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病気と死から解放された地球今ある命がすべてですか
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第16章
病気と死から解放された地球
病気と死から永久に解放された地球,それはわたしたち人間にとってなんと壮大な救いでしょう。それは,悲嘆や苦しみの表われとしての悲痛な涙を全くなくし去ることを意味しています。病気のもたらす堪え難い痛みや不具の醜さもなくなります。老化に伴う体力の衰え,またそれによる絶望感や無力さも,もはや経験しなくてすみます。どこに住む人も活力と若々しさをおう歌するでしょう。死を悲しむ嘆きの言葉が人々のくちびるからもれることもありません。
これは根拠のない想像ではありません。これこそエホバ神がその目的とされた事柄です。エホバは,人類のために,問題と苦悩の満ちる幾年かの生涯よりはるかに勝ったものを意図しておられるのです。―啓示 21:3,4。
それは大きな問題を生むか
しかし,地上から病気や死が除かれる場合,それによってほかの重大な問題が生じるでしょうか。次のように考える方がおられるでしょう。人々はどこに住むのだろうか。病気や死がなくなれば,たちまち人口過剰になって生活は不愉快なものになり,非常な食糧不足が起きるのではないか。
地球に人をあふれさせることは,決して神の目的ではありませんでした。完全な状態にあったアダムとエバに対し,神は,「生めよ,増えよ,地を満たせ」と言われました。(創世 1:28)地を『満たす』ことと,それをあふれさせることには大きな違いがあります。コップにジュースを満たすようにと言われた場合,あなたはそのコップからあふれるまで注ぎ続けたりはしないはずです。コップが十分に満たされたなら,注ぐのをやめるはずです。同じように,地球が人間によって心地よい程度に満たされた時,神はこの地上でそれ以上の人口増加が生じないように図られるはずです。
さらに,わたしたちは,今日見聞きする事柄によって,わたしたちに住まいを備え,人間と動物の生命を支える地球の能力を誤って判断しないようにすべきです。大都市には大ぜいの人が密集していますが,地球の広大な部分にはごくまばらにしか人が住んでいません。仮に現在の人口が均等に分散したとすれば,すべての男,女,子供が,一人約2.4ヘクタールの沃地を持つことになります。これはたっぷりとゆとりのある広さでしょう。
地上のさまざまな場所で非常に多くの人が今日直面している飢えの問題は,土壌の産出力が限界に達したためではありません。今日広範囲に見られる食糧不足は,むしろ供給の不均衡がその主要な原因となっています。多量に生産されて余剰の存在する地域もある一方で,極度の不足を来たしている地域もあるのです。実際のところ,地球は今日生産している分の幾倍をも産出することができます。何年か前の1970年,国連食糧農業機関は,世界の潜在的農業生産力を,現在の世界人口のおよそ42倍を養うに足るもの,と推定しました。
世界のある地域で人間がすでに行なった事柄は,地球の産出力を増大させる面でどれほど大きな可能性があるかをある程度示しています。
米国カリフォルニア州のインペリアル峡谷は,かつては人の住みにくい不毛の砂ばくでした。しかし,鉱物質の多い砂ばくの土壌にかんがいをすることによって,今この峡谷は米国有数の肥沃な農業地帯となっています。
ヨーロッパは,北米全体の約半分の農耕地をより集約的に耕作することによって,北米全体とほぼ同量の収量を上げています。
こうして,森林や緑地の美しさを損わないようにしつつ,しかもなお,より多くの土地をより集約的に耕作することは明らかに可能です。
動物と人間が心地よく満ちた地球に対して豊富な食糧の供給を保証するもう一つの要素があります。それはなんですか。み子イエス・キリストによる神の王国の管理下に置かれる人類にそのとき与えられる,神からの助けと導きです。地球について最もよく知っているのは,その創造者である神ご自身です。それゆえ,神の王国による賢明な管理のもとに,土地は満ちあふれるまでの産出力を持つようになるでしょう。忠実であった時の古代イスラエルに起きたと同じ事が,その時にも起きるのです。「地は必ずその産物を出し,神,われらの神は,われらを祝福される」― 詩 67:6。
乾ききった砂ばく,その他生産に用いられていない土地が幾百万ヘクタールもありますが,それらは必ず大々的に活用されるに違いありません。必要な水を神の助けによって手に入れたということは,歴史に例のないことではありません。西暦前六世紀,神の預言的な約束の成就として,バビロンに捕われていた幾万ものユダヤ人がエルサレムに戻って来ました。(エズラ 2:64-70)彼らは不毛のシリア砂ばくを通ってまっすぐ道を取ったものと思われます。しかし神は彼らの生存に必要なものを備えました。彼らの郷土に関しても,神はこう予言しておられました。「荒野に水わきいで さばくに川なが(れん)」― イザヤ 35:6,文語訳。
神はこうしたことを過去に行なわれました。キリストによる神の王国の管理のもとでは,同様のことがさらに大規模になされるはずです。
地上から病気や死をなくすことによって不都合な状態がかもされるのではないかと懸念する必要はありません。人口の過剰ということがないだけでなく,すべての人が満足のゆくまで食物を得られるのです。
神の任命した王イエス・キリストおよび14万4,000人の仲間の支配者たちの手にゆだねられる管理の機関は,地上の住民が十分な配慮を受けられるように取り計らいます。健康的な食物が満ちあふれるほど備えられることを指摘して,イザヤの預言はこう述べています。「万軍のエホバはこの山で,あらゆる民のために……宴を設けられる。すなわち,油ののった髄の多いものと,久しく蓄えてこしたぶどう酒の宴である」― イザヤ 25:6。
わたしたちはエホバ神に確信を置くことができます。エホバ神について,聖書はこう言明しています。「あなたはみ手を開いてすべての生けるものの願いを満たしておられます」。(詩 145:16)エホバがご自分の約束を果たされなかったことはありません。聖書は古代イスラエルの場合についてこう述べています。「エホバがイスラエルの家に対してなしたすべての良い約束は,その一つとして果たされないものはなかった。それはすべて真実となった」― ヨシュア 21:45。
病気と死はどのようにして過ぎ去るか
人が生活を楽しむに必要な物質上のものについて約束されているだけではありません。エホバ神はさらに価値あるものを約束しておられます。それはなんですか。病気と死からの解放です。エホバはイザヤ書の中で壮大な宴に関するご自身の目的をはっきり示されましたが,そのすぐあとに次の約束が続いています。「彼はまさしく死を永久にのみほし,主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐい去られる」― イザヤ 25:8。
ここに表明された神の目的のもとに,イエス・キリストとその仲間の支配者たちの手にゆだねられる管理の機関としての王国は,人類に死からの解放をもたらすことを目ざして働きます。病気と死は,最初の人間アダム以来の相続の結果わたしたちが不完全な罪人として生まれていることから来ていますから,死をもたらす罪の働きを抑える処置が取られねばなりません。それはどのようになされますか。
それを行なうための基礎は,公正の原則にかなった取決めでなければなりません。論理的に言って,それは,アダムの反逆によってもたらされた害悪に対し,それを相殺するような取決めであることが必要です。アダムの失ったものを回復しなければなりません。そのための代価は,アダムの失ったもの,すなわちそのすべての権利と見込みを伴う完全な人間の生命と同等の価値を持つ贖いしろであることが必要です。
アダムの子孫はみな罪人であり,だれもそのような贖いを備えることができませんでした。そのことは,詩篇 49篇7節の中に次のようにはっきりと述べられています。「そのひとりとして,兄弟をさえ決して請け出すことができず,彼のための贖いを神に払うこともできない」。しかし,キリスト・イエスはそれを行なうことができました。イエスは完全な人間であったからです。そしてイエスは,すすんで自分の命を犠牲にし,こうして「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与え」ました。―マタイ 20:28。
人間としての自らの完全な命を犠牲にしたことに基づいて,イエス・キリストは,贖いのためのその犠牲の恩恵を人類に適用し,罪の束縛下にある人類を向上させることができます。罪の傾向は人間の性向の一部となっていますから,それを克服するためには時間と助けが必要です。イエス・キリストの手にゆだねられる王国のもとで,その民となる人々は皆,義にそった訓練を受けることになります。―啓示 20:12。イザヤ 26:9。
しかしこれは,重い身体上の不具や疾患を持つ人が,その病苦から最終的に解き放されるまでに,必ず長い期間待たなければならない,という意味ではありません。この地上におられた時,イエス・キリストは,病気をかかえて苦しんでいる人々を,奇跡によってたちどころにいやしました。遠くから,つまり,苦しんでいる人々からは見えず,その人々にじかに触れることのできない所からなされたいやしも数多くあります。(マタイ 8:5-13; 15:21-28。ルカ 7:1-10)それゆえ,王国が地上のすべての物事を管理し始める時に,片足や片腕の人など,重い身体障害を持つ人がいるなら,そうした人たちは,神の定めの時に即座の奇跡的ないやしを受けられるでしょう。盲目の人が視力を取り戻し,耳しいの人が聴力を回復し,不具,かたわ,障害をかかえた人たちが健全な体を取り戻すのを見るのは,なんとすばらしいことでしょう。
しかし,人間を体と知力の面で全く完全な状態に至らせることは順を追って徐々になされます。これには,イエスの贖いの犠牲を適用すること,また,管理機関である王国の指示に従順であることが求められます。そのとき起きる事は,身体障害を負った人を,熟練した臨床医の指導のもとで更生させる場合に似ています。その障害者は,訓練の過程では,たくさんの間違いをするかもしれませんが,やがては,他の人々に頼らないで有用な生活を送れるまでになります。その人の進歩は,差し伸べられる援助にどのように応じるかにかかるでしょう。
不完全な人間を更生させる者たちの資格
イエス・キリストは,人類を更生させるにあたり,そのために必要な資格をことごとく備えています。人間として地上で生活したイエスは,不完全な人間の直面する問題をじかに知りました。イエス自身は完全ではありましたが,それでも,涙を流すまでに悲しみと苦しみとを経験しました。聖書の記録はこう述べています。「キリストは,肉体でおられた間,自分を死から救い出すことのできるかたに,強い叫びと涙をもって,祈願を,そして請願をささげ,その敬神の恐れのゆえに聞き入れられました。彼はみ子であったにもかかわらず,苦しんだ事がらから従順を学ばれました」― ヘブライ 5:7,8。
イエス・キリストが地上で経験された事柄から考えて,わたしたちは,イエスが理解のある支配者であることを確信できます。イエスがその民を手荒に扱ったりすることはありません。イエスは人類のために自らの命をなげうたれたのです。(ヨハネ第一 3:16)また,大祭司でもあるイエスは,その指示に敬意を示す人々を罪から解放するにあたって思いやり深く行動します。その人々に対して性急な態度を取ったり,神の性格を完全に反映しない行為に落ち込む人に,打ちくじかれたような思いを抱かせたりすることもありません。祭司としてのイエスの奉仕に関して,ヘブライ 4章15,16節はこう述べています。「わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできないかたではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のないかたを,大祭司として持っているのです。それゆえ,時にかなった助けとしてあわれみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」。
