-
覚えていますかものみの塔 1976 | 12月1日
-
-
と神の像に変えられてゆくのですか。―コリント第二 3:18。
神の真理を宣明し,神のご性質と物事の扱い方に自分をますます近づけることによって,クリスチャンは栄光からより大きな栄光へと進歩する。その言葉と行ないは,彼らが生活の中で反映させようと努めている像の源であられる神になおいっそうの栄光をもたらす。―519,520ページ。
● エホバ神は常に公正に物事を運ばれると確信できるどんな強力な証拠がありますか。
わたしたちの手もとには,神がノアやアブラハムをはじめとする,大勢の人々を扱われた仕方に関する信頼の置ける記録があり,その記録は神がいかなる不義をも行なわれないことを明らかにしている。神は常に,公正さに関するご自分の不変の規準に従って行動される。―531-533ページ。
● 神がイスラエル人をご自分の民として選ばれたことは不公平な行為ではありませんか。
彼らが選ばれたのは,偉大さや数のためではなく,献身的な態度を示したその父祖たちに対する神の愛による。(申命 4:37)イスラエル人は神の律法を持たない国民よりもずっと重大な責任をエホバ神の前に負うようになったので,その処置は不公平なものとは言えない。また至高者は,全人類に祝福をもたらすよう事を運び,命のための豊かな備えからすべての人が益を得られるようにしてくださった。他の国民ではあっても,各個人が神に近づいてその恵みを受けることは妨げられなかった。―547,548ページ。
● どうすれば,自分自身が正しくないねたみの感情を抱いたり,他の人にそうした気持ちを抱かせたりしないですみますか。
仲間の人間に対するより深い愛を培うように努め,他の人の良い資質や業績を正しく評価するよう努めるべきである。他の人にねたみの気持ちを起こさせないため,言行の両面で思慮深くあることが求められる。―579,580ページ。
● ヘブライ 4章12節には,イスラエルに対する神の約束に関連して『神のことばは生きている』と記されていますが,それはどのように真実ですか。
エジプトでの隷属状態から救い出されたイスラエル人には,神の休みに入る,つまり,それまでの圧迫と隷属の状態からの休みを,生きている間に享受するとの約束が与えられていた。その約束の言葉は死んだものではなく,生きていて必ず成就するものであった。この約束に信仰を働かせた人は,約束の地における休みに入った。―631ページ。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1976 | 12月1日
-
-
読者からの質問
● ものみの塔誌(ホセアに関する記事を載せた1976年6月15日,7月1日号)は,エホバ神のことを霊的イスラエルと結婚した天の夫であると述べています。クリスチャン会衆が一人の夫イエス・キリストと婚約関係にあると語った使徒パウロの見地からすれば,どうしてそう言えますか。(コリント第二 11:2)これは矛盾していて混乱を招きやすい論議ではありませんか。
聖書中の比喩的な表現を考える際に,混乱することがないよう,個々の表現の背後にある状況を考慮し,注意深くあらねばなりません。例えば,エホバ神は天にあるご自分の宇宙的な組織を妻と呼んでおられます。この種の表現は,創世記 3章15節の中に早くも見いだされ,イザヤの預言の中には幾度も出てきます。ところが,エホバの組織内の主要な方は神の独り子です。イエス・キリストは,一つの観点から見れば神の「女」の主要な成員であり,別の観点から見れば神の子たちすべての中の長子です。それでは,神はその独り子と結婚なさったのですか。そのようなことはありません。比喩的な表現を混同しないよう注意しなければなりません。キリストは,一つの観点から見れば神のみ子であり,別の観点から見れば神の「女」の一部なのです。
聖書は,同様にキリストの追随者たちについても様々な比喩的表現を用いています。彼らは,キリストの兄弟(マタイ 25:40。ヘブライ 2:17)と呼ばれていることもあれば,キリストの体(コリント第一 12:27)としても言及されています。また,将来,「小羊の妻」になるものとしても語られています。(啓示 21:9)しかし,このことから,イエスがその兄弟もしくは自分自身の体と結婚すると考えるなら,この比喩的表現を混同していることになります。イエスの追随者たちは,一つの観点から見れば前者のようであり,別の観点から見れば後者のようなのです。
-