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兄弟たちの交わりエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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第3部
兄弟たちの交わり
すべての国民と国語の中から来た何百万人もの人々が,真の兄弟仲間として共に働くことは可能でしょうか。
現代のエホバの証人に関する記録を見ると,声を大にして,はい! と答えることができます。この第3部(15章から21章)では,彼らの組織がどのように機能しているかを取り上げます。この部分からは,彼らが神の王国をふれ告げる時に示す熱意や,彼らが共に働いたり,危機に際して互いに気遣いを示し合ったりする時に明らかになる愛が伝わってきます。
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組織の構造の発展エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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15章
組織の構造の発展
最初にチャールズ・テイズ・ラッセルとその仲間たちが共に聖書を研究し始めた1870年以来,エホバの証人の組織の運営は幾つかの重要な変化を遂げてきました。初期の聖書研究者の人数が少なかったころは,外部の人から見れば組織らしいところはほとんどありませんでした。しかし今日,人々はエホバの証人の会衆や大会,また200以上の国や地域で行なわれている良いたよりの伝道を見て,組織が非常に円滑に運営されていることに驚きます。組織はどのように発展してきたのでしょうか。
聖書研究者たちは,聖書の教理を理解することに加えて,聖書に示されているような,神に対する奉仕の仕方を理解することにも深い関心を抱いていました。彼らは,平信徒に説教をする,肩書きを持つ僧職者という観念には聖書的な根拠が全くないことに気づきました。ラッセル兄弟は,自分たちの中には僧職者階級を設けまいと決めました。a 「ものみの塔」誌の記事は,イエスがご自分の追随者たちに「あなた方の指導者はキリスト一人」であり,「あなた方はみな兄弟」であると言われたことを,しばしば読者に思い起こさせました。―マタイ 23:8,10。
聖書研究者たちの初期の交わり
やがて,「ものみの塔」誌および同誌と関連した出版物の読者は,神を喜ばせるためには,書き記されたみ言葉よりも人間の信条や伝統を優先させて神に不忠実なものとなっているいかなる教会とも絶縁しなければならない,ということを理解しました。(コリント第二 6:14-18)しかし,キリスト教世界の諸教会から脱退した後,彼らはどこへ行ったのでしょうか。
ラッセル兄弟は「エクレシア」と題する記事bの中で,クリスチャン会衆という真の教会は,人間製の信条を支持して教会の名簿に名前を載せている人々から成る組織ではないと指摘し,むしろ真の教会は,自分の時間や才能や人生を神のために“聖別し”(もしくは,献げ),キリストと共に天の王国にあずかる見込みを持つ人々から成るものであると説明しました。そして同兄弟は,それらの人々は,クリスチャン愛や共通の関心事というきずなによって結ばれたクリスチャンであり,神の霊の導きにこたえ応じ,キリストの頭の権に服するクリスチャンであると述べました。ラッセル兄弟は他の取り決めを設けることには関心がなく,自称クリスチャンたちの間に存在する分派主義に少しでも貢献することには強く反対しました。
それと同時にラッセル兄弟は,主の僕たちがヘブライ 10章23節から25節の諭しに調和して集まり合うことの必要性を十分認識していました。彼は個人的に旅行し,「ものみの塔」誌の読者を訪問して築き上げ,その地域に住む同じ思いを持つ他の人たちと引き合わせました。早くも1881年に彼は,定期的な集会を開いている人たちに,集会場所をものみの塔事務所に知らせるよう求めました。彼は常に連絡をとり合うことの価値に気づいていたのです。
しかし,ラッセル兄弟は自分たちが「地的な組織」を作ろうとしているのではないことを強調し,むしろ「『名が天に記されている』我々は,かの天的な組織だけを支持する(ヘブライ 12:23。ルカ 10:20。)」と述べました。キリスト教世界の汚れた歴史のため,“教会組織”と言うと,たいてい分派主義,僧職者による支配,宗教会議で作り出された信条に従うことを条件とする会員の地位などが連想されました。それでラッセル兄弟は,自分たちのことを述べる際には“交わり”という語のほうが良いと考えました。
ラッセル兄弟は,キリストの使徒たちが会衆を設立し,それぞれの会衆に長老たちを任命したことをよく知っていました。しかし同兄弟は,目に見えない仕方であるとはいえキリストが再び臨在しておられ,ご自分と共に相続人となる人々の最終的な収穫を自ら導いておられる,と信じていました。当初ラッセル兄弟は事情を考慮して,収穫の時の間は1世紀のクリスチャン会衆に存在していた長老の取り決めは必要ないと考えていました。
とはいえ,聖書研究者の数が増えるにつれ,ラッセル兄弟は自分の期待とは違った仕方で主が事を運んでおられることに気づきました。見方を調整しなければなりませんでした。しかし,何に基づいて調整するのでしょうか。
拡大する交わりの初期の必要にこたえる
「ものみの塔」誌(英文),1895年11月15日号の誌面のほぼ全体は,「適正に,また秩序正しく」という論題のために用いられました。その中でラッセル兄弟は次の点を率直に認めました。「使徒たちは聖なる者たちの集まりにおける秩序に関して,初期教会に多くのことを述べている。しかしながら,教会がその歴史の終わりに非常に近づいており,収穫の時は分ける業の時であるため,我々はその賢明な諭しを幾分重要性の低いものとみなし,その諭しに対して多少無頓着だったようである」。その諭しに対して新たな見方をするようになったのはなぜでしょうか。
その記事は次のような四つの事情を挙げていました。(1)明らかに,個々の人の霊的な進歩はまちまちである。すべての人が同じように誘惑や試練や苦難や危険に対処する用意ができているわけではない。したがって,賢くて思慮深い監督,つまり経験と能力があり,すべての人の霊的な福祉の世話をすることに深い関心を抱き,真理をもって人々を教えることのできる男子が必要である。(2)『羊の装いしたる狼』から群れを守らなければならないことが分かった。(マタイ 7:15,欽定)群れは,真理の徹底的な知識を得るよう,援助を受けて強められなければならない。(3)群れを保護する長老たちを任命する取り決めがないと,一部の者たちがその立場に自ら就き,群れを自分のものとみなすようになる,ということが経験から分かった。(4)秩序正しい取り決めがないと,真理に忠節な人々が,異議を唱える少数の人たちに影響されて,自分たちの奉仕は望まれていないと考えかねない。
以上の点を考慮して,「ものみの塔」誌はこう述べました。「すべての会においてその中から,群れを『養い』かつ『監督する』長老たちが選ばれるべきであるという使徒たちの諭しを,我々はいささかも躊躇することなく,人数の多少にかかわらず各地の教会cに勧める」。(使徒 14:21-23; 20:17,28)各地の会衆はこの聖書からの健全な諭しにきちんと従いました。これは,使徒たちの時代のものと一致した会衆の組織を確立する上での重要な一歩となりました。
しかし,当時の理解の仕方に合わせて,長老たち,および長老を補佐する執事たちの選出は会衆の選挙によって行なわれました。毎年,あるいは必要な場合にはもっと頻繁に,奉仕する可能性のある人たちの資格が考慮され,選挙が行なわれました。それは基本的に言って民主的な手順でしたが,安全装置として機能するよう意図された制限によって抑制されていました。会衆の全員は,聖書的な資格を注意深く復習し,自分自身の意見ではなく,主のご意志であると信じる事柄を選挙によって表明するよう勧められました。選挙に加わる資格は「十分に聖別された」人たちにしかありませんでしたから,み言葉と主の霊に導かれている場合には,集団としての彼らの選挙は問題に関する主のご意志の表明とみなされました。ラッセル兄弟はあまり意識していなかったかもしれませんが,彼がこの取り決めを推薦したことには,高位の僧職者階級とのいかなる類似点も避けるという彼の決意だけでなく,十代のころ組合教会に属していたという彼自身の経歴も,ある程度の影響を与えていたようです。
「千年期黎明」の一巻を成す「新しい創造物」(1904年発行)と題する本の中で長老の役割と長老の選出方法が再び詳しく論じられましたが,その際,使徒 14章23節に特別な注意が向けられました。『彼らを長老に叙任し』(欽定)という言葉は「挙手によって彼らを長老に選出し」と訳すべきであるという見解の根拠として,ジェームズ・ストロングとロバート・ヤングが編纂した聖書語句索引が引用されました。d 聖書翻訳の中には,長老たちは『選挙によって任命された』と述べているものさえあります。(ヤングの「聖書の字義訳」。ロザハムの「エンファサイズド・バイブル」)しかし,だれがその選挙を行なうべきだったのでしょうか。
選挙は会衆全体が行なうべきであるという見解を採ったからといって,必ずしも期待どおりの結果が得られたわけではありません。選挙を行なう人たちは“十分に聖別された”人でなければならず,選出される人たちは聖書的な資格に本当にかなっており,兄弟たちに謙遜に仕えました。しかし,往々にして選挙は,み言葉と神の霊よりも個人的な好みを反映したものとなりました。例えばドイツのハレでは,自分たちが長老になるものと考えていた特定の人たちが,望んでいた立場を得られなかった時に大騒動を引き起こしました。ドイツのバルメンでは,1927年の候補者の中に協会の活動に反対する人たちが含まれており,選挙の際に挙手が行なわれている間じゅうかなりの叫び声が飛び交ったため,無記名投票に切り替えなければなりませんでした。
これらの出来事が生じる幾年か前の1916年に,ラッセル兄弟は深い懸念を抱き,こう書きました。「選出が行なわれる時期に,幾つかのクラスではひどい事態が生じている。教会の僕たちが支配者や独裁者になろうとしており,場合によっては,恐らく自分や特定の仲間たちが長老や執事に選出されるようにするため,集会の司会者の立場を占めてさえいる。……中には,自分と仲間にとって特に都合の良い時に選挙を行なって,ひそかにクラスを利用しようとする者もいる。また,ある者たちは自分の仲間で集会を満員にしようとして,あまり見たことのない人々を連れ込む。それらの人々は定期的にクラスに出席することなど毛頭考えていないのに,単に友情の行為として仲間の一人を選出するためにやって来る」。
彼らは選挙をもっと円滑に民主的な方法で行なう方法を学ぶだけでよかったのでしょうか。それとも,彼らがまだ気づいていない,神の言葉に基づく事柄があったのでしょうか。
良いたよりが宣べ伝えられるように組織する
ラッセル兄弟はまさに当初から,クリスチャン会衆の各成員に課された最も重要な責任の一つは福音宣明の業であるということを認識していました。(ペテロ第一 2:9)「ものみの塔」誌は,「エホバがわたしに油をそそぎ,……良いたよりを告げるようにされた」というイザヤ 61章1節の預言的な言葉が当てはまるのはイエスお一人ではなく,霊によって油そそがれた追随者全員であると説明しました。「ジェームズ王欽定訳」では,その聖句を引用したイエスの言葉が,『福音を宣べさせんとて我に油そそぎたまえり』と訳されています。―ルカ 4:18。
早くも1881年には,「ものみの塔」誌に「1,000人の伝道者を求む」という記事が載せられました。これは,多少にかかわらず可能な時間(30分あるいは1時間,2時間,3時間)を用いて聖書の真理を広める業にあずかるようにという,会衆の各成員に対する呼びかけでした。扶養家族がなく,自分の時間の半分以上を専ら主の業のために費やすことのできる男女は,聖書文書頒布者<コルポーター>という福音宣明者として働くよう励まされました。年によって人数はかなり変動しましたが,1885年までには,聖書文書頒布者<コルポーター>としてこの業にあずかっている人は約300人になっていました。ほかにも,もっと限られた範囲で参加した人たちがいました。聖書文書頒布者<コルポーター>たちには,業を行なう方法について提案が与えられました。しかし,畑は広大だったので,少なくとも当初,彼らは自分たちで区域を選び,多くの場合,最善と思えると別の場所に移りました。そして,大会に集まったときに,自分たちの奉仕を調節するために必要な調整を行ないました。
聖書文書頒布者<コルポーター>の奉仕が始まったのと同じ年に,ラッセル兄弟は無償配布用の幾つかの冊子(または小冊子)を印刷させました。中でも際立っていたのは,最初の4か月間で120万部も配布された「考えるクリスチャンのための糧」でした。この印刷と配布の取り決めに関する仕事のため,必要な細かい事柄の世話をする目的で「シオンのものみの塔冊子協会」が設立されました。ラッセル兄弟は,自分が死んだ場合にも業が途絶えないようにするため,また業に用いられる寄付の取り扱いを容易にするため,協会の登記を申請し,協会は1884年12月15日に正式に登録されました。こうして,必要とされる法的機関が存在するようになりました。
必要が生じるにつれ,ものみの塔協会の支部事務所が他の国や地域にも開設されました。まず1900年4月23日,英国のロンドンに,そして1902年,ドイツのエルバーフェルトに開設され,2年後には,地球の裏側,オーストラリアのメルボルンに支部が設けられました。本書執筆の時点で,全世界に99の支部があります。
大量の聖書文書を供給するのに必要な組織的な取り決めが形を整えつつあったとはいえ,当初,それらの文書を公に配布する地元の取り決めを設けることは会衆に任されていました。ラッセル兄弟は1900年3月16日付の手紙の中で,この点に関する自分の見方を述べました。「アレキサンダー・M・グラハムとマサチューセッツ州ボストンの教会」宛のその手紙には,こう書かれています。「皆さんもご存じのとおり,主の民の各会に,自らの判断に基づいて自らの物事を管理するよう任せ,干渉ではなく単に助言によって提案を差し伸べる,というのが私の断固たる考えです」。このことには,集会だけでなく,野外宣教の行ない方も含まれていました。それで,ラッセル兄弟は兄弟たちに幾らかの実際的な助言を与えた後,結びに「これは提案にすぎません」と述べました。
中には,協会からのもっと明確な指導を必要とする活動もありました。「創造の写真劇」の上映に関して,地元での上映のために劇場などの施設を借りる気持ちがあるか,また借りることができるかどうかについて,各会衆に決定が委ねられました。とはいえ,器材を都市から都市へ移動する必要があり,スケジュールを合わせなければならなかったので,それらの点に関しては協会が中心となって指導を与えました。各会衆は地元での取り決めを世話する劇委員会を設けるよう勧められましたが,すべてがきちんと円滑に進むよう,協会から派遣された監督者が細かな点に十分の注意を払いました。
1914年,そして1915年が経過する間,それら霊によって油そそがれたクリスチャンたちは自分たちが抱く天的な希望の成就を切に待ち望んでいました。それと同時に,彼らは主への奉仕に忙しく携わるよう励まされました。たとえ彼らが肉体を着けて過ごす残された時は非常に短いと考えていたとしても,良いたよりの伝道を秩序正しく行なうためには,わずか数百人だったころ以上の指導が必要である,ということが明らかになりました。その指導は,J・F・ラザフォードがものみの塔協会の2代目の会長になってから間もなく,新たな局面を迎えました。1917年3月1日号の「ものみの塔」誌(英文)は,今後,聖書文書頒布者<コルポーター>や会衆の牧羊の働き人eの働く区域はすべて協会の事務所から割り当てられる,と発表しました。一つの都市または郡において地元の奉仕者と聖書文書頒布者<コルポーター>が一緒にそのような野外奉仕を行なっている場合には,地元で任命された地域の委員会によって両者に区域が分割されました。この取り決めは,1917年から1918年にかけて数か月間だけ行なわれた「終了した秘義」の実に驚異的な配布に役立ちました。また,キリスト教世界を強力に暴露した「バビロンの倒壊」という主題のパンフレット1,000万部の電撃的な配布を成し遂げるためにも重要な役割を果たしました。
その後まもなく,協会の管理役員たちは逮捕され,1918年6月21日に20年の刑を宣告されました。良いたよりの伝道は事実上停止してしまいました。彼らが最終的に天の栄光のうちに主と結ばれる時が来たのでしょうか。
数か月後に戦争は終わり,翌年には,協会の役員たちが釈放されました。彼らはまだ肉体を着けていました。彼らはそうなるとは期待していませんでしたが,神がこの地上で自分たちに行なわせようとしておられる仕事がまだあるに違いないと結論しました。
彼らは信仰の厳しい試みを経験したばかりでしたが,「ものみの塔」誌(英文)は1919年に,「恐れなき者は幸いなり」という主題の,人を鼓舞する聖書研究によって彼らを強めました。その続きには「奉仕の機会」という記事がありました。しかし兄弟たちは,その後の数十年間に広範な組織上の発展が生じるとは思ってもいませんでした。
群れに対するふさわしい模範
ラザフォード兄弟は,時がいかに短いとしても,秩序正しく一致のうちに業が前進し続けるためには群れに対するふさわしい模範が不可欠であるということを確かに認識していました。イエスはご自分の追随者を羊と呼ばれました。羊は羊飼いに従います。言うまでもなく,イエスご自身が立派な羊飼いです。しかしイエスは,ご自分の民の従属の羊飼いとして,年長者つまり長老たちをお用いになります。(ペテロ第一 5:1-3)それらの長老たちは,イエスから割り当てられた業に自ら参加し,またそうするよう他の人を励ます人でなければなりません。長老たちは真に福音宣明の精神を持っていなければなりません。ところが,「終了した秘義」の配布が行なわれた時期に,一部の長老たちはしりごみしてしまい,中には他の人が業にあずかるのを思いとどまらせようとして声高に意見を述べる者さえいました。
「黄金時代」誌の発行が始まった1919年に,このような状況を正すための非常に重要な措置が講じられました。同誌は,人類の諸問題の唯一の永続的な解決策である神の王国を広く知らせるための強力な道具となるはずでした。この活動にあずかることを望む各会衆は,協会に“奉仕組織”として登録を申請するよう勧められました。そして,奉仕の主事として知られるようになった主事が,年ごとの選挙とは関係なく,協会によって任命されました。f 主事は地元における協会の代表者として業を組織し,区域を割り当て,野外奉仕に会衆が参加するよう励ますことになっていました。こうして,民主的に選出された長老や執事と共に,別のタイプの組織上の取り決めが機能し始めました。それは,地元の会衆の外にある,任命を行なう権威を認め,神の王国の良いたよりの伝道を一層重視する取り決めでした。g
その後の期間,王国宣明の業には,抗し難い力に動かされたかのように大きな弾みがつきました。1914年およびそれ以降の出来事は,主イエス・キリストが古い体制の終結について述べられた重要な預言が成就しつつあることを明らかに示していました。その点を考慮して1920年に「ものみの塔」誌は,マタイ 24章14節で予告されていたとおり,今は「古い事物の秩序の終わりとメシアの王国の設立」に関する良いたよりをふれ告げるべき時である,と指摘しました。h (マタイ 24:3-14)1922年,オハイオ州シーダーポイントでの聖書研究者の大会から帰る出席者たちの耳には,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」というスローガンが鳴り響いていました。さらに,1931年にエホバの証人という名称が採択された時,真のクリスチャンの役割に一層明確に注意が向けられるようになりました。
エホバがご自分の僕たちに,彼らすべてがあずかれる業を割り当てられたことは明らかでした。熱烈な反応が見られました。この業に全時間を費やすため,多くの人が生活を大幅に調整しました。限られた時間だけを費やす人々の中にも,週末には一日じゅう野外奉仕を行なう人がかなりいました。当時のエホバの証人の多くは,1938年と1939年の「ものみの塔」誌や「通知」に載せられた励ましにこたえ応じ,毎月60時間を野外奉仕に費やすよう良心的に努力しました。
それらの熱心な証人たちの中には,会衆の長老である,エホバの謙遜で献身的な僕たちが大勢いました。しかし,1920年代から1930年代の初めにかけて,場所によっては,あらゆる人が野外奉仕に参加するという考えに対してかなりの抵抗も生じました。民主的に選出された長老たちが,会衆外の人々に伝道する責任について述べた「ものみの塔」誌の内容に対して声高に異議を唱えることも少なくありませんでした。それらのグループの中では,この点について神の霊が聖書を通して諸会衆に述べる事柄を聴くまいとしたため,神の霊の流れが阻害されました。―啓示 2:5,7。
このような状況を正すため,1932年に幾つかの措置が講じられました。一部の目立った長老たちの気分を害するかどうか,あるいは会衆と交わっているある人々が去るかどうかということは,主要な関心事ではありませんでした。むしろ,兄弟たちはエホバを喜ばせ,エホバのご意志を行なうことを願っていました。そのために,同年8月15日号と9月1日号の「ものみの塔」誌(英文)は「エホバの組織」という主題を際立たせました。
同誌の記事は,本当にエホバの組織に属する人は皆,この時期に行なわれなければならないとみ言葉が述べている業を行なっているはずである,とはっきり指摘しました。また,それらの記事は,クリスチャンの長老の立場とは選挙によって就くことのできる職ではなく,霊的な成長によって達する状態であるという見解を支持しました。特に強調されたのは,イエスの追随者が『みな一つになる』ように,つまり神とキリストに結びつき,そのようにして神のご意志を行なう点で互い同士一致するように,というイエスの祈りでした。(ヨハネ 17:21)どんな結論に達しましたか。2番目の記事が示す答えによると,「残りの者に属する人は皆,エホバ神のみ名と王国の証人でなければならない」のです。監督の仕事は,公の証言にあずかるために道理にかなった範囲でできる事柄を行なわない人や,行なうことを拒む人に委ねるわけにはゆきません。
これらの記事の研究の終わりに,諸会衆は自分たちの賛同を表わす決議を採択するよう勧められました。こうして,長老と執事になる男子を会衆が年ごとに選出することは廃止されました。他の場所と同様に北アイルランドのベルファストでも,かつて“選出長老”だったある人々は会衆を去り,彼らと同じ見解を持つ他の人々も行動を共にしました。その結果,人数は少なくなりましたが,組織全体が強められました。残った人々は,証言するというクリスチャンの責任を喜んで担う人々でした。依然として民主的な方法を用いていたとはいえ,諸会衆は選挙で長老を選ぶ代わりに,公の証言に活発にあずかっている霊的に円熟した男子から成る奉仕委員会iを選出しました。それに加えて会衆の成員は,集会を主宰する司会者,および書記と会計係を選挙で選びました。これらの男子はみな,エホバの活発な証人でした。
今や,会衆を監督する仕事は,自分の立場ではなく,神のみ名と王国について証言するという神の業を行なうことに関心を抱く男子,自らその業に参加して良い模範を示す男子に委ねられ,神の業は一層円滑に前進するようになりました。当時は理解されていなかったことですが,なすべき多くの事柄,つまりそれまでに行なわれた以上に広範な証言の業,予想していなかった集める業がありました。(イザヤ 55:5)エホバがその業のために彼らを備えさせておられたことは明らかです。
彼らと共に,地上でとこしえに生きるという希望を抱く少数の人々が交わり始めていました。j しかし聖書の予告によると,来たるべき大患難のあいだ保護される見込みを持つ大いなる群衆(または大群衆)が集められることになっていました。(啓示 7:9-14)1935年に,この大いなる群衆の実体が明らかになりました。1930年代に行なわれた監督たちの選出に関する変更により,組織は,大いなる群衆を集めて教え,訓練するという業を世話するために一層良い備えができました。
大部分のエホバの証人にとって,このように業が拡大されたことは胸の躍るような事態の進展でした。彼らの行なう野外宣教に新たな意義が加えられたのです。しかし,中には熱心に宣べ伝えない人もいました。そうした人たちはしりごみし,ハルマゲドン後にならないと大いなる群衆は集められないと主張して,自分たちの不活発さを正当化しようとしました。とはいえ,大部分の人は,エホバに対する忠節と仲間の人間に対する愛を実証する新たな機会があることに気づきました。
大群衆に属する人々はどのようにして組織の構造の中にふさわしい場を得たのでしょうか。彼らは,霊によって油そそがれた者たちの「小さな群れ」に神の言葉が割り当てた役割を教えられ,その取り決めと調和して喜んで働きました。(ルカ 12:32-44)また,霊によって油そそがれた者たちと同様に,自分たちにも他の人に良いたよりを伝える責任があることを学びました。(啓示 22:17)彼らは神の王国の地上の臣民となることを望んでいたので,自らの生活の中でその王国を第一にし,その王国について他の人に熱心に語るべきでした。大患難の際に保護されて神の新しい世に入る人々に関する聖書の描写と合致して,彼らは,「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と『大声で叫びつづける』人々でなければなりません。(啓示 7:10,14)1937年,大群衆に属する人々の人数が増え始めるとともに,主に対する彼らの熱意が明らかになったので,彼らも会衆を監督する責任の荷を担う手助けをするよう招かれました。
しかし彼らは,組織はエホバのものであり,いかなる人間のものでもないということを思い起こさせられました。霊によって油そそがれた者たちの残りの者とほかの羊の大群衆に属する人々の間に分裂があってはなりませんでした。両者はエホバへの奉仕において兄弟姉妹として共に働くべきなのです。イエスが,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」と言われたとおりです。(ヨハネ 10:16)この言葉の現実性が明らかになりつつありました。
それまでの比較的短期間に,組織内で驚くべき進展が見られました。しかし,霊感を受けたみ言葉に述べられているエホバの方法と十分に調和して会衆の物事が行なわれるようにするため,なすべきことがほかにもあったでしょうか。
神権組織
“神権政治”とは“神による支配”を意味します。諸会衆はそのような支配を受けていたでしょうか。諸会衆はエホバを崇拝するだけでなく,会衆の物事を導いてくださるようエホバに頼っていたでしょうか。それらの点に関して,霊感を受けたみ言葉の中で神が述べておられる事柄に十分従っていたでしょうか。1938年6月1日号と15日号の「ものみの塔」誌(英文)に掲載された,2部から成る「組織」という記事は,「エホバの組織は決して民主的なものではない。エホバは至上の方であられ,エホバの統治もしくは組織は全く神権的なものである」とはっきり述べました。とはいえ,当時の各地のエホバの証人の会衆では,集会や野外奉仕の監督の任に当たる人々の大半を選ぶ際に民主的な手順が依然として用いられていました。さらに変更が加えられるのは適切なことでした。
しかし,使徒 14章23節が示すところによると,会衆の長老たちは,選挙の場合のように『手を差し伸べる』ことによって職に任じられるべきだったのではないでしょうか。「ものみの塔」誌に掲載された「組織」と題するその記事の第1部は,この聖句に関する以前の理解が間違っていたことを認めました。1世紀のクリスチャンの間での任命は,会衆の全成員が『手を差し伸べる』ことによって行なわれたのではありません。むしろ,『手を差し伸べた』のは使徒たち,および使徒たちから権威を与えられた人たちであるということが示されました。それは,会衆の選挙に参加することによってではなく,資格ある人の上に手を置くことによってなされました。手を置くことは確認や承認や任命の象徴でした。k 初期クリスチャンの諸会衆が資格ある男子を推薦することもありましたが,最終的な選出や承認は,キリストから直接任命された使徒たち,あるいは使徒たちから権威を与えられた人たちが行ないました。(使徒 6:1-6)「ものみの塔」誌は,使徒パウロが聖霊の導きのもとに監督の任命に関する指示を与えているのは,責任ある監督たち(テモテとテトス)に宛てた手紙の中だけであるという事実に注意を引きました。(テモテ第一 3:1-13; 5:22。テトス 1:5)諸会衆に宛てられた霊感を受けた手紙の中には,そのような指示を含むものは一つもありませんでした。
では,当時,会衆での奉仕の立場への任命はどのように行なわれたのでしょうか。「ものみの塔」誌は神権組織に関して分析を行ない,以下の点を聖書から示しました。エホバはイエス・キリストを「会衆の頭」に任命された。主人であるキリストは再来の時に,ご自分の「忠実で思慮深い奴隷」に「自分のすべての持ち物」に対する責任を委ねる。その忠実で思慮深い奴隷を構成するのは,キリストの共同相続人となるために聖霊によって油そそがれ,キリストの指導のもとに一致して仕えている,地上にいるすべての人である。キリストはその奴隷級を,諸会衆に対して必要な監督を行なうための代理者としてお用いになる。(コロサイ 1:18。マタイ 24:45-47; 28:18)霊感を受けた神の言葉に明示されている指示を祈りのうちに適用し,その指示を用いて,だれが奉仕の立場に就く資格を持つのかを決定するのは,奴隷級の義務となります。
キリストが用いることになっていた目に見える代理者は忠実で思慮深い奴隷である(そして,すでに考慮した現代の歴史上の事実によれば,その“奴隷”は法的機関として,ものみの塔協会を用いている)ため,「ものみの塔」誌は,神権的な手順を踏むには奉仕の立場への任命はこの代理者によって行なわれる必要がある,と説明しました。ちょうど1世紀の諸会衆がエルサレムの統治体を認めていたのと同様,今日の諸会衆も中央からの監督がなければ霊的に繁栄しないでしょう。―使徒 15:2-30; 16:4,5。
しかし,平衡の取れた見方ができるように,次の点が指摘されました。それは,「ものみの塔」誌が“協会(英語,The Society)”に言及する場合,その語は単なる法的機関ではなく,その法人団体を設立して用いている油そそがれたクリスチャンの一団を意味するという点です。ですから,“協会”という表現は,統治体を含む忠実で思慮深い奴隷を表わしました。
1938年に「組織」と題する「ものみの塔」誌の記事が出る前でさえ,ロンドン,ニューヨーク,シカゴ,ロサンゼルスの各会衆は,少人数のグループに分会したほうがよいほどの人数に達した時に,僕たち全員の任命を協会に依頼しました。そして,「ものみの塔」誌(英文),1938年6月15日号は他のすべての会衆に,同様の行動をとるよう勧めました。そのために,次のような決議が提案されました。
「我々,み名のために取り出された神の民の会は,今..............................において,……神の統治は純然たる神権政治であること,キリスト・イエスは神殿におられて,エホバの目に見える組織と目に見えない組織を全面的に託され,統御しておられること,および“協会”は地上における目に見える主の代表者であることを認める。それゆえ我々は,この会を奉仕のために組織し,この会の様々な僕たちを任命するよう“協会”に依頼する。それは,我々すべてが平和と義と調和と全き一致のうちに共に働くためである。我々はここに,より十分に円熟し,それゆえ奉仕のための各々の立場に就くに最もふさわしいと思われる,この会の人々の名簿を添付する」。l
エホバの証人のほとんどすべての会衆はすぐにこの取り決めに同意しました。ためらいを示した少数の人たちは,やがて王国をふれ告げる業に全くあずからなくなり,そのようにしてエホバの証人ではなくなりました。
神権的な指導の益
教え,行動の規準,組織や証言に関する手順などが土地ごとに決められるなら,組織がやがて同一性や一致を失ってしまうことは明らかです。兄弟たちは社会や文化や国の違いによって,たやすく分裂してしまうかもしれません。一方,神権的な指導が行なわれるなら,霊的な進歩によってもたらされる益は全世界の会衆すべてに滞りなく確実に浸透するでしょう。そのようにして,イエスがご自分の真の追随者たちの間に行き渡るようにと祈られた純粋な一致が存在するようになり,イエスの命じられた福音宣明の業が十分に成し遂げられるでしょう。―ヨハネ 17:20-22。
しかし一部には,J・F・ラザフォードはこの組織上の変更を推し進めることによって証人たちに対する支配を強めようとしているにすぎないとか,この手段を用いて自分自身の権威を主張しているなどと唱える人たちもいました。本当にそうだったのでしょうか。ラザフォード兄弟が強い信念の持ち主だったことに疑問の余地はありません。彼は,真理であると信じる事柄のためには,力強く,また妥協することなく率直に話しました。さらに,人々が主の業よりも自分自身を重視していることに気づくと,かなりぶっきらぼうに事態を扱うこともありました。しかし,ラザフォード兄弟は神のみ前で全く謙遜な人でした。それは,1974年に統治体の成員となったカール・クラインが後に次のように書いたとおりです。「朝の崇拝の際のラザフォード兄弟の祈りは,私が同兄弟を慕うようになった理由(となっています)。兄弟は非常に力強い声をしていたにもかかわらず,神に呼びかける際には,あたかも幼い男の子がお父さんに話しているかのような声で話しました。それはエホバとの優れた関係を明らかにするものでした」。ラザフォード兄弟は目に見えるエホバの組織の同一性に関して全き確信を抱いており,エホバがご自分の僕たちに与えておられる霊的な食物や導きから各地の兄弟たちが十分な益を得るのを,だれにも,またどんなグループにも絶対に妨げさせまいとしました。
ラザフォード兄弟は,ものみの塔協会の会長として25年間奉仕し,組織の業の前進のために全精力を傾けたとはいえ,エホバの証人の指導者ではありませんでしたし,指導者になりたいとも思いませんでした。同兄弟は,亡くなる少し前の1941年,ミズーリ州セントルイスの大会で,指導の問題について話し,こう述べました。「私は,人間が自分たちの指導者になることに関する皆さんの考えを,この場におられる外部の方々に知っていただきたいと思います。外部の方々に銘記していただくためです。事が生じて発展し始めると,その都度,大勢の支持者を有する指導者である人間がいると言われます。聴衆の中に,ここに立っているこの私がエホバの証人の指導者だと考えている方がおられるなら,“はい”と答えてください」。それに対して,聴衆は水を打ったように静まり返り,静けさを破るのは幾人かの聴衆の力のこもった否定の声だけでした。話し手が続けて,「ここにいる皆さんが,私は主の僕の一人にすぎず,私たちは神とキリストに仕え,一致のうちに肩を並べて働いていると信じておられるなら,“はい”と答えてください」と言うと,出席者は一斉に大声できっぱりと「はい!」と答えました。翌月,英国の聴衆も全く同じ反応を示しました。
地域によっては,神権組織の益をすぐに実感できました。他の地域ではもっと時間がかかり,円熟した謙遜な僕でなかった人々はやがて除かれて,他の人が任命されました。
それでも,神権的な手順が一層十分に確立されるにつれ,エホバの証人はイザヤ 60章17節に予告されていた事柄を経験して歓びました。その箇所でエホバは,神の僕たちの間に存在するようになる改善された状態を比喩的な言葉遣いで描写し,こう述べておられます。「わたしは銅の代わりに金を携え入れ,鉄の代わりに銀を,木の代わりに銅を,石の代わりに鉄を携え入れる。わたしは平和をあなたの監督たちとして任命し,義をあなたに労働を割り当てる者たちとして任命する」。ここに述べられているのは,人間が行なう事柄ではなく,むしろ,神ご自身が行なわれる事柄であり,それに服するときに神の僕たちが受ける益です。彼らの中には必ず平和が行き渡り,義に対する愛が,仕えるよう彼らを駆り立てる力となるに違いありません。
ブラジルの支部の監督の妻モード・ユーリがラザフォード兄弟に寄せた手紙には,こう書かれていました。「『塔』,[1938年]6月1日号と15日号の『組織』という記事を読んで,エホバに用いられて忠実に奉仕しておられる兄弟にどうしても一言エホバへの感謝をお伝えしたいと思いました。その二つの号の『ものみの塔』誌に概略が示されたとおり,エホバは目に見えるご自分の組織のためにすばらしい取り決めを設けてくださったからです。……“女権”とか,[エホバ神とイエス・キリストの代わりに]その地方特有の見解や個人的な判断を人に押し付けてエホバのみ名に非難をもたらす非聖書的な手順とかいうような,“井の中の蛙的な支配”が終わって,本当にほっとしています。確かに,『協会が組織内のすべての人を“僕”と呼ぶようになったのは最近』にすぎませんが,私は兄弟が,その前も長年にわたり,兄弟たちとの手紙のやり取りの中で,ご自分を『主の恩寵による,皆さんの兄弟また僕』と呼んでおられることを存じております」。
この組織上の調整に関して,英国諸島の支部はこう報告しました。「この調整は実に驚くべき良い成果を上げました。この調整に関するイザヤ 60章の詩的・預言的な描写は非常に美しいものですが,その描写は誇張ではありません。真理にいる人は皆,この調整について話しており,その話題で持ち切りでした。全般に活気に満ちた雰囲気,統制の取れた戦いを喜んで推し進めようとする態度が行き渡っていました。世界の緊張が高まる中で,神権支配には喜びが満ちていました」。
旅行する監督たちが諸会衆を強める
旅行する監督たちの奉仕の結果,組織上の結びつきは一層強化されました。1世紀に,使徒パウロは際立った仕方でそのような活動に携わりました。また,バルナバやテモテやテトスといった男子が加わることもありました。(使徒 15:36。フィリピ 2:19,20。テトス 1:4,5)彼らは皆,熱心な福音宣明者だっただけでなく,講話を行なって諸会衆を励ましました。諸会衆の一致に影響を及ぼしかねない論争が生じた時,それらの論争は中央の統治体に提出されました。そして,責任を委ねられた人々は「諸都市を回って旅行を続けながら,エルサレムにいる使徒や年長者たちの決めた定めを守り行なうようそこの人たちに伝え(ました)」。どんな結果になりましたか。「諸会衆は信仰において堅くされ,日ごとに人数を増して」ゆきました。―使徒 15:1–16:5。コリント第二 11:28。
既に1870年代には,ラッセル兄弟は聖書研究者のグループを ― 大きなグループだけでなく,二,三人のグループも ― 訪問し,霊的に築き上げていました。1880年代には,他の少数の兄弟たちが加わりました。その後,1894年に,真理に関する知識と認識の点で成長し,一層しっかり結び合わされるよう聖書研究者たちを援助するため,協会が十分資格のある講演者をもっと定期的に旅行させる取り決めが設けられました。
可能であれば,講演者は一つのグループと共に1日,時には数日を過ごしました。そして,一つか二つの公開講演を行なった後に,より少人数のグループや個人を訪問して,神の言葉のより深い事柄を幾つか討議しました。米国とカナダの各グループを年に2回訪問する努力が払われました。もっとも,同じ兄弟が訪問することはあまりありませんでした。これら旅行する講演者を選ぶに当たって重視されたのは,柔和さ,謙遜さ,真理に関する明確な理解,また真理に忠節に付き従う態度や真理を明快に教える能力でした。それは決して有給の宣教ではありませんでした。彼らは地元の兄弟たちから食物と宿舎だけを提供してもらい,必要に応じて協会から旅費の援助を受けました。彼らは巡礼者として知られるようになりました。
それら協会の旅行する代表者たちの多くは,彼らが仕えた人々から深く愛されました。カナダ人のA・H・マクミランは,神の言葉が「燃える火のように」なっていた兄弟として人々の記憶に残っています。(エレミヤ 20:9)まさしく彼は神の言葉について語らねばならず,実際にそうしました。カナダだけでなく米国の多くの場所や他の国々でも聴衆に話を行ないました。もう一人の巡礼者,ウィリアム・ハーシーは,若者に特別の気遣いを示したことで懐かしく思い出されます。彼の祈りも忘れ難い印象を残しました。老若を問わず人々の心を打つ深い霊性が表われていたからです。
初期の巡礼者にとって,旅行は楽なものではありませんでした。例えば,エドワード・ブレニセンは,オレゴン州クラマスフォールズの近くのグループで奉仕するため,まず列車を使い,次いで一晩じゅう乗り合い馬車に乗り,最後に,がたがた揺れる四輪馬車で,集会が行なわれている山の農場まで旅をしました。集会の翌日の朝早く,一人の兄弟が馬を用意してくれ,ブレニセンはその馬に乗って100㌔ほど離れた最寄りの鉄道の駅へ行き,次の訪問地まで旅行することができました。大変な生活でしたが,巡礼者たちの努力は大いに報われました。エホバの民は強められ,神の言葉の理解の点で一致し,地理的には広い範囲に散らばっていても,一層しっかり結び合わされました。
1926年,ラザフォード兄弟は,巡礼者の仕事を,単なる旅行する講演者としての仕事から,旅行しながら会衆の野外奉仕を監督・促進する者としての仕事に変更する取り決めを実施し始めました。彼らの新たな責任を強調するため,1928年,彼らは地区の奉仕の主事と呼ばれるようになりました。彼らは地元の兄弟たちと緊密に働き,野外奉仕において兄弟たちを個人的に教えました。当時,米国と他の幾つかの国の各会衆を年に一度ぐらい訪問できましたし,同時に,奉仕のためにまだ組織されていない個々の人や少人数のグループとも連絡を保っていました。
その後幾年もの間に,旅行する監督の仕事には様々な変更が加えられました。a 会衆の僕すべてが神権的に任命された1938年,旅行する監督の仕事は大幅に強化されました。それから数年間,一定の間隔を置いて行なわれた諸会衆への訪問は,任命された僕各人を個人的に訓練し,野外奉仕の面ですべての人に一層多くの援助を与える機会となりました。1942年,旅行する監督たちは再び諸会衆へ遣わされる前に集中的な授業を受けました。その結果,彼らの働きはさらに統一のとれたものとなりました。彼らの訪問は本当に短いもの(会衆の規模に応じて1日から3日)でした。訪問中,旅行する監督は会衆の記録類を調べ,すべての僕と会合して必要な助言を与え,会衆に話を行ない,野外奉仕に率先しました。1946年,訪問は延長され,一つの会衆につき1週間となりました。
諸会衆を訪問するこの取り決めを補うものとして,1938年,地区の僕の奉仕に新たな役割が与えられました。地区の僕はより広い場所を受け持つようになり,地帯(巡回区)を旅行して諸会衆を訪問している兄弟たち一人一人と共に定期的に1週間を過ごしました。訪問中,地区の僕は,その地帯の全会衆が出席する大会のプログラムを扱いました。b この取り決めは兄弟たちを大いに鼓舞するとともに,新たな弟子たちがバプテスマを受けるための定期的な機会を備えるものとなりました。
『奉仕を愛する人』
1936年からこの奉仕に加わった人々の中に,1974年に統治体の成員となったジョン・ブースがいます。ブースは,旅行する監督者になる見込みのある人として面接を受けた際,「必要とされているのは雄弁な話し手ではありません。奉仕を愛し,奉仕に率先し,集会で奉仕について話す人であればそれでよいのです」と言われました。ブース兄弟は,1928年以来熱心な開拓奉仕を行なってきたことから分かるとおり,エホバへの奉仕に対してそのような愛を抱いていました。そして,模範と励ましの言葉によって,他の人たちのうちに福音宣明に対する熱意をかき立てました。
1936年3月にブース兄弟が初めて訪問したのは,ペンシルバニア州イーストンの会衆でした。彼は後にこう書いています。「私は普通一つの場所に午前中の野外奉仕に間に合うよう到着し,晩の早い時間に会の僕たちと集まりを持ち,その後に会全体と別の集会を開きました。通常,一つの会と過ごすのは二日だけで,小さな群れとは1日しか一緒に過ごしませんでした。時にはそのような群れを1週間に六つ訪問することもありました。私は絶えず動いていました」。
2年後の1938年,ブース兄弟は地区の僕として地帯大会(現在は巡回大会と呼ばれている)を毎週扱う割り当てを受けました。幾つかの場所で迫害が厳しさを増していた時期に,地帯大会は兄弟たちを強めるのに役立ちました。ブース兄弟は当時のことや様々な責任を思い出しながら,こう述べました。「まさに[私がインディアナ州インディアナポリスで約60人のエホバの証人の関係する訴訟の証人となったのと]同じ週に,私はイリノイ州ジョリエットでの別の訴訟で被告になっており,インディアナ州マディソンでのもう一つの訴訟ではある兄弟の弁護人になっていました。それに加えて,毎週末には地帯大会の割り当てがありました」。
そのような地帯大会が(今度は巡回大会として)1946年に再開されてから2年後,ケアリー・バーバーは地域の僕の一人として割り当てを受けました。バーバーはそれ以前の25年間,ニューヨーク市ブルックリンのベテル家族の一員でした。彼の最初の地域区は米国の西部全域にわたっていました。初めは,大会から大会へ毎週1,600㌔ほど旅行しました。会衆の数と規模が大きくなるにつれ,旅行の距離は短くなり,一つの主要都市圏内で数多くの巡回大会が開かれることも少なくありませんでした。バーバー兄弟は旅行する監督として29年の経験を積んだ後,1977年に,統治体の成員として世界本部に戻るよう招待されました。
戦争と厳しい迫害の期間中,旅行する監督たちはしばしば自らの自由と命を危険にさらして兄弟たちの霊的な福祉を顧みました。ベルギーがナチ占領下にあった時期に,アンドレイ・ウォズニークは会衆を訪問し続け,会衆への文書の供給を手伝いました。ゲシュタポは何度もあと一歩のところまで迫りましたが,結局彼を捕まえることができませんでした。
ローデシア(今はジンバブエと呼ばれている)では,1970年代後半の内戦の期間中,人々はおびえながら生活し,旅行は縮小されました。しかし,エホバの証人の旅行する監督たちは愛ある羊飼いまた監督として,兄弟たちにとって『風からの隠れ場のように』なりました。(イザヤ 32:2)旅行する監督の中には,幾つもの山を越え,危険な川を渡り,野宿しながら荒れ地を何日も歩く人たちもいました。それはすべて,孤立した会衆や伝道者を訪問し,確固とした信仰を保ち続けるよう励ますためでした。アイザヤ・マコレもその一人です。彼は,政府軍兵士と“自由の闘士”の戦闘の際に,弾丸が頭の上を飛び交う状況のもとで,危うく難を逃れました。
長年のあいだ国際的に組織に仕えてきた旅行する監督たちもいます。ものみの塔協会の歴代の会長は,組織上の必要に注意を向け,大会で話を行なうために,しばしば他の国や地域へ旅行しました。そのような訪問は,あらゆる場所のエホバの証人が自分たちの国際的な兄弟関係を強く意識し続けるのに大いに役立ちました。ノア兄弟は特にこの活動を定期的に行ない,各支部や宣教者の家を訪問しました。組織が大きくなると,世界は10の国際的な地帯に分けられました。そして,この奉仕に定期的に注意を向けることができるよう,1956年1月1日から,資格ある兄弟たちが会長の指導のもとにこの奉仕を補佐し始めました。そうした地帯訪問は,今では統治体の奉仕委員会の指導のもとに行なわれ,引き続き組織全体の世界的な一致と前進に寄与しています。
そのほかにも幾つかの重要な進展が現在の組織の構造に寄与してきました。
さらに神権的に調整される
第二次世界大戦たけなわの1942年1月8日にジョセフ・F・ラザフォードは亡くなり,ネイサン・H・ノアがものみの塔協会の3代目の会長になりました。組織の活動に多くの国で禁令が課され,暴徒が愛国心を装って暴行を働き,証人たちが公の宣教で聖書文書を配布したかどで逮捕されたため,組織には重圧が加わりました。そうした危機的な時期に,管理責任者の交替によって業の速度は鈍るでしょうか。管理上の事柄を扱う兄弟たちは指導と祝福を求めてエホバに頼りました。彼らは神の導きを求める願いに調和して組織の構造自体を再吟味し,エホバの方法に一層厳密に合わせることのできる分野があるかどうかを調べました。
その後,1944年にペンシルバニア州ピッツバーグで,ものみの塔協会の年次総会に関連して奉仕大会が開かれました。9月30日,その年次総会に先立ち,エホバの僕たちの組織について聖書の述べている事柄を扱った一連の非常に重要な話が行なわれました。c 統治体に対して集中的に注意が向けられました。その際,忠実で思慮深い奴隷級が用いる代理機関すべてに神権的な原則を適用しなければならないという点が強調されました。また,“聖別された”神の民すべてがその法人団体の会員なのではないということが説明されました。その法人団体は神の民を代表し,神の民のために法的代理機関として活動しているにすぎないのです。しかし,協会は,霊的な啓発を含む文書をエホバの証人に供給するために用いられる広報代理機関であるため,論理的に言って,また必然的に,統治体はこの法律上の協会の役員や理事たちと密接に提携していました。協会の業務には神権的な原則が十分に適用されていたでしょうか。
協会の定款には出資者の取り決めが述べられており,それによると,総額10(米)㌦の寄付をした人には協会の理事・役員会の成員の選出に関する選挙権が与えられました。恐らく,そのような寄付は組織の業に対する純粋の関心の証拠であると考えられたのでしょう。しかし,この取り決めは問題を引き起こしました。協会の会長,ノア兄弟は,「協会の定款の規定によると,統治体の一員となることは法律上の協会への寄付に依存しているように思える。しかし,神のご意志によれば,神の選ばれたまことの民の間ではそうであってはならない」と説明しました。
協会の最初の32年間にわたって統治体の主要な成員だったチャールズ・テイズ・ラッセルが,資金面でも物質面でも精神面でも協会に最大の貢献をしたことは事実です。しかし,主がどのようにラッセルをお用いになるかを決定したのは金銭的な寄付ではありませんでした。彼が神の目から見てその奉仕にふさわしい者となったのは,彼の全き献身,不断の熱意,神の王国を支持する断固たる態度,破れることのない忠節と忠実のゆえでした。神権組織に関しては,「神は体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれた」という規範が当てはまります。(コリント第一 12:18)「しかし,協会の定款では,協会の業に資金面で寄付をした人に選挙権が与えられると規定されているため,この定款は統治体に関するこの神権的な原則をぼかしたり,犯したりしがちであった。さらに,その原則を危険にさらしたり,妨げとなるものを生んだりしがちであった」とノア兄弟は説明しました。
そのため,1944年10月2日,協会の出資選挙人の総会の席上,協会の定款を改正して神権的な原則に一層調和したものとすることが全員一致で可決されました。会員の人数はもはや無制限ではなく,300人ないし500人となり,その全員が理事会によって選ばれた男子です。会員は金銭面での寄付に基づいて選ばれるのではなく,組織の業において全時間奉仕する円熟した活発で忠実なエホバの証人,もしくはエホバの証人の会衆の活発な奉仕者であるがゆえに選ばれます。これらの会員は理事会の成員を選挙し,理事会は役員を選出します。これらの新しい取り決めは翌1945年10月1日に実施されました。このことは,敵意を抱く分子が法人団体を支配して自分たちの目的にかなうように作り直そうと度々業務上の事柄を操った時期に,大きな保護となりました。
神権的な原則に合わせる点でのこのような大きな前進がエホバの祝福を受けてきたことは明らかです。第二次世界大戦中,組織に極度の圧力が加えられたにもかかわらず,王国宣明者の数は増加し続けました。彼らはたゆみなく精力的に神の王国について証言し続けました。1939年から1946年までの間に,エホバの証人の隊伍は157%という驚異的な増加を見せ,彼らは新たに六つの国や地域に良いたよりを伝えました。その後の25年間に活発な証人の数はさらに800%近く増え,新たに86の国や地域での定期的な活動が報告されました。