完全性に向かって進歩しつつも,人間は依然意図せずして罪を犯すことでしょう。しかし,悔い改めること,また,大祭司イエス・キリストを通して神のゆるしを求めることによって,彼らはゆるしを与えられ,自分の弱さを克服するための助けを引き続き受けるでしょう。命といやしのための神の備えについて描写する啓示 22章1,2節は,「水晶のように澄みきった,命の水の川」について述べています。「それは神と子羊とのみ座から出て,その大通りのまん中を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木があった。そして,その木の葉は,諸国民をいやすためのものであった」と記されています。
イエス・キリストと共になって支配の務めにあずかる人々も,人類を助けるための資格を十分に備えています。これらイエスと共同の支配者となる人々の中には,あらゆる階層から来た男女がいます。(ガラテア 3:28)その中には,淫行,姦淫,同性愛,盗み,酔酒,ゆすり取ることなどにかかわった経験を持つ人々もいます。しかし,それを悔い改めて身を転じ,神の誉れまた賛美となる清い生活をするようになったのです。(コリント第一 6:9-11)イエス・キリストと共に王なる祭司となる人は皆,その死のさいに,義を愛しかつそれを実践する者,悪を憎む者,また仲間の人間の福祉のため私心のない態度で自らをささげる者となっていなければなりません。―ローマ 12:9。ヤコブ 1:27。ヨハネ第一 3:15-17。ユダ 23。
神の前で清い立場を保つことは彼らにとっても易しいことではありませんでした。世の利己本位の道に従うよう非常な圧迫を受けたこともあります。多くの人は,非難,身体的虐待,一般的反感,嘲笑など,外部からの圧迫に耐えねばなりませんでした。イエス・キリストは,彼らが予期すべき事柄として次のように語られました。「人びとはあなたがたを患難に渡し,あなたがたを殺すでしょう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」。(マタイ 24:9)加えて,彼らは皆,その生涯の歩みにおいて,自らの罪の傾向に対しても闘わねばなりませんでした。そうした人々の一人であったパウロは,自らのことについてこう語りました。「[わたしは]自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」― コリント第一 9:27。
確かに,14万4,000人から成るこの王なる祭司の一団は,王国の統治下に住む人々の持つさまざまな問題を思いやることができます。彼ら自身そうしたものと闘い,難しい状況に面しながら神への忠節を実証したからです。
地上の理想的な状態
また,地上では,人間が完全性に向かって進歩するのを助けるため,すべてのものがちょうど良い状態にあるでしょう。王国がその敵対者をすべて滅ぼし去った後,地上には,全き心で神のご意志を行ないたいと願う人々だけが残っています。これは,わたしたちの食べる食物,飲む水,吸う空気などを汚染させる大きな要素となってきた人間の利己心と貪欲さが過去のものとなることを意味しています。そこに生存している人々は,人を分裂させる人種や国籍上の障壁に災いされません。エホバ神に対する崇拝を中心としてすべての人が一致し,すべての人が兄弟として行動し,平和を追い求めます。野生の動物でさえ,人間に対し,また人間の飼う家畜に対して危害を加えません。イザヤ書 11章6-9節に記される預言的な言葉は,霊的な意味で成就を見るだけでなく,文字どおりの意味でも成就します。
『おほかみは小羊とともにやどり 豹は小やぎとともにふし こうしをじし肥えたる家畜ともにをりてちひさき童子にみちびかれ 牝牛と熊とはくひものをともにし 熊の子と牛の子とともにふし ししはうしのごとくわらをくらひ 乳のみ児は毒蛇のほらにたはふれ 乳ばなれの児は手をまむしの穴にいれん かくてわが聖山のいづこにてもそこなふことなくやぶることなからん そは水の海をおほへるごとくエホバをしるの知識地にみつべければなり』― 文語訳。
管理の機関である王国を通して,エホバ神は人間に特別の意味で配慮を向けられます。そのことは,聖書の「啓示」に記される預言的な幻の中に描かれています。王国の力の伸長することを,新しいエルサレムが天から下るという言葉で表現しながら,その記述は次のように述べています。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:2-4。
これが何を意味するかを考えてください。明確な点として,悲しみと苦痛のある今の命が決してすべてではありません。人類は,不完全性から来る,精神的,感情的,身体的ないっさいの苦痛から全く解放されるのです。不確かさ,また大きな不幸や危険についての精神的な苦もんはすべて過去のものとなります。感情的な苦痛と結び付いた寂しさ,むなしさ,憂うつ感などはもはやありません。激しい身体的な苦痛のために人々が叫び,うめくことも二度とありません。悲痛な涙が人の目を満たし,そのほほを伝うことももはやないのです。だれにしても,悲嘆の声を上げるべき理由は何もありません。体と知力の完全性を回復した人間は,とこしえにわたり,その生活に真の喜びを見いだすのです。あなたも,神からのこうした祝福を楽しむ人々の中に入ることを望まれないでしょうか。
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地上での永遠の命がわたしたちに提供するもの今ある命がすべてですか
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第17章
地上での永遠の命がわたしたちに提供するもの
快適な状況下での健康な生活を70年や80年よりずっと長く楽しむこと,これは確かに願わしい事柄です。事実,科学者たちは,老化や病気と闘う道を探ることに幾十年をもささげてきました。平均寿命を百歳にすることがその目標である,と語られる場合も少なくありません。
しかし,限りなく続く寿命という考えに対しては,人々は同様の反応を示さないように見えます。次のように論ずる人が多くいます。『病気や死その他の煩いがなくなれば,我々は良い状態に対する感謝や認識を感じなくなるだろう。地上での永遠の命などたいくつだろう。することがなくなってしまうのではないか』。あなたも,人々がこのように言うのをお聞きになったことがあるかもしれません。しかし,あなたご自身としても,生きることをそのようにみなしておられますか。ここに挙げたような推論は健全なものでしょうか。
例えば,わたしたちは,健康に飽きないようにするために病気にかかることが必要ですか。人は,体の調子が良いために生きる喜びを失うわけではありません。安全と,快適な環境と,興味深い産出的な仕事と,健康的な食物とがそろっていると,それによって人は生きることに飽きてしまうのではありません。むしろ,食物の不足,不愉快な環境,煩いやまさつが,生活の喜びを失わせるのではありませんか。人は,手のありがたみを知るために片方の手を切り落としてみる必要はありません。わたしたちは,悪い事柄を経験しなくても良い事柄を楽しみ,その価値を知ることができるのです。
人間が完全な状態で生きる場合,すべての人がいっさいの事を同じほどによく,また同じほどの関心を抱いて行なうのではありません。聖書が差し伸べているのは,病気や死から解放された生命の約束です。(啓示 21:3,4)今日の場合,同じ健康な人でもそれぞれに異なっています。したがって,体と知能が完全な状態になることによって人がみな全く同じになる,と考える必要はありません。個性という点で人はやはりさまざまに異なっています。仕事,住居,部屋の飾り付け,庭のしつらい,食べ物や飲み物,楽しみ事,美術,その他について,人の好みはそれぞれに異なるでしょう。各人の個人的な好みや選択は,その人の身に着ける技術や携わる活動に大きな影響を与えるはずです。
しかし,地上には,人間がとこしえにわたって活動するだけの事物が十分にありますか。やがていっさいの事をやり終えて知識の増加は止まってしまうのではありませんか。
多くの事をなしうる
あなたご自身の今の生活について考えてください。あなたの素質は存分に活用されている,あるいは将来活用されるようになると感じますか。時間と必要な資力があれば果たすことができ,また果たしたいと思う事柄がどれほどありますか。
おそらくあなたは,音楽,絵画,彫刻などの面で能力を伸ばし,木工,機械,デザイン,建築などについて学び,さらには,歴史,生物,天文,数学を研究し,ある種の植物の栽培や,動物・鳥・魚などの飼育を手がけたいと思っておられるでしょう。また,旅行をして新しい土地を見たいとも思っておられるでしょう。多くの人は,こうした事をただ一つではなく,いろいろしたいと考えています。しかし,たとえあなたに必要な資力があったとしても,時間の制約のために,したい事すべては行なえないでしょう。
さらに,そうした時間的制約のために,物事を速くしなければならないという,ある種の圧迫をも感じるのではありませんか。物事をするのに少しも急がないでよいというのは,ほんとうにうれしいことではありませんか。
する事がなくなるというような恐れはありません。わたしたちの住まいであるこの地球は実に多彩な植物や生き物で満たされており,新しい事柄を学んで,得た知識を活用してゆく可能性はほとんど無限に存在しています。最近ようやく解明されかけた神秘は多くあります。考えてください。魚類には3万以上の種類があり,両生類は約3,000種,哺乳類は約5,000種,鳥類は9,000種以上あります。地上の生き物の中で最も数の多い昆虫はおよそ80万種にも上ります。しかも科学者たちは,未発見の変種が百万種から一千万種もあるのではないかと見ています。加えて,植物の世界には幾十幾百万もの種類があります。
地上の生物を,たとえそのわずか一部にせよ,名を挙げて言うことのできる人が,わたしたちの中にどれほどいるでしょうか。それぞれの習生や,地上における生命活動維持のためにそれぞれがどのように重要な役割を果たしているかという点になると,わたしたちの知識はいっそう限られています。知識を増し加える可能性はまさに膨大です。
あなたは,シクリッドと呼ばれる,熱帯産の淡水魚についてお聞きになったことはないかもしれません。しかし,一科学者は,シクリッドに関する自分の研究についてこう述べています。「わたしにとって,シクリッドは,興味あふれる14年間の研究となった」。幾千種もの生き物や植物を研究するのにどれほどの年月がかかるか考えてください。しかも,それには実際的な益があるのです。
一例として,下等生物とされるエボシガイについて考えましょう。この生物が船体に付着すると,人間にとっては非常にやっかいです。付着したエボシガイは船体からこそげ落とさなければなりません。これがたくさん付着していると船足が落ち,燃料の消費が40%もかさむ結果になります。こうしためんどうの元となる生き物から学ぶことはほとんどないように感じる人がいるかもしれません。しかし,実際にはそうではありません。
エボシガイが物に付着するさいのセメントの厚さは1,000分の8㍉弱です。しかし,それを引き離そうとするさいの抗力は,1平方㌢あたり490㌔を超えます。これは,近年宇宙船に使用されるようになったエポキシ樹脂系接着剤の二倍の強さです。研究者はエボシガイのセメントを摂氏350度の高温にさらしましたが,それは溶けませんでした。また,零下231度の低温でもひび割れたり取れたりしませんでした。エボシガイのセメントはたいていの溶剤に対して抵抗力のあることも知られました。こうした際だった特性を見て,研究者たちは,エボシガイのセメントを人工的にこしらえて“スーパー接着剤”とすることを考えるようになりました。
こうして,研究によって得られる知識は人間の益のために利用できます。今日,地上生物の行なっている事で,人間が自分のために利用しあるいはそのまま模倣できる事柄がどれほど多くあるか計り知れません。すでに知られた事柄から言うなら,その知識の宝庫にようやく口が付けられた程度にすぎません。
人間がかなり研究を進めた分野においてさえ,未解明の事柄が多く残されています。例えば,緑色植物が行なう驚嘆すべき活動の一つは,水と炭酸ガスを糖に変えることです。光合成と呼ばれるこの過程は,二世紀にわたってそれを研究してきた人間を依然とまどわせています。植物生理学者ローレンス・C・ウォーカーは,「もしこのなぞが解明されるなら,人間は,普通の学校の建物程度の工場で,世界のすべての人を養うだけの食糧を生産できる」と語っています。
植物や動物の生活について知識を広げることによって人類全体が非常に大きな益を受けられます。生物の相互依存関係,またそれぞれの生物が必要とするものについて理解するなら,人間は生物界のバランスを知らないで覆すようなことを避けられます。正確な知識を得ることによって,自分や他の生物を傷つけることを避けられるのです。
