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    ものみの塔 1999 | 12月15日
    • しりごみして滅びに至ることがありませんように

      『わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではありません』― ヘブライ 10:39。

      1 使徒ペテロはどんな状況のために恐れてしまいましたか。

      使徒たちは,愛する主人イエスから,自分たちがみな散り散りになり,イエスを見捨てることになると告げられたとき,あぜんとしたに違いありません。主人が窮地に立たされるそのような折に,どうして見捨てたりできるでしょうか。ペテロは,「たとえほかのみんながつまずいても,わたしはつまずきません」と唱えました。実際ペテロは,勇敢で大胆な人でした。しかし,イエスが裏切られて捕縛されると,ペテロを含め,使徒たちは散り散りになりました。後に,イエスが大祭司カヤファの家で尋問を受けていたとき,ペテロは気が気ではなく,中庭にとどまっていました。夜が更けて寒くなってきたとき,ペテロは,イエスもイエスと交友のある者もみな処刑されるのではないか,と不安になったようです。自分がイエスの親しい仲間であることを,居合わせた人たちの幾人かに気づかれたとき,うろたえました。そして,イエスとの関係を3度否定しました。ペテロは,イエスのことを知らないとまで言ったのです。―マルコ 14:27-31,66-72。

      2 (イ)ペテロは,イエスが捕縛された夜におびえて取った行動のために『しりごみするような者』とみなされるわけではありません。それはなぜですか。(ロ)わたしたちはどんな決意を固めるべきですか。

      2 これはペテロの人生における最悪の時でした。ペテロは,この時のことを生涯悔やんだに違いありません。しかし,その晩の行動だけで憶病者ということになったのでしょうか。ペテロは,使徒パウロが後に,『しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではありません』と書き送ったときに述べていた「ような者」となったのでしょうか。(ヘブライ 10:39)わたしたちの大多数は,パウロの言葉はペテロには当てはまらないと感じることでしょう。なぜなら,ペテロの恐れは一時的なものだったからです。際立った勇気と信仰の生涯における少しの後退にすぎなかったのです。同様に,わたしたちの多くも,思い出すと幾らか恥ずかしくなるようなことを経験しているものです。とっさのことでおじけづき,自分で思うほど大胆に真理を擁護できなかった,ということもあるでしょう。(ローマ 7:21-23と比較してください。)もちろん,そのようにちょっと後退したからといって,しりごみして滅びに至るような者となってしまうわけではありません。ですが,決してそのような者にはなるまいという決意を固めることは必要です。なぜでしょうか。また,どうすればそのような者にならないですむでしょうか。

      しりごみして滅びに至るとはどういうことか

      3 預言者のエリヤとヨナは,どのようにおじけづいてしまいましたか。

      3 『しりごみするような者』について書いたパウロは,一時的に勇気をなくしてしまう人のことを言っていたのではありません。パウロは,ペテロの経験や他の同様の例を知っていたに違いありません。エリヤは,歯に衣着せぬ話し方をする大胆な預言者でしたが,あるときおじけづき,命懸けで逃げました。邪悪な王妃イゼベルから,殺すと脅されたからです。(列王第一 19:1-4)預言者ヨナは,もっとひどい恐れの気持ちに襲われました。エホバはヨナに,暴力行為と邪悪さで悪名をはせていた都市ニネベに行く任務を与えました。ところがヨナは,すぐにタルシシュ行きの船に乗り込みました。正反対の方向へ3,500㌔も離れた場所に行こうとしたのです。(ヨナ 1:1-3)それでも,これら忠実な預言者にも使徒ペテロにも,しりごみするような者という表現は当てはまりません。なぜでしょうか。

      4,5 (イ)パウロがヘブライ 10章39節で言及した「滅び」とは何かを,文脈からどのように見定めることができますか。(ロ)「わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではな(い)」と述べたパウロは,何を言おうとしていましたか。

      4 パウロの用いた表現全体に注目してください。「しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではな(い)」とあります。どういう意味で「滅び」と述べたのでしょうか。ここで用いたギリシャ語の言葉は時として,とこしえの滅びを指します。この定義は文脈とも調和します。パウロはこう警告したばかりでした。「真理の正確な知識を受けた後,故意に罪を習わしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがある(の)です」― ヘブライ 10:26,27。

      5 ですから,パウロが仲間の信者たちに,「わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではな(い)」と述べたとき,自分も,自分の手紙を読む忠実なクリスチャンも,決してエホバから離れたり,エホバに仕えるのをやめたりしないことを決意している,と言っていたのです。離れたりやめたりするなら,とこしえの滅びに至りかねません。ユダ・イスカリオテは,しりごみしてそのような滅びに至った者の一人です。エホバの霊に故意に逆らい,真理に敵対した他の者たちもそうなりました。(ヨハネ 17:12。テサロニケ第二 2:3)そのような人は,象徴的な火の湖でとこしえの滅びを被る「憶病な者」の部類に入ります。(啓示 21:8)わたしたちは決してそのような者にはなりたくありません。