監督たちのための特別な訓練
外部の人の中には,組織が大きくなると規準が緩むのは避け難いと考える人もいます。しかし,それとは対照的に,聖書はエホバの僕たちの間に義と平和が行き渡ることを予告していました。(イザヤ 60:17)そのためには,神の言葉について,また神の司法上の規準に関する明確な理解や,それらの規準の一貫した適用方法について,責任ある監督たちを注意深く継続的に教育することが必要です。そのような教育が施されてきました。神の義なる要求に関する徹底的な研究が「ものみの塔」誌に漸進的に掲載され,その資料が全世界のエホバの証人の各会衆で体系的に研究されてきました。しかし,それだけでなく,群れの監督たちには多くの増し加えられた教えが与えられてきました。
協会の支部の主立った監督たちは,国際大会の時に集められて特別な訓練を受けてきました。1961年から1965年にかけて,特別に企画された8か月ないし10か月にわたる学校の課程が,それらの監督たちのためにニューヨークで開かれました。1977年から1980年にかけては,彼らのために別の5週間の特別な一連の課程が設けられました。彼らの訓練には,聖書のすべての書を節ごとに研究することと,良いたよりの伝道を促進するための組織上の詳細な点と方法を考察することが含まれていました。エホバの証人の間にはいかなる国家主義的な分裂もありません。どこに住んでいようと,エホバの証人は聖書の同一の高い規準を固守し,同一の事柄を信じ,教えます。
巡回監督と地域監督にも特別な注意が向けられてきました。彼らの多くはものみの塔ギレアデ聖書学校またはその分校の生徒でした。さらに,彼らは定期的に協会の支部事務所か他の都合の良い場所に集まり,数日または1週間のセミナーに出席します。
1959年,別の際立った備えが実施されました。それは,巡回監督と地域監督,および会衆の監督たちが出席する王国宣教学校です。この学校は丸1か月間の学習課程として始まりました。この課程の教材は1年間米国で用いられた後,他の言語に翻訳され,次第に世界中で用いられるようになりました。監督たち全員が世俗の仕事を丸1か月間離れるよう調整できたわけではないので,1966年以降は,2週間の課程が用いられました。
この学校は,男子が叙任に備えて訓練を受ける神学校ではありませんでした。出席者は既に奉仕者として叙任されており,中には群れの監督また牧者として何十年ものあいだ働いてきた人も少なくありませんでした。学習課程は,彼らの仕事に関する神の言葉の指示を詳細に討議する機会となりました。野外宣教の重要性と,野外宣教を効果的に行なう方法が大いに強調されました。また,世の道徳規準が変化しているため,かなりの時間を割いて,聖書の道徳規準を擁護することに関する討議が行なわれました。この課程は,最近では,二,三年ごとのセミナーや,旅行する監督たちが地元の長老たちと毎年数回開く有用な集まりに引き継がれています。それらの会合は,目下の必要に特別な注意を向ける機会になります。また,聖書の規準から徐々に逸脱しないための保護になると同時に,すべての会衆において様々な状況を一貫した方法で扱うための助けとなっています。
エホバの証人は,コリント第一 1章10節にある次の訓戒を心に留めています。「兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」。これは強制された一致ではありません。むしろ,聖書に記されている神の方法でなされる教育の結果です。エホバの証人は神の方法と神の目的を楽しみとします。聖書の規準にしたがって生きることを楽しみとしなくなった人は,自由に組織を去ることができます。しかし,もしある人が他の信条を唱道したり,聖書の道徳を軽視したりし始めるなら,監督たちは群れを保護するために行動します。組織は,「あなた方が学んだ教えに逆らって分裂とつまずきのきっかけをもたらす人たちに目を留め,その人たちを避けなさい」という聖書の助言を適用します。―ローマ 16:17。コリント第一 5:9-13。
聖書は,神がご自分の僕たちの間にまさにそのような状態を存在させるということを予告していました。それは,義が行き渡り,平和な実を生み出す状態です。(イザヤ 32:1,2,17,18)そのような状態は,義にかなった事柄を愛する人々の心に強く訴えます。
古い体制が終わる前に,義を愛するそのような人々がどれほど大勢集められるのでしょうか。エホバの証人には分かりません。しかし,エホバはご自分の業に何が必要になるかをご存じであり,ご予定の時に,ご自分の方法で,ご自分の組織がその業を世話する備えをするよう取り計らわれます。
爆発的な増加に備える
“Aid to Bible Understanding”(「聖書理解の助け」)という参考書の準備のため,統治体の監督のもとに調査が行なわれた際,1世紀のクリスチャン会衆が組織された方法に再び注意が向けられました。「年長者」,「監督」,「奉仕者」といった聖書の用語に関して注意深い研究が行なわれました。導きとして聖書に保存されてきた型に,エホバの証人の現代の組織を一層十分に合わせることができるでしょうか。
エホバの僕たちは神の指導に服し続けることを決意していました。1971年に開かれた一連の大会で,初期クリスチャン会衆の管理上の取り決めに注意が向けられました。聖書で用いられる場合,プレスビュテロス(年長者,長老)という表現は年取った人々に限られるのでも,会衆内の霊的に円熟したすべての人に適用されるのでもない,という点が指摘されました。その表現は,特に公式の意味において,会衆の監督たちを指して用いられました。(使徒 11:30。テモテ第一 5:17。ペテロ第一 5:1-3)それらの監督たちは,霊感による聖書の一部となった要求に調和して,任命によりその立場を得ました。(使徒 14:23。テモテ第一 3:1-7。テトス 1:5-9)十分な数の資格ある男子がいる場合には,会衆には複数の長老がいました。(使徒 20:17。フィリピ 1:1)彼らは「年長者団」を構成し,その全員が同じ職務上の地位にあり,そのうちの一人が会衆内で最も目立った,もしくは最も有力な成員となることはありませんでした。(テモテ第一 4:14)そして,長老たちを補佐するため,使徒パウロが述べた要求と一致して,任命された「奉仕の僕たち」もいたことが説明されました。―テモテ第一 3:8-10,12,13。
組織をこの聖書的な型に一層厳密に合わせるため,直ちに幾つかの取り決めが実施されました。まず統治体そのものから始められました。ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の理事会の成員である7人がエホバの証人の一種の統治体として仕えてきたわけですが,統治体の成員の数はその7人を超えて増員されました。統治体の成員に定数は設けられませんでした。1971年には11人の成員がおり,数年間は18人,1992年には12人でした。その全員がイエス・キリストの共同相続人として神から油そそがれた男子です。1992年に統治体の成員として奉仕していた12人は,その時点で,エホバ神の奉仕者として合計728年余りの全時間奉仕の記録を持っていました。
1971年9月6日,統治体の会合の司会者の立場を成員の姓のアルファベット順で1年ごとに交替することが決定され,10月1日に実施されました。さらに統治体の成員は,本部の奉仕者のための朝の崇拝と「ものみの塔」研究の司会を1週間ごとに交替で行ないました。d この取り決めは,ニューヨーク市ブルックリンの協会の本部でフレデリック・W・フランズが朝の崇拝のプログラムを司会した1971年9月13日に実施されました。
翌年には,会衆の監督に関する調整のために準備が行なわれました。ただ一人の会衆の僕がいて,特定の人数の他の僕たちの援助を受けるということはなくなります。聖書的な資格のある男子は長老として仕えるよう任命されます。聖書の要求にかなう他の男子は奉仕の僕に任命されます。これにより,会衆の責任を共に担って貴重な経験を積む道がより大勢の人に開かれました。当時のエホバの証人は,その後21年間で会衆の数が156%増加し,1992年には合計6万9,558に達するなどとはだれ一人考えもしませんでした。しかし,会衆の頭である主イエス・キリストが,起こるはずの事柄に対して準備をしておられたのは明らかです。
1970年代の前半に,統治体のさらに進んだ再組織が注意深く考慮されました。1884年のものみの塔協会の法人化以来,印刷物の発行,世界的な福音宣明の業の監督,学校や大会の取り決めなどは,ものみの塔聖書冊子協会の会長事務所の指導のもとに扱われていました。しかし,何か月にもわたって詳細な点を注意深く分析・討議した末に,1975年12月4日,新しい取り決めが全員一致で採用されました。統治体の六つの委員会が設けられたのです。
司会者の委員会(統治体の現在の司会者,前任の司会者,次期の司会者から成る)は,重大な非常事態や災害や迫害の運動などに関する報告を受け,それらの問題が統治体によって速やかに扱われるよう取り計らいます。執筆委員会は,エホバの証人のため,また一般の人々に配布するために霊的な食物を文書やカセットテープやビデオの形にすることを監督するとともに,何百もの言語への翻訳の仕事を監督します。教育委員会の責任は,エホバの民のための様々な学校と,地域大会や国際大会を含む大会を監督すること,およびベテル家族の教育やそうした目的で用いられる資料の筋書きの作成を監督することです。奉仕委員会は,諸会衆や旅行する監督の活動を含む,福音宣明の業のあらゆる分野を監督します。文書の印刷や出版や発送,工場の運営,法律上および業務上の事柄の取り扱いは,すべて出版委員会によって監督されます。そして人事委員会は,ベテル家族の成員を身体的また霊的に支えるための取り決めを監督し,全世界のベテル家族の一員として奉仕するよう新しい成員を招く責任を負っています。
さらに,世界本部に付随した工場やベテル・ホームや農場を監督するため,助けとなる付加的な幾つかの委員会が割り当てを受けています。これらの委員会に関して,統治体は「大群衆」に属する人たちの才能を十分に活用しています。―啓示 7:9,15。
協会の支部の監督にも調整が加えられました。1976年2月1日から,各支部は,支部の必要と規模に応じて,3人以上で構成される委員会の監督を受けています。それらの委員会は統治体の指導のもとに働き,各地域での王国の業を世話します。
1992年,おもに大群衆に属する幾人かの援助者たちが,執筆,教育,奉仕,出版,人事の各委員会の集まりと仕事に参加するよう割り当てられ,統治体にさらに多くの援助が与えられるようになりました。e
この責任の分担は非常に有益であることが分かりました。既に会衆で行なわれていた調整とともに,この責任の分担は,キリストが会衆の頭であることに対する人々の認識を弱めかねない障害を除くのに役立ってきました。王国の業に影響を与える事柄について複数の兄弟が協議するのは非常に有利であることが明らかになりました。さらに,まさに爆発的な規模で組織が拡大した時期に監督が緊急に必要とされた地域は少なくありませんが,この再組織によって,それらの地域で必要な監督を行なえるようになりました。ずっと昔に,エホバは預言者イザヤを通して,「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」と予告されました。(イザヤ 60:22)エホバは速やかにそれを行なってこられただけでなく,目に見えるご自分の組織がそれを世話できるよう,必要な導きを与えてこられました。
エホバの証人の当面の関心事は,この古い世の終わりの時代に行なうよう神から与えられた業であり,彼らはそれを成し遂げるためによく組織されています。エホバの証人は,この組織が人間のものではなく神のものであり,神ご自身のみ子イエス・キリストによって導かれていることの紛れもない証拠を目にしています。イエスは,支配する王として,近づく大患難の間ご自分の忠実な臣民を保護され,来たるべき千年期には,神のご意志を成し遂げるため,彼らが必ず効果的に組織されるようになさるでしょう。
[脚注]
a 1894年,ラッセル兄弟はシオンのものみの塔冊子協会が資格ある兄弟たちを講演者として派遣するよう取り決めました。それらの兄弟たちには,各地のグループに自己紹介する際に用いるよう,署名入りの証明書が与えられました。その証明書は,説教する権威を与えるものでも,所持者の語る事柄を神の言葉の光に照らしてふさわしく吟味することなく受け入れるべきだという意味のものでもありませんでした。しかし,一部の人がその証明書の目的を取り違えたため,1年たたないうちにラッセル兄弟はその証明書を回収しました。彼は,他の人たちから見て,たとえ外見であっても僧職者階級と受け取られる恐れのあるものを注意深く避けようとしました。
b 「シオンのものみの塔」誌,1881年10-11月号,8,9ページ。
c 地元のグループは,「ジェームズ王欽定訳」で用いられている言葉に合わせて“教会”と呼ばれることがありました。また,ギリシャ語聖書本文で用いられている語に合わせてエクレシアと呼ばれることもありました。同様に,“クラス”という表現も用いられました。実のところ,各々のグループは学ぶために定期的に集まっている研究者たちの一団だったからです。後には会(英語,company[中隊という意味もある])と呼ばれるようになりましたが,それは霊的な戦いを行なっているという自覚を表わすものでした。(欽定訳の詩編 68編11節の欄外をご覧ください。)1950年に(英文で)「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発行されると,ほとんどの国で“会衆”という現代的な聖書用語が普通に用いられるようになりました。
d ギリシャ語聖書本文で用いられている語(ケイロトネオー)は,字義どおりには「手を伸ばす,差し出す,挙げる」を意味し,また広義には「挙手によって,ある職に選出する,または選ぶ」を意味する場合もあります。―「新約聖書希英辞典」,ジョン・パークハースト,1845年,673ページ。
e 詳しくは25章,「公にも家から家にも宣べ伝える」をご覧ください。
f 1919年以降,会衆つまりクラスと交わる人々の野外奉仕は,奉仕の主事を通して毎週協会へ報告されることになりました。
g “Organization Method”(「組織の方法」)という二つ折りの印刷物に略述されているように,各会衆は主事の補佐と在庫係を選出することになっており,彼らは協会が任命した主事と共に地元の奉仕委員会を構成しました。
h 「ものみの塔」誌(英文),1920年7月1日号,195-200ページ。
i 当時の奉仕委員会の成員は多くて10人でした。そのうちの一人は奉仕の主事であり,地元で選出されるのではなく,協会によって任命されました。他の成員は,証言活動を取り決めて実行するために奉仕の主事と共に働きました。
j 1932年以降,幾年かの間,これらの者たちはヨナダブ級と呼ばれていました。
k ギリシャ語動詞ケイロトネオーには『手を差し出して選出する』という意味しかないと定義するなら,この語の後代の意味を無視していることになります。そのため,ジョーンズとマッケンジーが編集して1968年に復刻されたリデルとスコットの「希英辞典」は,この語の意味をこう定義しています。「集まりにおいて,選挙を行なうために手を差し出す。…… II. 人称対格を伴って,正式に挙手によって選出する。…… b. 後には一般に,任命する,……教会内の職[プレスビュテルース]に任命する,使徒 14:23」。その後代の用法は使徒たちの時代に広く見られました。1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは「ユダヤ古代誌」,第6巻,4章2節と13章9節で,この語をその後代の意味で用いています。原語のギリシャ語における使徒 14章23節の文法構造自体,その箇所で述べられている事柄を行なったのはパウロとバルナバであることを示しています。
l 同1938年の後半に,4ページの印刷物として発行された“Organization Instructions”(「組織の指示」)によってさらに詳細な点が示され,地元の会衆は,会衆を代表して行動する委員会を任命すべきである,と説明されました。その委員会は聖書に書かれている資格に照らして兄弟たちを吟味し,協会に推薦することになりました。協会の旅行する代表者は会衆を訪問する時に,地元の兄弟たちの資格や,割り当てを果たす点での彼らの忠実さを再吟味しました。協会は任命を行なう際に,旅行する代表者からの推薦も考慮に入れました。
a 協会が派遣した旅行する講演者は,1894年から1927年までの間,最初は塔冊子協会の代表者,後には巡礼者として知られました。1928年から1936年までの間は,野外奉仕が一層強調されるようになったので,地区の奉仕の主事と呼ばれ,1936年7月以降は,地元の兄弟たちとのふさわしい関係を強調するため,地区の僕として知られるようになりました。1938年から1941年までの間は,地帯の僕が,限られた数の会衆を順に回って共に働くよう割り当てを受け,一定の間隔を置いて同じグループを再び訪問しました。約1年間の中断の後,この奉仕は1942年に“兄弟たちの僕”によって再開されました。1948年には巡回の僕という言葉が用いられるようになり,今では巡回監督と呼ばれています。
1938年から1941年までの間,地区の僕には定期的に各地の大会で奉仕するという新たな役割がありました。それらの大会には,限られた場所(地帯)の証人たちが特別なプログラムのために集まりました。この仕事は1946年に再開されましたが,その際,それら旅行する監督たちは地域の僕として知られるようになり,今では地域監督と呼ばれています。
b この取り決めは1938年10月1日に実施されました。戦時中,大会を取り決めることが次第に困難になったため,地帯大会は1941年の末に一時中断されました。しかし,この取り決めは1946年に再開され,幾つもの会衆が特別な教えを受けるために共に集まる機会は巡回大会と呼ばれました。
c これらの話の内容は,「ものみの塔」誌(英文),1944年10月15日号と11月1日号に掲載されています。
d 後に統治体は,これらの割り当てを共に扱うようベテル家族の他の成員を選びました。
[204ページの拡大文]
彼らの中には僧職者階級の占める場はない
[205ページの拡大文]
「地的な組織」を作ろうとしているのではない
[206ページの拡大文]
長老たちはどのように選ばれたか
[212ページの拡大文]
主事は協会によって任命された
[213ページの拡大文]
ある長老たちは会衆外で宣べ伝えることを望まなかった
[214ページの拡大文]
人数は少なくなったが,組織は強められた
[218ページの拡大文]
任命はどのように行なわれるべきだったか
[220ページの拡大文]
ラザフォードは支配を強めようとしているにすぎなかったか
[222ページの拡大文]
大きなグループだけでなく,二,三人のグループとも連絡を保つ
[223ページの拡大文]
旅行する監督たちの新たな責任
[234ページの拡大文]
司会者が交替する,増員された統治体
[235ページの拡大文]
爆発的な増加の時期における必要な監督
[207ページの囲み記事]
なぜ変更が加えられたのか
C・T・ラッセルは,主の民の様々なグループの長老の選出に関する見解に変更を加えたことについて質問を受けた際,こう答えました。
「まず第一に,私は決して不謬性を主張しなかったと断言できる。……我々は知識において成長することを否定するものではなく,主の民の様々な小さなグループの長老または指導者に関する主のご意志を,今では少し異なった光に照らして見ていることも否定しない。我々が犯した判断上の誤りは,早い時期に真理に入り,自然にそれら小さな会の指導者となった親愛なる兄弟たちに期待をかけ過ぎたことである。愚かにも我々は彼らに関して理想的な見方を抱き,真理の知識は彼らを謙遜にさせる上で非常に大きな影響を及ぼし,自分が取るに足りない者であることを彼らに認識させるだろうと考えたり,彼らが何を知っていようと,何を他の人に話すことができようと,それは神の代弁者としてでのことであり,神が彼らを用いておられるからであると考えたりしていた。我々は理想として,それらの人たちはまさに言葉どおりの意味で群れの模範となるだろうと期待し,真理を伝える面で同等,あるいはより優れた能力を持つ一人もしくは複数の人を小さな会に導き入れるのは主の摂理であり,彼らは愛の精神に導かれ,敬意を込めて互いを尊び,キリストの体である教会の奉仕にあずかるよう助け合い,勧め合うだろうと考えていた。
「我々はそのことを念頭に置き,聖別された主の民が今この時にふさわしい一層大きな恩寵と真理を味わっているゆえに,彼らが初期教会の使徒たちの略述した方法に従う必要はないと結論した。我々が犯した過ちは,神の監督のもとに使徒たちが略述した取り決めは他の者が設け得るいかなる取り決めよりも優れていること,また我々すべてが復活の際に変えられて完璧かつ完全になり,主人と直接交わるようになるまで,教会全体には使徒たちの定めた規定が必要であることを理解していなかった点にある。
「親愛なる兄弟たちの間に多少の競争の精神が見られ,奉仕ではなく職として集会の指導者の立場を占めたがる人や,生来の能力が同等で,真理の知識や霊の剣を用いる能力の点でも同等な他の兄弟たちを疎外して指導者としての成長を妨げたがる人が少なくないことを目にするにつれ,我々の過ちは徐々に明らかになった」―「シオンのものみの塔」誌,1906年3月15日号,90ページ。
[208,209ページの囲み記事/図版]
100年ほど前に協会がピッツバーグとその周辺で用いた施設
このバイブル・ハウスは1890年から1909年までの19年間,本部として使用されたf
ラッセル兄弟はここで研究を行なった
1902年に奉仕していたバイブル・ハウスの家族の成員
建物の中には,このような植字組版部門(右上),発送部門(右下),文書倉庫,奉仕者たちの住まい,約300人収容のチャペル(集会場)があった
[脚注]
f 1879年,本部はペンシルバニア州ピッツバーグの5番街101番にありました。1884年に事務所はアレゲーニー(ピッツバーグの北側)のフェデラル通り44番に移転し,同年さらにフェデラル通り40番に移りました。(1887年,住所はロビンソン通り151番と改称されました。)1889年に建物が手狭になると,ラッセル兄弟はアレゲーニーのアーチ通り56-60番に,左の写真のバイブル・ハウスを建てました。(番地は後にアーチ通り610-614番と変更されました。)1918年から1919年にかけて,短い間でしたが,主要な事務所はピッツバーグに戻り,フェデラル通り119番の建物の3階に置かれました。
[211ページの囲み記事]
だれの業か
チャールズ・テイズ・ラッセルは,地上での生活が終わりに近づいたころ,こう書きました。「神の民は,主の業の先頭に立っておられるのが主ご自身であることを忘れてしまうことがあまりに多い。業を行なうのは我々であり,神には我々の業において共に働いていただく,と考えることが多いのである。この点について正しい見方を持ち,重要な業を意図し遂行しておられるのは神であることや,業は我々や我々の努力とは全くかかわりなく成功を収めること,また造り主と共に働き,その方の計画や構想や取り決めをその方の方法で遂行するのは神の民に与えられた大きな特権であることを認めようではないか。このような観点から物事を見るなら,我々はいかなる割り当てにも満足し,主のご意志を知りかつ行なうことを念頭に置いて祈り,見張るはずである。我々を導いておられるのは神だからである。これが,ものみの塔聖書冊子協会が遵守しようと努めてきた綱領である」―「ものみの塔」誌(英文),1915年5月1日号。
[215ページの囲み記事/図版]
V.D.M.質問集
V.D.M.という文字は「ベルビ・デイ・ミニステル」というラテン語を表わしており,“神の言葉の奉仕者”を意味します。
1916年,協会は聖書的な事柄に関する質問集を用意しました。講演者として協会を代表することになる人々は,それぞれの質問に対して答えを記入するよう求められました。そうすることにより,協会は,聖書の基本的な真理に関するそれらの兄弟たちの考えや意見や理解を知ることができました。記入された答えは,協会の事務所の試験委員会が入念に調べました。講演者としての資格があると認められるためには,正解率が85%以上でなければなりませんでした。
その後,長老や執事や他の聖書研究者たちの多くが,自分たちもその質問集を入手できるかどうか問い合わせてきました。やがて,クラスが自分たちの代表者としてV.D.M.の資格を持つ人だけを選出するのは有益であることが示されました。
協会から“神の言葉の奉仕者”の資格を与えられても,その人は叙任されたわけではありませんでした。協会の事務所の試験委員会がその人の教理面での進歩を吟味し,またその人の評判もある程度吟味して,“神の言葉の奉仕者”と呼ばれるにふさわしい人であると結論したというだけのことでした。
V.D.M.質問集は以下の通りです。
(1)神の最初の創造の業は何か。
(2)神のみ子に関して用いられる場合,“ロゴス”という語は何を意味するか。父および子という語は何を表わしているか。
(3)いつ,またどのように罪は世に入ったか。
(4)罪人に科される,罪に対する神の刑罰は何か。罪人とはだれのことか。
(5)“ロゴス”が肉体にならねばならなかったのはなぜか。“ロゴス”は“化肉”したのか。
(6)人間キリスト・イエスには,幼い時から死に至るまでどんな性質があったか。
(7)復活後のイエスにはどんな性質があるか。イエスは公的にはエホバとどのような関係にあるか。
(8)この福音時代 ― ペンテコステの時から現在までの期間 ― におけるイエスの仕事は何か。
(9)人類の世のために,エホバ神はこれまで何を行なってこられたか。イエスは何を行なってこられたか。
(10)完成時の教会に関する神の目的は何か。
(11)人類の世に関する神の目的は何か。
(12)最終的に矯正不能な者たちはどんな結末を迎えるか。
(13)メシアの王国に従順であることによって人類の世にもたらされる報い,もしくは祝福とは何か。
(14)罪人はどんな段階を踏むことによって,キリストおよび天の父との,命にかかわる関係に入ることができるか。
(15)神の言葉が示すところによると,クリスチャンは聖霊によって生み出された後,どんな歩みをするか。
(16)あなたは生ける神に仕えるため,罪から転向したか。
(17)あなたは自分の命とすべての力や才能を,主と主への奉仕のために全く聖別したか。
(18)あなたはその聖別の象徴として,水の浸礼を受けたか。
(19)あなたは命の神聖さに関するI.B.S.A.[国際聖書研究者協会]の誓いを行なったか。
(20)あなたは6巻から成る「聖書研究」を徹底的に注意深く読み終えたか。
(21)あなたはそれらの本から多くの啓発と益を得たか。
(22)あなたは,残りの人生の間中あなたをより有能な主の僕とする,実質的かつ永続的な聖書の知識を有していると信じているか。
[216,217ページの囲み記事/図版]
初期の時代にブルックリンで用いられた建物
ベテル・ホーム
コロンビア・ハイツ122-124番
ベテル・ホームの食堂
タバナクル
ここヒックス通り17番には,事務所,文書倉庫,郵送部門,植字設備,800席の講堂があった(1909年から1918年まで用いられた)
講堂
初期の工場
1920年にマートル街の工場で働いていたベテル家族の成員(右)
マートル街35番(1920-1922年)
コンコード通り18番(1922-1927年)
アダムズ通り117番(1927年-)
[224,225ページの囲み記事/図版]
旅行する監督たちこれまでに奉仕した大勢の人々の一部
カナダ,1905-1933年
英国,1920-1932年
フィンランド,1921-1926年,1947-1970年
米国,1907-1915年
会衆から会衆へ旅行する ―
グリーンランド
ベネズエラ
レソト
メキシコ
ペルー
シエラレオネ
ナミビアでの移動式宿舎
日本で地元の証人たちと共に野外奉仕に参加する
ドイツで地元の長老たちとの集まりを持つ
ハワイで開拓者たちに実際的な助言を与える
フランスで会衆を教える
[229ページの囲み記事/図版]
初期の法人団体
シオンのものみの塔冊子協会。1881年に設立された後,1884年12月15日にペンシルバニア州で法人化された。1896年,名称をものみの塔聖書冊子協会(Watch Tower Bible and Tract Society)に変更した。1955年以降は,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会と呼ばれている。
一般人の説教壇協会。1909年,協会の主要な事務所がニューヨーク市ブルックリンへ移転したことに伴って設立された。1939年,名称をものみの塔聖書冊子協会(Watchtower Bible and Tract Society, Inc.)に変更した。1956年以降は,ニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会と呼ばれている。
国際聖書研究者協会。1914年6月30日,英国ロンドンで法人化された。
法律上の要求に応じるため,エホバの証人は多くの地域社会や国で他の法人団体を設立してきました。しかし,エホバの証人は国家的あるいは地域的な組織に分割されることはありません。証人たちは一致した世界的な兄弟関係を保っています。
[234ページの囲み記事]
『原始キリスト教の共同体のように』
1956年7月,宗教刊行物「インタープリテーション」はこう述べました。「彼ら[エホバの証人]は,その組織と証言活動の面で,他のどんなグループよりも原始キリスト教の共同体に近似している。……口頭で述べる場合であれ文字を用いる場合であれ,彼らほど音信の中で広範に聖書を用いるグループはほとんどない」。
[210ページの図版]
一層綿密に監督するため,支部事務所が開設された。最初の支部事務所は英国ロンドンのこの建物の中にあった
[221ページの図版]
1941年のJ・F・ラザフォード。証人たちは彼が自分たちの指導者ではないことを知っていた
[226ページの図版]
1936年から1941年にかけて,米国の旅行する監督だったジョン・ブース
[227ページの図版]
ケアリー・バーバー。彼の地域区は米国の広大な部分を含んでいた
[228ページの図版]
ノア兄弟は各支部や宣教者の家を定期的に訪問した
[230ページの図版]
協会の支部の主立った監督たちは集められて特別な訓練を受けてきた(ニューヨーク,1958年)
[231ページの図版]
王国宣教学校は全世界の監督たちに貴重な教育を与えてきた
1978年,タイの難民キャンプでの王国宣教学校と,1966年,フィリピンでの王国宣教学校(左上)
[232ページの図版]
証人たちの活動を調整し,宣教の助けとなる備えについて証人たちすべてに知らせるため,組織上の指示が(まず英語で,後に他の言語で)漸進的に発表されてきた
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集会 ― 崇拝と教えと励ましの場エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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16章
集会 ― 崇拝と教えと励ましの場
会衆の集会はエホバの証人の活動の重要な部分を占めています。集まることが非常に困難な場合でも,エホバの証人は次の聖書の勧めと調和して定期的に集会に出席するよう努力します。「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,ある人々が習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)可能であれば,各会衆は週に3回集会を開き,合計4時間45分をそのために費やします。とはいえ,集会の特徴や回数はその時々の必要に応じて変化してきました。
1世紀には,霊の奇跡的な賜物の表明がクリスチャンの集会の際立った特色となっていました。なぜでしょうか。なぜなら,神はそのような賜物によって,ご自分がもはやユダヤ教の宗教体制を用いておらず,今や新たに形成されたクリスチャン会衆の上にご自分の霊があるという事実を証しされたからです。(使徒 2:1-21。ヘブライ 2:2-4)初期クリスチャンの集会では祈りがささげられ,神への賛美が歌われ,預言すること(すなわち神のご意志と目的の啓示を伝えること),および聞く人を築き上げる教えを分け与えることが重視されました。それらのクリスチャンは神の目的に関して驚くべき進展が生じる時代に生活していました。彼らには,そうした進展を理解し,そうした進展と調和して働く方法を知る必要がありました。しかし,集会での物事の扱い方に平衡を欠く人たちがいたため,聖書が示すとおり,物事を最も有益な仕方で行なうために助言が必要でした。―コリント第一 14:1-40。
それら初期クリスチャンの集会の特徴は,1870年代以降に聖書研究者たちが集まり合った際にも明らかだったでしょうか。
初期の聖書研究者たちの霊的な必要を満たす
チャールズ・テイズ・ラッセルと,ペンシルバニア州アレゲーニーやその近辺に住む仲間たちの小さなグループは,1870年に聖書研究のクラスを作りました。彼らは集会によって神と神の言葉に対する愛を次第に成長させ,聖書そのものが教えている事柄を徐々に知るようになりました。そうした集会では奇跡的に異言を話すことはありませんでした。なぜでしょうか。そのような奇跡的な賜物は1世紀にその目的を果たし,聖書の予告どおり,すでにやんでいたからです。ラッセル兄弟は,「発展の次の段階は,聖パウロが極めて明確に指摘しているとおり,霊の実を表わすことであった」と説明しました。(コリント第一 13:4-10)さらに,1世紀と同様,なすべき緊急な福音宣明の業があり,彼らはそのために励ましを必要としていました。(ヘブライ 10:24,25)ほどなく,彼らは毎週定期的に二つの集会を開くようになりました。
ラッセル兄弟は,世界中のどこに散在していようともエホバの僕たちが一致した民になるのは重要であるということを悟りました。それで,「ものみの塔」誌の発行が始まった直後の1879年,同誌の読者は,ラッセル兄弟かその仲間の一人による訪問を依頼するよう促されました。条件として,「無料,お金は集めない」と明確に述べられていました。ある程度の数の依頼が届くと,ラッセル兄弟はマサチューセッツ州のリンまで1か月をかけて旅行し,立ち寄ったそれぞれの場所で一日に4時間ないし6時間の集会を開きました。その特色となったテーマは「神の王国に関する事柄」でした。
1881年の初めにラッセル兄弟は,地元で定期的な集会をまだ開いていなかった「ものみの塔」誌の読者にこう勧めました。「あなた自身の家族と一緒に,あるいは関心を持つかもしれない幾人かの人も加えて,自宅で集会を開く習慣を定着させなさい。共に読み,研究し,賛美し,崇拝しなさい。そうすれば,主の名によって二,三人が集まるところに,あなた方の教え手である主もあなた方の中におられるだろう。使徒時代の教会の集会の幾つかにはそのような特徴があった。(フィレモン 2節を参照)」。
集会のプログラムは次第に進歩してゆきました。提案が与えられましたが,それぞれの状況に応じて何が最善かを決定することは地元の各グループに任されました。一人の話し手が話をすることもありましたが,だれでも自由に参加できる集会のほうが重視されました。当初,聖書研究者の一部のクラスは集会で協会の出版物をあまり活用していませんでしたが,活用することの価値に気づくよう,旅行する奉仕者であった巡礼者たちが彼らを援助しました。
「千年期黎明」の幾つかの巻が発行された後,研究の基礎としてそれらが用いられるようになりました。1895年,そうした研究グループは“聖書研究のための黎明会”a として知られるようになりました。ノルウェーの幾つかのグループは後にそれを「朗読と談話の集会」と呼び,「ラッセル兄弟の著書の抜粋が朗読され,注解や質問のある人がいれば手を挙げました」と付け加えました。ラッセル兄弟は,そうした研究の際に参加者が様々な聖書翻訳,聖書の欄外参照資料,聖書語句索引を活用するよう勧めました。研究はたいてい適当な人数のグループとして,個人の家で,グループにとって都合の良い晩に開かれました。この集会は現在の会衆の書籍研究の前身となりました。
ラッセル兄弟は,教理的な事柄を研究するだけでは不十分であることに気づきました。神の愛に対する感謝によって,また神に誉れを帰し,仕えたいという願いによって人々の心が動かされるよう,専心の念を表明することも必要でした。そのための特別な集会を週に1度取り決めることがクラスに対して勧められました。その集会は個人の家で開かれたので,“家庭集会”と呼ばれることがありました。プログラムには祈り,賛美の歌,出席者が語る証言が含まれていました。b そうした証言として,最近直面した試練や困難や難問題などを含む,励みとなる経験が語られることもありました。場所によっては自己が過度に重視されたため,この集会は目的からかなりかけ離れたものとなりました。改善するための親切な提案が「ものみの塔」誌に載せられました。
米国の初期の巡礼者の妻であるイーディス・ブレニセンは,この集会のことを回顧してこう語りました。「それは,エホバの愛ある世話を思い巡らしたり,兄弟姉妹と親しく交わったりするための晩でした。私たちは兄弟姉妹の経験を聴いて,彼らを一層よく知るようになりました。兄弟姉妹の忠実さを観察し,彼らがどのように困難を克服したかを知ることは,しばしば自分自身の難問題の幾つかを解決する助けとなりました」。しかし,やがて,福音宣明の業にあずかるよう各人を備えさせるための集会のほうが有益であることが明らかになりました。
ある場所の兄弟たちは日曜日の集会の扱い方に関心を抱いていました。聖書を節ごとに討議しようとしたクラスもありました。しかし,時々意味に関する意見の相違が生じ,決して築き上げるものとはなりませんでした。このような状況を改善するため,カリフォルニア州ロサンゼルスの会衆のある人たちが題目別聖書研究のための筋書きを作りました。その筋書きには,クラスの全員が集会に来る前に調べておくべき質問と参照資料が付いていました。1902年に協会は,題目索引を含む「ベレア人聖書研究手引き」を載せた聖書を発行しました。c 簡素化を進めるため,1905年3月1日号以降の「ものみの塔」誌には会衆で討議するための筋書きが掲載され,それには質問のほかに,調査用として聖書と協会の出版物の参照資料が付いていました。それは1914年まで続き,その年までに,“ベレア人研究”の基礎として用いるため「聖書研究」各巻の研究用の質問集が発行されました。
すべてのクラスは同じ資料を用いることができました。しかし,毎週の集会の数は地元の取り決めに応じて,一つないし四つ以上と様々でした。セイロン(現在のスリランカ)のコロンボでは,1914年以降,集会が実際には週に七日開かれていました。
聖書研究者たちは,調査を行なったり,「すべての事を試し」たり,考えを自分の言葉で表現したりすることを学ぶよう励まされました。(テサロニケ第一 5:21,欽定)ラッセル兄弟は研究資料を十分かつ自由に討議するよう励ましました。それと同時に注意も与え,「聖書が我々の規準であること,そして神が与えてくださった助けがどんなものであろうとも,それは『助け』であり,聖書に代わるものではないということを決して忘れてはならない」と述べました。
主の死の記念式
1876年ごろから毎年,聖書研究者たちは主の死の記念式の取り決めを設けていました。d 当初,ペンシルバニア州ピッツバーグとその近辺のグループは友のうちの一人の家に集まりました。1883年には,そこでの出席者は100人ほどに増えており,借用した会館が用いられました。1905年には,ピッツバーグで予想される大勢の聴衆を収容するため,兄弟たちは広いカーネギー・ホールを確保して使用することにしました。
聖書研究者たちは,この記念式は年に1度の祝いであり,毎週行なうべきものではないということを理解しました。彼らがこの祝いを行なった日付は,イエスが亡くなった日であるユダヤ暦のニサン14日に対応していました。年月の経過と共に,その日の算定方法には幾つかの改善が加えられました。e しかし,主要な関心事となっていたのはその祝い自体の意義でした。
聖書研究者たちはこの記念式のために多くの場所で大小様々なグループとして集まりましたが,ピッツバーグの兄弟たちに加わることのできる人はだれでも歓迎されました。1886年から1893年までの間,「ものみの塔」誌の読者は可能であればピッツバーグに来るようにという特別の招待を受け,実際に米国とカナダの各地からやって来ました。それにより,彼らは記念式を共に祝うことができただけでなく,霊的な一致という結びつきを固めるよう助けられました。しかし,米国でも世界の他の場所でもクラスの数が増えると,1か所で集まろうとすることはもはや実際的ではなくなり,自宅周辺の仲間の信者たちと集まるほうがより多くの益が得られる,ということが明らかになりました。
「ものみの塔」誌が指摘したとおり,贖いを信じていると唱える人は大勢おり,それらの人のだれ一人として年に一度の記念式への出席を断わられることはありませんでした。しかし,その行事には,キリストの「小さな群れ」に本当に属する人々にとって特別な意義がありました。その人々は天の王国にあずかる人たちです。キリストは死の前の晩にこの記念式を制定された際,まさにそのような希望を差し伸べられていた人たちに対して,「わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われたのです。―ルカ 12:32; 22:19,20,28-30。
特に1930年代以降,ほかの羊の「大いなる群衆」つまり「大群衆」の一人となる見込みを持つ人々が現われ始めました。(啓示 7:9,10,欽定。ヨハネ 10:16)当時それらの人々はヨナダブ級と呼ばれていました。「ものみの塔」誌は1938年2月15日号で初めて,記念式に出席するようそれらの人々を特に招待し,「4月15日午後6時以降,油そそがれた者の各会は集まって記念式を祝い,仲間であるヨナダブ級も出席するように」と述べました。ヨナダブ級は,あずかる者としてではなく見守る者として確かに出席しました。彼らが出席するようになったため,キリストの死の記念式の際の出席者数が増加し始めました。1938年,出席者数は合計7万3,420人でしたが,表象物であるパンとぶどう酒にあずかった人は3万9,225人でした。その後,見守る者として出席する人たちに,新しく関心を持った人々や,まだ活発なエホバの証人となっていない人々も大勢加わるようになりました。そのため1992年には,野外宣教に参加した人の最高数は447万2,787人でしたが,記念式の出席者数は1,143万1,171人,表象物にあずかった人の数はわずか8,683人でした。出席者数が活発な証人の数の五,六倍に達した国や地域もあります。
エホバの証人はキリストの死の意義を非常に重要なものとみなしているので,非常に困難な状況に直面している時でも記念式を祝います。1970年代,ローデシア(現在はジンバブエと呼ばれる)では戦時の夜間外出禁止令のため,日が暮れてから外出はできませんでした。その時でも,ある地域の兄弟たちは昼の間に一人のエホバの証人の家に全員集まり,晩になってから記念式を祝いました。言うまでもなく,集会が終わってから家に帰ることはできなかったので,一晩中そこにとどまりました。集会後の晩の時間は王国の歌を歌ったり経験を語ったりすることに用い,さらに多くのさわやかさを得ました。
第二次世界大戦中の強制収容所では,番兵に見つかると厳罰に処される恐れがあったにもかかわらず,記念式が祝われました。ハロルド・キングは,クリスチャンの信仰のゆえに1958年から1963年にかけて中国の刑務所で孤立していた時,その状況下での最善の方法で記念式を祝いました。後に彼は,「刑務所の窓から,春の初め近くに月が満ちてゆくのを眺め,できる限り注意深く祝いの日付を計算しました」と述べています。彼は有り合わせの物で必要な表象物を準備しました。クロフサスグリでぶどう酒のようなものを少し造り,パンとして,パン種の入っていない米を用いたのです。そして,さらにこう述べています。「エホバの民のどの会衆でも行なわれているとおりに,歌を歌い,祈りをささげ,正規の記念式の話を行ないました。それで私は,自分が毎年この最も重要な時に世界中の兄弟たちと結ばれていると感じました」。
若者たちが占める場所
初期には,聖書研究者の出版物や集会は特に若い人向けのものではありませんでした。若い人々は集会に出席することができましたし,実際に出席して熱心に耳を傾ける若者もいました。しかし,行なわれている事柄に若い人々を加わらせるための特別な努力は払われていませんでした。それはなぜだったのでしょうか。
当時,兄弟たちは,キリストの花嫁の全成員が天的な栄光のうちにキリストと結ばれるまでにごく短い時間しか残されていないと理解していました。1883年,「ものみの塔」誌はこう説明しました。「高き召しのために訓練を受けている我々は,この時代の特別な業,つまり『子羊の妻である花嫁』を整える業からわきにそれるわけにはゆかない。花嫁は支度を整えなければならない。そして,まさに今,婚礼に先だって仕上げの飾りが付けられつつある時にあって,この最も重要な現在の業におけるすべての成員の奉仕が求められている」。
親たちは,自分の子供に霊的な教育を施すという神から与えられた責任を担うよう強く促されました。若者たちのための別個の日曜学校は奨励されませんでした。キリスト教世界で用いられている日曜学校が多くの害をもたらしてきたことは明らかでした。子供をそのような学校に通わせている親はたいてい,その取り決めのおかげで自分の子供に宗教教育を施す責任から解放されると考えました。子供たちはというと,神に関する教育の主要な源である親に頼っていなかったため,示すべき敬意や従順を親に示すための動機づけを得ませんでした。
しかし,1892年から1927年にかけて「ものみの塔」誌は誌面を割き,当時多くのプロテスタント教会に普及していた「国際日曜学校教課」に取り上げられている聖句に関する注解を載せました。長年の間それらの聖句を選んでいたのは,F・N・パルベという組合教会の牧師とその助手たちでした。「ものみの塔」誌はキリスト教世界の信条に影響されることなく,聖書に関する聖書研究者の進んだ理解という観点からそれらの聖句を論じました。そのようにして「ものみの塔」誌が幾つかの教会に持ち込まれて真理が示され,教会員の一部が真理を受け入れるのではないか,と期待されました。当然ながら違いは明らかで,これはプロテスタントの僧職者を怒らせる結果になりました。
1918年になり,残りの者,つまり油そそがれた者の残っている者たちは依然として地上にいました。集会に出席する子供の数も非常に増えていました。親たちが学んでいる間,子供たちはただ遊ぶにまかされることが少なくありませんでした。しかし,若い人々も「主の怒りの日に隠され」たいなら,「義を求め,柔和を求め(る)」ことを学ばなければなりませんでした。(ゼパニヤ 2:3,欽定)それで,1918年に協会は,8歳から15歳までの子供を対象とする児童クラスを設けるよう諸会衆に勧めました。場所によっては,幼くて児童クラスに出席できない子供たちのため,初歩クラスさえ設けられました。同時に,子供に対する親の責任が再び強調されました。
これを契機に,ほかにも事態の進展が見られました。1920年に「黄金時代」誌は「児童聖書研究」と題する特集記事を掲載しました。それには質問があり,答えを含んでいる聖句も引照されていました。同じ年に,“The Golden Age ABC”(「黄金時代ABC」)が発行されました。それはさし絵付きの小冊子で,親が子供に聖書の基本的な真理とクリスチャンの特質を教える際に用いるためのものでした。その後1924年に,W・E・バン・アンバーグが書いた“The Way to Paradise”(「パラダイスへの道」)と題する本が発行されました。それは「中級の聖書研究者たち」に適した本で,しばらくの間,集会で若い人たちのために用いられました。それに加えて米国では,“年少の証人たち”が野外奉仕のための自分たちの取り決めを持っていました。スイスでは,若者たちのグループが,13歳から25歳までの若者を対象とした“エホバの若者”と呼ばれる会を作りました。彼らはベルンに自分たちの事務所を持ち,「エホバの若者」という特別な雑誌を編集し,ベルンの協会の印刷機で印刷しました。この若者たちは自分たちの集会を開くだけでなく聖書劇も上演し,チューリッヒのフォルクスハウスでは1,500人の観衆の前で聖書劇を上演しました。
しかしこれは,エホバの僕たちの組織の中にもう一つの組織ができつつあるということでした。それは一致に寄与するものとはならないので,1936年に廃止されました。1938年4月,協会の会長J・F・ラザフォードはオーストラリアを訪問中に,大人向けの大会とは別に子供向けのクラスが開かれていることに気づきました。ラザフォードは直ちに子供たち全員を本大会に連れて来る取り決めを設けました。それは子供たちに大きな益を与えました。
同じ年,「ものみの塔」誌は会衆内の若い人々のための別個のクラスに関する事柄全体を再び取り上げました。その研究では,自分の子供を教える責任は親にあるという事実が再び強調されました。(エフェソス 6:4。申命記 4:9,10; エレミヤ 35:6-10と比較してください。)また,年少者のクラスを用いて若い人たちを別扱いする前例は聖書中にはないという点も説明されました。むしろ,若い人たちは神の言葉を聞くために親と共にいるべきでした。(申命記 31:12,13。ヨシュア 8:34,35)研究資料に関してもっと説明する必要がある場合には,親が家庭で説明できました。さらにその記事は,そうした別個のクラスの取り決めが実際には家から家の良いたよりの伝道にとってマイナスとなっていることを指摘しました。どうしてそう言えるのでしょうか。教え手たちがそれらのクラスの準備と司会のために野外奉仕に参加していなかったからです。それで,若者のための別個のクラスはすべて廃止されました。
まさに現在に至るまで,エホバの証人の間では,家族全員が一緒に会衆の集会に出席することが習慣となっています。子供たちがふさわしい仕方で参加できるよう,親は子供の準備を手伝います。さらに,親が家庭で若い人々に教える際に用いるための優れた出版物が次々と備えられてきました。その中には,1941年発行の「子供たち」,1971年(英文)発行の「偉大な教え手に聞き従う」,1976年発行の「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」,1978年発行の「わたしの聖書物語の本」,1989年発行の「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」があります。
活発な福音宣明者になるようすべての人を備えさせる
「ものみの塔」誌の創刊以来,同誌の読者は,神の目的に関する良いたよりをふれ告げるという真のクリスチャンすべての特権と責任を定期的に思い起こさせられてきました。会衆の集会は,エホバに対する彼らの愛と神の目的に関する彼らの知識を強化することによって,この活動のために彼らの心と思いが整えられるよう,助けてきました。しかし,とりわけ1922年のオハイオ州シーダーポイントでの大会の後,野外奉仕の面で成し遂げられている事柄と野外奉仕に効果的にあずかる方法が,以前よりもずっと強調されるようになりました。
野外奉仕に直接関連した情報を載せた“Bulletin”(「会報」)f という二つ折りの印刷物には,当時“勧誘”と呼ばれた短い証言が掲載されており,それを暗記して,人々に証言する際に用いることになっていました。1923年にはほとんどの月の初めに,王国を宣伝する一致した努力を鼓舞するため,水曜の晩の“祈りと賛美と証言の集会”の半分が野外奉仕に関する証言のために取り分けられました。