例えば,人がDDTの有害性をあらかじめ十分に理解し,その知識にしたがって行動していたなら,今日の広範囲な汚染は避けえたでしょう。しかし,悲しいことに,人間はDDTを見さかいなく使用してきました。その結果はどうですか。フランスにある国際ガン研究機関のロレンゾ・トマティス博士はこう述べています。「現在,DDTによる汚染を受けていない動物,水,土壌はこの地上に存在しない」。DDTの蓄積が原因で死んだ動物や鳥もいます。確かに,正確な知識を得ていれば,こうした悲劇的な汚染を避けることができたでしょう。
人間は,音,光,化学反応,電子工学,鉱物類など,無生物界の非常に多くのものについても学び続けてゆくことができます。そしてこのほかに,ほとんど探査されていない広大な宇宙があります。これはなんと大きな研究分野でしょう。宇宙には,小宇宙つまり体系的な星の集団が幾十億もあり,個々の小宇宙の中にはさらに幾十億もの星が含まれています。―詩 8:3,4。
見落とすべきでないのは,永年の研究をしなくても,生物界や無生物界のさまざまなものが,人間の創意や想像力を絶えず鼓舞してくれる点です。植物,動物,無生物の世界に見られるさまざまな色彩とデザインは,わたしたちの目に喜びとなるだけでなく,装飾芸術のために無限のアイデアを提供してくれます。人間の創意がやがて刺激を受けなくなり,生活が単調で興味の乏しいものになるのではないか,と心配する必要はありません。
しかし,地球と地上のすべての生物について全く知り尽くすというようなことが仮にあるとしても,それによって生活はたいくつなものになるのでしょうか。考えてください。人は普通一年に一千回以上の食事をします。40歳の人はこれまでに4万回以上の食事をしているかもしれません。しかし,年がたつにつれて,食事をすることはしだいにたいくつになりましたか。これまでに4万回の食事をした人は,2万回の食事をしてきた人に比べいっそうのたいくつ感を抱いていますか。
繰り返し行なう事柄にも深い喜びがあるのです。気持ちの良いそよ風,愛する者が優しく触れる時の感触,さらさら流れる清流の音,岸に打ち寄せて砕ける波,小鳥の鳴き声やさえずり,壮厳な入り日,くねくね曲がる川,澄みきった湖水,ごうごうと落下する滝,水々しい草原,そびえ立つ山や峰,やしの木の立ち並ぶ浜辺,甘い花の香りなどに飽きを感じる人がいるでしょうか。―雅歌 2:11-13と比較。
愛を表現する機会
言うまでもなく,物事を学んでそれを応用するだけでは,永遠の命を豊かで意義あるものとするのに十分ではありません。わたしたち人間には,愛しかつ愛される本然的な必要があります。他の人たちが自分を必要とし,愛し,自分に対して感謝を抱いてくれているということを知ると,わたしたちはずっと生き続けたいと思うものです。自分のいないことを他の人々が寂しく感じ,また会いたいと切望してくれていることを知ると,わたしたちの心は暖まります。親しい親族や友人と交わることは励みであり,わたしたちを高揚させます。自分の愛する人たちのために物事を行ない,その福祉のために注意を払うことは,わたしたちの喜びとなるのです。
永遠の命は,他の人に愛を表現し,他の人の愛から益を受ける限りない機会を与えます。それによってわたしたちは,仲間の人間を深く知るのに必要な時間を得,それぞれの優れた資質を十分に知り,仲間の人間に対して強い愛を培うことができます。地上の住民は実にさまざまに異なっています。その個性や服装,また食物・建築・音楽・美術などに対する好みは異なっています。幾十億人もの人について知り,それぞれの資質をよく理解し,各人の経験や技能から学ぶためにどれほどの時間がかかるか,それは想像を絶するものがあります。しかし,人間家族全体をよく知り,その各成員を非常に親しい友として受け入れられるのはほんとうにうれしいことではありませんか。
地上での永遠の命は,豊かなもの,報いの多いものをわたしたちに提供します。学んで益の受けられる事柄が非常に多くあるのに,わたしたちはどうしてそれにたいくつするでしょうか。他の人たちへの愛を存分に表現する点でどうして飽きを感じたりするでしょうか。「死とそのなぞ」という本の中で,イグナス・レップ博士はこう述べています。
「純粋な愛を経験し,知的な面でなんらかの事を成し遂げた人は,そうした面では決して飽和点のないことを知っている。自分の全時間と全精力を学問研究にささげている科学者は,学べば学ぶほど学ぶべき事が多くあり,知識に対する欲求もいや増すことを知っている。同様に,真実の愛を抱く人は,自分の愛の成長に限界を想像できないことを知っている」。
しかし,とこしえの命によって開かれるそうした機会はいつわたしたちのものとなるのでしょうか。キリストによる神の王国はいつそれを可能にするのでしょうか。そして,その時が来る以前にわたしたちの死ぬことがもしあるとすれば,わたしたちが再び命を得るどんな見込みがあるでしょうか。
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今日生きる多くの人が死を経験しないでよいのはなぜか今ある命がすべてですか
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第18章
今日生きる多くの人が死を経験しないでよいのはなぜか
神の王国が地上のすべての物事を管理しはじめる時は近づいています。あなたは,その王国が人類にもたらす壮大な祝福を目撃する人々の中に入ることができます。これは根拠のない主張ではありません。あなたご自身がご覧になったものを含め,これを裏付ける証拠はたくさんあります。
幾世紀も前,エホバ神は,人類世界の王としてご自分が指名する者に支配権の授けられる時がいつであるかをはっきり啓示されました。エホバはその啓示のために象徴を用い,また情報の一部を夢の形で示されました。
この重要な情報を人間に伝えるために神がそのような伝達手段を用いたことを疑問にする必要はありません。情報伝達のために今日の人々がどのようなことを行なっているか考えてください。秘密の音信が空間を通り,暗号のかたちで送られます。その後,暗号化された音信は人手か機械によって解読されます。このような方法で情報を伝達することには意図があります。その情報の意味を,資格のない人からは秘めておくのです。
同じように,神が象徴的表現を用いたのも目的のないことではありません。そうした象徴を理解するためには勤勉な研究が求められます。しかし,神と真理に対する真実の愛がないために,時間をかけてそれを理解しようとしない人が多くいます。こうして,「王国についての神聖な奥義」は,そのような人々からは隠されたままに残ります。―マタイ 13:11-15。
古代の預言的な夢
そうした「神聖な奥義」の一つが聖書のダニエル書の中に含まれています。その書は,神の任命を受けた王が王としての実際の権威をいつ与えられるかを知るのに重要な手がかりを提供しています。その書の第4章には,バビロンのネブカデネザル王に神が与えた夢の内容が記されています。この夢およびその成就にはどのような目的また意味がありましたか。記録はこう述べています。
「至高者が人類の王国にあって支配者であり,ご自分の望む者にそれを与え,人類のうち最も低い立場の者をさえその上に立てられるということを,生きている人々が知るため」― ダニエル 4:17。
その夢の内容はおおむね次のとおりです。一本の巨大な木が,「聖なる者」つまりみ使いの命令のもとに切り倒されました。次いで,芽が出ないようにするため,その切り株にはたがが掛けられました。切り株はこうしてたがを掛けられた状態で「野の草」の中に置かれ,「七つの時」を経過することになりました。―ダニエル 4:13-16。
この夢にはどのような意味がありましたか。ネブカデネザルに対する,預言者ダニエルの霊感の説明は次のとおりです。
「あなたがご覧になった木,……王よ,それはあなたです。あなたは大きくなって強くなり,あなたの威光は大きくなって天に達し,あなたの支配権は地の果てにまで及んだからです。
「そして,王は,ひとりの見守る者,そうです,聖なる者が天から下って来て,その者がまた,『その木を切り倒し,それを破滅させよ。ただし,その根株は地に残し,鉄と銅のたがを掛けて野の草の中に置き,また天の露にぬれさせ,七つの時がその上に過ぎるまでその分を野の獣と共にさせよ』と言うのをこ覧になりましたから,王よ,これがその解釈であり,至高者の定めはわが主なる王に必ず臨むところのものです。そしてあなたを,彼らは人間の中から追いやり,あなたの住みかは野の獣と共になり,彼らは草木をまさにあなたに与えて雄牛のように食べさせるでしょう。そして,あなた自身は天の露にぬれ,七つの時があなたの上に過ぎ,ついにあなたは,至高者が人間の王国にあって支配者であり,ご自分の望む者にそれをお与えになる,ということを知るようになります。
「また,彼らはその木の根株を残しておくようにと言いましたから,天が支配していることをあなたが知った後に,あなたの王国はあなたにとって確かなものとなるでしょう」― ダニエル 4:20-26。
こうして,この夢はまずネブカデネザル王に成就しました。「七つの時」の間,つまり文字どおり七年の間,ネブカデネザルは正気を失っていました。しかし,その王国は彼のために確保されていたため,健全な思いを取り戻してすぐ,彼は再び王としての職務に就きました。―ダニエル 4:29-37。
「人類のうち最も低い立場の者」に与えられる王権
しかし,切り倒された木に関するこの詳しい記述は,ただネブカデネザル王にのみ実現するのではありません。なぜそのことが分かりますか。なぜなら,この幻そのものの中で述べられたとおり,これは,神の指名を受けた者による神の王国と支配権とに関するものだからです。では,その王権のために神が選ぶのはだれですか。ネブカデネザル王に与えられた答えによると,それは,「人類のうち最も低い立場の者」です。―ダニエル 4:17。
人間の政治支配者たちは低い立場の者となってはきませんでした。これは歴史の事実によって否定の余地なく証明されます。人間の立てる政府とその支配者たちは自らを高め,互いに対して血なまぐさい戦いをして,自ら獣のような記録を残してきました。したがって,聖書が不完全な人間の政府や王国を獣になぞらえ,そのすべてがやがて支配権を奪い取られることを示していても不思議ではありません。(ダニエル 7:2-8)だれがそれに代わるかについて,聖書は預言者ダニエルの次の言葉を記録しています。
「わたしが夜の幻の中で見つづけていると,見よ,天の雲と共に人の子のような者が来るところであった。そして,彼は日を経た方に近づき,彼らは彼をまさしくその方のすぐ前に連れて来た。そして彼に,支配権と尊厳と王国が与えられたが,それは,もろもろの民,国民集団,言語すべてがまさしく彼に仕えるためであった。彼の支配権は,定めなく続く,過ぎ去ることのない支配権,彼の王国は破滅に至らされることのない王国である」― ダニエル 7:13,14。
ここに描写されているのはイエス・キリストにほかなりません。イエスは聖書の中で,「人の子」とも,「王の王,主の主」とも呼ばれています。(マタイ 25:31。啓示 19:16)彼は天における自分の高い立場をすすんで捨て,「み使いたちより少し低(い)」人間となりました。(ヘブライ 2:9。フィリピ 2:6-8)人間としてのイエス・キリストは,極度の挑発のもとでも,「柔和で,心のへりくだった者」であることを示しました。(マタイ 11:29)「彼はののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:23。
人類の世界はイエス・キリストを取るに足りない者のようにみなし,彼に当然価した誉れを与えようとしませんでした。その状況は,まさに預言者イザヤの予告したとおりでした。『彼は侮られて人にすてられ 悲しみの人にして病患を知れり また面をおほひて避くることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき』― イザヤ 53:3,文語訳。
イエスは,「人類のうち最も低い立場の者」の描写に適合します。この点に疑問はありません。したがって,切り倒された木に関する預言的な夢は,イエスが人類の世界に対する支配権を与えられる時のことを指しているに違いありません。それは「七つの時」が終わったときです。この「七つの時」とはどれほどの長さですか。それはいつから始まるのですか。それはいつ終わりますか。
