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宗教改革 ― 新たな転換期を迎えた探求の歩み神を探求する人類の歩み
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分裂した家
15 西ヨーロッパのキリスト教世界は宗教改革運動によって,どのように分裂しましたか。
15 ついに,宗教改革の嵐が起きるに至って,西ヨーロッパのキリスト教世界の宗教上の家は粉砕されました。その家はローマ・カトリック教会によりほぼ完全に支配されていたので,今や分裂した家と化しました。南ヨーロッパ ― イタリア,スペイン,オーストリア,およびフランスの一部 ― は大方,カトリックとしてとどまりました。残りの地域は三つの主要な部分に分かれました。つまり,ドイツとスカンディナビアはルター(ルーテル)派,スイス,オランダ,スコットランド,およびフランスの一部はカルバン派(もしくは,改革派),そして英国は国教会派でした。それらの中に,より少数ながら,より急進的な集団が散在しました。最初のものは再洗礼派で,後にメノー派,フッター派,および清教徒が現われ,清教徒はやがて自分たちの信条を北アメリカに持ち込みました。
16 キリスト教世界の家は結局,どうなりましたか。(マルコ 3:25)
16 何年間かたつうちに,これらの主要な区分はさらに細分されて,今日の幾百もの教派ができました。ほんの数例を挙げれば,長老派,監督派,メソジスト派,バプテスト派,および会衆派などがあります。キリスト教世界は確かに分裂した家と化しました。どうしてこのように分裂したのでしょうか。
ルターとその提題
17 プロテスタントによる宗教改革の正式の出発点を示すとすれば,それはいつであると考えられるでしょうか。
17 プロテスタントによる宗教改革の決定的な出発点を示すとすれば,それはアウグスティノ修道会士マルティン・ルター(1483-1546年)が95か条の提題を記したものをドイツ,ザクセン州,ウィッテンベルクの城教会の扉にくぎで打ち付けた1517年10月31日ということになるでしょう。しかし,何に動かされて,この劇的な出来事が起きたのでしょうか。マルティン・ルターとはだれですか。また,彼は何に抗議しましたか。
18 (イ)マルティン・ルターとはだれですか。(ロ)ルターは何に動かされてその提題を出しましたか。
18 マルティン・ルターは彼よりも前のウィクリフやフスと同様,修道士で,学者でした。彼もまた,神学博士で,ウィッテンベルク大学の聖書学教授でした。ルターは聖書に対する洞察の深さゆえにかなり名を上げました。そして,業,もしくは悔悛ではなく,信仰による救い,または義認という論題に関して強硬な意見を抱いていましたが,ローマ教会との関係を断つことは少しも考えていませんでした。実際,彼が提題を出したのは,ある特定の出来事に対する反応としてであって,計画的な反抗ではありませんでした。つまり,免罪符の売買に抗議していたのです。
19 ルターの時代には,免罪符はどのように利用されましたか。
19 ルターの時代には,教皇の免罪符は生きている人々だけでなく,死者のためにも公然と売られていました。「硬貨が賽銭箱に入れられて響きを立てると,魂は直ちに煉獄から飛び立つ」というのが当時の世間の言い習わしでした。普通の人々にとって,免罪符はどんな罪を犯しても罰を免れるための保険証書同然のものとなり,悔い改めは影をひそめました。「どこでも煉獄の責め苦の赦しが売られている。売られているばかりか,拒む者には強制されている」と,エラスムスは書きました。
20 (イ)ヨハン・テッツェルはなぜユーテルボークへ赴きましたか。(ロ)テッツェルが免罪符を販売したことに対して,ルターはどんな反応を示しましたか。
20 1517年に,ドミニコ托鉢修道会の修道士ヨハン・テッツェルは,免罪符を売るために,ウィッテンベルクの近くのユーテルボークへ赴きました。こうして得たお金の一部は,ローマのサン・ピエトロ大聖堂再建の資金に充てられることになっており,またブランデンブルク家のアルブレヒトがマインツの大司教の地位を得るため,ローマ教皇庁に支払うのに借りたお金の返済を助けるためにも使われることになっていました。テッツェルは持ち前の販売技術すべてを駆使したので,人々は彼のところに群れをなして集まりました。憤ったルターは,まるでサーカスもどきのそのやり方全体に関する自分の見解を公表するのに使える最も手っ取り早い手段として,95項目の問題点を記したものを教会の扉にくぎ付けにしました。
