロはイエスの助言にどのように従いましたか。私たちはパウロにどのように倣えますか。

      13 結局,暴徒たちはテサロニケでの伝道を止めることはできませんでした。どうしてでしょうか。まず,パウロとシラスを見つけられませんでした。また,町の支配者たちに,訴えが妥当だとは思ってもらえなかったようです。町の支配者たちは,連れてこられていたヤソンなどの兄弟たちを釈放します。「十分な保証を得た」後,そうします。これはおそらく,保釈金を受け取ったということだと思われます。(使徒 17:8,9)「蛇のように用心深く,しかもハトのように純真なことを示しなさい」というイエスの助言通り,パウロは不必要に危険な目に遭わないよう,町を出て別の場所で伝道を続けることにします。(マタ 10:16)パウロは勇敢でしたが,無謀な人ではありませんでした。私たちはどのように倣えるでしょうか。

      14 現代でも,一般のキリスト教の聖職者がエホバの証人への暴動を引き起こすことがあります。エホバの証人が国家に背いていると支配者層に訴え,反対をあおります。1世紀と同じく,そういう人たちを動かしているのは嫉妬心です。私たちは攻撃されても,事を荒立てるようなことはしません。できるだけ取り合わないようにし,事が落ち着くまで,平和に伝道を続ける別の方法を探ります。

      カエサルと「使徒の活動」

      ギリシャ語聖書全体についても言えることですが,「使徒の活動」に書かれている出来事は,全てローマ帝国の領土内で起きました。ローマ帝国の領土内ではどこでも,ローマ皇帝が最高権力者でした。テサロニケのユダヤ人が言った「カエサルの命令」も,ローマ皇帝の命令のことでした。(使徒 17:7)「使徒の活動」が書かれている時期に統治した皇帝は,ティベリウス,ガイウス,クラウディウス1世,ネロの4人です。

      • ティベリウス(14-37年)は,イエスの宣教期間中ずっと,そしてクリスチャン会衆が発足した後の数年間,皇帝でした。イエスの裁判の時,ユダヤ人は,「この男を釈放するなら,あなた[ピラト]はカエサルの友ではありません。……私たちにはカエサルのほかに王はいません」と叫びました。このカエサルとは,ティベリウスのことでした。(ヨハ 19:12,15)

      • ガイウス,別名カリグラ(37-41年)のことは,ギリシャ語聖書には出てきません。

      • クラウディウス1世(41-54年)の名前は,「使徒の活動」に2回出てきます。クリスチャンの預言者アガボが予告していた「大飢饉」が,「クラウディウスの時」に「全土に」生じました。46年ごろのことでした。また,49年か50年初めに,「クラウディウス[は]ユダヤ人全員にローマ退去を命じ」ました。この命令により,アクラとプリスキラはコリントに移り,そこで使徒パウロに会いました。(使徒 11:28; 18:1,2)

      • ネロ(54-68年)は,使徒パウロが上訴した時のカエサルです。(使徒 25:11)この皇帝は64年ごろのローマの大火をクリスチャンのせいにした,と言われています。その後,65年ごろに,パウロはローマで2度目に拘禁され,処刑されました。

      そこの人たちは「心が広[かった]」(使徒 17:10-15)

      15. 良い知らせを聞いたベレアの人たちはどうしましたか。

      15 身の安全のために,パウロとシラスは65㌔ほど離れたベレアに向かいます。到着すると,パウロは会堂に行き,集まっている人たちに話します。とてもうれしい反応がありました。こう書かれています。ベレアのユダヤ人は「テサロニケの人たちより心が広く,神の言葉を非常に意欲的に受け入れ,聞いたことがその通りかどうかと聖書を毎日注意深く調べた」。(使徒 17:10,11)これは,クリスチャンになったテサロニケの人たちを遠回しに批判しているのでしょうか。そうではありません。パウロは少し後でテサロニケの人たちをこう褒めています。「私たちは絶えず神に感謝しています。皆さんが私たちから神の言葉を聞いた時,それを人間の言葉としてではなく,まさしく神の言葉として受け入れたからです。その言葉は,信仰を持つ皆さんに良い感化を与えています」。(テサ一 2:13)では,ベレアのユダヤ人の心が広かったとは,どういうことでしょうか。

      16. ベレアの人たちの「心が広[かった]」とは,どういうことですか。

      16 ベレアの人たちは新しいことを聞きましたが,疑い深いわけでも,批判的なわけでもありませんでした。逆に,何でもうのみにするわけでもありませんでした。まず,パウロが言うことをじっくり聞き,それから,教えてもらった聖句を調べて本当かどうか確かめました。しかも,安息日だけでなく,毎日聖書を学びました。聞いたことが聖書と合っているかどうか,「非常に意欲的に」調べました。その後,これまでの自分の考えにこだわらずに生き方を変え,「多くが信者となり」ました。(使徒 17:12)ベレアの人たちはそういう意味で「心が広[かった]」のです。

      17. ベレアの人たちのどんなところを手本にできますか。クリスチャンになった後も,どのように倣えますか。

      17 ベレアの人たちは,良い知らせを聞いた時のことがこんなふうに聖書に記録されるとは思っていなかったでしょう。心を広くすることの大切さを教える手本になっています。彼らは,先入観を持たずに聖書をじっくり調べました。それが,パウロもエホバも彼らにしてほしいと思っていたことでした。伝道する私たちも,みんなにそうしてほしいと思っています。聖書にしっかり基づいた信仰を持ってほしいからです。では,すでにクリスチャンになった私たちは,もう心を広くしなくてよいのでしょうか。いいえ,むしろますます心を広くしなければいけません。エホバから学び続け,教わった通りにやってみましょう。そうすれば,クリスチャンとして成長できます。エホバは陶芸家のように,私たちをより良い器にしていってくれます。(イザ 64:8)そうやって私たちは,エホバにとって使いやすい人になり,ますます大事にされます。