      6 悪魔サタンは,わたしたちにどんな行動を取らせたいと思っていますか。

      6 悪魔サタンは,わたしたちがしりごみして滅びに至ることを望んでいます。「ずる賢い行為」を極めているサタンは,身の破滅となるそうした歩みが,ささいな事柄から始まる場合の多いことを知っています。(エフェソス 6:11,脚注)直接的な迫害によって目的を達成できない場合には,より巧妙な手段で真のクリスチャンの信仰をむしばもうとします。大胆で熱心なエホバの証人が沈黙させられるのを見たい,と思っているのです。パウロが手紙を書き送ったヘブライ人のクリスチャンに対し,サタンがどんな策略を用いたかを調べてみましょう。

      クリスチャンをしりごみさせるためにどんな圧力がかけられたか

      7 (イ)エルサレムの会衆はどんな変遷を経ていましたか。(ロ)パウロの手紙を読む人の中には,霊的にどんな状態の人もいましたか。

      7 証拠の示すところによれば,パウロがヘブライ人への手紙を書いたのは西暦61年ごろのことです。エルサレムの会衆は,波乱含みの変遷を経ていました。イエスの死後,激しい迫害の波に襲われ,同市の多くのクリスチャンは散らされました。しかしその後,平和な時期が訪れ,クリスチャンは人数を増してゆきました。(使徒 8:4; 9:31)年月と共に,このほかにも迫害や苦難の時期が訪れては去ってゆきました。パウロがヘブライ人への手紙を書いたころ,その会衆は再び比較的平和な時期に入っていたものと思われます。それでも,種々の圧力となるものがありました。イエスがエルサレムの滅びを予告してから30年近くが過ぎていました。終わりはどう考えても遅れている,自分たちが生きているうちには来ないのではないか,と思っていた人もおそらくいたことでしょう。また,信仰を持つようになって間もない人たちは特に,厳しい迫害による試みをまだ受けておらず,試練のもとで忍耐する必要についてほとんど知りませんでした。(ヘブライ 12:4)サタンはそのような状況に付け入ろうとしたに違いありません。どんな「ずる賢い行為」に及んだでしょうか。

      8 多くのユダヤ人は,巣立ったばかりのクリスチャン会衆に対してどんな態度をとっていましたか。

      8 エルサレムとユダヤのユダヤ人社会は,巣立ったばかりのクリスチャン会衆を蔑視していました。パウロの手紙の内容から判断して,ユダヤ人のごう慢な宗教指導者やその追随者たちがクリスチャンをどのようにあざけったか,幾らか察することができます。事実上,このようなことを言っていたのでしょう。『わたしたちには,エルサレムに,何世紀も前から存続している偉大な神殿がある。神殿では,高貴な大祭司が従属の祭司たちと共に職務を果たし,種々の犠牲が毎日ささげられている。わたしたちには律法がある。み使いたちを通してモーセに伝えられ,シナイ山で大いなるしるしを伴って制定されたものだ。しかし,この駆け出しの一派,クリスチャンと称し,ユダヤ教から背教した者たちは,こうしたものを何一つ持っていないではないか』。そのようなあざけりは功を奏したのでしょうか。ヘブライ人のクリスチャンの中には,そうした攻撃に心を乱されていた人もいたようです。パウロの手紙は,ちょうどよい時に助けを差し伸べるものとなりました。

      しりごみして滅びに至るべきでないのはなぜか

      9 (イ)ヘブライ人への手紙では随所でどんな主要な論題が扱われていますか。(ロ)クリスチャンはどのような意味で,エルサレムの神殿に勝る神殿で仕えていましたか。

      9 パウロがユダヤの兄弟姉妹に示した,しりごみして滅びに至るべきでない二つの理由を調べてみましょう。一つ目の理由は,キリスト教の崇拝の体系のほうが勝っているということであり,この点はヘブライ人への手紙の随所で示されています。パウロはその手紙の初めから終わりまで,この主要な論題を詳しく扱っています。エルサレムの神殿は,はるかに偉大な実体の写しにすぎません。その実体とは,エホバの霊的神殿であり,「手で造ったのではない」建物です。(ヘブライ 9:11)これらのクリスチャンは,清い崇拝のためのその霊的取り決めの中で仕える特権を得ていました。勝った契約,待望久しい新しい契約のもとで仕えていたのです。その契約の仲介者は,モーセに勝る方,イエス・キリストです。―エレミヤ 31:31-34。

      10,11 (イ)イエスの場合,霊的神殿で大祭司として仕えるうえで家系の違いが問題とならなかったのはなぜですか。(ロ)イエスはどんな点で,エルサレムの神殿で仕えた大祭司に勝っていましたか。

