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    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 自制心を培いそして表わす

      「御霊の実は……自制であ(る)」― ガラテヤ 5:22,23

      1 自制は何にたとえることができますか。なぜ?

      天然の真珠には価値があります。それは珍重されます。しかしそれは努力なくして得られるものではありません。ペルシャ湾は品質の最もすぐれた天然真珠のとれる所とされていますが,ここの真珠採取夫は真珠貝のある海床まで1日25回から30回もぐり,一度に約十ぐらいの貝をとって水面にあがります。ダウつまり沿岸航行用のアラビアの帆船には40人から50人が乗り組み,その半分が潜水夫です。しかしこう伝えられています。「良質の真珠がとれることは非常に少ない。たとえば1947年,ある船は1週間に3万5000の真珠貝を採取したが,それから得られた真珠はわずかに21であった。そのうち商業的な価値のある良質のものは3つである」。(アメリカナ百科事典,1956年版第21巻455頁)希少で価値の高いほんとうの真珠は自制という資質のたとえとすることができるでしょう。この「終りの時」にこれはまれな資質となっているではありませんか。「無節制な者」がなんと多いことでしょう。―テモテ第二 3:1-3。

      2 自制を定義しなさい。

      2 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で自制と訳されるギリシャ語は「エグクラティア」で,これは『自己統制,自己制御。楽しみ事における節度,中庸。欲情の支配,統御』という意味です。(ジェームス・ドネガン編「新希英辞典」,1836年,423頁)「ウェブスター第三新国際辞典」によれば,自制とは「自己の制御。自分の衝動,感情,願望などを抑制すること」です。また,自制は精神的また身体的な力の平衡と安定を保ち,それらを制御することであるとも言えるでしょう。クリスチャンはこの願わしい資質をもつことができます。クリスチャンは神の聖霊を受けており,「御霊の実は……自制[エグクラティア]であ(る)」からです。(ガラテヤ 5:22,23)しかし,ほんとうの真珠を求める者が勤勉に働かねばならないと同じく,霊に満たされるクリスチャンは,この自制という真珠のように価値ある資質をつちかい,発揮するため,熱心に努力しなければなりません。

      3 自制はクリスチャン生活にどれほど大切ですか。

      3 キリストの生涯は『克己(つまり自制)のかがみ』とされています。キリストに従う者の生活において自制が少なからぬ役割を占めることは,1900年前,総督フェリクスの前に立たされた使徒パウロが,「正義,節制(エグクラティア),未来の審判などについて」論じたことに明らかです。自制はきわめて大切なので,パウロはローマ総督フェリクスの前で,特にこの点を論じたのです。―使行 24:24-27。

      4,5 (イ)この事物の制度の終わりが近づくにつれ,自制のあるクリスチャンは何に耐えることができますか。(ロ)エホバの証人が迫害下にあって自制を示した現代の例をあげなさい。

      4 自制は19世紀前のクリスチャンに重要な資質でしたが,その重要さは今日でも変わりません。この事物の制度の終わりが近づくにつれ,緊迫した,不安の時代が到来し,嘆き悲しむ人さえ多くなるでしょう。高まる緊張にあえぐ人があっても,神の霊を得て自制心をもつクリスチャンは心の平衡を保てます。自制心のあるクリスチャンは生活上の諸問題に耐えるだけでなく,激しい迫害のあらしを切り抜けることができるでしょう。クリスチャンはそのことをすでに実証しています。もとより,強い反対や激しい迫害に処するには,クリスチャンの種々の資質がそれぞれに必要です。しかし,その一つとして自制が大いに求められることは疑いありません。むずかしい事態に面して信条を容易に放棄する人は少なくありませんが,昔のクリスチャンは色々の面で自制心を示し,死に面しても動揺しませんでした。これら史上の事実についてここで証拠をあげる必要はありません。(「目ざめよ!」1962年10月8日号20,21頁,および「ものみの塔」1958年5月15日号185-187頁をごらんください)しかし現代において,自制心のあるクリスチャンが,極度の圧迫に面しても信仰を動揺させなかったことを,ここで述べましょう。

      5 プリンストン大学のエベンスタイン教授は自著「ナチス国家」の中でエホバの証人について書いています。「証人たちがその宗教上の信念のためのたたかいをあきらめなかったとき,彼らに対して恐怖の運動が開始された。それはドイツナチス主義の他の犠牲者になされたいかなる行為をもしのぐ激しいものであった……収容所内のエホバの証人に対する虐待はユダヤ人,平和主義者,共産主義者などの受けた処遇よりひどかった。これは小さな宗派であるとは言え,その一人一人は滅ぼすことはできても決して攻略することのできない要さいのように強い」。リチャード・マシソンも「神は百万長者」の中で,エホバの証人に対する迫害について書いています。「こうした迫害のすべては長く続いてきた。……そしていたずらに伝統をふりまわす者たちは,迫害されたこの少数者の不動の勇気から教訓を学べるであろう。朝鮮戦争中,安易な新教主義の産物,およびわれわれの兵学校や高等教育機関の産物は,共産主義の強圧的かつ巧みな洗脳のまえに幾十人となくくずれおちた。この問題を調査した米国国防当局はその結果に赤面した。数は少なかったが戦争捕虜として終わったエホバの証人は……共産主義への転向をはかる科学的また心理的努力に対し,一人のこらずよく耐えた。これは多くの愛国的な陸軍士官学校卒業生よりすぐれている」。強い迫害に耐えるため自制がクリスチャンに必要な資質の一つであることは明らかです。もとよりこの資質は,エホバの奉仕者としての生活の他のいろいろな面にも求められます。しかし,この価値ある真珠をどのようにして得ることができますか。

      この御霊の実をどのようにして得るか

      6,7 (イ)自制を養って示すため基本的に必要なことは何ですか。(ロ)自制を求めるクリスチャンの祈りはどんな態度のものでなければなりませんか。

      6 イエス・キリストはあるとき言われました。「あなたがたは悪い者であっても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知っているとすれば,天の父はなおさら,求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカ 11:13)強い保証のことばではりませんか。事実,エホバの霊によって自制を身につけることを熱心に祈り求めるクリスチャンは,その点で失望に終わることはありません。「何事でも神の御旨に従って願い求めるなら,神はそれを聞き入れて下さる」からです。(ヨハネ第一 5:14,15)それで,自制をつちかい,それを示すことを願うクリスチャンとして,神の霊がこの貴重な資質となって自分の中に表われることを,キリストを通じてエホバに祈らねばなりません。(ヨハネ 14:6,14)そして自制心を保つには不断の努力が求められますから,「絶えず祈りなさい」,「常に祈りなさい」,「身を慎んで,努めて祈りなさい」という勧めに従うことが必要です。(テサロニケ第一 5:17。ローマ 12:12。ペテロ第一 4:7)このすべては良い助言です。

      7 エホバの霊と自制を求めるクリスチャンの祈りに必要なのは誠実さと謙遜さです。自分の心の中に何か平静を失わせるものがあるなら,昔のダビデがしたごとくにエホバに祈るべきです。ダビデは懇願しました。「神よ,どうか,わたしを探って,わが心を知り,わたしを試みて,わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て,わたしをとこしえの道に導いてください。(詩 139:23,24)エホバの助けをこうして謙遜に,熱心に求めるなら,必ず結果を見ることができるでしょう。

      8,9 (イ)平衡を得て保つため,祈りのほかに何が必要ですか。(ロ)この点でクリスチャンの集会はどんな役目を果たしますか。

      8 しかし祈るだけでなく,自制という真珠を大切にするクリスチャンは,心の平衡を得て,それを保つため,日毎に聖書を読み,聖書を勉強しなければなりません。ヨシュアは次の忠告を受けました。「この律法の書をあなたの口から離すことなく,昼も夜もそれを思い,そのうちにしるされていることを,ことごとく守って行わなければならない。そうするならば,あなたの道は栄え,あなたは勝利を得るであろう」。(ヨシュア 1:8)こうして神の律法のことを絶えず考え,聖書の教えを自分にあてはめるなら,知恵だけでなく,心の平衡や自制を身につけられます。そしてエホバを常に自分の前におく人はよろめくことがありません。―詩 16:8。

      9 しかし,聖書の教義,律法,原則などに対する理解は自動的にもたらされるものではありません。神が人を扱うのはご自分の地上の組織を通してです。(マタイ 24:45-47)西暦33年五旬節の聖霊降臨後,キリストの追随者は人の家に集まりました。それは単に食事を共にして楽しく交際するためでなく,共にエホバを賛美するためでした。彼らが開いた会衆の集会は,信者が互いに助け,霊的に励まし合う機会になりました。(ヘブル 10:24,25。マタイ 18:20。使行 2:46,47)これは今日でも同じです。クリスチャンの集会に行くなら,自制を含め,神の霊の実をつちかうのに肝要な,霊的な教えを受けることができます。またこのような会合は,そうした資質が実際に示されるのを見る機会でもあります。

      10 クリスチャン宣教に定期的に携わることは平衡を保つのにどう役だちますか。

      10 クリスチャン宣教を定期的に行なうことも非常に大切です。それは平衡の維持に役だちます。宣教奉仕者として直面する質問や反論に巧みに処するとき,円熟性を養い,自制心をつちかうことができます。宣教で得る経験は心の平静と自己統御を保つのに役だちます。その経験とエホバの助力とを得るなら,たとえ人に挑発されても,「いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使う」ことができ,「ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかる」でしょう。―コロサイ 4:6。

      11 霊的な見方をすることはどんな助けになりますか。

      11 神のことばを勉強し,御国の事柄をつとめて追い求めることも,霊的な心を養うのに役だちます。聖書を導きとし,その教えに従うことによって生活上の問題は解決し,あるいは少なくとも軽減するでしょう。霊的な物の見方のできる人は心の平衡がとれています。その人は自制心をもち,幸福です。それで,自分の心をいつも神のお考えで満たしてください。何か問題が起きるときには,必ず聖書に従って考え,聖書の原則を適用してください。それによって,貴重な真珠とも言うべき自制心を得,それを守ることができます。―コリント第一 2:6-16。

      12,13 自制について考えるにあたり,習慣について何を言うことができますか。

      12 すべてのことに節度を守り,つとめて良い習慣をつけることも,自制を養う助けになります。クリスチャンの監督は「慎み深」い人でなければなりません。しかしそうあらねばならないのは会衆内で監督一人ではありません。パウロは述べました。「女たちも,同様に謹厳で……なければならない」。(テモテ第一 3:2,11)そしてテトスにあててこの使徒は書きました。「老人たちには謹厳で,慎み深く……あるように勧めなさい」。(テトス 2:2)それで節度と良い習慣はクリスチャンに絶対に必要です。「慎み深く」あることにつとめ,同時にその習慣がすべて良いものであることを確かめなさい。これはあなたの自制心を増進させるでしょう。

      13 しかし注意してください! 他の人があなたの平衡を失わせることがあります。あなたはいま,有益なクリスチャンの習慣を身につけているかもしれません。しかし自分の交際に気をつけねばなりません。「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」。(コリント第一 15:33)悪い仲間があなたをクリスチャンの交友から離し,世を愛する者にならせるかもしれません。このような事態を決して許してはなりません。「世と世の欲とは過ぎ去る」からです。友だちの選択にあたってはどうしても自制を発揮しなければなりません。―ヨハネ第一 2:15-17。

      14 自制を養うため,交わる人をどのように扱うべきですか。なぜ?