      18,19. (ア)パウロがベレアに長くはいられなかったのはどうしてですか。パウロは諦めずにどうしましたか。(イ)次にパウロはどこでどんな人たちに話しますか。

      18 パウロはベレアに長くはいられません。こう書かれています。「テサロニケのユダヤ人たちは,神の言葉がパウロによってベレアでも広められていることを知ると,群衆を駆り立てて騒がせようとしてやって来た。それで,兄弟たちはすぐにパウロを港へと送り出した。しかしシラスとテモテはとどまった。パウロに同行した人たちは彼をアテネまで連れてきた。そしてパウロから,シラスとテモテはできるだけ早く自分のもとに来るようにという指示を受けて,去っていった」。(使徒 17:13-15)本当にしつこいユダヤ人たちです。テサロニケから追い出すだけでは満足せず,ベレアにまで来て,前と同じような騒動を起こそうとしています。でもうまくはいきません。パウロは良い知らせを広く伝えなければいけないことを知っていました。別の町に行って伝道することにします。私たちも,反対に遭っても諦めずに伝道し続けましょう。

      19 パウロはテサロニケとベレアのユダヤ人に,神の王国について徹底的に教えました。勇気を出して語ることや聖書から話すことの大切さをあらためて感じたはずです。私たちもそのことを覚えておきたいと思います。パウロは今度,アテネの異国人たちに話すことになります。アテネでは何が待っているでしょうか。次の章で学びましょう。

      a ある学者によれば,当時,「新しい王や王国の到来,特に,現皇帝に取って代わったり裁きを下したりする王や王国の到来」を予告することを禁じるカエサルの命令がありました。ユダヤ人たちは,パウロの話がその命令に違反していると主張していたと考えられます。「カエサルと『使徒の活動』」という囲みを参照。

  • 「パウロは……聖書から論じ[た]」
    神の王国について徹底的に教える
  • 「神を知ろうと[し],神を探し求めて本当に見つける」
    神の王国について徹底的に教える
    • 18章

      「神を知ろうと[し],神を探し求めて本当に見つける」

      パウロは相手との共通点をベースに,工夫しながら教えた

      使徒 17:16-34

      1-3. (ア)アテネに来たパウロがいら立っていたのはどうしてですか。(イ)パウロの話を分析すると,どんなことを学べますか。

      パウロはいら立ち,気持ちが落ち着きません。今,ギリシャのアテネにいます。かつてソクラテスやプラトンやアリストテレスが教えた学問の中心地です。とても宗教色の強い町で,アテネの人は非常に多くの神を崇拝しています。神殿,広場,通りなど至る所に偶像があります。パウロは,エホバが偶像崇拝をどう思っているかを知っています。(出 20:4,5)エホバもパウロも偶像をひどく嫌っています。

      2 パウロはアゴラつまり広場に入り,さらにショックを受けます。北西の角,正面の入り口の近くに,ヘルメス神の男根像がずらりと並んでいます。広場のあちこちに礼拝堂があります。偶像だらけのこの町で,パウロはどのように伝道するのでしょうか。自分の気持ちを落ち着かせて,相手の視点に立って話すでしょうか。本当の神について知るよう,何人かでも助けられるでしょうか。

      3 パウロがアテネの知識人たちにした話は,使徒 17章22-31節に記録されています。聞き手の身になって考え,いろいろなテクニックを駆使した説得力のある話でした。パウロの話を分析すると,どうすれば相手に寄り添い,一緒に考えながら教えられるかを学べます。

      「広場で」教える(使徒 17:16-21)

      4,5. パウロはアテネのどこで伝道しましたか。聴衆の中にはどんな手ごわい人たちがいましたか。

      4 パウロがアテネを訪れたのは,50年ごろ,2度目の宣教旅行中のことでした。a シラスとテモテがベレアから来るのを待つ間,パウロはいつものように「会堂でユダヤ人……と論じ始め」ます。また,ユダヤ人ではない人たちにも伝道するため,「広場」つまりアゴラに行きます。(使徒 17:17)アテネのアゴラはとても広く(5万平方メートルほど),アクロポリスの北西にありました。そこは物の売り買いをする市場というだけでなく,町の人たちが集う交流の場でした。「都市の経済・政治・文化の中心」だったと,ある文献には書かれています。アテネの人たちはそこに集まって,あれこれと議論するのを楽しんでいました。

      アテネ 古代世界の文化の中心地

      アテネについての歴史記録が残っているのは,紀元前7世紀以降のことです。でも,アテネの丘アクロポリスはそのずっと前から強固な要塞でした。アテネはアッティカ地方の主要な町になり,山と海に囲まれた約2500平方キロの領域に及んでいました。アテネという名前は,町の守護神である女神アテナと関係があるようです。

      紀元前6世紀,アテネの立法者ソロンが町の社会・政治・法律・経済の制度を改革しました。ソロンは貧民の境遇を改善し,民主政の基礎を据えました。とはいえ,それは自由民のためだけの民主主義であり,アテネの人口の大部分は奴隷でした。

      紀元前5世紀にギリシャ人がペルシャ人に何度か勝利した後,アテネは小さな帝国の首都になり,西はイタリアやシチリアから東はキプロスやシリアまで海上貿易を展開しました。全盛期には古代世界の文化の中心地となり,美術,演劇,哲学,弁論術,科学が発展しました。多くの公共建造物や神殿が都市を飾りました。ひときわ目立つのがアクロポリスの丘で,そこにはパルテノン神殿と,金と象牙でできた高さ12㍍のアテナ像がありました。

      アテネは,スパルタ人に,次いでマケドニア人に攻略されました。やがてはローマ人に征服され,都市の富は奪われました。それでもアテネは,使徒パウロが伝道した当時も,輝かしい歴史のために特別な都市と見なされていました。ローマの属州に組み入れられることはなく,市民への独自の司法権を与えられ,ローマの税を免除されました。最盛期を過ぎても学都として存続し,裕福な家の生まれの人が学問のためにやって来ました。

      5 パウロが話す相手は,一筋縄ではいかない人たちです。聴衆の中には,エピクロス派とストア派という哲学の学派の人たちがいました。この2つの派の教えは大きく異なっていました。b エピクロス派は,生命は偶然に存在するようになったと信じていました。彼らの人生観は端的に言うと,「神を畏れる必要はない。死ぬと何も感じない。善は達成できる。悪は耐えられる」というものでした。ストア派は理性と論理を重んじ,神に人格があるとは考えていませんでした。両派とも,クリスチャンが教える復活を信じていませんでした。どちらの派の思想も,パウロが広めていたキリスト教の正しい教えとは真っ向から対立するものでした。

      6,7. ギリシャの知識人たちはパウロの話を聞いて,どう反応しましたか。現代の私たちも,どんなことを言われるかもしれませんか。

      6 ギリシャの知識人たちはパウロの話を聞いて,どう反応したでしょうか。ある人たちはパウロのことを「おしゃべり」(直訳すると,「種をついばむ者」)と呼びました。(スタディー版の使徒 17:18の注釈を参照。)このギリシャ語について,ある学者はこう言っています。「この語は元々,歩き回って穀粒をついばむ小鳥に関して用いられた。後に,市場で食物のかけらや種々雑多な物を拾う人を指して使われた。さらに後には,比喩的に用いられ,雑多な情報を拾い集める人,特に,それをきちんとまとめることのできない人を指すようになった」。パウロは受け売りの知識をひけらかしているだけの愚か者だ,と彼らは言っていたのです。パウロはどうするでしょうか。そうやって悪口を言われても,決して動じません。

      7 現代のエホバの証人も,聖書を信じているために,ばかにされることがあります。教育者の中には,進化論を受け入れない人は愚かだと言う人がいます。生命の進化は紛れもない事実であって,論理的に考える人は疑うはずがない,と言うのです。私たちが聖書の言葉を紹介したり,生命が創造されたといえる証拠を見せたりすると,彼らはそれをあたかも「種をついばんでいる」ようなものだと考えます。でも私たちは動じません。エホバという神が全てのものを造ったことを,自信を持って語っていきます。(啓 4:11)

      8. (ア)パウロの話を聞いて,どんな反応をする人たちもいましたか。(イ)パウロがアレオパゴスに連れていかれた,というのはどういうことだったと考えられますか。(脚注を参照。)

      8 パウロの話を聞いて,別の反応をする人たちもいます。「彼は外国の神々を広める者らしい」と言う人たちがいました。(使徒 17:18)パウロは本当に,新しい神について広めていたのでしょうか。もしそうなら,それは重大なことでした。何世紀も前,ソクラテスが死刑宣告を受けたのも,一つには,別の神を広めたためでした。パウロはアレオパゴスに連れていかれ,その耳なじみがない教えについて説明するようにと言われます。c 相手は聖書について何も知らない人たちです。パウロはどんなことを話すでしょうか。

      エピクロス派とストア派

      エピクロス派とストア派は哲学の学派です。どちらも復活を信じていませんでした。

      エピクロス派は,神々の存在を信じていました。しかし,神々は人間に関心がなく報いも罰も与えないので,祈りや犠牲には意味がない,と考えました。快楽を人生での最高の善と見なしました。彼らの思想や行動には道徳律が全く見られませんでした。とはいえ,度を越えたことをして悪い結果を招かないよう,節制を奨励しました。知識を追求するのは,ただ宗教上の恐れと迷信を除くためでした。

      ストア派は,人格がない神を信じていました。全てのものがその神の一部であり,人間の魂はそこから出ていると考えました。ストア派の中には,魂はやがて宇宙と共に破壊されると考える人もいれば,最後には神に再び吸収されると信じる人もいました。自然の摂理に従うことによって幸福になれるというのが,ストア派の教えでした。

      「アテネの皆さん,私は……見ました」(使徒 17:22,23)

      9-11. (ア)パウロは相手とのどんな共通点をベースに話しましたか。(イ)宣教でパウロにどのように倣えますか。

      9 冒頭で見たように,パウロはたくさんの偶像を見て,いら立っていました。でも,感情に任せて偶像崇拝を批判することはしません。平静を保ちながら,相手との共通点をベースに話し始めます。こう切り出します。「アテネの皆さん,私は皆さんがどんな点でも信心深いのを見ました。神々への畏れを他の人たちよりも抱いています」。(使徒 17:22)パウロは,アテネの人たちの信仰心を褒めました。間違った教えを信じ込んでいる人たちも良い知らせを聞こうとするかもしれない,と思っていました。自分自身も以前は「信仰がなく,よく知らずに行動していた」からです。(テモ一 1:13)

      10 パウロは次に,「知られていない神に」と刻まれた祭壇を引き合いに出します。その祭壇からアテネの人たちの信心深さが分かる,というわけです。そこに「知られていない神に」と刻まれていたのは,どうしてでしょうか。ある資料にはこうあります。「『知られていない神』のために祭壇を作ることは,ギリシャ人その他の習わしだった。ある神を崇拝しそびれたためにその神を怒らせてしまうことがあってはいけない,と考えていたのである」。つまり,アテネの人たちは,自分たちがまだ知らない神が確かにいる,ということを認めていました。パウロはこの祭壇を話の切り口にして,良い知らせについて語り始めました。こう言っています。「皆さんが知らないで崇拝しているもの,それを私は皆さんに伝えているのです」。(使徒 17:23)とても自然な流れだったので,聞いている人たちは話に引き込まれたはずです。パウロは,誰かが言っていたように「外国の神々を広め」ていたわけではありませんでした。彼らがまだよく知らない神,本当の神について語っていました。

      11 宣教でパウロに倣えます。訪問する家や庭にどんなものが置かれているでしょうか。家の人はどんなものを身に着けているでしょうか。そこから,何かを信仰していることが分かることがあります。こう言えるかもしれません。「何かを信じる気持ちって大切ですよね。そういう心をお持ちの方にお会いできてよかったです」。そうやってその人の信仰心を褒めるなら,相手との共通点をベースに話を進められるかもしれません。家の人が宗教を持っているからといって,良い知らせを聞かないと決め付けてはいけません。別の宗教を信じていた人がエホバの証人になったケースはたくさんあります。

      生物の授業で,男の子が先生やクラスメートに話している。

      相手との共通点を探し,それをベースに話す。

      「神は,私たち一人一人から遠く離れてはいません」(使徒 17:24-28)

      12. パウロは相手に合わせてどんな工夫をしましたか。

      12 パウロは相手との共通点をベースに話し始めました。では,その後も相手に合わせて話していったでしょうか。相手はギリシャ哲学を学んでいて,聖書については知らない人たちでした。そのことを踏まえて,パウロは3つの工夫をしました。1つ目に,聖書から引用することはせずに,聖書の教えを伝えました。2つ目に,要所要所で「私たち」と言い,聞き手と同じ視点に立って一緒に考えました。3つ目に,自分が教えているのと同じことがギリシャ文学にも出てくることを指摘しました。では,パウロの説得力のある話を分析してみましょう。アテネの人たちがまだよく知らない神について,パウロはどんなことを伝えたでしょうか。