遅くとも1926年には,野外奉仕について討議する月ごとの集会は“働き人の集会”と呼ばれていました。野外奉仕に実際に参加している人たちは大抵その集会に出席していました。その集会では,他の人に証言するのに用いられている方法について討議し,今後の活動計画を立てました。1928年までには,協会はそのような集会を毎週行なうよう諸会衆に勧めていました。さらに4年たつと,諸会衆は“証言(もしくは宣言)の集会”の代わりに,奉仕会と呼ばれるようになっていた集会を行ない始めており,協会はすべての人の出席を励ましました。この週ごとの集会は60年以上にわたって諸会衆で開かれてきました。話,聴衆の参加を交えた討議,実演,インタビューなどによって,クリスチャン宣教のあらゆる面に関して明確な助けが与えられています。
この種の集会は,決して20世紀に始まったものではありません。イエスご自身,伝道するよう弟子たちを遣わす前に,彼らに詳細な指示をお与えになりました。(マタイ 10:5-11:1。ルカ 10:1-16)後に弟子たちは集まり合い,宣教に携わって経験した事柄を語ることにより,互いを築き上げました。―使徒 4:21-31; 15:3。
公に話すことの訓練は,初めのうち会衆の定期的な集会では行なわれていませんでした。しかし,遅くとも1916年までには,自分に公の話し手としての能力が幾らかあると思う人たちは自分たちでクラスを開くように,という提案が与えられました。そのクラスには恐らく一人の長老が調整者として出席して彼らの話を聞き,話の内容や話し方を改善するための助言を与えることになります。会衆の男子だけが出席するそうした集まりは,後に“預言者たちの学校”として知られるようになりました。グラント・スーターは当時の様子を振り返り,「その学校で私が受けた建設的な批評は,私が話をしようとするのを聞くためにその授業の一部に出た父から個人的に与えられたものに比べれば,何でもありませんでした」と述懐しています。進歩しようと努めている人々を助けるため,兄弟たちは話の指導書と様々な話の筋書きを個人的に編集・印刷しました。しかし,やがてこの“預言者たちの学校”は中止されました。当時の特別な必要にこたえるため,家から家の福音宣明の業に十分あずかれるよう会衆の全成員を備えさせることに対して,集中的に注意が向けられていたのです。
この拡大する国際的な組織の各成員に,短い証言をしたり聖書文書を提供したりするだけでなく,効果的に話したり神の言葉の教え手となったりする備えをさせることは可能だったのでしょうか。それこそ,1943年以降エホバの証人の各会衆に設けられた特別な学校の目的でした。その学校は1942年2月から既にエホバの証人の世界本部で実施されていました。毎週教育が行なわれ,研究生は話をし,その話に関して助言を受けました。初めのうち,この学校では男子だけが話を行ないましたが,会衆全体が出席や教課の予習や復習への参加を励まされました。1959年には姉妹たちも名簿に載せられる特権を得て,一対一で聖書の論題を話し合う訓練を受けるようになりました。
この学校の成果に関して,ものみの塔協会の南アフリカ支部はこう報告しました。「自分は公の話し手には決してなれないと考えていた大勢の兄弟たちが演壇上で非常に有能な者となり,野外でいっそう効果的な者となるよう助ける点で,この大変優れた取り決めは短期間に成功を収めました。南アフリカのどこにおいても,兄弟たちはこの新しいエホバの備えを歓迎し,熱意を込めて実施しました。言語の大きな障害があり,満足な教育を受けていない人がいるにもかかわらず,そのような反応が見られました」。
神権宣教学校は今でもエホバの証人の会衆において重要な集会となっています。可能な人はほとんどみな名簿に載せられ,年齢を問わず,新しい証人も多くの経験を積んだ証人も参加しています。この学校は継続的な教育プログラムです。
見たり聞いたりするよう一般の人々が招かれる
エホバの証人は決して秘密結社ではありません。聖書に基づく彼らの信条は,だれでも入手できる出版物の中で十分に説明されています。さらに,エホバの証人は特別な努力を払って,集会に出席し,行なわれている事柄を直接見たり聞いたりするよう一般の人々を招いています。
イエス・キリストは弟子たちを個人的に教えるだけでなく,海辺や山腹,会堂やエルサレムの神殿域など,群衆が聞くことのできる場所で公に話を行なわれました。(マタイ 5:1,2; 13:1-9。ヨハネ 18:20)聖書研究者たちはそれに倣い,早くも1870年代には,関心を持つかもしれない友人や近所の人などが人類に対する神の目的に関する話を聞ける集会を取り決め始めていました。
そうした話を一般の人々にとって都合の良い場所で行なうために特別な努力が払われました。その活動はクラス拡張の業と呼ばれました。1911年,能力のある話し手が十分いる会衆に対しては,幾人かの話し手を周辺の町や村に遣わして公会堂で集会を開く取り決めを設けるようにという勧めがなされました。可能な場合には,一連の六つの話が取り決められました。最後の話の後,話し手は,聴衆の中の何人が定期的に集まろうと思うほど聖書研究に関心を持っているか尋ねました。最初の年にそのような話が3,000回以上行なわれました。
さらに1914年からは,「創造の写真劇」が公開されました。兄弟たちは料金を取りませんでした。それ以来,ほかにも映画やスライドが用いられてきました。1920年代以降,ものみの塔協会はラジオを広範に用い,人々が自宅で聖書の話を聞けるようにしました。次いで1930年代には,J・F・ラザフォードの講演が録音され,数多くの公の集まりで流されました。
1945年までには,神権宣教学校で訓練を受けた公の話し手が大勢いました。その年の1月,十分調整された公開集会の運動が始まりました。協会は時宜にかなった一連の八つの話の筋書きを準備し,宣伝のためにビラや,時にはポスターも用いられました。兄弟たちは会衆の通常の集会場所を用いるだけでなく,会衆のない区域でもこの公開集会を取り決めるため特別な努力を払いました。集会を宣伝したり,自ら集会を支持したり,初めて来た人々を歓迎し,彼らの質問に答えたりすることによって,会衆のすべての人が協力できました。この特別な活動の最初の年に,米国で1万8,646の公開集会が開かれ,合計91万7,352人が出席しました。翌年,公開集会の数は米国一帯で2万8,703に増加しました。またカナダでは,1945年にそうした集会が2,552取り決められ,翌年にはそれが4,645になりました。
現在,エホバの証人の大多数の会衆では,公開集会は毎週の集会の正規の予定の一部となっています。この集会は話の形式で行なわれ,すべての人は話の間,主要な聖句が読まれ論じられる際にその聖句を開くよう勧められています。この集会は,会衆にとっても新しい人々にとっても,豊かな霊的な教訓の源です。
エホバの証人の集会に初めて出席した人々はたいてい喜ばしい驚きを感じます。ジンバブエのある著名な政治家は,何が行なわれているのかを知ろうとして王国会館へ行きました。彼は暴力的な性格の人で,わざとひげを剃らず髪の毛をぼさぼさにして出かけました。証人たちに追い払われるだろうと考えていたのに,純粋の関心を示され,家庭聖書研究をするよう勧められました。今ではこの人は謙遜で穏やかなクリスチャン証人となっています。
エホバの証人の集会に出席して,「神はほんとうにあなた方の中におられる」と言うよう心を動かされた人は幾百万人もいます。―コリント第一 14:25。
集まるのにふさわしい場所
イエス・キリストの使徒たちの時代には,クリスチャンはたいてい個人の家で集会を開きました。場所によっては,ユダヤ人の会堂で話を行なうこともできました。エフェソスでは使徒パウロが,ある学校の講堂で2年にわたって講話を行ないました。(使徒 19:8-10。コリント第一 16:19。フィレモン 1,2)同様に,19世紀後半に聖書研究者たちは個人の家で集まり,時には教会の礼拝堂で話を行ない,借用可能な他の会館も用いました。少数ながら,以前に他の宗教団体が使用していた建物を後に購入して定期的に用いた場合もありました。ブルックリン・タバナクルやロンドン・タバナクルがそうでした。
とはいえ,聖書研究者たちは集会のために装飾を凝らした建物を必要としてはおらず,求めてもいませんでした。幾つかの会衆はふさわしい建物を購入して改装しましたし,新しい会館を建設した会衆もありました。1935年以降,このような会衆の集会の場所を指して王国会館という名称が徐々に用いられるようになりました。王国会館はたいてい魅力的な外観を備えてはいるものの,けばけばしくはありません。場所によって建築様式は様々ですが,建物は実用的であることを目的としています。
統一のとれた教育プログラム
19世紀後半と20世紀前半における霊的な成長と活動は,会衆によってかなり異なっていました。諸会衆は特定の共通した基本的信条を持っており,それによってキリスト教世界から分けられていました。しかし,ご自分の民を養うためのエホバの手段を深く認識している兄弟たちがいる一方,物事に関して個人的な強い見解を持つ人々の意見に左右されやすい兄弟たちもいました。
イエスは亡くなる前に,ご自分の追随者が ― 神およびキリストと,また互い同士で一致して ―『みな一つになる』ようにと祈られました。(ヨハネ 17:20,21)それは強いられた一致となるのではなく,感受性のある心から反応を引き出す統一のとれた教育プログラムの結果として生じることになっていました。ずっと昔に,「あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう」と予告されていたとおりです。(イザヤ 54:13)その平和を十分に享受するため,エホバがご自分の目に見える伝達の経路を通して備えておられる漸進的な教育から益を得る機会がすべての人に必要でした。
長年の間,聖書研究者は討議の基礎として,聖書と共に「聖書研究」の様々な巻を用いていました。その各巻には,まさに『時に応じた[霊的な]食物』が含まれていました。(マタイ 24:45)しかし,神の霊の導きのもとに引き続き聖書を調べた結果,学ぶべき事柄がもっとあり,エホバの僕たちが依然として霊的な清めをかなり必要としていることが明らかになりました。(マラキ 3:1-3。イザヤ 6:1-8)さらに,1914年に王国が立てられた後,数多くの預言が矢継ぎ早に成就しており,それらの預言は真のクリスチャンすべてが携わるべき緊急な業を指し示していました。こうした時宜にかなった聖書的な情報は「ものみの塔」誌の誌面を通して定期的に提供されました。
協会の旅行する代表者の中には,会衆内のすべての人がそうした記事から益を得ているわけではないということに気づいた人もおり,週ごとの定期的な集会で「ものみの塔」誌を会衆全体で研究することを本部事務所に推薦しました。その推薦は諸会衆に伝えられ,「ものみの塔」誌の主要な記事の研究の際に用いる「ベレア人質問集」が1922年5月15日号から定期的に掲載されるようになりました。大抵の会衆ではそうした研究が毎週1回以上行なわれましたが,雑誌の内容をどの程度まで本当に研究するかはまちまちでした。場所によっては,司会者がたくさん話したため,この研究に2時間以上かかりました。
しかし,1930年代,神権組織が民主的な手順に取って代わりました。そのことは「ものみの塔」g 研究に対する見方に大きな影響を与えました。協会によって準備された研究資料の内容を理解することに一層の注意が向けられるようになりました。集会を個人的な見解を述べる場として用いていた人々や,野外宣教にあずかる責任を受け入れない人々は次第に去って行きました。辛抱強い援助を受けて,兄弟たちは研究を1時間にとどめる方法を学びました。その結果,参加が増え,集会はさらに活気づきました。また,神の言葉を真理に関する規準とする,統一のとれた霊的な養育計画に基づき,真の一致の精神が諸会衆に行き渡るようになりました。
1938年には,「ものみの塔」誌は約20の言語で発行されていました。どの記事もまず英語で出され,他の言語で読むには,翻訳と印刷に要する時間のため,たいてい数か月,時には1年もかかりました。しかし,印刷方法の変更に伴い,1980年代に「ものみの塔」誌が多くの言語で同時発行されるようになりました。1992年までには,66の言語のいずれかを理解できる諸会衆が同じ資料を同時に研究できるようになりました。こうして,全世界のエホバの証人の大部分は同一の霊的な食物に毎週あずかっています。南北アメリカ全体やヨーロッパのほぼ全域で,また東洋の幾つかの国や地域,アフリカの多くの場所,全世界のたくさんの島々で,エホバの民は同時になされる霊的な養育の取り決めを享受しています。それとともに,彼らは「同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれて」います。―コリント第一 1:10。
会衆の集会の出席者数は,エホバの証人が集会を真剣に受け止めていることを示しています。イタリアでは,1989年に17万2,000人ほどの活発な証人たちがいましたが,王国会館での集会の毎週の出席者数は22万458人でした。それとは対照的に,カトリックの通信社が伝えるところによると,イタリア人の80%がカトリック教徒だと自称しているにもかかわらず,多少なりとも定期的に教会の礼拝に出席している人は約30%にすぎません。比率の面から見ると,ブラジルの状況も同様です。デンマークでは,国教会は1989年の時点で人口の89.7%が国教会会員であると唱えましたが,1週間に1度教会へ行く人はわずか2%でした。デンマークのエホバの証人の場合,当時の毎週の出席者数は94.7%に達しました。ドイツでは,1989年にアーレンスバッハ世論研究所が行なった世論調査によると,ドイツ連邦共和国のルーテル派信者の5%とカトリック教徒の25%が教会に通っていました。それに対して,エホバの証人の王国会館では毎週の出席者数が証人たちの数を超えていました。
出席者の中には,出席するために大きな努力を払う人も少なくありません。1980年代に,ケニアの70歳の婦人はいつも10㌔歩き,川を渡って毎週集会に通っていました。米国に住む韓国人のある女性の証人は母国語の集会に出席するため,いつもバスと列車と船と徒歩で片道3時間の道を通いました。スリナムでは,収入の少ない一家族が集会へ行くために毎週のバス代に丸一日分の賃金を費やしました。アルゼンチンのある家族は聖書研究の集会に出席するため,50㌔の道のりを,家族の収入の4分の1を費やして通いました。病気のため会衆の集会に全く出席できない人たちがいる場合には,たいていその人たちのために,電話回線で集会の様子が伝わるように,あるいはプログラムの録音テープを聞けるように取り決めが設けられます。
エホバの証人は,霊的に築き上げるために集まり合うことをやめてはならないという聖書の諭しを真剣に受け止めています。(ヘブライ 10:24,25)そして,彼らが出席するのは地元の会衆の集会だけではありません。大会に出席することも彼らの毎年の行事予定の重要な部分となっています。
[脚注]
b この集会はその内容から,“祈りと賛美と証言の集会”とも呼ばれました。やがて祈りの重要性を考慮して,3か月に1度この集会を単なる祈りの会とし,賛美は歌うものの経験は語らないようにすることが勧められました。
c 1907年,このベレア人研究手引きは改訂され,大幅に増補されると共に,最新の内容となりました。1908年版には約300ページの有用な資料が付け加えられました。
d この記念式は,対型的な過ぎ越しと呼ばれることもありました。それはすなわち,過ぎ越しの子羊によって予表され,それゆえにコリント第一 5章7節で「わたしたちの過ぎ越しであるキリスト」と呼ばれているイエス・キリストの死の記念式です。また,コリント第一 11章20節(欽定)に合わせて,主の晩餐とも呼ばれました。また,“年ごとの記念の晩餐”と呼んで,年に1度の記念式であるという事実に注意を引くこともありました。
e 「ものみの塔」誌(英文),1891年3月号,33,34ページ; 1907年3月15日号,88ページ; 1935年2月1日号,46ページ; 1948年2月1日号,41-43ページと比較してください。
f 1900年より前でさえ,聖書文書頒布者<コルポーター>という特別の奉仕に携わっていた人々には“Suggestive Hints to Colporteurs”(「聖書文書頒布者の心得」)と題するパンフレットが送られていました。1919年からは「会報」が発行され,最初は「黄金時代」誌の配布の面で,後には福音宣明の様々な活動すべてに関して野外奉仕を鼓舞しました。
g 「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」という名称は,1909年1月1日に「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者(The Watch Tower and Herald of Christ's Presence)」と変更されました。そして,1931年10月15日付で「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者(The Watchtower and Herald of Christ's Presence)」となりました。
[237ページの拡大文]
個々の人の参加が求められる集会
[238ページの拡大文]
単なる精神的な哲学ではなく,心を動かす表明
[246ページの拡大文]
家族全員が一緒に集会に出席するよう励まされている
[252ページの拡大文]
霊的な養育計画を統一する
[253ページの拡大文]
証人たちは集会を真剣に受け止めている
[239ページの囲み記事/図版]
初期の会衆
1916年までには,世界中に1,200ほどの聖書研究者のグループがあった
南アフリカのダーバン,1915年(右上)。英領ギアナ(ガイアナ),1915年(右中)。ノルウェーのトロンヘイム,1915年(右下)。カナダのオンタリオ州ハミルトン,1912年(一番下)。セイロン(スリランカ),1915年(左下)。インド,1915年(左上)
[240,241ページの囲み記事/図版]
歌でエホバを賛美する
古代イスラエル人やイエスご自身と同様,現在のエホバの証人も崇拝に歌を用います。(ネヘミヤ 12:46。マルコ 14:26)そのように歌うことは,エホバへの賛美とエホバの業に対する感謝の表明であると同時に,聖書の真理を思いと心に印象づけるための助けともなってきました。
長年にわたってエホバの証人は多くの歌集を用いてきました。歌詞は神の言葉の漸進的な理解に合わせて新しくされてきました。
1879年: “Songs of the Bride”(「花嫁の歌」)
(キリストの花嫁の願いと希望を表現した144の賛美の歌)
1890年: “Poems and Hymns of Millennial Dawn”(「千年期黎明の詩と賛美歌」)
(楽譜なしで発行された,151の詩と333の賛美の歌。大半は有名な作家たちの作品)
1896年: 「ものみの塔」誌,2月1日号に,“Zion's Glad Songs of the Morning”(「シオンの朝の喜びの歌」)が載せられた
(楽譜付きの11の歌の歌詞。聖書研究者が作詞)
1900年: “Zion's Glad Songs”(「シオンの喜びの歌」)
(82の歌。その多くは一人の聖書研究者によって作られた。それ以前の歌集に追加されたもの)
1905年: “Hymns of the Millennial Dawn”(「千年期黎明の賛美歌」)
(1890年に発行された333の歌に楽譜を付けたもの)
1925年: “Kingdom Hymns”(「御国の賛美歌」)
(楽譜付きの80の歌。特に子供向け)
1928年: “Songs of Praise to Jehovah”(「エホバにささげる賛美の歌」)
(337の歌。聖書研究者が作った新しい歌と以前からある賛美の歌を合わせたもの。歌詞の面で,偽りの宗教の考えや被造物崇拝から離れるよう特別な努力が払われた)
1944年: “Kingdom Service Song Book”(「王国奉仕の歌の本」)
(62の歌。当時の王国奉仕の必要に合わせたもの。作詞者や作曲者の名前は公表されなかった)
1950年(英文発行): 「エホバに賛美の歌」
(91の歌。この歌の本では,主題がさらに最新のものとなり,古風な言葉遣いが除かれた。18の言語に翻訳された)
1966年(英文発行): 『心の調べに合わせて歌う』
(クリスチャンの生活と崇拝のあらゆる面を扱った119の歌。この世や偽りの宗教に由来することが分かっている曲は削除された。本全体のオーケストラ演奏が録音され,会衆の集会で伴奏として広く用いられた。その一部が声楽版として抜粋され,録音された。1980年以降,築き上げる音楽を個人的に家庭で楽しめるよう,オーケストラ用に編曲された「王国の調べ」のテープが製作された)
1984年: 「エホバに向かって賛美を歌う」
(225の王国の歌。歌詞と曲はすべて,世界中の献身したエホバの僕たちによって作られた。歌う際の伴奏としてレコードとカセットテープが製作された)
初期の“家庭集会”で,聖書研究者は賛美の歌を歌いました。やがて歌うことは大会の一つの特色ともなりました。バイブル・ハウスで長年行なわれていたのと同じように,朝食前に朝の崇拝と関連して賛美の歌を一曲歌う人たちもいました。地元の会衆で歌うことは1938年ごろにほとんど中止されましたが,1944年に再開され,それ以来ずっとエホバの証人の会衆の集会と大会プログラムの重要な特色となっています。
[図版]
1947年の大会のオーケストラを指揮するカール・クライン
[242ページのグラフ]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
キリストの死の記念式
活発な証人
出席者
11,000,000
10,000,000
9,000,000
8,000,000
7,000,000
6,000,000
5,000,000
4,000,000
3,000,000
2,000,000
1,000,000
1935 1945 1955 1965 1975 1985 1992
[243ページの図版]
ハロルド・キングは中国の刑務所で孤立していたにもかかわらず,記念式を祝うことをやめなかった
[244ページの図版]
1930年代初めのドイツの児童聖書クラス
[244ページの図版]
スイスでは1930年代半ばに,証人の若者たちがこの雑誌(下)を発行し,大勢の観衆の前で(中央下に示されているような)聖書劇を上演した
[247ページの図版]
「会報」(1919-1935年),“Director”(「奉仕の指示」)(1935-1936年),「通知」(1936-1956年),そして現在では100の言語の「わたしたちの王国宣教」 ― これらすべてはエホバの証人の一致した野外宣教のために定期的な指示を与えてきた
[248ページの図版]
奉仕会での実演は,証人たちが自分の野外宣教を改善するための助けとなっている(スウェーデン)
[249ページの図版]
ケニアの幼い証人が,神権宣教学校で自分の父親を相手に話をして経験を積んでいる
[250ページの図版]
1992年の時点で,エホバの証人の諸会衆で用いられる聖書研究の資料は66の言語で同時発行されており,その言語の数は増え続けている
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大会 ― わたしたちの兄弟関係の証拠エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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17章
大会 ― わたしたちの兄弟関係の証拠
大会はエホバの証人の現代の組織の正式な特色となっています。しかし,エホバの崇拝者たちの全国的な集まりや国際的な集まりは,20世紀よりずっと前にも開かれていました。
エホバは古代イスラエルの男子すべてに対して,毎年3回の季節的な祭りのためエルサレムに集まるようお命じになりました。男たちの中には,家族全員を連れて来る人もいました。事実,モーセの律法は家族の全成員が,男も,女も,幼い者も,特定の機会にその場にいることを求めていました。(出エジプト記 23:14-17。申命記 31:10-13。ルカ 2:41-43)当初,出席したのはイスラエルの境界内に住む人々でした。後にユダヤ人が広い範囲に散らされるようになると,たくさんの国から出席者たちがやって来ました。(使徒 2:1,5-11)彼らが集まり合おうとしたのは,単にイスラエルとアブラハムという先祖を持っていたからだけでなく,エホバを偉大な天の父と認めていたからでした。(イザヤ 63:16)こうした祭りは楽しい機会となっただけでなく,神の言葉を思いに留めるよう,また,より重要な霊的な物事をなおざりにするほど日常の事柄に没頭することがないよう,出席者すべてを助けるものとなりました。
同様に,現代のエホバの証人の大会も霊的な関心事を中心にしています。外部の誠実な人々にとって,そうした大会は証人たちがクリスチャンの兄弟関係という強いきずなで結ばれていることの紛れもない証拠となります。
聖書研究者の初期の大会
様々な都市や国から来た聖書研究者たちが集まるための取り決めは徐々に進展しました。伝統的な教会の諸宗派とは異なり,聖書研究者は大会のおかげで,他の場所の仲間の信者たちとすぐに知り合いになりました。初めのうち,そうした大会は,年ごとの主の死の記念式に関連して,ペンシルバニア州アレゲーニーで開かれました。1891年には,「聖書研究と主の記念の晩餐の祝いのための大会」が開かれるという特別な通知がなされました。翌年の「ものみの塔」誌には,「信者たちの大会,ペンシルバニア州アレゲーニーにて,……1892年4月7日から14日まで」という大見出しが載せられました。
そうした初期の大会には一般の人たちは招待されませんでした。しかし,1892年には,贖いに対する信仰と主の業に対する誠実な関心があることを証明した400人ほどの人たちが出席しました。プログラムのうち五日間は集中的な聖書研究が行なわれ,もう二日間は聖書文書頒布者<コルポーター>に役立つ助言が与えられました。
そうした集まりの一つに初めて出席したある人はこう言いました。「大会に出たことは何度もありますが,このような大会は初めてです。ここでは,家の中でも,通りでも,集会でも,昼食のときでも,どこに行っても,起きてから寝るまでずっと,神のご意志とご計画だけが話題になっています」。出席者が示す精神について,米国ウィスコンシン州から来たある人は,「常に示される愛や,兄弟としての親切の精神に深い感銘を受けました」と述べました。
1893年,年ごとの大会の取り決めに変更が加えられました。その夏のコロンビアン博覧会に伴う有利な鉄道運賃を利用するため,聖書研究者は8月20日から24日にかけてイリノイ州シカゴに集まりました。これはピッツバーグ地域以外では初めての大会でした。とはいえ,時間と資金を主の業のために最善の仕方で活用することを考慮し,それから数年間,全体大会は開かれませんでした。
その後,1898年から,様々な場所の聖書研究者がそれぞれの土地で率先して,限られた地域の人々が出席する大会を取り決めるようになりました。1900年には,協会が設けた三つの全体大会だけでなく,米国とカナダで13の地方的な大会も開かれました。それら地方的な大会のほとんどは1日だけの大会で,たいてい巡礼者の訪問に伴って開かれました。大会の数は増加し続けました。1909年までに,少なくとも45の地方的な大会が北米で開かれ,それに加えて,北米大陸の各地を回る特別旅行中のラッセル兄弟が話をした大会もありました。一日大会のプログラムの主要な部分は,特に一般の人々の関心を高めることを意図したものでした。出席者は約100人から数千人まで様々でした。
一方,おもに聖書研究者が出席する全体大会では,真理の道にかなりしっかりと立っている人々に対する教育が重視されました。そうした全体大会のために,出席者で満員の特別列車が主要都市からやって来ました。出席者は時には4,000人に達し,その中には少数ながらヨーロッパからの代表者もいました。そのような大会は真の霊的なさわやかさを与える機会となり,その結果,エホバの民の熱意と愛が強まりました。1903年のそうした大会の閉会の際に一人の兄弟は,「私は貧しい者ですが,1,000㌦出されても,この大会から得た益と引き換えるつもりはありません」と言いました。
地方的な大会では,その地域に巡礼者の兄弟たちがいれば,その兄弟たちが話を行ないました。ラッセル兄弟も米国で,そしてしばしばカナダで,大規模な大会だけでなく地方的な大会にも出席してプログラムを扱うよう努めました。そのためにはかなりの旅行をしなければならず,たいてい週末に旅行していました。しかし,1909年にシカゴのある兄弟が,ラッセル兄弟と共に大会から大会へ旅行して回る代表者たちを運ぶために鉄道車両を数両借りました。1911年と1913年には,米国西部とカナダ一帯を1か月以上にわたって回る大会ツアーの何百人もの代表者を運ぶため,その兄弟は列車を丸ごと借り切りました。
そうした大会列車での旅は忘れられない経験となりました。1913年,マリンダ・キーファーはイリノイ州シカゴでその列車に乗り込みました。何年も後に彼女は,「自分たちが一つの大きな家族であるということを実感するのに長い時間はかかりませんでした。……そして1か月の間,その列車が私たちの家になりました」と語りました。列車が駅を発車する際,見送りに来た人たちは「また会う日まで神共にあらんことを」という歌を歌い,その間ずっと,列車が見えなくなるまで帽子やハンカチを振っていました。キーファー姉妹はさらにこう述べています。「旅行中に立ち寄る所ではどこでも大会が開かれていました。大抵は三日間の大会で,私たちはそれぞれの大会に1日とどまりました。とどまっている間にラッセル兄弟は二つの話を行ないました。一つは午後に兄弟たちに対して,もう一つは晩に『墓のかなた』という主題で一般の人々に対して行なわれました」。
他の国々でも,大会の数は増加していました。そうした大会は大抵かなり小規模なもので,1905年にノルウェーで初めて開かれた大会の出席者は15人ほどでした。しかし,それが始まりとなりました。6年後,ラッセル兄弟がノルウェーを訪問した際,一般の人々を招待するために特別な努力が払われ,その時の出席者はおよそ1,200人でした。1909年,ラッセル兄弟はスコットランドの幾つかの大会に出席し,グラスゴーでは約2,000人,エディンバラでは約2,500人に,「パラダイスにいる盗人,地獄にいる富める人,アブラハムの懐にいるラザロ」という興味をそそる主題で話を行ないました。
初期の大会の閉会の際,兄弟たちは愛餐と呼ばれるものを行ない,クリスチャンの兄弟関係にあるという意識を表わしました。この“愛餐”ではどんなことが行なわれたのでしょうか。例えば,講演者たちがさいの目に切ったパンを載せた皿を持って一列に並び,聴衆は列を作ってその前を通り,パンにあずかり,握手をして,「我らの心をクリスチャン愛のうちに結ぶきずなに祝福あれ」という歌を歌いました。歌っている人のほほを喜びの涙が伝うこともよくありました。後に人数が増えると,握手やパンにあずかることは省かれましたが,歌と祈り,そしてたいてい感謝を表わす長い拍手をもって大会は閉じられました。
王国宣明の世界的な運動が始まる
第一次世界大戦後の最初の大規模な大会は,1919年9月1日から8日にかけて,オハイオ州シーダーポイント(クリーブランド西方約96㌔のエリー湖畔にある)で開かれました。ラッセル兄弟が亡くなった後,組織と交わっていたある主立った人々が真理を捨てました。兄弟たちは厳しい試練を経験しました。同じ1919年,その大会の前に,不当にも投獄されていた協会の会長とその仲間たちは釈放されました。そのため,期待が高まっていました。初日の出席者は幾分少なめでしたが,その日のうちにもっと大勢の出席者が特別列車で到着し,代表者たちの宿泊先となっていた幾つかのホテルはてんてこ舞いになりました。R・J・マーティンとA・H・マクミラン(二人とも,他の人たちと共に刑務所から釈放されたばかりだった)が手伝いを買って出て,真夜中過ぎまで部屋の割り振りに当たりました。また,ラザフォード兄弟を初めとする多くの人たちはベルボーイ役になり,荷物を運んだり仲間の人たちを部屋まで案内したりして楽しく過ごしました。全員の間に熱意の霊があり,それは他の人に伝染しました。
2,500人ほどの出席が見込まれていましたが,その大会はあらゆる面で予想を上回りました。二日目には会場は既に超満員になり,別の幾つかの会館も使用されました。それでも間に合わなくなると,集まりは屋外の快適な木立のある場所に移されました。米国とカナダの約6,000人の聖書研究者が出席しました。
日曜日の主要な話には少なくとも1,000人の一般の人々もやって来て,聴衆は優に7,000人を超える人数に膨れ上がりました。講演者はその聴衆に向かって,戸外で,マイクやアンプなどの助けを全く借りずに話しました。その「苦悩する人類のための希望」という話の中で,J・F・ラザフォードはメシアによる神の王国が人類の諸問題の解決策であることを明らかにし,さらに国際連盟(当時は設立の途上にあり,既に僧職者の支持を得ていた)が決して神の王国の政治的表現などではないことを説明しました。サンダスキーの「レジスター」紙(地元の新聞)は,その公開講演に関する長い記事とともに,聖書研究者の活動の概要を掲載しました。その新聞は米国とカナダ中の新聞社に送られました。しかし,この大会を契機に,もっと重要な宣伝が始まりました。
大会全体のまさに最高潮となったのはラザフォード兄弟による「同労者への話」で,その話は後に「王国を告げ知らせる」という題で出版物に掲載されました。その話は聖書研究者たち自身に対するものでした。その話の中で,大会プログラムや大会会場の随所で見かけたGAという文字の意味が明らかにされました。人々の注意をメシアの王国に向けるために用いられる「黄金時代(The Golden Age)」という新しい雑誌が近く発行される,という発表が行なわれたのです。ラザフォード兄弟はなすべき業の概要を説明した後,聴衆に向かってこう言いました。「機会の戸は皆さんの前に開かれています。その戸口からすぐに入ってください。この業を行なうために出かける際,自分は単に雑誌の勧誘員として勧誘しているのではなく,王の王,主の主の大使であり,真のクリスチャンが何世紀にもわたって待ち望み祈り求めてきた来たるべき黄金時代を,つまり我々の主また主人の輝かしい王国を,こうした威厳のある方法で人々に告げ知らせているのだ,ということを忘れないでください」。(啓示 3:8をご覧ください。)この業に参加したいと思う人が何人いるかと講演者が尋ねた際の熱烈な反応は,見る者を奮い立たせました。6,000人の聴衆が一斉に起立したのです。翌年には,1万人以上の人が野外奉仕に参加していました。大会全体には出席者を一致させ鼓舞する効果がありました。
3年後の1922年にはシーダーポイントで,記憶に残るもう一つの大会が開かれました。今回は9月5日から13日までの九日間のプログラムでした。米国とカナダからの出席者に加えて,ヨーロッパからやって来た人たちもいました。集まりは10の言語で行なわれました。毎日の平均出席者数は約1万人でしたが,「現存する万民は決して死することなし」という話の時には非常に大勢の一般の人々も聴衆に加わったので,出席者が2倍近くになりました。
聖書研究者は,この地上でその先何十年も続く業の計画を立てるつもりでこの大会に集まったのではありませんでした。事実彼らは,この大会は「教会が救出され……神の王国の天的な段階へ,そしてまさに我らの主と我らの神が実際におられるその場所へ入る」前の最後の全体大会になるだろう,と述べました。しかし,時がどれほど短くても,神のご意志を行なうことが彼らの第一の関心事でした。そのことを考慮して,ラザフォード兄弟は9月8日金曜日に「王国」という忘れ難い話を行ないました。
その話に先立ち,敷地の様々な場所に,ADVという文字の書かれた大きな垂れ幕が掲げられていました。話の中で講演者が次のように勧めた時,その文字の意味が明らかになりました。「主の忠実な真の証人でありなさい。バビロンが跡形もなく荒廃するまで戦いで前進しなさい。音信を遠く広く告げ知らせなさい。世界は,エホバが神であり,イエス・キリストが王の王,主の主であることを知らねばなりません。今はあらゆる時代のうちで最も重大な時代です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなた方は王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」。それと同時に,長さ11㍍もある大きな垂れ幕が聴衆の前に広げられました。その垂れ幕には,「王と王国を宣伝しなさい[英語: “Advertise”,ADVで表わされる]」という心を奮い立たせるスローガンが書かれていました。それは劇的な瞬間でした。聴衆は熱烈に拍手喝采しました。大会オーケストラの一員だった年配のファナベッカー兄弟は頭の上でバイオリンを振りながら,かなりのドイツ語なまりで,「そう,そうね! わたしたち,そうするね」と大声で言いました。そして,聴衆は実際にそうしました。
四日後,大会はまだ続いていましたが,ラザフォード兄弟は個人的に大会出席者たちと共に,大会会場から72㌔以内の区域で家から家の王国宣明の業に携わりました。その業はそれで終わったわけではありませんでした。王国宣明の業には大きな弾みがついており,それが世界中に伝わりました。その年,58の国や地域の1万7,000人以上の熱心な働き人が証言活動に参加しました。その大会に出席しており,後に統治体の成員となったジョージ・ギャンギャスは,何十年も後にシーダーポイントでのプログラムに関して,「それは私の思いと心に焼き付けられました。終生忘れることはないでしょう」と述べました。
霊的な成長における里程標
これまでのどの大会も,神の言葉からさわやかさと教えを与えられる機会となりました。とはいえ,幾つかの大会は何十年かたった今でも霊的な里程標として人々の記憶に残っています。
そうした里程標となる大会のうち七つは,米国とカナダと英国で1922年から1928年にかけて毎年開かれました。それらの大会が意義深いものとなった理由の一つは,力強い決議が採択されたことです。それら七つの決議すべては次のページの囲み記事に列挙されています。証人たちは比較的少数でしたが,ある決議文を4,500万部,他の幾つかの決議文を5,000万部,いずれも多くの言語で世界中に配布しました。幾つかの決議は国際的なラジオ放送網を通じて放送されました。こうして,驚くべき証言がなされました。
歴史に残るさらに別の大会が1931年にオハイオ州コロンバスで開かれました。7月26日,日曜日,聖書研究者たちは聖書からの説明を聞いた後,エホバの証人という新しい名称を採択しました。それは何とふさわしい名称なのでしょう。おもに創造者ご自身に注意を向け,その方を崇拝する者たちの責任を明らかにする名称が与えられたのです。(イザヤ 43:10-12)この名称を採択したことにより,兄弟たちは神のみ名と王国をふれ告げる者として,かつてないほど強い熱意を吹き込まれました。その年にデンマークのある証人から寄せられた,「エホバの証人とは何とすばらしい名称なのでしょう。そうです,私たちがみな本当にそのような者でありますように」という手紙に示されているとおりです。
1935年,忘れ難い別の大会がワシントン特別区で開かれました。その大会の二日目である5月31日金曜日に,ラザフォード兄弟は,啓示 7章9節から17節で言及されている大いなる群衆つまり大群衆について論じました。それまで半世紀以上にわたって聖書研究者はそのグループの正確な実体をつかもうとしてきましたが,うまくゆきませんでした。しかしエホバのご予定の時であるその時,既に進展している出来事に照らして,それらの人たちはほかならぬこの地上で永遠に生きる見込みを持つ人々であるという点が指摘されました。この理解は福音宣明の業に新たな意義を加えるとともに,ちょうどその時エホバの証人の現代の組織の構造に生じ始めていた大きな変化を聖書から説明するものとなりました。
1941年のミズーリ州セントルイスでの大会に出席した人々の中には,初日の「忠誠」と題する話でこの大会のことを思い出す人が少なくありません。その話の中でラザフォード兄弟は,理知ある全創造物の直面している大論争に焦点を合わせました。1928年に「人々の支配者」という話が行なわれて以来,サタンの反逆によって提起された論争に何度も注意が向けられていました。しかし,この時,「サタンのごう慢な挑戦によって提起された最重要な論争は宇宙支配の論争であったが,それは今でも変わらない」と指摘されました。その論争についての認識と,宇宙主権者としてのエホバへの忠誠を保つことの重要性についての認識は,エホバの僕たちの生活において動機づけを与える強力な要素となってきました。
第二次世界大戦のさなかの1942年当時,もしかすると宣べ伝える業はほとんど終わったのではないかと考える人もいましたが,ものみの塔協会の会長に指名されたばかりのN・H・ノアが行なった大会の公開講演は,「平和 ― それは永続するか」というものでした。その話の中で行なわれた啓示 17章の象徴的な「緋色の野獣」に関する説明は,さらに多くの人々を神の王国に導く機会のある第二次世界大戦後の時期にエホバの証人を注目させました。それによって世界的な運動に弾みがつきました。その運動は幾十年にもわたり235余りの国や地域に及んできましたが,まだ終わってはいません。
別の里程標に到達したのは,1950年8月2日,ニューヨークのヤンキー・スタジアムでの大会においてでした。その時,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」(英文)を初めて受け取った聴衆は,驚くとともに大喜びしました。「新世界訳」の残りの部分は,その後の10年間に分割して発行されました。聖書のこの現代語訳は神の固有のみ名をみ言葉の中のふさわしい箇所に復元しました。新世界訳聖書は聖書の原語の意味に対する忠実さのゆえに,聖書の研究においても,福音宣明の業においても,エホバの証人にとってすばらしい資産となっています。
その大会の最終日の前日に,当時ものみの塔協会の副会長だったF・W・フランズは聴衆に対して,「新しい事物の体制」という主題で話しました。エホバの証人はそれまで長年の間,キリスト教以前のエホバの僕たちの一部がハルマゲドンの前でさえ,詩編 45編16節の成就として新しい世の君となるために死者の中からよみがえらされるものと信じていました。ですから,講演者が「この国際的な集まりに出席している皆さんは,今晩ここに,わたしたちのただ中に,新しい地の君となる見込みを持つ人々がいることを知って喜ばれるのではないでしょうか」と尋ねた時,大勢の聴衆がどう感じたかは想像に難くありません。ひとしきり大きな拍手が続き,喜びの声が上がりました。そこで講演者は,「君」と訳されている語の聖書的な用法と,現代の「ほかの羊」に属する多くの人の忠実さの記録からすると,いま生きている人々の一部が君としての奉仕のためにイエス・キリストによって選ばれるかもしれないと考えてよい,と説明しました。しかし,同時に講演者は,そうした奉仕を託された人々に称号を与えることはないという点も指摘しました。そして話の結びに,「では,わたしたちはみな一緒に,新世社会として着実に前進してゆきましょう」と勧めました。
エホバの証人の大会では,非常に意義深い話がほかにもたくさん行なわれてきました。1953年,「新世社会は北のはてから攻撃される」という話は,エゼキエル 38章と39章で描写されているマゴグのゴグによる攻撃の意味を興味深く説明しました。同じ年,「家を栄光で満たす」という話を聞いた人々は,貴重なもの,望ましいものをあらゆる国民の中からエホバの家に携え入れる,というハガイ 2章7節にあるエホバの約束の成就を示す明白な証拠を眼前に見て,胸を躍らせました。
とはいえ,現代の最も際立った大会が1958年にニューヨークで開かれ,使用可能な最大の施設は,「神の御国は支配す ― 世の終りは近いか」という話を聞くために集まった25万人以上の人々で超満員になりました。123の国や地域から代表者が出席し,大会の聴衆に対する彼らの報告は国際的な兄弟関係のきずなを強めるのに役立ちました。出席者の霊的な成長に寄与するもの,また他の人を教える際に用いるものとして,その特別な大会中に幾つかの出版物が54の言語で発表されました。
1962年には,「上位の権威に対する服従」という主題の一連の話によって,ローマ 13章1節から7節の意味に関する証人たちの理解が正されました。1964年には,「死から生命に移る」および「墓から生命によみがえる」という話によって,復活の備えに示されているエホバの大いなる憐れみに対する感謝の念が強められました。ほかにもそうした大会の目立った点を挙げてゆけば切りがありません。
毎年,何万人,いや何十万人もの新しい人たちが大会に出席しています。提供される情報は組織全体にとって必ずしも新しいものとは限りませんが,新しい出席者たちがその情報によって神のご意志に関する理解を得られるようになり,深い感動を覚えることも少なくありません。彼らは自分の生き方全体を変える奉仕の機会に気づき,その機会をとらえるよう動かされるかもしれません。
多くの大会では,聖書の特定の書の意味に注意が向けられました。例えば,1958年には,そして1977年にも,キリストを王とする一つの世界政府を立てるという神の目的に関する,預言者ダニエルが記録した預言を専ら論じた書籍が発表されました。1971年に注意が向けられたのは,「諸国民はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」という神の宣言が強調されているエゼキエル書でした。(エゼキエル 36:23)1972年には,ゼカリヤとハガイの記した預言が詳細に考察されました。1963年,1969年,1988年には,大いなるバビロンの倒壊や神の輝かしい新しい天と新しい地の到来を生き生きと予告している,興奮を誘う啓示の書の預言が広範に論じられました。
大会では様々な主題が強調されました。少し挙げるだけでも,「拡大する神権政治」,「清い崇拝」,「一致した崇拝者」,「勇気ある奉仕者」,「御霊の実」,「人々を弟子とする」,「すべての国の民に対する福音」,「神のお名前」,「神の主権」,「神聖な奉仕」,「勝利の信仰」,「王国の忠節」,「忠誠を保つ人々」,「エホバへの信頼」,「敬虔な専心」,「光を掲げる人々」などがあります。こうした主題の大会はそれぞれ,組織と組織に交わる人々の霊的な成長に貢献してきました。
福音宣明の業を行なうよう鼓舞される
大規模な大会も小規模な大会も,良いたよりの伝道に関して大きな励ましの源となってきました。話や実演によって実際的な教訓が与えられました。野外宣教で得られた経験や,最近聖書の真理を学ぶよう援助を受けてきた人々の語る経験がプログラムで必ず取り上げられます。さらに,長年のあいだ大会期間中に予定されていた実際の野外奉仕は非常に有益でした。そうした野外奉仕は大会開催都市で良い証言になるとともに,証人たち自身にとって大きな励ましの源となりました。
野外奉仕が大会の予定に含まれる活動となったのは,1922年1月,カナダのマニトバ州ウィニペグでのことでした。その後,同じ年にオハイオ州シーダーポイントで開かれた全体大会でも野外奉仕が特色となりました。それ以後,1日,あるいは1日か数日の一部を割いて,大会開催都市やその周辺で出席者が一緒に伝道活動に参加することが恒例となりました。この活動によって大都市圏では,証人たちと滅多に接触しないような人たちが,義を愛する人々にとこしえの命を与えるという神の目的に関する良いたよりを聞く機会を得ました。
デンマークでは,ネラボルで400人ないし500人の人々が集まった1925年に初めて,大会でのそうした奉仕の日が取り決められました。その大会で野外奉仕に参加した275人の中の多くの人にとっては,奉仕に参加するのは初めてでした。恐れを感じた人もいましたが,野外奉仕を一度味わった後は地元の区域においても熱心な福音宣明者になりました。その大会から第二次世界大戦終結までの間,デンマークでは沢山の一日奉仕大会が開かれ,周辺の町から兄弟たちが招待されました。彼らが一致して宣教に参加し,それから集まって話を聞くうちに,熱意の高まりがはっきり見られました。同様な奉仕大会 ― ただし二日間 ― は,英国と米国でも開かれました。
もっと大規模な大会では,出席者の野外での活動がしばしば大きな部分を占めました。1936年以降,証人たちはポスターを身に着け,ビラを配りながら秩序正しく行進して,大会の公開講演を宣伝しました。(そうしたポスターは体の前と後ろに一枚ずつ着けられたので,初めのうちは“サンドイッチ式プラカード”と呼ばれました。)一つの大会のそうした行進に1,000人以上の証人が参加することもありました。別の人たちは通常の戸別訪問を行ない,プログラムを聞きに来るようすべての人を招待しました。他の人たちと共に働き,何百人,時には何千人もの証人たちが自分と共に宣教に参加しているのを見ることは,証人たち各人にとって非常に大きな励ましとなりました。同時に,エホバの証人が町に来ていることをかなり広い範囲の人々が知るようになり,人々は証人たちが教えている事柄を直接聞いたり,証人たちの振る舞いをじかに観察したりする機会を得ました。
大会で行なわれた話を,会場にいた目に見える聴衆よりずっと多くの人が聞いたことも少なくありません。1927年,カナダのトロントでの大会でラザフォード兄弟が「人々のための自由」という講演を行なった際,その講演は53の放送局のネットワークを通じて,外国に住む膨大な数のラジオ聴取者に伝えられました。これは歴史に残る出来事でした。翌年には,「人々の支配者」という話が,ミシガン州(米国)デトロイトを起点として2倍の数の放送局によって放送され,はるか遠くのオーストラリアやニュージーランドや南アフリカの聴取者にも短波放送で伝えられました。
1931年,ラザフォード兄弟による大会の話を放送する計画は,大手ラジオ・ネットワークの協力を取りつけることができませんでした。そのため,ものみの塔協会はアメリカ電話電信会社と共同で,かつてない規模の有線放送網を含む,163の放送局を結ぶ独自の放送網を作り上げ,「神の国 ― 全地の希望」という音信を伝えました。それに加えて,世界各地のさらに300以上の放送局がそのプログラムを録音で放送しました。
1935年,ワシントン特別区での大会で,ラザフォード兄弟は「政府」という主題で話し,キリストの治めるエホバの王国が間もなく人間のすべての政府に取って代わるという事実に力強く注意を引きました。その話はワシントン講堂に集まった2万人以上の人が聞いただけでなく,ラジオや電話回線によって全世界に伝えられ,中南米,ヨーロッパ,南アフリカ,太平洋の島々,東洋の国々にも達しました。こうしてその話を数え切れないほど多くの人が聞いたものと思われます。ワシントンの二つの一流新聞社はその話を掲載する契約を破棄しました。しかし,兄弟たちは市内の3か所とワシントン周辺の他の40か所に配置したサウンドカーから話を再放送したので,さらに推定12万人の人々が話を聞きました。
そして1938年,「事実を見よ」という率直な話が英国ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールから全世界の50ほどの大会開催都市に伝えられ,出席者合計は約20万人になりました。さらに,膨大な数のラジオ聴取者もその話を聞きました。
このように,エホバの証人は比較的少数でしたが,彼らの大会は王国の音信を公にふれ告げる点で重要な役割を果たしました。
ヨーロッパでの戦後の大会
自分の出席した特定の大会は,その人にとって他のどんな大会よりも際立ったものとなります。第二次世界大戦直後のヨーロッパでの大会がそうでした。
そうした大会の一つは,証人たちがドイツの強制収容所から解放されて4か月もたっていない1945年8月5日にオランダのアムステルダムで開かれた大会です。2,500人ほどの出席者が予想され,そのうちの2,000人には宿舎が必要でした。必要な寝泊まりの場所を提供するため,地元の証人たちは自宅の床にわらを敷きました。出席者たちは四方八方から,船やトラックや自転車など,あらゆる手段を尽くしてやって来ました。中にはヒッチハイクをした人もいました。