      14 友だちを選んだなら,その人々とどのように接しますか。自制を養うことを願っているなら,友だちと接するとき思いやりをもち,時に相手の立場に立って考えねばなりません。(マタイ 7:12)人に対してはつとめて善意をもって接しなさい。これは人を疑うこと,たとえばだれかが自分にことばをかけずに通り過ぎる場合に,自分を故意に無視したなどと考えるよりはるかにすぐれています。物事に対し平衡のとれた見方をしてください。自制を働かせ,洞察力をもってください。それは自分の益になるでしょう。「つつしみて御言をおこなう者は益をうべし,エホバにより頼むものは幸福なり」。このことを忘れてはなりません。―箴言 16:20,文語。

      15 こらしめを受けることについてどんな態度をとるべきですか。

      15 クリスチャンとして自制をさらに養うため,謙遜な態度でこらしめを受け入れることも必要です。聖書やクリスチャンの出版物を読み,そこに見出す戒めが自分に対するこらしめとなる場合もあるでしょう。あるいは,クリスチャンの監督からこらしめを受ける場合もあります。そして監督自身も必要に応じてこらしめを受けています。聖書的なこらしめ,またクリスチャンのこらしめをなぜ退けるのですか。それはすべて神から来るのです。「エホバはその愛する者をこらしめ」られるからです。(ヘブル 12:6)自制という真珠を得る方法について考えたいま,それを実際に用いた場合の価値を評価してみましょう。

      自分の気持ちと舌と考えを制御しなさい

      16 (イ)自分の気持ちを押えない人を何にたとえることができますか。(ロ)だれの気質は注目に値しますか。

      16 昔,城壁のない町,あるいは敵軍によって城壁を破られた町は全く救いようがありませんでした。しかし,自分の気持ちを制御できない人はこれと全く同じです。箴言 25章28節は述べています。「自分の心を制しない人は,城壁のない破れた城のようだ」。そのような人に真の心の平衡はありません。またその人は物事を見る力をも欠いています。箴言 19章11節は,「悟りは人に怒りを忍ばせる」と述べているからです。そのような人はキリストのことを考えるべきです。イエスはご自分について,「わたしは柔和で心のへりくだった者である」と言われました。そして柔和な者は幸福であると言われました。(マタイ 11:29; 5:5)それで,怒りを爆発させたいような気持ちになるなら,イエスのことばをよく考え,その模範にならいなさい。―ヘブル 12:1-3。

      17 不完全な人間でも自分の気持ちを押えられますか。答えの実証となるものをあげなさい。

      17 しかし,イエスは完全な人間だから気持ちを押えるのは容易だったのであって,不完全な人間の場合には事情が違うと思う人がいるかもしれません。しかしほんとうにそうですか。アブラハムとロトは心の正しい人であったとは言え,やはり不完全な人間でした。(創世 15:6。ペテロ第二 2:7)二人の家畜を飼う牧夫が激しく争うようになったとき,アブラハムとロトは何をしましたか。「アブラハムはロトに言った,『わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも,わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう』」。二人は別れましたが,「身内の者」として友好的な関係を失いませんでした。(創世 13:5-12)クリスチャンはみな霊的な兄弟ではありませんか。もちろんそうです。それではクリスチャンも,怒りの気持ちではなく,自制心をもって問題を解決すべきです。怒りの気持ちで事にあたるのはいかにも非クリスチャン的ではありませんか。

      18 気持ちを押えることについて,クリスチャンはだれの道にならい,だれの道を避けますか。

      18 怒りにまかせて暴虐に走り,結果として良い祝福を失ったヤコブのむす子,二人の肉親の兄弟のことを覚えておられるでしょう。ヤコブはむすこたちに対する臨終の祝福の中でこの二人について述べました。「シメオンとレビは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ,彼らの会議に臨むな。……彼らの怒りは,激しいゆえにのろわれ,彼らの憤りは,はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け,イスラエルのうちに散らそう」。(創世 49:5-7)ヤコブのこの乱暴なむすこたちは怒りの気持ちで過酷に行動しました。彼らは自制を欠いていました。しかしアブラハムとロトには自制がありました。クリスチャンはシメオンとレビの道を避け,アブラハムとロトの道にならうべきです。

      19 気持ちを押えないならどんな結果になりますか。それで聖書のどんな戒めに従うべきですか。

      19 気持ちをおさえないなら人との関係は傷つけられます。それは知恵がないことのしるしです。箴言 29章11節は述べています。「愚かな者は怒りをことごとく表わし,知恵ある者は静かにこれをおさえる」。昔の集合者が語ったことばは適切です。「耐え忍ぶ心は,おごり高ぶる心にまさる。気をせきたてて怒るな。怒りは愚かな者の胸に宿るからである」。(伝道 7:8,9)自己本位であるのは知恵のしるしではありません。そして,「怒りやすい者は愚かなことを行い」ます。(箴言 14:17)それで,すぐに怒りに走ってはなりません。ささいな事柄を超越しなさい。「われ悪に報いんと言ふことなかれ,エホバを待て,彼なんぢを救はん」。(箴言 20:22,文語)「柔らかい答は憤りをとどめ,激しい言葉は怒りをひきおこす」ことを心にとめて,他の人の怒りをかわす道を求めなさい。(箴言 15:1)たとえ人から腹だたしいしうちを受ける場合でも,事態を正すためはやく行動しなさい。パウロのことばに注意してください。「怒ることがあっても,罪を犯してはならない。憤ったままで,日が暮れるようであってはならない」― エペソ 4:26。マタイ 5:23,24。

      20 ヨハネは自分の兄弟を憎む者について何と述べましたか。それでクリスチャンはどのように行動すべきですか。

      20 クリスチャンは自制を失って怒ってはならず,また愛のかわりに憎悪を示したり,あるいはうらみの気持ちをいだいたりしてはなりません。(箴言 26:24-26)もしそうするなら,その人はまだやみにいます。使徒ヨハネは述べました。「兄弟を愛する者は,光におるのであって,つまずくことはない。兄弟を憎む者は,やみの中におり,やみの中を歩くのであって,自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」。(ヨハネ第一 2:9-11)どのような場所にいても,また周囲の事情がどのようであっても,自制を保つことにつとめねばなりません。たとえば家庭においては,きびしい夫,口うるさい妻,不平をいう,気のみじかい子供となってはなりません。(コロサイ 3:18-20)気持ちを制御しないなら,怒りと後悔を生む結果になります。しかし,きびしくするかわりにやさしくし,批判的であるかわりに思いやり深くし,気みじかであるかわりに柔和であるなら,神の是認を受けることができるでしょう。

      21,22 舌を押えるため聖書のどんな助言に従うべきですか。

      21 当然のことながら,気持ちを押えるためには自分の舌を押えねばなりません。ヤコブは書きました。「同じ口から,さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は,あるべきでない。泉が,甘い水と苦い水とを,同じ穴からふき出すことがあろうか。わたしの兄弟たちよ,いちじくの木がオリブの実を結び,ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も,甘い水を出すことはできない」。(ヤコブ 3:10-12)ヤコブはここで人が口で語る事柄について述べており,彼が強調している点は明らかです。クリスチャンは自分の舌を制御せねばなりません。

      22 クリスチャンの生活にひわいな話,うわさ,悪口などの占める場所はありません。パウロはエペソ人に述べました。「悪い言葉をいっさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい。……すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり,また,いっさいの悪意を捨て去りなさい」。(エペソ 4:29-31)不潔なことばを避けなさい。他の人について語るときには注意しなさい。(詩 15:1-3)うわさ話を広めるだけでなく,それに耳を貸すことも避けなさい。話は繰り返されるにつれ,しだいに尾ひれがついてゆきます。こうしてうわさ話はやがて人に対する悪口となりかねません。イスラエル人はこうした悪口を言うことについて戒められていました。「民のうちを行き巡って,人の悪口を言いふらしてはならない」。(レビ 19:16)こうした戒めに注意を払ってください。こうして自分の舌をおさえねばなりません。

      23 クリスチャンはどのように自分の考えを制御できますか。どんな考えは捨てるべきですか。

      23 しかしうわさ,悪口,ひわいな話などを避けるとすれば,自分の考えも制御しなければなりません。それで,みだらで不潔な事柄が心にうかぶなら,自制を働かさねばなりません。正しいこと,清いこと,愛すべきこと,ほまれあること,徳のあること,そして称賛に価することを心におき,こうした事柄について考えなさい。(ピリピ 4:8,9)自制心を増し加えてくださるようエホバに祈りなさい。このためには物質主義的な考えとわずらいを心から去らせねばなりません。イエスの言われたとおり,「たといたくさんの物を持っていても,人のいのちは,持ち物にはよらない」のです。(ルカ 12:15)それゆえ,なぜ心配するのですか。エホバは飲食また身につける物について,わたしたちに何が必要かをご存じです。キリストは賢明にも言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。(マタイ 6:25-34)すぐれた忠告ではありませんか。自制を働かせながらこれに従いなさい。そのとき,あなたは真に幸福になるでしょう。