      13. 宇宙の起源についてパウロはどんなことを話しましたか。パウロが言いたかったのはどんなことでしたか。

      13 神は宇宙の全てを造った。「世界とその中の全ての物を造った神は,天地の主ですから,人が造った神殿などには住[みません]」と,パウロは言いました。d (使徒 17:24)宇宙は偶然に存在するようになったわけではありません。全ての物は神が造りました。(詩 146:6)アテナなどの神々は,神殿や礼拝堂や祭壇があって初めて褒めたたえられますが,天と地を造った神は違います。人間が建てた神殿で暮らすはずがありません。(王一 8:27)本当の神は,人間が建てた神殿にある,人間が作った偶像よりはるかに偉大です。パウロが言いたかったのはそういうことでした。(イザ 40:18-26)

      14. 神は人間に助けてもらう必要がないことを,パウロはどのように説明しましたか。

      14 神は人間に助けてもらう必要はない。偶像を崇拝する人たちは,偶像に派手な衣装を着せ,高価な供え物をし,食べ物や飲み物を捧げました。まるで偶像がそういう物を必要としているかのようでした。でも,聞いていたギリシャの哲学者の中には,神は人間に助けてもらう必要はないと考える人もいたかもしれません。そういう人は,「[神は]人間に世話してもらう必要もありません」というパウロの言葉に同意したはずです。神は全ての物を造ったので,人間から何かをもらう必要がないのは当然です。神が人間に「命と息」を与えています。太陽や雨,豊かな大地など,人間が生きるのに必要な「全ての物」も与えています。(使徒 17:25。創 2:7)人間が神に助けてもらう必要があるのであって,神が人間に助けてもらう必要はありません。

      15. ギリシャ人であることに優越感を持っていた人たちに,パウロはどう話しましたか。パウロにどのように倣えますか。

      15 神は1人の人から全ての人を造った。アテネのギリシャ人たちは,自分たちがほかの人種より優れていると思っていました。でも,聖書によれば,国籍や人種で優越感を持ってよい理由はどこにもありません。(申 10:17)こういう問題は感情が絡みやすいものです。でも,パウロは上手に話します。「[神は]1人の人から全ての国の人を造っ……た」と言い,相手に考えてもらいました。(使徒 17:26)そうやって創世記に出てくるアダムを引き合いに出し,アダムが全ての人間の先祖であることを指摘しました。(創 1:26-28)人類がみんな1人の人の子孫であるなら,どの人種や国籍の人も,別の人種や国籍の人より優れているとは言えません。聞いていた人たちは,パウロの言いたいことがよく分かったはずです。私たちもパウロに倣いたいと思います。相手が受け入れやすいように話しますが,聖書の教えをゆがめたり曖昧にしたりはしません。

      16. 神は人間にどう生きてほしいと思っていますか。

      16 神は人間に,自分のことを知ってもらいたいと思っている。アテネの哲学者たちは長年,人間が生きる意味について議論していました。でも,答えはなかなか見つかりませんでした。そこでパウロは,神が人間にどう生きてほしいと思っているかを話します。神が人間を造ったのは,「人々が神を知ろうとするため」,「神を探し求めて本当に見つけるため」です。「実のところ神は,私たち一人一人から遠く離れてはいません」。(使徒 17:27)アテネの人たちが崇拝していた「知られていない神」は,知ることのできない神では決してありません。本当に知りたいと思ってよく学べば,必ず知ることができます。(詩 145:18)パウロは「私たち」と言いました。自分も「神を知ろうと」し,「神を探し求め」なければいけない,ということを伝えたかったのです。

      17,18. 人間は神と親しくなれるとどうしていえますか。パウロの教え方からどんなことを学べますか。

      17 人間は神と親しくなれる。「私たちは神によって命を持ち,動き,存在しています」とパウロは言いました。ここでパウロはエピメニデスの言葉にそれとなく触れていた,と言う学者もいます。エピメニデスは紀元前6世紀のクレタの詩人で,「アテネの宗教的な伝統における重要人物」でした。パウロは,人間は神と親しくなれるということを分かってもらうため,さらにこう言います。「皆さんの詩人の中にも,『われわれもその子供である』と言っている人たちがいます」。(使徒 17:28)神は1人の人を造り,人間はみんなその人の子孫なので,人間は誰もが神の子供といえます。そのことを納得してもらえるよう,パウロはギリシャの詩人の言葉を引用しました。それは当時の人たちに評価されていた詩だったと思われます。e パウロのように,私たちも時には,歴史書や百科事典など権威のある文献から引用することができます。例えば,間違った宗教的な習慣や祝いの起源について,そういう資料を使って説明できるかもしれません。

      18 このようにしてパウロは,聞き手に合わせて言葉を選びながら,神について大事なことを伝えました。では,それを知った上でどうすることが大切でしょうか。パウロは次にそのことを話します。

      「あらゆる場所の全ての人」が「悔い改めるべき」(使徒 17:29-31)

      19,20. (ア)偶像を崇拝するのは愚かだということを,パウロはどのように説明しましたか。(イ)アテネの人たちは何をしなければいけませんでしたか。

      19 アテネの人たちにはしなければいけないことがあります。パウロはそれを伝えるに当たり,ギリシャの詩に再び触れてこう言います。「従って,私たちは神の子供なのですから,神のことを金や銀や石のように,人間が考え出して作った彫刻のように考えるべきではありません」。(使徒 17:29)人間は神に造られました。偶像は人間に作られた物です。神が人間を造ったのに,その神が人間の作った偶像になるとしたら,とてもおかしなことです。偶像を崇拝するのがいかに愚かなことか,パウロは上手に説明しました。(詩 115:4-8。イザ 44:9-20)パウロは「私たちは……べきではありません」と言っています。相手を批判しているような印象を与えないためにそう言ったのでしょう。

      20 何をしなければいけないか,パウロははっきり言います。「神はそうした無知[偶像崇拝は神に喜ばれると思い込むという無知]の時代を見過ごしてきましたが,今では,悔い改めるべきことをあらゆる場所の全ての人に告げています」。(使徒 17:30)アテネの人たちは,悔い改めなさいと言われ,ショックを受けたかもしれません。でも,パウロがすでに指摘したように,命は神が与えてくれたものなので,その神を無視して生きるのは良くありません。神を知ろうとし,神について本当のことを学び,神の考えに合った生き方をすることが大切です。アテネの人たちは,偶像崇拝が神に喜ばれないことを認め,やめなければいけませんでした。