21 ルターは免罪符の売買に反対して,どんな論議を行ないましたか。
21 ルターはその95か条の提題を「免罪符の効用の説明に対する反論」と呼びました。彼の目的は教皇の免罪符の売買の行き過ぎや職権乱用を指摘する点に関して,教会の権威にそれほど厳しく挑戦することではありませんでした。このことは次のような提題からも理解できます。
「5. 教皇には自らの権威によって科した処罰以外,いかなる処罰といえども,これを赦免する意志も力もない。……
20. それゆえ,教皇がすべての処罰の全赦免についてうんぬんする場合,実際には,それはすべての処罰を意味しているのではなく,ただ教皇自身の科した処罰のみを意味しているのである。……
36. 真の悔恨の情を抱いているクリスチャンはすべて,たとえ贖宥状がなくとも,刑罰や罪科の正当な全赦免にあずかれる」。
22 (イ)ルターの音信が広まるにつれて,どんな事態が生じましたか。(ロ)1520年にはルターの関係したどんな事柄が起きましたか。その結果,どうなりましたか。
22 発明されてまだ日の浅い印刷機の助けで,激しい議論を呼んだ,この考えは,日ならずしてドイツの他の地方に,そしてローマにも伝わりました。免罪符の売買に関する学問的な議論として始まったこの事件は,やがて信仰や教皇権の問題を巡る論争と化しました。最初,ローマ教会側はルターと討論を行ない,その主張を撤回するよう命じました。ルターが撤回を拒むと,教会と政府当局はいずれも彼に圧力を加えました。1520年に教皇はルターの説教を禁ずる大勅書,つまり勅令を出し,ルターの著書を焼き捨てるよう命じました。この命令を無視したルターは,教皇の大勅書を公衆の面前で焼きました。教皇は1521年にルターを破門しました。
23 (イ)ウォルムス議会とはどんな議会でしたか。(ロ)ルターはウォルムスで自分の見解をどのように述べましたか。その結果,どうなりましたか。
23 同年の後日,ルターはウォルムスで開かれた議会,もしくは会議に召喚されました。ルターは神聖ローマ帝国の皇帝,筋金入りのカトリック教徒カール5世,ならびにドイツ諸州の6人の選帝侯,および宗教界や俗界の他の指導者や高官たちにより審理されました。自分の主張を撤回するよう再び圧力をかけられたルターは,次のような有名な言葉を述べました。「聖書と明白な道理によって納得させられない限り……私は何事も取り消すことはできませんし,またそうするつもりもありません。良心に逆らうのは,正しいことでも,安全なことでもないからです。神が私を助けてくださいますように。アーメン」。その結果として,彼は皇帝から法益被剥奪者と宣せられました。しかし,彼は自分の属していたドイツ州の支配者,ザクセンの選帝侯フリードリッヒに助けられ,ワルトブルク城にかくまわれました。
24 ルターはワルトブルク城にいた間に何を成し遂げましたか。
24 しかし,以上の処置もルターの考えが広まるのを阻止する手だてとはなりませんでした。ルターはワルトブルクで安全に守られていた10か月の間に,執筆と聖書翻訳に専念し,エラスムスのギリシャ語本文からギリシャ語聖書をドイツ語に翻訳しました。ヘブライ語聖書は後に翻訳されました。ルターの聖書は一般の人々がまさに必要としていたもので,「2か月間で5,000部売れ,12年間で20万部売れた」と伝えられています。その聖書がドイツ語とドイツ文化に及ぼした影響は,しばしばジェームズ王欽定訳聖書が英語に及ぼしたそれと比較されます。
25 (イ)プロテスタントという名称はどのようにして造り出されましたか。(ロ)アウグスブルク信仰告白とは何ですか。
25 ウォルムス議会以後の何年かの間に,宗教改革運動は一般の人々から非常な支持を得たため,1526年に皇帝はドイツの各州に独自の形態の宗教としてルター派,もしくはローマ・カトリックのいずれかを自由に選択する権利を認めました。しかし1529年に皇帝がその決定を翻したため,一部のドイツ諸侯が抗議しました。それで,宗教改革運動を表わすプロテスタント(抗議者)という名称が造り出されました。翌1530年にアウグスブルク議会で,皇帝は当事者双方の意見の相違を改善する努力を払いました。ルター派は自分たちの信条を文書にして,つまりルターの教えに基づき,フィリップ・メランヒトンが作成したアウグスブルク信仰告白として提出しました。その文書は極めて融和的な論調で記されていたにもかかわらず,ローマ・カトリック教会がそれを退けたため,プロテスタント主義とカトリック主義との間の亀裂は修復不能なものになりました。ドイツの多くの州がルターの側に付き,スカンディナビアの諸州もそれに倣いました。
改革,それとも反抗?