      食べること,飲むこと,レクリエイションに自制を示しなさい

      24 (イ)むさぼりまでいかなくても,食べすぎがどんな結果になることがありますか。(ロ)飲酒に自制しないことからどんな結果の生まれることがありますか。

      24 飲食物を得ることに必要以上に心を用いてはなりませんが,それを得た場合にも自制を示さねばなりません。箴言 23章20,21節はこう戒めています。「酒にふけり,肉をたしなむ者[むさぼりくらう者,新世訳]と交わってはならない。酒にふける者と,肉をたしなむ者[むさぼりくらう者,新世訳]とは貧しくなり,眠りをむさぼる者は,ぼろを身にまとうようになる」。もとより,人はあからさまなむさぼりとなるほどに物を食べないかもしれません。しかし食べ過ぎが,怠惰で実のない宣教となり,クリスチャンの集会における眠気となることがあります。それで,食べることについて自制を働かせなさい。そして,決して酒に酔ってはなりません。酒に酔うのは人の品性をおとすことです。さらに,クリスチャンが酒に酔うなら,人をつまずかせ,エホバの組織に非難をもたらす結果にもなるでしょう。酔酒は人の全生涯を容易に滅ぼします。習慣的で,悔い改めのない酔酒者はクリスチャン会衆から排斥されなければならないからです。自制の欠如がきびしい結果となってかえって来るではありませんか!―コリント第一 6:9,10。

      25 レクリエイションを求める場合に,クリスチャンは何を忘れてはなりませんか。

      25 くつろぐ場合でも,神を喜ばせようとするなら,クリスチャンは自制を忘れてはなりません。レクリエイションを楽しむにも節度が必要です。たとえばスポーツをする場合には,その正しいありかたを忘れてはなりません。パウロはこう書きました。「からだの訓練は少しは益するところがあるが,信心は,今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので,万事に益となる」。(テモテ第一 4:8)真のクリスチャンはレクリエイションを求める場合でも,堕落した肉の不完全な傾向を押え,自分を高揚させる楽しみを選びます。しかし真のクリスチャンは夜ふかしをしないようにも注意します。夜ふかしは健康をそこなうだけでなく,宣教を効果的に行なうことの妨げとなるでしょう。それでクリスチャンは,たとえば土曜日の晩には早く床につき,日曜の朝に新鮮な気持ちで宣教を行なえるようにします。レクリエイションのためにむやみに精力を浪費するのは愚かです。それは自制の欠如であり,レクリエイションの目的を逸しています。賢く行動しなさい。節度を守り,生活のこの面にも自制を示しなさい。

      26 自制を得,示そうとする努力に価値があることを述べなさい。

      26 それで,美しくまれな天然真珠と同じく,自制は誠実な努力なくしては得ることも向上させることもできません。しかし,これを得,発揮しようと懸命に努力することには価値があります。その価値と大切さを考えてごらんなさい。この終わりの時代に自制を養い,発揮するなら,エホバを喜ばすことができます。そして,エホバに忠実を保つなら,今日だけでなく,エホバの約束される新秩序においてもエホバの祝福を受けて幸福になるでしょう。(ペテロ第二 3:11-13)事実,エホバの賛美と御国の福音の伝道のために果たすべきことの非常に多い今日,自制はクリスチャンの進歩に肝要な資質です。

  • 自制は進歩に肝要
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 自制は進歩に肝要

      「あなたがたの信仰に……節制を……加えなさい」― ペテロ第二 1:5,6。

      1,2 (イ)古代ギリシャの運動家にはどんな鍛練が要求されましたか。(ロ)運動家とクリスチャンの双方にどんな資質が特に必要ですか。パウロはそのことをどのように述べていますか。

      「オリンピアの競技で賞を得たいか ― では,そのために必要なことを考えてみたまえ。まず厳重な摂生が必要である。君は自分のきらいな物を食べ,おいしい物をすべて断ち,暑い時にも寒い時にも定められた通りに必要な鍛練をしなければならない。そして冷たい飲み物をいっさい避け,これまでのように酒を飲んではならない。ひと言で言えば,君は医師の指図に従うかのように,拳闘家の指図に従い,かくしてのち試合場に臨むのである。ここで君は腕を折られ,足の関節をはずされ,砂ぼこりを口いっぱいにのみ,多くの傷を受け,あげくのはてに打ち負かされるかもしれない」。ギリシャの哲人エピクテトスによれば,古代ギリシャの運動家にはこのようなことが要求されました。彼らに安逸な生活はありませんでした。こうした運動家,特に競走者は名誉と巧ちる栄冠のためにきびしい努力をしました。オリンピアの競技会で勝利者に与えられたのは野生のオリーブの枝で作った冠であり,ピシアの競技会では月桂樹の冠,コリントの近くで行なわれたイシミア競技会では松の枝で作った環が与えられました。運動家の生活には幾多の苦しみがありました。そして要求された資質の一つとして,まちがいなく自制があったことでしょう。このすべては巧ち果てる冠と,せいぜい自分の栄光を求めるむなしい目的のためでした。

      2 使徒パウロは,聖書の一部となったコリント会衆あての最初の手紙の中で,古代の競技をたとえに使い,クリスチャンに自制の必要なことを述べています。パウロはキリストに従う人を競技をする走者にたとえました。「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は,みな走りはするが,賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも賞を得るように走りなさい。しかし,すべて競技をする者は,何ごとにも節制をする」。明らかにパウロ自らは自制を働かせていました。このことばを続けているからです。「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが,わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで,わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず,空を打つような拳闘はしない。すなわち,自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない」。(コリント第一 9:24-27)確かにクリスチャンは競技をする走者に似ています。そして走者は自分を鍛練しなければならず。習慣や練習において移り気であったり,節度を欠いたりしてはなりません。競走者にとって,自制は勝利のために肝要です。

      3 自制の面でクリスチャンはなぜ天をあおぎ見ることができますか。

      3 パウロおよびパウロが手紙を送ったコリントの信者は男も女もみな競走の走者であり,その競走はいかなる競技会のものより重要でした。そして彼らにとって勝利が意味したものは,やがてしぼむ冠ではなく,使徒ヨハネがのちに黙示録 2章10節で書いた「いのちの冠」でした。このすばらしい賞を得るため,これらのクリスチャンは自制しなければなりませんでした。そして彼らはみな,この面において天をあおぎ見ることができました。なぜ? なぜなら,真のクリスチャンにご自分の聖霊を注がれるエホバ神は,実際に自制を示すという点で至上の模範を示しておられるからです。「わたしは……おのれをおさえていた」。これはイザヤを通して語られたエホバのことばです。(イザヤ 42:14)もとより,神はやがてご自分が敵対者より強いことを示されますが神がご自分の完全な自制を失われることはありません。(イザヤ 42:13)エホバの主要な属性である愛と力と正義と知恵は常に完全な平衡を保っています。(ヨハネ第一 4:8,16。詩 62:11。申命 32:4。ヨブ 12:13)理知に限りのある人間は必ずしも神のみわざを理解しませんが,エホバはまさに自制を示すことの典型であられます。―ダニエル 4:34,35。イザヤ 55:8,9。

      4 クリスチャンの自制がある人とない人を比べなさい。

      4 しかしなぜ自制をそれほど重視するのですか。次のことを考えてください。この資質をもたない人は何か問題に面するとき,確かで安定した行動をとれないことがあります。そして人々は極端な傾向のある人の助言をあまり信頼しません。それでクリスチャン奉仕者は,「あなたがたの寛容[分別,新世訳]を,みんなの人に示しなさい。主は近い」とのすすめに従わねばなりません。周囲の人々すべてに分別を示しているクリスチャン,すなわち「慎み深く,正しく,信心深くこの世で」生活する人は,円熟した,信頼できる人とみなされ,確かな神のことばに基づくその助言は信頼されるでしょう。(ピリピ 4:5。テトス 2:11,12)そのような自制心をもつ人にはクリスチャン会衆内の責任をゆだねることができます。他方,十分に自制のない人は種々の問題を起こし,節度を欠いた行動に対してこらしめを受けねばならないでしょう。それで,自制を養い,自制を働かせることはすべてのクリスチャンの務めです。しかし,この資質をもつクリスチャンはどんな進歩を見ることができますか。

      自制する人は進歩する

      5 テトスはどんな人を任命すべきでしたか。その人々は特にどんな資質を示すべきでしたか。

      5 西暦第1世紀に,使徒パウロはテトスをクレテに残しました。それは彼が,「欠けたる所を正し,かつ……町々に長老を立て」るためでした。(テトス 1:5,文語)そのような立場で奉仕する者として,求められたのは自制のある人です。パウロは書きました。「監督たる者は,神に仕える者として,責められる点がなく,わがままでなく,軽々しく怒らず,酒を好まず,乱暴でなく,利をむさぼらず,かえって,旅人をもてなし,善を愛し,慎み深く,正しく,信仰深く,自制する者……でなければならない」。(テトス 1:7,8)このような人はどんなことにも極端になりません。また,わがままでありません。このような人が酒に酔い,あたりを騒がせていることはないでしょう。また,人を打ったりしません。彼が自分を制御することは,「利をむさぼら」ないことにも表われています。仲間の信者が信頼を寄せる監督は「善を愛」する人でなければなりません。そして人をよくもてなし,「慎み深」くあるべきです。彼に特に求められるのは自制です。自制心があれば,性急で,非クリスチャン的な態度や行動を避けることができます。