      21,22. パウロは最後にどんなことを言いましたか。パウロは私たちにとっても大事なことを話していた,といえるのはどうしてですか。

      21 パウロは最後にこう言います。「[神は]自分が任命した者によって世界を公正に裁くために日を定めたからです。そして,その者を復活させて全ての人に保証を与えました」。(使徒 17:31)裁きの日が来ます。そのことを考えると,今のうちに神を知ることが大切です。パウロは,神が裁きのために「任命した者」の名前を挙げていません。その代わりに,神が「復活させ」た方であることに注目させています。

      22 パウロが最後に話したことは,私たちにとっても大事なことです。私たちは,神が裁きのために任命したのはイエス・キリストであることを知っています。(ヨハ 5:22)裁きの日が1000年間にわたること,その時が近いことも知っています。(啓 20:4,6)私たちは裁きの日を恐れていません。裁きの結果,イエスから良いと認められる人たちには,この上なく幸せな毎日が待っています。その輝かしい未来が必ずやって来ると確信できます。神はそのことを保証するために,イエス・キリストを復活させるという素晴らしい奇跡を起こしたからです。

      「信者となった人もいた」(使徒 17:32-34)

      23. パウロの話を聞いた人たちはどんな反応をしましたか。

      23 パウロの話を聞いた人の反応はさまざまでした。復活について聞き,「あざ笑い始める」人もいれば,やんわりと「その話はまた聞こう」と言って聞き流す人もいました。(使徒 17:32)でも,心を動かされた人たちもいました。「パウロに加わって信者となった人もいた。アレオパゴス裁判所の裁判官デオヌシオ,ダマリスという女性などである」と書かれています。(使徒 17:34)私たちも宣教で同じような経験をします。厳しい言葉を浴びせられることもあれば,丁重に断られることもあります。でも,うれしいことに,神の王国の良い知らせを聞いて,クリスチャンになる人もいます。

      24. パウロの話からどんなことを学べますか。

      24 パウロの話から,論理的に話すこと,納得できるよう分かりやすく教えること,相手に合わせて言葉を選ぶことの大切さを学べます。相手が間違った教えを信じている場合には,いらいらせずに,工夫しながらじっくり説明することが必要です。また,ただ相手に受け入れてもらうために聖書の教えをゆがめたりはしません。パウロに見習えば,宣教で上手に教えられるようになります。監督たちも会衆で心に響く教え方ができるようになります。そのようにして,「神を知ろうと[し],神を探し求めて本当に見つけ」られるよう,多くの人を助けていきましょう。(使徒 17:27)

      a 「アテネ 古代世界の文化の中心地」という囲みを参照。

      b 「エピクロス派とストア派」という囲みを参照。

      c アクロポリスの北西にあるアレオパゴスという丘は,アテネの主な評議会の議場として使われていました。「アレオパゴス」という語は,丘そのものだけでなく,その評議会を指すことがあります。それで,パウロがその丘やその近くに連れていかれたとする学者もいれば,別の場所(アゴラかもしれない)で開かれていた評議会に連れていかれたとする学者もいます。

      d 「世界」と訳されているギリシャ語はコスモスで,この語は宇宙を指して使われることがありました。パウロは,聞いていたギリシャ人と同じ視点に立って話そうとしていたので,この語をその意味で使ったのかもしれません。

      e パウロは,ストア派の詩人アラトスの天文詩「ファイノメナ」から引用していました。ストア派の著述家クレアンテスの「ゼウス賛歌」など,他のギリシャの書物にも,同様の表現が見られます。

  • 「語り続けなさい。黙っていてはなりません」
    神の王国について徹底的に教える
    • 19章

      「語り続けなさい。黙っていてはなりません」

      パウロは仕事をして生計を立てながら,宣教に打ち込んだ

      使徒 18:1-22

      1-3. パウロがコリントに来たのはどうしてですか。どんな気掛かりなことがありましたか。

      西暦50年の秋のことです。使徒パウロはコリントにいます。交易の中心地として栄え,ギリシャ人,ローマ人,ユダヤ人が大勢住む町です。a パウロはここに商売や職探しのために来たのではありません。もっと大切な目的があって来ました。神の王国について知らせるためです。もちろん,寝泊まりする場所が必要です。でも,誰かに経済的な負担は掛けたくありません。人のお金で生活しながら宣教している,とは思われたくありません。どうするでしょうか。

      2 パウロは手に職があります。天幕作りです。楽な仕事ではありませんが,自分で働いて生計を立てるつもりです。このせわしない町で働き口はあるでしょうか。宿は見つかるでしょうか。気掛かりなことはありますが,宣教という一番大切な仕事からパウロの気持ちがそれてしまうことはありません。

      3 結局,パウロはコリントにしばらくいることになり,宣教を続けて多くの成果を上げます。コリントでパウロがしたことから,今の私たちの宣教に役立つどんなことを学べるでしょうか。

      コリント 2つの港で栄えた町

      古代コリントは,ギリシャ本土と南のペロポネソス半島をつなぐ地峡(幅が狭くなっている陸地)にありました。その地峡の一番狭い所は幅が6㌔足らずで,コリントの両側には2つの港がありました。コリント湾に面するレカイオン港からは,海路で西方のイタリア,シチリア,スペインに向かうことができました。一方,サロニカ湾に面するケンクレア港では,エーゲ海地域,小アジア,シリア,エジプトへの海上交通を利用できました。

      ペロポネソス半島の南端の岬は風が吹き付け,航行するのが危険だったので,船乗りはたいてい,コリントの2つの港の一方で積み荷を陸揚げし,陸路でもう一方の港まで運んで,再び船に積み込みました。軽い船は,台車に載せてけん引し,地峡を横断させることもできました。台車は,海と海とをつなぐ舗道の溝に沿って動きました。コリントは地理的な条件に恵まれていたため,東西の海上貿易と南北の陸上交易の要衝でした。活発な交易によって富が流入しましたが,港にありがちな犯罪や非行も見られました。