26 ルターによれば,プロテスタント主義とカトリック主義とが分かれた理由とされる基本的な問題点は何でしたか。
26 プロテスタントとカトリック教徒が分かれた理由とされる基本的な問題点は何でしたか。ルターによれば,三つありました。第一に,救いは「信仰のみによって得られる義認」(ラテン語,ソラ・フィデ)b の結果であり,司祭による赦免,もしくは悔悛の業によるものではない,とルターは信じていました。第二に,許しはひとえに神の恩寵ゆえに(ソラ・グラティア)与えられるのであって,司祭,もしくは教皇の権威によるものではないと説きました。最後に,教理上の事柄はすべて,ただ聖書によってのみ(ソラ・スクリプトゥラ)確証されるべきであって,教皇,もしくは教会会議によってそうされるべきものではない,とルターは主張しました。
27 (イ)プロテスタントはカトリックの非聖書的などんな教えや慣行を保持しましたか。(ロ)プロテスタントはどんな変更を要求しましたか。
27 それにもかかわらず,「カトリック百科事典」によれば,ルターは,「罪や義認に関する彼の特異な見解に合わせ得る限り,古来の信条や典礼をできるだけ多く保持し」ました。アウグスブルク信仰告白は,ルター派の信仰に関して,「聖書,またはカトリック教会,もしくは著述家たちから知られる教会に関する限り,ローマ教会とさえ相いれない事柄は何もない」と述べています。実際,アウグスブルク信仰告白の中で要約されているルター派の信仰には,三位一体,不滅の魂,永遠の責め苦などの非聖書的な教理,それに幼児洗礼や教会の祝祭日などの慣行も含まれていました。一方,ルター派は,聖餐式で人々がぶどう酒とパンの両方を受けられるようにすること,ならびに独身制,修道誓願,および強制的な告解の廃止などのある種の変更を要求しました。c
28 宗教改革はどんな点で成功しましたか。しかし,どんな点では失敗しましたか。
28 ルターやその追随者の唱道した宗教改革は全体として教皇のくびきから離れることに成功しました。とはいえ,イエスがヨハネ 4章24節で述べておられるように,「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」。マルティン・ルターが現われたとはいえ,まことの神を探求する人類の歩みは単に新たな転機を迎えたにすぎないと言うことができます。真理の狭い道が見いだされるのは,なお遠い将来のことでした。―マタイ 7:13,14。ヨハネ 8:31,32。
スイスにおけるツウィングリによる宗教改革
29 (イ)ウルリヒ・ツウィングリとはだれですか。彼は何を戒めましたか。(ロ)ツウィングリの進めた宗教改革はルターのそれとどのように異なっていましたか。
29 ルターがドイツで教皇使節団や行政当局者との戦いに忙殺されていたころ,スイスのチューリヒではカトリックの司祭ウルリヒ・ツウィングリ(1484-1531年)が宗教改革運動を開始しました。その地域ではドイツ語が使われていたので,人々はすでに北部からの宗教改革の気運の影響を受けていました。1519年ごろ,ツウィングリはカトリック教会の免罪符,聖母マリア崇敬,聖職者の独身制,その他の教理を戒めるようになりました。ツウィングリはルターとは別個の独立した立場を主張していましたが,多くの分野でルターと意見の一致を見,ルターの著わした冊子を国中で頒布しました。しかし,より保守的なルターとは対照的に,ツウィングリは像,十字架像,僧服,礼拝音楽などのローマ教会のこん跡をすべて一掃することを唱道しました。
30 ツウィングリとルターの関係を裂く原因となった主要な問題は何でしたか。
30 しかし,この二人の宗教改革者の間には聖体拝領,つまりミサ(聖餐式)の問題を巡る,さらに重大な論争がありました。『これはわたしの体である』と述べたイエスの言葉を文字通りに解釈すべきであると主張したルターは,聖餐式で出されるパンとぶどう酒にはキリストの体と血が奇跡的に含まれていると信じていました。一方,ツウィングリは自分の書いた,「主の夕食」という論文の中で,イエスのその言葉は「比喩的,つまり隠喩的な意味に解さなければならない。『これはわたしの体である』とは,『このパンはわたしの体を表わしている』,もしくは『わたしの体の表象である』という意味である」と論じました。このような意見の相違のために,この二人の宗教改革者はたもとを分かつことになりました。