      6 自制心のあるクリスチャン男子が多く求められているのはなぜですか。それでクリスチャン男子は何をすべきですか。

      6 しかし,クレテは大海つまり地中海の小島にすぎませんでした。福音は「世界中のいたる所で……実を結んで成長して」いました。それはもはやユダヤ人に限られず,諸国の民,かつて神から離れていた異邦人にも達していました。(コロサイ 1:5,6,21-23)クリスチャンの福音宣教者が新しい土地にはいるにつれ,自制心のある円熟した人がますます必要になりました。新しい会衆が作られたからです。そしてこの必要は今日はるかに大きくなっています。設立された神の国の福音は全地に伝えられています。それで,神の霊によって自制し,平衡のとれたクリスチャン生活を送るクリスチャン監督や補佐のしもべは,今日非常に多く求められています。エホバの地上の組織が拡大と成長を続けるにつれ,この必要はさらに大きくなるでしょう。それで,クリスチャンの男子は自制をはじめ,神の霊の実を養うことにつとめねばなりません。自制心のある円熟したクリスチャン男子には,新たに設立される会衆で監督また補佐のしもべとして奉仕する特権を含め,進歩の機会が開かれているのです。

      7 監督とクリスチャン会衆内の他のしもべはなぜ自制をもつべきですか。

      7 クレテのみならず,どこの土地のクリスチャン監督も,「自制する者であり,教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければ」なりませんでした。なぜ?「それは,彼が健全な教によって人をさとし,また,反対者の誤りを指摘することができるため」でした。(テトス 1:8,9)監督は健全な教えとさとしを与えるため,神のことばを正確に理解していなければなりません。ときにクリチャンは容易ならぬ問題に面し,その重大な問題の慎重な検討のために,だれかの助けが必要になることがあります。その人は会衆の監督など円熟した兄弟に相談するでしょう。その場合に大切なのは,相談する人が聖書に基づく健全な助言を受けることです。それで,監督と会衆内の他のしもべには自制が求められます。彼らは感傷や心を曇らす他の感情に動かされてはなりません。彼らのことばによって貴重な命の左右される場合があるからです。監督の任につく者は,助言と援助を求められる場合に,聖書の律法と原則を考え,それらを質問者に指摘すべきです。質問者はこれに基づいて自ら決定を下さねばなりません。(ガラテヤ 6:5)それで,聖書の律法や原則が関係する問題であれば,監督は問題を聖書的な観点から見なければなりません。事態がむずかしく,周囲の圧力が強い場合でも,監督は自制を欠いたことばを出さぬように注意せねばなりません。

      8 個人的な決定や大切な約束に先だって何をすべきですか。

      8 クリスチャンは問題をいつでも会衆の監督に相談しなければならないわけではありません。エホバへの祈りに加えて,自ら聖書を調べることにより,自分で解決できる場合もあります。しかし,何か重大な問題を決定する場合には,自制を忘れてはなりません。性急な傾向,または僭越な態度はいっさい避けるべきです。決定がどれだけ重大で,事情がどれほどむずかしくても,自分を制御することを忘れてはなりません。行動する前に,あるいはことばを出す前に,考えなさい。「軽々しく『これは聖なるささげ物だ』と言い,また誓いを立てて後に考えることは,その人のわなとなる」からです。(箴言 20:25)結論を出す前に,あるいは大切な約束をする前に,よく考え,神に祈るべきです。(伝道 5:2-5)自分自身のさとりに頼ってはなりません。みことばにあるエホバの戒めを思い出し,それに従って行動しなさい。次のことを忘れてはなりません。「エホバの法はまたくしてたましひをいきかへらしめ エホバのあかしはかたくして愚なるものをさとからしむ」― 詩 19:7,文語。箴言 3:1-6。

      排斥の問題をとりあげる会衆委員

      9 あやまちをした人を立ち直らせようとする監督および会衆の委員は何に警戒すべきですか。

      9 もとより,クリスチャン会衆内に起きる問題はさまざまに異なります。それで,直接に助力を求められた場合でなくても,監督が何らかの面であやまちをした人を立ち直らせるために努力することもあります。事実,会衆の委員は問題の処理を求められるかもしれません。使徒パウロは,「反対者の誤りを指摘すること」のできる人を任命するようにテトスに命じました。(テトス 1:9)自制を欠いた,心の不安定な人にこのことはできないでしょう。それで,監督と会衆の委員全体はこの堅実な資質をもたねばなりません。パウロはガラテヤ人に述べました。「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら,霊の人であるあなたがたは,柔和な心をもって,その人を正しなさい。それと同時に,もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと,反省しなさい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば,あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。(ガラテヤ 6:1,2)興奮した感情的な判断や,無制御な思慮のないことばを出してはなりません。霊的な資質を備える人は,過激なことばや行動に走る不完全な人間の傾向に屈してはなりません。そのような傾向に屈するなら,真の霊的な助けをさしのべることができません。

      10 (イ)何をするため委員には自制が求められますか。(ロ)はなはだしい悪行に対して悔い改めがないとき,委員はどんな処置をとるべきですか。悔い改めの示されるとき何をしますか。

      10 感情でなく原則に基づいて行動するため,会衆の委員に自制の求められることは確かです。献身したクリスチャンが懲戒に価する罪を犯し,その悪行を誠実に悔いているなら,その悔い改めを無視してはなりません。しかし,クリスチャン会衆の福祉と清潔さを左右する決定の場合に,感傷が聖書の原則を押しのけることは許されません。はなはだしい悪行を犯しながら,それに対する悔い改めの全く欠けている場合があります。この場合には悪行者の排斥が必要になります。昔のコリント会衆の責任ある人々は,パウロの霊感の助言に従い,近親相姦的な非行を行なった者を会衆から放逐するだけの勇気を示しました。こうして会衆に霊的な害が及ぶのを防いだのです。真実の悔い改めが示された場合にのみ,その悪行者を許し,その者への愛を堅くすることができました。(コリント第一 5章。コリント第二 2:1-12)今日の会衆の委員はつとめて自らを制し,愛とやさしさの必要な場合には過酷さを避け,確固とした態度と決断の重要な場合には弱さと不決断とを避けねばなりません。

      婦人その他にも自制は肝要

      11 自制するクリスチャンの妻はどんなものになれますか。どんなことから守られますか。

      11 個人および会衆の問題を正しく解決するために自制が必要なことは確かです。また,クリスチャン男子はこのすぐれた資質を働かせるとき,自分の特権を増し加えます。しかし,自制は進歩を願うクリスチャンすべてがもつべきものです。この資質を備える敬虔な婦人は会衆の貴重な資産です。クリスチャン婦人が自制を働かせることの益はまず家庭に表われるでしょう。自制心のある有能なクリスチャンの妻はことばにおいても行ないにおいても良い模範となります。そうしたクリスチャン婦人は次のことばに述べられる良い女に似ていても,そこに描かれる悪い女とはかけ離れています。「賢い妻はその夫の冠である,恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである」。(箴言 12:4)家事と子供の世話を果たし,心に神の国の事を考えるクリスチャンの妻また母親は,自制のない怠惰な女たちの求める事柄にまとわれません。彼女はそうした女たちと異なり,他人の事に口を出さず,うわさ話にふけったり,不身持ちに落ち込んだりすることがありません。むしろ彼女は良い活動に忙しく携わり,かくして夫と子供,および接する人すべてに祝福となります。―テモテ第一 2:15; 5:11-15。

      12 自制を働かせるクリスチャン婦人はどのように宣教を拡大できますか。

      12 自制を働かせるクリスチャン婦人は宣教を拡大することもできます。彼女は監督の指示,および個人的な援助と訓練のための会衆の取りきめに従い,伝道活動において他の婦人を助ける特権を与えられるかもしれません。しかし,献身した婦人が自制を欠き,服装や行状においていつも極端であるなら,他の婦人を宣教の面で助けるためにその人が用いられることはありません。(テモテ第一 2:9,10。ペテロ第一 3:3,4)もし彼女が会衆内の他の婦人と,おそらくはささいな問題で言い争うなら,そこで示されているのはどんな模範ですか。良い模範ではありません。それで,進歩して円熟し,宣教奉仕で他の人を助ける特権の立場に立ってエホバのほまれとなることを願うクリスチャン婦人は,自制を養い,自制を働かさねばなりません。

      13 自制のある年配のクリスチャンは他の人をどのように助けられますか。

      13 ところで,クリスチャン会衆内の年配者はどうですか。年配の人々も自制をもたねばなりません。そして自制をもつなら,年配の人々も他の人を助けることができるでしょう。老齢のクリスチャンがもつ,神の奉仕における多年の経験と,それに伴う恩恵とを考えてごらんなさい。多年にわたりエホバに忠実に仕えてきた人の多くが,若い人々や経験の少ないクリスチャンから助力を求められることがあるのは当然です。問題の決定はいつでも本人が行なうべきですが,献身した年配のエホバのしもべは自分の経験を話し,聖書の原則に注意を向けさせることによって,質問者を大いに助けることができるのです。

      14 (イ)新世社会内の老齢者と交わることはなぜ楽しみですか。(ロ)以前に行なったほどエホバへの奉仕をできない老齢のクリスチャンでも,伝道の進歩にどのように貢献できますか。

      14 しかし,年が進むにつれ,健康や気力の衰えが問題を生むこともあります。それで年配のクリスチャンは,自分の障害をかかえながらも喜びを失わぬため,自制をつちかわねばなりません。この事物の制度には怒りやすく,気むずかしい老人をよく見かけるではありませんか。そうした人と接することは少しも楽しくありません。しかしエホバの証人の新世社会内の年をとった人々は,自制をつちかい,つとめて自制を働かせており,そうした人々と語り合い,共に宣教に携わるのは楽しみです。そうした人の中には,以前と同じほどにエホバの奉仕に携われない人もいます。しかし,自制を働かせることによって霊の思いをいっそう深くし,その確固とした態度と模範的な行ないによって,無言のうちに,若い人々をクリスチャン活動に鼓舞することができるのです。「ものみの塔」誌にのせられる年配のエホバの証人の体験は多くの人にとって真に励みとなっています。確かに,老齢のクリスチャンは,御国の福音の伝道の進歩のために,多くの面ですぐれた貢献をしているのです。―箴言 16:31。

      15 クリスチャンの子供が自制を働かせるならどんな結果が得られますか。

      15 ところであなたがた,年少の皆さんはいかがですか。あなたがたも自制を働かせるなら,ご両親を喜ばせることができます。この邪悪な事物の制度には,自制を欠いて愚かに行動し,親たちを困らせる子供が多くいます。そうした子供はほんとうに愚かです。そうした子供をまねたいと思う者はいません。箴言 17章25節は述べています。「愚かな子はその父の憂いである。またこれを産んだ母の痛みである」。他方,クリスチャンの若者として自制を養うなら,エホバと親と他の人々の是認を得ることができるでしょう。あなたがどのように行動するかということには大きな意味があります。「幼な子でさえも,その行いによって自らを示し,そのすることの清いか正しいかを現す」からです。(箴言 20:11)若くても自制のあるクリスチャンであれば,あなたは家庭においていろいろな責任や特権をゆだねられるでしょう。つとめを忠実に果たして信頼にこたえるなら,会衆の集会の場所である御国会館においても,清掃その他の仕事を助けることができるでしょう。自制をつちかうことは自分の能力を高めることにもなります。それで若い皆さんにとっても,自制はクリスチャンとしての進歩に肝要です。

      自制を働かせて進歩を続けなさい

      16 自制を養い,自制を働かせることが,どのクリスチャンにも益になることを説明しなさい。

      16 それで,自制を養い,自制を働かせることが,どのクリスチャンにも益となることは明らかです。自制することにより,献身した神のしもべすべては自分の宣教を改善し,エホバに対する奉仕と崇拝の質を向上させることができます。クリスチャンが自制を働かせるべき理由は多くあります。エホバの聖霊のこの実を表わす円熟した人々は,神の地上の組織の一致と進歩に貢献します。その人々は問題を起こさず,クリスチャン会衆内に分裂を起こすような行動をしません。また,自制を欠く人に大きな務めはゆだねられませんが,この資質をもつ人であれば,あなたはその務めを果たせるでしょう。何かを決定しなければならない場合でも,あなたは平衡のとれた見方をする人として信頼されるでしょう。こうしてあなたは宣教を拡大し,増し加わる喜びと祝福を刈り取ることができるのです。

      17 自制は今日のクリスチャンの進歩に肝要ですがそれを示すべきもう一つの理由は何ですか。

      17 しかし,自制はクリスチャンの進歩に肝要であるだけではありません。実際には,自制は神の約束される新秩序で命を得るために欠くことのできないものです。パウロは書きました。「競技をするにしても,規定に従って競技をしなければ,栄冠は得られない」。(テモテ第二 2:5)エホバの是認と永遠の命を得るため,わたしたちはエホバのご要求にそい,エホバの定めに従わねばなりません。それで,「わたしたちは……いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。(ヘブル 12:1,2)イエスの歩まれた道にならいなさい。イエスは自制を示されました。キリストに従うことを自称しながら,あえて自制を働かさない者は,永遠の命の競走で賞を得られないでしょう。そのような者が勝利を望めないのは,鍛練の価値を軽く見,自制しない昔の運動家が勝利者になれなかったのと同じです。もとより,クリスチャンは他の人をさばくことができず,またさばくべきでありません。(ローマ 14:4)しかし,エホバが「人をそれぞれのしわざに応じて,公平にさば」かれることを忘れてはなりません。(ペテロ第一 1:17)それで,クリスチャン各自は自制を含むエホバの霊の実をつちかい,示すことのために,熱心に努力すべきではありませんか。それには命がかかっているのです。

      18 今でもクリスチャンは何を確かめることができますか。

      18 今でもクリスチャンは自分が命の賞を得るような走り方をしているかどうかを確かめることができます。当時のいかなる運動家をもしのぐ刻苦に耐えたパウロは,自分の地上における生涯の晩年にこのように言うことができました。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく,主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。(テモテ第二 4:7,8)使徒パウロは,自分がクリスチャンの競争を忠実に走り通したこと,および「義の冠」を受けることをすでに確信していました。この「義の冠」はパウロおよび死に至るまで忠実であった,霊によって生まれた他のクリスチャンに今すでに与えられているでしょう。しかし,希望が天のものであると地上のものであるとにかかわりなく,あなたはつとめて自制を働かせ,いまエホバの是認を得,前途に永遠の命を確信できるような走り方をしていなければなりません。

      19 「あなたがたの信仰に……節制を……加えなさい」ということばはなぜ適切ですか。

      19 それゆえ,自制を示すことを決意しなさい。エホバの地上の組織の貴重な資産となりなさい。年配者であっても,まだ比較的に若くても,あるいは子供であってもこのことをつとめなさい。もとより,自制を得てそれを保つことには努力,時に大きな努力が必要です。しかし,それはあなたがたのクリスチャンとしての進歩に肝要です。さらに,それによってあなたの命が左右される場合もあるのです。それで,「信仰に徳を加え,徳に知識を,知識に節制を……加えなさい」ということばにはもっともな理由があるのです。―ペテロ第二 1:5,6。

  • 人類を悩ます者を除去する
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 人類を悩ます者を除去する

      1 経済状態の悪化や戦争の勃発に対して,たいてい責めを負わされるのはだれですか。

      政府が変わり,投票によって選ばれた為政者がその職につく時,それを支持する人々は事態の改善されることを望みます。このようなことは,まれではありません。しかし暫らくすると不満が出はじめ,政府の支持者でさえも,望ましくない事態が起きていることに対して政府を責めます。それは悪化する経済状態,失業,戦争のためかもしれず,一部のグループが不公正な待遇を受け,公民権を与えられていないということが問題かもしれません。

      2 世界情勢に対してひとりの支配者あるいは政治家の一グループを責めるのは,正しいことですか。

      2 だれでも一部の政治家の腐敗に気づいています。そして事態のいくらかは,公職にある政治家の腐敗が原因となっています。しかしまただれでも認めているように,多くの悪い事態を直すことは,たとえどれほど誠実で,政治をよくすることと公益をすすめることに熱心な人であっても,ひとりの手には負えません。災いの原因をひとりの人に帰することも不可能です。物事を動かす力は事物の制度にあります。物事は互いに関連し,利害が復雑にからみ合っているので,ひとりの人あるいは誠実な人のグループでもこれを正すことは不可能です。

      3 事態を正すには,まず何が必要ですか。

      3 そのわけで聖書の示すところによれば,事物の制度全体,まず偽りの宗教制度,つづいて政治,商業制度が完全に一掃されます。しかし次のような疑問が出るかもしれません。それがどんな役にたつだろうか。過去の歴史が示しているように,人間はふたたび始めて,同じことをくり返すのではないか。

      真の妨害者

      4 (イ)戦争やその種の争いを不可避のものと考える人は,何を見落としていますか。(ロ)今日,人々は何を恐れていますか。争いの真の原因はなんですか。ゆえに何が必要ですか。

      4 これはもっともな疑問です。しかしその答えがないわけではありません。このような問いは,一つの重要なこと,すなわち大多数の人が平和を望んでいるにもかかわらず,世界が現在のような道を進んでいる原因を見落としています。真の原因は目に見えない,しかしきわめて強力な,影響力の大きい者の手にあるのです。現在のように唯物的な世の中においてさえ,人々は見えない敵におびやかされているのを感じています。宇宙にほかの生物がいて人間を監視しているのではないかといった事が,なかば信じられ,世界各地で見られた不思議な空飛ぶ円盤つまり「正体不明の飛行物体」が恐れられています。しかし地上の災いの真の原因はもっと危険で陰険な,そして全く目に見えないものです。聖書はこの者が「この世の神」また「この世の君」であることを述べています。イエスは,この者がイエスに対してなんの権威もなく,イエスによって追い出されると語りました。(コリント第二 4:4。ヨハネ 12:31; 14:30)それはほかならぬサタン悪魔であって,サタンは全世界の人々を惑わしています。(黙示 12:9)ゆえに絶え間のない地上の災いから解放されるには,事物の制度のみならず,その支配者の働きを封じなければなりません。

      まず,地上の戦い

      5 (イ)地上の悪の事物の制度は,どんな順序で一掃されますか。(ロ)だれの間に宇宙主権の論争がありますか。ゆえに神は何を目的とされましたか。

      5 本誌の前号においては,ハルマゲドンの戦いについて述べました。政治支配者が偽りの宗教を滅ぼしたのちに始まるこの戦いによって,こんどは政治組織が一掃され,人間の主権を永続させようとして政治組織にいつまでも未練を残す人々もともに滅びるでしょう。龍は,地の政治組織を表わす「獣」に権威を与えましたが(黙示 13:2),ハルマゲドンの戦いの時,「獣」を支援してそれを救うことはできません。エホバとサタンとの間における宇宙主権の論争にかんがみ,神はサタンの地上のすえがことごとく滅びるのをサタンに見せ,次にサタンみずからも神の天の軍勢の司令官と真正面から衝突することを知るようにされます。サタンの地上の「すえ」は,サタンがかしらを砕かれる前に滅びます。―創世 3:15。

      6 (イ)サタンの見える政治組織の滅びは,何をしるしづけるものですか。(ロ)どんな大きなわざが残されていますか。

      6 西暦1914年に異邦人の時が終了するとともに始まった「終りの時」は,サタンの見える政治組織の滅びとともに終わりを告げます。(ダニエル 12:1,4。ルカ 21:24)宇宙を清めるためにその後必要なのは,サタンと悪霊の活動を封ずることだけです。これは天のわざであり,したがって清めるわざの中でも最大の部分を成すことは疑いありません。それは行なわれますか。

      7 (イ)サタンとその悪霊の活動が,天の正義の軍勢によって封ぜられることは,どうしてわかりますか。(ロ)龍とその悪霊どもは,天に近づくことができなくなって以来,何をしてきましたか。

      7 さて,メシヤの国が天に建てられた1914年,即位した王はまず神の敵に対する戦いを始め,サタンと悪霊を地に追い落として天を清めました。ミカエルすなわち天のイエス・キリストにひきいられた天使の軍勢は勝利を収めたのです。その時以来,怒り狂う龍と悪霊どもは,「女の残りの子ら,すなわち,神の戒めを守り,イエスのあかしを持っている者たちに対して,戦いをいどむ」ことをもっぱらにしてきました。これら目に見えない神の敵はもはや天に近づくことができないゆえに,その攻撃は集中的になり,激しさを加えています。―黙示 12:3-17。