「七つの時」の長さ
ネブカデネザルが夢を見てから六世紀以上後にイエス・キリストは活動の場面に現われ,「天の王国は近づいた」と宣明しました。(マタイ 4:17)イエスは,指名を受けた王として存在していたゆえにそのように言うことができました。しかし,イエスはその時に人類世界に対する王権を受けたのではありません。それゆえ,ある時,「神の王国がいまやたちどころに出現するもの」と誤った結論を下していた人たちに対して,イエス・キリストは,自分が王としての力を与えられるまでにはまだ長い期間のあることを例えで話されました。(ルカ 19:11-27)したがって,ダニエルの預言の大きな成就において,「七つの時」が,ただ七年だけでなく,幾世紀もの長い期間を表わしていることは明らかです。
実際の証拠から言うと,この「七つの時」は2,520日,つまり,一年を360日とする預言的な七年です。そのことは,「時」,「月」,「日」などについて述べる聖書の他の部分から確証されます。例えば,啓示 11章2節は,「四十二か月」つまり三年半という期間について述べています。次の節の中で,その同じ期間は「千二百六十日」と述べられています。さて,1,260日を42か月で割ると,一か月は30日になるはずです。したがって,12か月から成る一年は360日です。これに基づいて計算すると,「七つの時」つまり七年は,2,520日の長さになります。(360×7)
この計算が正しいことは,啓示 12章6,14節から実証されます。そこでは,1,260日のことが「一時と二時と半時」つまり『三時半』(「三年半」,新英語聖書)と呼ばれています。七は三つ半の倍ですから,「七つの時」は2,520日になります。(1,260×2)
ダニエルの預言の「七つの時」は,イエスが人類世界に対する王権を受けることに関するものです。したがって,これが24時間を一日とする2,520日よりずっと長い期間に及ぶことは言うまでもありません。これらの「日」の各一日の長さを知る方法がありますか。あります。預言的な日に関する聖書の公式は,『一日を一年とする』ことです。(民数 14:34。エゼキエル 4:6)これを「七つの時」に当てはめると,それは2,520年になります。
「七つの時」の始まり
「七つの時」の長さが分かりましたから,わたしたちは次に,それがいつ始まったかを調べます。そして,切り倒された木についての預言的な夢の成就としてネブカデネザルに起きた事柄に再び注意を向けましょう。彼の身に起きた事柄について考えてください。
正気を失った時,ネブカデネザルは世界の支配権を行使していました。バビロンはその時,地上第一の強国であったからです。ネブカデネザルの場合,象徴的な木が切り倒されたことは,世界の主権者としての彼の支配が一時的に中断することを意味していました。
神がネブカデネザルに行なった事柄には,神ご自身の選んだ王による支配にかかわる目的がありました。したがって,ネブカデネザルがその王座を「七つの時」のあいだ失ったことは何かの象徴であったに違いありません。何のですか。神の取決めによる支配もしくは主権の行使が一時的に中断されることです。ネブカデネザルの場合,彼が世界支配者の地位を得ることを許し,その後一時的にその地位を彼から取り去ったのは,王自ら認めたとおり,エホバ神であったからです。(ダニエル 4:34-37)それで,ネブカデネザルに臨んだ事柄は,神の王国から主権が取り去られることの象徴であったに違いありません。したがって,木そのものは,地上における世界支配を表わしていました。
一時期に,エルサレムをその都とした政府は神の王国を成していました。ダビデ王家の者であったその支配者たちは,「エホバの座」にすわる者と呼ばれ,エホバの律法に従って統治するようにとの命令のもとにありました。(歴代上 29:23)したがって,エルサレムは神の統治を代表する場所でした。
それゆえ,ネブカデネザル配下のバビロニア人がエルサレムを滅ぼし,エルサレムの統治下にあった土地が完全に荒廃した時,世界支配権は異邦人の手に渡り,異邦人が,エホバの主権を代表する王国による干渉を受けないで世界を支配するようになりました。至上の主権者は,そのような形でご自身の支配権を行使することを控えられました。神がご自身の王国による,地に対する主権の行使をこうして控えたことは,木の切り株にたがが掛けられたことによって表わされました。エホバの主権の表現としての政府の所在地であったエルサレムは,その滅びと完全な荒廃の時以来「踏みにじられ」はじめました。つまり,「七つの時」は,ネブカデネザルがエルサレムを滅ぼし,ユダの地が完全に荒廃した時に始まった,という意味です。その出来事はいつありましたか。
その出来事があったのは西暦前607年です。聖書と世俗の歴史に基づいてそれを確証できます。a その証拠は以下のとおりです。
バビロンは西暦前539年にペルシャ人クロスの前に倒れました。世俗の歴史家はこの点で意見の一致を見ています。この年代は入手しうる古代のすべての歴史的な記録によって立証されています。聖書は,クロスが,その治世の第一年に,流刑になっていたイスラエル人のエルサレム帰還および神殿再建を許す布告を出したことを明らかにしています。その前にメディア人ダリヨスの短いバビロン統治がありましたから,クロスのバビロン統治の第一年は西暦前538年から537年にまたがったはずです。(ダニエル 5:30,31)かなりの距離を旅行しなければならなかった点を考えると,イスラエル人がそれぞれ自分の都市に戻って,エルサレムとユダの地の荒廃を終結させたのは,西暦前537年(前538年ではなく)の「七月」であったに違いありません。(エズラ 3:1,6)それでも,彼らは依然として異邦人による支配のもとにあり,そのために,自分たちのことを,『自らの土地にいる奴隷』と呼びました。―ネヘミヤ 9:36,37。
聖書の歴代志略下(36:19-21)は,エルサレムの滅びおよびその支配地域の荒廃から復興までに70年が経過したことを示しています。その部分はこう述べています。
『[ネブカデネザルは]神の室をやき エルサレムの石垣を崩し そのうちの宮殿をことごとく火にてやき そのうちの貴き器をことごとくそこなへり また剣をのがれし者どもはバビロンにとらはれゆきて かしこにて彼とその子らのしもべとなり ペルシャの国のおこるまでかくてありき これエレミヤの口によりて伝はりしエホバのことばの応ぜんがためなりき かくこの地つひにその安息をうけたり すなわちこれはその荒れをる間安息してつひに七十年満ちぬ』― 文語訳。
イスラエル人が自分の都市に戻った時つまり西暦前537年から70年をさかのぼると,それは西暦前607年になります。したがって,神の統治を代表した都エルサレムが異邦人によって踏みにじられはじめたのはその年です。
「七つの時」の終わり
弟子たちに対するイエスの次の言葉は,エルサレムがこうして踏みにじられていることに言及したものです。「エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。(ルカ 21:24)ここで言う「定められた時」は,西暦前607年から2,520年たった時に終了します。それは西暦1914年になります。では,エルサレムを踏みにじることはその年に終わりましたか。
確かに,地上のエルサレム市は,西暦1914年にダビデの系統を引く王が復位するのを見ませんでした。しかし,それは予期すべきことではありませんでした。なぜですか。地上のエルサレム市は,神の観点からする場合,もはや神聖な意義を有していなかったからです。地上におられた時,イエス・キリストはこう語りました。「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた者たちに石を投げつける者よ ― めんどりがひとかえりのひなをその翼の下に集めるように,わたしは幾たびあなたの子らを集めたいと思ったことでしょう。それなのにあなたがたはそれを望みませんでした。見よ,あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています」。(ルカ 13:34,35)さらに,イエス・キリストの手にゆだねられる王国は,エルサレムその他の都市を都とする地上の政府ではありません。それは天の王国です。
したがって,「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配する」という啓示 11章15節が西暦1914年にその成就を見たのは,見えない天においてのことでした。エルサレムが表わしたもの,つまり,神の是認のもとに支配する,メシアによる政府は,その時以後もはや踏みにじられてはいません。再びダビデ王朝の者が王となり,その者が,神の任命のもとに,人類世界の物事に対して支配権を行使するようになりました。聖書預言の成就として西暦1914年以来この地上で起きている,目に見える出来事は,これが真実であることを証明しています。
そうした預言の一つは,「ヨハネへの啓示」の第6章に出ています。その中では,イエス・キリストに王としての権威を与えることとそれに続く出来事が象徴的な言葉で描かれています。
イエスが王権を受けることに関して記述はこう述べています。「見よ,白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。そして,その者に冠が与えられ,彼は征服しに,また征服を完了するために出て行った」。(啓示 6:2)後に,啓示の書は,この馬の乗り手がだれであるかを疑問の余地なく示して,次のように述べています。「見よ,白い馬がいた。そして,それに乗っている者は忠実かつ真実と称えられ,その者は義をもって裁きまた戦う。……そして,彼の外衣に,実にそのもものところに,王の王また主の主と書かれた名がある」― 啓示 19:11-16。
イエスが人類の世界に対して実際に活動する王として「冠」を受けた後にこの地上で何が起きるかについて,啓示の第6章はさらにこう述べています。
「別の,火のような色の馬が出て来た。そして,それに乗っている者には,人びとがむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた。また,彼が第三の封印を開いた時,わたしは,第三の生き物が,『来なさい!』と言うのを聞いた。そして,見ると,見よ黒い馬がいた。それに乗っている者は手に天びんを持っていた。……また,彼が第四の封印を開いた時,わたしは,第四の生き物の声が,『来なさい!』と言うのを聞いた。そして,見ると,見よ,青ざめた馬がいた。それに乗っている者には“死”という名があった。そして,ハデスが彼のすぐあとに従っていた。そして,地の四分の一に対する権威が彼らに与えられた。長い剣と食糧不足と死の災厄をもって,また地の野獣によってそれを殺すためである」― 4-8節
この言葉はそのとおり成就してこなかったでしょうか。全世界的な戦争という剣が1914年以来猛威をふるってこなかったでしょうか。まさにそのとおりです。第一次世界大戦は,かつてない規模の人間の大殺りくとなりました。900万人を超える戦闘員が戦傷,疾病,その他のために死にました。戦争の直接,間接の結果による一般市民の死者はさらに幾百万を数えます。そして,第二次世界大戦は,これをはるかに上回る数の人命を消し去りました。それによって,推計5,500万人の一般市民と戦闘員が死んだのです。
食糧不足は,さながら黒い馬のように全地を駆けめぐらなかったでしょうか。そうです,ヨーロッパでは,第一次世界大戦中および大戦後に多くの地域で飢きんがありました。ロシアでは幾百万もの人が死にました。そして,第二次世界大戦後には,ワールド・ブック百科事典(1973年)が「史上最大の世界的食糧不足」と呼ぶものが生じました。そして,地上人口の三分の一は緩慢な餓死の過程をたどっている,あるいは栄養不良に悩まされている,というのが今日の冷厳な事実です。
死の災厄つまり恐ろしい疫病も多くの命を奪い取りました。1918年から19年にかけてのほんの数か月のうちに,ただスペイン風邪の流行だけでおよそ2,000万人の人が死にました。ただ一つの災厄によってこれほど多くの人が命を失ったことはかつてありませんでした。
これらはいずれも大きな出来事であり,注目を免れることはできません。ジョセフ・カーターは,「1918年,危機の年,変化の年」という本の中でこう述べています。「その年[1918年]の秋,まさに恐怖に恐怖が重なった。黙示録の四騎士のうちの三人まで,つまり戦争と飢きんと疫病がいたるところに広がっていたからである」。今日にいたるまで,象徴的な騎士たちはその行進をやめていません。