大会では泣くことも笑うこともありました。歌を歌い,エホバの善良さについて感謝をささげました。ある出席者によると,「そこにあったのは,足かせから自由にされたばかりの神権組織の,言葉では言い表わせない喜びでした」。戦前,オランダの証人たちは500人足らずでした。合計426人が逮捕・投獄され,そのうち117人は迫害が直接の原因で亡くなりました。死んだものと思っていた家族をその大会で見つけた人たちの喜びはいかばかりだったでしょう。一方,捜しても見つからなかった人たちの目には涙があふれました。その晩4,000人の人たちは,エホバの証人がそうした厳しい迫害の的となった理由を説明する公開講演に一心に耳を傾けました。辛い経験をしたにもかかわらず,彼らは神から与えられた業を推し進めるために組織されつつありました。
翌1946年,ドイツの兄弟たちはニュルンベルクでの大会を取り決め,かつてヒトラーの閲兵場だったツェッペリンビーゼの使用許可を得ました。大会二日目には,ゲシュタポの残忍な行為を個人的に体験し,ナチの強制収容所で数年間過ごしたエーリヒ・フロストが,「試練のるつぼに入れられたクリスチャン」という公開講演を行ないました。その場には6,000人の証人たちだけでなく,ニュルンベルクの一般の人々も3,000人出席していました。
その大会の最終日は,そこニュルンベルクで戦争犯罪裁判の判決が言い渡される日に当たりました。軍当局は当日の夜間外出禁止令を出しました。しかし,長い交渉の末,軍当局は,ナチの反対に直面してエホバの証人が取った立場を考慮すると,証人たちの邪魔をし,大会が平和裏に終わらないようにするのはふさわしくないという考えに同意しました。こうして,その最終日に兄弟たちは集まって,「世の陰謀に面しても恐れない」という感動的な話を聞きました。
証人たちは生じている出来事の中にエホバのみ手の働きがあることを理解しました。証人たちを根絶しようとした体制の代表者たちが判決を受けているまさにその時,エホバの証人はかつてヒトラーがナチの力を特に華々しく誇示した場所でエホバを崇拝するために集まっていたのです。大会司会者はこう述べました。「ハルマゲドンの戦いの際に神の民が敵たちに対して収める大勝利の予告編にすぎない今日という日を経験できるだけでも,強制収容所で9年間過ごしたかいがありました」。
そのほかの忘れ難い大会
エホバの証人の活動が拡大するにつれ,世界中で大会が開かれてきました。出席者にとっては,それらの大会すべてに際立った特色がありました。
銅鉱地帯の中心にある北ローデシア(現在のザンビア)のキトウェでは,1952年に行なわれるものみの塔協会会長の訪問の際に大会を予定していました。会場は,現在チャンボリと呼ばれる所にある鉱山町のはずれの広い場所でした。空になった蟻塚の上部を平らにして,その上に草ぶき小屋を建てて演壇としました。そのほか,2階建ての宿泊用の草ぶき小屋が幾つも,座席となる主要な場所を中心にして車輪のスポークのように180㍍も続いていました。大人であれ子供であれ,男性と女性は別々の小屋に泊まりました。出席者の中には,自転車を2週間こいで来た人たちや,何日も歩いたのち旧式なバスに乗ってやって来た人たちもいました。
プログラム中,聴衆は屋根のない場所で硬い竹のベンチに座っていましたが,非常に注意深く耳を傾けていました。話を聞くためにやって来たので,一言も聞き漏らしたくなかったのです。その2万人の聴衆の歌は,涙を誘う本当にすばらしいものでした。楽器による伴奏は全くないのに,歌声のハーモニーは絶妙でした。その証人たちの生まれ育った環境や出身部族は様々でしたが,歌だけでなくあらゆる面で彼らの間には一致が表われていました。
ポルトガルの証人たちは崇拝の自由を求める闘いを50年近く続けた末,ようやく1974年12月18日に法的認可を得ましたが,あなたは,その時彼らが味わった気持ちを想像できるでしょうか。当時,証人たちの数は1万4,000人ほどにすぎませんでした。それから幾日もたたないうちに,ポルトの競技場は7,586人の証人たちで一杯になりました。翌日には,リスボンのサッカー場が3万9,284人の人々で超満員になりました。ノア兄弟とフランズ兄弟もその喜ばしい時のためにその場にいました。多くの人はその時のことを決して忘れないでしょう。
国際的な集まりを組織する
エホバの証人は優に半世紀以上にわたって,複数の都市を結ぶ大規模な大会を多くの国で同時に開いてきました。中心都市から送られる主要な話を全員で聞くことのできるそうした機会には,国際的な兄弟関係にあるという証人たちの意識が高められてきました。
しかし,1946年に初めて,大規模な国際大会の際に世界各地の代表者たちが一つの都市に集まりました。それはオハイオ州クリーブランドでのことです。戦後の時期で旅行はまだ困難でしたが,出席者は8万人に達し,その中には米国以外の32の国や地域からの302人の代表者が含まれていました。20の言語で集まりが開かれ,福音宣明の業の拡大を見込んで,多くの実際的な教訓が与えられました。大会の目立った点の一つは,再建と拡大の問題に関するノア兄弟の話でした。協会の本部の印刷・事務施設やラジオ放送施設の拡張計画,世界のおもな国々における支部事務所の開設計画,また宣教者の業の拡大に関する計画などを聞き,聴衆は熱烈な拍手を送りました。その大会後直ちに,討議された事柄を実行に移すためにノア兄弟とヘンシェル兄弟が世界一周旅行を行なえるよう,詳細な計画が立てられました。
その後の年月の間に,まさに歴史に残る幾つかの大会がニューヨーク市のヤンキー・スタジアムで開かれました。まず,1950年7月30日から8月6日にかけて開かれた最初の大会には67の国や地域から代表者が出席しました。プログラムの中で支部の僕や宣教者などの代表者たちが短い報告を行ないました。大会出席者はそうした報告により,代表者たちの国や地域で例外なく徹底的な福音宣明の業が行なわれている様子を垣間見て,胸を躍らせました。最終日には,「あなたは地上で幸福のうちに永遠に生きられますか」という話の際に出席者数は12万3,707人に達しました。その大会の主題は「拡大する神権政治」であり,人数の大幅な増加に注意が向けられました。しかし,司会者のグラント・スーターが強調したとおり,数に注意が向けられたのは目に見える組織の中の優秀な頭脳の持ち主を称賛するためではありませんでした。むしろ,「人数が新たに増し加えられたことは,ひとえにエホバの誉れです。当然そうあるべきです。それ以外には考えられません」とスーターは述べました。
1953年,ニューヨークのヤンキー・スタジアムで別の大会が開かれ,今回は出席者最高数が16万5,829人に達しました。同じ場所で開かれた最初の大会と同様に,感動的な聖書預言の討議,良いたよりの伝道を成し遂げる方法に関する実際的な助言,多くの国や地域からの報告など,盛り沢山のプログラムが提供されました。プログラムは午前9時半ごろに始まりましたが,たいてい午後9時か9時半まで続きました。大会は丸八日間の喜ばしい霊的な宴となりました。
1958年にニューヨークで開かれた最も大きな大会では,大勢の大会出席者を収容するために,ヤンキー・スタジアムだけでなく,近くのポロ・グランドと,両競技場の外の予備席も使用しなければなりませんでした。最終日に座席が一杯になると,ヤンキー・スタジアムのグラウンドも使用できる特別な許可が与えられました。何千人もの人たちが流れのように入ってきて靴を脱いで芝生に座るのは,本当に感動的な光景でした。公開講演を聞いた出席者は25万3,922人になりました。神の僕たちの宣教に対するエホバの祝福が一層明らかになったのは,この大会で7,136人が献身の象徴として水の浸礼を受けた時のことでした。その人数は,聖書に記されている,歴史的な西暦33年のペンテコステの時にバプテスマを受けた人の数と比べると,2倍を優に上回っています。―使徒 2:41。
こうした大会の運営全体は,効率良く組織されていたということよりもずっと重要な事柄を証明するものでした。そこには,神の霊が神の民の間に働いていることが表われていたのです。神に対する愛を基盤とする兄弟愛が至る所に見られました。高給を得る組織者は一人もおらず,どの部門でも働いているのは無給の自発奉仕者でした。クリスチャンの兄弟姉妹が喫茶スタンドで奉仕しており,家族一緒にそうしている人たちも少なくありませんでした。兄弟姉妹は温かい食事も準備し,スタジアムの外の巨大なテントの中で1分間に1,000食もの割合で出席者に提供しました。何万人もの人がみな喜んで仕事に参加し,案内係として奉仕したり,建設や炊事や給仕や清掃のほか,多くの分野の必要なあらゆる仕事を受け持ったりしました。
さらに多くの自発奉仕者たちは,出席者の宿泊の必要を満たすために何十万時間も費やしました。年によっては,大会出席者の少なくとも一部を収容するため,トレーラーとテントの町が設けられました。1953年には,トレーラーの町のために土地を貸してくれたニュージャージー州の農場主のために,証人たちは16㌶分の穀物を無償で収穫しました。4万5,000人を超える人々を世話するため,衛生設備,照明,シャワー,洗濯室,食堂,食料品店などがすべて設置されました。人々がやって来ると,一夜にして一つの町が出現しました。そのほかの大勢の人たちはニューヨークとその周辺のホテルや個人の家に宿泊しました。こうした膨大な仕事がありましたが,エホバの祝福によって首尾よく成し遂げられました。
移動する大会
この国際的な兄弟関係に属する人々は他の国の仲間の証人たちに深い関心を抱いており,そのため,これまで機会をとらえては他の国の大会に出席してきました。
1951年,英国ロンドンのウェンブリー・スタジアムで一連の「清い崇拝大会」の最初の大会が開かれた際,40か国の証人たちが出席しました。プログラムでは,真の崇拝の実際的な面と,宣教を自分の生涯の仕事とすることが強調されました。続く2か月間にヨーロッパ大陸ではさらに九つの大会が開かれることになっており,英国から大勢の証人たちが大陸に渡りました。それらの大会の中で最も大規模だったのはドイツのフランクフルト・アム・マインでの大会で,そこには24の国や地域から4万7,432人が出席しました。その閉会の際に兄弟たちの温かい気持ちが表われました。オーケストラが演奏を始めると,突然ドイツの兄弟たちが,外国から参加した仲間の証人たちを神に委ねる別れの歌を,だれからともなく歌い始めました。ハンカチが振られ,何百人もの人がこの大きな神権的な祭りに対する個人的な感謝を表わすため,群れをなしてフィールドを横切りました。
1955年,さらに多くの証人たちが大会の際に外国のクリスチャンの兄弟たちを訪問する計画を立てました。米国とカナダの代表者たちは2隻の船(各々700人乗り)と42機の飛行機を借り切ってヨーロッパへ向かいました。ドイツで発行されたヨーロッパ版「スターズ・アンド・ストライプス」紙は,証人たちが続々とやって来る様子を,「アメリカ人の集団がヨーロッパを通過した事例としては,恐らく第二次世界大戦中の連合軍の侵攻以来最大のもの」と描写しました。中南米,アジア,アフリカ,オーストラリアからも代表者たちがやって来ました。ローマとニュルンベルクではキリスト教世界の僧職者が証人たちの大会開催を阻止しようとしましたが,その夏,それら二つの大会と他の六つの大会がヨーロッパで開かれました。出席者はローマの4,351人から,ニュルンベルクの10万7,423人まで様々でした。当時西ベルリンと呼ばれた地域のバルトビューネでは1万7,729人の人々が集まりました。そこは,当時の東側地区の兄弟たちがあまり危険を冒さずに来ることのできた場所でした。それらの兄弟たちの中には,信仰のゆえに投獄されていた人や,家族が投獄中の人も少なくありませんでした。しかし,兄弟たちは確固とした信仰を抱き続けていました。「勝利の王国」という大会の主題はまさに適切でした。
それまでにも多くの国際大会がありましたが,1963年に開かれた大会は新しいタイプの大会の先駆けとなりました。その大会は世界一周大会で,米国のウィスコンシン州ミルウォーキーで始まってニューヨークへ移動し,次にヨーロッパの四つの大都市と中東を経て,インド,ビルマ(現在のミャンマー),タイ,香港,シンガポール,フィリピン,インドネシア,オーストラリア,台湾,日本,ニュージーランド,フィジー,韓国,ハワイを回ってから,北米本土に戻りました。合わせて161の国や地域の代表者たちが出席し,出席者合計は58万人を超えました。20ほどの国や地域の583人の人たちが大会と共に移動し,国から国を巡って大会に出席し,世界を一周しました。彼らは宗教的に興味深い場所を特別ツアーで見学することができ,また地元の兄弟姉妹と共に家から家の宣教に参加しました。旅費は自分持ちでした。
ほとんどの国際大会に中南米から大勢の代表者が出席していましたが,1966年から1967年にかけて,今度は彼らが大会の主人役を務めることになりました。エレミヤに関する聖書の記述を生き生きと再現し,その記述の現代的な意味を理解するよう一人一人を助けた劇を,出席者たちは決して忘れないでしょう。a 中南米において膨大な聖書教育活動がどんな状況下で行なわれているのかを訪問者たちがじかに見ることにより,クリスチャン愛のきずなが強められました。訪問者たちは仲間の信者の強い信仰に深く心を動かされました。家族の反対や洪水や財産の損失など,克服し難く思える障害を乗り越えて出席した人も少なくなかったからです。訪問者たちは幾つかの経験を聞き,大いに励まされました。例えば,インタビューを受けたウルグアイの体の弱い特別開拓者の姉妹は,それまでにクリスチャンのバプテスマの段階まで進歩するのを援助した80人のうちの多くの人たちと共に演壇に上りました。(1992年の時点で,この姉妹は105人の人をバプテスマの段階まで援助していました。姉妹は相変わらず虚弱でしたが,特別開拓奉仕を続けていました。)また,ギレアデのごく初期のクラスを卒業し,なお任命地で働き続けている宣教者たちに会うのも実に心温まる経験でした。そうした大会は世界のその地域で行なわれている業に対する良い刺激となりました。それらの国々のうち,今ではエホバの賛美者の数が当時の10倍,15倍,さらには20倍に増えている国は少なくありません。
数年後の1970年から1971年にかけて,外国の証人たちはアフリカの国際大会で兄弟たちと交わることができました。そうした大会の中で最大のものはナイジェリアのラゴスでの大会でした。そこではすべての施設を全く新たに造らなければなりませんでした。強い日差しから出席者を保護するため,座席の区画,宿舎,食堂,他の部門などを含む,竹造りの町が建設されました。そのために必要な10万本の竹ざおと3万6,000枚の大きな葦のむしろは,すべて兄弟姉妹たちが準備しました。プログラムは17の言語で同時に行なわれました。出席者数は12万1,128人に達し,3,775人の新しい証人たちがバプテスマを受けました。多くの部族の人たちが出席し,その中にはかつて戦い合っていた人々も少なくありませんでした。しかし,そうした人々が今では真のクリスチャンの兄弟関係のきずなで結ばれているのですから,その様子を目にするのは本当に大きな喜びでした。
その大会後,外国からの代表者たちの中には,最近の内戦で特に深刻な影響を受けた地域を見るため,バスでイボランドへ向かった人たちがいました。訪問先のどの町でも,訪問者たちは地元の証人たちに歓迎されて抱き締められ,大評判になり,その様子を見ようとして人々が通りに殺到しました。そのようにして黒人と白人の間で愛と一致が表わされるのを,人々は一度も見たことがなかったのです。
国によっては,エホバの証人の人数の関係で,全員が1か所に集まることは不可能です。しかし時折,幾つかの大規模な大会を同時に開催した後,さらに幾つかの大会を次々と毎週開いてゆくことがあります。1969年には,主立った話し手の幾人かが飛行機で大会から大会へ飛び回ってすべての大会で話を行なうことにより,そのようにして取り決められた大会で感じられる一致はさらに強められました。1983年と1988年にも,同様の一体感がありました。統治体の成員が行なう主要な話を電話回線で送ることにより,国の内外を問わず,同じ言語を用いる幾つかの大規模な大会が一つに結ばれたのです。しかし,エホバの証人の間の一致の本当の基盤となっているのは,彼らすべてが唯一まことの神としてエホバを崇拝し,導きとして聖書に固く従い,同一の霊的な養育計画から益を得ているという事実,また彼らすべてが自分たちの指導者としてイエス・キリストに頼り,生活の中で神の霊の実を表わすことに努め,神の王国に信頼を置き,その王国の良いたよりを他の人に伝える業に参加しているという事実です。
国際的にエホバを賛美するために組織される
エホバの証人は数の点で幾十もの国の人口を上回るまでに増加しました。大会が最大の益をもたらすようにするためには,非常に注意深い計画が必要です。しかし通常,すべての人のために十分なスペースを確保するには,様々な地域の証人たちの出席すべき場所に関して簡潔な要請を発表するだけで十分です。国際大会が計画されると,たいてい統治体は,出席を希望するだけでなく出席できる立場にある他の国の証人たちの人数のほか,使用可能な大会施設の大きさ,出席する地元の証人たちの人数,代表者が利用できる宿泊先の総数などを考慮しなければなりません。その後,各国に人数の上限を割り当てることができます。1989年にポーランドで開かれた三つの「敬虔な専心」大会の場合がそうでした。
その三つの大会には,ポーランドの9万人ほどの証人たちに加えて,新たに関心を持った多くの人の出席が予想されました。英国やカナダや米国の大勢の人も招かれ,イタリアやフランスや日本からの大代表団が歓迎を受けました。スカンディナビアやギリシャから来た人もいて,少なくとも37の国や地域から代表者が出席しました。プログラムの特定の部分に関しては,ポーランド語や英語の話を他の16もの言語に通訳する必要がありました。出席者合計は16万6,518人でした。
これらの大会には当時のソ連とチェコスロバキアから証人たちの大きなグループがやって来ましたし,他の東欧諸国からのかなりの人数のグループも出席しました。ホテルや学校の寄宿舎だけでは全員を泊めることができませんでした。ポーランドの証人たちはもてなしの精神を示し,心を開いて自宅を開放し,持っている物を喜んで分かちました。成員146人のある会衆は1,200人以上の出席者のために宿舎を準備しました。これらの大会の出席者の中には,15人ないし20人以上のエホバの民の大きな集まりに出るのは初めてという人たちもいました。そうした人たちがスタジアムの何万人もの人々を目にし,それらの人々と共に祈りをささげ,声をそろえてエホバに賛美の歌を歌った時,彼らの心には感謝の気持ちがこみ上げてきました。プログラムの合間の交わりの際には,言語の相違のために心にあることを言い表わせないことが多くても,温かい抱擁を交わしました。
閉会の際,彼らの心はすべての物事を可能にしてくださったエホバに対する感謝で一杯でした。ワルシャワでは,司会者が別れの言葉を述べると,聴衆から拍手がわき起こり,少なくとも10分間は鳴りやみませんでした。最後の歌と祈りの後,再び拍手が起こり,聴衆はなかなかスタンドを去りませんでした。彼らは長年この時を待ち望んできたので,終わってほしくなかったのです。
翌1990年,当時の東ドイツのエホバの証人に対する40年にわたる禁令が解かれてから5か月もたたないころ,もう一つの感動的な国際大会が今度はベルリンで開かれました。4万4,532人の出席者の中には65の国や地域の代表者が含まれていました。ある国や地域からは数人だけ,ポーランドからは約4,500人がやって来ました。そうした大会に出席する自由をそれまで一度も得たことのなかった人たちの深い感情は,言葉で言い表わすことができませんでした。そして,聴衆全員がエホバへの賛美の歌に和した時,それらの人たちは喜びの涙を抑えることができませんでした。
その後,同じ年に同様の大会がブラジルのサンパウロで開かれた際,世界各地から来た13万4,406人の聴衆を収容するには二つの大きな競技場が必要でした。サンパウロ大会に続いてアルゼンチンでも大会が開催され,そこでも世界各地から来た聴衆を収容するため二つの競技場を同時に使用しました。1991年になると,国際大会がさらにフィリピンと台湾とタイで開かれてゆきました。その年,東ヨーロッパ ― ハンガリー,チェコスロバキア,現在のクロアチア ― で開かれた大会にも多くの国から大勢の人が出席しました。そして1992年にはサンクトペテルブルクで,28か国からの代表者は,ロシアのエホバの証人による最初のまさに国際的な大会に集まった4万6,214人の一人に数えられたことを大きな特権とみなしました。
定期的に霊的なさわやかさを得る機会
エホバの証人の開く大会すべてが国際的な集まりというわけではありませんが,年に1度大規模な大会が統治体によって取り決められ,世界的に同一のプログラムが多くの言語で提供されます。中にはかなり大きな大会もあり,多くの場所の他の証人たちとの交友の機会となります。また,比較的小さな大会が多くの都市で開かれるため,新しい人たちが一層出席しやすくなるとともに,幾百もの小都市の一般の人々がエホバの証人の典型的な姿を間近によく観察することができます。
それに加えて,各巡回区(20ほどの会衆で構成される)は年に1度集まって,霊的な諭しと励ましを与える二日間のプログラムを楽しみます。b さらに,1987年9月からは,各巡回区で年に1度,築き上げる一日のプログラムとなる特別一日大会が取り決められています。可能であれば,協会の本部または地元の支部事務所の奉仕者の一人が派遣されて,プログラムの一部を扱います。エホバの証人はこうしたプログラムを深く感謝しています。多くの場所では,大会会場が遠いとか,そこまで行くのが大変だということはありません。しかし,そうでない場合もあります。ある旅行する監督は,ジンバブエの巡回大会に出席するためにスーツケースと毛布を持って76㌔歩いた年配の夫婦のことを覚えています。
こうした大会では,大会期間中の野外奉仕はもはや全く行なわれていません。しかし,それは証人たちが以前より野外奉仕を重視しなくなったからでは決してありません。今では,たいてい地元の証人たちが大会会場の近くに住んでいる人々を定期的に訪問しており,場合によっては数週間ごとにそうしています。大会出席者たちは非公式の証言の機会に常に目ざとくあり,クリスチャンにふさわしい彼らの振る舞いも別の面で強力な証言となっています。
真の兄弟関係の証拠
大会で証人たちの間に明らかに見られる兄弟関係は,すぐ人々の目に留まります。人々は証人たちの間に不公平がないことや,互いに初対面であったとしても,お互いの間に純粋の温かさがはっきり見られることに気づきます。1958年にニューヨークで開かれた『神の御心』国際大会の際に,ニューヨークのアムステルダム・ニューズ紙(8月2日付)はこう報じました。「どこを見ても,黒人,白人,東洋人,世界の各地から来た,あらゆる階層の人々が自由に交歓していた。……世界の120の国から来た敬虔な証人たちが平和に過ごして崇拝を共にし,それがいかに容易になし得るかを米国民の前に示した。……その大会は,人々がいかに一致して生活し,共に働き得るかを示すすばらしい例となった」。
もっと最近では,1985年にエホバの証人が南アフリカのダーバンとヨハネスブルクで同時に大会を開いた際,出席者の中には南アフリカのすべての主要な種族と言語グループの人たち,および他の23の国や地域の代表者たちが含まれていました。出席した7万7,830人の人々の間の温かい交友はすぐに明らかになりました。あるインド人の若い女性は,「本当に麗しい光景です。カラード,インド人,白人,黒人が一緒になっているのを見て,私の人生観はすっかり変わってしまいました」と言いました。
兄弟関係にあるというこうした意識は,単に笑顔や握手,また互いに「兄弟」や「姉妹」と呼び合うことに表われるだけではありません。一例として,1963年に全世界で「永遠の福音」大会の準備が行なわれていたとき,エホバの証人は次のような知らせを受け取りました。それは,大会に出席できるよう他の人々を金銭面で援助したいと思う人がいるなら,協会は喜んでその資金が世界各地の兄弟たちを益するものとなるよう取り計らう,という内容でした。寄付を懇願することはなく,寄付が管理上の出費のために用いられることもありませんでした。資金はすべて所定の目的のために用いられました。こうして,8,179人が大会に出席するための援助を受けました。中南米のすべての国の代表者たち,それにアフリカの幾千人もの人たち,中東と極東の多くの人たちが援助を受けました。それら援助を受けた代表者たちの大部分は,全時間宣教に長年携わってきた兄弟姉妹でした。
1978年の末ごろ,ニュージーランドのオークランドで大会が開かれることになりました。そのことを知ったクック諸島の証人たちは是非出席したいと思いましたが,島の経済状態からすると一人分の旅費でも一財産でした。ところが,ニュージーランドの愛ある霊的な兄弟姉妹たちが約60人の島民のために往復の旅費を寄付してくれたのです。彼らは大会に出席して,マオリ族やサモア人やニウエ人や白人の兄弟たちと一緒に霊的な宴にあずかることができ,大喜びしました。
1988年,カナダのモントリオールで開かれた「神の公正」地域大会の閉会の際に生じた事柄は,エホバの証人の間に見られる精神を示す典型的な例でした。アラビア語,英語,フランス語,ギリシャ語,イタリア語,ポルトガル語,スペイン語を話す出席者たちは,それまでの四日間にわたって同一のプログラムを自分たちの言語で楽しみました。しかし,プログラムの最後の部分で4万5,000人の出席者全員がオリンピック・スタジアムに集合し,兄弟関係と目的における一致を感動的な仕方で示しました。各グループがそれぞれの言語で,「来たりて共に歌え『エホバは支配す 天地も歓べ』」と一緒に歌ったのです。
[脚注]
a その後の25年間に,さらに70のそのような劇が大会で上演されました。
b 1947年から1987年までの間,この集まりは毎年2回開かれました。1972年までは三日間の大会でしたが,その年から二日間のプログラムになりました。
[255ページの拡大文]
「愛や,兄弟としての親切の精神に深い感銘を受けました」
[256ページの拡大文]
大会列車 ― 皆さんご乗車ください!
[275ページの拡大文]
高給を得る大会組織者ではなく,無給の自発奉仕者
[278ページの拡大文]
黒人と白人の間の一致
[261ページの囲み記事/図版]
七つの重要な大会決議
1922年,「世界の指導者たちに対する挑戦」と題する決議は世界の指導者たちに対して,この地球を支配する知恵が人間にあることを証明するか,さもなければ,平和と命と自由,また終わりのない幸福はイエス・キリストを通してエホバからしかもたらされないことを認めるよう求めました。
1923年,神とキリストの代表者であると詐称している組織から急いで逃れなければならないという「すべてのクリスチャンに対する警告」が出されました。
1924年,「聖職者に対する告発」という決議はキリスト教世界の僧職者の非聖書的な教理や慣行を暴露しました。
1925年,「希望の音信」という決議は,世界の指導的な光であると自称している者たちが人間の最大の必要を満たせなかった理由と,神の王国だけがどのようにその必要を満たせるかという点を示しました。
1926年,「世界の支配者たちに対する証言」は,エホバが唯一まことの神であられ,イエス・キリストが今や地の正当な王として支配しておられることを支配者たちに知らせました。また,支配者たちに対して,人々に災いが臨まないよう影響力を行使して人々の考えをまことの神に向けるよう促しました。
1927年,「キリスト教世界の人々への決議」は,財界-政界-宗教界の結合が人類を抑圧していることを暴露しました。また,キリスト教世界を捨て,エホバと,キリストの手中にある神の王国に信頼を置くよう人々を促しました。
1928年,「サタンに反対し,エホバを支持する宣言」は,エホバによって油そそがれた王イエス・キリストが間もなくサタンを拘束し,サタンの邪悪な組織を滅ぼすことを明らかにするとともに,義を愛するすべての人に対して,エホバの側に立つよう勧めました。
[272,273ページの囲み記事/図版]
幾つかの大規模な大会の特色
熱意にあふれた多くの出席者たちが船で到着し,さらに大勢が飛行機で,また,それをはるかに上回る人たちが自動車やバスで到着した
十分な数の宿泊先を探したり割り当てたりするためには,良い組織と多くの自発奉仕者が必要だった
こうした八日間の大会中,何万食もの温かい食事が欠かすことなく出席者に提供された
1953年,トレーラーとテントの町に4万5,000人以上の出席者が宿泊した
1958年,ニューヨークでは7,136人がバプテスマを受けた。これは,一度にバプテスマを受けた人数としては,西暦33年のペンテコステ以来空前の記録である
1953年,ニューヨークでは多くの国や地域からのあいさつが掲げられ,プログラムは21の言語で行なわれた
[256ページの図版]
1917年,カナダのマニトバ州ウィニペグで開かれた国際聖書研究者協会の大会の出席者
[258ページの図版]
1919年,オハイオ州シーダーポイントで話をするJ・F・ラザフォード。彼は,「黄金時代」誌を用いて神の王国を告げ知らせる業に熱心に参加するようすべての人に勧めた
[259ページの図版]
1922年のシーダーポイントでの大会。「王と王国を宣伝しなさい」という呼びかけがなされた
[260ページの図版]
1922年,ジョージ・ギャンギャスはシーダーポイント大会に出席した。彼はそれ以来,約70年にわたって神の王国を熱心にふれ告げてきた
[262,263ページの図版]
オハイオ州コロンバスで開かれた1931年の大会の出席者。彼らはエホバの証人という名称を熱意を込めて採択した
[264ページの図版]
1950年にN・H・ノアが発表した「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳」
[264ページの図版]
聖書預言の成就に関するF・W・フランズの話は大会のハイライトだった(ニューヨーク,1958年)
[265ページの図版]
長年の間,野外奉仕はすべての大会の主要な部分だった。
米国のロサンゼルス,1939年(下)。スウェーデンのストックホルム,1963年(はめ込み部分)
[266ページの図版]
1935年にJ・F・ラザフォードがワシントン特別区で行なった話は,ラジオと電話回線で六つの大陸に伝えられた
[268ページの図版]
1946年,ドイツのニュルンベルクで,エーリヒ・フロストは「試練のるつぼに入れられたクリスチャン」という熱烈な話を行なった
[269ページの図版]
1952年,N・H・ノアの訪問中に開かれた,北ローデシアのキトウェでの屋外の大会
[270,271ページの図版]
1958年,ニューヨークの二つの大きな競技場を超満員にした25万3,922人の聴衆が,「神の御国は支配す ― 世の終りは近いか」という話を聞いた
ポロ・グランド
ヤンキー・スタジアム
[274ページの図版]
1950年のヤンキー・スタジアムでの大会司会者,グラント・スーター
[274ページの図版]
1958年,ジョージ・カウチと共に大会組織を検討するジョン・グロー(座っている)
[277ページの図版]
1963年に世界一周大会が開かれ,20ほどの国や地域の代表者たちが大会とともにまさに世界一周の旅行をした
日本の京都(左下)は27の大会開催都市の一つだった。代表者たちは韓国で知り合いになった(中央)。ニュージーランドでのマオリ式あいさつ(右下)
[279ページの図版]
この時のために建設された竹造りの町で,17の言語グループのための大会プログラムが同時に提供された(ナイジェリアのラゴス,1970年)
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1989年,ポーランドで三つの大規模な大会が開かれ,37の国や地域の代表者が出席した
ポズナニで出席者に向かって話すT・ジャラズ(右側)
ホジュフでは何千人もの人がバプテスマを受けた
ワルシャワでは聴衆の拍手がなかなか鳴りやまなかった
当時のソ連からの代表者たち(下)
ホジュフでのプログラムの一部は15の言語に翻訳された
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『王国を第一に求める』エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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18章
『王国を第一に求める』
聖書の主要なテーマは,エホバのみ名が王国によって神聖なものとされるということです。イエス・キリストは追随者たちに,王国を第一に求め,それを人生の他の関心事よりも優先させるよう教えられました。なぜでしょうか。
「ものみの塔」誌が度々説明してきたように,エホバは創造者であるという事実のゆえに宇宙の主権者であられます。エホバは,被造物から最高度の敬意を受けるにふさわしい方です。(啓示 4:11)しかし,人類史が始まったばかりのころ,自ら悪魔サタンとなった神の霊の子が反抗してエホバの主権に挑戦しました。(創世記 3:1-5)さらにサタンは,エホバに仕える者にはすべて利己的な動機があると主張しました。(ヨブ 1:9-11; 2:4,5。啓示 12:10)こうして,宇宙の平和は乱されました。
ものみの塔の出版物がこれまで数十年にわたって指摘してきたように,エホバはそれらの論争を,ご自分の全能の力だけでなく,ご自分の知恵と公正と愛の偉大さをも大いなるものとするような方法で解決するための備えを設けられました。その備えの中心はメシアによる神の王国です。その王国によって,人類は義の道を学ぶ十分の機会を与えられます。その王国によって,邪悪な人々は滅ぼされ,エホバの主権は立証され,地球が楽園になって本当に神と互いを愛する人々,完全な命を与えられる人々がそこに住むことになるというエホバの目的は達成されます。
その王国の重要性のゆえに,イエスはご自分の追随者たちに,『ですから,王国をいつも第一に求めなさい』と助言されました。(マタイ 6:10,33)現代のエホバの証人は,その助言に留意するよう努力している証拠を豊富に示してきました。
王国のためにすべてを捨てる
聖書研究者たちは初期のころに,王国を第一に求めることの意味を考えました。イエスはたとえ話の中で王国を非常に価の高い真珠になぞらえ,ある人は『自分の持つすべてのものを売り,それからその畑を買う』と言われましたが,聖書研究者たちはイエスのそのたとえ話について検討しました。(マタイ 13:45,46)また,イエスは富んだ若い支配者に,すべてのものを売って貧しい人たちに配り,それからご自分に付いて来るよう助言されましたが,聖書研究者たちはイエスのその助言の意義についてもよく考えました。(マルコ 10:17-30)a 彼らは,神の王国にあずかるに値する者であることを示すには,王国を自分の第一の関心事とし,自分の命や能力や資産を喜んで王国の奉仕のために使わなければならないことを理解しました。生活の中のほかのものは,すべて二次的な位置を占めなければならないのです。
チャールズ・テイズ・ラッセルは,個人的にその助言を心に銘記しました。彼は繁盛する男性用服飾店を売り,徐々に他の事業への出資を減らし,それから人々を霊的に助けるために地上の所有物すべてを使いました。(マタイ 6:19-21と比較してください。)ラッセルはほんの数年間だけそのようにしたのではありません。まさに死に至るまで,自分が持つすべての有形無形の財産,つまり知力や体の健康や物質の所有物などをメシアの王国に関する偉大な音信を他の人に教えるために使ったのです。ラッセルの葬式の時に,仲間のジョセフ・F・ラザフォードはこう言いました。「チャールズ・テイズ・ラッセルは神に忠節であり,キリスト・イエスに忠節であり,メシアの王国の大義に忠節であった」。
1881年4月(聖書研究者たちの集会にほんの数百人しか出席していなかったころ),「ものみの塔」誌(英文)は,「1,000人の伝道者を求む」という題の記事を載せました。これには,扶養家族のいない男女が聖書文書を頒布する福音宣明者の仕事を始めるようにという呼びかけが含まれていました。その「ものみの塔」誌は,マタイ 20章1節から16節のイエスのたとえ話に出て来る表現を使って,「ぶどう園に行ってそこで働きたいという燃えるような願いを持ち,主が道を開いてくださることを祈ってきた人がおられるだろうか」と問いかけました。少なくとも自分の時間の半分を専ら主の業のために用いることのできる人々は,申し込むように勧められました。シオンのものみの塔冊子協会は,旅費と衣食住の費用の援助をするため,初期の聖書文書頒布者<コルポーター>に配布用の聖書文書を備え,文書に対するささやかな寄付として求めることのできる金額を定めた上で,そのようにして受け取ったお金の一部を自分のものにするよう勧めました。そのような取り決めにこたえ応じ,聖書文書頒布者<コルポーター>の仕事を始めた人がいるでしょうか。
1885年までに,300人ほどの聖書文書頒布者<コルポーター>が協会のもとで働いていました。1914年には,ついにその数が1,000人を超えました。それは簡単な仕事ではありませんでした。ある聖書文書頒布者<コルポーター>は,四つの小さな町の家々を訪ね,ある程度の関心を示した人にわずか三,四人しか会わなかった時にこう書きました。「正直に言って,こんなに遠くまでやって来て,非常に多くの人に会ったのに,神のご計画と教会に対する関心がほとんどないのを見て少し寂しく感じました。私がきちんと,恐れずに,真理を示すことができるよう,また善を行なうのにうみ疲れることがないよう,皆さんの祈りで私を助けてください」。
彼らは進んで自らをささげた
それらの聖書文書頒布者<コルポーター>は真の先駆者でした。ごく単純な乗り物しかなく,道といっても大抵はわだちしかなかったころに,彼らは最も行きにくい辺ぴな所に出かけてゆきました。ニュージーランドのアーリー姉妹はそのようにした人たちの一人です。第一次世界大戦が始まるかなり前から1943年に亡くなるまで,そうした全時間の奉仕に34年間をささげました。姉妹は国内のかなりの地域を自転車で回りました。関節炎で足が不自由になり,自転車に乗れなくなった時でさえ,自転車によりかかり,自転車で本を運びながらクライストチャーチのビジネス街を奉仕しました。階段を上ることはできましたが,足が不自由だったので下りる時は後ろ向きに下りなければなりませんでした。それでも,力が少しでも残っているかぎり,姉妹はその力をエホバへの奉仕に用いました。
そのような人々がこの仕事を始めたのは,自信があったからではありません。中には,生まれつき非常に引っ込み思案な人たちもいましたが,それでも彼らはエホバを愛していました。そのような姉妹の一人はビジネス街で証言する前に,近くにいる聖書研究者の一人一人に,自分のために祈ってほしいと頼みました。やがて,経験を積んでゆくうちに,姉妹はその活動をたいへん熱心に行なうようになりました。
1907年,マリンダ・キーファーは全時間奉仕を始めたいという願いをラッセル兄弟に伝えた時,まず知識を増やす必要があると思っていることを話しました。事実,彼女が聖書研究者の文書を初めて見たのはその前年にすぎませんでした。ラッセル兄弟の答えはこうでした。「すべてのことが分かるまで待ちたいと思っているとすれば,いつまでたっても始められません。むしろそれは行ないながら学ぶものなのです」。彼女はためらうことなくすぐに米国オハイオ州でその奉仕を始めました。よく思い出したのは,「あなたの民は進んで自らをささげます」という詩編 110編3節の言葉です。それから76年間,彼女はその奉仕を続けました。b 始めた時は独身でした。15年間は結婚した夫婦として奉仕を楽しみました。しかし夫を亡くした後も,彼女はエホバの助けによって前進し続けました。数十年を振り返り,彼女はこう言いました。「若い時に開拓者として進んで自らをささげ,王国の関心事をいつも第一にすることができて本当によかったと思います」。
初期のころは,全体大会が開催される時に聖書文書頒布者<コルポーター>たちとの特別な集まりがよく開かれました。質問に対する答えが与えられ,新しい人たちの訓練が行なわれ,励ましが与えられました。
1919年以降,神の王国を非常に高く評価し,本当に神の王国を中心にして生活を築いたエホバの僕たちはほかにも大勢いました。中には,世俗の仕事をやめて宣教に完全に打ち込むことのできた人たちもいました。
物質的な必要を賄う
彼らはどのようにして物質的な必要を賄ったのでしょうか。デンマークの全時間の福音宣明者,アンナ・ピーターセン(後のレマー)はこう述懐しました。「私たちは文書の配布を毎日の出費の足しにすることができましたし,必要なものはそんなに多くありませんでした。大きな出費があった時も,必ず何とかなりました。姉妹たちからはワンピースや上着など,いろいろな服をよくいただいたので,すぐにその場で身に着け,着ることができました。ですから,服は十分にありました。冬には,数か月事務の仕事をしたこともあります。……売り出しの時に買い物をしたので,一年を通じて,必要な服を買うことができました。順調だったので困ったことは一度もありません」。物質的なものは彼らのおもな関心事ではありませんでした。エホバとエホバの道に対する愛は彼らの中で燃える火のようになりました。彼らはその愛を表わさずにはいられなかったのです。
彼らは地域の人々を訪問している間,小さな部屋を借りて寝泊まりすることがありました。また,トレーラーを使った人もいましたが,それは凝った装備など何もない,ただ食べて寝るだけの所でした。あちこち移動しながら,テントの中で眠った人たちもいました。場所によっては,兄弟たちが“開拓者キャンプ”を作ることもありました。また,地域の証人たちが家を提供してくれることもあり,そういう場合は一人の人が家を管理する仕事を割り当てられました。その地域で奉仕する開拓者たちはその宿舎を使うことができ,使った人たちで関係する経費を分担しました。
それらの全時間奉仕者は,羊のような人々にお金がなくても聖書文書を渡すようにしました。開拓者たちはよく,ジャガイモ,バター,卵,生の果物,缶詰の果物,鶏,石けんなど,ほとんどすべてのものと出版物を交換しました。彼らはそのようにして裕福になったわけではありません。むしろ,それは誠実な人々が王国の音信を聞くようにするための手段であり,同時に,開拓者たちが生活に必要な物資を得て宣教を続けられるようにするための手段でした。彼らは,「王国と神の義をいつも第一に求め(る)」なら,そのとき,必要な食物や衣服は備えられるというイエスの約束を信頼していました。―マタイ 6:33。
必要な所ならどこでも喜んで奉仕する
全時間の奉仕者たちは,イエスが弟子たちに割り当ててくださった業を行ないたいと真剣に願っていたので,新しい区域,時には新しい国にさえ出かけてゆきました。フランク・ライスは1931年に,オーストラリアを離れてジャワ(現在はインドネシアの一部)で良いたよりを宣べ伝える活動を開始するよう依頼された時,すでに全時間宣教を10年経験していました。しかし今度は,新しい習慣と新しい言語を学ばなければなりません。店や事務所にいる人たちには英語を使って証言することもできましたが,他の人々にも証言したいと思いました。それで一生懸命勉強した結果,3か月足らずで家から家の伝道を始められる程度のオランダ語をマスターしました。それからマレー語の勉強もしました。
フランクはジャワに行った時,26歳の若さでした。ジャワとスマトラにいた6年間のほとんどは一人で働きました。(1931年の終わりに,クレム・デシャンとビル・ハンターがオーストラリアからやって来て仕事を助けました。彼らはコンビを組んで内陸部を旅行しながら宣べ伝えましたが,フランクはジャワの首都の中かその近郊で働きました。後に,クレムとビルも別々の地域に行く割り当てを受けました。)フランクが出席できる会衆の集会はありませんでした。時には非常に寂しくなることもありました。あきらめてオーストラリアに戻ろうという考えとも再三闘いました。しかし,彼はくじけませんでした。どうしてでしょうか。「ものみの塔」誌に含まれている霊的な食物によって力を得たからです。1937年には,インドシナの任地に移りましたが,そこでは第二次世界大戦後の激しい動乱の時期をかろうじて生き延びることができました。そのような進んで奉仕する精神は1970年代になってもまだ衰えていませんでした。彼はそのころ,家族全員がエホバに仕えていることの喜びについてしたため,妻と一緒にもう一度オーストラリアの必要の大きな所に移る準備をしていると述べました。
『心をつくしてエホバに依り頼む』
クロード・グッドマンは,『心をつくしてエホバに依り頼み,自分の理解に頼らない』ことを決意したので,クリスチャンの福音宣明者として,世俗の事業の好機ではなく聖書文書頒布者<コルポーター>の奉仕を選びました。(箴言 3:5,6)彼は真理を学ぶ時に援助を受けたロナルド・ティピンと共に,英国で1年余り聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕しました。それから1929年に,二人はインドに行くことにしました。c こうして,大きな難問が二人に突きつけられました。
その後何年もの間,二人は徒歩や旅客列車やバスだけでなく,貨物列車,牛車,ラクダ,サンパン(小舟),人力車,さらには飛行機や私有の列車などでも旅行しました。時には,駅の待合室,家畜小屋,ジャングルの草むら,牛糞にまみれた小屋の床などに寝袋を広げたこともあれば,豪華なホテルやラージャ(王侯)の宮殿に泊まった時もありました。二人は使徒パウロのように,乏しい時にもあふれるほど豊かな時にも満足する秘訣を学び取りました。(フィリピ 4:12,13)大抵,高価な物はほとんど持っていませんでしたが,本当に必要な物がなかったことは一度もありませんでした。二人は,王国と神の義をいつも第一に求めるなら,生活で必要な物は備えられるというイエスの約束が果たされるのを身をもって体験しました。
デング熱,マラリア,腸チフスといった重い病気にもかかりましたが,仲間の証人たちが愛情をこめて看護してくれました。カルカッタなどの薄汚れた都会で奉仕したこともあれば,セイロン(現在の名称はスリランカ)の山岳地にあるお茶の大農園で証言したこともありました。人々の霊的な必要を満たすため,文書を提供したり,地元の言語のレコードをかけたり,講演を行なったりしました。仕事が増えてゆくと,クロードは印刷機の操作の仕方や,協会の支部事務所の仕事の扱い方も覚えました。
彼は生涯の87年目に,イギリス,インド,パキスタン,セイロン,ビルマ(現在のミャンマー),マラヤ,タイ,オーストラリアでエホバに奉仕した波乱に富んだ人生を振り返ることができました。独身の若者としても,夫や父親としても,いつも生活の中で王国を第一にしました。彼はバプテスマを受けてから2年足らずで全時間奉仕を始め,それ以降その奉仕を自分の生涯の仕事とみなしました。
神の力は弱さのうちに全うされた
ベン・ブリッケルも,それらの熱心な証人たちの一人でした。他の人たちと全く同じように様々な事柄を必要とし,幾つかの病気も抱えていましたが,信仰の点では際立っていました。1930年にニュージーランドで聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を始め,いろいろな区域で証言しましたが,再びそれらの区域が網羅されるようになったのは何十年か後のことでした。2年後にはオーストラリアで,以前に証言が行なわれたことのない砂漠地方に出かけ,そこを回りながら5か月間の伝道旅行をしました。自転車には,毛布,衣服,食物,配布用の書籍をどっさり積んでいました。その地域を通過しようとして命を落とした人々もいましたが,彼はエホバを信頼して進みました。次はマレーシアでの奉仕です。そこでは重い心臓病を患いましたが,それでもやめませんでした。しばらく休養した後,オーストラリアで全時間の伝道活動を再開しました。約10年後には重病のために入院しました。退院の時には,医師から,「仕事をする力は85%減少した」と言われました。通りを歩いて買い物をするにも,途中で休まなければならない状態でした。
しかし,ベン・ブリッケルは,もう一度やり直すことを決意し,必要な時には休むようにしながら活動を行ないました。やがて,オーストラリアの険しい奥地で再び証言するようになりました。彼は健康管理のためにできることを行ないましたが,30年後に60代の半ばで亡くなるまで,彼の人生の主要な事柄はエホバへの奉仕でした。d 弱さから来る不足はエホバの力によって補われることを彼は理解しました。1969年にメルボルンで大会があった時には,「開拓奉仕について知りたい方は私にお尋ねください」という大きなバッジを襟に付け,開拓者デスクで奉仕しました。―コリント第二 12:7-10と比較してください。
ジャングルの村や鉱山の集落を訪れる
エホバの奉仕に対する熱意に動かされ,手つかずの地域で働くようになった人々の中には,男性だけではなく女性もいました。フリーダ・ジョンソンは油そそがれた人々の一人で,やや小柄な女性でした。中央アメリカの各地を独りで奉仕し,ホンジュラスの北海岸のような地域を馬に乗って回ったのは50代の時でした。この地域を独りで奉仕し,散在するバナナ農園や,ラセイバ,テラ,トルヒーヨといった町々だけでなく,はるか遠くのカリブ族の僻村にまで出かけてゆくには信仰が必要でした。彼女は1930年から1931年にかけて,また1934年,1940年,1941年にもそこで証言し,聖書の真理を載せた文書を非常にたくさん配布しました。
その時期に,生涯の仕事として全時間宣教を始めた熱心な奉仕者がもう一人います。それはドイツ生まれのカーテ・パルムです。彼女を行動へと動かしたのは,1931年にオハイオ州コロンバスの大会に出席したことでした。その大会で,聖書研究者たちはエホバの証人という名称を採用しました。その時,彼女は王国を第一に求めることを決意し,89歳になった1992年の時点でも依然そうしていました。
彼女はニューヨーク市で開拓奉仕を始めました。その後サウス・ダコタ州では,パートナーのいた時期が数か月ありましたが,それからは独りで生活し,馬に乗って旅をしました。南米のコロンビアで奉仕するよう招かれた時はすぐにそれに応じ,1934年の終わりにそこに着きました。またしても,しばらくの間はパートナーと一緒でしたが,それからは独りになりました。それでも,やめなければならないとは感じませんでした。
ある夫婦がチリで一緒に奉仕するよう招いてくれました。これも広大な区域です。南米大陸の西海岸に沿って4,265㌔も広がっています。彼女はまず首都にあるオフィス街を回って宣べ伝えてから,はるかな北方に向かいました。採鉱の集落や一企業に依存する町など,大小さまざまな町村をもれなく訪れ,どこでも戸別に証言しました。アンデスの山奥の労働者たちは,女性が独りで訪問してきたのを見て驚きましたが,彼女は自分に割り当てられた地域で一人も見逃すことがないよう決意していました。それから南部に移りました。南部には,10万㌶もあるエスタンシア(羊の牧場)が幾つかありました。そこの人々は人なつこく,もてなし上手で,彼女を食事に招いてくれました。エホバはこうした方法や他の方法で彼女を顧みられたので,彼女は生活に必要な物資を得ることができました。
彼女は,専ら神の王国の良いたよりを宣べ伝える人生を送りました。e そして,奉仕の年月を振り返って,こう言っています。『実に豊かな日々を送ったという感じです。毎年,エホバの民が集まる大会に出席するごとに,以前自分と研究した多くの人々が良いたよりの伝道者となり,さらに他の人を助けて命の水に導いているのを見て,心あたたかく,満たされた気持ちを覚えました』。彼女は,エホバの賛美者がチリで約50人から4万4,000人余りにまで増えるのを見て喜んでいます。
「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」
ドイツのマーティン・ポエツィンガーは,イザヤ 6章8節に記録されている,奉仕に対するエホバからの招きと,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」という預言者の積極的な反応とに基づく講演を聞いた後にバプテスマを受けました。2年後の1930年には,バイエルンで全時間宣教を始めました。f 程なくして,地方当局はエホバの証人の伝道を禁止し,集会場を閉鎖し,文書を没収しました。ゲシュタポの脅威もありました。しかし,1933年のそうした事態の進展を見ても,ポエツィンガー兄弟は宣教をやめませんでした。