      8 (イ)イエス・キリストは,御国の権威を得て以来,何をしてこられましたか。(ロ)サタンはだれを苦しめてきましたか。その目的は首尾よく成し遂げられますか。

      8 1914年,イエス・キリストは神の右に待機する1900年の期間を終え,長く約束されていた御国の権威を授けられました。敵のただ中で治めはじめたイエスは,まず悪霊を天から追い落としましたが,こんどは龍のすえである,見える地上の者たちをことごとく滅ぼすでしょう。(詩 110:1-6。黙示 6:2)これらの敵は,天においてイエス・キリストとともに王となる14万4000人のうち,なお地上に残る者たちを苦しめ,さらに女のすえの宣べる御国の福音に耳を傾けて御国の宣明にみずからも加わった,そして即位した王をたたえる大群衆を苦しめてきました。しかしハルマゲドンの戦いの終わりに至るまで,サタンは彼らを滅ぼす力を持っていません。ハルマゲドン後には,これらの忠実な人々をおびやかす者は存在しません。―黙示 7:9,10,15。

      最後に,天の力によって束縛される

      9 聖書はハルマゲドンの直後に何が起こることを描いていますか。

      9 しかしサタンとその見えない悪霊が戦いをいどむのを放置するならば,その人々は危険にさらされることになります。そこでヨハネの見た幻は次の処置がとられることを描いています。「またわたしが見ていると,ひとりの御使が,底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って,天から降りてきた。彼は,悪魔でありサタンである龍,すなわち,かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき,そして,底知れぬ所に投げ込み,入口を閉じてその上に封印し,千年の期間が終るまで,諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後,しばらくの間だけ解放されることになっていた」― 黙示 20:1-3。

      10 サタンを縛るのは,どの天使にもできることですか。答えの理由を述べなさい。

      10 ここに名をあげられていませんが,底知れぬ所のかぎを持ち,天から下って悪魔を束縛する御使いはだれですか。ひとりで悪魔を束縛するこの天使は非常な力を持っているに違いありません。力の強い者と戦って殺すよりも,縛るほうが難事です。この天使の正体を知ることにしましょう。それはわたしたちの理解にとって大切なことです。

      11 だれがサタンを束縛しますか。答えの理由を述べなさい。

      11 サタンの目の前でその地上のすえがことごとく潰えたのち,創世記 3章15節の預言のあとの部分が成就しなければなりません。すなわちサタンのかしらが砕かれます。砕く者はだれですか。預言によればそれは女のすえです。そのことにすぐ先だつ戦い,つまりハルマゲドンにおいて,エホバの天使の軍勢をひきい,獣とにせ預言者を滅ぼして,王たち,将校たちのからだを空の鳥の餌食にならせるのは,王の王,主の主イエス・キリストにほかなりません。(黙示 19:11-21)それより先,1914年から1918年にかけてサタンと悪霊を天から追い落としたのも,この同じ天使長ミカエルでした。ゆえに強大な力を要するこの重要なわざをする者が神の御子イエス・キリストにほかならないと考えるのは,全く当を得ています。

      妨害者が入れられる場所

      12 (イ)悪霊もそのかしらサタンとともに敗れますか。説明しなさい。(ロ)聖書の示すところによれば,サタンを捕えて悪霊とともに底知れぬ所に閉じ込めるのはだれですか。

      12 悪霊のことは黙示録の幻のこの箇所に出ていませんが,彼らもかしらサタンとともに敗れるのですか。そうです。将軍の敗北を述べて,その麾下にある全軍の敗北を自明のこととする習慣と,それは一致しています。イエスが人間となって地上におられた時,悪霊は底知れぬ所に落とされないよう,イエスに願いました。(ルカ 8:31)イエスは「底知れぬ所の穴を開くかぎ」を持つ星と呼ばれています。(黙示 9:1)イエスご自身,死なれた時,底知れぬ所に行かれましたが,3日目に父エホバ神によみがえらされ,死と黄泉とのかぎを与えられました。(黙示 1:18。ローマ 10:7)したがってすべての証拠に照らしてみると,サタンを捕え,悪霊もろとも底知れぬ所に投げ込んでそこに閉じ込め,封印し,「千年の期間が終るまで,諸国民を惑わすことがないように」するのは,エホバに用いられるイエスの働きです。イエス・キリストはあらゆる天使の中で最も強力な天使長ミカエルです。―ダニエル 12:1。ユダ 9。テサロニケ第一 4:16。ルカ 11:20-22。

      13 サタンと悪霊が黄泉や陰府ではなくて底知れぬ所に投げ込まれるのはなぜですか。そこでは彼らはどんな状態におかれますか。

      13 神の使い,すなわち天使イエス・キリストがサタンを投げ込むのは陰府や黄泉ではなくて,底知れぬ所です。それはなぜですか。陰府また黄泉は死んだ人間に共通の墓で,地の中にあるものだからです。サタンと悪霊は目に見える地的なものではなく,性質の異なるもの,つまり霊者です。したがってこれを捕えて底知れぬ所に投げ込むことは,全能の神の大いなる日の戦いを生き残った人々の目には見えません。目に見えないこれらの霊者はすでに天を追われていますが,地上の人間の中でこの霊界の出来事を見た者はひとりもいません。底知れぬ所にいた時のイエスは死んで無意識であり,無活動でした。底知れぬ所に入れられたサタンと悪霊もおそらく無意識であって死のような状態におかれ,人類を妨害することも,諸国民を惑わして現在みられるような圧制的な制度にふたたび隷属させることもできません。

      千年にわたる再建の時期

      14 (イ)時の流れの中でわたしたちはどんな位置を占めていますか。(ロ)神の安息の日とキリストの千年統治とはどんな関係にありますか。

      14 聖書の時の記録によれば,人間が地上に現われてから6000年近く経ちました。アダムの創造は紀元前4026年のことで,したがって人類の歴史の6000年は,西暦1975年の秋ごろに終わります。わたしたちは,7000年にわたる神の大安息の日に生存しています。この安息の日は,神がアダムとエバの創造後,休まれた時にはじまりました。ゆえにこの日のうち,1000年が残されていることになります。サタンと悪霊に悩まされることがなくなって,人類はそのとき真の安息の時を迎えることでしょう。ある意味において,それは安息の日の中に含まれた安息の時です。7000年にわたる神の偉大な安息の最後の1000年間は,人の子がその主となる特別な安息の日です。―マタイ 12:8。

      15 (イ)千年期の終わりにサタンが解き放された時の試練に耐え得るようにするため,人類には何が必要ですか。(ロ)キリストの千年統治の間,どんなわざが行なわれますか。だれがそれをしますか。

      15 サタンと悪霊は「しばらくの間だけ」解放されることになっていますから,安息の千年期の終わりまでに,人類は大きな変化を遂げていなければなりません。そうすれば,過去の歴史の示すように,人類がサタンにすぐ影響されて,悪の道を進むことはなくなります。サタンと悪霊が解き放される時に悩む最後の試練に耐え得るように,人類を助けることがその時までに行なわれます。ゆえにそれはキリストの千年統治の間に行なわれねばなりません。キリストの治める間,地には正義が行なわれ,人々は正義を学ぶでしょう。キリストおよびキリストとともに王また祭司となる14万4000人は人類を助け,肉の欲が支配する不完全な状態から人々をひき上げます。人々は人格を変え,また身体の面においても完全さに達することができるでしょう。しかしこの事については,黙示録の預言を読みすすむにつれ,さらに深い知識と理解が得られます。人類を悩ます大妨害者が除かれる時,人類の前途に神の設けられる祝福は人間の考えをはるかに越えたものです。―ヨハネ 5:22,28,29。使行 17:31。ペテロ第二 3:13。エペソ 4:22,23。

  • ペテロ ― 進取の気性に富みひときわ目だった使徒
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • ペテロ ― 進取の気性に富みひときわ目だった使徒

      神の御子イエス・キリストがご自分に伴わせるため選ばれた12使徒の中でも,ペテロはひときわ目だつ存在でした。その暖かい心や情熱的で率直な人柄にだれでも心をひかれ,容易にペテロの身になって考え,彼の気持ちをじかに感じることができます。

      ペテロは,自分の考えをすぐことばに表わし,感情に動かされてすぐ応ずる,行動の人でした。そして感情的な性格のゆえに,容易に一つの極端から他の極端に走りました。その結果,最大の喜びと悲しみのいずれをも味わうことになりました。「あなたこそ,生ける神の子キリストです」と答えて彼の主から大いにほめられ,そして,天国の鍵を与えられるという大きな喜びを得たのもペテロですが,また,主を3度いなんだため,主の非難と悲しみの目を向けられ,悲しみに打ちひしがれたのもペテロでした。―マタイ 16:16-19。ルカ 22:61,62。

      しかしペテロは特に,正直で善良な心の持主でした。そして,当時の偽善的な学者やパリサイ人とは全くかけ離れた人物でした。ユダがしたように,イエスと密接な間柄にある人々の群れの共有のお金を秘かに盗むなどということはペテロには考えられない事でした。その良い心のゆえに神は,ペテロが悔い改めて立ち帰るのを許されましたが,不正直な裏切り者のユダにはそれはできませんでした。神は,イエスをいなんだペテロをのちに再び恵みの立場に復帰させられたのみならず,後日ペテロを大いにお用いになりました。―ヨハネ 12:4-6。

      ペテロはヨハネのむすこで,ヨルダン川の近くのガリラヤ湖畔の村ベッサイダに住んでいたと書かれています。次に記録によれば,カペナウムに住み,そこでは自分の舟を持ち,弟アンデレとともに漁をしていました。ペテロとヨハネは宗教指導者から「無学な,ただの人たち」と言われましたが,仕事の上でユダヤ人およびギリシャ語を話す異邦人と接していたので,ヘブル語およびギリシャ語の読み書きができたことは疑いありません。ペテロは結婚していました。そして少なくとも晩年には妻を宣教旅行に伴いました。―マタイ 8:14; 16:17。マルコ 1:16-20。ルカ 5:3。使行 4:13。コリント第一 9:5。