      使徒パウロが伝道した当時,コリントはローマの属州アカイアの州都で,重要な行政中心地でした。さまざまな宗教が奉じられ,町には,皇帝崇拝の神殿,ギリシャやエジプトの神々に献じられた礼拝堂や神殿,ユダヤ教の会堂がありました。(使徒 18:4)

      近くのイストミアで2年ごとに開催された運動競技会は,オリンピア競技会に次いで大きなものでした。パウロは51年の競技会の時,コリントにいたと思われます。それで,「コリントへの手紙で運動競技の比喩を初めて使ったのは,偶然とは思えない」と,ある聖書辞典には書かれています。(コリ一 9:24-27)

      「天幕作りが職業だった」(使徒 18:1-4)

      4,5. (ア)パウロはコリントでどこに滞在しましたか。どんな仕事をしましたか。(イ)パウロが天幕作りの技術を持っていたのはどうしてだと思われますか。

      4 パウロはコリントに着いて間もなく,親切な夫婦に出会います。ユダヤ人のアクラと妻のプリスキラ(プリスカ)です。2人は,クラウディウス帝が「ユダヤ人全員にローマ退去を命じたために」,コリントに移り住んでいました。(使徒 18:1,2)アクラとプリスキラはパウロに宿を提供するだけでなく,仕事もあてがい,一緒に働けるようにしました。こう書かれています。「[パウロは]職業が[2人と]同じだったのでその家に滞在し,一緒に働いた。天幕作りが職業だった」。(使徒 18:3)コリントでの宣教中,パウロはずっと2人の家に住みます。その間に,後で聖書の一部になった手紙を何通か書いたと思われます。b

      5 「ガマリエルから直接教えられ」たパウロが,どうして天幕作りの技術も身に付けていたのでしょうか。(使徒 22:3)1世紀のユダヤ人は,手仕事を子供に教えるのを恥とは考えなかったようです。子供に高い教育を受けさせる場合でも,そうでした。パウロはキリキア地方のタルソス出身で,キリキアは天幕の材料になるキリキウムという布で有名だったので,パウロは子供の頃に天幕作りを覚えたと思われます。どんな作業をする仕事だったのでしょうか。天幕用の布を織ることや,硬くて粗い布を切ったり縫ったりする作業がありました。なかなかきつい仕事でした。

      6,7. (ア)パウロは天幕作りの仕事をどう見なしていましたか。アクラとプリスキラも同じ見方をしていた,といえるのはどうしてですか。(イ)現代のクリスチャンは,パウロ,アクラ,プリスキラにどのように倣っていますか。

      6 パウロは,天幕作りが自分の本業だとは考えていませんでした。その仕事をしたのは,自活しながら宣教し,良い知らせを「無償で伝え」るためです。(コリ二 11:7)アクラとプリスキラはどうだったのでしょうか。パウロと同じように,天幕作りの仕事を本業だとは考えていなかったはずです。52年にパウロがコリントを去る時,2人はコリントでの仕事をやめて家を引き払い,パウロと一緒にエフェソスに行きました。エフェソスでは,自宅を会衆の集会場として提供しました。(コリ一 16:19)その後,ローマに戻り,それから再びエフェソスに行きました。2人はいつも神の王国のために熱心に働き,仲間のためにできることを何でもしたので,「国々の全ての会衆[から]感謝」されました。(ロマ 16:3-5。テモ二 4:19)

      7 現代のクリスチャンは,パウロ,アクラ,プリスキラの手本に倣っています。熱心に伝道しながらも,仲間に「経済的な負担を掛けないよう」にしています。(テサ一 2:9)全時間奉仕者たちが,パートタイムの仕事をしたり短期の仕事をしたりして生計を立てながら,本業の宣教に打ち込んでいます。アクラとプリスキラのように親切な兄弟姉妹が,巡回監督を家に泊めています。そういう人たちは,「人をもてなすことに努め」ると,とても充実した時間を過ごせると感じています。(ロマ 12:13)

      パウロが書いた励ましの手紙

      使徒パウロは,コリントにいた50年から52年ごろの1年半の間に,ギリシャ語聖書の一部になった手紙を少なくとも2通書きました。テサロニケのクリスチャンへの第一と第二の手紙です。「ガラテアのクリスチャンへの手紙」もこの時期に書かれたかもしれませんが,そのすぐ後に書かれた可能性もあります。

      「テサロニケのクリスチャンへの第一の手紙」は,聖書の一部になったパウロの最初の手紙です。パウロは50年ごろ,2度目の宣教旅行の間にテサロニケを訪れました。テサロニケにできた会衆はすぐに反対に遭い,パウロとシラスは町を出ていかなければならなくなりました。(使徒 17:1-10,13)パウロは発足したばかりの会衆のことを気に掛け,戻ろうと2度試みましたが,「サタンに邪魔されました」。それでパウロは,兄弟たちを励まして元気づけるためにテモテを遣わします。おそらく50年の秋に,テモテはコリントでパウロに合流し,テサロニケ会衆について良い報告をします。その後,パウロはこの手紙を書きました。(テサ一 2:17–3:7)

      「テサロニケのクリスチャンへの第二の手紙」は,たぶん最初の手紙のすぐ後,おそらく51年に書かれました。両方の手紙で,パウロと一緒にテモテとシルワノ(「使徒の活動」ではシラス)があいさつを送っていますが,パウロがコリントにいた時期の後には,この3人が再び一緒にいた記録はありません。(使徒 18:5,18。テサ一 1:1。テサ二 1:1)パウロはどうして第二の手紙を書いたのでしょうか。おそらくは最初の手紙を届けた人を通して,テサロニケ会衆のその後の様子を聞いたようです。それでパウロは,テサロニケの兄弟たちの愛と忍耐を褒めるとともに,一部の人たちが持っていた,主の臨在が目前であるという考えを正すことにしました。(テサ二 1:3-12; 2:1,2)

      「ガラテアのクリスチャンへの手紙」によると,パウロはこの手紙を書く前に少なくとも2回ガラテアを訪れていたようです。47年から48年にかけて,バルナバと一緒に,ローマの属州ガラテアにある,ピシデアのアンティオキア,イコニオム,ルステラ,デルベを訪れました。49年には,シラスと一緒に再びその地域に行きました。(使徒 13:1–14:23; 16:1-6)パウロがこの手紙を書いたのは,パウロの後にユダヤ主義者たちがガラテアにやって来たからでした。彼らは,クリスチャンも割礼を受けてモーセの律法を守らなければいけないと教えていました。そう聞いたパウロは,その教えが間違っていたので,すぐにガラテアのクリスチャンに手紙を書いたようです。コリントで書いたと思われますが,シリアのアンティオキアで,あるいはそこに帰る途中で立ち寄ったエフェソスで書いたのかもしれません。(使徒 18:18-23)