こうして,ネブカデネザルの夢の中の象徴的な切り株に掛けられていた抑制のたがが西暦1914年に取り去られたことについて,その見える証拠が存在しています。エホバ神は,ご自分のみ子つまり主イエス・キリストの王国を通して権威を行使されはじめました。では,どうしてそれによって地上の状態が改まっていないのですか。キリストが人類に対する支配権を与えられた時と地上の災いとが結び付いているのはどうしてですか。
それは,悪魔サタンがキリストによる神の王国に敵対しているからです。その王国が人類に対する権威を与えられた時,サタンはその王国に対して戦いました。しかし,サタンはその戦いに敗れ,配下の悪霊もろとも聖なる天界から放逐されました。いきり立ったサタンと配下の悪霊たちは,すべての人またすべての物事を破滅に至らせるため,可能なかぎりの難儀を人類の中に引き起こしています。天における戦争とその結果とについて描写した後,聖書の記述はさらにこう続いています。「天と天に住む者よ,喜べ! 地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」― 啓示 12:7-12。
この,王国の敵対者に残されている時はどれほど短いのですか。イエス・キリストは,自分が王国の栄光のうちに到来することと,不敬虔な事物の体制を除き去ることとが,一世代の人々の生きている間に起きることを示しました。イエスはこう語りました。「あなたがたに真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」― マタイ 24:3-42。
したがって,西暦1914年当時生きていた人々の中には,イエスが自分の征服を完了し,地上の物事を全面的に掌握するのを目撃する人たちが必ずいることになります。これはまた,今日生きている多くの人々に,決して死を味わわないという見込みのあることをも意味しています。どうしてですか。
今日生きている多くの人々が死を経験しないのはなぜか
征服を完了するにあたり,王であるイエス・キリストは,自分の支配に服することを拒む者に対してのみ処置を取ります。迫害に遭っていた仲間の信者たちを慰めたさい,霊感を受けた使徒パウロはそのことについて次のように書きました。「あなたがたに患難をもたらす者に患難をもって報い,一方患難を忍ぶあなたがたには,主イエスがその強力な使いたちを伴い,燃える火のうちに天から表わし示される時,わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ,神にとって義にかなったことで[す]。彼はそのさい,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」― テサロニケ第二 1:6-9。
言うまでもなく,すべての人が自分の生命に関する神の権威を『知る』ことを拒む,つまりそれを認めようとしないわけではありません。すべての人が『イエス・キリストについての良いたより』に不従順な態度を取っているわけではありません。世界人口と比べると少数であるとはいえ,神に献身したしもべであり,イエス・キリストの忠節な弟子であることを実証するべく懸命に励んでいるクリスチャンの集合体があります。神からの刑執行の日にエホバ神にひたすら献身していることを見いだされる人々は,その裁きによって自分が除き去られることはない,という確信を持つことができます。聖書はこう述べています。
「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼の上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」― 啓示 7:14-17。
「患難」を生き残る大群衆の前にあるものは,死ではなく,命です。「子羊」つまり主イエス・キリストは,その人々を「命の水の泉」に導くのです。これは,単に70年か80年の命ではなく,永久に続く命です。イエスは,罪を贖う自分の犠牲の恩恵を彼らに適用し,彼らを罪と,死をもたらすその影響から解放します。イエスから差し伸べられる助けに従順に答え応じるにつれ,これらの人々は人間としての完全性に達し,もはや死ぬ必要がなくなります。
サタンおよび配下の悪霊集団が干渉して,この人々の進歩向上を妨げることはありません。「大患難」によって地上の邪悪な事物の体制が一掃された後,サタンは一千年のあいだ底知れぬ深みに投げ込まれます。そのことに関する聖書の象徴的描写は次のとおりです。「わたしは,ひとりの使いが底知れぬ深みの鍵と大きな鎖を手にして天から下って来るのを見た。そして彼は,悪魔またサタンである龍,すなわち初めからのへびを捕えて,千年のあいだ縛った。そして彼を底知れぬ深みに投げ込み,それを閉じて彼の上から封印し,千年が終わるまでもう諸国民を惑わすことができないようにした」。(啓示 20:1-3)こうして,サタンと配下の悪霊は死んだような状態に入って,人類に難儀をもたらすことができなくなります。
西暦1914年当時に生きていた世代は,王国がサタンからの干渉を全く受けずに支配を開始するのを目撃する世代でもあります。聖書はその点を明示しています。したがって,今日生きている多くの人は,決して死を経験しないという見込みを持つことになります。その人々は現在の不敬虔な体制の滅びを生き残り,そののち徐々に罪から解放されて人間としての完全性に達します。罪を持たない人間として,そのとき彼らは罪の報いである死から放免されます。―ローマ 6:23。
この点を考えると,あなたがもしまだそうしておられないなら,王イエス・キリストの側に立場を定め,今その忠節な民のひとりとして生きることは緊急な問題です。それこそエホバのクリスチャン証人が力を尽くして行なおうとしている事柄であり,証人たちは他の人々も同じ道を取るように助けようとしているのです。
[脚注]
a 全体的に見て,現代の世俗の歴史家は,西暦前607年をこの出来事の起きた年とは見ていません。しかし,それら歴史家がよりどころとしているのは,その出来事があってから幾世紀も後の人々の著作です。一方,聖書が載せているのは事件の目撃者たちの証言であり,一般の著作家たちの無視するさまざまな要素を提出しています。さらに,「七つの時」の終了した時点における聖書預言の成就は,この年代が誤りのないものであることを疑問の余地なく立証しています。聖書の提出する年代資料が世俗の歴史以上に信頼できる理由について,詳しくは,「聖書理解の助け」(英文)の322-348ページをご覧ください。
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今死んでいる幾十億の人はまもなく生き返る今ある命がすべてですか
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第19章
今死んでいる幾十億の人はまもなく生き返る
イエス・キリストおよびその仲間の14万4,000人の支配者たちの手にゆだねられる管理機関としての王国は,「大患難」を生き残る人々にまさに壮大な祝福を得させます。その時,アダムが自分とまだ生まれていなかった自分の子孫を罪に投げ込んだことによる有害な影響が,精神的また感情的に苦痛となるようなかたちで思い出されることはありません。預言者イザヤの霊感の言葉はこう約束しています。「以前の物事は思い出されることがなく,それが心に上ることもない」― イザヤ 65:17。
これが真実となるために,死をもたらす罪の結果としての苦痛や悲しみはことごとく除き去られねばなりません。その中には,今死んでいる幾十億もの人を生き返らせることも含まれています。なぜですか。
あなたが「大患難」を生き残ったとしても,以前に死んだあなたの親しい友人や親族が依然命とそれに伴う祝福を奪い去られたままであるとすれば,あなたは真に幸福に感じるでしょうか。それはあなたにとって心と思いの苦痛となるのではありませんか。そうした苦痛の可能性をすべて除き去るために,死者はよみがえらされなければなりません。死者が命を取り戻し,体と知力の完全性に達する助けを受けることができるなら,それによって初めて罪の有害な影響は全く消し去られることになります。
聖書は死者一般が生き返ることを保証しています。それらの人々には,その死のさいに終わった短い寿命よりはるかに長い命の機会が差し伸べられるのです。エホバ神は,み子イエス・キリストに,死者を復活させる力を与えました。(ヨハネ 5:26-28)死者をよみがえらせる力がイエスに与えられたことは,聖書の中でイエスが預言的に「とこしえの父」と呼ばれている事実と一致します。(イザヤ 9:6)死の眠りに就いている人々をよみがえらせることによって,イエスはその人々の父となるのです。―詩 45:16と比較。
信ずる根拠
神の存在を信ずる人にとって,復活に対する堅い信仰を持つことに問題はないはずです。そもそも人間の命を創始した方は,死者に命を再び得させること,つまり死んだ人間を再創造する知恵をも備えておられるはずではありませんか。エホバ神自ら,死者が生き返ることを約束しておられます。また,その約束に対する確信を強めさせる強力な業をも繰り返し行なわれました。
エホバ神は,死者を実際によみがえらせる力をご自分の忠実なしもべのある者たちに与えました。地中海の東側の岸からそれほど遠くないザレファテにおいて,預言者エリヤはあるやもめのひとり息子を復活させました。(列王上 17:21-23)その後継者エリシャは,イスラエル北部のシュネムで,人を親切にもてなす名の通った一婦人のひとり息子をよみがえらせました。(列王下 4:8,32-37)イエス・キリストは,ガリラヤの海ぞいにあった会堂の主宰役員ヤイロの娘を復活させました。また,ガリラヤの海の南西にあるナインの町のやもめのひとり息子,および,死んで四日たち,エルサレムからほど遠くない所に葬られていた親友のラザロをもよみがえらせました。(マルコ 5:22,35,41-43。ルカ 7:11-17。ヨハネ 11:38-45)地中海岸のヨッパにおいては,使徒ペテロがドルカス(タビタ)をよみがえらせました。(使徒 9:36-42)そして,使徒パウロは,ローマのアジア州に立ち寄ったさい,三階の窓から転げ落ちて死んだユテコを復活させました。―使徒 20:7-12。
最も際だった復活はイエス・キリストご自身の場合です。これは十分に証明された歴史上の出来事であり,確かに復活があることの最も強力な証拠となっています。使徒パウロは,ギリシャ,アテネのアレオパゴスに集まっていた人々にその点を指摘してこう述べました。「[神は]ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えにな(りました)」― 使徒 17:31。
イエスの復活は疑いの余地なく立証された事実です。その真実さを証言できる証人はわずか二,三人ではなく,その何倍もいたのです。復活したイエス・キリストは一度に500人以上の弟子たちに現われたこともあります。イエスの復活は極めて強固に確証されていたため,使徒パウロは,復活の否定はクリスチャン信仰全体の否定であるとさえ論じました。彼はこう書きました。「実際,もし死人の復活ということがないのであれば,キリストもよみがえらされなかったことになります。そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうにむだであり,わたしたちの信仰もむだになります。さらに,わたしたちは神の偽りの証人ともなります。神はキリストをよみがえらせたと,神に逆らって証しをしてきたことになるからであり,死人が実際にはよみがえらされないのであれば,彼をよみがえらせることもされなかったからです」― コリント第一 15:13-15。
初期クリスチャンは,使徒パウロと同じように,イエスが死人の中からよみがえらされたことをはっきり知っていました。復活による報いを確信していたゆえに,彼らは激しい迫害をすすんで忍び,死をさえいとわなかったのです。
霊の命への復活
死者をよみがえらせるということは,全く同じ体を生き返らせることではありません。イエス・キリストの復活はそのことを示しています。イエスは,人間の命にではなく,霊の命によみがえらされました。この点について,使徒ペテロはこう書きました。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです」。(ペテロ第一 3:18)その復活のさいにイエスが受けたのは,血肉の体ではなく,天の命にかなった体でした。―コリント第一 15:40,50。