彼はブルガリアで奉仕するよう招かれました。ブルガリア語の証言カードを使って聖書文書を紹介しましたが,多くの人は字が読めませんでした。それでポエツィンガー兄弟は,キリル文字を使った彼らの言語を学ぶためにレッスンを受けました。ある家族のもとに文書を残してきたとしても,多くの場合,幼い子供たちがそれを親に読んであげることが必要でした。
最初の年のほとんどの期間,ポエツィンガー兄弟は独りでした。「記念式の時は,自分で話をし,自分で祈り,閉会も全部自分でしました」と,兄弟は書いています。1934年中,外国人は国外に退去させられたため,彼はハンガリーに行きました。そこでも,良いたよりを伝えることができるよう,新しい言語を学ばなければなりませんでした。ハンガリーの次は旧チェコスロバキアや旧ユーゴスラビアといった国々にも行きました。
文書の入った荷物を背負って田舎の地方や村落を歩きながら,真理を愛する人々を見つけること,もてなし上手の人々が食べ物をくれたり,泊めてくれたりした時に,エホバの世話を経験すること,王国に関する慰めの音信をもっと聞くために宿にやって来た人たちと夜遅くまで話をすることなど,彼は多くの楽しい経験をしました。
信仰の厳しい試みもありました。故国を離れて資金を持たずに奉仕していた時に重い病気にかかりました。喜んで診察してくれるような医師は一人もいません。しかし,エホバが必要を顧みてくださいました。どのようにでしょうか。最後になって,地元の病院の主任顧問医に会うことができました。聖書を固く信じていたこの人は,息子に対するようにしてポエツィンガー兄弟を世話し,しかも無料で面倒を見てくれました。その医師は,若いポエツィンガー兄弟の活動に現われていた自己犠牲の精神に感銘を受け,協会の本を1セット贈り物として受け取りました。
結婚して4か月後にもう一つの厳しい試みが訪れました。ポエツィンガー兄弟は1936年12月に逮捕され,最初はある強制収容所に監禁され,それから別の収容所に移されました。一方,妻はさらに別の強制収容所に入れられていました。二人は9年間互いに会うことができませんでした。エホバはそのような残忍な迫害を阻止されませんでしたが,マーティンと妻のゲルトルート,それに他の幾千人もの人々に,迫害を耐えるための力をお与えになりました。
夫婦とも釈放された後,ポエツィンガー兄弟はドイツで長年にわたり旅行する監督として奉仕を楽しみました。ニュルンベルクにあったヒトラーのかつての閲兵場で戦後の時期に開かれた興奮に満ちた大会にも出席しました。ただしその時に,それらの閲兵場を埋め尽くしたのは,神の王国の忠節な支持者たちの大勢の群衆でした。また,ニューヨークのヤンキー・スタジアムで開かれた忘れ難い大会にも出席しました。ものみの塔ギレアデ聖書学校の訓練も十分に楽しみました。そして1977年には,エホバの証人の統治体の一員になりました。1988年に地上の歩みを終えるまで持っていた見方を最もよく表わしているのは,次の言葉かもしれません。『私が行なうのは一つのこと,つまり王国を第一に求めることです』。
その本当の意味を学ぶ
自己犠牲の精神は明らかに,エホバの証人にとって新しい事柄ではありません。1886年の昔に「千年期黎明」の第1巻が出版された時,聖別(今で言う献身)の問題が率直に論じられました。真のクリスチャンはすべてのものを神のために「聖別する」こと,そのすべてのものの中には自分の能力,物質的な所有物,さらには命そのものが含まれているということが,聖書に基づいて指摘されました。ですからクリスチャンは,神のために「聖別された」ものの家令になり,そのような家令として,人にではなく神に言い開きをしなければなりません。
ますます多くの聖書研究者が,神への奉仕に本当に自分自身をささげるようになりました。そのような人々は,神のご意志を行なうために自分の能力や所有物や活力を十分に用いました。一方,最も大切なのは,いわゆるクリスチャンとしての人格を身に着け,キリストと共に王国にあずかる資格を得ることであると考える人々もいました。
ラッセル兄弟はしばしば,真のクリスチャン一人一人には神の王国について他の人々に証言する責任があると述べていましたが,そのことがなおいっそう強調されるようになったのは第一次世界大戦後のことでした。「ものみの塔」誌(英文),1926年5月1日号の「人格と契約,どちらが大切か」という記事はその際立った例です。その記事は,いわゆる人格陶冶の有害な影響を率直に取り上げてから,神に対する責務を行動によって果たすことの大切さを強調しました。
それよりも前に,「ものみの塔」誌(英文),1920年7月1日号は,『イエスの臨在と世の終わりの兆』に関するイエスの偉大な預言について検討しました。(マタイ 24:3,欽定)その号は,マタイ 24章14節の成就として行なうべき宣べ伝える業に注意を向けると共に,ふれ告げるべき音信を示し,「ここで言う良いたよりは,古い事物の秩序の終わりとメシアの王国の設立に関するものである」と述べました。「ものみの塔」誌は,イエスがしるしの他の特色との関連において,どの箇所でその業のことを述べているかを根拠に,その業は「世界大戦[第一次世界大戦]の時と,主がマタイ 24章21節と22節で言及した『大患難』の時の間に」成し遂げられなければならないと説明しました。それは緊急な業でした。だれがそれを行なうのでしょうか。
この責任は明らかに,「教会」つまり真のクリスチャン会衆の成員にありました。しかし1932年に,その人々は「ものみの塔」誌(英文)の8月1日号を通して助言を与えられ,啓示 22章17節の精神と調和して共に業を行なうよう「エホナダブ級」に勧めました。地上の楽園での永遠の命という希望を持つエホナダブ級はそれにこたえ応じました。しかもその多くは熱心にそうしました。
この業が非常に肝要であるということは,大いに強調されてきました。「ものみの塔」誌(英文)は1921年に,「主の奉仕に参加することは集会に出席することと同じく肝要である」と言っています。また1922年には,「各自は福音の伝道者でなければならない」と指摘しました。1949年には,「エホバは宣べ伝えることを,だれもがこの世で行なえる最も大切な業とされた」と述べています。コリント第一 9章16節の使徒パウロの次の宣言も繰り返し引用されてきました。「わたしにはその必要が課せられてい(ま)す。実際,もし良いたよりを宣明しなかったとすれば,わたしにとっては災いとなるのです!」 この聖句は,エホバの証人一人一人に当てはめられてきました。
どれほど多くの人が,どの程度まで,なぜ伝道するのか
自分の意思に反して強制的にその業に参加させられた人がいるでしょうか。「ものみの塔」誌(英文)は,1919年8月1日号の中でこう答えています。「そのような人は一人もいない。だれも強制的に何かをさせられているわけではない。それは,主と主の義という大義を愛するがゆえに行なわれている全く純然たる自発奉仕である。エホバが人を徴集なさるようなことは決してない」。そのような奉仕の背後にある動機について,「ものみの塔」誌(英文),1922年9月1日号はこうも述べています。「本当に心に感謝を抱き,神が自分のためにしてくださった事柄を高く評価する人は,お返しに何かをしたいと願うようになる。自分に差し伸べられた神のご親切に対する当人の認識が深まれば深まるほど,当人の愛は深まり,当人の愛が深まれば深まるほど,神に仕えたいという願いは深まるのである」。その記事で説明されたとおり,神に対する愛は神のおきてを守ることによって示されるものであり,そのおきての一つは神の王国に関する喜ばしいおとずれを宣べ伝えることなのです。―イザヤ 61:1,2。ヨハネ第一 5:3。
この活動を始めた人々は,この世の野心的な考えに引かれたのではありません。家から家に出かけて行ったり,街頭で文書を提供したりすれば,「愚かで,弱く,みすぼらしい」とみなされ,「軽べつされ,迫害され」,「この世の観点からは大したことのない」人々の部類に入れられることが,そのような人々に率直に説明されました。しかし彼らは,イエスとイエスの初期の弟子たちもそれと同じ扱いを受けたことを知っています。―ヨハネ 15:18-20。コリント第一 1:18-31。
エホバの証人は,宣べ伝える活動によって何とか救いを勝ち取れると考えているのでしょうか。決してそうではありません。1983年以来,クリスチャンとしての円熟に向かって進歩するよう研究生を助けるために使われている,「唯一まことの神の崇拝において結ばれる」という本はその点を論じ,こう述べています。「さらに,イエスの犠牲によってとこしえの命を受ける機会がわたしたちのために開かれました。……これは自分の力で勝ち取る報いではありません。たとえエホバへの奉仕においてどんなに多くのことをしたとしても,わたしたちは決して,わたしたちに命を与える義務を神に負わせるような業績を築けるものではありません。とこしえの命は『わたしたちの主キリスト・イエスによる神の賜物』です。(ローマ 6:23。エフェソス 2:8-10)それでも,もしわたしたちがその賜物に対する信仰と,それが可能にされた方法に対する深い認識を抱いているなら,わたしたちはそのことをはっきりと表わします。エホバがご自分の意志を成し遂げる上でいかに驚嘆すべき仕方でイエスをお用いになられたか,またわたしたちすべてがイエスの足跡にしっかり従うことがいかに肝要なことかをはっきり理解すると,わたしたちはクリスチャンの奉仕の務めを生活の中で最も重要な事柄の一つにします」。
エホバの証人は全員,神の王国をふれ告げる人々であると言えるでしょうか。確かにそう言えます。エホバの証人であるということは,そういう意味なのです。今から50年余り前には,公に,また家から家に出かけて行って野外奉仕に参加する必要はないと考えていた人たちもいました。しかし今日,地元の会衆や世界的な組織の中での立場を理由に,そのような奉仕の免除を求めるエホバの証人は一人もいません。男性も女性も,若い人も年配の人も参加しています。これを貴重な特権,神聖な奉仕とみなしているのです。また,重い病気なのに奉仕を行なう人も少なくありません。体の具合いが悪くてどうしても家から家の奉仕に出かけてゆけない人も,ほかの方法を見つけて人々と接触し,個人的に証言を行なっています。
かつては,新しい人が野外奉仕に参加するのを早く認めすぎる傾向が時として見られました。しかしここ数十年は,野外奉仕を勧める前に,まず資格を満たすということが以前よりも強調されるようになりました。それはどういう意味でしょうか。その人たちが聖書についてすべてを説明できなければならないという意味ではありません。むしろ,「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」という本が説明しているように,聖書の基本的な教えを知り,それを信じていなければならないということです。また,聖書の規準に調和した清い生活を送っていなければならず,各自がエホバの証人になることを本当に望んでいなければなりません。
すべてのエホバの証人が同じ量の伝道を行なうことが期待されているわけではありません。事情はそれぞれ違います。年齢,健康,家族の責任,また認識の深さなどはみなその要素です。この点はいつの時代にも認められてきました。「ものみの塔」誌(英文),1950年12月1日号は,ルカ 8章4節から15節の種まき人に関するイエスのたとえ話の中の「良い土」について説明する際に,その点を強調しました。また,1972年に長老たちのために作られた「王国宣教学校課程」は,『魂をこめてエホバを愛する』という要求について分析し,「肝要なのは,だれかほかの人との比較でどれほどの量を行なうかということではなく,できるだけのことをするということである」と説明しています。(マルコ 14:6-8)しかし,その本は真剣な自己分析を勧め,そのような愛の意味するところを次のように示しました。「愛をもって神に仕えることには人の存在のあらゆる面が関係しており,命のうちにあるいかなる機能も能力も願望も除外されてはいない」。神のご意志を行なうために,わたしたちの能力すべて,魂全体をつぎ込まなければなりません。その教科書は,「神は単なる参加ではなく,魂をこめた奉仕を求めておられる」ことを強調しました。―マルコ 12:30。
残念ながら,一つのことを重視するあまり別のことをおろそかにして極端に走るというのは,不完全な人間の傾向です。それで1906年の昔にラッセル兄弟は,自己犠牲は他の人を犠牲にするという意味ではない,と忠告する必要を感じました。それは,他の人に自由に伝道できるよう,妻や扶養しなければならない子供たち,さらには年取った親をきちんと世話することを怠るという意味ではないのです。それ以来,ものみの塔の出版物には,同様の諭しが時々載せられてきました。
組織全体は神の言葉の助けによって徐々に,クリスチャンとしての釣り合いの取れた状態に達するよう,つまり神への奉仕に熱意を示すと同時に,真のクリスチャンとしての生活のあらゆる面にふさわしい注意を向けるよう努めてきました。「人格陶冶」は間違った理解に基づいていたにしても,「ものみの塔」誌は,霊の実とクリスチャンの振る舞いを過小評価すべきではないことを示してきました。1942年の「ものみの塔」誌(英文)は極めて率直にこう述べています。「ある人たちは愚かにも,家から家の証しの業を行なっていれば,自分の欲望のおもむくままにどんな行動を取ったとしても処罰を免れることができると結論している。要求されているのは,単に証しの業を行なうことだけではないという点を忘れてはならない」。―コリント第一 9:27。
優先させるべき事柄を優先させる
エホバの証人は,『王国と神の義を第一に求める』のは,優先させるべき事柄を優先させることにほかならないという点を理解するようになりました。そのことには,神の言葉の個人研究と,会衆の集会への定期的な出席を生活の中でふさわしく位置づけ,他の事柄を優先させないということが含まれます。また,神の王国に関する要求として聖書に説明されている事柄にかないたいという純粋な願いを反映した決定を下すことも関係しています。それには,家族生活,レクリエーション,世俗の教育,就職,仕事上の慣行,仲間の人たちとの関係などについて決定を下す際に,根拠として聖書の原則を用いることが含まれます。
王国を第一に求めるというのは,神の目的について他の人々に話す活動に毎月いくらか参加するだけのことではありません。他の聖書的な責務をきちんと果たしつつ,生活全体の中で王国の関心事を第一にすることを意味しているのです。
敬虔なエホバの証人が王国の関心事を促進する方法はたくさんあります。
ベテル奉仕の特権
ある人たちは,世界的なベテル家族の一員として奉仕しています。ベテル家族は,聖書文書を準備して出版する仕事,必要な事務を行なう仕事,そのような業務を支えるサービスを行なう仕事など,どんな仕事を割り当てられてもそれを自発的に行なう全時間奉仕者たちで成っています。それは,個人として目立った存在になったり,物質の所有物を得たりするための仕事ではありません。その人々はエホバを敬うことを願っており,食物や宿舎,また個人的な出費を賄うためのささやかな払い戻し金として与えられる備えに満足しています。ベテル家族の生き方のために,例えば米国の世俗の権威は,彼らを清貧の誓いをした聖職者とみなしています。ベテルにいる人々は,エホバへの奉仕のために,また非常に大勢のクリスチャンの兄弟たちや新たに関心を持った人たちの役に立つ,時には国際的なレベルの仕事を行なうために,自分の命を十分に用いられることを喜んでいます。エホバの証人である他の人たちと同様に,彼らも野外宣教に定期的に参加しています。
最初のベテル家族(あるいは,当時の言い方ではバイブル・ハウス家族)は,米国ペンシルバニア州アレゲーニーに住んでいました。1896年の時点で人員は12人でした。1992年には,99の国や地域で奉仕する1万2,900人余りのベテル家族の成員がいました。その上,協会の施設内に十分な住居がない場合は,他の幾百人もの自発奉仕者が仕事を手伝うためにベテル・ホームや工場に毎日通って来ます。彼らは行なわれている仕事に参加することを特権とみなしています。必要な場合は,協会が神の王国の良いたよりを世界中で宣べ伝える活動に関連して使う必要のある施設の建設を手伝うために,期間は様々に異なりますが,世俗の仕事や他の活動を後にすることを申し出る証人たちも大勢います。
世界中のベテル家族の成員の中には,それを生涯の仕事にした人が少なくありません。1977年にものみの塔協会の4代目の会長になったフレデリック・W・フランズは,その時点ですでに57年間ニューヨークのベテル家族の成員として過ごし,1992年に亡くなるまでさらに15年間ベテル奉仕を続けました。ハインリッヒ・ドウェンガーは1911年にドイツでベテル奉仕を始めて以来,どこに割り当てられても慎み深く奉仕してきました。亡くなった1983年にも依然として,スイスのトゥーンのベテル家族の成員として奉仕を楽しんでいました。スコットランド出身のジョージ・フィリップスは,1924年に(当時はケープタウンからケニアに至る地域の宣べ伝える活動を管轄していた)南アフリカの支部事務所へ行く割り当てを受け入れ,1982年に亡くなるまで南アフリカで奉仕を続けました。(その時点では,協会の七つの支部事務所と約16万人の証人たちがその地域で活動を行なっていました。)キャスリン・ボガード,グレイス・デチェッカ,イルマ・フレンド,アリス・ベルナー,メリー・ハナンといったクリスチャンの姉妹たちも,成人してから生涯をベテル奉仕にささげ,まさに亡くなる時までベテルで奉仕しました。ベテル家族の中にはそれと同じように,10年,30年,50年,70年,あるいはそれ以上奉仕してきた人々がほかにも大勢います。g
自己犠牲を示す旅行する監督たち
世界中に,約3,900人の巡回監督と地域監督がいます。彼らも妻と一緒に,普通は自国内の必要とされているどんな場所にでも赴いて,割り当てを果たしています。中には,家を後にして,今では毎週,あるいは数週ごとに移動しながら割り当てられた会衆に奉仕している人も少なくありません。彼らは給料はもらいませんが,奉仕する場所で得られる食物と宿舎,さらには個人的な出費を賄うためのささやかな備えに感謝しています。1992年の時点で499人の巡回監督と地域監督が奉仕していた米国では,そうした旅行する長老たちの平均年齢は54歳でした。中にはその立場で30年,40年,あるいはそれ以上奉仕してきた人もいます。それらの監督たちが自動車で旅行する国は少なくありません。また,太平洋地域の区域では,民間会社の飛行機や船を使わなければならないことがよくあります。巡回監督が馬に乗って,あるいは徒歩で遠くの会衆を訪問する場所も珍しくありません。
開拓者たちは大切な必要を満たす
エホバの証人が一人もいない所で良いたよりの伝道を始めたり,ある地域で特別に必要とされるような援助を与えたりするために,統治体は特別開拓者を派遣するよう取り決めることがあります。特別開拓者は,野外宣教に毎月最低140時間を費やす全時間の福音宣明者です。彼らは自国や,場合によっては近くの国のどこでも必要とされている所で奉仕するために自分を差し出します。奉仕に関する要求からして,必要な物資を得るために世俗の仕事をする時間はほとんど,あるいは全く残らないので,彼らは家賃や他の必要物の出費に対するささやかな払い戻し金を受け取っています。1992年の時点で,世界各地に1万4,500人余りの特別開拓者がいました。
最初の特別開拓者が1937年に送り出された時,彼らは家の人のために玄関先で聖書の話のレコードをかけ,再訪問で聖書について話し合う基礎としてレコードを使う活動に率先しました。これは,すでに会衆があった大都市で行なわれました。数年後,特別開拓者たちは特に,会衆がない地域か,会衆が助けを大いに必要としている地域に派遣されるようになりました。彼らの効果的な働きの結果,幾百もの新しい会衆が設立されました。
彼らは区域を回って別の所に移るのではなく,関心を示したすべての人をその後も引き続き世話し,聖書研究を司会するようにして,一定の地域を繰り返し奉仕しました。関心を示す人のためには集会も開きました。例えば,アフリカ南部のレソトでのことですが,ある特別開拓者は新しい任地で働いた最初の週に,エホバの証人が神権宣教学校をどのように行なっているかを実際に来て見るよう,会う人すべてに勧めました。彼とその家族がすべてのプログラムを扱いました。次に彼は全員を「ものみの塔」研究に招待しました。最初の好奇心が満たされた後でも,30人が「ものみの塔」研究に出席し続けました。学校の平均出席者は20人でした。ギレアデで訓練を受けた宣教者たちが良いたよりの伝道を進めるのに大いに貢献した地域でも,その国で生まれた証人たちが特別開拓奉仕の資格を得るようになった時に拡大が速まることがありました。彼らのほうが地元の人々の中でいっそう効果的に働ける場合が少なくないからです。
これらの熱心な奉仕者たちのほかにも,さらに幾十万ものエホバの証人がやはり王国の関心事を力強く促進しています。この人々の中には,若い人も年配の人も,男性も女性も,結婚している人も独身の人も含まれています。正規開拓者は,野外宣教に毎月最低90時間を費やします。補助開拓者は少なくとも60時間です。彼らはどこで宣べ伝えるかを自分で決めます。ほとんどの人は設立された会衆と共に働きますが,孤立した地域に移る人もいます。彼らは何らかの世俗の仕事をして,自分自身の必要な物資を自分で賄います。あるいは家族が必要物を備えて援助する場合もあります。1992年には,91万4,500人余りが少なくともある期間,正規開拓者や補助開拓者としてそのような奉仕を行ないました。
特別な目的を持った学校
自発奉仕者たちをいろいろな種類の奉仕に備えさせるために,特別な学校が開かれています。例えば1943年以来,ギレアデ学校は幾千人もの経験を積んだ奉仕者に宣教者奉仕のための訓練を施してきました。卒業生は世界各地に派遣されています。1987年には,会衆の世話や他の責任を含む特別な必要を満たす助けとして,宣教訓練学校が開校されました。この学校を様々な場所で開く取り決めによって,生徒が本拠地に行くための旅行や,学校から益を受けるために別の言語を学ぶ必要は最小限に抑えられています。この学校に出席するよう招かれるのは皆,王国を本当に第一に求めている証拠を示してきた長老か奉仕の僕です。中には,他の国で奉仕するようになった人も少なくありません。彼らは,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と言った預言者イザヤのような精神を持っています。―イザヤ 6:8。
すでに正規開拓者や特別開拓者として奉仕している人たちの効果性を高めるため,1977年に開拓奉仕学校が開校されました。世界中どこでも,この学校は可能な場合には巡回区ごとに開かれました。開拓者は全員,この2週間の課程から益を受けるよう招待されました。それ以来段階的に,最初の1年の奉仕を終えた開拓者たちが同じ訓練を与えられています。1992年までに,米国だけでも10万人余りの開拓者がその学校で訓練を受け,毎年1万人以上が訓練を受けていました。さらに,日本では5万5,000人,メキシコでは3万8,000人,ブラジルでは2万5,000人,イタリアでも2万5,000人が訓練を受けています。この課程のほかにも,開拓者たちは巡回監督が各会衆を年に2回訪問する時の特別な集まりや,年に一度の巡回大会の時に巡回監督と地域監督の両者を交えて開かれる特別な訓練の集まりを定期的に楽しんでいます。こうして,開拓者として奉仕する王国宣明者たちの大軍を構成する人々は,自発的に働く人たちというだけでなく,十分に訓練を受けた奉仕者でもあるのです。
必要の大きな所で奉仕する
地元だけではなく,良いたよりをふれ告げる人々の必要の大きな他の地域でも奉仕できるよう自分を差し出してきたエホバの証人は非常に大勢います。その中には,開拓者もそうでない人もいます。毎年,エホバの証人が定期的に訪問していない人々に証言するため,大抵は地元からかなり遠く離れた地域で,個人的に計画できる範囲によって数週間,あるいは数か月を過ごす人々も多くいます。さらには,長期にわたってそのような援助を行なうため,地元を離れて引っ越した人も大勢います。その中には,夫婦や,子供のいる家族もたくさん含まれています。彼らは比較的近い場所に引っ越す場合が多いとはいえ,中にはそのような引っ越しを長年にわたって繰り返す人もいます。こうした熱心な証人たちの中には,外国での奉仕を行なうようになった人たちさえ少なくありません。数年間そのようにした人もいれば,永住した人もいます。そのような人々は,自分の必要を賄うためにしなければならない世俗の仕事を行ないます。引っ越しも自費でします。事情が許す範囲でできるかぎり王国の音信を広めることに加わりたいというのが,そのような人たちの唯一の願いなのです。
家族の頭がエホバの証人ではない場合も,仕事の関係で家族が引っ越すことがあります。しかし,エホバの証人である家族の成員はそれを王国の音信を広める機会とみなすかもしれません。1970年代の後半に米国からスリナムのジャングルにある工事現場の宿泊所に移った二人のエホバの証人の場合は,確かにそうでした。二人は週に2回朝の4時に起き,大変な道を会社のバスで1時間かけて村に行っては一日伝道しました。やがて真理に飢えた人々と毎週30件の聖書研究を行なうようになりました。今日,その熱帯雨林にあったかつての手つかずの地域には一つの会衆があります。
証言する好機を一つも逃さない
もちろん,すべてのエホバの証人が,宣教を行なうために他の国,あるいは他の町に引っ越すわけではありません。そのような人々には,開拓奉仕ができない事情があるかもしれません。それでも彼らは,「真剣な努力をつくし」,『主の業においてなすべき事をいっぱいに』持ちなさいという聖書の訓戒をよく知っています。(ペテロ第二 1:5-8。コリント第一 15:58)彼らは王国の関心事を世俗の仕事やレクリエーションよりも優先させる時,王国を第一に求めていることを示します。王国に対する感謝が心に満ちている人々は,事情が許す範囲で野外宣教に定期的に参加します。また,事情を調整して,もっと十分参加できるようにする人々も少なくありません。さらに彼らは,王国について他の人々に証言する好機を逃さないよう絶えず気を配っています。
一例として,エクアドルのグアヤキルで金物店を経営していたジョン・フルガーラは,店内に聖書文書をきれいに展示しておきました。店員が注文の品をそろえてくるまでの間,ジョンは客に証言するのです。
ナイジェリアでも,電気請負師として家族を養っていた熱心なエホバの証人は,証言を行なうために仕事上の付き合いを十分活用することにしました。彼は事業を営んでいたので,活動の予定を決めました。毎朝,一日の仕事の前に,妻子と従業員と見習い工を集め,日々の聖句と「エホバの証人の年鑑」の経験を討議しました。さらに年頭にはいつも,2冊の雑誌と一緒にものみの塔協会のカレンダーを顧客に配りました。その結果,従業員と顧客の幾人かが共にエホバを崇拝するようになりました。
それと同じ精神を持っているエホバの証人は大勢います。彼らは何を行なう時でも,他の人々に良いたよりを伝える機会を絶えず探しているのです。
幸福な全時間の福音宣明者の大軍
エホバの証人が良いたよりの伝道に注ぐ熱意は,年月が経過しても薄れてはいません。関心がないとはっきり言う家の人は少なくありませんが,エホバの証人が聖書の理解を助けてくれたことに感謝している人も大勢います。エホバご自身がこの業は終わったとはっきり示される時まで宣べ伝え続けること,それがエホバの証人の決意なのです。
世界中のエホバの証人は全体として,手を緩めるどころか宣べ伝える活動を実際に強化してきました。1982年には,全世界の年間報告が示すとおり,3億8,485万6,662時間が野外宣教に費やされました。10年後(1992年)にその業に費やされた時間は10億2,491万434時間に上ります。活動がそれほど拡大したのはなぜでしょうか。
エホバの証人の数が増えたのは事実です。しかし,その増加率は時間の増加率には及びません。その期間に,エホバの証人の数は80%増えたのに対し,開拓者の数は250%跳ね上がりました。毎月平均して,全世界のエホバの証人の7人に一人が何らかの形の全時間の伝道活動を行なっていました。
そのような開拓奉仕に加わっていたのはどんな人たちでしょうか。例えば,韓国の証人たちの中には主婦が少なくありません。家族の責任があるので,だれでも定期的に開拓奉仕ができるわけではないにしても,学校の長い冬休みの時期を補助開拓奉仕の機会として活用する人は非常に大勢います。その結果,1990年1月には韓国のすべての証人たちの53%が何らかの形の全時間奉仕を行ないました。
初期のころ,フィリピンの証人たちは熱心な開拓者精神があったので,王国の音信を携えて,人の住んでいる国内の幾百もの島に出かけてゆくことができました。それ以来,そのような熱意はいっそう明らかになってきました。1992年には,毎月平均2万2,205人の伝道者がフィリピンで開拓者として野外宣教に加わっていました。その中には,「創造者を覚え」,神への奉仕に若い力を注ぎ込む道を選んだ多くの若者が含まれていました。(伝道の書 12:1)そのような若者の一人は,10年間開拓奉仕を行なった後にこう言いました。「辛抱すること,簡素な生活をすること,エホバに頼ること,謙遜になることを学びました。つらいことやがっかりすることも確かに経験しましたが,開拓奉仕がもたらす祝福に比べれば,そんなものは何でもありません」。
「ものみの塔」誌の1989年4月号と5月号は,大いなるバビロン,つまり世界中で様々な形態を持つ偽りの宗教を暴露する記事を特集しました。それらの記事は39の言語で同時に発行され,集中的に配布されました。開拓奉仕をする証人たちの割合が40%を超えることの多い日本では,その年の4月の活動に貢献するために4万1,055人が補助開拓者として働きましたが,それは新最高数でした。大阪府高槻市大塚会衆では,バプテスマを受けた伝道者77人のうち73人がその月に何らかの形の開拓奉仕を行ないました。日本のすべての伝道者がその肝要な音信を広める一端にあずかるよう勧められた4月8日には,横浜市潮田会衆のように,午前7時から午後8時まで一日中,地域の人々にできるだけ多く会うために街路での奉仕や家から家の奉仕を取り決めた会衆が幾百もありました。
どこでもそうですが,メキシコのエホバの証人も物質的な必要物を賄うために働いています。ところが1992年中,神の王国について学ぶよう真理に飢えた人々を助けるために,メキシコでも毎月平均5万95人のエホバの証人が都合をつけて開拓奉仕を行ないました。家族全員が,あるいは少なくとも家族の幾人かが開拓奉仕を行なえるように家中が協力したところもあります。彼らは実りのある宣教を楽しんでいます。1992年中,メキシコのエホバの証人は,個人や家族との家庭聖書研究を50万2,017件定期的に司会していました。
エホバの証人の会衆の必要を顧みる長老たちは重い責任を担っています。ナイジェリアの長老の大半は家族持ちの男性ですが,ほかの多くの場所の長老たちについても同じことが言えます。しかしそれらの男性の中には,会衆の集会を司会したり,それに参加したり,さらには神の羊の群れに対する必要な牧羊を行なったりするための準備のほかに,開拓奉仕をしている人もいます。どうしてそのようなことができるのでしょうか。多くの場合,入念に時間の予定を立てることと,家族がよく協力することが重要な要素となります。
全世界のエホバの証人が,『王国をいつも第一に求めなさい』というイエスの訓戒を心に留めているのは明らかです。(マタイ 6:33)彼らの行なっている事柄は,エホバに対する愛とエホバの主権に対する感謝の心からの表われです。詩編作者ダビデと同様に,彼らはこう言います。「王なるわたしの神よ,わたしはあなたを高めます。定めのない時に至るまで,まさに永久にあなたのみ名をほめたたえます」― 詩編 145:1。
[脚注]
a 「ものみの塔」誌(英文),1906年8月15日号,267-271ページ。
b 「ものみの塔」誌(英文),1967年2月1日号,92-95ページをご覧ください。
c 「ものみの塔」誌,1974年3月15日号,184-189ページをご覧ください。
d 「ものみの塔」誌,1972年12月1日号,725-729ページをご覧ください。
g 「ものみの塔」誌,1987年5月1日号,22-30ページ; 1964年4月1日号(英文),212-215ページ; 1956年12月1日号(英文),712-719ページ; 1970年8月15日号(英文),507-510ページ; 1961年3月1日号,148-151ページ; 1968年9月15日号,566-569ページ; 1968年7月15日号,441-445ページ; 1959年4月1日号(英文),220-223ページをご覧ください。
[292ページの拡大文]
証言する責任がいっそう強調される
[293ページの拡大文]
彼らは家から家の証言を貴重な特権とみなす
[294ページの拡大文]
魂をこめた奉仕とは何かを理解する
[295ページの拡大文]
『王国を第一に求める』ことの本当の意味
[301ページの拡大文]
熱心なエホバの証人は,王国の関心事を世俗の仕事やレクリエーションよりも優先させる
[288ページの囲み記事/図版]
「九人はどこにいるのですか」
1928年のキリストの死の記念式で,「九人はどこにいるのですか」と題するパンフレットが出席者全員に配られました。クロード・グッドマンは,ルカ 17章11節から19節に関するその説明に感動し,聖書文書頒布者<コルポーター>,つまり開拓者の活動を始め,その奉仕をたゆまず続けたいと思うようになりました。
[296,297ページの囲み記事/図版]
ベテル奉仕
1992年の時点で,99の国や地域で1万2,974人がベテル奉仕を行なっている
[図版]
ベテル家族の成員にとって個人研究は大切
スペイン
各ベテル・ホームでは,一日の初めに聖句を討議する
フィンランド
世界中のエホバの証人と同様に,ベテル家族の成員も野外奉仕に参加する
スイス
毎週月曜日の晩に,ベテル家族は「ものみの塔」誌を一緒に研究する
イタリア
仕事の種類は様々だが,それはすべて神の王国をふれ告げる活動を支えるために行なわれる
フランス
パプアニューギニア
アメリカ
ドイツ
フィリピン
メキシコ
イギリス
ナイジェリア
オランダ
ブラジル
日本
南アフリカ
[298ページの囲み記事/図版]
ベテル奉仕を長く行なってきた幾人かの人々
F・W・フランズ ― アメリカ(1920-1992年)
ハインリッヒ・ドウェンガー ― ドイツ(1911-1933年のうち約15年間),ハンガリー(1933-1935年),チェコスロバキア(1936-1939年),スイス(1939-1983年)
ジョージ・フィリップス ― 南アフリカ(1924-1966年,1976-1982年)
二人合わせて136年間ベテル奉仕を行なった実の姉妹(キャスリン・ボガードとグレイス・デチェッカ)― アメリカ
[303ページのグラフ]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
増加する開拓者
開拓者
伝道者
1982年以降の増加率
250%
200%
150%
100%
50%
1982 1984 1986 1988 1990 1992
[284ページの図版]
アーリー姉妹は,ニュージーランドのかなりの地域を自転車で旅行し王国の音信を伝えた
[285ページの図版]
マリンダ・キーファーは,独身者として,既婚者として,また夫を亡くした後も,全時間宣教に76年間打ち込んだ
[286ページの図版]
初期の開拓者の中には,あちこち移動する時に簡単なキャンピングカーで寝泊まりする人もいた
カナダ
インド
[287ページの図版]
フランク・ライス(右に立っている),クレム・デシャン(フランクの前に座っている。彼らの隣にいるのはクレムの妻ジーン)と,仲間の証人たちや新しく関心を持った人々を含むジャワの人々
[288ページの図版]
クロード・グッドマンは全時間宣教の生涯を送り,インドや他の7か国で奉仕した
[289ページの図版]
ベン・ブリッケルは健康だった時,その健康を生かしてエホバへの奉仕を楽しんだ。後に重い病気にかかったが,やめることはなかった
[290ページの図版]
カーテ・パルムは,チリの大都市のオフィス街から,最も辺ぴな鉱山の集落や羊の牧場に至るまで,あらゆる区域で証言した
[291ページの図版]
マーティン・ポエツィンガーとゲルトルート・ポエツィンガーの決意は次の言葉に表われている。『私が行なうのは一つのこと,つまり王国を第一に求めることです』
[300ページの図版]
開拓奉仕学校(下は日本での学校)は幾万人もの熱心な奉仕者たちに特別な訓練を施してきた
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愛において共に成長するエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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19章
愛において共に成長する
イエス・キリストの使徒たちは仲間のクリスチャンに手紙を書いた時,各自が正確な知識だけでなく愛においても成長する必要があることを指摘しました。その点の根拠になっているのは,神ご自身が示された愛とキリストの自己犠牲の愛です。彼らは,キリストの足跡にしたがって歩むよう努力していました。(ヨハネ 13:34,35。エフェソス 4:15,16; 5:1,2。フィリピ 1:9。ヨハネ第一 4:7-10)彼らは兄弟関係にありました。そして,互いに助け合う時,その愛のきずなはいっそう強くなりました。
ユダヤの兄弟たちが飢きんのために経済的な苦境に陥った時,シリアとギリシャのクリスチャンは彼らを助けるために持っている物を分け合いました。(使徒 11:27-30。ローマ 15:26)迫害されている人がいれば,他のクリスチャンも彼らが経験している苦しみを鋭く感じ,援助を行なおうとしました。―コリント第一 12:26。ヘブライ 13:3。
もちろん,人はだれでも愛する能力を持っており,クリスチャンではない人々も人道的な親切を行ないで示します。しかし,ローマ世界の人々は,クリスチャンの示す愛は異なっていることに気づいていました。ローマの法学者だったテルトゥリアヌスは,クリスチャンに関するローマ世界の人々の言葉を引用し,こう述べています。「『見よ,彼らがいかに愛し合うかを……互いのためなら死をも辞さぬことをいかに固く覚悟しているかを』と,彼らは言う」。(「弁明」,XXXIX,7)ジョン・ハーストは自著「キリスト教会の歴史」(第1巻,146ページ)の中で,古代カルタゴとアレクサンドリアの人々は疫病が発生した時,病人を近くから追い払い,死にかけている人の体から価値のありそうな物をすべてはぎ取ったと述べています。それとは対照的に,ハーストの記録によれば,その地域のクリスチャンは持っている物を分け合い,病人を看病し,死体を埋葬しました。
現代のエホバの証人は,他の人々の福祉に対するそのような気遣いを示す活動を行なっているでしょうか。もしそうだとしても,それはごく少数の個々の人々が行なっているのでしょうか。それとも,組織全体としてそのような努力を奨励し,支援しているのでしょうか。
地元の会衆の愛ある助け
エホバの証人の間では,会衆内の孤児ややもめの世話,さらには深刻な苦難を経験している忠実な人々の世話が崇拝の一部とみなされています。(ヤコブ 1:27; 2:15-17。ヨハネ第一 3:17,18)世俗の政府は普通,一般社会の病院,高齢者施設,失業者のための福祉制度などを設けており,エホバの証人は良心的に税金を払うことによってそうした制度を支持しています。しかし,人類のいろいろな問題を永久的に解決できるのは神の王国だけであるということを理解しているので,エホバの証人はおもにその点を他の人々に教えることに自分自身や自分の資産をつぎ込みます。これは,人間の政府が行なえない肝要な奉仕です。
全世界に及ぶエホバの証人の6万9,000余りの会衆では,老齢や病気などのために生じる特別な必要は,普通個人的なレベルで顧みられています。テモテ第一 5章4節と8節にあるとおり,家の者の世話を行なう責任はおもに個々のクリスチャンにかかっています。子供や孫や他の近い親せきは,必要に応じて高齢者や病人の援助を行なうことによってクリスチャンの愛を示します。エホバの証人の会衆は,家族の責務を引き受けてその種の責任感を弱めさせるようなことをしません。しかし,近い親族がいない場合や,責任のある人々が自分で負担を負いきれない場合は,会衆内の他の人々が愛を示して援助を行ないます。必要なら会衆全体が,忠実な奉仕に関する長い経歴を持った困窮している兄弟や姉妹に何らかの援助を行なうため,必要な物を供給することもあります。―テモテ第一 5:3-10。
これらの必要を顧みることは,成り行き任せにはされません。1959年以来,長老たちが繰り返し出席してきた王国宣教学校の集まりでは,群れの牧者として神のみ前で果たさなければならないそうした面での責務が幾度も特別に考慮されてきました。(ヘブライ 13:1,16)それ以前も,その必要に気づいていなかったわけではありません。例えば1911年に,英国ランカシャー州のオールダム会衆は,深刻な経済問題に直面していた仲間の人々に救援物資を送りました。しかし,それ以来,世界的な組織の拡大と共に深刻な問題を経験する人々も増えてきたので,エホバの証人は,そのような状況のもとで何を行なうべきかについて聖書が述べている事柄を徐々に理解するようになりました。特に近年は,特別な必要のある仲間の人たち ― 高齢者,病人,片親の家族,経済的に困っている人 ― に対する個々のクリスチャンの責任について,すべての会衆が集会で討議しています。a
個々の証人たちが他の人々に示す気遣いは,「暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけのことではなく,それをはるかに超えています。彼らは愛のこもった個人的な関心を示すのです。(ヤコブ 2:15,16)幾つかの例を考えてみてください。
エホバの証人の若いスウェーデン女性は,1986年にギリシャを訪れた際に髄膜炎にかかりましたが,多くの国にクリスチャンの兄弟姉妹がいるとはどういうことなのかについても,その時に実感しました。スウェーデンにいる父親に知らせが入ると,父親はすぐにスウェーデンのエホバの証人の地元の会衆の長老と連絡を取り,その長老を通してギリシャのあるエホバの証人に連絡しました。彼女,つまり当の若いエホバの証人がスウェーデンに戻れるようになるまでの3週間,ギリシャの新しい友人たちはずっとその看護を続けました。
同様に,カナダのオンタリオ州ウォレスバーグに住むある年配のエホバの証人が妻を亡くした身で援助を必要とするようになった時,その人から霊的な援助を受けたある家族がそのことに対する感謝として,彼を家族として迎えることにしました。数年後,一家がバリーズベイに引っ越した時も彼は一緒でした。1990年に亡くなるまで19年間,彼はその家族と同居して愛のこもった世話を受けました。
ニューヨーク市に住むあるエホバの証人の夫婦は,王国会館の集会に出席していた年配の男性を世話し,その人が1986年に亡くなるまで15年間世話を続けました。その人が脳卒中で倒れた時は,買い物や掃除や料理や洗濯をしてあげ,実の父親に対するように接しました。
ほかの種類の必要にも愛ある心遣いが示されています。米国に住むあるエホバの証人の夫婦は,家を売ってモンタナ州に引っ越し,地元の会衆を援助していました。ところが,しばらくして健康上の深刻な問題が起き,兄弟は一時解雇され,資金は底を突きました。二人はどうしたでしょうか。兄弟はエホバに助けを祈り求めました。祈り終えた時,仲間の証人の一人が玄関のドアをノックしました。彼らは連れ立ってコーヒーを飲みに行きました。兄弟が戻ってみると,台所の調理台には食料雑貨がどっさり積んでありました。その食料雑貨と共に,お金の入った封筒とメモが置いてありました。メモには,「お二人をこよなく愛する兄弟姉妹より」と書いてありました。会衆は二人が困っていることに気づき,全員でその必要を賄おうとしたのです。その夫婦はみんなの愛に深く感動し,涙をこらえることができませんでした。そして,エホバに感謝せずにはいられませんでした。エホバの愛の模範がその僕たちを動かすのです。
エホバの証人が困窮している仲間の人たちに示す惜しみない気遣いは,広く知られるようになりました。時には,詐欺師のような人たちがそれに付け込むこともあります。ですから,エホバの証人は用心することを学ばなければなりませんでしたが,ふさわしい人たちを助けたいという願いを抑えつけたりはしないのです。
戦争によって人々が貧困に陥る時
世界各地で,人々は戦争の結果として貧困に陥っています。様々な救援組織が援助を行なおうとしていますが,そうした機構は動きが遅いのが普通です。エホバの証人は,そのような団体が活動しているのだから,そうした地域に住むクリスチャンの兄弟に対する自分たちの責任はなくなる,とは考えません。兄弟たちが困っているのを知った時,そのような人に向かって「優しい同情の扉を閉じ」たりせず,彼らを援助するためにできることをすぐに行ないます。―ヨハネ第一 3:17,18。
第二次世界大戦中,物資の不足にひどく悩まされた国にいても,まだ食料のあった田舎に住むエホバの証人は,都市部の恵まれない兄弟たちと食物を分け合いました。オランダでそのことを行なうのは非常に危険でした。ナチスによる厳しい統制が敷かれていたからです。ゲリット・ベーメルマンはある時そのような救援の任務を受け,兄弟たちの一団を率いていました。兄弟たちは輸送用バイクに乗っていましたが,バイクには食料が積まれ,その上に防水シートが掛けられていました。予想もしなかったこととして,一行はアルクマール市の検問所の前に出ました。「エホバを完全に信頼するしかない」と,ゲリットは言いました。あまり減速せず,役人に向かって大声で,「ボー イスト アムステルダム」(アムステルダムはどっちだい)と言いました。役人はわきによけて前方を指しながら,「ゲラーデアウス」(まっすぐ行け)と叫びました。「ダンケ シェーン」(ありがとう)とゲリットは答え,びっくりした人々が見守る中,輸送用バイクの一行はフルスピードでそこを通り抜けました。別の時にもエホバの証人は,船にいっぱい詰め込んだジャガイモをアムステルダムの兄弟たちに届けることに成功しました。
ヨーロッパの強制収容所のただ中でも,エホバの証人はその精神を示しました。17歳のある少年はオランダのアーメルスフォールトの近くの収容所に監禁されていた時,やせ細って骨と皮だけになってしまいました。しかし,少年はその後何年も決して忘れることのできない出来事を経験しました。降りしきる雨の中で真夜中まで強制的に運動させられ,それでも食べ物をもらえなかった時,収容所の別のところにいた一人のエホバの証人が無理をしてやって来て,一切れのパンを手に持たせてくれたのです。オーストリアのマウトハウゼンの強制収容所にいたあるエホバの証人は,与えられた仕事を果たすために収容所内の各所を回らなければなりませんでしたが,その際に,証人たちがわずかな配給量の中から取り分けた食物を,もっとひどく欠乏していた他の証人たちに届けたので,しばしば命の危険にさらされました。
戦後,ドイツの刑務所や強制収容所から出て来たエホバの証人は,着ていた囚人服以外に何も持っていませんでした。刑務所にいなかった多くの人たちも,財産を破壊されていました。食料,衣類,燃料はヨーロッパの大部分で不足していました。そうした地域のエホバの証人はすぐに会衆の集会を計画し,神の王国の良いたよりを伝えることによって他の人々を霊的に助けるようになりました。しかし,彼ら自身も別の面で助けが必要でした。飢えのために相当衰弱していた人が多く,集会中に気を失うことも珍しくなかったのです。
エホバの証人は,そうした状況がそれほど大規模に発展するということを経験したことがありませんでした。しかし,太平洋地域の戦争が正式に終結したその月に,エホバの証人はオハイオ州クリーブランドで特別大会を開き,戦争にかき乱された国々にいるクリスチャンの兄弟たちにどんな援助を行なわなければならないか,どんな方法でそれができるかを討議しました。F・W・フランズが行なった「言い尽くせぬ神の賜物」という心温まる話には,その状況の必要にぴったり合った聖書の助言が含まれていました。b
それから数週間足らずでその地域の旅行が許可されると,ものみの塔協会の会長N・H・ノアとM・G・ヘンシェルはすぐにヨーロッパに向かい,状況をじかに視察しました。また,二人がその旅行に出かける前でさえ,救援計画はすでに始まっていました。
最初は,スイスとスウェーデンから物資が送られました。カナダやアメリカなどからもさらに物資が届きました。当時そのような援助ができる状況にあった国々のエホバの証人は,約8万5,000人を数えるにすぎませんでしたが,それでも,オーストリア,ベルギー,ブルガリア,中国,チェコスロバキア,デンマーク,イギリス,フィンランド,フランス,ドイツ,ギリシャ,ハンガリー,イタリア,オランダ,ノルウェー,フィリピン,ポーランド,ルーマニアの仲間の証人たちに衣類や食料を送ることを約束しました。そうした努力は一度限りのものではありません。救援物資の輸送は2年半続きました。1946年1月から1948年8月にかけて,47万9,114㌔の衣類,12万4,110足の靴,32万6,081㌔の食料が仲間の証人たちへの贈り物として緊急輸送されたのです。資金が運営費に流用されるようなことは決してありませんでした。仕分けや荷造りを行なったのは,無給の自発奉仕者たちです。寄付金はすべて,その目的にそって人々を助けるために使われました。
もちろん,難民や,戦争によって貧困に陥った人々を援助する必要は,1940年代でなくなったわけではありません。1945年以来,幾百もの戦争が行なわれてきました。そしてエホバの証人は,愛のこもった同じ気遣いを示し続けています。1967年から1970年にかけて行なわれたナイジェリアのビアフラ戦争の最中も,その戦争が終わった後も,そのような気遣いを示しました。また,1980年代には,モザンビークで同様の援助を行ないました。
リベリアでも,1989年に始まった内戦の結果として飢きんが発生しました。人々が避難するにつれ,モンロビアにあるものみの塔の敷地は幾百人もの難民でいっぱいになりました。エホバの証人と,エホバの証人ではない近所の人々は,そこで手に入る食物や井戸水を分け合いました。その後,状況が許すようになり次第,西アフリカのシエラレオネとコートジボワール,ヨーロッパのオランダとイタリア,それにアメリカのエホバの証人からさらに救援物資が届きました。
また1990年には,レバノンの内戦でベイルートの各所が地震に見舞われたような状態になった時,エホバの証人の長老たちは緊急救援委員会を設置し,兄弟たちに必要な援助を行ないました。自発奉仕者を募る必要はありませんでした。毎日,大勢の人が援助に駆けつけて来たのです。
ヨーロッパで政治経済が大きく変動した時期に,オーストリア,チェコスロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビアのエホバの証人は,1990年にルーマニアのクリスチャンの兄弟たちに70㌧余りの必要物資を送りました。
その後,東ヨーロッパではさらに救援活動が続けられました。統治体は,ものみの塔協会のデンマークの支部事務所に対し,ウクライナの困窮しているエホバの証人のために救援計画を立てるよう要請しました。諸会衆は通知を受け,喜んで参加しました。1991年12月18日には,エホバの証人の自発奉仕者たちが運転する5台のトラックと2台のバンが22㌧の物資を積んでリボフに到着しました。これは,クリスチャンの兄弟たちに対する愛ある気遣いの表われです。1992年になると,オーストリアのエホバの証人からも,100㌧余りの食料と衣類が送られてきました。また,オランダのエホバの証人も物資を急いで送ってきました。最初は26㌧の食料,次にトラック11台分の衣類,さらにまた当座の必要を賄うための食料です。受け取った人たちは神に感謝し,供給物資を用いるための知恵を神に仰ぎました。彼らはトラックから荷物を降ろす前にみんなで祈りました。また仕事が終わった時にも祈りました。イタリア,フィンランド,スウェーデン,スイスのエホバの証人も,大量の救援物資を送ってきました。そのようにしている時に,かつてユーゴスラビアを構成していた共和国間の騒然とした状況により,そこでも欠乏が生じました。その地域にも,食料,衣類,医薬品などの物資が緊急輸送されました。一方,そうした都市のエホバの証人は自宅を開放し,家を破壊された人々を世話していました。