31 スイスでのツウィングリの業は結局どうなりましたか。
31 ツウィングリは引き続きチューリヒで宗教改革の信条を説き,同市で多くの変革を成し遂げました。やがて他の諸都市も彼の指導に従いましたが,田舎の地方の大半の人々はもっと保守的だったので,カトリック主義を固守しました。これら二派の争いはあまりにも大きくなったため,スイスのプロテスタントとローマ・カトリックとの間で内乱が勃発しました。従軍牧師を務めたツウィングリは,1531年にツーク湖の近くのカッペルの戦いで戦死しました。最後に平和が訪れた時,各々の地域にはプロテスタントかカトリックのいずれかを独自の宗教として選択する権利が与えられました。
再洗礼派,メノー派,およびフッター派
32 再洗礼派とはどんな分派でしたか。どうしてそのような名称を得ましたか。
32 しかしプロテスタントの中には,宗教改革者たちは教皇制を礼賛するカトリック教会の欠点とのかかわりを十分断ち切るまでに至っていないと感ずる人々がいました。それらの人々は,キリスト教の教会は地域共同体,もしくは一国の人々すべてではなく,バプテスマを受けて教会員として活動している忠実な信者だけで構成されていなければならないと考えました。ですから,幼児洗礼を退け,教会と国家の分離を主張しました。そして,仲間の信者にひそかに再び洗礼を施したので,再洗礼派<アナバプテスト>(“アナ”とはギリシャ語で「再び」の意)という名称を得ました。この派の人々は兵役に服したり,宣誓したり,あるいは公職に就いたりすることを拒んだため,社会にとって脅威的な存在とみなされ,カトリック教徒からもプロテスタントからも迫害を受けました。
33 (イ)再洗礼派に対する暴力行為は何により引き起こされましたか。(ロ)再洗礼派の影響はどのように広がりましたか。
33 最初,再洗礼派の人々はスイス,ドイツ,およびオランダなどの各地に散在して,小さなグループを作って生活していました。彼らが自分たちの信ずることをどこでも宣べ伝えるにつれて,その成員の数は急速に増えました。宗教的な情熱にすっかり心を動かされた再洗礼派の人々の一隊は平和主義をかなぐり捨てて,1534年にミュンスター市を攻略し,その都市を一夫多妻制共同体の新しいエルサレムにしようとしました。この運動は大変な暴力行為をもってたちまち阻止され,そのために再洗礼派は不評を買い,事実上根絶されてしまいました。再洗礼派の大半の人々は実際は,孤立した静かな生活をしようとする信心深い質素な人たちでした。再洗礼派の子孫で,もっとよく組織された人々の中には,オランダの宗教改革者メノー・シモンズの追随者であるメノー派の人々やチロル人ヤーコブ・フッターに従ったフッター派の人々がいました。その一部の人々は迫害を逃れるため,東ヨーロッパ,つまりポーランドやハンガリーへ,果てはロシアにまで移住し,他の人々は北アメリカへ移住し,やがてそこでフッター派やアンマン派の共同体という形を取って現われました。
カルバン主義の出現
34 (イ)ジャン・カルバンとはだれですか。(ロ)彼はどんな重要な本を著わしましたか。
34 スイスにおける宗教改革の仕事は,フランスで学生時代にプロテスタントの教えに接したジャン・コーバン,もしくはジャン・カルバン(1509-1564年)の指導のもとで進展しました。1534年にカルバンは宗教上の迫害のゆえにパリを去り,スイスのバーゼルに落ち着きました。彼はプロテスタントを弁護するため,初期の教父や中世の神学者の思想,ならびにルターやツウィングリの思想を要約して著わした「キリスト教綱要」という本を出版しました。この著作は後にヨーロッパやアメリカで確立された改革派諸教会すべての教義上の土台とみなされるようになりました。