      10 これらクリスチャンにはまた,はるかに勝った大祭司イエス・キリストがいました。もちろん,イエスはアロンの子孫ではありません。むしろ,「メルキゼデクのさまにしたがう」大祭司でした。(詩編 110:4)メルキゼデクは,家系に関する記録はありませんが,古代のサレムの王また大祭司でした。それゆえに,イエスを表わすにふさわしい預言的な型となりました。イエスの祭司職は,不完全な人間の先祖から受け継ぐのではなく,はるかに偉大なもの ― エホバご自身の誓い ― によって決まっていたのです。イエスはメルキゼデクと同様,大祭司としてだけでなく,王としても仕えます。しかも,決して死ぬことのない方としてです。―ヘブライ 7:11-21。

      11 さらに言えば,イエスはエルサレムの神殿の大祭司とは異なり,年ごとに犠牲をささげる必要がありません。イエスが犠牲としたのはご自分の完全な命であり,イエスはそれをただ一度限りささげたのです。(ヘブライ 7:27)神殿でささげられたそれらの犠牲はみな,イエスがささげたものの影,つまり像にすぎませんでした。イエスの完全な犠牲は,信仰を働かせるすべての人の罪が本当に許されるための備えになりました。この大祭司は,エルサレムのクリスチャンが知っていた,同じ変わることのないイエスである,というパウロの注解も心温まるものです。イエスは,謙遜で,親切で,「わたしたちの弱いところを思いやることの」できる方でした。(ヘブライ 4:15; 13:8)それら油そそがれたクリスチャンには,キリストの従属の祭司として仕える見込みがあったのです。それなのにしりごみして,腐敗したユダヤ教の「弱くて貧弱な」事柄に戻ろうと考えることなど,どうしてできるでしょうか。―ガラテア 4:9。

      12,13 (イ)パウロは,しりごみすべきでない,二つ目のどんな理由を挙げていますか。(ロ)ヘブライ人のクリスチャンにとって,かつて忍耐したことは,しりごみして滅びに至らないようにするための励みとなるはずです。それはなぜですか。

      12 パウロは,それでもまだ足りないかのように,しりごみして滅びに至るべきでない二つ目の理由をヘブライ人に示しています。その理由とは,彼ら自身が忍耐してきたことです。「あなた方は,啓発を受けた後数々の苦しみのもとで大きな闘いに耐えた先の日々をいつも思い出しなさい」と書いています。パウロは,彼らが非難にも患難にも,「劇場にあるかのようにさらされ(た)」ことを思い起こさせています。投獄された人もいれば,獄にある人々を思いやり,支えた人たちもいます。確かに,彼らは模範的な信仰と粘り強さを示していたのです。(ヘブライ 10:32-34)しかし,そうしたつらい経験を「いつも思い出(す)」ようにとパウロが述べたのはなぜでしょうか。かえって気落ちしてしまうのではないでしょうか。

      13 そのようなことはありません。ヘブライ人は『先の日々を思い出す』なら,試練のもとでどのようにエホバが支えてくださったかを銘記できるのです。彼らは,エホバの助けによって,すでにサタンからの多くの攻撃に抵抗していました。「神は不義な方ではないので,あなた方……の働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」とパウロは書いています。(ヘブライ 6:10)そうです,エホバは彼らの忠実な働きをすべて覚えておられ,無限の記憶にとどめておられたのです。わたしたちは,天に宝を蓄えるようにというイエスの勧めを思い起こさせられます。これらの宝は,盗人に盗まれることも,蛾やさびに食い尽くされることもありません。(マタイ 6:19-21)実際,これらの宝が損なわれるのは,クリスチャンがしりごみして滅びに至る場合だけです。その場合には,本人が天に蓄えた宝はすべて無駄になってしまいます。パウロはヘブライ人のクリスチャンに,そのような歩みを避けるべき,なんと強力な理由を提示したのでしょう。忠実に奉仕してきた年月すべてを棒に振ってよいでしょうか。いいえ,忍耐しつづけるのが正しいことであり,そのほうがはるかに良いことなのです。

      わたしたちが,しりごみして滅びに至るべきでないのはなぜか

      14 わたしたちは,1世紀のクリスチャンと同様のどんな難しい事態に直面していますか。

      14 今日の真のクリスチャンにも,しりごみすべきでない,同様の強力な理由があります。第一に,エホバが与えてくださった清い崇拝の方式は実に大きな祝福である,という点を忘れないようにしましょう。わたしたちは,1世紀のクリスチャンのように,より広く信奉されている宗教の信徒たちから冷笑され,あざけられる時代に生きています。彼らは,自分たちの荘厳な宗教建造物や,伝統の古さを誇示します。しかしエホバは,わたしたちの崇拝の方式を是認しているとの保証を与えてくださっています。実際,わたしたちは今日,1世紀のクリスチャンが得ていなかった祝福を享受しています。『どうしてそう言えるのだろう』と首をかしげる方もあるでしょう。しかし考えてみれば,1世紀当時は霊的神殿が機能しはじめたばかりの時期だったのです。キリストは,西暦29年にバプテスマを受けた時点で,その神殿の大祭司となりました。当時は,奇跡を行なう,神の子を見たことのある人もいました。キリストの死後にも奇跡はありました。それでも,予告どおり,そうした賜物はやがてやみました。―コリント第一 13:8。