時には,助けをどうしても必要とする人々が辺ぴな所に住んでいるため,そうした状況が広く知られていないということもあります。グアテマラの35世帯のエホバの証人の場合がそうでした。彼らの村に,対立する複数の党派が侵入しました。1989年にようやく戻れるようになった時には,再建のための助けが必要でした。ものみの塔協会の支部事務所は,戻った人たちに対して政府が差し伸べた援助を補うため,緊急委員会を設置し,エホバの証人のそれらの家族を援助しました。また,50の会衆から約500人のエホバの証人が駆けつけ,再建を自発的に手伝いました。
本人に過失がなくても人々が非常な窮乏に陥ってしまうような状況はほかにもあります。地震やハリケーンや洪水は頻繁に起きています。世界は平均して,毎年25余りの大災害に見舞われていると言われています。
自然の力が荒れ狂う時
災害によって,エホバの証人に影響を及ぼす重大な非常事態が発生する場合は,必要な援助を行なうために迅速な措置がとられます。地元の長老たちは,そのような状況に面した時,会衆内の一人一人と連絡を取るために真剣に努力すべきであることを学んできました。現地の王国の業を監督するものみの塔協会の支部事務所は,直ちに状況を調査し,それを世界本部に報告します。地元で賄える以上の助けが必要な場合は,入念な計画のもとに取り決めが設けられますが,それは国際的な規模になる場合さえあります。その目的は,被災者の生活水準を上げようとすることではなく,むしろ普段の生活の必需品が得られるよう助けることです。
テレビの災害報道を見るだけで心を動かされ,現地で責任を担っている長老たちに電話して援助を申し出たり,お金や物資を送ったりするエホバの証人は少なくありません。また,救援用の資金を支部事務所や世界本部に送る人もいます。そのような人々は,助けが必要なことを知っており,分け合うことを願っています。もっと大きな必要がある時は,一定の地域の兄弟たちが可能な限り援助を行なえるよう,ものみの塔協会が通知を送る場合もあります。被災地での仕事をうまく調整するため,救援委員会が設置されます。
例えば,1972年12月に,ニカラグアのマナグア市の大部分が激しい地震で大打撃を受けた時,現地のエホバの証人の会衆の監督たちは様々な努力を調整するために数時間もしないうちに会合を持ちました。すぐに市内のエホバの証人一人一人の安否が確認されました。その同じ日に,近くの会衆から救援物資が届き始めました。それから,コスタリカ,ホンジュラス,エルサルバドルからもすぐに物資が届きました。マナグア市郊外には,14の救援物資配給所が設けられました。お金や物資が世界各地のエホバの証人から,ものみの塔協会の世界本部を経由して,ニカラグアに入ってきました。食料や他の物資(ロウソク,マッチ,石けんなど)が各世帯の大きさに応じて配られ,各家庭が七日分の物資を手にすることができました。活動のピークには,約5,000人 ― エホバの証人とその家族,また同居している親族 ― に食料が供給されました。救援活動は10か月続きました。政府当局と赤十字も行なわれている事柄を見て,食料やテント,その他の物資を供給しました。
1986年に,伊豆大島の火山の噴火で1万人が避難することを余儀なくされた時,エホバの証人は避難者を乗せた船を出迎え,霊的兄弟たちを苦労して見つけ出しました。避難者の一人は,「大島を離れた時は,自分たちがどこへ行くのか知りませんでした」と言います。すべてが突然の出来事だったのです。「でも,船を降りようとしていた時,『エホバの証人』と記されたプラカードを目にしました。……兄弟たちが波止場に迎えに来てくれているのを見て,家内はほっとして涙をぽろぽろこぼしました」。避難したエホバの証人が到着の時だけでなく,その後にも世話されたのを見て,かつては彼らを村八分にした人々でさえ,「あんたたち,その宗教やってて良かったな」と言いました。
エホバの証人はできるだけ早く被災地に助けを差し伸べるよう可能な限りの努力をします。1970年に,ペルーが史上最悪の部類に入る地震に見舞われた時,緊急救援基金がニューヨークの世界本部から直ちに送られ,それから15㌧の衣類が輸送されました。しかし,そうした物資が届く前でさえ,エホバの証人は救援物資を積んだ何台もの自動車を運転し,都市や村が大打撃を受けた地域に運び込みました。それは,道路が開通してから数時間以内のことでした。その後数週間にわたり,エホバの証人は段階的に,アンデスの山奥に住む様々な人々に物質面でも霊的な面でも必要な援助を行ないました。また,1980年11月23日の晩にイタリア各地が大地震に襲われた時,エホバの証人がトラックで緊急輸送した最初の物資が被災地に届いたのは,そのまさに翌日でした。エホバの証人は直ちに自分たちの調理場を作り,そこで姉妹たちが調理した食べ物を毎日配給しました。カリブ海の一つの島で救援活動を目撃したある人は,「エホバの証人のほうが政府よりもすることが速かった」と言いました。時にはそういうこともあるかもしれません。しかしエホバの証人は,そのような被災地に速く赴くための努力を容易にしてくれる政府職員の助けに本当に感謝しています。
1990年にアンゴラが飢きんに見舞われた時,現地のエホバの証人が食料と衣類を大いに必要としていることが分かりました。しかし,そこに出かけて行くと問題が起きるかもしれません。その国では長年エホバの証人の活動が禁じられていたからです。それでも,南アフリカのクリスチャンの兄弟たちは,25㌧の救援物資をトラックに積み込みました。途中,彼らはアンゴラの領事館に寄り,国境通過の許可を得ました。兄弟たちのところに行き着くためには,軍隊の道路封鎖地点を30か所通らなければなりません。また,橋が爆破されていた所では,水があふれそうになっている川を渡るのに,その場所に作られた仮設の橋を使う必要がありました。そのようなことがあっても,物資はすべて無事に届けられました。
災害の時には,単に救援物資をその地域に送る以上のことが行なわれます。1984年にメキシコ・シティーの郊外が爆発事故と火災によって大打撃を受けた時,エホバの証人はすぐに現地に到着して援助を行ないました。しかし,現地のエホバの証人の中には行方不明になっている人が多かったので,長老たちは一人一人を見つけ出すために組織的な捜索活動を行ないました。中には,ほかの地域に散り散りになっていた人たちもいました。それでも長老たちは,全員を見つけ出すまで頑張りました。援助は必要に応じて与えられました。夫と息子を亡くしたある姉妹の場合,そうした援助の中には葬式を行なうことや,姉妹と残された子供たちのために物質面でも霊的な面でも十分な援助を行なうことが含まれていました。
医薬品と数回の食事と幾らかの衣類といったレベルをはるかに超えた援助が必要な場合も珍しくありません。1989年には,グアドループの117人のエホバの証人の家がハリケーンで破壊され,ほかに300人の人の家が大きな被害を受けました。マルティニーク島のエホバの証人はすぐに援助を差し伸べました。その後,フランスのエホバの証人も,そうした人々を援助するために100㌧余りの建築資材を無料で送ってきました。セントクロイ島で家を失ったあるエホバの証人の女性は,仲間のエホバの証人がプエルトリコから助けに来てくれることを同僚たちに話した時,「あんたはあの人たちと同じスペイン人ではなくて黒人なんだから,何もしてもらえないよ」と言われました。ところが,彼女が間もなく全く新しい家を持つようになったので,その同僚たちはたいへんびっくりしました。1991年にコスタリカで地震が起きた後には,地元のエホバの証人とインターナショナル・ボランティアが力を合わせて被災地の仲間の証人たちを助けました。彼らは見返りなど期待せずに,31軒の家と五つの王国会館を建て直し,他の幾つかの家と王国会館を修理しました。その様子を見ていた人々は,『ほかの団体は愛を語るが,皆さんは愛を示しています』と言いました。
エホバの証人が行なう救援活動の効果性に,はたで見ている人たちはしばしば目を見張ります。1986年には,米国カリフォルニア州でユバ川の堤防が決壊し,あふれ出た水のために幾万人もの人々が家を出ることを余儀なくされました。現地のクリスチャンの長老たちはニューヨークの本部と連絡を取り,救援委員会が設置されました。水が引き始めると,すぐに幾百人もの自発奉仕者が喜んで働き始めました。一般の救援団体が活動できるようになる前に,エホバの証人の家はすでに新しくなっていました。エホバの証人はどうしてそれほど速く行動できるのでしょうか。
おもな要素としては,エホバの証人がすぐに無報酬で自発的に活動する意欲を持っていることと,必要な物資を寄贈することが挙げられます。また,エホバの証人は組織的に協力して働くことに慣れているという要素もあります。彼らは大会を運営したり,新しい王国会館を建てたりするために,そのようなことを定期的に行なっているからです。しかし,もう一つの肝要な要素は,彼らが,「互いに対して熱烈な愛を抱きなさい」という聖書の言葉の意味をよく考えているということです。―ペテロ第一 4:8。
そのような必要を賄うために寄付をする人々は,自分自身も非常に乏しい生活をしている場合が少なくありません。同封してある手紙にはよく,『額はわずかですが,兄弟姉妹たちに心から同情します』とか,『もっと多くお送りできればよいのですが,エホバが持たせてくださったものをお分かちしたいと思います』などと書かれています。1世紀のマケドニアのクリスチャンのように,そうした人々も,窮乏に陥った人々の生活必需品を賄うことの一端にあずかる特権をしきりに懇願します。(コリント第二 8:1-4)1984年の洪水で20万人余りの韓国人が家を失った時,韓国のエホバの証人は惜しみない反応を示したので,支部事務所は,援助はもはや不要であるという発表をしなければならないほどでした。
事態を見ている人々は,エホバの証人の動機が義務感や寛大な人道主義以上のものであることをすぐに理解できます。エホバの証人はクリスチャンの兄弟姉妹を本当に愛しているのです。
エホバの証人は物質的な必要を顧みるほかに,被災地の兄弟たちの霊的な必要に特別な注意を向けます。会衆の集会を再開するための取り決めも,できるだけ早く設けます。1986年にギリシャでは,そのようにするためにカラマタ市の外に大きなテントを張って王国会館として使い,週中に行なう会衆の書籍研究のために各所に小さなテントを張らなければなりませんでした。同様に,1985年にコロンビアのアルメロで破壊的な土石流が起きた時も,生存者の物質的な必要を賄った後は,残った資金を使って現地の三つの会衆のために新しい王国会館を建てました。
エホバの証人はそのような再建工事を行なっている時でさえ,人生の目的,災害や死の理由,将来の希望などに関する人々の質問に神の言葉から納得のゆく答えを示すことによって,人々に慰めを与え続けます。
エホバの証人の救援活動は,被災地にいるすべての人の物質的な必要を賄うためのものではありません。それはガラテア 6章10節と調和して,おもに「信仰において結ばれている人たち」のために行なわれます。また同時に,他の人々にもできる限り援助を行ないます。例えば,イタリアで地震の被害に遭った人々に食料を供給した時には,そのようにしました。米国でも,洪水とハリケーンの被害者を援助した時,エホバの証人の近くに住む取り乱していた人々の家を掃除したり修理したりしました。見知らぬ人にそうした親切な行ないをする理由を聞かれれば,彼らは,隣人を愛しているからです,と簡単に答えます。(マタイ 22:39)1992年に,破壊的なハリケーンが米国フロリダ州南部を襲った時も,エホバの証人のよく整った救援計画は十分に知れ渡っていたため,エホバの証人の信仰を持っていたわけではない幾つかの企業や個人は,大量の救援物資を寄贈したいと思った時,それをエホバの証人に委ねました。贈り物が単に積み上げられるままにされたり,私腹を肥やすために使われたりすることなく,ハリケーンの被害を受けたエホバの証人と外部の人の両方のために本当に活用されることを知っていたからです。フィリピンのダバオ・デル・ノルテでは,災害の時にエホバの証人ではない人々を進んで助けたことがとても感謝され,町の議員たちは感謝を表わす決議を採択しました。
しかし,すべての人が真のクリスチャンを愛しているわけではありません。真のクリスチャンは残忍な迫害の的となることがよくあります。そうした状況になった時も,仲間のクリスチャンに対する愛のこもった援助が惜しみなく行なわれます。
残忍な迫害に面して
使徒パウロはクリスチャン会衆を人体になぞらえ,『その肢体は互いに対して同じ気づかいを示すべきです。それで,一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しむのです』と言いました。(コリント第一 12:25,26)エホバの証人は,クリスチャンの兄弟たちの迫害に関する知らせを聞く時,そのように反応します。
ナチの時代のドイツでは,政府がエホバの証人を厳しく弾圧しました。当時,エホバの証人はドイツに2万人ほどしかおらず,ヒトラーに軽べつされた比較的小さなグループでした。必要だったのは団結した行動です。1934年10月7日,ドイツ中のエホバの証人の各会衆はひそかに集会を開き,共に祈って,エホバに仕え続ける決意をしたためた手紙を政府に送りました。それから,出席者の多くは勇敢に出かけて行って,エホバのみ名と王国について近所の人々に証言しました。その同じ日に,世界中の他の場所のエホバの証人も会衆ごとに集まり,一緒に祈った後,クリスチャンの兄弟たちを支援するためにヒトラーの政府にあてて電報を打ちました。
1948年,僧職者が操るエホバの証人の迫害がギリシャで明るみに出た後,ギリシャの大統領と幾人かの閣僚は,クリスチャンの兄弟たちのことを思うエホバの証人から多くの手紙を受け取りました。そうした手紙は,フィリピン,オーストラリア,南北アメリカ,その他の地域から届きました。
「目ざめよ!」誌が,1961年にスペインのエホバの証人に対してとられた異端審問のような方法を暴露した時も,スペイン当局には抗議の手紙が殺到しました。政府関係者は,自分たちのしていることを世界中の人々が正確に知っていることにショックを受け,結果として迫害は続いたものの,警察の中にはエホバの証人にずいぶん遠慮がちに接するようになった人たちもいました。アフリカの幾つかの国の政府関係者にも,クリスチャンの兄弟姉妹がそうした国で受けている過酷な仕打ちについて知った世界各地のエホバの証人から手紙が送られました。
たとえ,政府から色よい返事が得られそうになくても,迫害されているエホバの証人は忘れ去られているわけではありません。幾つかの政府は,長年宗教上の迫害を執ように続けてきたので,訴えと抗議の手紙を何度も大量に受け取ってきました。アルゼンチンの場合がそうでした。1959年のある時のこと,外務・宗教大臣は一人のエホバの証人の兄弟をある部屋に連れて行きました。そこには,世界中からどっさり送られてきた手紙の詰まった本箱が幾つか置いてありました。大臣は,フィジーのような遠い所からアルゼンチンの崇拝の自由を求める手紙を書いてくる人がいるということに当惑していました。
政権担当者が,自分たちのしていることを世界中の人々が知っているということ,また本当に関心を持っている人が大勢いるということに気づいた時,いっそう大きな自由が与えられる場合もあります。1963年には,リベリアでそういうことがありました。それよりも前に,グバーンガの大会に出席していた人々が政府の兵士から残虐な仕打ちを受けました。リベリアの大統領のもとには,世界中から抗議の手紙が殺到しました。米国の国務省も事態に介入しました。米国市民が事件に関係していたからです。ついにタブマン大統領は,ものみの塔協会の本部に電報を打ち,事態について話し合うため,エホバの証人の代表者を迎える用意があることを知らせました。代表者のうちの二人 ― ミルトン・ヘンシェルとジョン・チャラック ― は,例の事件があった時にグバーンガにいました。タブマン大統領は,その事件が「残虐行為」であったことを認め,「そのような事件が起きたことを残念に思う」と言いました。
その会見の後,大統領命令が出され,「全国民に対して」次のような点が通知されました。「エホバの証人はだれの妨害も受けることなく,その宣教の業と宗教上の崇拝を続行するために国内のいかなる場所にも自由に出入りできる権利と特権を有する。彼らは身体および所有物双方に関する法律の保護を受ける。また,自らの良心の命じるところに従って自由に神を崇拝する権利を有する。ただし儀式の際には,国旗が上げられる時もしくは下げられる時に気をつけの姿勢をとって国旗に対する敬意を示し,そうすることによって共和国の法律を守らなければならない」。とはいえ,エホバの証人がクリスチャンとしての良心に反して国旗に敬礼することは要求されませんでした。
しかし,マラウイでは1992年の時点で,現地のエホバの証人に対する暴力行為は相当治まっていたものの,そのような公式の声明が出る気配はありませんでした。マラウイのエホバの証人は,アフリカの歴史上最も激しい部類に入る宗教上の迫害の犠牲になってきました。そのような迫害の波は1967年に国中を襲い,1970年代の初めに再び起こりました。世界各地から,彼らのために何万通もの手紙が送られました。電話攻勢もかけられました。電報も打たれました。人道主義の立場から心を動かされ,発言をした世界の著名人も少なくありません。
その残虐行為は常軌を逸していたため,約1万9,000人のエホバの証人とその子供たちは1972年に国境を越えてザンビアに逃れました。その近くにあったザンビアのエホバの証人の会衆は,兄弟たちのためにすぐに食物と毛布を集めました。世界中のエホバの証人から寄付されたお金と物資が,ものみの塔の各支部にどっさり届けられ,ニューヨークの本部を経由して難民のもとに送られてきました。スィンダ・ミサレのキャンプにいた難民の必要すべてを賄って余りあるほどの物資が届けられました。食料や衣類,それに覆いとして使うための防水シートを積んだトラックが到着したという知らせがキャンプ中に伝えられた時,マラウイの兄弟たちは喜びの涙を抑えることができませんでした。クリスチャンの兄弟たちの愛を示すそうした証拠を目にしたからです。
エホバの証人はたとえ自分の身が危険にさらされても,仲間のだれかが監禁されている時にそのような人を見捨てたりはしません。アルゼンチンで禁令が敷かれていた時代に,エホバの証人のあるグループが45時間拘留された時,他の4人のエホバの証人が彼らのために食料と衣類を届けに行きました。しかし,結局は自分たちも投獄されてしまいました。1989年にブルンジでは,巡回監督の妻がクリスチャンの兄弟たちの窮状を知り,刑務所に食料を届けようとしました。しかし,彼女自身も逮捕され,人質として2週間監禁されました。警察は彼女の夫を捜し出したいと思っていたからです。
エホバの証人はクリスチャンの兄弟たちに対する愛に動かされ,上に述べたような様々な方法で何でもできることを行ないますが,それに加えて,兄弟たちのために心からの祈りを神にささげます。神が直ちに戦争や食糧不足を終わらせてくださるように祈るのではありません。イエス・キリストは,現代にそれらが起きることを予告されたからです。(マタイ 24:7)また,神がすべての迫害を阻止されるように祈るのでもありません。聖書は,真のクリスチャンが迫害を受けることをはっきり述べているからです。(ヨハネ 15:20。テモテ第二 3:12)むしろ,クリスチャンの兄弟姉妹がどんな苦難に面しても,しっかりと信仰を守るための力が得られるよう,切なる請願をささげます。(コロサイ 4:12と比較してください。)彼らの霊的な強さを証明する様々な事実は,そのような祈りが聞き届けられていることを示す豊富な証拠です。
[脚注]
a 「ものみの塔」誌,1980年12月15日号,15-21ページ; 1986年10月15日号,10-21ページ; 1987年6月1日号,4-18ページ; 1988年7月15日号,21-23ページ; 1990年3月1日号,20-22ページをご覧ください。
b 「ものみの塔」誌(英文),1945年12月1日号,355-363ページをご覧ください。
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特別な必要が生じた問題を顧みることは成り行き任せにはされない
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愛ある個人的な気遣いから出る援助
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救援のための膨大な必要と取り組む
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被災地でエホバの証人一人一人を見つけ出す組織的な捜索活動
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エホバの証人ではない人たちにも良いことを行なう
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クリスチャンの兄弟たちが示す愛に接して喜びの涙を流す
[309ページの囲み記事]
「皆さんは本当に愛し合っていますね」
戦禍に見舞われたレバノンで,エホバの証人の自発奉仕者がクリスチャンの姉妹のひどく傷んだ家を完全に元通りにしたのを見た近所の人は,「この愛はどこから来るのですか。皆さんはどういう人たちなのですか」と尋ねざるを得ませんでした。また,エホバの証人の家で清掃と修理が行なわれているのを見たイスラム教徒の女性は,「皆さんは本当に愛し合っていますね。皆さんの宗教は正しい宗教ですよ」と言いました。
[316ページの囲み記事]
本当の兄弟姉妹
アーカンソー・ガゼット紙は,キューバからアーカンソー州フォートシェーフィーに来たエホバの証人の難民についてこう述べました。「新しい家に移転できたのは彼らが最初だった。アメリカ人の『兄弟姉妹』― 仲間のエホバの証人 ― が彼らを捜し出したからだ。……エホバの証人がどの国の霊的な仲間でも『兄弟姉妹』と呼ぶのは,本当にそう思っているからなのである」― 1981年4月19日付。
[306ページの図版]
第二次世界大戦後,彼らは18か国の困窮する仲間のエホバの証人に食料や衣類を送った
アメリカ
スイス
[310ページの図版]
1990年,ルーマニアにいる仲間の信者たちを助けるために近隣諸国のエホバの証人は力を合わせて努力した
[311ページの図版]
ペルーの地震を生き延びたエホバの証人は,独自の難民都市を作って互いに助け合った
現地に最初に到着した救援物資の中には,他のエホバの証人から届いたもの(下)が含まれていた
[313ページの図版]
救援活動には,仲間のエホバの証人が家を建て直すのを助けるために資材を供給したり自発奉仕者を派遣したりすることが含まれる場合も多い
グアテマラ
パナマ
メキシコ
[314ページの図版]
エホバの証人の救援活動には霊的な励ましも含まれる。ギリシャのカラマタ市の内外では,集会のために急きょテントを張った
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世界的な規模で共に建てるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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20章
世界的な規模で共に建てる
真の兄弟関係によって結ばれているというエホバの証人の意識は,様々な面に表われています。彼らの集会に出席する人々はその証拠を見ることができます。大会では,それがもっと大きな規模で示されます。またそれは,彼らが会衆の適当な集会場所を備えるために一緒に働く時にもはっきり見られます。
1990年代が始まった時点で,世界にはエホバの証人の会衆が6万余りありました。その前の10年間には,毎年平均1,759の新しい会衆が増えました。1990年代初めの時点では,会衆は年に3,000以上の割合で増えるまでになりました。そのような会衆すべてのために適当な集会場所を備えるのは,大変な仕事です。
王国会館
1世紀のクリスチャンと同様に,エホバの証人の多くの会衆は元々ほとんどの集会のために個人の家を使っていました。スウェーデンのストックホルムについて言えば,現地で初めて定期的な集会を開いた数人の人々は大工の作業場を使いました。作業場での一日の仕事が終わった後にそこを借りて使うのです。スペインのラコルニャ県の小さなグループは,迫害のために,最初の集会を小さな倉庫,それも穀物の倉庫で開きました。
もっと広い場所が必要な場合,集会場所を自由に借りられる地域であれば,エホバの証人の地元の会衆はそのようにしました。しかし,もしそれが他の団体も使っている会館であるならば,集会のたびにいろいろな用具を運び込んで設置しなければなりませんし,たばこの煙のにおいが残っていることもよくあります。それで兄弟たちは,できればだれも使っていない店や2階の部屋などを借りて,会衆だけで使えるようにしました。しかし時たつうちに,多くの地域では,家賃が高かったり,適当な場所が見つからなかったりするために,ほかの方法を考え出すことが必要になりました。場合によっては,建物を買って改造することもありました。
第二次世界大戦の前でも,自分たちが使うために特別に設計した集会場を建てた会衆が幾つかあります。1890年の昔に,米国ウェスト・バージニア州マウント・ルックアウトにあった聖書研究者のグループは自分たちの集会場を建てました。a しかし,王国会館の建設が広範に行なわれるようになったのは1950年代になってからです。
王国会館という名称は,1935年に,当時のものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードによって提案されました。ラザフォードは,ハワイのホノルルにあった協会の支部施設の隣に,兄弟たちが集会の開ける会館を建てることを取り決めました。ジェームズ・ハラブが,その建物を何と呼ぶつもりですかとラザフォード兄弟に尋ねた時,兄弟はこう答えました。「“王国会館”と呼ぶべきだとは思いませんか。わたしたちのしていることは,王国の良いたよりを宣べ伝えることだからです」。それ以来,可能な場合,エホバの証人が定期的に使う会館は徐々に,「王国会館」という看板で見分けられるようになりました。例えば,1937年から1938年にかけてロンドン・タバナクルが改装された時も,それは王国会館と改称されました。やがて,全世界の会衆が使う地元のおもな集会場所は,エホバの証人の王国会館として知られるようになりました。
その方法は一通りではない
王国会館を借りるか建てるかについては,会衆がそれぞれ地元で決定します。また会衆は,建設や維持・管理にかかる費用を負担します。大部分の会衆は資金を節約するため,民間の請負業者に仕事を依頼せず,できるだけ多くの工事を自分たちで行なうようにしています。
会館自体は,経費や地元で手に入るものに応じて,れんがや石材や木材,その他の資材で建てられるかもしれません。ナミビアのカティマ・ムリロでは,長い草を使って草ぶきの屋根を作り,アリ塚の泥(しっかりと固まる)を使って壁と床を作りました。コロンビアのセゴビアのエホバの証人は,自分たちでコンクリートの建設用ブロックを作りました。また,米国カリフォルニア州コルファックスでは,ラッセン山で採れた未加工の溶岩を使いました。
1972年にレソトのマセル会衆は,集会の出席者が200人を上回ることが多かったので,適当な王国会館を建てる必要があると考えました。全員が作業を手伝いました。年配の兄弟たちは32㌔も歩いて参加しました。子供たちも水の入ったドラム缶を転がして現場まで運びました。姉妹たちは食事を作りました。足を使って地面を踏み固め,床のコンクリート打ちの準備もしました。その間はずっと王国の歌を歌いながら,音楽のリズムに合わせて地面を踏みつけるのです。近くの山の砂岩も自分たちで運べばただだったので,それを使って壁を作りました。その結果,約250人が座れる王国会館が出来上がりました。
時には,近くの会衆が工事を手伝うこともあります。例えば1985年に,南アフリカの黒人居住区だったインバリのエホバの証人が,400人でもゆったりと座れる会館を建てた時,仲間のエホバの証人が近くのピーターマリッツバーグとダーバンから手伝いに来ました。当時は人種問題で騒然としていた南アフリカで,白人とカラードとインド人の大勢のエホバの証人が黒人居住区にどっと押し寄せ,アフリカの黒人の兄弟たちと肩を並べて働く光景を見た時,近所の人々がどれほど驚いたか想像できるでしょうか。地元の町長は,「このようなことは愛がなければできない」と言いました。
どれほど意欲があっても,兄弟たちのできることは地元の状況のために限られていることに諸会衆は気づきました。会衆内の男性は扶養家族を抱えており,普段そのような作業を行なえるのは週末か,晩の少しの時間だけかもしれません。建設の技術を持っている人がほとんどいない会衆も少なくありませんでした。それでも,あまり覆いのない,熱帯に合った比較的簡単な建物なら,数日,場合によっては数週間で造ることができました。もっと頑丈な建物でも,周りの会衆の証人たちの応援があれば五,六か月で完成することができました。また場合によっては,一,二年かかるようなこともありました。
しかし1970年代に入ると,全世界のエホバの証人は,一日に二つか三つの会衆が新設されるというペースで増えてゆきました。1990年代の初めまでに,その増加のペースは一日に九つの会衆になりました。新しい王国会館に関する緊急な必要を賄うことができるでしょうか。
速成建設の技術を開発する
1970年代の初めに,米国ミズーリ州カータービルで,近くの会衆から来た50人余りのエホバの証人が,ウェブ市で集会を開いていたグループのための新しい王国会館の建設に勇んで加わりました。彼らは一つの週末でおもな骨組みを造り上げ,屋根の作業もかなり行ないました。残った仕事もたくさんあり,竣工までには数か月かかりましたが,大切な部分は非常に短い期間で完成しました。
次の10年間,兄弟たちは約60の会館を共に建設するうちに,いろいろな障害を克服し,いっそう効果的な方法を編み出してゆきました。やがて,基礎工事が終わっていれば,一つの週末で王国会館全体をほぼ完成させられることに気づきました。
数人の会衆の監督たち ― 全員米国中西部の出身 ― がその目標を目指して事を進めました。会衆が王国会館の建設で援助を求めてくると,その兄弟たちのうちの一人あるいは何人かが建設計画について会衆側と話し合い,作業を始める前に地元で行なわなければならない準備について詳しいことを説明しました。中でも,建設許可を得ること,基礎と床のコンクリート打ちを行なうこと,電気を使えるようにすること,地下の配管をきちんとすること,建設資材の調達の段取りをしっかり付けることなどが必要でした。それから,王国会館そのものの工事を行なう日取りを決めます。建物はプレハブ式ではありません。現場で最初から新しく建ててゆくのです。
実際の作業を行なうのはだれでしょうか。できるかぎり,無報酬の自発奉仕者の作業で工事は進められました。家族全員が参加することもよくありました。工事を企画する人たちは,喜んで作業に参加したいという願いを表わした職人のエホバの証人と連絡を取りました。そのような人たちの多くは,いつも次の新しい建設計画を待ちわびていました。また,そうした計画について知った他のエホバの証人もそれに加わることを望みました。周辺の地域から,あるいはもっと遠くの地方から数百人の人々が,自分にできる何らかの方法で仕事をしたいと思い,建設現場に集まりました。ほとんどの人は建設の専門家ではありませんでしたが,エホバが任命されたメシアなる王の支持者になる人々に関する描写,つまり「あなたの民は進んで自らをささげます」という詩編 110編3節の描写にかなっている証拠を確かに示しました。
大攻勢が始まる前の木曜日の晩,工事を監督する人たちは集まって最終的な計画を詰めます。翌日の晩には,工程に関するスライドを作業員に見せ,仕事の流れを理解してもらいます。強調されるのは敬虔な特質の大切さです。兄弟たちは愛をもって共に働き,親切に行動し,辛抱や思いやりを示すよう勧められます。全員があわてず着実なペースで仕事をするよう,また遠慮なく数分の休憩をとって励みのある経験をだれかに話すよう勧められます。工事が始まるのは翌日の早朝です。
土曜日の早朝の決まった時間になると,全員が作業をやめて日々の聖句の討議に耳を傾けます。そして祈りをささげます。工事全体の成功はエホバの祝福にかかっていることをよく理解しているからです。―詩編 127:1。
作業はいったん始まると,どんどん進みます。1時間足らずで壁が立ち上がります。次に屋根のトラスです。それから壁板をくぎで所定の位置に取り付けます。電気工が配線工事を始めます。冷暖房の配管を行ないます。戸棚を作って取り付けます。時には,週末がずっと雨に見舞われることや,天候が変わってとても寒くなったり,非常に暑くなったりすることもありますが,作業は続けられます。職人たちが争ったり,ライバル意識を持ったりすることはありません。
二日目の日没前に,王国会館が完成することも珍しくありません。美しい内装や,時には外回りの造園まで終わることがあります。工程を三日に延ばしたり,時には二つの週末に延ばしたりするほうが実情に合っているなら,そのような予定が組まれます。作業員の中には,工事が終わってもそのまま残り,会衆が行なう最初の正規の集会である「ものみの塔」研究を楽しむ人が少なくありません。疲れてはいても,とても幸福です。
米国オクラホマ州ガイモンに住む数人の人々は,質の高い仕事がそんなに速くできるものかと考え,市の検査官に電話しました。検査官は後に事情をエホバの証人に説明した時にこう言いました。「正しい工事というものを見たければ,王国会館に行ってみるべきだと彼らに言っておきました。あなた方は,隠れて見えなくなる所でも手抜きをしていません」。
王国会館の必要が高まるにつれ,速成建設の様々な方法を開発した兄弟たちは他の人々を訓練しました。そうした工事に関する情報は他の国々にも広まりました。そのような建設方法はそれらの国でも採用できるのでしょうか。
速成建設の国際化
カナダの王国会館建設は,会衆の必要に比べて相当後れを取っていました。カナダのエホバの証人は,米国で速成建設計画を企画した人たちを招き,どのようにして行なったかを説明してもらいました。カナダの人たちは,最初はカナダでそれができるかどうか疑問に思いましたが,とにかくやってみることにしました。その方法で建てられたカナダの最初の王国会館がオンタリオ州エルマイラに完成したのは,1982年のことです。1992年の時点で,カナダにはそのような方法で建てられた王国会館が306ありました。
英国ノーサンプトンのエホバの証人は,自分たちにもできると考えました。1983年の工事は,ヨーロッパで最初のものでした。その方法の建設で経験のある兄弟たちが米国やカナダからやって来て,工事を監督したり,地元のエホバの証人にその方法を教えたりしました。ほかにも自発奉仕者が,日本,インド,フランス,ドイツなど,遠い所からやって来ました。そうした人々は自発奉仕者としてそこに来たのであり,報酬は受け取りません。どうしてそういうことができるのでしょうか。そのような工事で働いたアイルランドの証人たちの建設チームの監督は,『それが成功したのは,兄弟姉妹たちが皆エホバの霊の影響のもとで共に働いたからです』と言いました。
地元の建築規準法などからしてそのような工事が不可能に思える時でさえ,市の関係者に詳しい事情を説明すると,喜んで協力してもらえる場合が多いことをエホバの証人は知りました。
ノルウェーの北極圏で速成建設計画が実施された後,フィンマルケン紙は,「全くすばらしい。先週末にエホバの証人が行なったことを表現しようとすれば,この一語に尽きる」と感嘆の声を上げました。同様に,ニュージーランドの北島のエホバの証人が二日半で魅力的な王国会館を建てた時,地元の新聞の第一面を飾ったのは,「奇跡に近い建設計画」という見出しでした。その記事はさらに,「恐らく,彼らが行なった事柄の中で最も驚嘆すべきことは,その組織立った様子と,工事が極めて静かに行なわれたことである」と述べています。
王国会館の必要な場所が遠く離れているということも,乗り越えられない障壁ではありません。ベリーズでは,あらゆる資材をベリーズ市から60㌔離れた島に運ばなければならなかったにもかかわらず,速成建設計画が実施されました。オーストラリアのウェスタン・オーストラリア州ポートヘッドランドで空調設備のある王国会館が一つの週末で建てられた時も,ほとんどすべての資材と労働力が1,600㌔以上離れた所から来ました。作業員は自費で旅行しました。作業に参加したほとんどの人は,ポートヘッドランド会衆のエホバの証人とは面識がなく,その会衆の集会に出席するわけでもありませんでした。それでも,彼らはそういう形で愛を示すことをためらわなかったのです。
エホバの証人の数が少ない所でも,王国会館のそのような建築方法を用いることができないわけではありません。1985年のことですが,約800人のエホバの証人が自発奉仕者としてトリニダードからトバゴまで旅行し,トバゴにいる84人のクリスチャンの兄弟姉妹がスカーバラで王国会館を建てるのを手伝いました。また,カナダのラブラドル地区のグースベイにいた17人のエホバの証人(ほとんどは女性と子供)が自分たちの王国会館を持つには,どうしても助けが必要でした。そこで1985年,カナダの他の地域のエホバの証人はその仕事を行なうために,3機の飛行機をチャーターし,450人をグースベイに送りました。二日間懸命に働いた結果,日曜日の晩には,完成した王国会館で献堂式を行なうことができました。
とはいっても,現在はすべての王国会館が速成建設の方法で建てられているというわけではありません。それでも,その数はどんどん増えています。
地区建設委員会
1986年の半ばまでに,新しい王国会館の必要性は急激に高くなりました。その前の年に,世界中で2,461の新しい会衆が設立されましたが,そのうち207は米国の会衆でした。中には三つ,四つ,あるいは五つの会衆が使っている王国会館もありました。聖書が予告していたように,エホバは確かに収穫の業を速めておられました。―イザヤ 60:22。
人材を最大限に活用すると共に,王国会館の建設を行なっていたすべての人たちがそうした経験を生かせるようにするため,協会は彼らの活動を指揮するようになりました。1987年,まず手始めに,米国が60の地区建設委員会に区分けされました。どの委員会にもたくさんの仕事がありました。すぐに1年以上先まで工事の予定が詰まってしまった所もあります。そのような委員会で奉仕するよう任命された人たちは,何よりも霊的な資格にかなった会衆の長老であり,神の霊の実を実際に表わす点で模範的な男性でした。(ガラテア 5:22,23)また,不動産,設計,建設,経営,安全管理,その他の関連分野で経験のある人たちも少なくありませんでした。
会衆は新しい王国会館の場所を選ぶ前に地区建設委員会に相談するよう勧められました。一つの都市に複数の会衆がある場合は,巡回監督や都市の監督,さらには近隣の会衆の長老たちと相談することも勧められました。さらに,大きな改装工事や新しい王国会館の建設を計画している会衆は,その地域を担当している地区建設委員会の兄弟たちの経験と,協会が委員たちに与えている指針から益を受けるように勧められました。その委員会を通して,すでに自発奉仕者としてそのような工事を手伝ったことのある約65の職種の兄弟姉妹の中から,必要な技術者を集めるための様々な取り決めが設けられます。
いろいろな手順にみがきをかけてゆくにつれ,一つの工事計画にかかわる作業員の数を減らすことができました。建設現場で数千人が作業したり見守ったりするようなことはなく,同時に200人以上の人が現場にいることもめったになくなりました。作業員たちは週末の間ずっと現場にいる代わりに,自分の技術が必要なときにだけ出向きました。こうして,家族と共に過ごす時間や自分の会衆の活動に充てる時間が増えるようになったのです。また,地元の兄弟たちがある種の仕事を程よい時間で行なえるのであれば,速成建設のグループを呼ぶのは,工事全体の中でより緊急に必要とされる仕事がある時に限るほうが実際的である場合も少なくありませんでした。
工事全体は驚くほどのスピードで進みましたが,それが最重要視されていたわけではありません。もっと大切なのは,地元の必要に合うように設計された簡素な王国会館の建設を質の高いものにするということでした。出費を最小限に抑えながらその目標を達成するために,入念な計画が立てられました。作業員の安全,近所の人や通行人の安全,将来王国会館を使う人たちの安全など,安全を確実に優先させるための対策も講じられました。
王国会館建設のこの取り決めに関する情報が他の国々にも届くと,それが管轄地域でも有利であると考えた協会の支部事務所には必要な詳細が送られました。1992年までに,協会によって設立された地区建設委員会は,アルゼンチン,オーストラリア,イギリス,カナダ,フランス,ドイツ,日本,メキシコ,南アフリカ,スペインといった国々で王国会館の建設を援助していました。建設方法は地元の状況に合わせて調整されました。王国会館の建設のために他の支部の援助が必要な場合は,協会の本部事務所を通して取り決めが設けられました。世界には,新しい会館を数日で建てている所もあれば,数週間,あるいは数か月で建てている所もあります。入念な計画と調和のとれた努力により,新しい王国会館を備えるのに必要な時間は大幅に減りました。
エホバの証人の建設の活動は王国会館に限られているわけではありません。幾つもの会衆が年に1度の巡回大会や特別一日大会に集まる時には,もっと大きな施設が必要です。
大会ホールの必要を満たす
長年,巡回大会のために様々な種類の施設が使われてきました。エホバの証人は,市民会館,学校,劇場,教練所,競技場,展示場などの場所を借りてきました。非常に立派な施設が適当な値段で借りられる地域も少数ながらありましたが,大抵は会場を掃除し,音響装置を設置し,ステージを作り,いすを運び込むのに相当な時間と努力が必要でした。時には,土壇場になって借りられなくなることもありました。会衆の数が増えるにつれ,十分な数の適当な会場を見つけるのはますます難しくなってゆきました。どんな手が打てるでしょうか。
この場合も,エホバの証人が独自の会場を持つことが解決策になりました。そのためには,適当な建物を改装することと新しい建物を造ることが必要です。米国のそうした大会ホールの最初のものは,ニューヨーク州ロングアイランド市の劇場を改装したホールでした。エホバの証人は1965年の後半にそれを使い始めました。
同じころ,カリブ海のグアドループのエホバの証人も自分たちの必要に合った大会ホールを設計していました。彼らは様々な地域で巡回大会を開ければ,そのほうが有利であると考えていましたが,ほとんどの町には十分な大きさの施設がありませんでした。それでエホバの証人は鋼鉄のパイプとアルミの屋根でできた移動式の建物を造りました。それは700人が集まるには十分のもので,比較的平らな土地があればどこにでも建てられました。彼らはそのホールを何度も大きくしなければならず,最後には5,000人の収容能力を持つまでになりました。大会のたびに30㌧の資材を運び,組み立て,解体することを想像してみてください。その大会ホールは13年間,年に数回組み立てと分解を繰り返しました。しかしついに,移動式ホールのための土地を見つけるのが難しくなり,土地を買って永久的な大会ホールを建てることが必要になりました。このホールは今,巡回大会や地域大会のために役立っています。
かなり多くの場所で,大会ホールの計画に関しては既存の建物が利用されました。英国サリー州ヘイズブリッジでは,50年前にできた学校の建物を買って改装しました。このホールは,美しい田園地方の11㌶の土地に建っています。スペインでは,以前の映画館や産業用の倉庫を改造して使いました。オーストラリアでは使われていなかった織物工場,カナダのケベック州ではダンスホール,日本ではボーリング場,韓国では倉庫を利用しました。それらはみな魅力的な大会ホールに改装され,聖書教育の大きな中心施設として役立ちました。
新規に建てられた全く新しい大会ホールもあります。英国サウス・ヨークシャー州ヘラビーのホールは,珍しい八角形のデザインと,工事のかなりの部分が自発奉仕者の作業によって行なわれたことが注目され,建築技師協会の雑誌の記事に取り上げられました。カナダのサスカチェワン州サスカトゥーンの大会ホールは1,200人が座れる設計になっていましたが,内壁を所定の位置に取り付けると,その建物は隣り合った四つの王国会館としても使えます。ハイチの大会ホール(米国から送られたプレハブ)は2面が開いているので,中で座っている人たちは卓越風で涼むことができました。ハイチの照りつける太陽から逃れられる,ありがたい場所です。パプアニューギニアのポートモレスビーのホールは,壁の一部がドアのように開く設計になっていたため,中に入り切れないほど大勢の人が来ても対応することができました。
大会ホールの建設に関する決定は,ほかのすべての人がその決定を支持することを期待する少数の監督たちによって下されるのではありません。協会は新しい大会ホールを建てる前に,その必要性や将来の使用頻度などについて注意深い分析が行なわれることを見届けます。その計画に対する地元の熱意だけでなく,野外の全体的な必要も考慮されます。計画を支持する願いと能力が兄弟たちにあるかどうかを確かめるために,関係するすべての会衆との話し合いが行なわれます。
ですから,計画が動き出す時には,その地域のエホバの証人が全面的に支持しているということになります。各工事の資金はエホバの証人自身が賄います。お金が必要であるという説明はありますが,寄付は自発的に匿名で行ないます。事前に入念な計画が立てられます。工事には,王国会館の建設から,また大抵は他の場所の大会ホールの計画からすでに得られた経験を生かします。必要に応じて,工事のある部分は民間の請負業者に委託することもありますが,大抵ほとんどの仕事は熱心なエホバの証人が行ないます。そうすれば,費用が半分ですむこともあります。
自発奉仕者として時間や才能を提供する専門技術者や他の人々が作業するので,工事全体はたいてい速く進みます。1年以上かかる工事もありますが,カナダのバンクーバー島の場合は,1985年に約4,500人の自発奉仕者が2,300平方㍍の大会ホールをたった九日で完成させました。その建物には,地元の会衆が使う200席の王国会館も含まれています。1984年にニューカレドニアでは,政情不安のために夜間外出禁止令が政府から出されましたが,一時に400人ほどの自発奉仕者が大会ホールの工事で働き,わずか4か月で完成させました。スウェーデンのストックホルム近郊では,オーク材を使ったクッションの良いいすを900脚置いた,美しく実用的な大会ホールが7か月で建ちました。
時には,そうした大会ホールの建設許可を得るため,裁判所で根気強く努力する必要がありました。カナダのブリティッシュコロンビア州サリーの場合がそうでした。土地を買った時には,調整区域などの指定から外れていたのでそのような崇拝の場所を建てることができました。しかし,1974年に建設計画を提出した後,サリー地区議会は,教会や大会ホールを建ててもよい地域をP-3区域だけに限定する条例を成立させました。P-3区域なるものは存在しないのにです。ところが,市内にはすでに79の教会が何の問題もなく建てられていました。問題は法廷に持ち込まれました。繰り返し出されたのは,エホバの証人に有利な判決でした。偏見を持った議員たちの妨害がついに除かれると,自発奉仕の作業員たちは猛烈な勢いで工事に取りかかり,約7か月で完成させました。古代エルサレムの城壁を再建するために骨折ったネヘミヤと同様に,彼らも仕事を成し遂げるために『神のみ手が自分たちの上にあった』ことを感じました。―ネヘミヤ 2:18。
米国のエホバの証人がニュージャージー州ジャージーシティーのスタンレー劇場を買い取った時,その建物は州の史跡に指定されていました。劇場は荒れ放題になっていましたが,大会ホールとして使えるすばらしい可能性がありました。しかし,エホバの証人が必要な修理を行なおうとした時,市の関係者は許可を出しませんでした。市長は,その地域にエホバの証人が来ることを望まなかったため,その建物に関して別の計画を立てていました。当局による権威の不法行使を阻止するには,裁判に持ち込む必要がありました。裁判所の決定はエホバの証人に有利なものでした。それからしばらくして,地元住民による選挙で市長はその職務を失いました。ホールの工事は速く進みました。その結果,4,000人余りが座れる美しい大会ホールが出来上がりました。市の実業家や住民もそのホールを誇りに思っています。
エホバの証人は過去27年間,聖書教育の中心として機能する魅力的で実用的な大会ホールを世界各地に建ててきました。そのようなホールは現在,南北アメリカ,ヨーロッパ,アフリカ,東洋,さらには多くの島でどんどん増えています。また,エホバの証人はナイジェリアやイタリアやデンマークといった幾つかの国で,地域大会に使えるような,もっと大きく耐久性のある屋外施設を建ててきました。
しかし,エホバの証人が神の王国をふれ告げる活動の推進のために行なっている建設工事は,大会ホールや王国会館に限られてはいません。
世界中の事務所,印刷工場,ベテル・ホーム
1992年の時点で,世界には,ものみの塔協会の支部事務所が99ありました。各支部は,世界を舞台にするエホバの証人の活動を管轄地域ごとに指揮する役割を果たしています。それらの支部の半分以上は,聖書教育の活動を推し進めるためにいろいろな印刷を行なっています。支部で働く人々は大抵,ベテルと呼ばれる家に大きな家族として住んでいます。ベテルには,「神の家」という意味があります。エホバの証人の数が増え,宣べ伝える活動が拡大しているので,それらの施設を拡張したり,新しい施設を建てたりすることが必要になってきました。
組織の成長は余りにも急速なため,同時に20か所から40か所でそのような支部の拡張計画が進行することも珍しくありません。そのため,巨大な国際建設計画が必要になってきました。
世界中で膨大な量の建設工事が行なわれているため,ものみの塔協会はニューヨークの本部に独自の設計製図部門を設置しています。長年の経験を持つ技術者たちが世俗の仕事をやめ,自発奉仕者として王国の活動に直接関係した建設計画の援助を全時間行なっています。また,経験のある人たちは,工学,デザイン,製図などの仕事で他の男女を訓練しています。この部門を通して仕事の指揮を執ることにより,世界各地の支部の建設で得られた経験を,他の国で工事を行なう人々のために生かすことができます。
やがて,行なわれている大量の仕事の関係上,日本に地区設計事務所を設け,東洋で行なわれる建設計画の設計の仕事を援助してもらうことが得策になりました。ヨーロッパとオーストラリアでも,地区設計事務所が機能しています。その人員は様々な国から集められました。それらの事務所は本部の事務所と密接に協力して仕事を行なっています。そうしたサービスやコンピューター技術の活用によって,どの建設現場でも,必要な設計者の数が減りました。
中には,比較的規模の小さな工事もあります。1983年にタヒチで建設された支部事務所の場合がそうでした。その中には,事務所と倉庫と8人の自発奉仕者の宿舎が入っていました。1982年から1984年にかけてカリブ海のマルティニーク島で建てられた4階建ての支部の建物の場合もそうでした。それらの建物は,都会に住んでいる人から見れば大したものではないかもしれませんが,それでも一般の人々の注目を集めました。フランス・アンティル紙は,マルティニークの支部の建物は「立派に仕事を成し遂げたいという情熱」を反映した「建築の傑作」であると述べました。