      「コリントの多くの人が,信じ[た]」(使徒 18:5-8)

      8,9. ユダヤ人たちからの反対に遭ったパウロは,どうしましたか。その後,どこで伝道することにしましたか。

      8 その後,シラスとテモテがマケドニアから必要な物をたくさん持ってきてくれました。パウロはどうしたでしょうか。(コリ二 11:9)「神の言葉を伝えることに専念」する(「自分の全ての時間を伝道に充て」る)ようになりました。(使徒 18:5,エルサレム聖書[英語])パウロにとって天幕作りの仕事は,あくまで宣教を続けるための手段に過ぎなかったことが分かります。パウロの熱心な伝道を受けて,ユダヤ人たちは激しく反対し,キリストについての命を救うメッセージをはねつけます。パウロは,自分にはもう責任がないことを示すために,服に付いた土を振り払って,こう言います。「あなた方がどうなるとしても,それはあなた方自身の責任です。私は潔白です。これからは異国の人々の所に行きます」。(使徒 18:6。エゼ 3:18,19)

      9 パウロはどこで伝道するのでしょうか。テテオ・ユストという人(ユダヤ教に改宗した人だったと思われる)が,会堂の隣にあった自宅を使わせてくれます。パウロは会堂からその家に移動し,伝道を続けます。(使徒 18:7)コリントにいた間,パウロはその後もアクラとプリスキラの家に住みましたが,伝道の拠点はユストの家になりました。

      10. パウロがもう異国人にしか伝道しないと決めたわけではない,といえるのはどうしてですか。

      10 「これからは異国の人々の所に行きます」と言ったパウロは,ユダヤ人やユダヤ教に改宗した人たちには,もう一切伝道しないと決めたのでしょうか。そうとは思えません。こう書かれているからです。「会堂の役員クリスポが家の人全員と一緒に主の信者となった」。クリスポに続いて,何人もの会堂の関係者がクリスチャンになったようです。「良い知らせを聞いたコリントの多くの人が,信じてバプテスマを受けるようになった」とあります。(使徒 18:8)こうして,テテオ・ユストの家は新しくできたコリントの会衆の集会場になりました。いつものルカの書き方通り,時系列で記録されているとすれば,パウロが服に付いた土を振り払った後に,クリスポたちがバプテスマを受けたことになります。パウロが柔軟で,融通が利く人だったことがよく分かります。

      11. エホバの証人はパウロに倣い,一般のキリスト教の信者たちにどのように伝道していますか。

      11 現在,多くの国では,一般のキリスト教が大きな影響力を持ち,信者がたくさんいます。教会の宣教師が多くの人を改宗させてきた国や島々もあります。1世紀のコリントのユダヤ人のように,信者たちが教会の伝統に縛られていることもよくあります。パウロに倣い,エホバの証人はそういう人たちにも伝道し,聖書を正しく理解できるように助けます。相手からはねつけられたり宗教指導者から迫害されたりしても,諦めません。「正確な知識によるものでは」ない「熱意を持っている」人たちの中にも,神について本当のことを知りたいと思っている人がいるはずだからです。(ロマ 10:2)

      「この町には私の民が大勢います」(使徒 18:9-17)

      12. 幻の中でパウロはどんなことをはっきり伝えられましたか。

      12 パウロがまだコリントにいたある夜,主イエスが幻の中に現れて,こう言います。「恐れないで,語り続けなさい。黙っていてはなりません。私はあなたと共におり,誰もあなたを襲って危害を加えたりはしません。この町には私の民が大勢います」。(使徒 18:9,10)とても心強い言葉です。パウロが仮に,コリントで宣教を続けるべきだろうかと考えていたとしても,この幻を見て,迷いは消えたはずです。危害を加えられることはない,見込みのある人たちがまだたくさんいる,とイエスがはっきり言ってくれました。パウロはどうしたでしょうか。こう書かれています。「パウロはそこに1年6カ月滞在し,神の言葉を教えた」。(使徒 18:11)

      13. 裁きの座の前に連れていかれる時,パウロはどんなことを思い出したかもしれませんか。自分はここで命を落とすことはない,とパウロが思えたのはどうしてですか。

      13 コリントで1年がたった頃,パウロはさらにイエスのサポートを感じる経験をします。ある日,「ユダヤ人は一団となってパウロを襲い,裁きの座の前に引いて」いきます。(使徒 18:12)この裁きの座はベーマと呼ばれる高い演壇で,青と白の大理石で造られ,彫刻がたくさん施されていたようです。コリントの広場の中央部に位置していたと思われます。ベーマの前には大勢の人が集まれるスペースがありました。考古学上の発見からすると,ベーマは会堂のすぐ近く,つまりユストの家のすぐ近くにあったようです。ベーマの前に連れていかれる時,パウロはステファノのことを思い出したかもしれません。ステファノは石打ちにされ,クリスチャンの最初の殉教者になりました。その頃サウロと呼ばれていたパウロは,「ステファノの殺害に賛成して」いました。(使徒 8:1)今度はパウロが同じような目に遭うのでしょうか。いいえ,「誰もあなた[に]危害を加えたりはしません」とイエスから言われていました。(使徒 18:10)

      怒ってパウロを告発したユダヤ人たちの訴えを,ガリオが却下している。暴徒化した人たちをローマの兵士たちが抑え込もうとしている。

      「そして彼らを裁きの座から追い払った」。使徒 18:16

      14,15. (ア)ユダヤ人たちはどんなことでパウロを告発しましたか。ガリオが訴えを却下したのはどうしてですか。(イ)ソステネはどんな目に遭いましたか。ソステネにとってそれが良いきっかけになったかもしれない,といえるのはどうしてですか。

