エホバの証者の年鑑からの抜萃
沖縄
人口: 500,000人
最高伝道者数: 84人
比率: 5,952人に1人
ひとりの青年は,沖縄の正統派教会から真理を学ぼうと,子供の時以来努力していました。しかし,「キリストが神であるなら,キリストはなぜ神に祈つたか」「不信心な者でも,良い人は天に行くか」(ついに,教会はこの質問に肯定の答を与えました)というようなその青年の質問に対して,教会は教えることができませんでした。青年は聖書を愛していましたが,これらの諸点がはつきり納得できませんでした。家族の者は先祖崇拝をしていましたから,青年は洗礼を拒否しました。それからモルモン教の教会にも行つてみましたが,モルモン教の書があることは黙示録 22章18節の言葉に合わないと悟りました。愛想をつかしたこの青年はモルモン教会を去つて,今すこしのところで自分の聖書を破つてしまおうとまで思いましたが,断行しませんでした。このころ,彼の妹は,家を訪問したひとりの人からものみの塔の冊子を幾冊か求めました。その冊子は1度も読まれず,ついに屑かごに投げこまれました。しかし,この屑を処分する前に青年は「進化論対新しい世」という冊子に目をとめました。好奇心にかられたこの青年は,その冊子を取り出して,一頁もあまさずに読みとおしました。それから,その屑箱のところに戻つて行つて,他の冊子をも見つけました。読んだ事柄にたいへんよろこんだ彼は,エホバの証者を探しに出かけました。エホバの証者は,雑誌を持つて街頭に立つていました! この人は,エホバの証者が自分と同じく一般普通の人であり,「先生! 先生!」と呼ばれることを要求しないのによろこびました。6ヵ月たたない中に,この青年は先祖崇拝をやめ,洗礼をうけて熱心な御国伝道者になりました。この人は,友人に伝道しました。友人も洗礼をうけて休暇開拓者として奉仕しました。
沖縄のある村では,先祖崇拝に格別熱心な一家族がいました。この家族の両親は長女が戦争中死んだのでたいへん悲しんでいました。そして,毎日ユタのために金を払つていたのです。ユタとは仏壇の前で死人と話を交わすことです。ひとりの特別開拓者がこの家を訪問して,家族の次女と研究を始めました。この人は,復活のこと,新しい世のこと,そして永遠の生命のことを知つてたいへんよろこびました。魂は死ぬのであるから,仏壇の前でおがむのは無益なことであると,母親にすぐ告げました。「お前はばかだ」と母親は答え,たいへん怒りました。しかし,娘は復活について聖書から学んだことを説明したところ,母親も,エホバの約束を学んでたいへんよろこびました。家族はユタを止め,仏壇の戸を閉じ,いまでは両親も娘も聖書を熱心に研究し,集会に出席しています。娘はいま御国伝道者として毎月40時間を伝道し,開拓者奉仕を目標にしています。いままであれほど熱心に先祖崇拝をしていた指導的な家族がエホバの証者になるなどとは,実に不思議である,と村人はみな言つています。
アメリカ領サモア
人口: 20,154人
最高伝道者数: 33人
比率: 610人に1人
真理の側にかたい立場を取つた者たちは,祝福をいただいて真実に前進しています。開拓者になるようにとの協会の召に対する答えは,熱烈なものでした。合計33人の伝道者のうち,奉仕年度の終りに開拓奉仕をしている人の合計数は,宣教者を含めて15人でした。
1人の姉妹 ― 3人の子供を持つ主婦 ― は,6月1日に休暇開拓奉仕を始めました。学校の休みは6月の半ばに始まつたので,この姉妹は,3人の子供たちも7月1日から休暇開拓する計画を立てました。7月1日前と,開拓奉仕をしている月のあいだ,家庭や農場でする仕事はきわめてたくさんです。それで,この4人は家事を分担することにしました。群れの研究司会者は,計画作製の援助をしました。4人はその計画を実行することによつて,仕事をする際には組織化と時間厳守が必要であると悟りました。開拓奉仕を始める前よりも開拓奉仕をしている時の方が,家庭で多くの仕事ができた,とひとりの息子は語りました。この4人全部は2ヵ月の休暇開拓を楽しく行ないました。母親は休暇開拓奉仕を3ヵ月して後に,正規の開拓者として任命されました。
ある区域では伝道が良く行なわれたため,過去5年内のある時には,ほとんどどの家でも研究を司会したことがあります。いろいろの理由のために,大部分の研究は中止されました。最近の巡回の僕の訪問中,それらの人々のところをできるだけ多く訪問して,興味を再び起こさせ,深い認識を持たせるようにという助言が与えられました。良い結果が出ています。ひとりの宣教者は,そのような人6人と研究を再び始めました。その4人は良い認識を示しており,1人は伝道を始めました。ある人が興味を示すなら,すぐに両親か家長のところへ行き,家族全部が研究に加わる取り極めを設けるのが最善であると知りました。こうするなら,以前のときのように家庭の他の者が誤解を抱くとか,反対を持つということはまずありません。