35 (イ)カルバンは自分の予定説についてどのように説明しましたか。(ロ)この教理の厳格さはカルバンの教えの他の面にどのように反映していましたか。
35 カルバンは同「綱要」の中で自分の神学を説きました。カルバンにとって神は絶対的な主権者で,その意志により万事が定められ,支配されています。それとは対照的に,堕落した人間は罪深い存在で,救いを受けるには全く値しません。ゆえに,救いは人間の善い業にではなく,神に依存しています。したがって,これはカルバンの予定説で,彼はその説について次のように書きました。
「神は永遠不変の計り事により,救いにあずかることを許される者と滅びに定められる者の双方を一度限り永遠に定めておられると我々は主張する。神に選ばれた人々に関する限り,この計り事は人間の功績には全く無関係で,神の無償の憐れみに基づいているが,神により有罪宣告を受けるままにされる者たちにとって,命の門は公正で,とがむべき所のない,しかも計り知れない裁きによって閉ざされている,と我々は断言する」。
このような教えの厳格さは,やはり他の分野にも反映されています。クリスチャンは単に罪を慎むだけでなく,快楽や軽薄な行為をも慎まなければならないとカルバンは主張しました。さらに,神によって選ばれた者たちで構成されている教会は,一般市民的制約をすべて免除されており,また教会を通して初めて本当に敬虔な社会を確立することができると論じました。
36 (イ)カルバンとファレルはジュネーブで何をしようとしましたか。(ロ)どんな厳格な規定が定められましたか。(ハ)カルバンの極端な処置のためにもたらされた悪名高い結果の一つを挙げてください。彼は自分の行動をどのように正当化しましたか。
36 カルバンはその「綱要」を出版して間もなく,フランス出身のもう一人の宗教改革者ウィリアム・ファレルから,ジュネーブに落ち着くよう説得されました。二人はカルバン主義を実践するために一緒に働きました。この二人の目標はジュネーブを神の都,つまり教会と国家の機能を組み合わせた,神の支配による神権政体に変えることでした。彼らは宗教上の教えや教会の礼拝をはじめ,公共道徳,および衛生や火災防止などの問題をさえ含めたあらゆる事柄を扱う,制裁処置を伴う,厳格な規定を定めました。ある歴史の教科書は,「例えば,ある美容師は花嫁の髪を下品な格好と思える形に整えたかどで二日間投獄され,その髪の結い方を手伝った母親と二人の女友だちも同じ処罰を受けた。ダンスやトランプ遊びをした者たちもやはり行政長官により処罰された」と伝えています。神学上の事柄でカルバンと意見を異にした人々には残忍な処置が講じられました。最も悪名高いのは,火あぶりの刑に処せられたスペイン人ミゲル・セルベト,もしくはミカエル・セルウェトゥスの例です。―322ページの囲み記事をご覧ください。
37 カルバンの影響はスイスの国境をはるかに越えてどれほど広範囲に及びましたか。
37 カルバンは1564年に亡くなるまで,ジュネーブで彼独自の宗教改革を実施し,改革派教会が確立されました。他の土地で迫害を逃れたプロテスタントの宗教改革者たちは,ジュネーブに群れをなして集まり,カルバンの思想を受け入れ,やがてそれぞれの故国で宗教改革運動を開始するよう力を貸しました。カルバン主義はやがて,ユグノー派(フランスのカルバン派プロテスタントはそう呼ばれていた)がカトリック教徒によりひどい迫害を受けていたフランスに広まりました。カルバン派の人々はオランダではオランダ改革派教会を確立するのを助けました。スコットランドでは,前カトリック司祭ジョン・ノックスの熱心な指導のもとで,スコットランド長老派教会がカルバン主義の方針に沿って確立されました。カルバン主義はまた,英国の宗教改革でも一役演じ,さらにそこから清教徒と共に北アメリカに伝わりました。このような意味で,ルターはプロテスタントによる宗教改革運動を開始させましたが,カルバンはその運動の発展に前者よりもはるかに大きな影響を及ぼしました。
英国における宗教改革
38 英国のプロテスタント精神はジョン・ウィクリフの働きによってどのように生まれましたか。