      14 裁きの座の前に来たパウロはどうなるでしょうか。裁きの座に就いていたのは,アカイアの執政官代理ガリオでした。ローマの哲学者セネカの兄です。ユダヤ人たちはパウロを告発し,こう言います。「この男は,法に逆らって神を崇拝するよう人々を説得している」。(使徒 18:13)パウロがやっていることは違法だ,というのが彼らの言い分です。でも,ガリオからすると,パウロは何の「不正」もしておらず,「重大な犯罪」を犯してなどいません。(使徒 18:14)ガリオはユダヤ人たちのいざこざに巻き込まれたくないようです。パウロが一言も弁明しないうちに,ガリオは訴えを却下します。ユダヤ人たちは激怒し,ソステネに怒りの矛先を向けます。ソステネはクリスポの後任として会堂の役員になっていたようです。ソステネは捕まえられて,「裁きの座の前で打ちたた」かれました。(使徒 18:17)

      15 群衆がソステネを打ちたたくのを,ガリオが止めなかったのはどうしてでしょうか。ソステネがパウロを襲った一団のリーダーだと思い,苦しい目に遭っても仕方ないと考えたのかもしれません。いずれにしても,これが良いことにつながった可能性があります。パウロは,数年後に書いたコリント会衆への最初の手紙の中で,ソステネという兄弟に触れています。(コリ一 1:1,2)これは,コリントで打ちたたかれたソステネでしょうか。もしそうなら,大変な思いをしたことがきっかけでクリスチャンになろうと思ったのかもしれません。

      16. 「語り続けなさい。黙っていてはなりません。私はあなたと共に」います,というイエスの言葉を,私たちも覚えておきたいのはどうしてですか。

      16 パウロがイエスから,「恐れないで,語り続けなさい。黙っていてはなりません。私はあなたと共に」います,と言われたのは,ユダヤ人たちから反対に遭った後でした。(使徒 18:9,10)私たちも伝道で冷たくあしらわれることがあるので,この言葉を覚えておきたいと思います。エホバは心の中を見て,心に良いものがある人たちを引き寄せます。(サム一 16:7。ヨハ 6:44)そう考えると,これからも一生懸命に伝道しようという気持ちになります。毎年,十数万から数十万もの人がバプテスマを受けています。1日に数百人のペースです。イエスは「全ての国の人々を弟子としなさい」と命じた後に,こうも言ってくれています。「私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです」。(マタ 28:19,20)

      「エホバが望まれるなら」(使徒 18:18-22)

      17,18. エフェソスに向かう船の中で,パウロはどんなことを考えたかもしれませんか。

      17 はっきりしたことは分かりませんが,ガリオが訴えを却下したおかげで,コリント会衆はしばらく安心して活動できるようになったかもしれません。いずれにしても,パウロは「さらにかなりの日数滞在し」,それからコリントの兄弟たちに別れを告げます。52年の春,コリントの東11㌔ほどのケンクレア港から船でシリアに向かうことにしました。ケンクレアを出る前に,「髪の毛を短く刈」ります。「誓約をしていた」からです。c (使徒 18:18)その後,アクラとプリスキラと一緒に出発し,エーゲ海を渡って,小アジアのエフェソスに行きました。

      18 ケンクレアから乗った船の中で,パウロはコリントで過ごした日々を思い返したことでしょう。良い思い出がいっぱいで,大きな達成感があります。成果がたくさんあった1年半でした。コリントで最初の会衆ができて,ユストの家で集会を開くようになりました。ユスト,クリスポと家の人たちなど,多くの人がクリスチャンになりました。パウロにとって,とてもいとおしい人たちです。親身になって助けたからです。パウロは後で書いた手紙の中で,その人たちのことを自分の心に書き込まれた「推薦の手紙」だと言っています。私たちも,クリスチャンになるよう助けた人たちに親しみを感じます。いわば自分の推薦状のような,大切な存在です。(コリ二 3:1-3)

      19,20. エフェソスに着いたパウロはどうしましたか。奉仕の目標を立てて取り組むとき,パウロにどのように倣えますか。

      19 パウロはエフェソスに着くと,すぐに伝道し始めます。「会堂に入ってユダヤ人たちと論じた」とあります。(使徒 18:19)この時はエフェソスに長くは滞在しません。もっといてほしいと言われますが,「それには応じず」,別れを告げ,「エホバが望まれるなら,また戻ってきます」と言います。(使徒 18:20,21)パウロは,エフェソスには良い知らせを聞く人がまだまだたくさんいると思っていました。戻ってくるつもりでしたが,今後のことは全部エホバにお任せすることにしました。私たちも見習いたいものです。奉仕の目標を立てて一生懸命に取り組みますが,いつでもエホバに導いてもらい,エホバの考えに合わせたいと思います。(ヤコ 4:15)

      20 エフェソスにアクラとプリスキラを残し,パウロは船でカエサレアに向かいます。そこからエルサレムに「上っていって」,会衆の人たちに会ったようです。(スタディー版の使徒 18:22の注釈を参照。)その後,出発地のシリアのアンティオキアに戻ります。2度目の宣教旅行は大成功でした。次の宣教旅行はどうなるでしょうか。

      パウロの誓約

      使徒 18章18節によれば,パウロはケンクレアにいた時に「髪の毛を短く刈」りました。「誓約をしていた」からです。どんな誓約だったのでしょうか。

      誓約とは一般に,自発的にする,神への厳粛な約束のことです。何かの行為をする,何かの捧げ物をする,何かの特別な奉仕をするといったことを神に約束します。パウロはナジルの誓約を果たしたので髪の毛を切った,と考える人もいます。しかし,聖書によれば,ナジルはエホバへの特別な奉仕の期間を終える時に,「会見の天幕の入り口で」頭をそることになっていました。それができるのはエルサレムだけで,ケンクレアではできなかったと思われます。(民 6:5,18)

      「使徒の活動」には,パウロがいつ誓約をしたかは書かれていません。クリスチャンになる前だったとも考えられます。パウロがエホバに特定の願い事をしたのかどうかも書かれておらず,分かりません。ある文献によれば,パウロが髪の毛を短く刈ったのは,「神の保護のおかげでコリントでの宣教を完遂できたことへの感謝の表明」だったのかもしれません。

      a 「コリント 2つの港で栄えた町」という囲みを参照。

      b 「パウロが書いた励ましの手紙」という囲みを参照。

      c 「パウロの誓約」という囲みを参照。

  • 「語り続けなさい。黙っていてはなりません」
    神の王国について徹底的に教える
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