      15 今日,真のクリスチャンは,どんな預言が成就する時代に生きていますか。そのことは,わたしたちにとってどんな意味を持ちますか。

      15 しかしわたしたちは,エゼキエル 40章から48章の,神殿に関する詳細な預言が著しい成就を見ている時代に生きています。a そのため,わたしたちは神の清い崇拝のための取り決めが復興されるのを目にしてきました。その霊的神殿からは,あらゆる形態の宗教上の汚染や偶像礼拝が一掃されています。(エゼキエル 43:9。マラキ 3:1-5)この清めによってわたしたちに及んでいる益のことを考えてみてください。

      16 1世紀のクリスチャンは,失意落胆させられるようなどんな傾向に直面しましたか。

      16 1世紀当時,組織されたクリスチャン会衆にとって,前途は暗いように思えました。イエスの予告によれば,物事はあたかも,新しく小麦を植えた畑に雑草がまき足されたかのようになり,小麦が雑草と見分けがつかないような状態に至ることになっていました。(マタイ 13:24-30)実際,そのとおりになりました。老齢の使徒ヨハネが腐敗を抑制する最後の者として働いていた,1世紀の終わりまでに,背教はすでに盛んになっていました。(テサロニケ第二 2:6。ヨハネ第一 2:18)使徒たちの死後,程なくして,信者の群れとは別の僧職者階級が出現し,群れを虐げ,独特の衣装を身に着けるようになりました。背教は脱疽のように広がりました。忠実なクリスチャンにとっては失意落胆させられるような事態です。彼らは,清い崇拝のための新たに設けられた取り決めが,腐敗した形態のものに呑み込まれるのを見ました。キリストが会衆を設立して1世紀もたたないうちにそうなってしまったのです。

      17 どんな意味で,現代のクリスチャン会衆は1世紀の会衆よりも長く存続していますか。

      17 では今度は,対照的な状況について考えてみましょう。今日,清い崇拝はすでに,使徒たちが死んだときまでの期間よりも長く存続しています。本誌の創刊号が1879年に出版された時から,エホバはわたしたちが,浄さを増してゆく崇拝を行なえるようにしてくださっています。エホバとキリスト・イエスは,霊的神殿を清める目的で1918年にその神殿に入られました。(マラキ 3:1-5)1919年以来,エホバ神を崇拝するための取り決めは,漸進的に精錬されてきました。聖書の預言や原則に関する理解は,ますます明確になっています。(箴言 4:18)その誉れはだれに帰せられるべきでしょうか。単なる不完全な人間に帰するべきではありません。この腐敗した時代に神の民が腐敗から守られたのは,ただひとえにエホバと,会衆の頭であるみ子のおかげなのです。ですから,今日わたしたちが清い崇拝に加われるようにしてくださったエホバに,ぜひとも感謝しましょう。そして,しりごみして滅びに至るようなことはすまいと固く決意しましょう。

      18 しりごみして滅びに至ることを避けるべき,どんな理由がありますか。

      18 わたしたちの場合も,それらヘブライ人のクリスチャンと同様,憶病になってしりごみするという歩みを退けるべき二つ目の理由があります。それは,わたしたち自身が忍耐してきた事実です。数年前からエホバに仕えるようになって,あるいは何十年も忠実に仕えて,クリスチャンの業の記録を作り上げてきました。中には,投獄されたり,禁令下で活動したり,残虐行為に遭ったり,財産を失ったりするといった迫害を受けた人も少なくありません。家族からの反対,侮べつ,あざけり,無関心などに直面した人は,さらに多いでしょう。わたしたちはみな,忍耐してきました。生活上の難問や試みに遭いながらもエホバへの忠実な奉仕を続けています。そうすることにより,エホバが忘れたりはされない粘り強さの記録を作り上げ,天に宝の倉を築いてきたのです。ですから,どう考えても今は,わたしたちがあとにした,腐敗した古い体制に,しりごみして戻るべき時ではありません。これまでの労苦すべてをどうして無にしてよいでしょうか。今は,終わりが来るまでにあと「ほんのしばらく」の期間しか残されていないのですから,特にそう言えます。―ヘブライ 10:37。

      19 次の記事ではどんな点について討議しますか。

      19 ですから,『わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではありません』という決意を抱きましょう。むしろ,『信仰を抱いている者』となりましょう。(ヘブライ 10:39)どうすれば確実にその描写どおりの者となれるでしょうか。そしてどのように,仲間のクリスチャンもそうするよう助けることができるでしょうか。次の記事では,そうした点が取り上げられます。

