ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔63 10/1 602–603ページ
  • 生まれる以前に生きていましたか?

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 生まれる以前に生きていましたか?
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
  • 関連する記事
  • あなたは幾たび生まれ変わりましたか
    目ざめよ! 1985
  • 輪廻を信じるべきですか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1997
  • ヒンズー教 ― 人の霊的必要を満たすことができますか
    目ざめよ! 1976
  • あなたの魂は不滅ではありません
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
塔63 10/1 602–603ページ

生まれる以前に生きていましたか?

多くの西洋作家は,人間は生まれる以前にも生存していた,という考えに魅惑されています。英国の作家サー・ヘンリー・ライダー・ハガードは,小説中に,生まれ変りを信ずる人物をしばしば登場させています。ほんの数年前にも,この主題をながながと論じた別の作家の本が,アメリカでベストセラーのリストのトップにのしあがりました。その本の題名は「ブライディ・マーフィーの研究」でした。ある主婦が催眠術をかけられたときに,1798年から1864年までブライディ・マーフィとして生きていたと主張しました。作者は彼女がその時の生活をどのように描写したかを述べています。彼女が提出した資料を調べた人たちは,あまりにも食い違いが多いので,それは彼女の想像にすぎないという結論をくだしました。

西欧の人々のなかには,この考えを宗教の信仰個条の一つにした人もあります。たとえばモルモン教徒は,自分たちは生まれるまえから存在していたと主張します。この点について,モルモン教徒の指導者のひとりであるヒーバー・J・グラントはこう述べています。「われわれは最初の地位を忠実に保ったがために,この地上に置かれたのである。われわれが地上に来る以前にいた領域でなした働きは,地上におけるわれわれの生命にある種の影響をおよぼし,また,ある程度地上におけるわれわれの生活を支配し制御している。それはちょうど,われわれが地上でなす働きが,この生存の段階のつぎにくる生活を制御し支配するのと同じである」。

東洋では,因果応報ということが,出生前に生存していたという信仰の中心になっています。これはつまり,現世における霊魂の運命は,その霊魂が前世で何をしたかによって決まる,という考えです。人が現世ですることはみな,つぎの世におけるその人の地位に容赦なく影響して,際限なく生まれ変っていく,というわけです。インドのマヌ法典には次のように述べられています。「肉体で多くの罪深い行いをした者は,次に生まれるとき無生物になる。言葉で罪を犯した者は鳥に,精神的な罪を犯した者は下層階級に生まれかわる。……大知者の金を盗む大知者は,くもやへび,とかげ,水生動物,どう猛なプクハサのからだを千回通らなければならない。……穀物を盗む者はねずみになる。……実や根を盗む者は猿になる」。

カルマ法典は,あわれみも許しも準備していません。そして霊魂の輪回のために,おそらく何億回も生まれ変らねばならない暗たんたる将来を示しています。ヒンズー教のマイトリ・ウパニシャッドは,将来の見込みが非常に悲観的なために,次のように述べています。「この種の存在の輪回において,快楽を楽しんだとて何になるのか。人はそれを楽しんでのちくりかえしこの地に帰る。われを救いたまえ。かぎりなき再生におけるわれは,水のない井戸のかえるのようである」。

霊魂の輪回 ― インドではサムサラとして知られている ― という教理は,そのように非常に暗い将来を示すので,因果応報を信ずる人々の切なる願いは,インドが「輪」と呼ぶこの際限のない生まれ変りの循環から解脱し,因果応報の力から自由になることです。彼らの願いは,もはや苦しみの存在しない状態にはいることです。

因果応報の力の支配を信ずる人々が求めているものを,いかにして生まれ変らずに得るかを聖書は示しています。人間は,許すことをしあわれみの心を持たれる創造主の作であることを,聖書は示しています。そして創造主は愛の気持から,生まれ変ることによって罪のつぐのいを要求する無情で人格をもたぬ法律の支配下に人間を置くかわりに,人間が罪のゆるしを受ける手段を準備されました。そして,神に従い,みこころどおりに神を崇拝する人々に,喜びに満ちた永遠の生命,平和,安全を,贈り物として与えることを約束されています。

エホバは,罪をあがなう完全な人間の犠牲によって,人間が罪のゆるしを受けうる手段を設けられました。そのかたについて聖書はつぎのように述べています。「預言者たちはみな,イエスを信じる者はことごとく,その名によって罪のゆるしが受けられると,あかしをしています」。(使行 10:43,新口)どんな過去をもっていようと悔い改めるなら,その犠牲はゆるしを可能にします。エホバは,彼らが罪を清めるために何回も生まれ変ることによって苦しむことを要求されません。「たといあなたがたの罪は緋のようであっても,雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても,羊の毛のようになるのだ」。―イザヤ 1:18,新口。

霊魂が転生するとか,人はこの世に生まれ出る以前に存在していた,というような考えは,人間の霊魂は不滅で,肉体が死んでも霊魂は死なないという観念につながっています。霊魂とは,肉体から遊離し,人格性を有して意識ある存在をつづけるもの,とふつう考えられています。この観念は,キリスト教と称する多くの宗派をも含めて,世界の諸宗教によって広く受け入れられていますが,人間の創造主は,それが事実であることを確証してはおられません。

人間は死ぬと物事を意識しなくなる,と聖書ははっきり述べています。「その霊が出て行けば彼は土に帰る。その日に彼のすべての企は滅びてしまう」。(詩 146:4,新世)人間の霊,すなわち生命力は,人をその人たらしめる無形のものと考えることはできません。それはちょうど,いろんなタイプの機械を動かす電力が,それらの機械の明確な相違になんらの関係もないのと同じことです。人間のくわだてが滅びるという事実は,意識ある存在の停止を示します。聖書は,魂は人間の中にある不滅のものという思想を伝えずに,魂は死ぬと述べています。「罪を犯せる霊魂は死ぬべし」。―エゼキエル 18:4。

人間が,肉体を離れて意識ある存在を保ち得るものを何も持たない以上,人間が存在しているのは現世だけです。そして将来に対する人間の希望は,愛に満ちた人間の創造主が,死者を復活させるためにもうけられたご準備にかかっています。生きている時の人間の行いは,彼が神におぼえられて復活させられるか,あるいは忘れられて無意識の死の状態に打ち捨てられるかを決定する要素になります。エホバの是認を受ける者にはすべて,永遠の生命という賜物が与えられます。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。―ヨハネ 3:16,新口。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする