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  • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
    ものみの塔 1973 | 12月1日
    • ノア兄弟の訪問と東京・中野の大きな成果をもたらした大会に続いて,会長はその地域に新しい宣教者の家を購入することを取り決めました。そして,1956年10月1日に,しっかりした宣教者精神をいだいているジェリーおよびヨシ・当間が中野の宣教者の家に移りました。6日後に,8人の新しい宣教者が到着し,家具が届くまでの間床の上にふとんを敷いて生活しました。しかしすぐに,宣教者たちは野外奉仕に非常に忙しくなり,また当間兄弟姉妹から大きな励ましを受けました。明るい態度の当間兄弟夫妻がどこかに任命されることは,それがどんな場所であっても大きな拡大のしるしのようでした。そして,中野の場合もそのとおりでした。宣教者の家が開かれた当時は,中野の宣教者の家で小さなグループの集会が開かれてはいたものの,東京・渋谷会衆の集会に出席するため,宣教者たちは1時間もかけて出かけて行きました。しかし,16年そこそこで,その小さなグループから15の会衆が生まれ,890人以上の伝道者が報告しています。

      ノア兄弟の訪問の4年後,ミルトン・ヘンシェルが地帯の監督として日本支部を訪れました。ちょうどその時期にあたる1960年4月7日から10日にかけて,東京のまだあまり証言のなされていない別の地域にある世田谷区民会館で大きな成果を収めた大会が開かれました。公開講演には1,717人が出席しました。その同じ日曜日の晩に,ヘンシェル兄弟は出席している1,397人に記念式の話をしました。初めて,世田谷地方で大規模な証言がなされ,それに続く大きなわざが待ち望まれました。協会は現在,世田谷に新しい宣教者の家を購入し,今日に至るまで,6人の宣教者がその家に住んで,奉仕のわざを続けています。

      日本の新しい地域への拡大

      1949年から1957年まではもっぱら,本州の大都市において王国の業を確立するための集中的な努力が払われました。しかし,他の地域も王国の業の開始を待ち望んでいたのです。横浜と京都にあった,協会の大きな宣教者の家は1957年に売却され,宣教者たちは他の都市の比較的小さな宣教者の家に散っていきました。1957年に,協会は新たに広島,札幌,福岡,熊本,鹿児島そして佐世保に家屋を借り受け,それを宣教者たちの家にしました。この時までに,日本には62人の宣教者がいて,東京支部または12の宣教者の家のいずれかで奉仕するか,または地域もしくは巡回の業に携わっていました。

      (この続きは次号に載せられます)

  • 「知恵に伴う柔和さ」を示す助言者たち
    ものみの塔 1973 | 12月1日
    • 「知恵に伴う柔和さ」を示す助言者たち

      賢明で理解のある人びとを内部に有するクリスチャン会衆は確かに豊かな祝福を得ていると言えます。ひとつの家族について言えることは,「神の家族」にも当てはまります。それはこういうことです。『家は知恵によりて建てられ 明哲によりて堅くせられ また室は知識によりて各種の貴く美しき宝にて充されん』― エペソ 2:19。箴 24:3,4。

      クリスチャンの長老として奉仕している人びとは,神のことばに基づいて助言を与える特権にあずかります。ではどうすれば長老は助言するにさいして,自分が「賢明で理解のある」者であることを示せるでしょうか。キリストの弟子のヤコブはこう答えます。「その人は,知恵に伴う柔和さ[「知恵にかなう謙そんさ」,アメリカ訳;「知恵から出る慎み深さ」,新英語聖書]をもって,自分のりっぱな行状の中からその業を示しなさい」。そのような柔和さは,神の知恵,すなわち「上からの知恵」に対する深い敬意と認識から,また自分自身の限界を認める謙そんな心から湧き出るものです。このへり下った態度は,破壊的な誤ちをしないよう助言者を保護するものとなり,また助言の効果を大いに高めます。―ヤコブ 3:13,17,新。

      柔和な霊は知恵ある人の助言を導く

      時にはある人が,自分の望む答え ― 必ずしも聖書の原則にかなった正しい答えでなくてもかまわない ― を求めてある長老のところへ来る,あるいはいろいろな長老のところへ行く,というようなことがあるかもしれません。それは父親と母親を対抗させるためにある子どもたちが使う手に似ています。場合によっては,長老はまず助言を求める人に,他の長老たちに尋ねたかどうか,彼らがどんな助言を与えたかを聞いてみるのがよいでしょう。謙そんさがあれば,その助言に反するようなことを言うのを控えるでしょう。他の助言者たちと話し合う機会を得ていない場合はとくにそうするでしょう。

      柔和な人は,厳しい態度や,不必要にそっけない態度を取るようなことはしません。しかし長老は,個人的な友情や,他の人が是認したことを気にして神のことばの助言を率直に告げることをせずに相手を喜ばす助言を与えるといったことのないよう,注意しなければなりません。(箴 24:25,26)わたしたちは,人を喜ばせるために神のことばの真意を弱め,彼らの良心が楽になるように聖書の原則を曲げることはできないのです。これによって命が危険にさらされるとなれば,それはどんな良いことをもたらすでしょうか。それはアムノンのいとこが彼に与えた助言のようになるかもしれません。その助言によってアムノンは自分の欲望を満たすことに一時的に成功しましたが,後ほど命を失いました。―サムエル後 13:1-19,28,29。