規模の点から見て対照的なのは,1981年にカナダで完成した建物です。これには,床面積9,300平方㍍以上の工場と250人の自発奉仕者の宿舎が含まれていました。その同じ年にブラジルのセザリオ・ランジェで完成したものみの塔の施設には,八つの建物が含まれており,その床面積は4万6,000平方㍍近くに上りました。それを造るには,トラック1万台分のセメント,石,砂のほかに,エベレスト山の2倍の高さに達するほどの大量のコンクリートの杭が必要でした。また,1991年にフィリピンで大きな新しい印刷工場が完成した時には,11階建ての宿舎を造ることも必要でした。
ナイジェリアの増加する王国宣明者の必要を賄うために,1984年にイギードゥマで大きな建設工事が始まりました。それには,工場,広々とした事務棟,連結した四つの宿舎,その他の必要な施設が含まれることになっていました。工場に関しては,完全にプレハブ式で造って米国から運び込む計画を立てました。しかしその時,兄弟たちの前に立ちはだかったのは,守れそうにないと思えた輸入の最終期限でした。最終期限に間に合い,建設現場にすべてのものが無事に届いた時,エホバの証人はそれを自分たちの手柄にせず,エホバが祝福してくださったことをエホバに感謝しました。
世界中の急速な拡大
しかし,王国をふれ告げる活動が余りにも急速に拡大しているため,一つの国で支部施設を大きく拡張した後でさえ,比較的短期間のうちに再び建設を始めることが必要になる場合も少なくありませんでした。幾つかの例を考えてみましょう。
ペルーでは,事務所,22の寝室,さらにはベテル家族の成員のための他の基本的な施設と王国会館を含む立派な新しい支部が,1984年の終わりに完成しました。しかし,南米のその国では,王国の音信に対して予想をはるかに超える反応がありました。4年後には,既存の施設を2倍にしなければなりませんでした。今回は耐震構造の建物です。
コロンビアでも,広々とした新しい支部の建物群が1979年に完成しました。それだけのスペースがあれば長くもつだろうと考えられていました。しかし,7年足らずでコロンビアのエホバの証人の数は2倍近くになり,支部では,コロンビアだけでなく,近くの四つの国のためにも,「ラ・アタラヤ(ものみの塔)」誌と「デスペルタード!(目ざめよ!)」誌を印刷するようになっていました。1987年には再び建設を始めなければなりませんでした。今回は,拡張できる余地がもっと多い場所に建設されました。
1980年に,ブラジルのエホバの証人は,王国の音信を公に宣べ伝える活動に約1,400万時間を費やしました。1989年には,その数字が5,000万時間近くにまで増えました。多くの人が霊的な飢えを満たしたいという願いを表わしました。1981年に献堂された広大な支部施設はもう十分ではありません。1988年9月にはすでに,新しい工場のための掘削工事が進んでいました。それは,床面積が既存の工場に比べて80%広い工場になります。もちろん,大きくなったベテル家族を世話するための居住施設も必要でした。
ドイツのゼルターズ/タウヌスで,ものみの塔協会の2番目に大きな印刷工場群が献堂されたのは1984年のことでした。5年後には,ドイツの増加に加えて,ドイツ支部が文書を印刷して送っている国々の証言活動を拡大する機会が開かれたため,工場を85%余り拡張し,他の生活施設を増やすための計画が進められていました。
日本支部が東京から沼津の新しい施設に移転したのは1972年のことでした。1975年には,さらに大きな拡張を行ないました。1978年までには,海老名で別の物件を手に入れ,沼津の3倍以上の工場をすぐに建設し始めました。それは1982年に完成しました。それでもまだ十分ではありません。1989年にはさらに増築が完了しました。十分な大きさの建物を一度で建てるわけにはゆかなかったのでしょうか。それは不可能でした。日本の王国宣明者の数は,だれも予測できないような勢いで何度も何度も倍増してきたのです。1972年には1万4,199人だったのが,1989年には13万7,941人にまで増えていました。しかも,かなりの割合の人々が全時間の宣教を行なっていました。
世界の他の場所でも,同じような様子が見られます。印刷設備のある大きな支部を建ててから10年もしないうちに ― 場合によっては数年足らずで ― 大きな拡張を行なうことが必要になってきました。中でもメキシコ,カナダ,南アフリカ,韓国などの場合がそうでした。
実際の建設作業を行なうのはだれでしょうか。作業はすべてどのようにして成し遂げられるのでしょうか。
手伝うことを切望する非常に大勢の人々
スウェーデンでは,アルボガで支部の建設が行なわれていた当時,国内の1万7,000人のエホバの証人のうち,約5,000人が自発奉仕者として仕事を手伝いました。ほとんどの人は,やる気のあるお手伝いさんといった程度でしたが,高度な技術を持った専門家もいて,仕事がきちんと行なわれるように見届けました。彼らの動機は何でしたか。エホバに対する愛でした。
デンマークのある測量事務所の職員は,ホルベックの新しい支部の工事がエホバの証人によって行なわれると聞いて,不安を口にしました。とはいえ,必要な専門知識はすべて,自発奉仕者として手伝ったエホバの証人から得られました。しかし,民間の請負業者に仕事を委託したら,もっとうまくゆくのではないでしょうか。工事が終了した後,町の建築課から来た専門家たちは,建物を見学しながら見事な出来映えについて述べ,近ごろは業者の仕事でもこれほどの出来はあまりないと言いました。最初不安を口にした例の職員も,にこにこしながら,「あの時は,あなた方がどんな組織を持っているのか分からなかったんですよ」と言いました。
オーストラリアでは人口の集中している場所が広く散らばっています。そのため,1978年から1983年にかけて,自発奉仕者としてイングルバーンの支部施設の工事を行なった3,000人のうちのほとんどは,少なくとも1,600㌔の旅行をしなければなりませんでした。しかし,自発奉仕者の一行のバス旅行が計画された時,途中にある会衆は,休憩する兄弟たちに食事と交わりのひと時を提供してもてなしました。兄弟たちの中には,工事に参加するために家を売ったり,事業をやめたり,休暇を取ったりして,様々な犠牲を払った人もいました。経験のある職人のチームも ― ある人は一度ならず ― やって来て,コンクリート打ちや天井張りを行なったり,塀を作ったりしました。資材を寄付した人たちもいました。
それらの工事を行なった自発奉仕者のほとんどは素人でした。しかしその中には,いくらかの訓練を受けて重責を担い,すばらしい仕事をした人たちもいました。そのような人々は,窓の作り方やトラクターの運転の仕方,コンクリートの混ぜ方,れんがの積み方などを覚えました。また彼らは,エホバの証人ではない同じ職種の業者よりも非常に有利な立場にいました。どうしてでしょうか。経験者たちが,喜んで知識を伝授してくれるのです。ほかの人に仕事を取られることを心配する人は一人もいません。すべての人にたくさんの仕事がありました。また,質の高い仕事をしたいという強い動機もありました。神に対する愛の表われとして仕事を行なっていたからです。
どの建設現場でも,建設“家族”の核になるエホバの証人がいます。1979年から1984年にかけてドイツのゼルターズ/タウヌスで工事が行なわれていた間も,大抵,数百人の人たちが作業員のそうした核になっていました。そのほかの幾千人もの人々は,多くの場合週末に彼らに加わりましたが,その期間は様々でした。入念な計画を立てたので,自発奉仕者が来た時にはたくさんの仕事が用意されていました。
人が不完全であるかぎり,問題は起きます。しかし,それらの工事で働く人々は聖書の原則に基づいて問題を解決しようとします。クリスチャンらしい方法で物事を行なうほうが能率よりも大切であることを知っているのです。日本の海老名の建設現場には,大切なことを思い出せるよう,ヘルメットをかぶった作業員を描いた大きな看板があり,それぞれのヘルメットには,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制という,神の霊の実が一つずつ書いてありました。(ガラテア 5:22,23)作業現場を訪れる人たちは,目と耳で一般の現場との違いを理解することができます。ブラジル支部の建設現場を見学した新聞記者は,「混乱や協調性の欠如は見られない。……クリスチャンの醸し出すこうした雰囲気は,ブラジルの民間の建設現場で一般に見られる雰囲気とは違う」と感想を述べました。
世界本部の絶え間ない拡張
ものみの塔協会の支部は拡大してきましたが,世界本部の施設を拡張することも必要になってきました。ブルックリンやニューヨーク州の他の場所にある工場と事務所では,第二次世界大戦後10回を超える大きな増築工事が行なわれました。また,働く人々のための宿舎として,大小さまざまな建物を建てたり,買い取って改装したりすることも必要でした。さらにブルックリンの大きな拡張工事が,1990年8月と1991年1月に発表されました。もっとも,1989年にニューヨーク市北部で始まった大規模なものみの塔教育センターの建設も続いていました。それは,住み込んで働く人と学生合わせて1,200人を収容できるようになっています。
1972年以来,ブルックリンの世界本部と,ニューヨーク州,ニュージャージー州の他の場所にある,本部と密接に関連した施設では,建設工事が途切れることなく続いています。そのうちに,いくら数百人いるとはいっても正規の建設作業員だけでは仕事に追いつけないことが明らかになりました。そこで1984年に,継続的な一時作業員の計画が始まりました。当時米国にあった8,000の会衆に手紙が送られ,条件を満たす兄弟たちは1週間あるいはそれ以上の期間援助に来ることを勧められました。(同様の計画はすでに幾つかの支部でうまくいっていました。例えばオーストラリアでは,2週間滞在できる人たちが自発奉仕者として招かれました。)作業員には宿舎と食事があてがわれますが,旅費は自分で払い,報酬も受け取りません。こたえ応じる人がいるでしょうか。
1992年までに,優に2万4,000件を超える申し込みが取り扱われました。そのうち少なくとも3,900件は,今回が2回目,3回目,さらには10回目,20回目という人たちの申し込みでした。ほとんどの人は,長老,奉仕の僕,開拓者といった,立派な霊的資格を持った人々です。すべての人が,自分の専門を生かせる仕事でもそうでない仕事でも,必要な仕事を何でも進んで行ないました。大抵はきつくて汚い仕事です。しかし彼らは,王国の関心事を促進することにそのような方法で貢献できることを特権とみなしました。そのおかげで,世界本部で行なわれている仕事の特色である自己犠牲の精神をいっそう十分に学んだと感じる人たちもいます。ベテル家族の朝の崇拝のプログラムと,毎週行なわれる家族のものみの塔研究に出席した結果,全員が豊かに報われたと感じました。
インターナショナル・ボランティア
急速な拡大の必要が大きくなるにつれ,インターナショナル・ボランティアの制度が1985年に始まりました。それは決して建設に関する国際協力の始まりではありませんでしたが,本部がその制度を注意深く指揮するようになったのはその時でした。参加者はすべて,自発奉仕者として外国の建設工事を援助するエホバの証人です。職人もいれば,その妻もいます。妻のほうは夫と共に参加し,自分にできる方法で援助を行ないます。ほとんどの人は旅費を自分で賄います。仕事に対する報酬を受け取る人は一人もいません。短期間,普通は2週間から3か月滞在して参加する人もいれば,1年以上,場合によっては工事が終わるまでとどまる長期の自発奉仕者もいます。最初の5年間で,30か国から3,000人余りのエホバの証人が参加しました。自分の技術が必要とされる時に是非とも参加したいと思った人はほかにも大勢います。彼らはそのような方法で,神の王国の関心事を促進するために自分自身や自分の資産をささげることを特権とみなしています。
インターナショナル・ボランティアには,宿舎と食事が提供されます。大抵,便利な設備は最低限しかありません。地元のエホバの証人は,来てくれる兄弟たちの行なっていることに大いに感謝しています。可能な場合は,たとえ質素な家であっても,自宅に兄弟たちを迎えて寝泊まりしてもらいます。ほとんどの場合,食事は現場で取ります。
外国の兄弟たちは,すべての仕事をするために来るわけではありません。その目的は,地元の建設チームと一緒に働くことです。ほかにも国内の幾百人,時には幾千人という人々が週末にやって来て手伝ったり,一度に1週間以上の期間にわたって援助に来たりすることもあります。アルゼンチンでは,外国から来た259人の自発奉仕者が数千人の地元の兄弟たちと一緒に働きました。地元の兄弟たちの中には,毎日仕事をした人もいれば,数週間働いた人もいます。週末にはそれよりもずっと大勢の人たちが作業に加わりました。コロンビアでは,830人余りのインターナショナル・ボランティアが様々な期間にわたって援助しました。また,200人を超える地元の自発奉仕者が工事に全時間加わったほか,週末ごとに250人以上の人が手伝いに来たので,合計すると3,600人余りの人が参加したことになります。
言語の違いが問題になることもあります。しかし,国際的なグループが一緒に作業できないわけではありません。身振り手振りや顔の表情,ユーモアのセンス,さらにはエホバの誉れとなる仕事を成し遂げたいという願いなどが,工事をやり遂げるのに役立っているのです。
建設関係の職人の数が限られている国で,組織が著しく拡大し,その結果として,いっそう大きな支部施設が必要になることもあります。しかし,喜んで助け合うエホバの証人の間で,それは障害にはなりません。エホバの証人は,国籍や皮膚の色や言語などによって切り離されることのない世界的な家族の一員として共に働くのです。
パプアニューギニアでは,オーストラリアとニュージーランドから来た自発奉仕者が,労働省の要請にこたえて,各自がそれぞれの職種で一人のパプアニューギニア人を訓練しました。こうして,地元のエホバの証人は自分の労力を提供しながら,自分や家族の必要を賄うのに役立つ技術を学びました。
エルサルバドルで新しい支部が必要になった時,外国から来た自発奉仕者326人が地元の兄弟たちに加わりました。エクアドルの建設工事では,14か国270人のエホバの証人がエクアドルの兄弟姉妹たちと一緒に働きました。インターナショナル・ボランティアの中には,同時に進行していた幾つかの工事を掛け持ちしていた人もいます。彼らは,自分たちの専門技術の必要に応じて,ヨーロッパとアフリカの建設現場を回りました。
1992年までに,インターナショナル・ボランティアは49の支部用地に派遣され,地元の建設作業員たちを援助しました。この計画から援助を受けた人たちが,次には他の人々を援助できるようになっていたという例もあります。例えば,フィリピンの人々の中には,約60人の長期インターナショナル・サーバントや,短期的に援助を行なった230人余りの外国の自発奉仕者の働きから益を得て,東南アジアの他の場所で行なわれる施設の建設を援助するために自分を差し出した人たちがいます。
エホバの証人は,良いたよりの伝道に関連して現に必要が生じているので建設工事を行なっています。エホバの霊の助けにより,ハルマゲドン前の残っている期間にできるだけ大規模な証言を行なうことを願っているのです。彼らは,神の新しい世が非常に間近いことを確信しています。また,組織された民として,メシアによる神の王国が支配する新しい世に生き残るということを信じています。また,彼らが建ててエホバに献堂した立派な施設の多くが,恐らくハルマゲドンの後も,唯一まことの神に関する知識が本当に地に満ちるまで,それを広める中心として使われることを希望しています。―イザヤ 11:9。
[脚注]
a それは「新しい光」教会として知られていました。そこで交わっていた人々は,ものみの塔の出版物を読んだ結果,聖書に関する新しい光を得たと感じていたからです。
[322ページの拡大文]
近くの会衆のエホバの証人が作業を手伝った
[323ページの拡大文]
建設作業は無報酬の自発奉仕によって行なわれた
[323ページの拡大文]
霊的な特質が強調された
[326ページの拡大文]
質の高い建設,安全,最小限の費用,スピード
[328ページの拡大文]
移動式の大会ホール
[331ページの拡大文]
裁判所に訴える
[332ページの拡大文]
大規模な国際的拡大
[333ページの拡大文]
作業員たちは,自分の手柄とは考えず,エホバに誉れを帰した
[334ページの拡大文]
だれも予測できなかった速度での増加
[336ページの拡大文]
彼らは本部の建設工事を手伝えることを特権とみなした
[339ページの拡大文]
彼らは,国籍や皮膚の色や言語などによって切り離されることのない世界的な家族として働く
[320,321ページの囲み記事/図版]
王国会館を速く建てるために共に働く
毎年,幾千もの新しい会衆が設立されています。ほとんどの場合は,エホバの証人自身が新しい王国会館を建てます。以下の写真は,1991年,米国コネティカット州の王国会館の建設中に撮ったものです
金曜日の朝7時40分
金曜日の昼12時
土曜日の午後7時41分
おもな作業が終了。日曜日の午後6時10分
エホバに祝福を仰ぎ求め,時間を取って神の言葉の助言を討議する
全員が無報酬の自発奉仕者。喜んで一緒に働く
[327ページの囲み記事/図版]
様々な国の王国会館
エホバの証人が使う集会場は大抵質素なものです。周囲の環境に合った,清潔で,快適で,魅力的な建物です
ペルー
フィリピン
フランス
韓国
日本
パプアニューギニア
アイルランド
コロンビア
ノルウェー
レソト
[330ページの囲み記事/図版]
エホバの証人の大会ホール
ある地域のエホバの証人は,周期的に行なわれる大会の会場として,独自の大会ホールを建てるのが実情にかなっていると考えています。建設工事のかなりの部分は地元のエホバの証人が行ないます。ここに挙げるのは,1990年代の初めに使われていた大会ホールのほんの数例です
イギリス
ベネズエラ
イタリア
ドイツ
カナダ
日本
[338ページの囲み記事/図版]
国際的な建設計画が緊急な必要を満たす
組織の急速な拡大により,世界中の事務所,工場,ベテル・ホームの拡張が絶えず必要になっています
インターナショナル・ボランティアが地元のエホバの証人を援助する
スペイン
経験の限られた多くの自発奉仕者は,用いられている建設方法のおかげで貴重な仕事を行なえる
プエルトリコ
職人も喜んで仕事を行なう
ニュージーランド
ギリシャ
ブラジル
耐久性のある資材を使うので,長期的に見ると維持費が節約できる
イギリス
質の高い仕事は,作業をする人たちの個人的な関心の結果として生み出される。それは,エホバに対する愛の表われ
カナダ
これらの工事は楽しいひと時。いつまでも続く友情が数多く生まれる
コロンビア
日本の看板は,安全対策や,神の霊の実を表わす必要を作業員に思い起こさせた
[318ページの図版]
最初に王国会館と呼ばれたハワイの建物
[319ページの図版]
初期の王国会館は,貸しビルや,単に店の上階の部屋であるという場合が多かったが,エホバの証人が建てたものも幾らかあった
[329ページの図版]
最初の二つの大会ホール
ニューヨーク市
グアドループ
[337ページの図版]
ニューヨークの世界本部に着いたばかりの一時建設作業員たち
霊的な人であることと質の高い仕事を行なうことが,仕事を速く行なうことよりも優先されるという点が,各グループに指摘される
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資金はすべてどのように賄われているかエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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21章
資金はすべてどのように賄われているか
言うまでもなく,エホバの証人の行なっている活動にはお金がかかります。王国会館,大会ホール,支部事務所,工場,ベテル・ホームなどを建てるにはお金がいりますし,それを維持するのにもお金が必要です。また,聖書研究用の文書を出版して配布することにも費用がかかります。資金はすべてどのように賄われているのでしょうか。
エホバの証人の活動に反対する人たちは,その点に関して根も葉もない憶測を広めてきました。しかし,証拠を調べてみれば,エホバの証人自身の提出する答えのとおりであることがよく分かります。それは,どんな答えでしょうか。ほとんどの活動は,奉仕に対する金銭的な見返りを期待したり望んだりしない自発奉仕者によって行なわれており,組織上の支出は自発的な寄付によって賄われています。
「入場無料。寄付は集めません」
ラッセル兄弟は早くも「ものみの塔」誌(英文)の創刊第2号に当たる1879年8月号の中で,こう述べています。「『シオンのものみの塔』はエホバがその支持者であるとわたしたちは信じる。そうであるかぎり,この雑誌は人間に支持を乞い求めたり,懇願したりはしない。『山々の金と銀はみな我がものである』と言われる方が必要な資金を供給しないなら,それは出版を中止する時である,とわたしたちは考える」。この趣旨と調和して,エホバの証人の文書の中には,お金を乞い求める箇所はありません。
エホバの証人の文書について言えることは,彼らの集会についても当てはまります。会衆でも大会でも,資金を求める感情的な訴えは行なわれません。寄付盆が回されることも,お金を入れる封筒が配られることも,寄付を依頼する手紙が会衆の成員に送られることもありません。会衆が資金集めのためにビンゴや富くじを行なうことも決してありません。1894年の昔に,ものみの塔協会は旅行する講演者を派遣した時,すべての人のために次のような通知を出しました。「寄付集めや,金銭を懇願する他の行為は,当協会によって許可も承認もされていないということを最初から理解しておいていただきたい」。
ですから,エホバの証人の現代史が始まったばかりのころから,集会に一般の人々を招待するためのビラや他の招待状には,「入場無料。寄付は集めません」という標語が記されていました。
1914年の初めから,聖書研究者たちは劇場や他の講堂を借り,そこで「創造の写真劇」を見るよう一般の人々を招待するようになりました。これはスライドと映画に音声を合わせたもので,4部に分かれていました。上映時間は全部で8時間になります。最初の年だけで,北アメリカ,ヨーロッパ,オーストラリア,ニュージーランドの非常に大勢の人々がそれを見ました。劇場の所有者の中には,指定席の料金を請求する人もいましたが,聖書研究者たちは決して入場料を取りませんでした。寄付を集めることもなかったのです。
その後,ものみの塔協会は30年余りにわたり,ニューヨーク市でWBBRというラジオ局を運営していました。エホバの証人は,聖書教育の番組を放送するために他の幾百という放送局の施設も利用しました。しかし,そのような番組を通じてお金を乞い求めたことは一度もありません。
では,彼らの活動資金になる寄付はどのようにして得られるのでしょうか。
自発的な寄付によって支えられる
聖書は型を示しています。モーセの律法のもとでは,自発的に行なわれる寄付もあれば,人々に要求された寄付もありました。什一,つまり十分の一をささげることは後者の例です。(出エジプト記 25:2; 30:11-16。民数記 15:17-21; 18:25-32)しかし聖書は,キリストが律法を成就し,神がそれに終止符を打たれたので,クリスチャンは律法の規定に縛られてはいないということも示しています。クリスチャンは什一を納めませんし,一定量の寄付や特定の時に行なう寄付など,いかなる寄付であってもそれを行なう責務を負ってはいません。―マタイ 5:17。ローマ 7:6。コロサイ 2:13,14。
その代わりにクリスチャンは,エホバご自身とみ子イエス・キリストによって示されたすばらしい手本に倣い,寛大で物惜しみしない精神を培うように勧められています。(コリント第二 8:7,9; 9:8-15。ヨハネ第一 3:16-18)例えば,使徒パウロは与えることについて,「各自いやいやながらでも,強いられてでもなく,ただその心に決めたとおりに行ないなさい。神は快く与える人を愛されるのです」と,コリントのクリスチャン会衆に書き送りました。パウロが説明しているとおり,窮乏に関する知らせが入った時には,それによって『彼らの愛の純真さが試され』ました。またパウロは,「進んでする気持ちがまずあるなら,持っていないところに応じてではなく,持っているところに応じて特に受け入れられるのです」と述べています。―コリント第二 8:8,12; 9:7。
こうした点を考えると,テルトゥリアヌスが当時(西暦155年ごろ–220年以降)キリスト教を実践しようと努力していた人々の集会について述べた所見には,興味深いものがあります。彼はこう書いています。「金箱のようなものがあったとしても,それには入場料として支払われる金が入るのではない。宗教は金銭上の契約などではない。だれもが月に一度,あるいはいつでも好きな時に,ささやかな額の貨幣を持って来る。ただし,それは本人が望み,本人に可能であれば,の話である。強制される人は一人もいない。これは自発的な献金なのである」。(「弁明」,XXXIX,5)しかし,その後何世紀もの間,キリスト教世界の諸教会は活動費用を得るために,思いつくかぎりの方法を使って資金集めを行なってきました。
チャールズ・テイズ・ラッセルは決して諸教会に倣いませんでした。こう書いています。「主の名を語って様々な方法でかき集めた金銭は,主にとって不快なもの,受け入れられないものであり,献金者にも,成し遂げられる業にも主の祝福は臨まないというのが我々の意見である」。
ラッセル兄弟は財産家に取り入ろうとするよりも,聖書と調和して,主の民の大多数はこの世の資産に関しては貧しいが,信仰に関しては富んでいるとはっきり述べました。(マタイ 19:23,24。コリント第一 1:26-29。ヤコブ 2:5)また,聖書の真理を広めるためにお金が必要であるということを強調するのではなく,むしろ愛の精神や,与えることを願う気持ち,特に真理を伝えることによって他の人々を助けたいという願いを培うことの大切さに注意を向けました。さらに,金もうけの才能があり,事業に打ち込めば財政面でもっと貢献できるといったことをほのめかす人には,そのような活動を制限して,真理を広めるために自分自身と自分の時間をささげるほうが良いと言いました。今でも,エホバの証人の統治体はそのような見解を取っています。a
実際問題として,人々はどれほどのものをささげるのでしょうか。何を行なうかは,個人が決定することです。しかし,ささげることに関して言えば,エホバの証人は物質的な所有物のことだけを考えているのではないという点を指摘しておかなければなりません。エホバの証人は1985年から1986年にかけて行なわれた地域大会で,「わたしたちの貴重なものをもってエホバを敬う」というテーマについて検討しました。(箴言 3:9)そうした貴重なものの中には物質の所有物だけでなく,身体的,精神的,霊的な財産も含まれるということが強調されました。
ラッセル兄弟は1904年の昔に,神に対して完全な聖別(今で言う献身)を行なった人は,「すでに持っているものをすべて神にささげた」という点を指摘しました。ですから,人はその時点で,「自分自身の時間,影響力,金銭などをつかさどる家令になるよう主によって任命されたと考える」べきであり,「各自は主人の栄光のために,それらの才能を能力の及ぶかぎり用いるよう努めるべき」なのです。ラッセル兄弟はこうも言っています。上からの知恵を指針にすれば,「真理の知識により,また真理の精神を把握することにより,主に対する愛と熱意が日ごとに高まるのに比例して,当人は真理のために,さらに多くの時間と,さらに大きな影響力と,自分の自由になるさらに多くの財産をささげるようになる」。―「聖書研究」,「新しい創造物」,344,345ページ。
そうした初期のころ,ものみの塔協会には「塔冊子基金」と呼ばれるものがありました。それは何でしょうか。ラッセル兄弟が時々使っていた便せんの裏に,以下のような興味深い説明が書かれています。「この基金は,『時にかなった糧』によって養われ,強められている人々の自発的な献金で成り立っている。[ものみの塔協会が出している]上述の出版物は神の手段として,いま世界中の聖別された聖徒たちにそのような糧を供給している。
「この基金は,新しい読者に最適の『シオンのものみの塔』誌や『古神学パンフレット』を幾千幾万部も無料で送り出すために常時使われている。また,『黎明』双書の紙表紙版を配布したいと思っている人々 ― 聖書文書頒布者<コルポーター>や他の人々 ― を援助することによって,その本を広めることにも役立っている。さらには,年齢や病気などの理由で『ものみの塔』誌を予約購読できない主の子らに,雑誌を無料で送るための『救貧基金』ともなっている。その恩恵を受ける条件は,購読したいが支払いができない旨を記した手紙かはがきを,毎年,年の初めに送ることである。
「この基金への寄付を依頼された人は一人もいない。すべての寄付は自発的なものでなければならない。読者は,使徒の言葉を思い起こしていただきたい。(コリント第一 16:1,2)その言葉の確証として,我々はこう言う。真理を広めるために何かをささげることができ,実際に何かをささげる人は必ず霊的な恵みによって報われる,と」。
神の王国の良いたよりをふれ告げるエホバの証人の世界的な活動は,今でも自発的な寄付によって支えられています。エホバの証人自身のほかに,感謝の気持ちを持った関心のある多くの人たちは,このクリスチャンの活動を自発的な寄付によって支えることを特権とみなしています。
地元の集会場の費用を賄う
エホバの証人の各会衆には適当な寄付箱があり,人々は寄付をしたいと思う時に,また寄付ができるのであれば,その箱に自分の望む寄付を入れることができます。これは個人的に行なわれるので,人が行なうことに他の人は大抵気づきません。これは当人と神との問題です。
給料の支払いは行なわれませんが,集会場を維持するには確かにお金がかかります。その必要を満たすには,会衆の成員にその点を知らせなければなりません。しかし,70年以上前の「ものみの塔」誌は,寄付を懇願したり,強く勧めたりしてはならず,事実をありのままに言うだけでよいとはっきり述べています。この見解と一致して,金銭上の問題が会衆の集会で頻繁に討議されることはありません。
しかし,特別な必要が生じる時もあります。王国会館の改装や増築,場合によっては新築の計画が立てられるかもしれません。長老たちは,どれほどの資金を活用できるかを確かめるため,会衆の人々に,工事のために個人的に幾ら寄付できそうか,あるいは数年にわたって幾らぐらい用立てできそうかということを用紙に書いてもらう場合があります。また,エホバの祝福によって,週ごとあるいは月ごとに幾ら寄付できそうかということを個人や家族に書いてもらうこともあります。ただし,名前は書きません。これは約束手形のようなものではありませんが,賢い計画を立てる根拠にはなります。―ルカ 14:28-30。
リベリアのタルマ会衆は,少し変わった方法で必要な資金を得ました。会衆の幾人かの人たちは,あるエホバの証人の稲田で本人の代わりに米を作りました。その間,本人は一年中木を切り出しては,のこぎりで厚板を作り,それを売って建設工事のための資金にしたのです。スリナムのパラマリボにある会衆は,資材を買う必要がありましたが,土地代はいりませんでした。あるエホバの証人が王国会館のために土地を寄付し,自分の家を王国会館の裏に移してくれればそれでいいと言ったからです。不動産の価格が異常に高い東京では,会衆が王国会館の建設用地を得るのは難しくなっています。この問題を解決するための一助として,幾つかの家族は,自宅の建っている土地を使ってほしいと言いました。自分の家の代わりに新しい王国会館を建ててから,王国会館の上のアパートに住めればそれでいいというのです。
会衆が拡大し,分会してゆく時,その一定の地域に住む人々が適当な王国会館を備えるために助け合おうとしたケースは少なくありません。そうした寛大な精神があっても,まだ何かが必要でした。地価や建設費が急騰していたので,個々の会衆がそういう状況に対処することはできないと考える場合も少なくありませんでした。どんな手を打てるでしょうか。
統治体は1983年の「王国の一致」地域大会で,コリント第二 8章14節と15節に記されている原則を適用しなければならない一つの取り決めの概略を説明しました。その聖句は,持っている人の余分で他の人の欠乏を埋め合わせ,「均等を図る」ように勧めています。こうして,少ししかない人も少な過ぎることがなくなるので,エホバに奉仕するための努力が妨げられずにすみます。
各会衆は,「協会の王国会館基金のための寄付」と記された箱を用意するように勧められました。その箱の中に入れられたものはすべて,専らその目的のために使われます。こうして,国中から寄せられたお金は,王国会館がどうしても必要なのに,地元の銀行が定めた条件ではそうした計画が立てられない会衆の欠乏を埋め合わせるために活用されます。協会は,実際に最も緊急な必要がある場所を確かめるために入念な調査を行なった上で,新しい王国会館を建てるか,他の方法で新しい王国会館を手に入れる必要のある会衆にそのお金を用立てるようになりました。さらに寄付が寄せられ,(可能な国では)貸し付け金の返済も行なわれたので,いっそう多くの会衆を援助できるようになりました。
この取り決めはまずアメリカとカナダで実施され,それ以来,ヨーロッパ,アフリカ,ラテンアメリカ,極東の30余りの国に広まりました。1992年の時点で,それらの国のうちの八つだけを取っても,すでに3,840の会衆が使う2,737の王国会館を備える助けとして,基金が活用されました。
この取り決めが実施されていなくても,王国会館が緊急に必要で,しかも地元では資金を賄えない国があります。そのような国でも,確実に援助が得られるようにするため,統治体は他の取り決めを設けるよう努めてきました。こうして,少ししかない人も少な過ぎることがないよう,均等が図られたのです。
世界本部の拡張を顧みる
世界本部の運営にも資金が必要です。第一次世界大戦後,ものみの塔聖書冊子協会は,独自の書籍を印刷・製本するのが得策であると考えた時,個人の名義,つまりエホバの僕である仲間たちの名義で必要な機械を購入する取り決めを設けました。協会は,書籍の生産によって民間会社に利益を上げさせる代わりに,毎月,その分を設備のための負債の返済に充てました。実際にその益が表われるようになると,一般向けの多くの文書の額は,半分ほどに下がりました。行なわれていたのは,良いたよりの伝道を推進することであり,ものみの塔協会を富ませることではありませんでした。
数年もしないうちに,王国を宣べ伝える世界的な活動を顧みるために,世界本部でさらに大きな施設を必要としていることが明らかになりました。組織が拡大し,宣べ伝える活動が強化されるにつれ,それらの施設を増築する必要が何度も何度も生じました。ニューヨークとその近郊にある本部の事務所,工場,その他の生活施設を拡大し,充実させるため,協会は必要な資金を銀行から融資してもらう代わりに,兄弟たちにその必要について説明しました。それは頻繁に行なわれたわけではありません。65年間に12回だけでした。
寄付を懇願したことは一度もありません。だれでも寄付をしたいと思う人は,そうするように勧められました。資金を貸すことにした人は,予期せぬ緊急な必要が生じた場合,要請が届き次第,返済が行なわれることを保証されました。こうして協会は物事を取り扱う際,親切に資金を提供してくれた個人や会衆に迷惑をかけることがないように努めました。エホバの証人が寄付の形で支えているので,協会はすべての貸し付け金を必ず返済できました。協会に送られるそのような寄付は,当たり前のものとして扱われてはいません。できるかぎり,手紙や他の感謝の言葉によって,寄付の受け取りが通知されています。
この組織の活動は,一部の裕福な人々の寄付によって維持されているのではありません。ほとんどの寄付は,ささやかな資産しかない人たちからのものであり,この世の財産をほとんど持っていない人からの寄付も少なくありません。その中には,王国の業をそのような方法で支えることに加わりたいと思った幼い子供たちも含まれています。そのようにして寄付をする人たちは皆,エホバの善良さに対する深い感謝と,エホバの恵み深い備えについて学ぶよう他の人々を助けたいという願いに心を動かされるのです。―マルコ 12:42-44と比較してください。
支部施設の拡張資金を賄う
王国を宣べ伝える活動の規模が世界の各地でいよいよ大きくなると,組織の支部施設を拡張することが必要になります。このことは,統治体の指導のもとに行なわれています。
例えば,ドイツ支部からの提言が検討された結果,1978年には,適当な土地を見つけて全く新しい建物群を建てるようにという指示が出されました。ドイツのエホバの証人は,関係する費用を賄えるでしょうか。彼らには機会が差し伸べられました。1984年にタウヌス山地の西のふもとにあるゼルターズでその工事が終了した時,支部事務所はこう報告しました。「幾万人ものエホバの証人が,裕福な人も貧しい人も,若い人も年配の人も,新しい施設の支払いに貢献するために多額のお金を寄付しました。そのような人々の寛大さのおかげで,世俗の機関から融資を受けたり,借金したりする必要もなく,工事全体を終了することができました」。その上,ドイツ連邦共和国のエホバの証人は約7人に一人の割合で,ゼルターズ/タウヌスの実際の建設工事に加わりました。
一方,幾つかの国では,地元の経済やエホバの証人の財政状態のため,活動の管轄に必要な支部事務所や,地元の言語で聖書文書を出版するための工場を建てるのが非常に難しくなっており,それが不可能な場合さえあります。現地のエホバの証人には,できるだけのことをする機会が与えられます。(コリント第二 8:11,12)しかし,一つの国で資金が不足しても,他の場所から必要な融資が行なわれるなら,その国で王国の音信が広まることには何の支障もありません。
ですから,地元のエホバの証人ができるだけのことをする一方,世界の多くの場所では,支部の建物のために必要な資金のかなりの部分が他の国のエホバの証人の寄付によって賄われています。1987年には南アフリカ,1990年にはナイジェリア,1991年にはフィリピンで完成した大規模な建物群の建設については,そのことが当てはまりました。また,ザンビアの場合もそうです。ザンビアでは,1992年の時点で,印刷施設になる建物が依然として建設中でした。さらには,もっと小規模な多くの工事についても同じことが言えます。1985年にインド,1986年にチリ,1987年にコスタリカ,エクアドル,ガイアナ,ハイチ,パプアニューギニア,1988年にガーナ,1989年にホンジュラスで完成した建物などはその例です。
しかし,ある国の兄弟たちは,一致した努力の上に注がれたエホバの祝福によって,地元で成し遂げることのできた事柄に驚きました。例えば1980年代の初めに,スペイン支部は大規模な施設の拡張を目指して動いていました。統治体にも必要な融資を要請しました。しかし,当時は他の方面に大きな出費があったため,そのような援助は不可能な状態でした。比較的賃金の安いスペインのエホバの証人も,機会が与えられれば,そのような大計画の資金を十分に賄うことができるでしょうか。
事情がスペインのエホバの証人に説明されました。すると彼らは,宝石や指輪や腕輪を喜んで差し出し,現金に換えてもらうようにしました。ある年配のエホバの証人は,重い金の腕輪を差し出したところ,本気でそれを寄付したいと思っているのかと尋ねられました。するとその姉妹は,「兄弟,私の手首にぶら下がっているよりは,新しいベテルの支払いに充てられたほうが,どれほどいいかしれませんよ!」と答えました。ある老齢の姉妹は,長年自宅の床下に隠しておいたためにかび臭くなった大量の紙幣を引っ張り出しました。旅行のために蓄えたお金を寄付した夫婦もいます。子供たちも貯金を送りました。ギターを買うつもりだったのに,支部の工事のためにそのお金を寄付した若い人もいます。荒野で幕屋が建てられた当時のイスラエル人と同様に,スペインのエホバの証人も,物質面で必要とされるものをすべて,寛大に,心から進んで寄付する人たちであることを示しました。(出エジプト記 35:4-9,21,22)さらに彼らは,作業そのものを行なうために自分自身をささげました。全時間加わった人もいれば,休暇の時や週末に加わった人もいます。スペイン中から幾千人もの人々がやって来ました。また,少し挙げるだけでも,ドイツ,スウェーデン,イギリス,ギリシャ,アメリカなどからもエホバの証人が駆けつけて,最初は不可能に思えた仕事をやり遂げました。
文書から利益が上がるか
1992年の時点で,聖書文書は世界本部と全世界の32の支部で出版されていました。その大部分は,エホバの証人が配布するために供給されました。しかし,それは決して営利を目的に行なわれたのではありません。どの言語で文書を印刷し,どの国にそれを発送するかという決定は,営利のために下されるのではなく,イエス・キリストが追随者たちにお与えになった業を成し遂げることだけを目的にして下されるのです。
早くも1879年7月,「ものみの塔」誌(英文)の創刊号が発行された時,貧しくて購読料(当時,一年でわずか50㌣)を払えない人々は,要請の手紙を送りさえすれば無償で受け取れるという知らせが同誌に掲載されました。おもな目的は,エホバの壮大な目的について学ぶよう人々を助けることでした。
そのため1879年以来,膨大な量の聖書文書が一般の人々に無償で配布されてきました。1881年以降は,「考えるクリスチャンのための糧」が約120万冊無償で配布されました。その中には,162ページの本の形になっているものも多く,新聞のような形式のものもありました。その後何年もの間に,様々なサイズのパンフレットが何十種類も発行されました。その大部分(文字通り,何億という数になる)は無償で配布されました。パンフレットや他の出版物の配布数は増え続けました。1915年だけでも,5,000万部のパンフレットが約30の言語で供給され,全世界で無償で配布されたことを記録は示しています。このすべてを賄うためのお金はどこから来るのでしょうか。ほとんどは,協会の冊子基金に対する自発的な寄付によって賄われました。
協会の歴史の最初の数十年間,寄付と引き換えに提供された文書もありました。しかし,提示する寄付額については,なるべく低い額が定められました。そうした文書の中には,350ページから744ページの上製本も含まれていました。協会の聖書文書頒布者<コルポーター>(全時間伝道者の当時の呼称)は,それらを一般の人々に提供する時,寄付として提示する額を述べました。しかしその目的は,お金を稼ぐことではなく,肝要な聖書の真理を人々の手元に届けることでした。彼らは人々が文書を読み,それから益を得ることを願っていたのです。
家の人が非常に貧しい場合は,(自分で寄付を行なって)文書をその人に渡すことを少しもいといませんでした。しかし,出版物に対して幾らか払ったほうが,読む気になる人が多いということも認められます。もちろん,人々が寄付したものは,さらに文書を印刷するために使うことができました。とはいえ,奉仕に関する協会の指示を載せた「会報」という印刷物の1920年10月1日号は,聖書研究者たちが利潤を追求してはいないという事実を強調してこう述べました。「小冊子[128ページのもの]を配布した10日後に再度その人を訪ね,読んだかどうかを確かめてください。もし読んでいなければ,本を返してもらい,その金額を返却してください。あなたは本売りではないこと,むしろこの慰めと励ましの音信をすべての人に伝えたいと思っていること,そして家の人が自らに深くかかわっている事実に十分な関心を示さないのであれば,……関心のあるほかの人の手に本を渡したいと思っていることを家の人に伝えてください」。エホバの証人は,今でもその方法を取っているわけではありません。家族の中のほかの人が文書を手に取り,それから益を受けることもあるからです。しかし,当時行なわれていたことは,エホバの証人の本当の目的が何かを確かによく示しています。
長年,エホバの証人は文書の配布を「販売」と呼んでいました。しかし,その言い方は幾らか混乱を招いたので,1929年以降はだんだん使われなくなりました。実際,その表現は彼らの活動に適していませんでした。それは営利行為ではなかったからです。彼らの目的は,お金を稼ぐことではありません。その動機は,専ら神の王国の良いたよりを宣べ伝えることでした。そのため,1943年に米連邦最高裁判所は,営利行商許可証を入手しなければ文書は配布できないとする命令をエホバの証人に出すことはできないと判断しました。その後カナダの裁判所も,米連邦最高裁判所がその判決の中で示した論議を引用し,それに賛成の意を表明しました。b
多くの国のエホバの証人は,寄付制で文書を定期的に提供してきました。提示する寄付額は,他の書籍や雑誌に比べれば非常に低いので,それ以上の額の寄付を申し出る人も少なくありません。しかし,この組織としては,提示する寄付額を下げるために相当の努力を払ってきました。それは,この世の財産をごくわずかしか持っていなくても,聖書や聖書文書を感謝して受け取る非常に大勢の人々にもそれらを提供できるようにするためです。しかし,寄付額を提示する目的は,エホバの証人の組織を富ませることではありません。
聖書文書を配布する時に文書に対する寄付額を提示すると,法律上,営利行為と解釈される地域のエホバの証人は,誠実な関心を示し,読むと約束する人に喜んで文書を渡します。聖書教育の活動を推し進めるために幾らかの寄付をしたい人は,望むだけの寄付をすることができます。例えば,日本ではそのようなことが行なわれています。スイスでは最近まで,文書に対する寄付を受け取っていましたが,それは一定の額までになっていました。ですから,家の人がそれ以上の寄付をしたい場合,エホバの証人はただその分を返すか,そうでなければ家の人にさらに文書を渡しました。彼らの願いは,お金を集めることではなく,神の王国の良いたよりを宣べ伝えることだったのです。
1990年に,キリスト教世界の幾つかの宗派の金銭上のスキャンダルが広く報道されると共に,政府が宗教活動を営利事業として類別する傾向が強まったので,エホバの証人は一切の誤解を避けるため,活動に幾らかの調整を加えました。統治体は,米国において,エホバの証人が配布するすべての文書 ― 聖書のほかに,聖書を説明するパンフレット,小冊子,雑誌,書籍 ― を人々に提供する際,人々がそれを読むことを唯一の前提条件とし,寄付額は提示しないようにすることを指示しました。エホバの証人の活動は,決して営利行為ではありません。この取り決めは,宗教を営利化している宗教団体とエホバの証人の違いをいっそう明確にするのに役立ちました。もちろん,ほとんどの人は,そのような文書を印刷するにはお金がかかることを知っています。エホバの証人が行なっている奉仕を高く評価する人々は,その活動を支援するために幾らかの寄付をしたいと思うかもしれません。そのような人には,エホバの証人の行なっている聖書教育の活動が自発的な寄付によって支えられていることを説明します。そうした人の寄付は,喜んで受け取ります。しかし,寄付を懇願することはありません。
野外宣教に参加する人たちは,利潤を上げようとしているのではありません。彼らは自分の時間をいわば寄付し,交通費を自分で払います。関心を示す人がいれば,毎週訪問を繰り返し,全く無償で聖書を個人的に教えます。無関心やあからさまな反対に面することが多くても,そのような活動を行ない続ける動機になり得るのは,神と仲間の人間に対する愛だけです。
エホバの証人の世界本部や支部事務所が受け取る資金は,組織や個人を富ませるためではなく,良いたよりの伝道を推し進めるために使われます。「ものみの塔」誌は1922年の昔に,ヨーロッパで協会のために印刷されていた書籍は,ヨーロッパの経済事情が原因で,おもに米国の事務所が代金を支払っており,実費以下で人々に渡される場合も多かったと伝えています。エホバの証人は現在多くの国で印刷施設を運営していますが,文書を発送してもらっている国の中には,自分たちでは費用を払えない所もあります。少ししか持たない国の不足を埋め合わせるために役立っているのは,十分な資産を持っている国のエホバの証人による寛大な自発的寄付なのです。
ものみの塔協会は,自由になる資産をすべて良いたよりの伝道を推し進めるために活用しようと常に努力してきました。1915年に,チャールズ・テイズ・ラッセルは協会の会長としてこう述べました。「当協会は,地上の富を蓄えようとしてきたのではなく,むしろ金銭を使う団体であった。我々は懇願によらず神慮によって得られたものをすべて,主の言葉と霊に調和してできるだけ賢明に使うよう努力してきた。遠い昔に我々は,資金が尽きれば協会の活動もそれによって終わり,資金が増えれば協会の活動も大規模になると宣言した」。協会はまさにそのとおりのことを行ない続けてきました。
この組織は今でも,会衆を強め,公の宣教で会衆を励ますために,活用できる資金を使って旅行する監督を派遣しています。また,特別な必要がある国には,引き続き宣教者や宣教訓練学校の卒業生を遣わしています。さらには,王国の音信を宣べ伝える活動がほとんど,あるいは全く行なわれていなかった地域に特別開拓者を送るため,活用できる範囲で資金を用いています。「1993 エホバの証人の年鑑」の中で報告されているとおり,その前の年には,そのようにして4,521万8,257㌦56㌣(約56億5,228万2,195円)が費やされました。
個人的な利益のために奉仕するのではない
統治体の一員であれ,統治体に関連した法人団体の役員であれ,この組織と関係のある他の著名な人物であれ,エホバの証人の活動によって金銭的な利益を上げている人は一人もいません。
30年以上ものみの塔協会の会長を務めたC・T・ラッセルについて,仲間の一人はこう書きました。「彼は自らの歩みが聖書と調和しているかどうかを試す手段として,また自分自身の誠実さを実証する手段として,以下の方法で主の是認を試みることにした。(1)生涯を信仰のためにささげる。(2)活動を普及させるために資産を投じる。(3)すべての集会で寄付集めを禁止する。(4)資産が尽きた後は,懇願によらない(全く自発的な)寄付に依存して活動を続ける」。
ラッセル兄弟は自分のために物質の富を得ようとして宗教活動を利用したのではなく,主の業に全財産をつぎ込みました。ラッセルの死後,「ものみの塔」誌はこう伝えています。「彼は生涯をかけた信仰のために私有財産をすべてささげた。個人的な出費のために毎月受け取っていたのは,11㌦というわずかな額である。死亡した時には,何の財産も残っていなかった」。
ラッセル兄弟は,協会の仕事を続行する人々について,遺言の中で次の点を明記しました。「報酬について言えば,給料に関する協会の過去の方針を踏襲するのが賢明であると考える。つまり,給料の支払いは行なわず,協会や協会の仕事のために何らかの形で貢献している人々には,出費に対する相応の額の金銭のみを支給する」。協会のベテル・ホーム,事務所,工場で奉仕する人々や,協会の旅行する代表者たちには,食物と住まいと出費に対するささやかな額の金銭だけが支給されることになりました。それは当座の必要を十分に賄えるものでしたが,「金銭を蓄えるための……備えはなかった」のです。今でもその同じ規準が当てはまります。
エホバの証人の世界本部で特別な全時間奉仕を行なうことを認められる人は皆,清貧の誓いに同意します。これは,統治体の成員すべてと世界本部にいるベテル家族の他のすべての成員に当てはまります。とはいっても,彼らは何の楽しみもない単調な生活をしているわけではありません。むしろ,そのような奉仕を行なっている人すべてに与えられる食物,住まい,出費に対する払い戻し金といったささやかな備えを公平に分け合っているということなのです。
こうしてこの組織は,神が与えてくださる助けに全く依存しながら活動を続けています。エホバの証人は強制されることなく,むしろ全世界にわたる真の霊的な兄弟関係にある者として,偉大な天の父エホバが与えてくださった仕事を成し遂げるために自分たちの資産を喜んで活用します。
[脚注]
a 「ものみの塔」誌,1944年9月1日号(英文),269ページ; 1987年12月15日号,19,20ページをご覧ください。
b Murdock v. Commonwealth of Pennsylvania,319 U.S. 105(1943); Odell v. Trepanier,95 C.C.C. 241(1949).