言うまでもなく,その霊の体は人間の目に見えません。それゆえ,弟子たちが復活後のイエスを見るために,イエスは肉の体を着けなければなりませんでした。イエスは衣服を着けて葬られたのではなく,亜麻布の巻き布に包まれて葬られました。この点に注意すべきです。その復活の後,巻き布は墓の中に残されていました。それゆえ,イエスは,霊の物質化によって衣服を得ねばならず,それと同じように肉の体を着けることによって自分が弟子たちに見えるようにしました。(ルカ 23:53。ヨハネ 19:40; 20:6,7)不思議ですか。そうではありません。これは,それ以前,み使いたちが人間に現われたさいに行なったのと同じことです。弟子たちはイエスを見てもすぐにはそれと分からなかったことがあり,またイエスは急に現われたり急に姿を消したりされましたが,それはイエスが物質化によって肉の体を着けていたからです。―ルカ 24:15-31。ヨハネ 20:13-16,20。
イエス・キリストと同様の復活を経験するのは,その共同の相続者となって支配の務めにともに携わる14万4,000人の人々だけです。聖書は,その霊の生命への復活について論じ,こう述べています。
「あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。そして,あなたがまくものについて言えば,のちに出てくる体ではなく,ただの種粒をまくのであり,それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。でも神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます。……
「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちるさまでまかれ,朽ちないさまでよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊の体もあります。まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダムは命を与える霊になったのです。とはいえ,最初のものは霊のものではなく,物質のものであり,そののちに霊のものとなります。最初の人は地から出て塵で造られており,第二の人は天から出ています。塵で造られた者たちは塵で造られた者のようであり,天的な者たちは天的な者のようです。そして,わたしたちは,塵で造られた者の像を帯びてきたように,また天的な者の像を帯びるのです」― コリント第一 15:36-49。
地上の命への復活
しかし,イエス・キリストや14万4,000人の仲間の支配者たちとは違って地上の命へ復活する人々についてはどうですか。その人々の体は『塵に帰って』いますが,あらゆる点で死んだ時と全く同じ体にするために,神はかつてその人々の体を構成していた同じ原子すべてを集め直さなければならないのですか。
いいえ,そのようなことはありえません。なぜ? なぜなら,それは死に際の状態に生き返らせることにほかならないからです。過去に復活を与えられた人々は,その人々が死ぬすぐ前の病気の状態に連れ戻されたのではありません。完全な体に復活したのではないとしても,すべて整った,十分に健康な体を与えられたのです。
さらに,元どおりの体を作り直すために以前と厳密に同じ原子が再び集められると唱えるのは道理に合いません。死んだ後,そして腐朽の過程を通して,人間の体は他の有機化合物に分解してゆきます。それはやがて植物に吸収され,人間がその植物やその実を食べることもあります。こうして,死んだ人の体を構成していた原子はやがて他の人の体の一部となることもあるのです。復活のさい,死からよみがえらされるすべての人について,以前と全く同じ原子が集め直されるのでないことは明らかです。
では,個々の人について見る場合,復活とはどういうことですか。それは,同じ人物としてよみがえることを意味しています。そして,その人を同一の人物とならせるものはなんでしょうか。その人の体を構成している化学物質ですか。そうではありません。その体を構成している分子は常に入れ替わっているからです。その人を実際に他と区別させるものは,その人の体の全体的な形状,声,性格,経験,記憶,知能的な成長などです。それで,み子イエス・キリストによって人をよみがえらせる時,エホバ神はその人に以前と同じ特色を持つ体を与えることが当然に考えられます。復活する人は,以前の生涯で得たと同じ記憶を持ち,その記憶を十分に意識できることになるでしょう。その人は自分が自分であることをはっきり自覚でき,その人を知っていた人々もそれと認識できるはずです。
『しかし,そのようにして再創造されるのであれば,その人はほんとうに同じ人と言えるだろうか。それは単なる複製ではないだろうか』と言う人がいるかもしれません。この論議はさきに指摘した事実を見落としています。つまり,今の命の場合でさえ,わたしたちの体は絶えず変化しているのです。七年ほど前にわたしたちの体を構成していた分子は,今わたしたちの体を構成している分子と同じではありません。年が経過するにつれ,わたしたちは外観さえ異なってきます。しかしそれでも,わたしたちの指紋は同じではありませんか。わたしたちは同じ自分ではありませんか。確かにそのとおりです。
復活をほとんど信じ難いことのように思う人々は,人が胎内に宿されるさいに生じる同じように驚嘆すべき過程について考えてみるとよいでしょう。精子と卵子の結合によってできるごく小さな細胞が,かつて地上に存在したいかなる人間とも異なった人間を形成するための力をその中に秘めています。この細胞の中には,その人の体を組み立て,その人が二親から受け継ぐ基本的な性格を構成するための指示がまとめ込まれています。そして,言うまでもなく,その人のその後の生涯の経験は,初めの性格に他のいろいろな要素を加えてゆきます。復活つまり再創造のさいに起きる事は,人が胎内に宿される場合と似ています。死者は自分のかつての個性と生涯の記録とを取り戻し,その体のすべての細胞は,その人を他のすべてと異ならせる形質を帯びるようになります。そして,その人の心と思いと体の中には,以前の生涯中に身に着けた特性,資質,能力などが刻み込まれているでしょう。
霊感を受けた詩篇作者は創造者に関してこう述べました。「あなたの目は胎児のわたしをさえ見,そのすべての部分は,それが形作られていてその一つもまだなかった日々に関してあなたの書の中に書き付けられていました」。(詩 139:16)したがって,妊娠のさいに遺伝的な配合がなされるとすぐ,エホバ神はその子供の基本的特性を見定め,それについて記録を整えることができます。それゆえ,全く当然のこととして,エホバ神は,死んだ人を再創造するため,その人についての正確な記録を保つことができるのです。
わたしたちはエホバの記憶が完全であることについて確信を持てます。不完全な人間でさえ,ビデオテープを使って,人の声や姿を保存したり再現したりすることができます。そうした記録を保存する神の能力はこれをはるかに上回っています。エホバは無数の星すべてをそれぞれの名で呼ばれるのです。―詩 147:4。
したがって,復活つまり再創造が可能なのは,その人が神の記憶の中でなお生きているためである,という点が理解できるでしょう。エホバ神は,個々の人の生涯の型に関する完全な記憶,および死者を復活させることに関するご自身の目的に基づいて,アブラハム,イサク,ヤコブなど過去の信仰の人々を,依然生きているものとみなすことができました。イエス・キリストが次のように語って,不信仰なサドカイ人の注意を促したのはその点です。「死人がよみがえらされることについては,モーセでさえ,いばらの茂みに関する記述の中で明らかにしました。そのとき彼は,エホバを,『アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神』と呼んでいます。彼は死んだ者の神ではなく,生きている者の神です。彼らはみな,神にとっては生きているのです」― ルカ 20:37,38。
復活つまり再創造を信ずる根拠は実に豊富に存在しています。復活という考えを退ける人がいることは確かです。しかし,裏付けとなる証拠に目と思いを閉じて復活の希望を否定してしまうほうが,あなたにとって事態がよくなるでしょうか。それによって,愛する親族や友人との死の別れはあなたにとっていっそう堪えやすいものになりますか。それによって,自分自身の死という冷厳な前途に対してより良い備えができますか。
今ある命がすべてではありません。この点を知っているなら,暴力的な手段で命を早く絶たれることに対する恐れに閉されてしまうことはありません。悪魔サタンはこの種の恐れを利用して人々を隷従させ,自分の地上の手先を通し人々を自分の思うとおりに動かしてきたのです。(マタイ 10:28。ヘブライ 2:14,15)多くの人は処刑を恐れて自分の良心の指示に従うことをやめ,ナチス・ドイツの強制収容所でなされたような,人類に対する卑劣な犯罪行為に加担しました。
しかし,復活に対する強固な信仰を持つ人は,たとえそれが自分にとって死を意味するような場合でさえ,正しい事を行なおうとする決意をしっかり守り通します。その人にとっては,今の命を幾年か余分に持つより,死からよみがえって受ける命のほうがはるかに価値があります。その人は,比較してみれば命を長くしたなどとは言えない事柄のために永遠の命を得る機会を危うくするようなことを望みません。その人は,聖書のヘブライ書が次に述べる古代の信仰の人々のようです。「[彼ら]は,何かの贖いによる釈放[正しい事柄についてのなんらかの妥協]を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです」― ヘブライ 11:35。
確かに,死者をよみがえらせる神の約束に確信を置く人のほうが,復活の希望を持たない人よりはるかに勝った立場にいます。その人は恐れを抱かずに将来に立ち向かうことができます。
聖書に基づく証拠は,現存する体制が,まもなく,今の世代が存在しているうちに終わりを迎え,イエス・キリストとその仲間の支配者たちの手にゆだねられる義の管理機関がそれに代わることを示しています。今死んでいる幾十億の人がまもなく生き返り,王国による支配から益を受けるのはそのためです。「患難」を生き残る人々にとって,それら死んでいた人々を迎えるのはなんと壮大なことでしょう。親しい友や愛する親族と再び交わりを共にし,そのなつかしい声を聞き,その健康な姿を見ることの喜びについて考えてごらんなさい。
このことはあなたにどんな影響を与えますか。驚嘆すべき復活の希望についてあなたは神に感謝されるのではありませんか。そして,その感謝のゆえに,神について学ぶことに力を尽くし,ついで神に忠実に仕えようとされるのではありませんか。
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母親の胎内で赤子を成長させる方にとっては,死者を復活させることも可能なのではありませんか
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復活はだれに益をもたらすか今ある命がすべてですか
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第20章
復活はだれに益をもたらすか
死者の復活に関しては多くの疑問が提出されます。どんな人々が復活しますか。幼児は? 子供は? 義にかなった人も邪悪な人も復活しますか。結婚していた人は以前の配偶者と再び共になりますか。
聖書は復活に関してすべての詳細な事項を述べてはいません。しかし聖書は,死者がよみがえらされるとの驚嘆すべき約束を差し伸べており,その約束に対する信仰を確立させるための細かな事項は十分に提出しています。幾つかの点について聖書は沈黙していますが,そのことのために,わたしたちはこの約束の確かさを見失うべきでしょうか。
仲間の人間と接するさい,わたしたちは,詳細な事項がすべて示されることは期待しないのではありませんか。例えば,だれかから宴席に招かれた場合,あなたは招待をしてくれた人に,『それだけの人がどこに座るのですか。それほど大ぜいのために料理をする準備があるのですか。皿や器が十分にあることをどうしたら確かめられますか』などと尋ねたりはしません。そのようなことを尋ねるのは,その人に対して礼を欠くことではありませんか。自分を招いてくれた人に,『それが楽しい一時になることをまず納得させてください』などと言う人はいません。招待を差し伸べられたこと,まただれが招いてくれたかを知るだけで,物事がうまくゆくことを確信するのに十分なはずです。