      ペテロは,まず弟子あるいは「学ぶ者」となって,イエスの宣教の初めに登場し,イエスは,「聞くこと」を意味する名前,シモンを「一つの岩」の意味のペテロに改めました。約6か月後,イエス・キリストの追随者として弟子となったペテロは,兄弟アンデレそしていとこのヤコブおよびヨハネとともに漁師の職業をやめて,「人間をとる漁師」になったのです。それから1年余ののち,ペテロは他の11人の者とともに「遣わされた者」すなわち使徒の一人に選ばれました。―ヨハネ 1:35-44。マタイ 4:18-22; 10:1-4。

      ただちに行動する衝動的な性格

      ペテロの衝動的な性格を示す例は福音書中にしばしば出ています。イエスは,ペテロおよび彼とともにいた人々を全時間の弟子として召す直前に,奇跡を行なって魚を取らせましたが,ペテロはあまりのことに,「イエスのひざもとにひれ伏して……『主よ,わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』」と述べました。また,主が水の上を歩かれた時,それを見たペテロは自分も同じことをしたいと願うあまり,実際にそうして,自分の信仰の弱さを思い知らされました。棒や剣を携えた群衆が宗教指導者に連れられて,イエスを取り囲んだ時,ペテロは再びただちに行動を起こして実際の剣で自分の主を守ろうとし,群衆のひとりの耳を切り落としました。また後日,死んでよみがえらされたイエスが再びペテロとその仲間の人々に奇跡的に魚を取らせた時,岸に立っていた人がイエスであることに気づいたペテロは,おびただしい魚の満ちた網を人々がゆっくりと岸に運ぶのを待ちかねて,ただちに水に飛び込み,泳いで岸に向かいました。―ルカ 5:6-9。マタイ 14:26-31。ヨハネ 18:10,11; 21:1-8。

      ペテロはあまりに情熱的でかつ衝動的な性格の人だったため,時には主の考えに反することを行ない,謙遜でしたが,慎しみ深さに欠けていることを表わしました。それでイエスがご自分の受難と死の運命について話された時,ペテロはその考えにあからさまに反対したため,イエスは,「サタンよ,引きさがれ」と言って,きびしく彼をこらしめねばなりませんでした。ある女が,イエスにさわって,癒されたため,ご自分の力が出てゆくのを感じて,「だれかがわたしにさわった(のではないか)」と尋ねられたとき,ペテロは,「先生,群衆があなたを取り囲んで,ひしめき合っているのです」と言って率直にイエスをたしなめました。言いかえれば,「主よ,人々があなたにさわっているではありませんか!」 そしてまた,主が彼の足を洗おうとなさったことに反対し,イエスの説明を聞いたのちには,自分の頭や手まで洗っていただきたいと願ったのもペテロではありませんでしたか。―マタイ 16:21-23。ルカ 8:43-45。ヨハネ 13:1-10。

      進取の気性

      霊感の下に書かれた記録の中で,ペテロはシモン,シメオン,シモン・ペテロ,ペテロ,ケパなどの名前で呼ばれ,他の11人の仲間の使徒全部よりも多く,また使徒パウロと同じほどひんぱんに出てきます。イエスの全時間の弟子として召された者の中でも最初にペテロの名前があげられており,12使徒のことが述べられている場合にはいつでもペテロの名前が第1番目に出てきます。そして12使徒の名前が全部,(他の使徒の名前はいつも同じ順序で示されてはいない)あるいはその幾つかが出ている場合でも,このことは変りありません。―マタイ 10:2。マルコ 13:3。ルカ 9:28; 22:8。

      それで前述の事と一致して,ペテロは他の11人の使徒たち全部よりもしばしば,自分のためあるいは仲間のために率先して話していることがわかります。「主よ,兄弟がわたしに対して罪を犯した場合,幾たびゆるさねばなりませんか」と尋ねたのはペテロであり,ヤコブおよびヨハネとともに山上で変貌の奇跡を見た時,三つのいおりを作る提案をしたのも彼でした。また,イエスののろいのことばにより1本のイチジクの木に生じた変化に気づいて,「先生,ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが,枯れています」と述べたのもペテロでした。―マタイ 18:21; 17:4。マルコ 11:21。

      ペテロが12使徒にかわって思い切って話をしたことについて述べましょう。イエスが彼らすべてに,「それでは,あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた時,「あなたこそ,生ける神の子キリストです」と確言したのはほかならぬペテロです。多くの弟子がイエスのことばに腹をたてて去っていった時,イエスを捨てて去るかどうかと12使徒も尋ねられましたがペテロは,「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」と答えました。また,イエスがあるたとえ話をなさったのちに,「そのたとえを(私たちに)説明してください」と求めたのもペテロです。同様に,「わたしたちはいっさいを捨てて,あなたに従いました。ついては,何がいただけるでしょうか」と,12使徒にかわって尋ねたのもペテロでした。―マタイ 16:15-17。ヨハネ 6:67,68。マタイ 15:15(新世訳); 19:27。

      ペテロは進取の気性に富んではいましたが,その衝動的な性格および情熱と熱意ゆえに,野心をいだく人ではありませんでした。天国のおもな地位を与えてほしいとイエスに願い求めたのはペテロの最も親密な仲間の二人,ヤコブとヨハネおよびその母でしたが,ペテロではありませんでした。(マタイ 20:20-24。マルコ 10:35-41)ゆえにイエスは,故意にペテロを無視して,あたかも彼を思いあがらせないよう矯正しなければならないと考えるほどに,ペテロの進取の気性を重大な欠点とはみなさず,むしろ,ペテロの人柄の良さを認めて,彼に大きな特権を与えられたのです。それで,変貌の奇跡の時や,イエスがヤイロの娘をよみがえらせた時,およびゲッセマネの庭においてイエスとともにいた3人の使徒の一人はペテロでした。―マタイ 17:1; 26:36,37。マルコ 5:35-42。

      さらにある時,イエスが税金の支払いの問題をともに論じたのもペテロでした。また,イエスはペテロに1匹の魚を釣り上げさせ,そしてペテロは,宮の納入金を払うのに必要な銀貨1枚をその魚の口の中に見つけました。(マタイ 17:24-27)イエスは特にペテロのために祈り,兄弟たちを強める務めを彼にゆだねました。復活後,イエスが12使徒の中で最初にご自身を現わされたのもおそらくペテロでしょう。そして後日,イエスがご自分の小羊を養うようにと繰り返し命じられたのもペテロでしたし,また,前述のとおり,イエスが天国の鍵を与えられたのもやはりペテロでした。―マルコ 16:7。ルカ 22:32; 24:34。ヨハネ 21:15-17。コリント第一 15:5。

      イエスの死およびその復活後

      それで,イエスの復活後,イエスがもはや弟子たちとともにおれなくなる時,物事を率先して進めてゆくのはペテロに違いないと予想されたわけですが,ペテロは個人的な事柄でもまた神の使命を遂行することにおいても予想どおりに事を運びました。こうして,ペテロは,イエスの昇天後,聖霊の下るのを待つ間,ユダの代わりの使徒を選ぶことを率先して進めました。また,エルサレムのある家の2階に集まっていた120人の弟子たちに聖霊がそそがれた時,確かにペテロは,自分にゆだねられた使命に忠実に従い,イエスとその復活について,またその日に起きた出来事の意味について率先してユダヤ人に伝道しました。そうすることによって彼は,イエスからゆだねられた天国の第一の鍵を用いて,天国にはいる機会がユダヤ人のために開かれているという理解を彼らに与えたのです。―使行 1:15-26; 2:1-41。

      使徒たちがイエス・キリストについて伝道したため宗教指導者の前に引き出された時,率先して人々に語ったのもペテロでした。アナニヤとサッピラが寄付を携えてきた時,記録によれば,二人はそのお金を使徒たちの前に置きましたが,それを,売り払った資産の全額であると偽った彼らの不正直を暴露させ,神の裁きを二人に告げるようエホバに用いられたのもペテロでした。その結果,二人とも倒れてそのまま息絶えてしまいました。また,ペテロは他のだれよりも大きな癒しの力を持っていたようです。彼の影にさえ癒しの力があったと記録されています。彼の力は,この点で使徒パウロのそれにも匹敵するものでした。―使行 5:1-29; 19:11,12。

      エルサレムの長老がペテロとヨハネをサマリヤに派遣して,その地の改宗者が聖霊を受けられるように取り計った時,ここでも率先して事を運んだのはペテロでした。この点は,他の人に聖霊をわかち与え得る力を求めてシモン(Simon)がお金を「彼らに」差し出した時,彼をきびしくいましめたのがペテロだったことからわかります。中世のローマ・カトリック教会できわめて広く行なわれた教会内の地位を売買する,いわゆる「僧職売買」(Simony)ということばはこの出来事に由来しています。―使行 8:14-24。

      ついでですが,他の人々がペテロやヨハネをサマリヤに「つかわした」あるいは派遣したという事実は,ペテロが率先して事を運んだといっても,他の者の上に権力を振ってはいなかったことを明示しています。彼が他の使徒を支配していたとか,使徒たちの君あるいは長として違った目で見られていたというようなことはどこにもしるされていません。

      ペテロは,さらに幾つかの奇跡を行なったのち,無割礼の異邦人で初めてキリスト教に改宗した,ローマ軍の将校,カイザリヤのコルネリオに良いたよりを伝え,天国の第二の鍵を用いたことが記録されています。ペテロは夢の中で,モーセの律法に定められた汚れた動物を食べるように繰り返し命ぜられましたが,こうして神は,無割礼の国民をもはやご自分の目に汚れた者と見なさないという,人間に対する神の取り扱い方の急激な変化にペテロの心を少しづつ備えさせました。エルサレムに戻った時,ペテロはその地のユダヤ人クリスチャンの強力な反対に直面しましたが,自分の立場を堅持し,この変化に順応できるように神によりどのように備えさせられたか,また何が起きたかについて説明したのです。その結果,ユダヤ人のクリスチャンは,今や神が異邦人の悔い改めを認め,天国の希望を彼らに差し伸べられたことを知り,大いに喜びました。―使行 10:1–11:18。