  • 信仰を抱く者となりましょう
    ものみの塔 1999 | 12月15日
    • 信仰を抱く者となりましょう

      「わたしたちは……信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者です」― ヘブライ 10:39。

      1 エホバの忠節な僕一人一人の信仰は貴重である,と言えるのはなぜですか。

      この次に,エホバを崇拝する人でいっぱいになった王国会館にいるとき,少し時間を割いて周りの人々を見回してください。そして,その人たちがどんなさまざまなかたちで信仰を示しているか,考えてみてください。何十年も神に仕えてきたお年寄りや,日々仲間の圧力に立ち向かう若者,また神を恐れる子どもを育てようと骨折る親もいれば,多くの責任を担っている,会衆の長老や奉仕の僕もいます。そうです,あらゆる年齢層の霊的な兄弟姉妹が,エホバに仕えるためにさまざまな障害を克服しているのが分かるでしょう。一人一人の信仰は,本当に貴重なものです。―ペテロ第一 1:7。

      2 ヘブライ 10章と11章のパウロの助言が今日のわたしたちに有益なのはなぜですか。

      2 不完全な人間で信仰の重要性を使徒パウロ以上によく理解した人は,たとえいたとしても,そう多くはないでしょう。実際パウロは,純粋の信仰があれば「魂を生き長らえさせる」ことになる,と述べました。(ヘブライ 10:39)しかし,この不信仰な世において信仰は攻撃されたり,むしばまれたりする,ということもパウロは知っていました。ですから,信仰を守ろうと奮闘していた,エルサレムとユダヤのヘブライ人のクリスチャンのことがとても気掛かりでした。そのことを踏まえて,ヘブライ 10章と11章の幾つかの部分を調べ,パウロが彼らの信仰を築き上げるためにどんな方法を用いたかに注目しましょう。それと同時に,どうすれば自分自身や周囲の人々の内にいっそう強い信仰を築くことができるかを確かめます。

      互いについての確信を言い表わす

      3 ヘブライ 10章39節のパウロの言葉には,信仰のうちにある兄弟姉妹についての確信がどのように表われていますか。

      3 まず注目できるのは,パウロが読者に対して積極的な態度を持っていたことです。「しかしわたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者です」と書いています。(ヘブライ 10:39)パウロは,忠実な仲間のクリスチャンが最悪の行動ではなく,最善の行動を取るものと考えました。さらに,「わたしたちは」と述べていることにも注目してください。パウロは義にかなった人でした。それでも,自分のほうがはるかに義にかなっているかのように読者を見下す言い方はしませんでした。(伝道の書 7:16と比較してください。)むしろ,自分を同列に置いたのです。自分も,忠実なクリスチャンの読者もみな,前途に見える威圧的な種々の障害に直面するが,しりごみして滅びに至るようなことは勇敢に拒み,信仰を抱く者であることを実証するはずだ,という心からの確信を言い表わしました。

      4 パウロはどんな理由で仲間の信者について確信を抱いていましたか。

      4 パウロがそのような確信を持てたのはなぜでしょうか。ヘブライ人のクリスチャンの欠点に目をつぶっていたのでしょうか。そうではありません。パウロは,彼らが霊的な弱点を克服できるように明確な助言を与えました。(ヘブライ 3:12; 5:12-14; 6:4-6; 10:26,27; 12:5)それでもパウロには,兄弟たちについて確信を抱くもっともな理由が少なくとも二つありました。(1)パウロはエホバを見倣う者として,神の民を,エホバがご覧になるとおりに見るように努めました。これは,単に彼らの欠点をどう見るかということだけでなく,彼らの良い特質や,将来良いことをするその可能性をどう見るかということでした。(詩編 130:3。エフェソス 5:1)(2)パウロは聖霊の力に絶対の信仰を抱いていました。どんな障害も,また人間のどんな弱さも,エホバが,ご自分に忠実に仕えようとしているクリスチャンに『普通を超えた力』を与えることを阻むものとはなり得ない,ということを知っていたのです。(コリント第二 4:7。フィリピ 4:13)ですから,パウロが兄弟姉妹について抱いていた確信は,的外れの,現実離れしたものではなく,また闇雲に楽観的なものでもありません。しっかりした根拠のあるもの,また聖書に基づくものでした。

      5 パウロが示した確信にどのように見倣うことができますか。そうすればおそらく,どんな結果になりますか。

      5 パウロが確信を示したので,他の人たちも同じようにしたいと思ったことでしょう。エルサレムとユダヤの諸会衆にとって,パウロが大いに自信を持たせるような仕方で語りかけてくれたのは,大変うれしいことだったに違いありません。ヘブライ人のクリスチャンは,ユダヤ人の反対者たちから,気持ちが萎縮するほど軽蔑され,ごう然とした無関心な態度を示されていたので,パウロの言葉は,信仰を抱く者になろうという決意を心の中で固める助けになりました。今日,これと同じことを互いに行なえるでしょうか。他の人に関してはとかく,欠点や性格上の癖ばかりを見がちです。(マタイ 7:1-5)しかし逆に,一人一人の特有の信仰に目を留め,その価値を認めるなら,そのほうがずっと互いのためになります。そのようにして励まされると,信仰が成長する見込みは大きくなります。―ローマ 1:11,12。