実際のところ,自分の述べるすべての事柄について一つ一つ説明や証明を求められるのはうれしいことではありません。例えば,わたしたちの知る人が,おぼれかかった人を救った経験について話しているとしましょう。それが尊敬される友人であれば,その述べることが確かであるという証明を求めたりはしません。それをいちいち求めるのはその人に対する確信また信頼の不足を示すことであり,友情を築いたり維持したりすることにはなりません。こうして明らかなとおり,すべての詳細事項が細かに説明されるまでは復活に関する神の約束を受け入れないという態度を取る人は,決して神の友とはみなされません。神は,信仰を働かせ,ご自分の言葉に信頼を寄せる人々だけを,ご自分の友として迎え入れます。(ヘブライ 11:6)神は,そうした信仰の根拠となるものを豊富に与えておられますが,すべての詳細事項を一つ一つ示しかつ証明することによって強いて信じさせ,こうして信仰が不要なものであるかのようにはしておられません。
こうして,ある種の詳細事項が明示されていないことは,人々の心の状態を試すものとなっています。自分と自分の持論を高く評価して独行的な態度を取る人々がいます。そうした人々は,だれに対しても責任を問われることを好みません。復活に対する信仰を受け入れれば,神の意志に従って生きる務めを認めなければなりません。しかし,その人々はそれを望みません。そのため,復活について幾つかの詳細事項が示されていない点を理由にし,そのゆえにそれは信じ難いとするのです。そうした人々はイエスの地上の宣教当時のサドカイ人に似ています。サドカイ人は復活を信じようとせず,自分たちが乗り越え難い問題とみなすものを強いて取り上げました。彼らはイエスにこう語りました。
「師よ,モーセはわたしたちに,『ある人の兄弟が妻を持ちながら死に,その者に子どもがなかったなら,彼の兄弟はその妻をめとり,自分の兄弟のために彼女から子孫を起こすべきである』と書きました。さてここに,七人の兄弟がいました。一番めの者は妻をめとりましたが,子どものないままに死にました。こうして二番め,ついで三番めの者が彼女をめとりました。七人までが同様でした。彼らは子どもを残さずにみな死んだのです。最後に,その女も死にました。この結果,復活のさい,彼女は彼らのうちだれの妻となるのですか。その七人が彼女を妻として得たのですから」― ルカ 20:28-33。
この質問に答えたイエス・キリストは,サドカイ人の論議の誤りを暴き,復活に関する約束の確かさを強調しました。イエスはこう答えました。
「この事物の体制の子らはめとったり嫁いだりしますが,かの事物の体制と死人の中からの復活をかち得るにふさわしいとみなされた者たちは,めとることも嫁ぐこともありません。……しかし,死人がよみがえらされることについては,モーセでさえ,いばらの茂みに関する記述の中で明らかにしました。そのとき彼は,エホバを,『アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神』と呼んでいます。彼は死んだ者の神ではなく,生きている者の神です。彼らはみな,神にとっては生きているのです」― ルカ 20:34-38。
復活に結婚の約束が伴っていない理由
サドカイ人に対するイエスの答えを見て,死人の中からよみがえった人々の間で結婚はなされないと述べられていることに動揺を感じる人がいるかもしれません。結婚生活がないなら復活は望ましいものではなく,自分を益するものにはならない,と考える人もいるでしょう。
しかし,イエスの述べた答えに基づいて考えるさい,わたしたちは自分が不完全であることを思い出すのがよいでしょう。わたしたちの好ききらいは,自分がそれまで慣れてきたものに大きく左右されます。したがって,将来死人の中から復活する人々に神の備えてくださるものを自分は好きにならないと確言できる人はだれもいません。また,すべての詳細事項が示されているわけではない,という点もあります。これは,実際には,神の側のご親切です。不完全な人間として,わたしたちは,実際にはわたしたちの生活を完全な状態での喜びで満たしてくれるものに対して,初めのうち好ましくない反応を示すことがあるからです。そうした詳細事項は,わたしたちの現在の受容力を超えている場合があるのです。キリスト・イエスは,不完全な人間の限界を知り,それを考慮に入れていました。そのことは,あるとき弟子たちに言われた次の言葉に示されています。「わたしにはまだあなたがたに言うべきことがたくさんありますが,あなたがたは今はそれに耐えることができません」― ヨハネ 16:12。
天における不滅の霊者の命への復活を得る人々は,それがどのような命であるかについてなんの概念も持っていません。その人々は,それを,自分が知る地上の何かと比べることができません。彼らは全く異なった体を持つことになるのです。その人々にとって,人間が持つ性の区別は過去のものとなります。したがって,天における霊の命によみがえった人々の間で結婚はなされません。彼らは一つの集合体としてキリストの「花嫁」になるのです。
しかし,地上での命によみがえる人々についてはどうですか。その人々は以前の配偶者と再び共になるでしょうか。そのようになると述べる言葉は聖書の中にありません。聖書は,結婚関係が死によって解かれるものであることをはっきり述べています。ローマ 7章2,3節はこう述べています。「結婚している女は,夫が生きている間は律法によって彼のもとに縛られています。しかし,夫が死ねば,彼女は夫の律法から解かれます。ですから……別の男のものとなったとしても,姦婦ではありません」。
したがって,人がいま再婚する道を選ぶ場合,将来復活してくる配偶者にそのことが与える影響について心配する必要はありません。独身でいることが向いていないなら,復活してくる以前の配偶者と再び共になって結婚生活を送るために今独身を保つための苦闘をすることは必要でありません。復活ののちにも以前の結婚関係は効力を持つというのはサドカイ人の抱いた誤った考えであり,神がそれを要求されなかったのは神の側のご親切であったと言えます。
復活する人々が地上のどこでだれと住むかはつまびらかではありませんが,わたしたちは,その時どのような取決めが存在しようとも,それは復活した人々の幸福に資するものであることを確信できます。復活も含め,神の賜物はみな,従順な人類の必要と願いを十分に満たすものだからです。神の賜物は完全であり,きずはありません。(ヤコブ 1:17)神からの愛の表現としてわたしたちがすでに受けた数々の寛大な賜物はわたしたちにそのことを納得させます。
子供その他はよみがえる
死んだ子供についてはどうでしょうか。義がこの地上に行き渡る時に子供たちもよみがえってきますか。言うまでもなく,これこそ,子供と死別した愛ある親が願うところです。そして,そうした希望の確かな根拠となるものがあります。
聖書の中には復活の例が幾つか記されていますが,その中には子供たちも含まれています。ガリラヤに住んでいたヤイロという人の娘は12歳ほどでした。イエスはこの少女をよみがえらせました。(ルカ 8:42,54,55)預言者エリヤとエリシャがそれぞれよみがえらせた少年たちも年齢はそれとあまり変わらなかったことでしょう。(列王上 17:20-23。列王下 4:32-37)こうした,過去における子供たちの復活の例を見るとき,イエスが王として支配する時代に子供たちの復活が大きな規模で起きると期待するのは正しいことではありませんか。確かにそうです。この点でエホバ神の意図しておられることがなんであれ,わたしたちは,それが関係あるすべての人にとって公正で賢明で愛のあるものであることを確信できます。
聖書は,男,女,子供など人類のほとんど大多数がよみがえることを明らかにしています。使徒パウロは知事フェリクスに対する弁明の中でこう語りました。「わたしは神に対して希望を持っていますが,その希望は……義者と不義者との復活があるということです」。(使徒 24:15)「義者」とは神の是認のうちに生きた人々です。「不義者」とはそれ以外の人々です。しかしこれは,それまでに死んだ人がみな復活するという意味ですか。そうではありません。
復活しない人々
神から,復活に値しない者としての裁きを受けた人々がいます。今の時代にキリストの支配権に服することを拒み,地上にいるキリストの「兄弟たち」に善を行なわない人々に関して,聖書はこう述べています。「これらの者は去って永遠の切断にはい(る)」。(マタイ 25:46)これらの人々がこの永遠の切断を経験するのは,イエス・キリストがそのみ使いの軍勢とともに,義の支配に敵対するすべての者を滅ぼす「大患難」の時であり,それは今や近づいています。
天の王国に入る立場にいながら神に対して不忠実になる人に関してはこう記されています。「罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがある」― ヘブライ 10:26,27。
また,とこしえの滅びを経験するとされているクラスの人々がいます。イエス・キリストは,悔い改めのないパリサイ人をはじめその時代の宗教指導者たちが,一つのクラスとして聖霊に対して罪を犯していることを示されました。そうした罪についてイエスはこう語りました。「人はあらゆる種類の罪と冒とくをゆるされますが,霊に対する冒とくはゆるされません。たとえば,人の子に逆らうことばを語るのがだれであっても,その者はゆるされるでしょう。しかし,聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです。この事物の体制においても,また来たるべき体制においてもです」。(マタイ 12:31,32)そのような罪に対するゆるしは与えられませんから,神の霊の明白な表明を否定した罪を持つ人は皆,永久に死の状態にとどまって,ゆるされない罪の科料を払うことになります。
永遠の滅びをこうむった人々について聖書がはっきり述べる事柄を別にすれば,わたしたちは個々の人について,その人がよみがえるとかよみがえらないとか言う立場にはありません。しかし,復活しない人々がいるということは,わたしたちにとって,神の不興を受けるような歩みは避けなければならないという警告となるはずです。
裁きの復活
人類の大多数が死からよみがえるということは,まさに神の過分のご親切です。それは神が行なわねばならない事ではありません。人類に対する愛と同情のゆえに,神はみ子を贖いとして与えて,そのための基礎を据えてくださったのです。(ヨハネ 3:16)したがって,死からよみがえらされてとこしえの命の見込みを与えられたことに対して感謝と認識を示さない人がいるということは,むしろ想像し難いことです。それでも,エホバ神に対して,忠節で破れることのない全面的な愛情を育てない人々がいるようです。そうした人々は,よみがえったことによって差し伸べられた永続的な祝福を実際には得そこなうことになります。
「裁きの復活」について語り,それが「命の復活」の対照であることを示したさい,イエス・キリストはこの点に注意を促しました。(ヨハネ 5:29)命と裁きが対照的に述べられていることは,ここで言う裁きが有罪宣告の裁きであることを示しています。この有罪宣告とはなんですか。
この点を理解するために,地上の命に復活した人々の状態と天の命に復活した人々の状態を比べて考えてください。聖書は,「第一の復活」にあずかる人々についてこう述べています。「第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持た(ない)」。(啓示 20:6)14万4,000人のキリストの共同相続者は天の不滅の命によみがえるのであり,もはや死ぬことができません。神に対する彼らの忠節は確実であるため,神は彼らに,滅びることのない命をゆだねることができます。しかし,地上の命によみがえる人の場合,すべての人がそうではありません。その人々の中には,神に対して忠節を尽くさない人々もいます。不忠実さのゆえにそうした人々に下される有罪宣告の裁きは「第二の死」です。それは,その「権威」のもとからは出ることのできない死です。
しかし,死からよみがえらされるという過分の恵みに浴しながら有罪宣告の裁きに至るような歩みをする人がいったいどうしているのでしょうか。