38 ドイツやスイスの宗教改革運動とはかなり別個の性格のものである英国の宗教改革の根源は,ジョン・ウィクリフの時代までさかのぼれます。英国ではウィクリフが教権反対の見解を説き,聖書を重視した結果,プロテスタント精神が生まれました。聖書を英語に翻訳しようとしたウィクリフの努力に他の人々も従いました。英国から逃れていたウィリアム・ティンダルは1526年に,自ら翻訳した新約聖書を出版しました。彼は後にアントワープで裏切られ,杭に付けられて絞殺され,遺体は焼かれました。マイルズ・カバデールはティンダルの翻訳を完成させ,その全訳聖書は1535年に出されました。確かに,一般の人々の言語に訳された聖書を出版したことは,英国の宗教改革に寄与した単一の最も強力な要素でした。
39 ヘンリー8世は英国の宗教改革でどんな役割を演じましたか。
39 教皇から“信仰の擁護者”と呼ばれたヘンリー8世(1491-1547年)が,1534年に「国王至上法」を布告して,自ら英国国教会の首長となった時,ローマ・カトリック教会から正式に分離することになりました。ヘンリーはまた,各地の修道院を閉鎖して,僧院の地所を貴族に分譲しました。その上,すべての教会に英語の聖書を1冊備えることを命じました。しかし,ヘンリーの処置は宗教的性格と言うよりも政治的性格のものでした。彼が望んでいたのは,特に自分の結婚問題dに関連して教皇権からの独立を図ることでした。宗教的には,名称以外すべての点でカトリックの信仰を保ちました。
40 (イ)エリザベス1世の治世中に英国国教会ではどんな変化が生じましたか。(ロ)やがて,国教に反対するどんなグループが,英国,オランダ,および北アメリカに現われましたか。
40 英国国教会が機構上は大方カトリックのままでしたが,プロテスタントの慣行に準ずるようになったのは,エリザベス1世の長い治世(1558-1603年)中のことでした。同国教会は教皇に対する忠誠の義務,聖職者の独身制,告解,その他のカトリックの慣行を廃止しましたが,大主教および主教,それに修道士や修道女を有する教階制の監督派<エピスコパル>型の教会機構を保持しました。e そのような保守的な態度のために相当の不満が募るようになり,国教に反対する様々のグループが現われました。清教徒はローマ・カトリックの慣行すべてを排除して教会を清める,もっと徹底した改革を要求しました。分離派や独立派は,教会の事柄は地元の長老(司祭)たちにより管理されるべきであると主張しました。国教に反対する人々の多くはオランダや北アメリカに逃れて,そこでさらに自分たちの会衆派やバプテスト派の教会を発展させました。また,英国でも,ジョージ・フォックス(1624-1691年)の率いるフレンド会(クエーカー教徒)やジョン・ウェスレー(1703-1791年)の率いるメソジスト派が現われました。―下の図表をご覧ください。
どんな影響が及んだか
41 (イ)一部の学者の見解では,宗教改革は人類の歴史にどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)どんな疑問は真剣に考慮するのに値しますか。
41 これまでに,ルター派,カルバン派,および英国国教会派という宗教改革の三大主流について考慮してきたので,ここで少し立ち止まって,宗教改革により成し遂げられた事柄を評価してみなければなりません。宗教改革によって西洋の世界の歴史の流れが変えられたことは否定すべくもありません。ジョン・F・ハーストは自著,「宗教改革小史」の中で,「宗教改革の影響で,人々は自由,ならびにより高度で,より純粋な公民権を希求するよう向上することになった。プロテスタント主義が広まった所ではどこでも,一般大衆は一層自己主張をするようになった」と書いています。宗教改革がなければ,今日のいわゆる西洋文明はあり得なかったであろうと考える学者は少なくありません。それはともかく,宗教改革は宗教的には何を成し遂げたのだろうかと問わなければなりません。宗教改革はまことの神を探求する人類のために何をしましたか。