      神の言葉を適切に用いる

      6 パウロはヘブライ 10章38節の言葉を書いたとき,それをどこから引用していましたか。

      6 パウロは,聖書を巧みに用いることによっても仲間の信者の内に信仰を築きました。例えば,こう書いています。「『しかし,わたしの義人は信仰のゆえに生きる』,そして,『もししりごみするなら,わたしの魂はその者を喜ばない』とあります」。(ヘブライ 10:38)パウロはここで,預言者ハバククの言葉を引用していました。a この言葉は,パウロの手紙を読むヘブライ人のクリスチャンにはなじみのある言葉だったと思われます。彼らの間で,預言書はよく知られていたのです。パウロの目標,すなわち西暦61年ごろにエルサレム市内とその近くにいたクリスチャンの信仰を強めるという目標を考えると,ハバククを実例として選んだことは適切でした。なぜでしょうか。

      7 ハバククは,いつ自分の預言を記録しましたか。当時ユダはどんな状態になっていましたか。

      7 ハバククがハバクク書を書いたのは,西暦前607年のエルサレムの滅びの,ほんの20年余り前であったと思われます。この預言者は幻の中で,「無情で血気にはやる国民」であるカルデア人(つまりバビロニア人)がユダを急襲し,エルサレムを滅ぼし,その過程で幾つもの民や国民を呑み込むのを見ました。(ハバクク 1:5-11)しかし,そうした災いは,1世紀以上前のイザヤの時代から予告されていました。ハバククの時代には,良い王であったヨシヤのあとをエホヤキムが継いでいたため,ユダでは再び悪がはびこっていました。エホヤキムはエホバの名によって語った者たちを迫害するだけでなく,殺害することまでしたのです。(歴代第二 36:5。エレミヤ 22:17; 26:20-24)苦悩する預言者ハバククが,『エホバよ,いつまでですか』と叫んだのも無理はありません。―ハバクク 1:2。

      8 ハバククの実例が,1世紀においても今日においても,クリスチャンの助けになるのはなぜですか。

      8 ハバククはエルサレムの滅びがどれほど切迫しているかを知りませんでした。同様に,1世紀のクリスチャンも,ユダヤ人の事物の体制がいつ終わるかを知りませんでした。今日のわたしたちも,エホバの裁きがこの邪悪な体制に臨む「日と時刻」を知りません。(マタイ 24:36)ですから,エホバがハバククにお与えになった,二つの部分から成る答えに注目しましょう。第一に,エホバはこの預言者に,終わりは時間どおりに臨むことを保証されました。人間の見地からは遅れているように見えても,「遅くなることはない」と神は言われます。(ハバクク 2:3)第二に,エホバはハバククに,「義なる者は自分の忠実さによって生きつづける」ことを思い起こさせました。(ハバクク 2:4)なんと心を打つ簡明な真理なのでしょう。最も重要なのは,終わりがいつ来るかではなく,わたしたちが信仰に則した生き方を続けるかどうかです。

      9 エホバの従順な僕たちは,(イ)西暦前607年に,(ロ)西暦66年以降,どのように自分の忠実さによって生きつづけましたか。(ハ)自分の信仰を強めることが肝要なのはなぜですか。

      9 西暦前607年にエルサレムが攻略されたとき,エレミヤ,エレミヤの書記官バルク,エベド・メレク,忠節なレカブ人は,ハバククに対するエホバの約束の真実さを体験しました。彼らはエルサレムの恐るべき滅びを免れることによって「生きつづけ」ました。なぜでしょうか。エホバが彼らの忠実さに報いてそうされたのです。(エレミヤ 35:1-19; 39:15-18; 43:4-7; 45:1-5)同様に,1世紀のヘブライ人のクリスチャンも,パウロの助言にこたえ応じたに違いありません。ローマの軍隊が西暦66年にエルサレムを攻撃し,次いで不可解にも撤退したとき,これらのクリスチャンは忠実にも,逃げるようにというイエスの警告に留意したからです。(ルカ 21:20,21)彼らは自分の忠実さゆえに生きつづけました。同様にわたしたちも,終わりが来るときに忠実な者として見いだされるなら,生きつづけられます。ですからぜひとも今,自分の信仰を強化しましょう。