復活する人々に関するイエス・キリストの言葉について考えると,この問いの答えは得やすくなります。不信仰な自分の同国人に対してイエスは次のように語りました。
「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」― マタイ 12:41,42。ルカ 11:31,32。
かたくなな態度で真理の音信をいつまでも聴こうとしない都市に関して,イエスはこう述べました。
「裁きの日には,その都市よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 10:15。マタイ 11:21-24もご覧ください。
どうして裁きの日にはソドムとゴモラのほうが耐えやすいのでしょうか。「南の女王」,およびヨナの伝道に応じたニネベの人々は,どのようにしてイエスと同国の人々のその世代を罪に定めるのでしょうか。
これは,イエス・キリストとその仲間の14万4,000人の王なる祭司たちによる統治のさいに与えられる助けに対する,それら復活する人々の対応の仕方によります。その支配の期間は「裁きの日」となります。それは,神の取決めに服することを願うかどうかを実証する機会をすべての人に与えるものとなるからです。イエス・キリストの強力な業を目撃した都市の不信仰な住民と似たような態度の人々にとって,これは易しいことではないでしょう。
イエスをメシアとして受け入れなかった誤りを謙遜に認め,自分たちの王としてイエスに服さねばならないというのは,それらの人々にとって易しいことではないでしょう。彼らにとっては,その誇りとかたくなさのために,へりくだって服従することが,ソドムやゴモラの住民の場合よりも難しいでしょう。ソドムとゴモラの人々は,罪深かったとはいえ,イエス・キリストの業を目撃した人々の前に置かれたような壮大な機会を退けたりはしませんでした。ニネベの人々やシバの女王が復活してきて取るもっと穏和な対応の仕方は,やはり復活してくる,イエスの地上宣教当時のイエスと同国の人々をとがめるものとなるでしょう。これらのニネベ人やそれと同様の人々にとって,自分がかつて偏見を抱いたことのない者による支配を受け入れることはむしろ易しいでしょう。
キリストによる王国の統治下で義の道にしたがって進歩することをはっきり拒む者は,「第二の死」という有罪の裁きを受けることになります。その人々が人間としての完全さに達する以前にこの処置の取られることもあるでしょう。
さらに,人間としての完全性に達した後,十分な認識を示さないため,試練に遭遇したさい,エホバ神に対する忠節な献身を実証しない人々もいるでしょう。キリストによる千年統治の後,悪魔サタンは,底知れぬ深みにおける監禁からしばらく解かれます。かつてサタンはエバをたぶらかして神の主権を攻撃し,エバはアダムに説き付けましたが,サタンは再び完全な人間たちに働きかけて神の支配権に反逆させようとします。サタンの企てとその結末について,啓示 20章7-10,14,15節はこう述べています。
「千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らを焼き尽くした。そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。……火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。これは,彼らの滅び,滅亡が永久のものであることを表わしています。こうして,これら不忠実な者たちは,イエスが「裁きの復活」と呼んだもの,有罪宣告の裁きを受けることになります。
他方,サタンとともになってその反逆に加わることを拒む人々は,永遠の命を受けるにふさわしい者と裁かれます。その人々は,完全な人間としての命を持つことを永久に楽しみ,とこしえにわたって愛を表現しまた愛を受けます。その人々が受けるものは「命の復活」です。
わたしたちは,神がご自分の是認するしもべに求める資質を今すでに培いはじめることができます。神がしてくださったすべての事に対する感謝を表わし,義の道にそってすでに歩みはじめるなら,わたしたちは,現在の命よりはるかに勝った命に対するすばらしい見込みを持つことができます。そうです,わたしたちは,いっさいの悲しみと苦痛から解放された完全な状態での永遠の命を持てるのです。
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どうしたら今の命以上のものを持てるか今ある命がすべてですか
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第21章
どうしたら今の命以上のものを持てるか
ここで取り上げたすべての情報から極めて明瞭な点として,わたしたちには,今経験しているよりはるかにすばらしい命があります。どうか考えてください。エホバ神は,人類の前に,義の行き渡ったこの地上での壮大な命の見込みを置いておられます。それは病気や死を伴わない命です。それは,百年や千年ではなく,永久に享受できるのです。しかも,それの実現する時は今や間近です。
人間とその住まいである地球に対する神の栄光ある目的が実現する時,あなたはそのことから益を受ける人々の中にいるでしょうか。全く明確な点として,あなたはそうなることができます。しかし,そのためには,今すぐ行動することが必要です。わたしたちは今,聖書の次の警告が特に緊急性を帯びる時代に生きています。「エホバの燃える怒りがあなたがたに臨む前に,エホバの怒りの日があなたがたに臨む前に,地の温順な者たち,神の司法上の定めを実践してきた者たちすべてよ,エホバを求めよ。義を求め,温順を求めよ。おそらくあなたがたはエホバの怒りの日にかくまわれるであろう」― ゼパニヤ 2:2,3。
「エホバの燃える怒り」は,神とその目的に関する偽りを語って仲間の人間を惑わしてきた人々すべてに向けられています。そしてエホバは,そうした人々の行なう宗教儀式に出席し,あるいは組織の成員となってその活動を支持している人々を罪なしとはみなされません。神の裁きが執行される前に残された時間は今やわずかです。義を愛する方でしたら,あなたは,偽りの宗教の世界帝国とのいっさいの結び付きを断つように命じる聖書の言葉に従って迅速に行動すべきです。神の言葉の次の勧めを真剣に考えてください。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」― 啓示 18:4。
しかし,不義を容認しかつそれを助長してきた組織との関係を単に断つだけでは十分でありません。聖書は,「神の憤り」が,「あらゆる不敬虔と不義とに対して」,そうです,そうした行為そのものとそうした行為にふけり続ける者に対して「天から表わし示されている」ことを,わたしたちに通告しています。(ローマ 1:18)聖書は,そうした行為に何が含まれるかについてわたしたちに疑問を残しません。聖書はそれがなんであるかを明瞭に示し,エホバの是認を求めるすべての者に,自分の生活からそうしたものを除き去ることを強く促しています。エホバへの愛と,エホバの慈しみに対する感謝があるとき,そうした変化は可能です。―エフェソス 4:25–5:6。コロサイ 3:5,6。
今は,自分には不足の点があっても日常行なう善行によって十分帳消しされるだろうと考えて,自分の正当化を求めるべき時ではありません。アダムとエバの場合,自分で善悪の規準を定めたことは自らの災いとなりました。そして,次に挙げる聖書の箴言の言葉は今の時代でも真実です。『人の自から見て正しとするみちにしてその終りはつひに死にいたるみちとなるものあり』。(箴 16:25,文語訳)したがって,今は,エホバの道を学び,その「義」を求めるべき時です。また,「温順を求め(る)」,つまり,神の裁きに柔順に服し,神からの矯正と懲らしめを謙遜に受け入れ,神のご意志に服するべき時でもあります。こうしてはじめて,あなたは「エホバの怒りの日にかくまわれる」ことができます。
自分のこれまでの生き方はあまりにも悪かったから神のゆるしは受けられないと考える人々がいますが,決してそのような考え方をしてはなりません。むしろ,昔の不忠実なイスラエル人にあてられた次の言葉から慰めを得てください。『悪しきものはそのみちをすて よこしまなる人はその思ひをすててエホバにかへれ さらばあはれみをほどこしたまはん 我らの神にかへれ 豊かにゆるしをあたへたまはん』。(イザヤ 55:7,文語訳)また,エホバの次の約束から励みを得てください。『なんじらの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり 紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん』― イザヤ 1:18,文語訳。
エホバ神は,だれに対してであれ,裁きを執行することを喜びとはされません。むしろ,すべての人が命を享受することを望まれます。(ペテロ第二 3:9)しかし,エホバは不義を許容することができず,またそのようにはされません。したがって,エホバの是認を求める人は皆,自分の過去の生き方を改め,自分の歩みを変えて義に基づくエホバのご意志に合わせることが必要です。―イザヤ 55:6。
神がわたしたちに何を求めておられるかを学び,み言葉に含まれる肝要な知識を取り入れ,次いでそれに従って行動し始めること,これこそ今わたしたちが行なうべき事柄です。これこそとこしえの命に至る道です。(ヨハネ 17:3)エホバのクリスチャン証人たちは,聖書に関する正確な知識を取り入れるための個人的な援助を喜んであなたに差し伸べます。それは無料でなされます。証人たちはまた,あなたを自分たちの王国会館に歓迎します。証人たちはいつもその場所で神の言葉を学んでいます。
真に有益な道
聖書から学ぶ有益な事柄に答え応じることによって,あなたは自分の生活の中で有益な変化を経験するようになります。あなたは,聖書の原則を当てはめることによって,家庭や職場での関係,また日常接する人々との関係が改善されることに気づかれるでしょう。(ローマ 12:17-21; 13:8-10。エフェソス 5:22–6:4。ペテロ第一 3:1-7)これは,今でさえ,あなたの生活の幸福を,また意義と満足を増し加えるのに大いに役だちます。
言うまでもなく,これによっていろいろな問題や世からの圧迫に対して免疫になるわけではありません。あなたは依然,義に対する愛を持たない人々の間で生活してゆくのであり,その中には,あなたが聖書を学んでそれを生活に当てはめるのを妨げようとする人もいるでしょう。(テモテ第二 3:12。ペテロ第一 4:4)しかし,神の言葉についての知識が深まるにつれ,あなたは,生活上のさまざまな問題と取り組むのに,ただ人間の論議だけに頼る人々よりずっと有利な立場にいることに気づかれるでしょう。自分の受ける不当な仕打ちのゆえに苦々しい感情を抱く必要はありません。むしろ,あなたはその理由を見いだし,キリストによる神の王国が,生活の深い喜びを阻むそうした物事すべてをまもなく終わらせるとの確信を抱くようになるでしょう。―ペテロ第二 3:11-13。
とこしえの命のための神の愛ある備えに対する信仰を得るにつれ,あなたは,死の見込みが全人類に与えてきた抑圧的な影響からしだいに自由にされるでしょう。死に関して教えられてきた偽りがあなたの生活の喜びを損うことはもはやありません。今の命がすべてであるという近視眼的な見方に動かされ,ただこの世で成功を得るために良心や正しい原則を犠牲にしようとしたことがかつてあるとしても,そうしたことももはやなくなります。神は死者をよみがえらせることができかつそのようにされるという確信は,まさに死に対する恐れをあなたから除き去るでしょう。神の言葉の正確な知識に基づく信仰は,あなたの今の命をかつてないほど喜び多いものとし,さらに,神のもたらす義の新秩序での永遠の命という将来の壮大な見込みを得させるのです。
神が人類のために設けてくださった愛ある備えに対する感謝と認識が,神のご意志を知ってそれを行ないたいという強い願いをあなたのうちに燃え立たせますように。それがあなたを動かし,誠実な心で,詩篇作者の次の言葉に和合させますように。『エホバよ なんぢの大路をわれにしめし なんぢのみちをわれにをしへたまへ 我をなんぢの真理にみちびき 我ををしへたまへ なんぢはわがすくひの神なり』― 詩 25:4,5,文語訳。
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