      ヘロデ・アグリッパ王がユダヤ人を喜ばせるためにペテロを逮捕させたのは,明らかにその後まもなくのことでしたが,しかしペテロにさらに多くのわざを遂行させようと考えていられた神は,天使をつかわして彼を解放させました。獄から解放されるや,ペテロは,ヨハネ・マルコの家に集まってペテロのために祈っていたその地の会衆の人々のもとに訪れて事の次第を告げ,それから「どこかほかの所へ」出て行きました。(使行 12:1-17)これ以後,目ざましい活躍をした情熱の人,使徒ペテロのことは,霊感の書,使徒行伝の中では影が薄くなり,かわって使徒パウロの働きが大きく取り上げられ,ペテロのことはほとんど出てきません。唯一の例外は,キリスト教に帰依した異邦人改宗者の割礼を受ける必要の有無の問題を考慮した,エルサレムのクリスチャン統治体の集まりです。その席上,ペテロは,神がもはやユダヤ人と異邦人を差別なさらないことの証拠として,自分がどのようにエホバに用いられて異邦人に良いたよりを伝えたかを述べ,ユダヤ人自身にも負い切れなかったくびきを異邦人のクリスチャンに負わせてはならないと論じました。―使行 15:7-11。

      ペテロのことをさらに知るには,彼自身の手紙と特に使徒パウロの手紙を読まねばなりません。パウロの手紙によれば,エルサレムとアンテオケに何年間かとどまっており,その間も,ペテロはあいかわらず感情に動かされて事を運んでいたことがわかります。どうしてわかりますか。というのは,あるユダヤ人のクリスチャンがエルサレムから来た時,ペテロは,神がもはや割礼を要求なさらないということを理解していない者のように,異邦人クリスチャンと交わっているところを見られて恥じたからです。その時,ペテロは異邦人クリスチャンとの交わりから身を引きましたが,彼らはこのことのために,どんなにか傷つけられたことでしょう! それで適切にもパウロはこの事柄で公にペテロをいましめました。また,ペテロはコリントで一分派のかしらにされ,そして彼の最初の手紙が述べているように,おそらく小アジアの北部の諸都市で伝道したことでしょう。a ―ガラテヤ 1:17,18; 2:1,7-14。コリント第一 1:12。ペテロ第一 1:1。

      今日のクリスチャンに対する教訓

      使徒ペテロに関する聖書の記録は確かに最も興味深いものの一つです。彼は衝動的できわだった性格の人だっただけに,確かに起伏の多い生涯を送りました。その正直で暖かい寛大な心のゆえに,同僚の使徒たちが心の中で考えているようなことをただちに述べ,またそれに基づいて行動したのです。水の上を歩くイエスを見た時,使徒たちはみな,「そのようなことが行なえたら,なんとすばらしいだろう!」と思ったに違いありませんが,その感動に促されて,同じことをさせてほしいとイエスに願い出,実際にそうしたのはペテロでした。また,イエスが彼らの足を洗いはじめられた時,他の人々はたいてい戸惑い,口をきいたのはペテロだけでした。主に自分の足を洗ってもらうのはまさに尋常なことではないと思ったからです! さらにゲッセマネの園で他の使徒たちも義憤を感じたに違いありませんし,少なくとももうひとふりの剣が他の者の手にありましたが,主を守ろうとして衝動的に行動したのはペテロでした。

      ペテロの多彩な生涯を思いめぐらすと,大きな励みが得られ,特に信仰が強められます。たとえば,聖書中でペテロのことを述べたすべての筆者,つまり福音書の4人の筆者および使徒パウロは,事実をありのままに記述しており,このことは彼らの記録の真実さを示しています。そこに述べられているのは,神の御子によって選び出され,使徒たちの中でもひときわすぐれた特権を惜しみなく与えられた人物です! 非常な強さを持つ反面,ある点ではふつうの人間とすこしも変わらない弱さのある,これほど顕著な人柄を備え,また,これほど実物どおりに描き出された人物を見出せるのは確かに聖書だけです! 彼は,強い信仰の持ち主で,率直な人でしたが,きわめて感情的な性格が災いとなって,一つの極端から他の極端に走りました。また,聖書は彼をあがめず,彼のために言いわけを述べてもいません。彼の誤ちが最も痛烈に指摘されている記述,つまりマルコの記録は,ほかならぬペテロ自身の述べた事柄に基づいているという事実は,彼の正直さを如実に反映させているではありませんか! それは確かに真実の記録です。

      また,ペテロが最後まで忠実を保ったことは,すべてのクリスチャンの励ましであり,信仰の手本です。繰り返し誤ちを犯したにもかかわらず,落胆したり,気持ちを害してやめたりしませんでした。そのためにエホバと主イエス・キリストは彼に忍耐を示され,見捨てられなかったのです。誤ちのために気落ちしそうになる時のクリスチャンにとって,なんという良い教訓でしょう! しかしその場合の悔い改めはペテロのように真実でなければなりません。ペテロは,「激しく泣いた」と書かれているからです。―マタイ 26:75。

      そしてペテロに関する記録の中には主イエス・キリストの寛大さもうかがえます。イエスは,衝動的な性格のことでペテロを退けようとなさらず,いつもアガペつまり原則に基づく愛に従われ,感傷や個人的な感情で事を運ばれることはありませんでした。それで,どちらかといえば使徒ヨハネを特に愛されたにもかかわらず,すばらしい数々の特権をペテロに与えたのです。聖書をひもといて,ひときわ目だつ存在だった使徒ペテロのような人物の記録を読むとき,なんと大きな益が得られるのでしょう!

      [脚注]

      a ペテロがローマを訪れたという主張については1966年6月1日号「ものみの塔」誌343頁から349頁をごらんください。

  • 新たな空気を漂わせるスペインの国情
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 新たな空気を漂わせるスペインの国情

      まことのクリスチャンは,たとえ政府からの禁止措置や迫害を受けても,宣教の務めを決してないがしろにはできません。1959年,スペインのエホバの証人は初めてそのような事態に直面しました。同年,内務大臣は,エホバの証人のクリスチャン活動の根絶を命じた一連の通達を出したのです。以来7年余の今日まで,投獄,罰金刑,所有物の没収など多数の事件が国内の各地で生じました。しかしエホバの証人はこの苦難の時期に恐れにとらわれるどころか,神から与えられた伝道の使命を忠実に果たしてきました。1958年末,スペインのエホバの証人は平均894人でしたが,現在では平均4302人のエホバの証人が伝道しています。迫害もあかしのわざをやめさせることはできず,警察のおどしも他の人々が宣教に携わるのを妨げることはできません。

      内務大臣は,最初の通達が期待どおりの成果をあげなかったことに気づき,今度は以前の指令を変更し,聖書のことを伝道するエホバの証人は浮浪者として逮捕し,投獄するようにという狂気の命令を発しました。しかし,公正な判事は,エホバの証人が法と秩序を尊重し勤勉に働く市民であることを知っており,今日にいたるまで1件の訴訟をも受けつけませんでした。

      しかし,このところスペインの政治情勢のみならず,一般市民の宗教感情にも新たな空気が漂いはじめています。長年の伝統がバチカンの公会議によって変改されたため,カトリック信者の間にはかなりの動揺が生じているのです。エホバの証人の活動は,「スペインの精神的一致」をおびやかすという奇妙な理由で,近年文字どおり十数回にわたり法的に禁止されましたが,これは,カトリック教会そのものに敵対する多くの反対者への非難にしてはあまりにもあいまいであるということに一般市民は気づいてきました。そして,カトリック教会の信徒の俗人指導者はおろか,一群の牧師までが,口頭であるいは文書を用いて幾度も小ぜり合いを演じ,政府当局どころか,スペインの教会当局に対してさえ反対してきたのを人々は見ているのです!

      このような事態に刺激されて,人々は宗教問題を自ら進んで話し合うようになりました。バチカン公会議が行なった以上,自分たちも信仰の根本問題を今や自由に検討してさしつかえがないと人々は考えています。このような宗教感情が幸いして,幾つかの新しい地域における群れの組織は強められ,その地方のわざは確立されました。小さな村では,中世的な考えをもつ牧師がしばしば封建時代の独裁的な領主のような横暴さをもって村の活動を支配していますが,そこでも人々は自ら進んで物事を考えようとしています。

      そのような寒村に住む一人の男の人がたまたま,都会に住む妹を訪れました。丁度その時,彼女の家では家庭聖書研究が司会されていたのです。伝道者は彼に証言し,「失楽園から復楽園まで」という本を1冊配布しました。それから長い期間を経たのちこの男の人は再びその町に来ましたが,今度は,会衆の監督と相談するためでした。そしてこう語りました。「今,村にはすでに9人のエホバの証人がいますから,あなた方の助けがほしいのです」。彼はひとりで研究し,学んだ良い事柄を他の人々に伝道してきたのです。さっそく会衆の伝道者たちが村を訪れたところ,例の1冊の本から真理を学んだ他の8人の若い人々が集まりました。彼らは知識の面で不十分ではあるにしても,神の御心を行ないたいという熱烈な願いをいだいていたので,訪問した伝道者たちは大変驚かされました。そして今後は霊的な知識の面で円熟に進むよう彼らを援助する取りきめが設けられました。

      ― エホバの証人の1967年度の年鑑から

  • 発表
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 発表

      野外奉仕

      10月の間,全世界のエホバの証人は,「目ざめよ!」の1年の予約を3冊の贈物の小冊子をそえて400円の寄付で人々に提供し,バビロン的な宗教の捕われからの解放を宣べ伝えます。

      進化論それとも神による創造 ― どちらですか?

      これは10月8日号「目ざめよ!」誌,特別号の主題で,人々を引きつけます。特別号の「目ざめよ!」は,多くの人の誤まった考えがどれほど信仰をそこなうか,また科学的な事実はどのように聖書の正しさを証明するかを説明しています。また,それは進化論者の主張を客観的に検討し,進化論者の理論と科学的事実や聖書の教えを比較考察します。この号をすべての教師,教育者に配布するよう特に努力が払われます。1部20円ですが,同一住所宛の場合は6部100円で入手できます。希望される方は発行者に申し込んでください。

      「ものみの塔」の研究

      10月22日: 自制心を培いそして表わす,1-23節,585頁。

      10月29日: 自制心を培いそして表わす,24-26節,と自制心は進歩に肝要,591頁。

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