      信仰の実例を生き生きと描く

      10 パウロはモーセの信仰についてどのように説明しましたか。この点で,どのようにモーセを見倣うことができますか。

      10 パウロは,実例を力強く用いることによっても信仰を築きました。ヘブライ 11章を読むとき,聖書中の人物を実例としてどのように生き生きと描いているかに注目してください。例えば,モーセについては,「見えない方を見ているように終始確固としていた」と述べています。(ヘブライ 11:27)要するに,モーセにとってエホバは,見えない神であるにもかかわらず,あたかも見えるかのような,現実の存在だったのです。わたしたちの場合もそうでしょうか。エホバとの関係について語るのはたやすいことですが,その関係を築き,強めるには努力が要ります。その努力をしなければなりません。わたしたちにとってエホバは,ささいに思える事柄を含め,決定を下すときに考慮に入れるほど現実の存在でしょうか。その種の信仰があれば,最も厳しい反対に遭っても忍耐しやすくなるでしょう。

      11,12 (イ)エノクの信仰はどんな状況下で試されたと考えられますか。(ロ)エノクは,励みとなるどんな報いを受けましたか。

      11 エノクの信仰についても考えてみましょう。エノクがどんな反対を受けたかは,わたしたちには想像もつきません。エノクは,当時生きていた邪悪な人々に,痛烈な裁きの音信を伝えなければなりませんでした。(ユダ 14,15)この忠実な人の身に及んでいた迫害は,極めてむごい,過激なものであったと思われます。そのためエホバは,『彼を移し』ました。敵が手をかける前に,神はエノクを生きた状態から取って死の眠りに就かせたのです。ですからエノクは,自分が語った預言の成就を見ることはありませんでした。しかし,ある意味では,より勝った賜物を与えられたと言えます。―ヘブライ 11:5。創世記 5:22-24。

      12 「[エノク]は,移される前に,神を十分に喜ばせたと証しされた」と,パウロは説明しています。(ヘブライ 11:5)これはどういう意味でしょうか。エノクは死の眠りに就く前に,ある種の幻を与えられたのであろう,と考えられます。自分がやがて目覚める場所となる地上の楽園の幻を見たのかもしれません。いずれにしても,エホバはエノクに,その忠実な歩みがご自分を十分に喜ばせるものであったことをお知らせになったのです。エノクはエホバの心を歓ばせていました。(箴言 27:11と比較してください。)エノクの生涯について考えると,胸が熱くなるのではないでしょうか。あなたも,信仰に則したそのような生き方をしたいと思われますか。であれば,そうした実例について熟考してください。彼らを現実の人として思い描くのです。日々,信仰によって生きることを決意しましょう。また,次の点も忘れないようにしましょう。信仰を抱く人は,神が約束すべてを果たされる何らかの期日や期限に基づいてエホバに仕えているわけではありません。むしろ,わたしたちはエホバに永久に仕えることを決意しているのです。そうすることは,この事物の体制においても,来たるべき事物の体制においても最善の生き方となります。

      どうすれば信仰においていっそう強くなれるか

      13,14 (イ)ヘブライ 10章24,25節のパウロの言葉を思いに留めておくことは,集会を喜ばしいひとときとするのにどのように役立ちますか。(ロ)クリスチャンの集会の主な目的は何ですか。

      13 パウロはヘブライ人のクリスチャンに,信仰を強めるための幾つかの実際的な方法について知らせました。そのうちの二つに絞って考えてみましょう。わたしたちは,ヘブライ 10章24,25節のパウロの勧めをよく知っているでしょう。クリスチャンの集会のために定期的に集まるようにという勧めです。しかし,忘れないでください。霊感によるパウロのその言葉は,集会に出席して受け身の姿勢で傍観していればよい,と言っているのではありません。むしろパウロは集会を,互いに知り合うための機会,互いになおいっそう神に仕えるよう鼓舞し合う機会,また互いに励まし合う機会として説明しているのです。ただ受けるだけでなく,与えるためにそこにいるのです。このことを思いに留めると,集会は喜ばしいひとときとなります。―使徒 20:35。

      14 しかし,クリスチャンの集会に出席する主な目的は,エホバ神を崇拝することです。祈りと歌に和し,じっと耳を傾け,「唇の実」をささげる,すなわち注解したりプログラムの一部にあずかったりしてエホバを賛美する言葉を述べることによって崇拝するのです。(ヘブライ 13:15)こうした目標を念頭に置いて,毎回の集会で実行するなら,そのたびに信仰は必ず築き上げられるでしょう。

      15 パウロがヘブライ人のクリスチャンに,奉仕の務めをしっかり保つようにと勧めたのはなぜですか。同じ助言が今日でも適切なのはなぜですか。

      15 もう一つ,宣べ伝える業によって信仰を築くという方法もあります。パウロは,こう書いています。「わたしたちの希望を公に宣明することを,たじろぐことなくしっかり保ちましょう。約束してくださったのは忠実な方だからです」。(ヘブライ 10:23)他の人に何かをしっかり保つようにと勧めるのは,その人がつかんでいるものを手放すおそれがありそうなときでしょう。サタンはまさにそれらヘブライ人のクリスチャンを,奉仕の務めを手放すようにと圧迫していました。そして,今日の神の民をも圧迫しています。そのような圧力に直面したなら,どうすべきでしょうか。パウロが何をしたかを考えてみましょう。