42 (イ)宗教改革によって,確かにどんな最大の益がもたらされましたか。(ロ)宗教改革によって本当に成し遂げられた事柄に関して,どんな疑問を提起しなければなりませんか。
42 確かに,宗教改革によって得られた最大の益は,一般民衆が聖書を自分たちの言語で読めるようになったことです。人々は初めて,神のみ言葉全体を目の前に置いて読み,自らを霊的に養えるようになりました。しかし,もちろん,聖書を単に読む以上のことが必要です。宗教改革によって単に教皇権からだけでなく,何世紀にもわたって人間が従わされてきた誤った教理や教義からも人々は自由にされましたか。―ヨハネ 8:32。
43 (イ)今日のプロテスタント諸教会のほとんどは,どんな信条に同意し,またどんな信仰を告白していますか。(ロ)宗教改革の結果としてもたらされた自由な精神や多様性は,まことの神を探求する人類のために何をするものとなってきましたか。
43 プロテスタント諸教会はほとんどすべて,同じ信条 ― ニケア信経,アタナシウス信経,および使徒信経 ― に同意しており,それらの信経は三位一体,不滅の魂,および地獄の火などの,ほかならぬカトリック教会が何世紀もの間教えてきた教理の幾つかに対する信仰を告白したものなのです。そのような非聖書的な教えのために,神とその目的に関する人々の心像はゆがめられてきました。プロテスタントによる宗教改革の自由な精神のもたらした結果として生じた数多くの分派や教派は,人々がまことの神を探求するのを助けるどころか,人々を多種多様な方向に向かわせてきたにすぎません。実際,そのような多様性と混乱のために,神の存在そのものをさえ疑問視するようになった人々が少なくありません。
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宗教改革 ― 新たな転換期を迎えた探求の歩み神を探求する人類の歩み
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[322ページの囲み記事/図版]
「三位一体の誤り」
法律と医学を学んだスペイン人ミカエル・セルウェトゥス(1511-1553年)は20歳で,「三位一体の誤り」という本を出版し,その中で,自分としては,「聖書に出ておらず,哲学的誤りを永続させるにすぎないような三位一体という言葉を利用することはしない」と述べ,三位一体の教理は,「理解することができず,物事の性質上あり得ない事柄であり,また実際,冒涜的な事柄とさえみなせる」として公然と非難しました。
セルウェトゥスはきたんなく語ったために,カトリック教会により有罪宣告を受けました。しかし,彼を逮捕し,裁判にかけさせ,人を徐々に焼く火あぶりの刑に処させたのは,カルバン派の人々でした。カルバンは次のように述べて自分の行動を正当化しました。「教皇礼賛者たちが自分たちの迷信を守るのに非常に過酷で暴力的であるため,ひどく憤るあまり無実な者の血を流す以上,クリスチャンである行政長官たちが確かな真理を守るために,それほどの熱烈さを示さないのは恥ずべきことではないか」。カルバンは宗教的狂信と個人的な憎しみのために判断力を失い,キリスト教の原則をうやむやに葬りました。―マタイ 5:44と比較してください。
[図版]
ミカエル・セルウェトゥス(右)を異端者として焼き殺させたジャン・カルバン(左)
[327ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
キリスト教世界の主要な宗教組織を簡単に示した図表
背教の始まり-2世紀
ローマ・カトリック教会
4世紀 (コンスタンティヌス)
5世紀 コプト派
ヤコブ派
西暦1054年 東方正教会
ロシア正教
ギリシャ正教
ルーマニア正教その他
16世紀 宗教改革
ルター派
ドイツ
スウェーデン
アメリカその他
英国国教会派
監督派
メソジスト派
救世軍
バプテスト派
ペンテコステ派
会衆派
カルバン主義
長老派
改革派諸教会
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