[340ページの拡大文]
『金銭を懇願する行為は,当協会によって許可も承認もされていない』
[342ページの拡大文]
おもに強調されたのは,真理を他の人々に伝えることの価値
[343ページの拡大文]
事実をありのままに言う
[344ページの拡大文]
必要な王国会館を得るために諸会衆が助け合う
[345ページの拡大文]
ほとんどの寄付は,ささやかな資産しかない人たちからのもの
[348ページの拡大文]
多くの文書が無償で配布されている ― その費用はだれが払うのか
[349ページの拡大文]
誠実な関心を示し,読むと約束する人に喜んで文書を渡す
[350ページの拡大文]
寄付されたお金で何が行なわれているか
[351ページの拡大文]
「彼は生涯をかけた信仰のために私有財産をすべてささげた」
[341ページの囲み記事]
神は乞い求めるようなことをされない
「『世界とその中に満つるものとは我が物なれば,たとえわれ飢うるともなんじに告げじ。……我はなんじの家より雄牛を取らず,なんじのおりより雄やぎを取らず。林のもろもろの獣,山の上の千々のけだものは我が物なり』(詩編 50:12,9,10)と言われた方は,世からであれ,ご自分の子らからであれ,資金を乞い求めたりせずに偉大なみ業を遂行することがおできになる。神はご自分に対する奉仕のために何かを犠牲にすることをご自分の子らに強制されず,ご自分の子らから,自由意志に基づいて心からささげられるもの以外は受け取られない」―「シオンのものみの塔」誌,1886年9月号,6ページ。
[347ページの囲み記事]
寄付は必ずしもお金だけではない
オーストラリアのクイーンズランド州北端に住む証人たちは,当時の推定価格で6万から7万オーストラリア㌦に相当する最高級の材木をセミトレーラー4台分用意し,シドニーにあったものみの塔の建設現場に送りました。
南アフリカのエランズフォンテインにあったものみの塔の工場の増築が行なわれていた時,インド人のある兄弟から電話があり,500袋(各50㌔)分のセメントを寄付したいので受け取ってほしいと言ってきました。それはちょうど,国内でセメントが不足していた時でした。また,トラックを提供して協会に使ってもらった人たちもいます。アフリカ人の一姉妹は,ある会社に代金を払って15立方㍍の建設用の砂を届けさせました。
オランダのエメンで支部施設の工事が行なわれていた時は,道具と作業着が大量に寄付されました。ある姉妹は重い病気にかかっていたにもかかわらず,冬の間,各作業員のために毛糸の靴下を一足ずつ編んでくれました。
ザンビアのルサカでは,新しい支部事務所と印刷工場になる建物を建てるために,他の国々のエホバの証人が提供した資金で建設資材が購入されました。地元で手に入らない資材や設備は,ザンビアの工事に対する寄付としてトラックで運び込まれました。
1977年に,エクアドルのあるエホバの証人は34㌶の土地を寄付しました。そこに大会ホールと新しい支部の建物群が建設されました。
パナマの地元の証人たちは,自発奉仕者たちを泊めるために自宅を開放しました。バスを持っている人たちは,交通手段としてそれを使ってもらいました。建設現場で出された3万食の食事を提供するのに加わった人たちもいます。
スウェーデンのアルボガで工事を行なった作業員のために,ある会衆は4,500個の菓子パンを焼いて送りました。はちみつや果物やジャムを送った人たちもいます。建設現場の近くの農家の人はエホバの証人ではありませんが,2㌧のニンジンを寄贈しました。
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エホバの証人の世界本部と主要な事務所 ― 写真と絵エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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エホバの証人の世界本部と主要な事務所 ― 写真と絵
エホバの証人の世界本部
[352,353ページの図版]
エホバの証人の世界的な活動は,1909年以来,米国ニューヨーク市ブルックリンからの指示のもとに行なわれてきた。1980年以来,本部の事務所はこれらの建物に置かれている
[352ページの図版]
ニューヨーク州パタソンにあるものみの塔教育センター(1992年の時点で建設中)
[353ページの図版]
世界本部で奉仕する数千人の人々の宿舎の一部
[354ページの図版]
ブルックリンのかつてのホテルを幾つか改装し,さらに1,476人の自発奉仕者の宿舎とした
[354ページの図版]
ニューヨーク州ウォールキルのベテル家族の宿舎
[354,355ページの図版]
これらの工場(ニューヨーク市ブルックリン)では,世界中に配布するため,180の言語で聖書や本やブロシュアーが生産されている
[356ページの図版]
ブルックリンのこの工場で聖書関係のカセットが毎年大量に生産されており,発送の仕事もここで調整されている。毎年1万5,000㌧以上の聖書文書や他の物品が世界中に発送されている
[356ページの図版]
ニューヨーク州ウォールキルの近くにあるものみの塔農場のこの工場では,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が14の言語で毎年幾億冊も印刷されている
エホバの証人と彼らが用いている法人団体は,世界各地に事務所と印刷工場を持っています。以下のページには,それらの施設のすべてではないものの,かなりの数の写真が載っています。1992年に新しい建物を建設していた所に関しては,完成予想図を載せました。数字は1992年現在のものです。
北アメリカと西インド諸島
アラスカ
[357ページの図版]
協会の支部事務所を訪問する人々は温かい歓迎を受けます。エホバの証人は,時として気温が零下50度まで下がるこのアラスカでも,ほかの場所と同様に家から家の伝道を行なっています。
[357ページの図版]
遠く離れた区域に王国をふれ告げる人々を運ぶために使う飛行機
バハマ
[357ページの図版]
ものみの塔の出版物は1901年にはすでにバハマに入っていました。ここで定期的な証言が最初に行なわれたのは1926年です。現在この事務所が監督しているバハマ諸島では,それ以来,優に460万冊を上回る聖書文書が配布されてきました。
バルバドス
[358ページの図版]
バルバドスにはキリスト教を自任する宗教団体が140以上あります。エホバの証人は1905年以来,バルバドスの人々が聖書に書かれている事柄を自分で調べるための援助を行なってきました。
ベリーズ
[358ページの図版]
ベリーズの国民の約半数は田舎の地域に住んでいます。エホバの証人は内陸部の幾つかの村に音信を伝えるため,毎年,リュックサックを背負い,かばんを持って徒歩で旅行します。
コスタリカ
[358ページの図版]
協会がコスタリカに初めて支部事務所を設立したのは1944年です。1950年代以降,真の崇拝に加わるコスタリカ人は1万数千人にまで増えてきました。
ドミニカ共和国
[359ページの図版]
ここでは早くも1932年に,ものみの塔の文書が配布されていました。しかし,関心のある人々を個人的に教える活動が始まったのは,左の写真に写っている宣教者たちがやって来た1945年のことです。近年では,エホバの証人との聖書研究を強く望む人々が数万という数に上っており,こうした支部施設が必要になりました。
エルサルバドル
[359ページの図版]
ここでは1916年に幾らかの証言が行なわれました。しかし,エルサルバドルの少なくとも一人の人がキリスト教の水の浸礼を受ける段階に初めて達したのは1945年のことでした(右の写真)。それ以来この国では,さらに2万人ほどの人々がエホバの僕になりました。
グアドループ
[359ページの図版]
この支部事務所が管轄する区域の人口に対する伝道者の比率は世界で最も高い部類に入ります。グアドループの多くの人は良いたよりを感謝して受け入れています。
カナダ
[360,361ページの図版]
カナダの協会の事務所は,世界で2番目に大きな国で行なわれる良いたよりの伝道を監督しています。優に10万人を超える王国宣明者たちがこの国で忙しく働いています。
管理棟(重なっている写真は現在の支部の建物群)
[360ページの図版]
北西部の区域
[360ページの図版]
ブリティッシュコロンビア州の林業従事者の集落
[360ページの図版]
アルバータ州の牧場
[361ページの図版]
フランス語圏のケベック州
[361ページの図版]
沿海の州
グアテマラ
[360ページの図版]
グアテマラの公用語はスペイン語ですが,ここでは複雑なインディオの諸言語を話す人々もいます。協会の事務所は,神の王国について聞く機会がすべての人に開かれるよう努力しています。
ハイチ
[361ページの図版]
ハイチのエホバの証人はしばしば困難な状況に見舞われますが,それでもエホバに仕えることから大きな喜びを得ています。
ホンジュラス
[362ページの図版]
1916年以来,この国の住民に聖書を教える活動のために費やされた時間は,優に2,300万時間を超えています。人々が自分で神の言葉を勉強できるように,エホバの証人が(左の写真のように)人々に読み書きを教えなければならない場合もあります。
ジャマイカ
[362ページの図版]
ジャマイカでは,天の王国の相続人になる見込みのある人々が集められていた期間にエホバの献身的な僕になった人が幾百人もいました。1935年以来,さらに幾千人もの人々が王国の音信を宣べ伝える活動に加わってきました。そうした人々の霊的な必要を顧みるために,この支部事務所が現在建設されています。
リーワード諸島(アンティグア)
[362ページの図版]
現在この事務所が管轄しているリーワード諸島では,早くも1914年に良いたよりが宣べ伝えられていました。それ以来,この地域の人々は「命の水を価なくして受けなさい」という招待を繰り返し受けています。―啓示 22:17。
メキシコ
[363ページの図版]
メキシコのエホバの証人が建設している聖書教育の新しい中心施設
[363ページの図版]
1992年に使用していた事務所
[363ページの図版]
ここで発行される聖書文書は,メキシコやスペイン語圏の他の近隣諸国にいる41万人以上の熱心なエホバの証人の必要を賄っている
[363ページの図版]
1986年から1992年までの間,世界中でエホバの証人が司会していた家庭聖書研究の優に10%以上は,メキシコで行なわれていた。しかも,その多くは家族ぐるみの研究だった
[363ページのグラフ]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
メキシコの聖書研究
500,000
250,000
1950 1960 1970 1980 1992
マルティニーク島
[364ページの図版]
ここでは,早くも1946年に真理の種がまかれました。しかし,1954年にフランスから来たザビア・ノルとサラ・ノル(右の写真)は定住し,関心のある人々を見つけて援助することができました。1992年の時点で,3,200人余りの人がこの二人と共に王国の音信をふれ告げる活動に加わっていました。
オランダ領アンティル諸島(クラサオ)
[364ページの図版]
この支部事務所の区域で23人の宣教者が奉仕してきました。1946年にやって来た最初のグループの中の二人(下の写真)は,1992年の時点でも依然として働いていました。
ニカラグア
[364ページの図版]
宣教者がやって来た1945年から,ニカラグアのエホバの証人は増え始めました。1992年の時点で,その数は9,700人を超えていました。現在エホバの証人から聖書を学びたいと思っている人の数は,地元の証人たちの数を大幅に上回っています。
パナマ
[365ページの図版]
19世紀末以来,パナマの人々はとこしえの命に関する神のご要求を学ぶための援助を受けてきました。
プエルトリコ
[365ページの図版]
1930年以来,プエルトリコでは8,300万冊以上の聖書文書が配布され,関心のある人々をさらに援助するために2,500万件の再訪問が行なわれてきました。ここで行なわれている翻訳の仕事は,スペイン語を話す全世界の約3億5,000万人の人々に聖書文書を提供するのに貢献しています。
トリニダード
[365ページの図版]
トリニダードでは早くも1912年に,良いたよりが熱心にふれ告げられていました。ギレアデ学校で訓練を受けたこの3人をはじめ,この活動に全時間を費やしてきたエホバの証人は少なくありません。
南アメリカ
アルゼンチン
[366ページの図版]
一人の王国宣明者がこの国に最初に派遣されたのは1924年のことです。後に,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちがかなりの援助を与えました。1948年に妻と共にやって来たチャールズ・アイゼンハワー(左の写真)もその一人です。1992年の時点で,アルゼンチンの9万6,000人以上のエホバの証人の全般的な監督と聖書文書の供給は,これらの施設で行なわれていました。チリの4万4,000人余りの証人たちの必要を賄う文書も,ここから発送されていました。
ボリビア
[367ページの図版]
ボリビア人は1924年以来王国の音信を聞いてきました。幾万人もの人々が聖書文書を感謝して受け取り,定期的な家庭聖書研究から益を得ています。
チリ
[367ページの図版]
ものみの塔の文書は,1919年にはすでにチリに入っていました。この事務所が監督している伝道活動は現在,風の吹き荒れる南部の羊牧場から北部の辺ぴなところにある鉱山の集落まで,アンデス山脈から沿岸地方まで広まっています。
エクアドル
[367ページの図版]
エクアドルで良いたよりを宣べ伝える活動に大きく貢献したのは,必要の大きな所で奉仕するために故国を後にした870人以上のエホバの証人(例えば写真の二人)です。この支部は現在,エホバを熱心に賛美する2万2,000人余りの人々を援助しています。
ブラジル
[368,369ページの図版]
協会の支部事務所,印刷工場,ベテル・ホームをこの大きさに拡張する工事が行なわれていた1992年,ブラジルのエホバの証人は33万5,000人を超え,年に2万7,000人余りの弟子がバプテスマを受けました。この印刷工場は,ボリビア,パラグアイ,ウルグアイで配布するための文書も供給しています。
[369ページの図版]
1990年にサンパウロで開かれたエホバの証人の国際大会に使われた二つの大きなスタジアム。さらに100以上の大会を開く予定も組まれた
[369ページのグラフ]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ブラジルの王国宣明者
300,000
200,000
100,000
1950 1960 1970 1980 1992
ガイアナ
[368ページの図版]
協会は1914年からガイアナに支部事務所を構えています。エホバの証人は内陸の奥地まで出かけて行き,良いたよりを聞く機会がすべての人に与えられるよう努めてきました。国の人口は今でも100万人以下ですが,ガイアナのエホバの証人は宣べ伝えて教える活動に1,000万時間以上を費やしてきました。
パラグアイ
[369ページの図版]
パラグアイでは,1920年代の半ばにすでに良いたよりの伝道が行なわれていました。1946年以来,ギレアデで訓練を受けた112人の宣教者が証言を行なうのを手伝ってきました。ほかにも,現地のスペイン語とグアラニー語以外の言語を話す人々に音信を伝えるため,様々な国から自発的にやって来た証人たちがいます。
ドイツから
韓国から
日本から
コロンビア
[370,371ページの地図/図版]
早くも1915年には,コロンビアにいた関心のある男性にものみの塔の出版物が1冊郵送されました。1992年現在,これらの施設で印刷された聖書文書は,コロンビア,エクアドル,パナマ,ペルー,ベネズエラにいる18万4,000人余りの福音宣明者の必要にこたえるために発送されていました。
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
コロンビア
ペルー
エクアドル
パナマ
ベネズエラ
ペルー
[370ページの図版]
ペルーでは早くも1924年に,ここを訪問した聖書研究者によって聖書文書が配布されました。最初の会衆がここで設立されたのは21年後のことでした。現在ペルーには,神の王国を活発にふれ告げる人々が4万3,000人余りいます。
[370ページの図版]
アンデスの高地で宣べ伝える開拓者
スリナム
[371ページの図版]
1903年ごろ,最初の研究グループがここで作られました。現在,密林地帯,各地区,都市など,国内各地の諸会衆を監督するために,こうした支部施設が必要になっています。
ウルグアイ
[372ページの図版]
1945年以来,ウルグアイでは80人余りの宣教者が王国をふれ告げる活動に貢献してきました。この写真の人たちは1950年代からウルグアイで奉仕しています。1992年の時点で,8,600人余りの地元の証人たちが彼らと共に奉仕していました。
ベネズエラ
[372ページの図版]
ベネズエラでは,1920年代の半ばにものみの塔の文書が幾らか配布されました。10年後に,米国から母と娘でコンビを組んだ開拓者がやって来て,ベネズエラで熱心な伝道を始め,首都を繰り返し回ったり,国内各地の幾つもの町に出かけて行ったりしました。現在ベネズエラには,6万人余りの活発な証人たちがいます。
[372ページの図版]
1988年の特別大会に7万4,600人が集まったバレンシアの闘牛場
ヨーロッパと地中海地方
オーストリア
[373ページの図版]
オーストリアでは早くも1890年代に,良いたよりから益を受ける機会を得た人たちがいました。1920年代以降,この国のエホバの賛美者の数は,ゆるやかではあっても着実に増加してきました。
[373ページの図版]
オーストリアの各地にある王国会館で,270余りの会衆が集会を開いている
ベルギー
[373ページの図版]
ベルギーは世界の交差点のようになっています。ここにいる多種多様な人々の必要を顧みるため,この支部は100以上の言語の聖書文書を配布しています。
イギリス
[374ページの図版]
イギリスにいる12万5,000人余りのエホバの証人の活動は,この支部事務所の監督のもとに行なわれています。イギリス出身のエホバの証人は,他のヨーロッパ諸国,アフリカ,南アメリカ,オーストラリア,東洋,海洋の島々などに王国の音信を広める務めも果たしてきました。
国際聖書研究者協会ハウス
ものみの塔ハウス
[374ページの図版]
ここでは,英語,マルタ語,グジャラティー語,スワヒリ語の聖書文書を印刷している
[374ページの図版]
奉仕部門はイギリスの1,300余りの会衆を世話している
[374ページの図版]
イングランド,スコットランド,ウェールズ,アイルランド,マルタの全土だけでなく,アフリカやカリブ海の国々にも文書を発送している
フランス
[375ページの図版]
フランス語を話す人々のために世界中で印刷されているものみの塔のすべての出版物の翻訳と写真組版は,フランス支部で行なっています。(フランス語を話す人は1億2,000万人を超えています。)ここでは,幾つかの言語の文書を定期的に印刷し,ヨーロッパ,アフリカ,中東,インド洋,太平洋の国々に発送しています。
ルビエの印刷工場/事務所
翻訳
写真組版
[375ページの図版]
ブーローニュ・ビヤンクールの事務所/宿舎
[375ページの図版]
ベテル家族を収容するためのアンカルビルの宿舎
ドイツ
[376,377ページの図版]
ナチ時代にはドイツのエホバの証人を根絶するための容赦ない働きかけがありましたが,エホバの証人は信仰を捨てませんでした。1946年以降は,聖書の真理を国内の至る所に広める活動に6億4,600万時間以上を費やしてきました。
ゼルターズ/タウヌスの拡張された施設
[376ページの図版]
ゼルターズ/タウヌスにあるこの支部は,聖書文書をドイツ語に翻訳する作業のほかに,40以上の言語で印刷を行なっている
[377ページの図版]
ここで生産する大量の文書は,20余りの国に定期的に発送されている。雑誌は多くの言語で印刷され,30以上の国に発送される
[377ページの図版]
協会所有のトラックを使ってドイツ全国に文書を届ける
キプロス
[376ページの図版]
イエス・キリストの死後ほどなくして,良いたよりはキプロスの人々にも宣べ伝えられました。(使徒 4:32-37; 11:19; 13:1-12)現代になってその伝道は再開され,この支部事務所の指導のもとに今でも徹底的な証言が行なわれています。
デンマーク
[377ページの図版]
デンマークでは,1890年代から大規模な証言が行なわれています。ここでは,デンマーク語だけでなく,フェロー語,グリーンランド語,アイスランド語の聖書文書も印刷しています。
空から見た支部(挿入写真は玄関)
イタリア
[378,379ページの図版]
イタリア語の聖書文書の翻訳と印刷はここで行なわれています。この支部は,特にイタリアと他の近隣諸国で使う書籍を印刷・製本しています。
ローマ近郊にある支部施設のいろいろな眺め
[379ページの図版]
非常に大勢の人々が,聖書に実際に書いてある事柄を知って,エホバの証人の集まりに出席するようになった
[379ページの図版]
イタリアのエホバの証人は,ローマ・カトリック教会から絶えず敵視されてきたが,その中で1946年以来,近所の人を個人的に訪ねて聖書について話し合う活動に5億5,000万時間以上を費やしてきた。その結果,現在イタリアにはエホバの崇拝者として活動している人たちが19万4,000人もいる
フィンランド
[378ページの図版]
聖書の真理がスウェーデンからフィンランドに伝わったのは1906年のことです。それ以来,真理は全国の津々浦々に,北極圏の奥にまでも達しています。世界中どこでも必要な場所で奉仕するために,フィンランドからギレアデ学校に行って訓練を受けた人は幾十人もいます。必要の大きな国で奉仕するために自ら移住した人たちもいます。
アイスランド
[379ページの図版]
26万人ほどしか住民のいないアイスランドで,人々が命を選ぶための助けとして162万冊余りの聖書文書が配布されました。現在,260人余りがまことの神エホバに仕えています。
[379ページの図版]
1929年から1953年まで開拓奉仕を行なったギオルグ・リンダル。そのほとんどの期間,エホバの証人は国内に彼一人しかいなかった
ギリシャ
[380ページの図版]
使徒パウロは,ギリシャで最初に良いたよりを宣明した人々の一人でした。(使徒 16:9-14; 17:15; 18:1; 20:2)ギリシャ正教会は長年にわたってエホバの証人を激しく迫害してきましたが,現在この国にはエホバの忠実な僕たちが2万4,000人以上います。この写真に写っている支部はアテネの北65㌔ほどの所にあります。
[380ページの図版]
アテネでの証言
[380ページの図版]
僧職者の率いる反エホバの証人デモの最中に撮った写真,1990年
アイルランド
[380ページの図版]
長年アイルランドでは,聖書の音信に対する反応はゆるやかでした。僧職者の大きな反対もありました。しかし,100年にわたるたゆみない証言の結果,今では豊かな霊的収穫が見られます。
ダブリンの支部事務所
[380ページの図版]
野外奉仕を行なっている二人の経験豊富な開拓者
ポーランド
[381ページの図版]
これらの施設は,10万人を超えるポーランドのエホバの証人を援助するために使われています。1939年から1945年まで,エホバの証人の行なう崇拝は禁止されていたにもかかわらず,証人たちの数は増え,1939年には1,039人だったのが1946年には6,994人になっていました。1950年に再び禁令が出た時,エホバの証人の数は1万8,116人でしたが,1989年に禁令が解除された直後の報告では,9万1,000人余りになっていました。
[381ページの図版]
長年,戸外の森の中で小さな集まりを開いていたが,現在の大会では国内最大級の幾つかのスタジアムが同時に満員になる
ポズナニ(1985年)
ルクセンブルク
[382ページの図版]
ルクセンブルクは,ヨーロッパでも非常に小さい国の一つです。しかし王国の音信は,ここでも約70年前から宣べ伝えられています。特に第二次世界大戦の前は,フランス,ドイツ,スイスから来たエホバの証人が援助しました。
オランダ
[382ページの図版]
3万2,000人を超えるオランダの熱心な証人たちの活動は,エメンにあるこの支部の監督を受けています。これらの施設では,すべての出版物をオランダ語に翻訳する仕事を行なっています。聖書に基づくヨーロッパの言語のビデオの複製の仕事も,かなりの部分をここで行なっています。
ノルウェー
[383ページの図版]
100年前,移住先のアメリカで聖書の真理を学んだ一人のノルウェー人が郷里の町に良いたよりを持ち帰りました。それ以来,エホバの証人はノルウェーの至る所を何度も訪問し,神の王国について人々に話しています。
ポルトガル
[383ページの図版]
この事務所は,4万人を超えるポルトガルのエホバの証人の活動を監督している。また,ポルトガルとの間に強いきずなのあるアフリカ諸国にもかなりの援助をしてきた
政府がバチカンとの政教条約に調印した後の数十年間,警察はエホバの証人を逮捕し,宣教者を追放しました。しかし,残った証人たちはその後も崇拝のために集まり,他の人に宣べ伝え,増えてゆきました。ついに1974年,エホバの証人は法的認可を受けました。
[383ページの図版]
1978年にリスボンで開かれた国際大会
スウェーデン
[383ページの図版]
エホバの証人は,100年以上前からスウェーデンで伝道を行なっています。この10年間だけでも,この活動に3,800万時間以上を費やしました。スウェーデンには現在,スウェーデン語以外の12の言語のいずれかを使う会衆がたくさんあります。
[383ページの図版]
スウェーデンのあらゆる人々を援助するため,ここでは70の言語の出版物が保管されている
スペイン
[384ページの図版]
この支部は,9万2,000人を超えるスペインのエホバの証人を世話しています。また,スペイン語とポルトガル語の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を印刷しています。カトリックの僧職者は国を利用してエホバの証人の活動を阻止しようと執ように働きかけましたが,その中で証人たちは1916年から聖書の真理をスペインの人々に伝えてきました。最終的に法的認可が与えられたのは,スペインのエホバの証人が1万1,000人を数えるようになっていた1970年のことでした。それ以来,エホバの証人の数は約8倍に増えています。
[384ページの図版]
国内各地の王国会館で,現在1,100余りの会衆が自由に集会を開いている
スイス
[384ページの図版]
ものみの塔協会は1903年からスイスに事務所を構えています。この国には,協会のヨーロッパ最古の印刷工場の一つがありました。トゥーンにあるこの支部は長年の間,他の数十か国で使う雑誌を印刷していました。
アフリカ
ベニン
[385ページの図版]
ベニンには,50の方言を話す約60の部族があります。そうした中から幾千人もの人々が以前の宗教との関係を絶った時,呪物崇拝の神官やキリスト教世界の僧職者は激怒しました。しかし,度重なる迫害の波も,この国の真の崇拝の拡大を阻止できませんでした。
[385ページの図版]
1990年に開かれた大会
中央アフリカ共和国
[385ページの図版]
早くも1947年には,王国の音信がこの国の人々に伝わるようになりました。別の場所でエホバの証人の集会に何度か出席したことのある人が,学んだ事柄を他の人に伝えていたのです。やがて,研究グループができ,それに参加していた人々はすぐに証言を始めました。エホバを崇拝する人々の数は増えてゆきました。
コートジボワール
[386ページの図版]
1949年,西アフリカのこの国に真の崇拝を伝えることに貢献したのは,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちでした。ここで奉仕してきたそのような宣教者は100人を超えます。今では,この支部事務所の管轄地域で真理に飢えている人々を捜し出す活動に,毎年優に100万時間を超える時間が費やされています。
ガーナ
[386,387ページの図版]
ガーナで良いたよりの伝道が始まったのは1924年でした。現在アクラにあるこの事務所は,ガーナの640余りの会衆を監督しています。また,聖書文書をエウェ語,ガー語,トウィ語に翻訳して印刷する仕事も行なっています。
[387ページの図版]
支部事務所に隣接する王国会館での集会
ケニア
[387ページの地図/図版]
1931年に,二人のエホバの証人が南アフリカからやって来て,ケニアで伝道を行ないました。1963年以来,ケニアの協会の事務所は色々な時期に,東アフリカの他の多くの国の福音宣明活動を監督してきました。(下の地図)1973年,1978年,1985年にケニアで開かれた国際大会は,この国で行なわれる証言に貢献しました。
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ケニア
ウガンダ
スーダン
エチオピア
ジブチ
ソマリア
イエメン
セーシェル
タンザニア
ブルンジ
ルワンダ
[387ページの図版]
ナイロビ大会(1978年)
ナイジェリア
[388,389ページの図版]
この国では,1920年代の初めから良いたよりが宣べ伝えられています。ナイジェリアから西アフリカの他の地域に派遣された福音宣明者もいます。ここで印刷される聖書文書は,今でも近隣諸国の必要を賄っています。エホバの証人は,神の言葉の理解を助ける文書を,ナイジェリアだけでも2,800万冊以上人々に手渡してきました。
[388ページの図版]
奉仕部門では,優に16万人を超えるナイジェリアの王国宣明者を監督している
[389ページの図版]
ナイジェリアのカラバル大会(1990年)
リベリア
[388ページの図版]
この国でエホバの証人になった人々は,土地の迷信を捨てた時,一夫多妻をやめた時,誤解している政府関係者たちから迫害された時,戦争が起きて様々な政治集団や部族に取り囲まれた時など,信仰の試みに数多く直面してきました。しかし,真の崇拝は今でもこの国のあらゆる人々を一致させています。
モーリシャス
[389ページの図版]
早くも1933年には,インド洋に浮かぶこの島に,南アフリカから熱心なエホバの証人がやって来ました。現在モーリシャスには,エホバを求めることを隣人に強く勧めているエホバの証人が1,000人以上います。そのような隣人たちも,現在の邪悪な体制が滅ぼされる時に神から好意をもって見ていただけるようにするためです。―ゼパニヤ 2:3。
南アフリカ
[390ページの図版]
ものみの塔協会は80年以上前から南アフリカに支部事務所を構えています。この国出身の熱心な福音宣明者たちは,アフリカの南部や東部の国々に王国の音信を広めることに大きく貢献してきました。かつてこの支部が管轄していた区域(1945年には1万4,674人の王国宣明者がいた)に,今では30万人以上の活発なエホバの証人がいます。
[391ページの図版]
アフリカの16の言語で聖書文書を作るため,110人余りの翻訳者がこの支部の指導のもとで働いている
[391ページの図版]
ここでは,40以上の言語で印刷を行なっている
セネガル
[390ページの図版]
この国のエホバの証人の数は少ないものの,支部事務所はセネガル国内だけでなく,近隣諸国の各都市,各部族,あらゆる宗教の人々が聖書の心温まる音信を聞く機会を得るよう努力してきました。
シエラレオネ
[391ページの図版]
シエラレオネで良いたよりの伝道が始まったのは1915年のことでした。増加がゆるやかにしか進まない時期もありました。しかし,エホバの高い規準を守らない人々が取り除かれ,正しい動機で奉仕していない人々が去って行った時,エホバに忠節な人々は霊的に栄えました。
ザンビア
[392ページの図版]
この支部事務所は,11万人を超えるアフリカ中南部のエホバの証人の活動を監督しています。ここで協会の最初の事務所が開設されたのは1936年でした。それ以来,ザンビアのエホバの証人は,関心のある人々を引き続き援助するため,1億8,600万件以上の再訪問を行なってきました。また,多くの人に読み方も教えています。そのような人が自分で聖書を勉強し,他の人に聖書について伝えることができるようにするためです。
[392ページの図版]
1992年にザンビアで開かれた一連の大会には28万9,643人が出席した
ジンバブエ
[392ページの図版]
ジンバブエでは,1920年代からエホバの証人が活動しています。その後何年もの間,エホバの証人は文書の発行禁止処分を受けたり,集会を禁じられたりしました。また,宣教者がアフリカ人に宣べ伝えることも認められませんでした。しかし徐々に障害を克服してゆき,今ではこの事務所が2万人以上のエホバの証人を世話しています。
東洋
香港
[393ページの図版]
ものみの塔の出版物はここで中国語に翻訳されています。中国語の様々な方言を話す人々は10億人以上います。香港について言えば,良いたよりの伝道はC・T・ラッセルが1912年に市庁舎で講演した時に始まりました。
インド
[393ページの図版]
この支部は世界の6分の1強の人々に王国の音信を宣明する活動を監督しています。現在この事務所は,18の言語の翻訳と19の言語の印刷を手がけています。その中には,ヒンディー語(3億6,700万人が話している)や,アッサム語,ベンガル語,グジャラティー語,カンナダ語,マラヤラム語,マラーティ語,ネパール語,オーリヤ語,パンジャブ語,タミール語,テルグ語,ウルドゥー語(それぞれ数千万人が話している)などがあります。
[393ページの図版]
マラヤラム語で宣べ伝えるエホバの証人
ネパール語で……
グジャラティー語で……
日本
[394ページの図版]
ほかの場所と同様に,日本のエホバの証人も神の王国を熱心にふれ告げています。1992年だけでも,良いたよりの伝道に8,500万時間以上を費やしました。毎月平均すると,日本のエホバの証人の約45%が開拓奉仕を行なっています。
[394ページの図版]
ここでは,日本語,中国語,フィリピンの諸言語を含め,多くの言語の聖書文書を出版している
[394ページの図版]
地区設計事務所は,様々な国の支部施設の仕事を援助している
[394ページのグラフ]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
日本の開拓者
75,000
50,000
25,000
1975 1980 1985 1992
大韓民国
[395ページの図版]
ここでは,7万人を超える大韓民国のエホバの証人の必要を満たすため,毎年パンフレットのほかに約1,600万冊の聖書文書を生産しています。韓国のエホバの証人の約40%は開拓奉仕を行なっています。
ミャンマー
[395ページの図版]
ものみの塔協会がこの国に支部事務所を開設した1947年当時,国内にはエホバの証人が24人しかいませんでした。現在ミャンマーで活動している2,000人余りのエホバの証人は,都市部の住民だけでなく,田舎に住んでいるもっと多くの人々にも音信を伝えるよう努力しています。
フィリピン
[396ページの図版]
C・T・ラッセルは1912年に,マニラのグランドオペラハウスで「死者はどこにいるか」という主題の講演を行ないました。その時以来,この国のエホバの証人は,フィリピン国内で人の住んでいる約900の島の人々に証言するため,4億8,300万時間以上を費やしてきました。3,200の会衆にいる11万人以上のエホバの証人の全般的な監督は,この支部で行なっています。またここでは,現地の必要を顧みるために八つの言語で印刷が行なわれています。
[396ページの図版]
フィリピンの幾つかの主要な言語グループの証人たち
スリランカ
[397ページの図版]
インドの南にあるセイロン(現在のスリランカ)では,第一次世界大戦の前にも良いたよりが宣べ伝えられていました。研究グループがすぐに作られました。協会は1953年から首都に支部事務所を構え,この国のシンハラ人,タミール人その他の民族に王国の音信を聞く機会を開いてきました。
台湾省
[397ページの図版]
ここでは,1920年代に幾らかの証言が行なわれました。しかし,それがさらに着実なペースで行なわれるようになったのは1950年代になってからです。現在,この地域の拡大する活動の中心地として,これらの新しい支部施設が建設されています。
[397ページの図版]
台北の会衆
タイ
[397ページの図版]
1930年代に,イギリス,ドイツ,オーストラリア,ニュージーランドからエホバの証人の開拓者たちがやって来て,タイ(当時はシャムと呼ばれた)の人々に聖書の真理を伝えました。1963年,1978年,1985年,1991年にこの国で開かれた国際大会には多くの国の代表者たちが出席し,地元のエホバの証人を励ますと共に,王国の音信を広める活動によい刺激を与えました。
[397ページの図版]
1963年の大会
[397ページの図版]
1991年の外国の代表者たち
太平洋の島々
フィジー
[398ページの図版]
フィジーの事務所は1958年に開設されました。この事務所は一時,13の言語により,12か国で行なわれていた王国をふれ告げる活動を監督していました。現在フィジー支部は,人が住んでいるフィジー群島の約100の島に注意を集中しています。
[398ページの図版]
1963年,1969年,1973年,1978年にここで開かれた国際大会は,地元の証人たちが他の国々の人々と親しく知り合う助けになった
グアム
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グアムの事務所は,太平洋の約777万平方㌔の範囲に広がる島々で良いたよりを宣べ伝える活動を指導しています。聖書文書を九つの言語に翻訳する仕事も,この事務所の監督を受けています。
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巡回監督が島々の間を飛行機で旅行することも珍しくない
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地元のエホバの証人は(このミクロネシアの場合のように)区域に出かけるために船を使うことがある
ハワイ
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ものみの塔協会は1934年からホノルルに支部事務所を構えています。ハワイ出身者の中には,ハワイ諸島だけでなく,日本,台湾省,グアム,ミクロネシアの島々などでも福音宣明の活動を行なった人たちがいます。
ニューカレドニア
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エホバの証人は,宗教上の反対者たちから妨害を受けたにもかかわらず,神の王国に関する音信をニューカレドニアに伝えました。多くの人が感謝して耳を傾けました。1956年には,最初の会衆が設立されました。現在ここには,エホバの賛美者が1,300人以上います。
ニュージーランド
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1947年に,ものみの塔協会はニュージーランドに支部事務所を開設し,この国で良いたよりを宣べ伝える活動をきめ細かく監督できるようにしました。
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この支部で行なわれている翻訳作業によって,サモア,ラロトンガ,ニウエの住民は霊的な面で定期的に築き上げられています。
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翻訳者と校正者は質の高い出版物を作り上げるために協力する
オーストラリア
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ものみの塔協会は1904年からオーストラリアに支部事務所を構えています。かつてこの支部は,中国,東南アジア,南太平洋の島々を含め,地表の4分の1近くで行なわれる王国をふれ告げる活動を監督していました。
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地区設計事務所は南太平洋と東南アジアの支部の建設を援助している
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現在,この支部は25余りの言語の聖書文書を印刷しています。この印刷工場は,南太平洋の八つの支部の管轄地域に住む約7万8,000人のエホバの証人に必要な文書を供給することに貢献しています。
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オーストラリア支部から文書を受け取っている国々
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
オーストラリア
パプアニューギニア
ニューカレドニア
ソロモン諸島
フィジー
西サモア
タヒチ島
ニュージーランド
パプアニューギニア
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この国のエホバの証人には特別な課題があります。人々は約700種類の言語を話すからです。少なくとも他の10か国からエホバの証人がここにやって来て,活動に加わっています。彼らは地元の言語を学ぶために懸命に努力してきました。関心のある人々が,別の言語を話す人々のために翻訳をしています。教えるための助けとして,絵を使うのも効果的です。
ソロモン諸島
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国を超えて手紙で行なわれた聖書研究の結果,王国の音信は1950年代の初めまでにソロモン諸島に達していました。聖書の真理は深刻な障害を乗り越えて広まりました。地元の人々による数々の工夫,国際協力,さらにはエホバの豊かな霊によって,この支部事務所と,広々とした大会ホールが建ちました。
タヒチ
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エホバの証人は1930年代初めの時点で,タヒチにすでに王国の音信を伝えていました。太平洋の真ん中にあるこの島でも,徹底的な証言が行なわれています。最近の4年間に行なわれた証言だけをとっても,島のすべての男女子供に平均5時間以上話したことになります。
西サモア
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西サモアは世界で最も小さな国の一つですが,エホバの証人はここにも支部事務所を構えています。サモア諸島のほかに,アメリカ領サモアを含む近くの島々の活動を世話するため,1992年にはこの施設を建設していました。
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