      16,17 (イ)パウロはどのように宣教奉仕のための大胆さを身につけましたか。(ロ)クリスチャン宣教の何らかの面が苦手なら,どんな措置を講じるとよいでしょうか。

      16 パウロはテサロニケのクリスチャンにあててこう書きました。「わたしたちは,初めにフィリピで苦しみに遭って不遜にあしらわれた後でしたが(あなた方が知っているとおりです),わたしたちの神によって大胆さを奮い起こし,非常な苦闘の中であなた方に神の良いたよりを語ったのです」。(テサロニケ第一 2:2)パウロとその仲間たちはフィリピでどのように「不遜にあしらわれた」のでしょうか。ある学者たちによると,パウロが用いたギリシャ語の言葉は,侮辱的,恥辱的,または手荒な扱いという考えを伝えています。フィリピの当局者は,彼らを棒むちで打ちたたき,獄に入れ,足かせ台につなぎました。(使徒 16:16-24)そのつらい経験のためにパウロはどんな影響を受けたでしょうか。宣教旅行で次に訪れた都市テサロニケで,人々はパウロが恐れてしりごみするのを見たでしょうか。いいえ,パウロは「大胆さを奮い起こし」ました。恐れに屈することなく,引き続き大胆に宣べ伝えたのです。

      17 パウロの大胆さは,どこから出ていたのでしょうか。自分の内からでしょうか。そうではありません。「わたしたちの神によって」大胆さを奮い起こした,と述べています。聖書翻訳者のためのある参考文献によれば,この陳述は,「神はわたしたちの心から恐れを取り去ってくださった」とも訳せます。ですから,自分の宣教奉仕があまり大胆でないと感じるなら,または宣教奉仕の特定の面に苦手意識があるなら,自分にも同じことをしてくださるようエホバに求めてはいかがですか。わたしの心から恐れを取り去ってください,と願い求めるのです。その業のために大胆さを奮い起こせるようにしてください,と願い求めるのです。それに加えて,他の実際的な措置を講じてください。例えば,あなたが不安を感じる分野の証言活動において,熟達した人と組んで働けるようにしてください。それはビジネス街での活動かもしれず,街路での証言,非公式の証言,または電話による証言かもしれません。多分,初めのうちは,一緒に組んでいる人が快く率先するでしょう。そのときは,よく見守り,方法を学んでください。しかしそのあとは,大胆さを奮い起こし,自分でも試してみましょう。

      18 宣教奉仕において大胆さを奮い起こすなら,どんな祝福を経験できるかもしれませんか。

      18 実際に大胆さを奮い起こすならどんな結果になるか,考えてみてください。ひるまずに業を続け,気落ちしなければ,真理を伝える点で,さもなければできなかったような良い経験をすることができるかもしれません。(25ページをご覧ください。)また,自分の苦手とする事柄を行なうことによってエホバを喜ばせた,という満足感を持てるでしょう。エホバが祝福してくださり,恐れを克服するよう助けてくださるのを経験するでしょう。あなたの信仰は強くなります。実のところ,他の人のうちに信仰を築くことは,同時に自分自身の信仰を築いてゆかなければ,できないことです。―ユダ 20,21。

      19 『信仰を抱く者』には,今後どんな貴重な報いがありますか。

      19 どうか引き続き,あなたがご自分の信仰と周囲の人々の信仰を強めてゆかれますように。そのためには,神の言葉を巧みに用いて自分自身と他の人たちを築き上げ,聖書中の信仰の実例を研究して,生き生きと思い描き,クリスチャンの集会の予習をして参加し,公の宣教という貴重な特権をしっかり保つことが必要です。これらのことを行なうとき,あなたはまさしく『信仰を抱く者』であると言えます。そして,そのような人には貴重な報いがある,ということも忘れないでください。その人たちは,「信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者」なのです。b どうか引き続きあなたの信仰が成長し,エホバ神があなたを永久に生き長らえさせてくださいますように。

      [脚注]

      a パウロは,ハバクク 2章4節のセプトゥアギンタ訳を引用しました。そこには,「もししりごみする者がいれば,わたしの魂はその者を喜ばない」という句が含まれています。この陳述は,現存するどのヘブライ語写本にも出ていません。中には,セプトゥアギンタ訳は,もはや存在していない初期のヘブライ語写本に基づいていたのではないかと言う人もいます。いずれにしても,パウロは神の聖霊の影響のもとにその句をこの部分に含めました。ですから,それには神の権威の裏づけがあるのです。

      b エホバの証人の2000年の年句は,『わたしたちは,しりごみするような者ではなく,信仰を抱く者です』というものです。―ヘブライ 10:39。

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