      『兄弟たちの耳をくすぐる』のではなく,「みことば」,すなわち神のことばを,わたしたちは忠実に語らねばならないのです。(テモテ後 4:1-4)何ひとつ控えることなく,「神のみ旨をことごとく」兄弟たちに語った使徒パウロにならってください。そうすることによって,神のみ前に流血の罪のない立場を保つことができます。(使行 20:26,27,新)「知恵にかなう謙そんさ」を持つ助言者は,敬虔な恐れを表わし,助言を与えます。あるいは必要な場合には正しく叱責します。そうすると最後には,おせじを言うようなことをするよりも,兄弟たちから感謝されます。―箴 28:23。

      長老たちは,必要な助言を差し控えることはしませんが,自分が他の人のために決定を下すこともできないことを謙そんに認めています。聖書が明白に述べていることは長老たちも明白に述べます。しかし非常に多くの事柄は,個々の人の良心と判断がどうするかを決定しなければならない問題です。その人のために自分が決定を下すなら,長老はその結果に対して責任を負うことになります。生ずるかもしれないどんな悪い事柄に対しても責めを負うことになります。―ガラテヤ 6:5。ロマ 14:5,12。

      仲間のクリスチャンは,問題の是非を考える助けになる,また彼の前に開けている任意に選択できる道を取る場合の結果を検討してみる助けになる質問をされるだけで,個人的決定に達するよう援助される場合が少なくありません。

      「黙すに時あり語るに時あり」

      長老も質問にどう答えてよいかわからないことがあるかもしれません。または,ある問題に聖書の原則がどう適用するか確信をもって言えないこともあるでしょう。そういう時に長老はどうすべきですか。

      質問者の前でメンツを失うとか,威厳を失うといった恐れにかられて,いいかげんな答えを与えるのは容易なことです。しかしそれは,『知恵にかなった柔和な,あるいは謙そんな行為』ではありません。高ぶりは恥を招き,へりくだることは知恵の表われです。(箴 11:2)箴言 21章23節は,『口と舌とを守る者はそのたましいを守りて患難にあわせじ』と助言しています。困った問題を引き起こすかもしれないまちがった答えを与えるよりも,自分が知らないことを認めるほうがはるかにましです。そうです,「黙すに時あり 語るに時あり」です。そして語る時は,正確な答えを見いだす機会を得た時です。―伝道 3:7。

      実際に,質問によっては,答えないでおくほうがよいものもあります。単なる思わくで,現実に存在する事態もしくは問題とは関係のない質問もあるでしょう。そのような質問は多くの場合「何にもならず,調べるための問題を出すだけで,信仰に関連して神からのものを分かち与えることにはなりません」。そうです,それはただの「むだ話」です。(テモテ前 1:4-7。テモテ後 2:14)たとえ質問者がかなり執ようでも,賢い助言者はそれに巻き込まれないようにするでしょう。―箴 12:8; 17:27,新。

      『議者おおければ謀計かならず成る』

      むずかしい質問や困難な問題に直面した時,祈りや自分で勉強するのは,いつでも重要なことです。しかし賢明な人は,『議者おおければ謀計かならず成る』ということも忘れません。(箴 15:22)ほかの長老たちに相談することは,知恵と経験を出しあうことになります。(箴 13:10)その結果,より平衡のとれた見方ができます。それにまた,ある人が重大な問題に関して助言を求めている点の討議に別の長老を招けば,後ほど長老の言ったことを誤って引用され,その結果誤り伝えられるということがないよう,長老の保護になります。(申命 19:15。士師 12:1-3と比較してください)しかしながら,長老が,ある人の問題を検討するのに別の長老をそれに加わるよう招いたからといって,それは質問者に,自分は今ある種の「審理」を受けている,と感じさせる理由にはなりません。むしろ,最初に相談を受けた長老は,他の長老の援助から益を得られると自分が考えていることを,謙そんに認めます。

      会衆内のある長老たちは審理委員として奉仕する責任を与えられています。しかしそれは,むずかしい決定に直面した時,助けを求めてはいけないということではありません。最終的な決定は彼らが下しますが,審理委員も他の長老たちの援助を求めることができます。興味深いことに,ユダヤ人のミシュナによると,イスラエルの村の裁判所の裁判官の人数は,事件の軽重によって変化しました。―「聖書理解の助け」385ページ(英文)をごらんください。

      『議者が多い』ということには確かに価値があります。しかし数字だけが正しさを保証するのではありません。多数者もまちがうことがあります。確実に正しい決定をさせる決定的要素は,いつの場合でも,聖書と神のことばです。真の知恵にかなう柔和さは,謙そんに,慎み深くそれらに従うことを要求します。

  • 覚えていますか
    ものみの塔 1973 | 12月1日
    • 覚えていますか

      あなたは最近の「ものみの塔」を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。

      ● イエスはどのような方法で,神のみ名をご自分の追随者に「知らせる」,あるいは「明らかに示(す)」ことをなさいましたか。―ヨハネ 17:6,26,新。

      イエスは神のみ名を正確に発音しただけでなく,人としてのご自身およびその言行によってみ父の属性,律法,ご意志また目的を明らかにし,そうすることにより,その名によって示されているかたを知らせた。―451ページ。a

      ● コリント後書 1章20節(新)で述べられているように,神の約束はどのように,『イエス・キリストにおいて「しかり」となった』でしょうか。

      イエス・キリストによって ― 一個の存在者としての彼そのものによって,また彼が行なった事がらによって ― 神の約束はすべて成就を見る。自分の命を人類のための贖いとして犠牲にすることにより,イエスは,エホバ神がそうした約束を遂行するための法的基礎を備えた。―453,454ページ。

      ● イエスは大祭司として,いつ,またどのような意味で対型的なのがれの町にいる,「大患難」を生き残った人たちに対して死にますか。

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